ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

オンコの実と山に行きたいのか

2014-09-29 21:53:52 | Weblog



 9月29日

 庭のオンコの樹に、赤い実が鈴なりになっている。
 そのまま食べると、甘い味がするが、実そのものが小さい上に、中の種が大きく果肉は少ないからじジャムにはできない。
 ただし、ホワイトリカーにその実を入れて果実酒にすると、コケモモなどよりはもっと明るい赤い色に染まって、見た目にもおいしそうになるのだが、あいにく私は、今ではもう酒を飲まないから、そのままにしておいて、ミヤマカケスやヒヨドリやツグミなどが来てついばんでいくにまかせている。

 オンコとは、北海道・東北での呼び名であり、普通にはイチイと言われている。
 その常緑針葉樹の葉は、イヌガヤやモミに似ているし、あの中国地方の名山、大山(だいせん)の頂上近くには、このイチイの変種であるダイセンキャラボクの群生地がある。
 (2年前の冬にこの大山に登った時、雪に覆われた雪原の上にその上部の姿が見えていた。’13.3.12,17の項参照)
 イチイという名前は、昔の官職等の位の名前にちなんだものであり、それは正一位にあるような人が持つ笏(しゃく、つえ)が、このイチイから作られていたことによると言われている。
 さらにもう一つの別名があって、それはあの有名な短歌の会派名としても知られている、アララギである。

 もともとこのオンコは、北海道にも自生する木なのだが(焼尻島には純林の林がある)、この北海道の家を建て、庭づくりをしていたころに、植木市で数本束の苗を安く買ってきて、一本だけは庭に植えて、株仕立てに形を整え刈りこんでいるのだが、残りの苗は家の周りの林に植えていたところ、土地が合ったのかそれぞれに大きくなり、今ではあちこちに小さな苗が自然に生えてきていて、その数を増やしている。 

 今は、夏の暑さも過ぎて朝夕の冷え込みに秋を感じていて、最近では林の中をそぞろ歩きすることも多くなったのだが、その林の木々もいくらか秋の感じが漂い始め、木々の中では、いつも紅葉が早いサクラやスモモ、それにナナカマドの葉が、もう半分ほども色づき始めている。
 山の紅葉を見に行きたい気もするのだが、なかなかこの年寄りの重たい腰が上がらない。
 前回のあの大雪の黒岳・雲の平への、紅葉見物登山からはもう2週間もたっていて、そろそろ次の山登りに行きたいところだが、どうしてもという、その気にならないのだ。
 黒岳登山までの3カ月もの間は、確かに腰を痛めての必要な治療期間でもあったのに、こうして家でぐうたらに過ごして、なかなか出かける気にならないというのは、今まで定期的に実行しいた登山が、3カ月もの間空くことによって、習慣的にやるべきものではなくなってしまい、さらに日々の生活そのものがすっかり易(やす)きに流れていて、まして、近年とみにぐうたらな年寄りになりつつある自分を考えれば、さもありなんと思うばかりなのだが・・・。

 それは山に登ることが苦痛だからではない、時間がかかるようになったことも、自分の歳を考えればそんなものだろうし、ただ山々の紅葉の姿を見たいのに行かないのは、ただひとえにそこに行き着くまでの時間がかかることを思うと、もう動く気もしなくなるからからだ。
 先日、山の帰りで、たまたま相席になった人が話していたのを聞いたのだが、私よりは幾らかは若いのだろうが、それでも一日で稚内(わっかない)まで往復1000kmをクルマで走ってきたとのことで、その超人ぶりには驚くほかはないし、それだけに余計に自分の忍耐力、持久力のなさを思ってしまうのだ。
 私は、外に用事がある時以外は、別にクルマを乗り回したいとも思わないし、クルマ好きな人たちがただ目的もなくドライブに行くように、ふと出かけたくなることもない。
 まあ考えてみれば、それは無駄なガソリン代を払いたくないといういつものケチな根性ゆえでもあるが、もっともそれを良い方に考えれば、無駄なCO2を排出しないという、地球温暖化防止の一助にもなっているのではないのかとも思うのだが。 

 そこで最近、ますます家にいてぐうたらに過ごすことが多くなり、それでも小さな仕事はいくらでもあるから、薪(まき)つくり用の丸太切り、庭の草取り、久しぶりの五右衛門風呂沸かし(一仕事なのだ)など、自分なりに考えて少しずつやっては自己満足して、安穏に暮らすことに喜びを見出しているのだ。

 前回、臨死体験について書いた時に、リポーターの立花隆氏が、私もここで何度も取り上げてきたあのギリシア哲学者エピクロスの言葉を引用して、人生の目的は”心の平安”にあるのではないかと言っていて、そこでまさに”我が意を得たり”という思いになっていたからでもある もちろん、”心の平安への勧め”が、今の私のような”ぐうたらへの勧め”などであるはずはないのだが。
 他の羊たちとは一緒に群れないで、”遥か群衆を離れて”、自分ひとりで目の前にあるあまり豊かとはいえない草原の草を食べていくこと・・・あの木の下の茂みにオオカミが隠れていようとも、この草原の中にある水飲み場が、実は底なし沼に続いていようとも・・・そうした危険を承知の上で、それがひとりだけのつかの間の時だとしても、この見ばえもしない私だけの小さな草原にいたいのだ。

 ところで、前にもここで触れたことのあるアドラーによる心理学について、最近その大要をやさしく解説した一冊の新書を読んでみて(それは15年前の再販ものなのだが)、もちろんその内容のすべてに納得したわけではないのだが、その幾つかの言葉には自分の若き日の思いと重なり合うところもあり、確かにとうなづくことも多かったのだ。その中の一つ。

「・・・全体としての”私”が、あることをすると決めたり、またしないと決めたりするのですから、心のある部分はしたいと思っているが、別な部分はしたくないというような乖離(かいり)は一切ありえないのです。
 わかっているができないという時、実はできないのではなく、したくないのです。」

(『アドラー心理学入門』 岸見一郎 KKベストセラーズ)

 人は自分の信奉していることや関心のあることについて書かれたものには、素直に入り込むことができるし、それを読むことによって、さらに自分の信念を強くすることにもなるのだが、それとは相反した考え方のものに対しては、すでにその取り付きの時点で、多少の敵意心をもって臨むものであり、最悪、途中で読むことをやめてしまうかもしれないのだ。
 それが、黒白をつけたがる若い時にはなおさらのことであり、誰でも好きなことはさらに好きになり、嫌いなことはさらに嫌いになって行くものなのだ。

 私は当時、いわゆる”行動主義”的な作家であった、アンドレ・マルローやヘミングウエイの書いた作品群を読みふけっていて、そこにまだ怖いもの知らず的な若さが加わって、他人に対しては、”できないものはない。できないのは、ただやる気がないからだ。”という言葉を、いつも呪文のように繰り返し、したり顔でうそぶいていた。
 何という小生意気な若者だったことだろう。
 さらには、その言葉とは裏腹に、自分は放縦(ほうじゅう)で自堕落(じだらく)な毎日を送っていたのだ、自らに呪いの言葉を吐きかけながらも。

 ただ、このままではいけないという思いは、いつも耳の遠くから聞こえていた。
 そして、そんな自分の欺瞞(ぎまん)に満ちた日々は、ついに限界に達し、ある時一つのきっかけで目を開かれたのだ、そこに蜃気楼(しんきろう)のごとくに、豁然(かつぜん)と別な世界が現われ出たのだ。
 行ったこともない、未知の世界。
 広大な砂漠の中の道・・・オーストラリア大陸が広がっていたのだ。 

 今、かすかな自戒の念を抱きながらも、ぐうたらな毎日を送るだけの年寄りになってしまった私は、それでも生きていくために、あのころと同じとは言わないまでもある種の信念と誇りが必要であり、だからこそ懐かしい日々を振り返り見たくなるのだ。
 昔は、黄金の日々があったことを。
 どこにでもいる、昔話をしたがるウザったい、昔自慢の年寄りの一人のように・・・。 

 ただそれは、灼熱(しゃくねつ)の砂漠の中で、汗まみれになり、ほこりまみれになってバイクに乗っていただけの、無意味な時の流れに乗っていただけの、自分だけにしかわからない実にむなしい話だったのだが・・・。(4月6日の項参照)

 私は、アドラーの話を聞いて、思い出したのだ。
 そして、今の自分がぐうたらになり、なかなか動きたがらないのは、今やすっかり心の平安だけを求める年寄りになってしまったからだと、実は”山に行かない”のではなく、”山に行きたくない”のではないのかという、衝撃的な自己分析が自分の頭をよぎったのだ。

 中学生の時の初めての山登りから、はや数十年の間、その間に3年、2年という仕事上でのブランクはあったものの、毎年欠かさずに山にだけは登って来たのに、それもただ山が好きだから、山に登りたいという理由だけで。 
 それなのに、今、”山に行きたくない”などという心理分析結果が出るなどとは、にわかには信じがたいことだ。
 ただそれを打ち消すためには、それを自己証明するためには、近々にも山に登らなければならない。
 まだ山は、紅葉のシーズンのさ中にあるのだから。
 
 去年の夏登ってきたばかりの(’13.7.16,22の項参照)、あの木曽御嶽山(おんたけさん)は、いつかもう一度、紅葉のシーズンに登りたいと思っていた。
 それなのに、日本山岳遭難史上、最悪となる100人近くの死傷者を出す火山爆発が起きるとは。
 NHKの定時のニュースや今日の『クロ-ズアップ現代』では、ニュースとしてのドキュメントを伝えていたが、一方で民放の朝や昼のワイドショーでは、山に興味もないコメンテーターとか呼ばれる人たちが、お茶の間話のレベルで話しをしていた。
 私たちが知りたいのは、山で起きたその事件の詳細であり、その時の映像を見たいのであり、それらについての科学的かつ専門的な解説だけだったのに。
 その中で、確かにと納得できたのは、記者会見でマスコミ陣のスキャンダル仕立ての質問に答えて、理路整然と科学的分析とその限界について述べていた、火山噴火予知連絡協議会の会長の話だった。 

 私は若いころから変わらずに、行動主義作家やアドラー心理学的な考え方に心ひかれていて、だからそれだけに、人間の運不運や運命などという言葉そのものをあまり使いたくはなかったのだが、今回の御嶽山爆発遭難事件をテレビ画面で見ていると、もうそこには、運不運の差があり、運命という言葉でしか言い表せないような、生き物としての、人間の存在をそのものの哀しみがあることを思い知らされたのだ・・・。 

 登りやすい3000m峰、素晴らしい山岳景観、紅葉シーズンまっただ中、終末の休日、頂上付近での昼食休み時、子供から若者中高年に至るまでの、自然が好きな、つらい苦しい思いをしても山に登るのが好きな人たちが何人も・・・ただただ、手を合わせるだけしかないのだが・・・。 


  


紅葉の楽しみ(2)、心の平安

2014-09-22 21:47:13 | Weblog

 9月22日

 前週と同じように、この(月曜をはさんでの)連休もまた天気が良かった。
 特に昨日は、終日快晴のさわやかな秋空が広がり、ネットのライブカメラで見る大雪山の旭岳は、青空を背景に、雪に覆われた山と手前の紅葉とが相まって、全く見事な光景だった。

 前回は連休のさ中に、無理をして混雑覚悟で山に登ったのだが、しかし今週もまたという気にはならなかった。
 もっとも正直に言えば、姿見の池や裾合平(すそあいだいら)や当麻乗越(とうまのっこし)などから、青空の下の絵になる光景を、あの紅葉と雪の旭岳の姿を、見てみたいという気持ちもいくらかはあったのだが、とても今の私には、クルマで数時間もかけて行って駐車場に苦労しては、休日の混雑の中、人々に連なって歩いて行く元気はなかった。

 それは一つには、年寄りになってぐうたらになってきたこともあるが、今まで紅葉と雪の旭岳は、すでに何度も見てきているからという余裕があったからでもある。
 それよりは、この穏やかな秋空の下、家にいてガラス越しに日の光を感じながら、静かにひとり本を読み、それにあきた時は外に出て、林の中を歩き、あるいは軽い庭仕事などをして、始まった秋を楽しんでいた方がいいと、年寄りなりに考えたからでもある。
 若いころには、というよりつい最近までは、最高の登山日和(ひより)に、どこにも行かず家にいた時には、山に行かなかったという自分の判断ミスによる悔しさで、それ相応の後悔の念に駆られたものだったのだが、今やそれがこの落着きぶりである。 
 そんな余裕があるのには、他にも理由がある。

 二日前に町に行って、実に一週間ぶりで風呂に入り、空になりかけていた冷蔵庫がいっぱいになるほどの買い物をして、さらにいつものリサイクル・ショップで、これまたいつもの安い全集ものの古本を二冊買ってきたからである。
 体はまださっぱりしているし、安くて量のある物(トマト一箱28個入り350円)など食べ物はたっぷりあるし、読む読まないはともかく新しい本もあるし(ページをめくられた跡もないただ古いだけの分厚い本が一冊105円だったのだ)、そして青空が広がり(夜は星降る空になり)、目の前にはまだ雪の見えない秋色深まる日高山脈の山々が並んでいる、それで十分ではないか。

 私には、iphoneもジャガーのスポーツカーもフランス料理も必要ではない。
 体を洗えるお湯と、安い食べ物と、安く買える本があれば十分だ。
 苦しまないゆるい貧乏とは、これほどに心地よいものなのか。
 つくづく、”銀の匙(さじ)”を口にくわえて生まれてこなくて良かったと思う。
 欲望は、確かにある時には生きる原動力になるかも知れないが、そのほとんどは知らなくてもいい余分な欲望ばかりなのだ。
 前回に書いた、ローマ時代の哲学者セネカの言葉のように、何も羊の群れの後をついて行く必要はないのだ。
 周りを気にして、きりのない欲望を求めて毎日神経を張りつめて生きていくよりは、こうしてささやかな楽しみで満足できるだけの毎日の方が、私にはありがたいのだ。
 
 という風に、山に行かなかった理由を小賢(こざか)しくあれこれ考えてみたものの、正直に言えば、やはり青空と、紅葉と、初雪の山の姿を見てみたかったというのが本音のところだ。
 そこで仕方なく、前回にも書いた1週間前の黒岳登山の時の写真をまた見てみることにした。今年の大雪山の紅葉は、これで終わりなのかもしれないが。

 まずは、黒岳頂上西斜面にある毎年鮮やかなクロマメノキの紅葉が見られる場所だが(右側に少しウラシマツツジ)、それがハイマツの緑を取り囲んでいて、いつも思わず写真に撮りたくなる。(写真上)
 夏には、余り気に留めることもなく通り過ぎて行く所なのに。

 そして下の写真は。雲の平からの、ウラジロナナカマドの紅葉を前にした烏帽子岳、小泉岳方面の眺めであるが、このナナカマドは写真だとわからないが、近づくともう盛りを過ぎて、かなりの葉が縮んでいた。(写真)

 


 さらにしばらく歩いた所から、これも雲の平の一角の光景だが、手前にチングルマの綿毛が見られ、そしてチングルマ、クロマメノキ、ウラシマツツジが混在した紅葉と、さらにその上のミネヤナギやスゲの黄葉に、最上部のウラジロナナカマドの橙色と染め分けられているのが、なかなかに良かった。(写真)

 

 そして最後に、これはロープウェイからの黒岳登山道上部の、道ばたの所々にあったのだが、行きも帰りも思わず足を止めたくなるほどの鮮やかさで、それぞれに違った色に見えたハイオトギリの紅葉である。(写真下)

 私は、秋になると、山の紅葉を毎年楽しみに見てきた。
 そこには、同じような色合いで、しかし決して毎年同じではない、あでやかな色彩の競演を眺めることのできる喜びがあるからだ。

 それは、ここに棲(す)むヒグマややキタキツネやオコジョやナキウサギやシマリスたちにとって、さらに他の鳥や蝶やその他もろもろの昆虫類に至るすべての生き物たちにとっても、こうした紅葉は、ただ葉の色づきであり冬が近いことを知るだけであって、そんな紅葉の色合いを観賞することなどはないのだろう。
 私たち人間が、他の動物生き物たちのすべてと大きく異なっているのは、そうした紅葉などを見て観賞しては、きれいだと思う心を持っていること、つまりはきれいという言葉で表現すること自体が、人間だけが対象への美的な価値判断力を持っているということなのだろう。
 その基準には、それぞれに大きな差異があるとしても。

 さらに、例えば紅葉を見てほとんどの人はきれいだと思うだろうが、その光景を見たいと執着する度合いは、人によってさまざまだろう。
 私は毎年、まずは高い山々の灌木・高山植物帯の紅葉を見たいと思い、次には中腹のナナカマドやダケカンバなどの樹林帯の紅葉や黄葉を眺めたいと思い、そして自宅林内のモミジ、カエデの紅葉や黄葉を最後の見納めにしている。

 そうした紅葉観賞の楽しみは、家の周りに咲く花々を見る楽しみや、家の庭にやって来る鳥たちや蝶などを見る楽しみと同じように、眺める楽しみであり、つまりそうして見ることのできる喜びは、とりもなおさず私が生きているということの喜びにもなるのだ。
 些細(ささい)なことでしかない、小さな喜びをつなげていくことこそ、生きる糧(かて)になるのではないのだろうか。生きているからこその。

 1週間ほど前に、NHKスペシャル『臨死体験の謎にせまる』という番組を見た。
 それは私の寝る時間でもあったので、録画しておいて、翌日繰り返して2回も見てしまった。
 それほどまでに、私には興味あるテーマの番組であったからだ。

 それは、私が死に取りつかれているからというわけではなく、繰り返し言うけれども、あのハイデッガーの死を意識して生きるという言葉に、つまりは自分にとってのより良き生を生きることに、残り少ない人生をねちねちと味わい尽くすためにも、いつになるかは分からぬ人生の終着点である死について、いつも意識の内にとどめ置きたいと思うからだ。

 このドキュメンタリー番組のリポーターでもある立花隆氏は、現在74歳であり、あの『田中角栄研究』などでも知られる有名なノンフィクション作家でもあるが、20年ほど前に、これもまた同じテーマの『臨死体験』というNHKのドキュメンタリー番組で、同じリポーターとして深くかかわっていて、これはその続編でもあり、自らが7年前にガンにかかり摘出手術を受けたのに、今また再発していて、死についての覚悟を余儀なくされるという立場にもあって、ある意味でこの番組が彼の遺言になるものなのかもしれないのだ。 

 前にもこのブログで臨死体験について書いたことがあったが、それはあの20年前の番組を見て、さらに彼の書いた『臨死体験(上、下)』(文春文庫)などを読んでいたからでもあったのだ。(’12.4.29の項参照。ここには当時死が迫っていたミャオのことも書いてあり、読み直すにはつらくて堪えないが。)

 ”死ぬときには、心はどうなるのか”、こうした人生最大の問いに、今までの医学、心理学などでは十分にその答えが見つけられなかったのだが、近年、脳科学分野の発達によって、心とか魂とか呼ばれる意識そのものと脳との関係が明らかにされてきて、さらに新たに見えてきたものもあるというのだ。

  その”人は死ぬときにどうなるのか、私たちの心に何が起きるのか”という問いに、今までは、自分の心が体を抜け出し、別なところから自分を見ている体外離脱の体験とか、さらに脳波がほとんど停止した中で見られる”臨死体験”・・・トンネルを抜けると光り輝くところに出て、大いなるものに出会い幸福な気持ちになる・・・などによる体験談が多く語られていた。
 それは今でも、アメリカの有名な脳神経外科医でもあるというアレキサンダー博士が、病にかかりベッドで安静にさせられての7日間もの間に、その脳の活動停止の中での臨死体験があって、脳と心は別だと信じるようになったことを講演しているほどだし、さらには生後一か月で集中治療室に入れられ治療を受けた赤ちゃんが、2才になってから、その時のことを親に話し始めたという例もあるくらいなのだ。
 
 しかし、あるアメリカの大学の研究室で、立花氏自身が、頭に電気刺激を受けての体外離脱現象を体験する。
 それは、現実の体外離脱ではなく、外部刺激によって起こされた体験であり、結局私たちは、自分の脳が作り出す世界に生きているということを知るのだ。
 
 次に、今ではアメリカに住むあのノーベル賞受賞の利根川進博士のもとを訪れ、記憶の仕組みを研究している彼の話しを聞くことになるが、それは、ある意味目からうろこの納得いく、記憶についての説明だった。
 まずは、ある状況下で生まれた偽の記憶(フォールス・メモリー)が、本物の記憶(リアル・メモリー)と同じ場所にあって、本人自身がその区別がつかなるということ。
 つまり、人間は、しょっちゅういろんなことを脳の中で反芻(はんすう)しているから、外から突然来たものと一緒になって記憶が形作られてしまうことがあり、それは想像的なものほど、そうした誤った記憶を取り込む危険があるということである。
 人間は動物と違い、想像する種族だから、科学、芸術、音楽などを作り出すが、反面誤った感覚を本物だと思ってしまうこともある。つまり”臨死体験”は、ある種のフォールス・メモリーなのかもしれない・・・と。
 
 さらに次は、まさに革命的と言われる理論を導き出したとされる、アメリカはウイスコンシンのトニーノ精神医学部教授を訪ねて行くが、彼は、人間の感覚、感情、行動、記憶などを一つに統合する意識について、それは個々人によって異なる自我になるわけだが、その意識の生成についてを解き明かしたというのだ。

 意識は、神経細胞がクモの巣状に複雑に絡(から)み合った脳内で生成されいて、さらにそれは、”統合情報理論” と呼ばれる考え方によると、つまり起きているときと眠っているときの脳波の反応の違いによる、意識下無意識下というヒントを得て分かったものだそうだが、そこでは人間の脳内の感覚記憶などの膨大な情報がクモの巣のように絡み合っていて、それらが一つに統合されたものが意識であるとしたのだ。
 そして、その意識の量は、神経細胞の多さとつながりの複雑さに比例するという数式までも考え出したのだ。
 そこから導き出された結論は、人の死と心について、脳が死ぬとき、その膨大(ぼうだい)な神経網もつながらなくなり、心も消えるのだということであった。

 しかし立花氏は、人間の100兆にも及ぶ神経細胞の働きのすべてがそれで説明されるわけではないと考える。
 次に訪れたのは、脳神経外科医でもあるカナダのネルソン教授の元である。
 彼が言うのは、脳の中で最も古い部分の一つでもある辺縁(へんえん)系は、睡眠や夢などをつかさどる部分であり、死ぬ間際には、眠りと覚醒(かくせい)の両方のスイッチが入り、目覚めて眠っている状態であり、そこでは快の感情を引き起こす神経物質が大量に放出されていて、これらのことは人間が進化の過程で、本能として得たものであるというのだ。
 ただ臨死体験における神秘体験は、それが魂によるものかあるいは単なる記憶によるものかは、その人その人による信念に基づく話であり、科学が立ち入るべき領域ではないとして、しっかりと科学の解明がすべてではないことを付け加えていた。
 彼は自ら脳外科の医者でありながら、頭に悪性腫瘍(しゅよう)のある妻を看取るためにホスピスでともに暮らしていたが、その妻はその撮影の半月後に亡くなっていた。
 
 最後に立花氏は、23年前に訪ねて行った世界最初の臨死体験研究者でもあったアラバマのムーディ博士に、再び会いに行く。
 彼は、昔は非科学的な死後の世界など認めたくなかったが、今では自分の心を考えるようになって、逆に死後の世界を信じるようになったし、人生とは何だったのかその意味を知りたいと思いながら、臨死体験をしながら、好奇心を持ち続けて死んでいくのだろうが、また、あなたと次の世界で再会できると信じています、とにこやかな顔で話していた。

 そして、最後に立花氏は視聴者に語りかける。
 死とは、あのネルソン教授が言うように、死と神秘と夢が隣り合わせのボーダーラインに入って行くことなのだろう。
 今回は、またさらに、死とはそれほど怖いものじゃないと分かった気がする。
 昔のギリシアの哲学者、エピクロスは、人生の目的は、”アタラクシア”心の平安であるとした。
 だから今は、いい夢を見たい、見ようという気持ちで死んでいける・・・と。


  この話はここでは終わらない。
  まだ現代という時代のなかで、さらには宗教との問題も絡んでくるし、個人的に言えば、母の死に際して私が感じたことや、思い起こせば、ここに何度か書いたことのある、幼い私が母に抱かれて写っている写真の、あの水色のゾウのおもちゃは、はたして私の本当の記憶だったのだろうか・・・”母さん、あの僕の子供のころのゾウのおもちゃ、あれはどうしたんでしょうねえ・・・”。


 


紅葉の楽しみ、大雪山雲の平

2014-09-16 23:52:27 | Weblog



 9月16日

 ついに、山に登ってきた。
 前回の登山(6月30日、7月8日の項参照)から、何と3カ月ぶりのことになる。
 北海道に来て、この家を建てるために忙しくて、山に行く余裕もなかったころならともかく、家が出来上がったその後はずっと、月一から月四のペースで山に登っていたから、この3カ月もの間が空いたというのは、何十年ぶりのことになるのだ。
 山に登ることぐらいしか能のない私が、その山に登らないとなれば、残るは空蝉(うつせみ)の、中身のないヌケガラも同然であり、この3カ月もの間、”心ここに在らず”と山想いにふけり、日々をうわの空で過ごしてきたことになるのだ。

 とは言っても、こうしてまた山に登ることができるようになった今、つらつら考えてみれば、この3カ月の時は決して無駄な時ではなかったのだと思う。
 腰を痛めて床に臥(ふ)せていた日々、それは神様からのありがたいお告げを聞くひと時にもなり、その時々でのふさわしいわが身の在り方を考えることにもなったのだ。

 昔に痛めた古傷があることを、それは心身ともにではあるが、そのゆえんたるものをしっかりと憶えておくことだ。
 今までに何度もここに書いてきた、あのハイデッガーの言葉ではないけれども、残り少ない自分だけの人生の時を、十分に意識して日々を送ることが、さらにもまして必要だということ。

 それは何をなしたかではなく、いかに心の内で満足できた一日を送ることができたかということでもある。
 それは直截(ちょくさい)的な快楽主義に走ることではなく、些細なことにでも喜びを感じて、自分の心の中にある穏やかな小さい”徳”を、幾らかでも満足させればいいのだとも思う。

 他人から見ればとるに足りないことでも、たとえば野原に小さな花が咲いていたことでも、一匹の蝶が飛んでいたことでも、木々が緑の葉を茂らせていたことでも、青空に雲が流れていたことでも、自分の心に何かを感じさせるものがあれば、そのことに気づいた一日は、私を幸せな気持ちにさせるありがたい一日でもあったのだ。
 それは私にとっては、大きくて立派な家に住み、きれいな服を着て、おいしいものを食べることではない。
 そうした欲望が渦巻く都会にいれば、そのことが誰でもが求めるべき幸せなのかもしれないが、こうして周りには、草と樹と、虫とけものたちしかいない所に住んでいれば、彼らこそが見習うべき相手であり、彼らと同じように生きていくことができれば、それで十分だと思うようになるのだ。

 ここで前にも書いたことのある、あのローマ時代の政治家、哲学者でもあったセネカ(?~65)の言葉を思い出す。
 『幸福な生について』という一編で、彼はその冒頭において以下のように語り始めるのだ。

 「・・・幸福な生を送りたいというのは、人間だれしもが抱く願望だが・・・。
 諸所方々へと誘(いざな)う人々の猥雑(わいざつ)な喧噪(けんそう)や叫喚(きょうかん)に呼び寄せられるままに、あちらこちらとさまよっている限り、たとえ善き精神を得ようと日夜骨折ってみても、短い生は”亡羊の嘆(ぼうようのたん)”のうちに瞬(またた)く間に過ぎ去ってしまう。
 ・・・(幸福な生を求める)旅にあっては、最もよく踏みならされ、最も往来の激しい道こそ、最も人を欺(あざむく)く道なのである。だから何よりも肝要(かんよう)とすべきは、羊同然に、前を行く群れに付き従い、自分の行くべき方向ではなく、皆が行く方向をひたすら追い続けるようなまねはしないことである。
 ・・・群衆が殺到し、押し合いへし合いするとき、折り重なる人の山ができる――誰かが倒れれば、他人を巻き添えにせずにはおかず、前の者の転倒が後に続くものの転倒の引き金となるからだが・・・・。
 (しかし)群衆から遠ざかりさえすれば、われわれはこの病弊(びょうへい)から癒(いや)されるであろう。」

 (『生の短さについて』より『幸福な生について』 セネカ 大西英太訳 岩波文庫)

 さらにこれもよくあげる言葉だが、トーマス・ハーディ原作による映画の題名は、また私の好きな言葉でもあるが・・・『Far from the mudding crowd (遥か群衆を離れて)1967年』

 前回も書いたように、今年の大雪山の紅葉は、『イトナンリルゥ』や”層雲峡ビジターセンター”のブログを見ていると、かなり早めに推移していて、それなのにすっきりと晴れ上がる日はなくて、このまま見ることもなく、今年の紅葉は終わってしまうのかとやきもきしていたのだが、それでも、ようやく天気が回復してきたらしく、この二日ほどはやっとお日様マークが並んでいる天気予報になったのだ。
 だが、何とそれはちょうどこの三連休と重なっていて、さらにその後は再び天気が崩れて、次の土日にならないと晴れてこないという週間予報も出ていたのだ。

 連休に合わせて晴れるというのは、日ごろから働いている人たちにとっては、まさに報われるべき休日の天気の時であり、結構なことなのだが、何といっても多くの人にとっての休みだから、そのうえ紅葉の盛りとあって、山が混み合うだろうことは容易に想像できた。
 いつも言っているように、快晴の日の、人が少ない平日の登山を心がけている私にとっては、その信条を曲げての登山になってしまう。
 混み合う駐車場に、大勢の人が登る登山道を、大声で話し合う人々と一緒に登らなければならないのだ・・・しかし天気を考えれば、今しか行く時はないし。

 私は、年老いたハムレットの心境で、行くべきか行かざるべきか悩んだあげく行くことにしたのだ。
 まして、長引いた腰痛がやっと癒(い)えて、その病後の最初に行く山はと考えれば、無理なく短い時間で登れて、もし腰や脚に何かが起きてもすぐに引き返すことのできる山の方が良く、それは、表側の旭岳温泉口から姿見の池や裾合平(すそあいだいら)を巡る簡単なハイキング・コースか、それとも裏側の層雲峡からの黒岳(1984m)登山コースや、他にも銀泉台、高原温泉などがあると考えたのだが、旭岳口は駐車場が狭く大混雑する上に、もっと先にあるの当麻乗越(とうまのっこし)あたりまで行かないと、十分な紅葉風景は見られない。
 一方の銀泉台は、すぐ近くの第一花園の紅葉だけでは物足りないし、かといって今の私には赤岳(2078m)頂上まで行く元気はないし、それは高原温泉からの緑岳(2011m)についても言えることだし、まして緑岳方面へは前回の登山で行ってきたばかりなのだ。さらに高原温泉の沼めぐりの紅葉にはまだ早すぎるだろうし。

 ということで、頂上まで1時間くらいで行ける黒岳なら、さらに余裕があればその先の、紅葉の雲の平まで行くこともできるしと考えたのだ。
 それは、思えば情けないことなのだが、もう少し前までなら、少なくとも北鎮岳往復か、さらに足を伸ばして間宮、北海を経てぐるりと御鉢(おはち)一周して黒岳に戻ってくるくらいの体力が十分にあったのに。

 ともかく行くべき日は明日しかないし、登るべき山は一つしかない。”サイは投げられた”のだ。病後の体で、それも長いブランクの後だけれども、ともかく山に登ってみようと心に決めて、眠りについたのだ。
 夜半いつものようにトイレに起きて、二度寝をして目が覚めたら、1時間ほど寝すぎていてもう夜明け前だった。
 
 霧の十勝平野を走り、糠平(ぬかびら)から山間部に入って行き、そして三国峠に差し掛かるころから、雲の上に出て、三股の盆地を覆って広がる雲海の上に、ニペソツ、ウペペサンケ、クマネシリ三山がそれぞれに個性ある姿で浮かんでいた。
 車から降りて写真を撮りたいほどの光景だったが、ただでさえ寝坊して遅くなった私に、そんな余裕はなかった。
 さらに車を走らせて、ようやく層雲峡に着いたが、7時半過ぎにもなっていて、当然のことながら、ロープウエイ駐車場は満車であり、路肩駐車がずっと下の方にまで続いていた。

 何とか空きスペースを見つけてクルマを停め、ロープウェイ駅まで歩いて行った。
 発券機前で、スラリと足の伸びた若いきれいな娘さん二人が、北京語ではない中国語(広東語か)で話しながらどうしていいか戸惑っていた。
 私は、いつもの度胸英語で彼女たちに話しかけ、乗車券の買い方を説明してやった。
 しかし最近は、領土問題等の二国間緊張のおりでもあり、これ以上話しかけてナンパ目的だと思われて、国際問題化するとヤバイと思い自重したが、うーんいい娘たちではあった。

 さて、ロープウェイ、リフトと乗り継いで、登山口名簿に記入して登り始めたのは、もう8時半を過ぎていた。
 何より、望んでいた快晴の空が広がっていて、背後にはくっきりと、おなじみのニセイカウシュッペ(1879m)連峰から、屏風岳(1792m)、武利岳(1876m)などの山々が見えている。
 自分にゆっくりにと言い聞かせて、岩と泥濘(でいねい)の残る登山道を、前後に並ぶ人々に挟まれながら登って行く。
 登りはじめでは、いつも少し胸苦しい感じがするのだが、今回はそれがいつまでも続いて息が苦しいし、脚もやっと前に進むという状態だった。
 3カ月というブランクが、やはりはっきりと体力面にも現われてきたのだ。

 そんな疲れた私にさらに追い打ちをかけるように、上空を爆音をあげて、何機ものヘリコプターが行き来していた。
 そのヘリコプターからの山の紅葉の映像を、私たちはその夜のテレビ・ニュースとして見ることになるのだが。
 それにしても、疲れ切った体、にぎやかな声が続く登山道、爆音を響かせるヘリコプターと、三重苦の中を耐えながらの登山になってしまったのだ。
 さてその一方で、周りの光景はと言えば、ウラジロナナカマドなどの紅葉は赤みが少なく、橙色や黄色のままでもう縮んでいるものさえあったくらいだ。
 とは言っても、例のマネキ岩周辺から下の斜面にかけては、去年ほどではないにしろ(’13.10.1の項参照)十分にきれいだったし、疲れて動かない体を休ませるためにもと、立ち止まりながら何枚も写真を撮り続けた。
 そして頂上への最後の一登りの所で、ついに足にきたようで、早くも痛みが走り少しつりはじめていた。
 
 10時過ぎ、やっとのことで黒岳頂上に着いた。普通のコースタイムは1時間余りであり、若いころには45分ぐらいで登ったこともあるというのに、何と1時間半もかかっていた。
 今までに十数回くらいは登っているだろうこの黒岳への、私の最長タイムになってしまったのだ。

 それはともかく、天気は上空に薄い雲が出ていて、さらに東側からは、山の高さと同じくらいにある雲が押し寄せてきてはいたが、まだ十分に周りの展望を楽しむことができた。
 私は、数十人もの人でにぎわう山頂のはずれの方に腰を下ろして、いつもの秋の大雪の山々の眺めを楽しんだ。
 例年と比べて、残雪の量が少ないようにも思えるが、この黒岳からの、大雪山天上山群の山々が秋の衣をまとう姿は何度見ても素晴らしい。
 青空の下に、残雪の白とハイマツの緑、そしてナナカマドなどの赤がまじりあって繰り広げるこの光景こそが、今を去ること何十年前に、初めて北海道を訪れて、この黒岳に登り見たものであり、それは私の心に深く刻み込まれ、私の人生を変えるほどの原風景の一つになったのだ。

 極端に言えば、この光景を目の当たりにして、私は東京を離れて北海道に移り住むことを決意したとも言えるだろう。
 (上の写真は、黒岳頂上から見た南側の赤石川源流部付近)

 さて頂上で一休みした後、私はまだ歩けると思って、黒岳西斜面を下り、雲の平方面へと向かうことにした。
 時折、雲が桂月岳(1938m)方面から流れ込み、ガスとなって辺りを包み込むこともあったが、すぐにまた取れてしまい上空には薄雲と青空が広がっていた。
 勾配のあまりない雲の平の道は、大雪山の紅葉の中でも、私の大好きなコースの一つでもあるが、真紅に色づいたクロマメノキとチングルマの大群落がカーペット状に連なっていて、紅葉の時期が比較的長いこともあって、いつ来ても期待を裏切られることはないのだ。(写真、下左は烏帽子岳を背景に、下右は北海岳を背景に)

 

 しかし、それ以上に鮮やかな色が目を引くのは、灌木(かんぼく)状の塊になったウラジロナナカマドなのだが、もう盛りを過ぎていて、葉先が縮みかけていたし、さらには、いち早く初秋の縦走路付近を彩るウラシマツツジに至っては、まだ幾つかは残っていて見られるものの、ほとんどは薄黒くなってしまっていた。

 紅葉は、ベストのころに出会えば一番いいのだが、こうした終わりの頃に見るよりは、むしろ始まりのころの方がまだいいとも言えるのだろうが、今回は明らかに早目に紅葉の時期になり、いずれにせよ山登りに来るのが遅すぎたのだ。 
 とはいっても、上の写真にあるように、チングルマとクロマメノキとさらに黄色のミネヤナギやスゲなどが綾なす、青空の下の見事な織物紋様を見られただけでも十分だった。

 さてこの高原の縦走路では、行きかう人もいくらかは少なくなり、ゆっくりと写真を撮ることができるようになったのだが、後ろからやって来た外国人のカップルが、珍しくドイツ語で話していて、思わず私はかすかに頭の中に残っていた幾つかのドイツ語で話しかけてみた。それでもすぐに、結局はいつもの下手な度胸英語で話すことになったのだが。
 二人は気持ちよく私の話に応じてくれた。ドイツのケルンから来たそうで、この山の景色は素晴らしいと言っていたが、返す言葉で、どこでドイツ語を習ったのかと聞かれて、数少ない単語しか覚えていない私の貧困な語学力では、学校で習ったと言うのさえ恥ずかしかった。
 二人はこれからさらに先をめざし、北鎮岳、間宮、北海へと御鉢一周をして黒岳に戻り、最終の5時半のリフトには間に合うように、戻ってくるつもりだと言っていた。

 さらに、この後戻る時に黒岳への登り返しの所で、また別の若い外国人カップルが後ろから話しながら登ってきていて、確かに聞き覚えのある言葉であり、声をかけてみるとやはりオランダ語だった。
 つまりそのオランダ語は前回の登山の時に、あの白雲小屋で出会った若いオランダ人カップルの話声と同じだったからであり(6月30日の項参照)、そのことを二人に話してやった。
 そして彼らの話を聞いて驚いたのは、二週間半の休みを取って、まず大阪に着いて、それから城崎温泉(きのさきおんせん)に行ったということだ。
 詳しくは聞かなかったから分からないけれども、どうして城崎温泉を知っていたのか、まさか志賀直哉(しがなおや)のあの有名な短編小説を読んでいたからではあるまいし、さらにはあの号泣議員のカラ出張先で有名になったからでもあるまいし、ともかくこの日本の旅の最後に大雪山を選んだことにも感心するし、さらに明日は反対側に回って旭岳(2290m)に登るつもりだとも言っていた。

 夏に会ったあのオランダ人のカップルと今日のこの二組のカップルも併せて、さらには去年のベルギーの若者もそうだったのだが、私が大雪の山でたまたま出会った外国人たちが、はっきりと大雪山の山歩きを目指してわざわざ北海道にまで来ているということ、外国人にとっても、この大雪山がトレッキングするのにふさわしい、美しく自然豊かなしかも穏やかな山だという事を知っていて、つまり今や確かな情報は、もう世界中に流されているのだということを強く思い知らされたのだ。

 ただ気になるのは、今日会った二組とも、水と軽い食料が入っているくらいの小さなデイパックをひとりが背にしているだけであり、さらに一方はGパン姿だったし、その軽装で悪天候に変わった時にはと心配せずにはいられなかった。
 
 さて話は前後するが、雲の平から先に少し登ると、御鉢展望台に着くが、そこでは十数人が休んでいて、私はさらに上の方に回り込んだ所にある、いつもここで休むことにしている眺めのいい場所で腰を下ろした。
 目の前に見える、大雪第2位の高峰になる北鎮岳(2244m)と、それに続く御鉢噴火口稜線の紅葉模様がきれいだった。(写真)

 

 そこで簡単な昼食を取って休み、今日は無理をせずここまでで引き返すことにした。
 (去年もここまでで引き返したのだが、それは雪が降った後の風の強い日で、天気もさらに崩れてきていたからだった。)

 帰りの雲の平の景色もまた良かった。行きとは逆の眺めになるし、太陽の加減で色合いも少し違って見えたからだ。
 人影も少なく、所々で立ち止まっては、また写真を撮りながら歩いて行った。
 しかし黒岳へと登り返す頃、いつしか東側からの雲が山々の姿を隠し始めていた。
 重たい足取りで頂上へと登り返し、腰を下ろした途端、強い痛みで足先がつってしまった。
 何とかさすったり曲げたりで、歩けるようにはなったが、これでは休んでいるより、歩いていた方がいいとすぐに頂上を後にすることにした。
 すっかりガスに包まれて何も見えない頂上には、それでも二十人余りの人がいたし、まだ下から上ってくる人たちも多くいた。
 
 さて最後は、頂上からの下りだけになって、私の足はすっかり回復して元気になり、いつものように岩の上をトントンと伝っては快調に下り続けて、何と45分ほどで下りてきてしまったのだ。
 今日の行程のコースタイム、5時間ほどの所を、休み時間を入れて6時間ほどで歩いてこられたというのは、病み上がりの体としては十分満足できるものだった。

 以上のことから、今回の登山で結論づけられることは、私の腰はすっかり元に戻っているということである。
 あのひどい腰痛で寝ているしかなった私は、様々な病名を考えては、もう一生山には登れなくなるかもしれないとまで思っていたのだ。
 椎間板(ついかんばん)ヘルニア、脊椎管狭窄(きょうさく)症、脊椎すべり症、重篤(じゅうとく)な内臓疾患などのいずれもが、今では考えられなくなってしまった。

 つまり、永続的な痛みがどこにもないからだ。
 とすれば、古傷の急性腰痛症、いわゆる”ギックリ腰”に再びなってしまったということだろう。それも、症状が出ていたのに無理をして悪化させてしまったということなのだろう。

 そして、私は病院にも行かずに、ひとり寝ていて治してしまったのだ。
 もっとも、こうした対処法は決してほめられたものではなく、一歩間違えば、悪性の腰痛症へと重篤化して、取り返しのつかないことになっていたかもしれないのだ。
 ともかく今後ともに気をつけるべきことは、いわゆる”ギックリ腰”対処法のすべてを忠実に守ることだろう。
 力自慢だった若いころはともかく、こうして年寄りになった今は、極端に重たいものを持ったり上を見上げての仕事をしたりする時などは、特に注意するべきだということを肝に銘じておくことだ。

 とはいえ、今度の登山でまだ山に登れるという見通しがついたわけだから、さらにこれからも、無理をしないでと自分に言い聞かせたうえでの登山を楽しむことはできるだろう。まだまだ登りたい山が幾つもあるのだから。

 ただし、次の日から、ひどい筋肉痛になってしまった。ふくらはぎから太ももまでのすべてが痛くて、歩くのさえやっとなのだ、特に階段がつらい。仕方あるまい、3カ月もの休みを取った報いなのだ。
 
 昨日テレビ・ニュースで、大雪山の紅葉の映像が流れたというのに、たった一日でその景色が変わり、今日は何と旭岳の初冠雪の映像が映し出されていた。それも頂上部分だけではなく、標高1700mの中腹近くまでも雪に覆われていたのだ。平年並みの初冠雪だとのことだが。

 山は、次第にしっかりと冬の姿に変わってゆき、やがては、あの神々しく白く輝く姿を青空の下に見せてくれることだろう。
 私は、そんな雪山にまた登れるのだろうか・・・。

 
(後記:夜の9時ごろには仕上がっていたのだが、また些細な不注意で、下書き投稿していなかった部分を一瞬で消してしまった。それで激怒に駆られて大声で叫んでしまったのだ。あたりには誰もいないからいいようなものの、家の周りをうろついていた夜のけものたちは驚いたことだろう。さらに3時間かかって、今夜中にと今書き上げたところなのだ。全く同じ過ちを何度も繰り返して情けないが、何とか原稿が絶対に消えないようないい方法はないものだろうか。去年黒岳に登った時の記事も同じようにミスをして消してしまたのだ。’13.10.1の項参照。全く何をか言わんやである。)


  


ハマナスの実が熟れたよ

2014-09-08 21:12:46 | Weblog



9月8日

 「ハマナスの実が熟(う)れたよ 赤い赤い実が熟れたよ

 ハマナスのとげはいたいよ 青い青い針のとげだよ
 
 ・・・

 ハマナスも秋は実るよ まるいまるい黄金(こがね)玉だよ

 ハマナスのそばで泣いたよ みんなみんなやさしかったよ

 ・・・ 」

 (原曲 北原白秋作詞 山田耕作作詞 『からたちの花』による) 

 例の『イトナンリルゥ』などのブログ情報によれば、大雪の山の上では、今年の秋の訪れはいつもより早くて、もうウラシマツツジなどが赤く紅葉しているとのことだ。
 その紅葉の便りと合わせて、今ではもう大分回復したようにも思える腰の状態を確かめるためにも、ともかく時間をかけて無理をしないように山に登ってみたいのだが、どうも天気が今一つはっきりとしない。
 晴れたり曇ったり、一時小雨が降ったりと不安定であり、快晴登山が自分の信条である私には、とても出かける気にはならないのだ。

 先日、この夏の大雨災害が多発した異常気象を裏付けるかのように、特に8月の天気の不安定さを如実に示すかのような、気象統計数値が発表されていた。
 地域的に極端な差がある降水量はともかく、私が特に気になったのは、一日の内にどれほど日が射していたかを示す日照量の数値であり、例年並みに近い数字の関東地方周辺部を除けば、この夏に私が計画していた、北アルプスや東北日本海側の山麓地方の日照量は、何と平年の半分くらいしかなかったのだ。
 この夏、腰を痛めて、山に行けない悔しさに歯ぎしり噛んで寝ていた私にとって、それは病気で山に行けなかったのではなく、行かなくてよかったとの言い訳にもなっている。
 と、いささか後出しじゃんけんのような理屈をつけてみたところで、どのみち、一年一年と歳を取り、体力が衰えていくだけの話であり、それでは来年、再び遠征の山旅に行けるかどうかとなると、それはわからない。

 1週間前に終わった草刈り草取りは、その作業を始めたのがもう2週間以上前の話になるから、もう新たに草が伸び始めているのだ。

 つまり、ここは大雪山のような山の上ではないから、9月になって急に秋になるわけではなく、まだ夏の暑さも残っているのだ。
 日中の25度前後の気温は、日陰では涼しいが、日向に出ればまだ夏の日差しが照りつけている。
 だから草も伸びるし、蚊も多い。そのほとんどが、今話題のヒトスジシマカであり、こんな所にまでウィルスが侵入していることもないだろうから、それほど気にすることもないが、誰だって刺されるのはイヤだし、あの羽音を聞くだけでも不快になるから、仕方なくこの時ばかりは、スプレーのお世話になるしかない。
 抜いても抜いてもつきることのない雑草を取り、芝生のはげた部分のあちこちに種をまき、庭仕事は終わることがない。

 ふと見上げた、ハマナスの生垣には、わずかに一輪花があるだけで、あとはあちこちにそれぞれの熟れ具合を見せて、黄色や橙(だいだい)色や赤色になったハマナスの実がついている。(写真上)
 その昔、いろんなもののジャム作りに夢中だったころ、このハマナスの実もジャムにしていた。
 その一つの実には、レモン何個分かのビタミンCが含まれていると知って、がぜんやる気が出たのだが、出来上がりのペースト状のジャムは多少甘さの強いほうがよかったのだが、何といっても問題なのは手間ひまがかかることであり、とうとう数回作っただけで終わってしまい、以来もう何年も作ってはいない。

 ただ、毎年こうして色づき熟れていくハマナスの実を見ていると、どうしてもジャム作りのことを思ってしまうのだ。
 それは、まず実を取った後、一個一個、上下のへたを取り、細かい種を取り、さらに果肉との間にある細かい毛もきれいに取り除きと、年寄りになった今では、もうそれらの細かい作業を考えただけで、やる気が失せてしまうのだ。
 ジャム作りについては、もう今では、健康食品としての意味合いも含めて、例のウメジャム作りだけで十分であり(7月21日の項参照)、今回のようにその作業のために腰痛がひどくなったとしても、これからも毎年続けて作っていく価値のあるものなのだが、このハマナスにコケモモ、ガンコウラン、クロマメノキ、ヤマブドウ、コクワなど、今ではもう、そうした秋の実りを探しに歩き回ることさえしなくなったのだ。

 その代わりに、静かな田舎の静かな林の一軒家の中で、静かに暮らしていることだけでも、十分に満足しております。
 それが、これからいつまで続くかは分からないけれど、今はただその毎日の穏やかさの中にいることだけでも・・・。

 はい、これが年寄りの年寄りたるゆえんである、平和な心なのであります。

 すすけた粗末な丸太小屋の中、燃え盛る囲炉裏(いろり)の火に、小さな鍋をかけて、男がひとり何かを煮てはかき混ぜております。
 ぐつぐつと音がして、湯気がたち昇り、摩訶不思議(まかふしぎ)なこの世のものとも思えぬ臭いが辺りに漂い、その鍋の中をのぞき込むと、小さな紙片や色あせた写真の数々が、まるでそれぞれの思い出に含まれた苦しみや悲しみをにじみだしているかのように、ぶつぶつと嘆きの言葉があふれていて、今にもこぼれ落ちそうになっているのです。

 とその時、背中を見せていた男が、不意に振り向いて、鋭い眼光でこちらを見すえたまま、低く響くような声で口を開いたのです。
 ・・・「見たな、俺の人生を。」

「 ・・・火炎のたちのぼる大きな穴が地面に口を開き、その上に煮えたぎる大釜がかかっている。
 ・・・釜の周りをぐるぐるまわれ。腐ったはらわた、放り込め。
 冷たい石の下にもぐり、三十一夜眠り続けて、毒の油をにじみだすガマが、魔法の釜で最初に煮える。
 ふえろ、ふくれろ、苦労、悲しみ。燃えろ穴の火、煮えろ大釜。・・・」 

(河出書房新社 『世界文学全集』第1巻 シェイクスピア 「マクベス」より 三神勲訳)

 あの「マクベス」の一シーンを思い出して、さらには前にも書いたことのある、あの有名なセリフを思い出したのだ。

 (妃の死を告げられた後のマクベスの独白)

「 ・・・人生は歩く影法師、哀れな役者だ。
 つかの間の舞台の上で、はでな身振りで動き回ってはみるものの、出場が終われば、跡形もない。
 馬鹿の語るお話だ。何やらわめきたててはいるものの、何の意味もありはしない。」


 (筑摩書房 『世界文学全集』第10巻 シェイクスピア集 「マクベス」より 小津次郎訳)

 と、文学書からの名セリフをあらためて書き写してはみたものの、私はマクベスほどの地位にいたわけではなく、さらに権力者になりたいとか、一番上にあがりたいなどという思いを持ったことはないから、その地位にあるがゆえの不安におびえる言葉として、感じ入ったわけではなく、むしろ今まで生きてきた中で、ようやく幾らかは見えてきた人生の言葉として思い出されたのだ。

 だからむしろ、次にあげる言葉のように、あのモームの『人間の絆』の主人公フィリップが、ある時にふと気づいたように、すべてがやさしく解決されていくような言葉として、今の私の胸に響いてくるのだ。

「 ・・・答えは、あまりにも明白だった。人生に意味などあるものか。

 ・・・ちょうどペルシア絨毯 (じゅうたん)の織り手が、あの精巧な紋様(意匠)を織り出していくときの目的が、ただ自分の審美眼を満足させようというだけにあるとすれば、人間もまた一生を、それと同じように生きていいわけだし・・・。

 ・・・ただ彼自身の喜びのために、何かをしたというにすぎない。人間一生の様々な事件、彼の行為、彼の感情、彼の思想、そうしたものから、あるいは整然とした意匠、あるいは精巧、複雑な意匠、あるいは美しい意匠を、それぞれ織り出すことができるというだけだ。

 ・・・そして人生の終わりが近づいた時に、意匠の完成を喜ぶ気持ち、それがあるだけであろう。いわば一つの芸術品だ。そしてその存在を知っているのは彼ひとりであり、たとえ彼の死とともに、一瞬にして、失われてしまうものであろうとも、その美しさには、少しも変わりはないはずだ。
 フィリップは幸福だった。」 

 つれづれなるままに、昔読みにし文学書などをぱらぱらとめくりて、思い出したることなど、そここはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。

 (『徒然草』 序段にならいて) 
 
 ということで、つまりは山にも登れず、家でぐうたらに過ごしていれば、まあろくなことは考えないという見本のようなものであり、これ以上突き詰めて考える頭は持っていないから、気分転換でもすることにして、さて録画しておいた、「AKB48SHOW」での横山と川栄の名コンビのコントでも見ることにしよう。

 頭の中は晴れの日続きの、ヘンなおじさんではありますが、正直なところ、腰の不安ははともかく、何はともあれもう山を歩きたいのに。   ただ、天気が良くなってくれないし。
 はい、もう二か月半も山に行っていないのです。


芙蓉の雪とカルメン

2014-09-01 22:50:15 | Weblog



9月1日

 ここ北海道に戻ってきた次の日に、雨が少し降っただけで、あとは毎日晴れのいい天気の日が続いている。
 朝は10度近くにまで冷え込むが、日中は25度くらいにまで上がり、日差しはまだ暑い。
 しかし、日陰に行けば涼しい風が吹いている。
 いつもの、さわやかな北海道の晩夏の肌ざわりがする。

 午前中と午後にそれぞれ1時間半余り、道と庭の草刈り、草取りを続けて、ようやく昨日、一週間にわたる作業を終えた。
 朝早くは、草が露に濡れていて重たく、草刈りガマでは余分な労力を使い疲れるから、いくら涼しくてもやりたくないし、もちろんお昼前後は暑くていやだし、夕方近くになれば、草は乾いてさらに涼しくなりいいのだが、今度は蚊たちが群がってくる。
 というわけで、さらにまだ完治していない腰に無理をかけたくないこともあって、そんな午前と午後の時間に仕事をすることになったのだが、まあ誰にせかされるわけでもないから、二日ぐらいでできる仕事をだらだらと時間をかけて、ようやくやり終えたというのが本当の所だ。

 草刈りガマをふるっている間、ただひたすらに目の前の草を見ているだけで、別に耳にイヤホンをつけて音楽を聞いたり、何かを考えたりとかしているわけでもない。
 ただ無心になって、作業を続けているだけだ。 
 思えばそれは、山登りを続ける歩みと似ているところがある。
 苦しくつらい作業だけれども、手をとめ足をとめて振り返れば、自分がやって来た成果が見えるし、見上げる空は青く広がっているし・・・。
 それはまた、あの冬の雪はね(ゆきかき)の作業にも似ている。
 しかし、どちらの時も、草刈り機や小型除雪機などは使いたくない。
 苦しくても自分のためなのだし、それができる間は続けるべきなのだ。

 そして家に戻り、例のごとく冷やしたスイカを、それでは冷たすぎるから冷蔵庫から出しておいたものを、適度に塩をかけて食べる。
 年寄りは減塩するべきだとされてはいるが、仕事をして汗をかきのどが渇いた体には、塩をかけてスイカを食べるというのは理にかなったことだと思うのだが。

 テレビ・ニュースでは、あの広島の土砂災害の現場で、周りを埋め尽くすぼう大な土砂の流れ込みの中で、いまだに行方不明者捜索の作業が続けられていて、ボランティアの人たちの手作業による復興作業の姿も映し出されていた。
 思えば、十日ほど前に、私は飛行機の窓から、災害が起きたばかりのそのあたりを眺めていたのだ。
 雲が途切れて、青い海と島々が見える瀬戸内の光景とは対照的に、広島地方には列状雲が並び、さらにその上に雨を降らせる灰色の乱層雲がかかっていた。(写真上)

 自然災害の多い日本列島は、またそれを相補うかのように、美しい自然景観にも恵まれているのだが・・・。

 飛行機は、雲の多い関西地方からさらに中部地方へと差し掛かってきたが、残念なことに、この夏の天気の悪い状態がまだ続いているのだろうか、上空から見ても山々が見えるほどの雲のすき間は見えなかった。
 ただわずかに、雲が途切れた海岸線だけを目で追っていたところ、ふと目をあげた彼方に黒い影が見えた。富士山だ。

 飛行機に乗っていて、何が楽しいかと言えば、それは外の景色を眺めることであり、普通では見ることのできない上空からの眺めにある。
 確かに下界の景色が全く見えなくて、雲に覆われただけの時もあるが、それでも負け惜しみで言うのではないが、窓の外に千変万化の姿で波うちかたまり漂う雲の形を見ているだけでも、時のたつのを忘れてしまうほどだ。 
 もちろんできる事なら、地上がすべて見渡せる天気の日に乗り合わせて、名だたる山々を眺めるにこしたことはない。

 そして、この時も、関東地方とその周辺だけが晴れているという、今年の夏の天気の特徴を見せていたのだ。
 その富士山が近づいてくる。あの正面登山口の9合目あたりにある小さな残雪の帯を見せて。(写真)
 


 思えば2年前、私はこの8月下旬に富士山に初めて登ったのだ。(’12.9.2,9の項参照)
 それは期待するほどの山ではなく、しかしまた、期待以上の山でもあったのだ。
 その後も様々なテレビ映像で見て、こうして同じ時期の山の姿を見て、あの時の思い出がよみがえってくるのだ。しかし今、富士山の周囲を取り囲んでいる雲のように、一つの別な想いが湧き上がってきたのだ。

 もう一度、今度はあの人の少ない最長距離のコースである御殿場口から、少し時期を変えて登ってみたいと・・・。
 
 そういうふうに、今の自分の状態からは到底無理にも思えることが、突然、ある想いに乗って浮かび上がってくることがある。
 まだ、腰が完治していない私に、またいつ同じような腰痛に襲われるかもしれない私に、もう山に登ることは無理になるかもしれない私に、それらのこととは関係なく、ある日、何の前触れもなく生まれた、その輝く思いは、”黄金の翼に乗って”やってくるのだ。
 私の耳の内に、合唱の歌声が聞こえてきた・・・。
 あのヴェルディのオペラ『ナブッコ』で歌われる、「行け我が想いよ黄金の翼に乗って」・・・。

 さらに私は喜ばせたのは、何と真夏の昼に近い時間でありながら、富士山の左手に長々と続く山脈の形で、南アルプスの山々が見えていたことである。
 右手(北側)から、甲斐駒、北岳、仙丈、間ノ岳、塩見、悪沢、荒川、赤石、そしてぎりぎり雲に隠れそうになりながら聖岳に至るまでの、3000mの稜線が続いていたのだ。(写真)




 7月半ばに九州へと向かう時に見た、富士山と南アルプスの姿に感激したばかりなのに(7月21日の項参照)、また北海道へと戻る時に、その飛行コースが上りと下りでは違うとはいえ、こうして富士山と南アルプスを見られたことの幸せ・・・そうなのだ、私が腰痛に襲われて、一ヵ月もの療養生活を送らざるを得ないことになった見返りとして、神様はこうして、あの苦痛の日々を贖(あがな)うにふさわしい眺めを、その受難の日々の前後に用意しておいてくれたのだ。
 
 私の今年の夏山は、思えば登ることではなく、こうした飛行機から見た山々の眺めにあったのだ。
 と、私は何事も自分の都合のいいように考える。ましてこの数日、快晴の日が続いていて、お天気屋の私としてはいい気分だったから。
 脳天気おじさんの日常とその生活・・・うーん、あまりいいタイトルではないな。 

 今回の、飛行機からの富士山の眺めを思い出したのは、実は前回にも少し触れた、あのNHKのドラマ『芙蓉(ふよう)の人』を見続けているからでもある。
 明治時代に、あの富士山山頂に小屋を建て気象観測をしながらひと冬を過ごすことが、当時の登山事情を考えると、まさしくいかに苛酷(かこく)なことであり無謀なことであったか。
 登山用具や防寒衣料が整っている今の時代ではあるが、若干の冬山の経験もあり、地吹雪吹き荒れるここ北海道での、-30度の気温を体感したこともある私にとって、ドラマとはいえ、その厳しい寒さが身にせまってくる思いだったのだ。
 そんな条件の中で、気象観測を続けるのだという意地だけで、苛酷極まる寒さに耐える夫婦の姿に、私はわが身と照らし合わせるまでもなく 、何度もまぶたをうるませてしまったのだ。

 楽をしようとして、相手に向けられた自分のわがままな意地ではなく、つらいことを耐え忍び、自分の心の内に強い思いを持ち続ける意地・・・。
 そのひたむきな思いが、私の心を揺さぶるのだ。

 その昔、若き日には誰でも、目を輝かせては熱き思いに燃えていたのだ。 

 「芙蓉(ふよう)の雪の精をとり、芳野(よしの)の花の華を奪い、若き心の益荒男(ますらお)が・・・ 
 一たび起(た)たば何事ぞ、人生の偉業成らざらん。」

  (旧制一高寮歌 『嗚呼(ああ)玉杯に花うけて』 矢野勘治作詞 楠正一作曲) 

 それに引きかえ、私は、あちこちで花が咲いているのを見てきただけで、一体”何を残しただろう”。
 しかし嘆くことはない。見る者がいてこその花なのだ。そんな数多くの花を見てきただけでも、それが自分の小さな誇りにもなるのだから。

 古い歌に関連して、今度は伝統芸能でもある日本の民謡についてだが、二日前に、この6月に行われた『日本民謡フェスティバル2014』の模様が放送されていた。全国の民謡大会などで優勝した人たちが集まり、その自慢の歌声を競い合っていた。
 優勝したのは、その歌声を認められてプロの民謡歌手になったばかりの、まだ初々しさの残る女性歌手だった。曲は有名なあの『南部牛追い歌』。
 今までに、何人もの名人たちが歌ってきた『南部牛追い歌』、そうした名人たちのそれぞれの見事な歌いぶりとまではいかないとしても、若い彼女の一途な思いの歌声が、私の胸にも熱く響いてきた。
 次点の奨励(しょうれい)賞に選ばれた二人の曲も、有名な『江差追分』と『秋田長持歌』だったが、すでに様々に歌われて聞きなれた曲なのに、それぞれに誠実さが感じられるいい歌い方だった。
 
 そして歌のついでに、オペラを一点。
 1週間ほど前に、NHK・BSで放送された、あのビゼーの人気オペラ『カルメン』である。それは野外オペラで有名な、イタリアはヴェローナにあるローマ時代に作られた野外円形劇場での公演だった。
 夕方から始まったそのオペラの舞台を、時々劇場最上段からの俯瞰(ふかん)撮影のカメラがとらえて、オペラの進行とともに、クライマックスへと向かう悲劇のストーリーを暗示させるかのように、夕暮れから、夜のとばりに包まれていく様を映し出していた。

 そうした舞台の演出と美術は、なんとあのフランコ・ゼフィレッリだった。
 彼の名前があっただけでも、私はこのオペラを見たいと思ったのだ。
 ゼフィレッリは、こうしたオペラの演出家、美術、衣装担当として有名なだけでなく、何といってもイタリアの名映画監督として忘れることのできない一人でもある。
 イギリス人であるシェイクスピアによって、イタリアの町ヴェローナを舞台に書かれた名作『ロミオとジュリエット』を、彼は、その古いヴェローナの町の舞台そのままに映画化して(1968年)、青春群像の若者たちを、今に生きるかの如くに鮮やかに描いて見せてくれたのだ。

 その当時の時代を思わせる、豪華な衣装や部屋飾りなどを背景に、余りにも純粋な若い二人ゆえの、胸にせまりくる恋の悲劇を、原作以上に生き生きと描いて見せたその手腕・・・この一作だけでも、彼は映画史にその名を残すだろう。(付け加えて言えば、ジュリエット役の若きオリヴィア・ハッセーがすべてだともいえるが。)

 そのイタリア人ゼフィレッリが、スペインのセビリアを舞台に、フランス語オペラとして作られた『カルメン』の舞台演出を手がけたということ、それは彼の映画『ロミオトジュリエット』の舞台でもあったヴェローナの、歴史的建築物である円形劇場で行われた舞台だっだということ。
 そしてその期待通りに、広い青天井の舞台に本物の馬車やロバが行きかい、鮮やかなスペイン衣装で着飾った人々が群れ踊り、当時のセビリアの街角を再現していたのだ。
 
 歌い手たちは、主役をつとめたエカテリーナ・セメンチュクの、豊かな声量あるメゾ・ソプラノの声は、確かに迫力と威厳は感じさせたものの、カルメンの持つ妖艶(ようえん)な女の姿としては伝わってこなかったし、相手のドン・ホセ役のテノール、カルロ・ヴェントレもそつなくこなしていたものの、二人ともにその体型から見て役にふさわしい姿には見えなかった。

 確かにオペラは、歌手によって、歌を聞かせるのが第一であるが、同時に舞台劇として見せることも大きな要素の一つなのだ。
 その点、ドン・ホセを一途に思うミカエラ役の、ロシア人のソプラノ、イリーナ・ルングは、その容姿、歌声ともに素晴らしかった。(写真)



 この舞台を見た人は誰も、なぜドン・ホセがミカエラを捨てて、カルメンのもとに走るのかを理解できないだろう。
 ともかくにも、このオペラを見ての収穫は、ゼフィレッリとイリーナ・ルングに尽きるだろう。

 そもそも、このビゼーの 『カルメン』は前にも書いたように、あの2010年のメトロポリタン・オペラ公演での、もう二人とは現れないだろうカルメン役を歌い演じたエリーナ・ガランチャにとどめを刺すのだ。(’11.2.27の項参照)

 こうした生の舞台で、マイクなしですべてを歌い続けるオペラ歌手たちと、日本のアイドル集団AKBの娘たちが歌う歌と・・・そこには何という大きな隔たりががあることだろう。

 たとえて言えば、たてがみを風になびかせ、威厳あたりを払うかのごとく立つライオンと、どこにでもいる可愛いだけの小さなネコたちの群れと・・・それは分かっているのだが、それでも私はネコも好きなのだ・・・八丈島のキョン(漫画『こまわりくん』のかけ声)。