ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

そこは青い空だった

2018-05-28 21:15:09 | Weblog




 5月28日

 数日前、北海道に戻って来た。
 まだ脚の痛みは残ってはいるが、北海道での仕事や用事がいろいろとたまってはいるし、もうこれ以上先延ばしにすることはできないと、思い切って九州の家を離れることにした。
 それでもその時には、いつものことながら久しぶりに飛行機に乗る楽しみがあり、そして聞こえてくるのだ。
 ”夢のジェット機727(セブントゥセブン) そこは青い空だった・・・”と、まだ娘時代の吉永小百合ちゃんが歌っていたのだ。
 ”わかるかなー、わかんねえだろうなー”と、古い歌に古いギャグで、これまたどうも失礼しました。

 ともかく、あとは出かけるその日の天気を祈るばかりだった。
 もちろん、飛行機は、天気の変化が及ばない成層圏と地上の天気の変化を受ける大気圏との狭間の辺りを飛んで行くのだから、いつでも上空に見えるのは雲のない青空である。それは深い紺色の成層圏の空なのだが、しかし、一方でそれより下はと言えば、下界の天気が悪ければ雲が覆っていて、地上の地形の姿を眺めることはできない。

 ”三度の飯より~が好き”とか、”寝ても覚めても想うはあなたのことばかり”とか言うほどではないのだけれども、ともかく飛行機に乗れば、何とか窓側の席を選んで座り、窓にへばりついては、外の景色を眺めるのを無上の喜びににしている私にとって、その日の天気がいいか悪いかは、私の愉しみである下界の景色が見えるかどうかにかかわる大問題なのだ。
 もちろん今までには、何度も地上の天気が良くなくて、ずっと雲に覆われたままの飛行だったこともあるのだが、それでも負け惜しみで言えば、その日は、下層雲から上層雲に至る全部の雲の観察に、何と適した日だったことだろうかと思うことにしているのだ。

 さてその日の天気予報は、全国的におおむね太陽と雲のマークがついていて、悪くはなかったのだが、気になるのは、午後になってにわか雨の予報が出ていたことである。 
 まずは、福岡から東京羽田への便であるが、雲も出ていて大気はややかすんではいたが、九重の山や四国山脈それに紀伊半島の山々を見ることができた。
 そしてここからが楽しみの、日本の山々の核心部の眺めだったのだが、やはり雲が多くて、それでもさすがに富士山だけは、”頭を雲の上に出し”ひとりすっくとそびえ立っていて、何度見てもあきることはない。(写真上) 
 ただし、まだ5月下旬というのに何と残雪の少ないことだろう。
 それは、南側斜面ということもあるのだろうが、頂上直下のジグザグの富士宮登山道が見えていて、9合目から上は雪が残ってはいるものの、ともかく一か月は早いだろうと思われるほどの雪の少なさであり、今年は7月の山開きを前に、普通の登山者でも登られるようになるのではないのかと思ったほどだった。

 さて、羽田で乗り換えての午後の帯広行きの便だったが、やはり雲が多かった。
 それでも、まず関東平野の果てに連なる日光連山が見えてきて、中禅寺湖から立ち上がるどっしりと大きな男体山(2484m)や、関東地方最高の日光白根山(2578m)、そしてその上部には尾瀬の山々がよく見えていた。
 特に尾瀬沼、尾瀬ヶ原を囲む至仏山(しぶつさん、2228m)、景鶴山(けいずるさん、2004m)、燧ヶ岳(ひうちがたけ、2356m)などはまだ豊かな雪に覆われていた。(写真下)



 そこで、そろそろ始まるミズバショウの時期の、青空を背景にした燧ケ岳の姿を思い浮かべてみた。
 きっと、私好みの絵葉書写真が撮れるだろうし、思っただけでもドキドキするが、残念ながら、私は混雑に恐れをなして、まだその季節に行ったことはない。
 若いころから、私は混み合う所はいつも敬遠していたのだ。
 唯一秋に登った時には、さすがに会う人も少なくて十分に秋の湿原歩きの楽しさを味わうことができたのだが、忘れられないのは、その燧ケ岳の頂上から見た、見事に全山黄葉していた会津駒ケ岳(2132m)の巨大な山体であった。
 私は、その会津駒にも、さらには前回あげたホソバヒナウスユキソウで有名な至仏山にも登ってはいない。
 もうじじいになり始めた今、おそらくはよほどの決意をもって臨まない限り、これらの山々や谷川連峰の万太郎山(1956m、茂倉岳から見た北面の姿は絶品)や越後の駒ヶ岳(2003m)などの長らく憧れていた山々の頂上に立つことはないのだろうが。
 さらに思い出すのは、優先課題としては長らくその筆頭にあった北アルプスの毛勝山(けかちやま、2415m)と南アルプスの笊ヶ岳(ざるがたけ、2629m)だが、いずれもまだ雪のあるころに、その周りの雪山の展望に期待して、いつかは登りたいと思っていたのに・・・。
 ”夢は夢のままで”、それが、多くの人にとっても、人生の現実なのだろう。
                      
 ”・・・。
 とどのつまりは旅立つ身。
 なにを見たとて、一生は夢にすぎぬ、”

 ”おお、わが心よ、この世はつまるところ幻なのだから。 
 この長い苦の道を前にして、なぜそのように思い悩むのか。
 運命に従い、不幸を身に受けよ。
 天の筆は、書き直しをしないのだから。”

 (『ルバーイヤート』オマル・ハイヤール 岡田恵美子訳 平凡社ライブラリー)

 前掲5月7日の項でも、この有名なペルシア詩人の4行詩からなる『ルバーイヤート』の中の別の詩に触れていたのだが、雲上の天空を旅するわが身にはふさわしい詩だと思い、再びここで取り上げてみることにした。
 もっとも、この100編もの四行詩からなる『ルバーイヤート』で詠われていることといえば、今のイスラムの教理とは相反した”酒を讃える”歌であり、わが国で言えば、『万葉集』の中に収められている、あの大伴旅人(おおとものたびと)の余りにも有名な一首、「験(しるし)なき 物を思わずは 一杯(ひとつき)の 濁れる酒を 飲むべくあるらし」から始まる歌を思い出してしまうのだ。 
 洋の東西を問わず、酒が好きな人の気持ちは変わらないということだろうか。
 私は”もどき酒”であるノンアルコール・ビール派ではあるが。

 話がいつものようにわき道にそれてしまった。元に戻って、その後の空の旅の話を続けよう。
 期待した東北の山々は、予報通りに雲が多くて、稜線は雲の覆われていて、かろうじて残雪模様が駆け下りる中腹の辺りが見えているだけだった。
 そこで、見え隠れする山々の眺めはあきらめて、周りに群れ集う千変万化の雲たちを見ていたのだが、特に目を引いたのは、東北北部にかかっていた巨大な雲のかたまりである。
 先ほどの機長のアナウンスでは、いつもよりは高く高度12,000m辺りを飛行しているとのことで、気流が不安定になっている積乱雲をよけたりさらに上を飛んだりしていたのだろう。
 そこで気づいたのは、普通なら積乱雲の雲の峰が並ぶところを見ているのに、それらはまとまって、巨大な航空母艦のような台地上の雲に変わってしまっていたことだ。(写真下)



 写真ではその大きさを写せなかったのだが(座席が翼の近くで、視界が十分には開けていなかったし)、この台形の雲は、この写真のあと3倍ほどの長さで右後ろに続いていたのだ。
 積乱雲の発達できる限界は1万数千m位までであり、その辺りからは成層圏になってしまうからなのだろうが、さらに上空を吹く西からのジェット気流、偏西風によって、こうした西に向かう航空母艦のような形になったのだろう。
 もちろん、飛行機からの展望マニアでもある私は、今までこうしたいくつもの積乱雲のなれの果てを見てきたのだが、今回ほどに大きいものを見たのは初めてだった。
 残雪の東北の山々を見ることができなかった分、珍しい雲を見て、”元は取ったどー”。
 機内のモニター画面で見る飛行ルートは、少し迂回していたが、おそらくは揺れを抑えようとするベテラン機長の判断だったのだろう。
 やがて、日高山脈南部の山々が見え、飛行機はほとんど揺れることもなく、十勝帯広空港に着陸した。

 わが家のまわりの木々や草花は、すべて春の盛りの中にあった。
 あるえらい芸術家が”芸術は爆発だ”と言ったそうだが、北海道の春の野山は、まさに”春の季節の爆発”の中にあった。
 今回は事情があって、北海道に戻ってくるのがいつもよりは一月半近く遅れてしまったから、いつもなら枯草色の中から、少しずつ芽吹きの緑が増えていき、花々が咲いていくのだが、今やすべての草花の緑の葉が芽吹き花が咲いていて、木々は新緑の葉を広げていて、カッコーは一日鳴いていて、エゾハルゼミもうるさいくらいに鳴いている。
 やることは、うんざりするほどある。
 第一に、まずタンポポの抜き取りであるが、もう綿毛を出して飛び散ったものがあるにしても、ともかくこれ以上タンポポ原にならないように、手あたり次第抜いていくほかはない。百本…二百本・・・。
 そして次には、道まわりから庭に至るまでを、草刈りガマ一本による草刈り作業をしなければならないが、今はまだ道半ばで・・・腕も足腰も痛い。
 さらに悪いことに、井戸の水が出ない。
 浅井戸の上に、毎日ずっと使っていて周りからの水の道ができている井戸ではないから、こうして放っておくとすぐに水が枯れてしまうのだ。
 隣の農家に水をもらいに行き、それを細々と使うしかないが、不便きわまりない。
 水がふんだんに使えて、シャワートイレがあり、毎日洗濯ができて(毎日衣類を着かえられて)、毎日風呂に入ることができる九州の家に居ることがどれほどありがたいことか。

 しかし、水枯れといい垂れつぼトイレといい、いくら不便なことが多いとはいえ、木々や草花に囲まれ、家の前には残雪の日高山脈が見える、静かなこの丸太小屋での暮らしを、私は捨てることができないのだ。

 ”フランシス・ジャムの詩にもとづく私自身のためのエレジー(哀歌)”

 神様、私がたとえば、二人の女を同時に愛してしまい、それをどちらか一人の女に決めることなどできないように、私は、こうして遠く離れた二つの家での暮らしを、どちらかだけに決めてしまうということができないのです。
 そうした優柔不断さと、物事をあいまいなままにしておくという、私の情けない性格を、神様はお咎(とが)めなさるでしょうか。
 おそらくは、私の命もそう長いことはありますまい。
 どうか、その短い間だけでも、年寄りのわがままとお見過ごししてはいただけませんでしょうか。
 若いころから今日まで、何度もの危険な目にあった”くたばりぞこない”の私めのこと、ここまでも生きながらえさせていただいたので、最後には何の悔いもなく、”ああいい人生だった”といって目を閉じることができるでしょうから。
 私が、死にゆくときは、どうか天気の良い晴れの日にしてください。
 そして、できることなら花々が咲き乱れている季節にしてください。
 その花の向こうから母の笑顔が見えて、ミャオが鳴きながら近づいて来て、私を迎えてくれるようにしてください。
 お寺の鐘が鳴りまする。


われはすみわたるかも

2018-05-21 21:33:43 | Weblog




 5月21日

 昨日は、朝から見事な快晴の空が広がっていた。
 それまでの、夏には早すぎる蒸し暑い空気と入れ替わって、今の時期にふさわしい、春のさやかな空気が戻り入り込んできたこともあって、実にさわやかな一日になっていた。
 ライブカメラで見る、九重山牧ノ戸峠の駐車場はクルマでいっぱいになっていて、おそらくは路肩駐車の車列も出ていたことだろう。
 今、九重の山々では、ツクシシャクナゲの花は盛りを過ぎていても、もうちらほらと、あのミヤマキリシマの花が咲き始めているころだろうし、何より山麓から中腹にかけては、今こそが目にも鮮やかな新緑の時期なのだ。

 私は、家にいた。
 そして、庭の草とりをしていた。
 休日にはなるべく出かけないというのが、今の私の方針だし、何より、まだ少し痛みの残る脚で歩き回るには、不安のほうが大きいからだ。
 そこで、いくらでもあるに家の仕事や庭仕事の中から、比較的に楽な草とりをすることにしたのだ。
 
 もともと、そう広くはない庭とこれまた猫の額ほどの小さな畑だけだから、気の向いた時に少しずつやっても二日ほどで終わるほどの仕事なのだが。
 いつだったか、何の番組だったかは憶えていないが、ある年寄りが、大好きなのは庭や畑の草取りだ、と言っていたのを思い出したが、今ではその気持ちがわからないでもない。
 雑草は、そのままつまんで引き抜くか、取りにくいものは、小さな園芸用のカマで少し下に差し込んで土ごと持ち上げると、根ごと雑草を引き抜くことができる。
 そんな単純な作業の繰り返しなのだが、中にはそうした目障りな雑草の中に、どこから種が運ばれたのか、小さな木の苗や花の咲く草花が芽吹いていたりしていて、ためらう時もあるのだが。
 母がいた頃は、草取りは母の仕事だったけれども、花が好きだからということもあってか、ハルリンドウやスミレからツユクサなどに至るまでを、取らずに残していて、庭はまだら模様になってしまっていたくらいだった。
 それでも、今では、母がそうした草花たちを取り残しておいた気持ちが良くわかる。

 さて、そんな草取りの中で、前から気づいていたことでもあるが、今までは引き抜いていた草を、目を近づけてあらためてしげしげと眺めてみた。(写真上)
 それは、高さ数センチほどの小さな草で、芝生地の中にあると見分けがつかないくらいだが、キク科ハハコグサ属に分類されているチチコグサである。
 一方のハハコグサは、もっと大きくて30㎝ぐらいにもなり、花序の黄色い花の集まりが目立つ花であり、春の七草の中の一つ、ゴギョウとはこの花のことである。
 そして、似たような名前のヤマハハコは、北海道では平地でも普通に見られる花で(私の北海道の家の庭の周りにもあちこち咲いているが)、本州中部の高山帯では高山植物とされていて、さらに大きくて50㎝以上にもなり、白いかさかさしたドライフラワーのような苞片(ほうへん)に包まれた中に黄色い花があるが、ハハコグサほどには目立たない。

 確かにこれらの似たような仲間は、花の大小はあれ黄色い花を咲かせて、同じように茎に白い毛が生えていて、茎が枯れた後は、へばりつくように地面にロゼット状の葉を残していて、それだけでも近縁種だとわかるのだが、私はこの草取りの時に、このチチコグサが、小さなウスユキソウの仲間のようにに見えてしまったのだ。
 確かに、高山帯に咲くウスユキソウの花には品があって、いつも気になっていたのだが、特に8年程前に、東北の飯豊(いいで)連峰を縦走した時に(2010.7.28~8.1の項参照)見た、あのおびただしい数のミヤマウスユキソウの花々の姿が忘れられないのだ。(写真下) 


 
 それらの花々は、北股岳(2025m)から飯豊本山(2105m)にかけての、たおやかに続く尾根の石ころ混じりの草原や斜面に咲いていて、私はその度ごとに何度腰を下ろして眺めては、写真に撮ったことだろう。 
 この時は、山上三泊四日の山小屋泊まりだったのだが(さらに登山口と下山口の宿にそれぞれ一泊して、併せて五泊六日もの山旅になったのだが)、その三日目の梅花皮(かいらぎ)小屋から大日岳(2128m)を往復して御西(おにし)小屋に至る丸一日は、深い霧の中で展望がきかずに、花々は見ることができたものの、周りの山なみの光景が見られずに、残念な課題を残してしまったので、いつかはこの部分をまた登りなおして、さらには晴れた青空の下で群生する、ミヤマウスユキソウの姿を見てみたいと思っていたのだが。
 時の去り行くのは早いもので、いつしかじじいになり果てて、その夢も遠くなりつつあるのだ。

 ウスユキソウの仲間は、日本にも数種類があって、今までに私が見たものは、この東北の日本海側の高山に見られるミヤマウスユキソウ、別名ヒナウスユキソウと、中央アルプスの木曽駒ヶ岳周辺で見られるヒメウスユキソウ、別名コマウスユキソウ、それに北アルプスなどの尾根筋などでよく見られるミネウスユキソウだけであり、有名なあの北海道のレブンウスユキソウも見ていないし、別名エゾウスユキソウと呼ばれるニペソツ山や藻琴山の花も時期に合わずに見逃しているし、さらには大平山のオビラウスユキソウ、そして東北の早池峰(はやちね)のハヤチネウスユキソウもまだ見ていないし、さらには谷川連峰や至仏山のホソバヒナウスユキソウにもお目にかかったことはない。生きている間にあといくつ見られることやら。 
 その中でも、本場スイス・アルプスに咲くウスユキソウ(エーデルワイス)は、若いころのヨーロッパの旅の時に、10日間トレッキングの山旅を続けて山々を楽しんだのだが、時期は9月で、花の時期は終わっていて、残念。

 今は、この九州の自宅のせまい庭に、普通は目もくれない雑草として咲いているこのチチコグサを、近づいて見ては、あのウスユキソウに見立てて思いをはせているのだが、これまた草取りの時の一興(いっきょう)とするべきか。
 連休前からの、さわやかな五月晴れの続いた日々を、一度も山に登らずに一か月余り、こうして家にいて過ごしていても、それらの日々が決して無駄な一日一日だったというわけではなかったのだ。
 こうして今まで、庭木の新緑や草花の芽吹きを幾度となく目にしては、すがすがしい気持ちになり、そうした穏やかな日々が続いたということがなによりのものだから。 
 大切なことは、たとえ自分の大きな負荷になることが起きたとしても、それを決して不運な重荷だとは考えないことだ。
 悪いことがあれば、それは時がたてば、良いことの始まりに代わるものなのかもしれないのだから。

 北海道に戻れば、あの家では衛星放送を見ることができない。そのために見たい番組を幾つも見逃してきていて、九州にいるときにようやく再放送で見ることができたこともある。
 今回、こんな時期まで九州にいたおかげで、私はあのNHK・BSの『グレートトラバース2』の個別15分番組を見ることができたのだ。
 もちろん、私は前にもここで書いていたように、この番組で企画実行されているような山の登り方は、私が目指し続けてきた山の登り方とは、およそ相容れないものであって、どこかスポーツ選手を見る傍観者としての視線で見ていたことは確かなのだが、それでも、山そのものの姿や登山道の状態に変わりがあるわけではなく、映像によって初めて見知ったことも多く、山好きな私には価値のある番組だと言えるものだったのだ。
 
 今回の『グレートトラバース2』は、いまだに再放送され続けている『日本百名山』やその続編の『にっぽん百名山』、さらには『グレートトラバース』の日本百名山編として放送された山以外の、あまり全国的に有名ではないとされる次の百名山、つまり二百名山の山々を取り扱っていて、その総集編の方は見ていたのだが、今回のものはそれぞれの山々を15分の番組として詳しく紹介したもであり、2年前の初回の放送時には見られなかったものなのだ。
 それが、今回の負傷で北海道に行くことができずに家にいたおかげで、一番見たかった、北海道・東北・中部地域の二百名山の山々を見ることができたのだ。ああ、何が幸いするかわからないものだ。
 今回見た北海道の山々は、ほとんど登っているから懐かしく見て、東北・中部地方の山々には、計画していたが登ることができなかった山々が数多くあったが、もうこの年では、憧憬(どうけい)の山々としてそのまま登ることなく終わるのだろうが。

 この番組の主人公である、”プロアドベンチャーレーサー”と名乗っている田中陽希君が目指すのは、悪天候などの悪条件をもいとわず、自分の身体だけで日本全土を登り歩き、カヤックを漕ぎ、一筆書きのルートで日本の名山を登っていくという、まさにアドベンチャー企画のドキュメンタリー番組であって、誰にもできない並外れた体力と意志を持った人だから可能だった偉業ともいえるものなのだ。(日本百名山の人力だけの踏破の記録は彼が行った以前にもあった。)
 ただし、これはスポーツ感覚でルート上の山として登って行くだけだから、当然のこととして、私のようにゆっくりと登り、途中の景色や草木や山々の眺めを楽しむという目的ではないから、私が決して出かけない天気の良くない時の登山の映像も数多くあったのだ。
 もっとも、この番組は、タイトルに銘打たれているように、ある若者のアドベンチャーの記録映像として見るべきものであって、普通の山の情報番組として見てはいけないものなのかもしれない。 

 しかし、これも何度も言うことだが、この番組の撮影時には、常に彼と並行して歩き山に登って行く彼の姿を映像に捉えている(それだけでも大変なことだが)カメラマンがいて、その他音声などのスタッフが常時数人はついているわけだから、危険な単独行ではなく、少なくともいくらかの安全の担保が用意された単独行なのだ。 
 そして、さらに大きな問題なのは、今や登山界のヒーローとなった彼は、行く先々の山の頂上で大勢の登山者ファンたちに待ち構えられていて、祝福を受け励まされていることだ。中には握手を求めるだけでなく一緒に写真を撮ってもらい、色紙を用意していてサインを求めてくる人がいる始末だ。 
 彼は、そのファンたちみんなに、ていねいに対応しているのだが、時には休みたくてすげなく扱う時もあるのだが。 
 彼は、このテレビ番組の主役になって出演料を受け取り、プロとして行動しているのだから、あのエンジェルスの大谷翔平選手と同じように、ファン・サービスをするのは当然のことなのだろうが、その責任を十分に感じてはいないようにも思えるのだ・・・。

 もっとも、彼がぽろりとこぼしたように、時には一人になりたいという気持ちもわかるし、それなのに、疲れて山頂に着いた彼に、サインをしてもらい一緒に写真に撮ってもらおうという登山者たちの心情が分からない。 
 彼ら彼女らは、山が好きで山登りに来たのではなく、彼に会うためだけに天気が良くない日なのに登ってきたということなのだろう。
 私は、有名人やスターに会うために、山に登りたいとは思わない。

 私が望む最高の山は、晴天の日に、ほとんど人に会うこともない山に、ひとりで登って行って頂上に着き、十分にその展望を楽しんだ後、また一人で戻ってくることだ。
 十年ほど前までは、よくひとりで、北海道は日高山脈に分け入っては、沢登りをしていたものだった。
 秘境の山奥の眺めと、自然のただ中の静寂と、時おりヒグマの気配におびえつつ・・・。
 それでも、水源部近くの、岩の隙間から滴り落ちる水を口いっぱいに含み、振り仰ぐと明るく開けた周りの景観から、頂上が近いことを知り、陽を受けた額の汗をぬぐって、ひとりつぶやいていたのだ、”いいぞ、あともう一息だ”と。

 ”あしひきの 岩間をつたう苔水の かすかにわれはすみわたるかも”

(『良寛』吉野秀雄著 アートデイズ発行、良寛の国上山五合庵(くがみやまごごうあん)時代の歌より)

 自分なりに解釈すれば、”うるわしき山の谷間、苔むす岩の間を、かすかに水が流れている。私の命のように細く流れて、何の迷いもなく澄みわたっているのだろうか。”


こよなく晴れた青空を

2018-05-14 21:32:30 | Weblog




 5月14日

 空気の澄んだ快晴の青空が広がる日が、三日も続いた後、一日中小雨が降ったりやんだりの日があって、恵みの雨に草木はうるおい、夜になるとひとしきりカエルの合唱が続いていた。
 そして、今日はまた朝からからりと晴れ渡っていて、この天気があと二日は続くとのことだが。
 山は新緑の季節の中、シャクナゲの花が咲き、もうすぐミヤマキリシマの花も咲き始めるだろう。
 それなのに、私は買い物で外に出たほかは、ずっと家にいた。

 前回から書いているように、ハシゴから落ちた時の脚の傷がまだ治らないからだ。
 家の中を動き回ったり、少しの間散歩したりはできるのだが、長距離のトレッキングやまして山登りなどは、まだまだできそうにもない。
 というのも、ひざ下全体の腫れは少しずつ引いては来ているし、内出血の青あざもだいぶん消えてはいるのだが、まだ触ると痛いところがかなり残っている。 
 しかし、これ以上病院に行っても、骨に異常がないので痛み止めの薬もらうだけだからと、家の中で治療に専念することにして、なるべく脚に負担がかからないように、歩き回らないようにしている。 
 さらには、痛む時に脚を冷やすのをやめて、温湿布薬に換えて、時々マッサージをしているし、それなりの効果はあるように思えるのだが。
 ネットで調べてみると、普通の打撲なら2、3週間で治るだろうが、中には1か月2か月さらには半年と時間がかかる場合もあるとのことだった。 
 ハシゴから落ちた時はさほどの傷には思えなかったのだが、治るまでに1か月はかかる重傷だったのだ。

 さらに、この足の痛みに加えて、歯が痛くなってしまった。
 悪いことが重なる例えとして、”泣きっ面に蜂”とはよく言ったものだ。 
 そこで歯医者に行くと、歯髄炎(しずいえん)と歯根膜炎になっていて、前から言われていたことだが、知らぬ間に歯ぎしりをしたりして歯がすり減っていて、神経が露出しているとのことだった。 
 私は今まで、寝ている時の歯ぎしりを指摘されたことはなかったのだが、ひとりになって、気楽に構えてのんびりと暮らしているようだが、内心つらいことがいろいろとあって、それが夜寝ている時に無意識の歯の食いしばりや歯ぎしりになって、歯をすり減らすことになっているのだろうか。

 ともかく、その治療と併せて、今は北海道に戻ることはおろか、山に登ることさえできないのだ。 
 というわけで、毎日家のベランダの椅子に座り、青空と新緑の樹々を眺めているだけだ。
 その時、ふとある歌の一節が思い浮かんできた。

 ”こよなく晴れた青空を 悲しと思うせつなさよ”

 有名な「長崎の鐘」の出だしの一節である。
 この二節後に転調して、”なぐさめ はげまし 長崎の ああ長崎の 鐘が鳴る”と、雄々しく歌われてゆく。

 長崎の原爆投下時、当時の長崎医大に勤めていた永井助教授は、その原爆で妻を失い、自らも被爆したのだが、5年後の1949年にその時の長崎のことを記した手記を出版して、ベストセラーになり、それをもとにサトウハチロー作詞・古関祐而作曲による歌が作られて、藤山一郎の歌で大ヒットし、翌年には若原雅夫・月丘夢路主演で映画化もされている。(以上Wikipediaによる。以下も同様)
 そして、特に2番の歌詞になると、私は歌えなくなり胸が詰まってしまう。

 ”召されて妻は 天国へ 別れてひとり 旅立ちぬ かたみに残る ロザリオの 鎖に白き わが涙 ・・・”

 当時敗戦後のGHQ(連合国軍司令部)統治下にあって、永井氏には、核爆弾投下の批判記事を書くことなどできるはずもなく、併せて妻を失った悲しみをも乗り越えて、それでも、医者であった自分が長崎の惨状を書き残しておかなければと思ったのだろうが、さらにはその意をくんで、詩人サトウハチローが書き上げた歌詞は、まさに万感胸に迫るものがあり、さらに転調後に曲の高まりを持って行った、古関祐而の見事な作曲手腕も高く評価されるべきだろう。
 さらに付け加えれば、”長崎の鐘”とは原爆投下後に、その破壊された大浦天主堂のがれきの中から無傷で見つかったものだというけれども、その鐘が題名につけられたのは、あるいはキリスト教徒の教会が同じキリスト教徒によって破壊されて、という哀しみの気持ちが込められていたのかも知れない。
 永井氏の妻が持っていたという、ロザリオ(十字架の数珠・じゅず)とともに。

 この歌は、原曲の藤山一郎以外の歌手の歌ではあまり聞こうとも思わないが、もし新たに歌う歌手がいたとしても、正統的な声楽教育を受けた歌手以外ではと思ってしまう。

 もちろん、この歌を私は同時代に聞いたわけではなく、ずっと後になって若いころに、NHK紅白か何かで初めて聞いて心打たれ、後になって東京で働いていた時に、音楽企画の中でさらに聞き直して、再認識した歌の一つだったのである。
 私が好きな日本の歌は、こうした昔のいわゆる”昭和歌謡”と呼ばれる歌に多く、そしてそれらのいずれもが、しっかりとした歌詞と作曲によって作り上げられていて、歌そのものが一つのドラマになっている点にあると言えるだろう。

 先日、連休の時に、テレビ朝日系列で”決定版これが日本の歌だ”という番組が放送されていて、そこでは最新の画像技術編集で、現実にはあり得ない美空ひばりと氷川きよし、テレサ・テンと千昌夫がデュエットしているような、仮想空間のステージが映し出されていたが、私が感心したのは、むしろそれ以外の記録映像として残されていた、白黒画面時代からの昭和歌謡曲の名曲の数々だった。
 折り目正しく一本調子で歌われてはいるけれども、それだけに歌詞の持つ意味が、ひたむきに伝わってきて胸を打つのだ。
 もちろん、私は今の歌謡曲や演歌が良くないと言っているわけではないし、この後で取り上げる「天城越え」のような名曲も作られているのだから。
 ただ今の歌い方には、歌詞に表情をつけすぎて、過剰な感情をこめたものが多すぎるようにも思えるのだ。
 それは、歌謡曲に浪花節の歌い方が浸透して以来のことだと思うのだが、それにしても、昔と今の歌でどうしてこうも歌い方が違うようになってきたのだろうか。

 もっとも、すべて人間が作り出すものだから、時代とともに変化していくのは当然のことかもしれない。
 先日、NHKのEテレで、あのビゼーのオペラ『カルメン』が放送されていたが、それは19世紀スペインでの話が、またも現代劇に書き換えられていて、なんと倦怠(けんたい)期にある現代の夫婦が”舞台セラピー“を受けて、そこで”カルメン”が演じられていくという筋立てになっていた。
 もちろん私は、そんな現代オペラを、初めから通して見るつもりもなかったのだが、”エクサンプロバンス音楽祭”での上演であり、オーケストラ、歌手ともに熱演していただけに、録画したものを早送りで見ながら、思わずもったいないと思ってしまったのだ。
 しかし、これが期待外れでも心配することはない、私には、2010年メトロポリタンのエリーナ・ガランチャがカルメンを歌い演じた、あのブルーレイ録画があるのだから。(2011.2.27の項参照)
 というふうに書いてくると、新しいものを容易には受け入れない、いかにも懐古派じじいらしい頑固さだと、他人からは見られてしまうのだろうが。

 以上、話がまた横道にそれたが、結論は単純であり、古かろうが新しかろうが、すべてのものの良し悪しは、それぞれの世代の好みとして判断されることになる訳であり、何も、頭の固いじじいが知ったかぶりに口を出すことではないのだが、哀しいかな”物言わぬは腹ふくるる業(わざ)”なればとて、このブログでひとり”うそぶく”ことになってしまうのだ。

 そこで埋め合わせに、比較的に新しい歌の中から、私が”日本の歌”として選ぶとすれば、まず上にあげたあの石川さゆりの「天城越え」であり、歌詞・作曲・歌手と三拍子そろった名曲であり、その中でも不倫の愛を詠った情感あふれる言葉と、コマ落としのように流れていく地名の羅列言葉の響きが素晴らしい。
 日本の歌謡曲の中で一曲を選べと言われれば、私は、あの昭和歌謡の多くの名曲や、美空ひばりの名唱の数々に目をやりながらも、悩んだ末に、この「天城越え」を選んでしまうだろう。
 さらには、前にここでも何度も書いたことがあるが、”のど自慢THEワールド2015”でインドネシアの少女ファティマが歌って、思わず涙ぐんでしまうほどに感動させられた、”いきものがかり”の「ブルーバード」。(2015.10.5の項参照)
 そして、最近は秋元康の作詞の力が、多くのAKB派生グループの誕生で弱められてしまい、もともとのAKBに対する歌曲のプロデュース力が低下したようにも思えるのだが、私にとってのAKB全盛期の一曲は、繰り返しいうことになるけれど、やはり6年前の「UZA(ウザ)」をおいて他にない(AKBファンたちの評価は低いけれども)。
 当時のギャルと呼ばれた少女たちの生態を描いた作詞、斬新なリズム感に満ちた作曲、見事に集団の動きをとらえきったミュージックビデオの画面とを合わせて見れば、当時の反倫理的な社会の一面を鮮やかに切り取った、今の時代を映す歌になっていたと言えるだろう。

 後世になって気づく”本物の芸術”とは、いつも同時代においては、反社会的だと言われていたものだったのだ。

 と言いつつ、一方では『万葉集』『徒然草』などの日本の古典文学を読みふけり、ルネッサンス音楽やバッハを聞くのを楽しみとして、静かな自然の中にいることをのぞみ、時には山上を歩くことを無上の喜びとしている私は、確かに分裂症気味の”ヘンなおじさん”なのだろうが。

 今日も一日家にいて、青空と新緑の樹々を眺めていると、遠くでホオジロのさえずりが聞こえていた。
 そこに、何と今度は、カッコーの声だ。周りに響き渡るほどに何度か鳴いた後、もうその後は聞こえなくなったのだが。
 おそらくは、繁殖地に向かう渡りの途中で、この暖かさに誘われての一声だったのだろうか(北海道で鳴き声が聞こえるのは6月の初めのころ)。

 庭に降りると、ずいぶん前に、母が山の中から取ってきて植えつけていた”エビネラン”の数株が、今年もまた元気に花を咲かせている。 
 木漏れ日が当たるだけの場所で、肥料もやってはいないのだが・・・。
 ”花は 花は 花は咲く いつかあなたのために・・・。” (写真下)


 


吉凶相半ばす

2018-05-07 21:01:59 | Weblog



 5月7日

 昨日から雨になり、今日は断続的に強い雨が降っている。
 その前までの、連休の間はおおむね好天の日が続き、各地は行楽や帰省のひとたちで、さぞやにぎわったことだろう。
 しかし、その長い連休の間、私は一度、用事があって仕方なくクルマで出かけた以外、結局はずっと家にいた。
 もっとも出かけようにも出かけられず、庭仕事の一つさえできなかったのだ。
 屋根から落ちて受けた脚の傷は、意外に重く、痛みが抜けないまま、動くことさえままならなかったのだ。
 病院に行って、化膿止めと痛み止めの薬をもらっただけで、あとは傷口に薬を塗って、腫れていたいところを濡れタオルで冷やして、ただおとなしくしているしかなかったのだ。
 
 しかし、満潮の潮がいつまでも引かないわけはないし、降り続く雨もいつかは止むのだから。
 昨日あたりから、さしもの痛みも少しずつ引いてきたのだ。
 ほんの少しずつなのだが、そのきざはしは自分の身体だけによくわかるのだ。 
 もちろん、腫れや痛みもまだまだ残ってはいるのだが、暫時快方へと向かっていることは確かのようだ。

 ところが、”一難去ってまた一難”、今度は歯が痛くなってしまい、食事さえ満足にとれなくなってしまったのだ。
 連休の前から、歯がしみて食べられないほど痛くなり、歯医者に行かなければと思っていたのだが、何しろ連休にかかるのでその後にしか行けないし。
 その症状は、虫歯の痛みというよりは、触るだけで痛いから、口の中に食べ物を入れるには流し込むしかできないし、ずっとかすかな鈍い痛みも続いているし。
 今日は、土砂降りの雨で、ともかく明日の予約は入れたのだが。

 まあ、この一か月ほどの間、私にとっては良くない事件が三つも続いたことになる。
 それを、さらに悪いことが続く前触れと見るのか、この辺りで凶から吉へと変わる”運の潮目(しおめ)時”と見るべきが。 
 自分に都合よく考えてみれば、それらの一つ一つが次から次に起きて、北海道へ戻ることをその度ごとに先延ばしにさせてきたのだから、おそらくは今は帰る時期ではないとの、”天の声”のお導きだったのかもしれない。
 またそうではなくて、もう一つの天の声が、”今こそ、悔い改めよ、もうこの世でのおまえの時間は終わりに近づいている”と宣告する、前触れの出来事だったのかもしれない。

「人はしばしば、自分が不幸に見えることにある種の喜びを感じることによって、不幸である自分を慰める。」

(『ラ・ロシュフコー箴言(しんげん)集』二宮フサ訳 岩波文庫)

 しかし、こうして痛みが続くということは、人を卑屈にさせ、弱気にさせてしまうということになるのかもしれない。
 誰しもが分かっていたことなのだろうが、”苦痛の中で生き延びるよりは死を”と、舞台上の悲劇の役者が叫ぶのも、大げさなものではないように思えてきた。
 近年、医学の進歩は目覚ましく、今までなら助からないほどの病状の人が助かるようになり、そんな手術ができる”神の手”を持つ医師たちが、一躍脚光を浴びる時代になって、それは実に喜ばしいことだとは思うのだけれど、一方では、何本ものチューブにつながれ、”胃ろう”の施術を受けてまでも延命治療をされることが、果たして物言わぬ患者自身にとって、満足すべきことなのだろうか、それほどまでに最後の最後まで生に固執すべきものなのだろうかと考えてしまう。
 つまり、終末医療の問題が大きく取り上げられるようになってきた今日では、自力での回復が望めなければ、すべてのチューブを取り外して、本来生きもののすべてがそうであるように、”自然なる死”を望むという人たちが増えているとも言われているけれども。 
 もっとも、そのことについては、大前提となる”死の定義”があり、様々な医学倫理規定があり、一筋縄では解決できない難しい問題なのだろうが。

 こうして、ほんの些細なケガをしたことから、このところ、続いて”死の問題”について取り上げることが多くなったが、それは私に限ったことではない。
 古来、多くの哲学者や思想家、文学・芸術家たちが考えてきたことでもあったのだ。
 今までに何度も取り上げてきた、吉田兼好(1283~1352)の『徒然草』の一節は、何度読み返しても心に染み入るものだ。
 700年以上も前の、中世の時代に生きた人から、私たちは今なお学んでいるのだ。

「死期は序(ついで)を待たず。死は、前よりしも来たらず。かねて、後ろに迫れり。人皆死ある事を知りて、待つことしかも急ならざるに、覚えずして来たる。」(第百五十五段)

「若きにもよらず強きにもよらず、思いがけぬは死期なり。今日まで遁(のが)れ来にけるは、ありがたき不思議なり。暫(しば)しも世をのどかにはおもひなんや。」(第百三十七段)

「されば、人、死を憎まば、生を愛すべし、存命の喜び、日々に楽しまざらんや。・・・。人皆生を楽しまざるは、死を恐れざる故なり。死を恐れざるにはあらず、死の近きことを忘るるなり。・・・。」(第九十三段)

(以上『日本古典文学全集』27「方丈記、徒然草他」小学館)

 これはまさしく、あのハイデッガーが『時間と存在』の中で言っていることと同じであり、”死を意識して残りの時間を知ることで、本来の人間存在の時間の意義を知る”ことになるのではないのだろうかと。
 これらのことは、洋の東西を問わず、”生きるために死を考えてきた”人たちたちが、たどり着いた一つの方向なのかもしれない。
 前回あげた、モンテーニュ(1533~1592)の『エセー』の冒頭には、あのローマ時代の文人政治家キケロ(BC106~43)の言葉が掲げられている。

 ”哲学をきわめることは死の準備をすることだ”、その後で彼は様々な事象を取り上げては、以下のように結論づけているのだ。

 ”死は、死んだときも生きているときもおまえたちと係わりがない。なぜなら、生きているというのは、おまえたちがこの世にいるからであり、死んだというのは、もはやこの世にはいないからだ。”
 ”われわれの生命はどこで終わろうと、それはそこで全部なのだ。人生の有用さは、その長さにあるのではなく使い方にある。”
 ”万物がおまえたちと同じ働き方をするではないか。おまえたちと一緒に老い朽ちないものが何かあるか。千の人間、千の動物、千のその他の生きものがおまえたちが死ぬのと同じ瞬間に死ぬのだ。”

 彼が生きた中世の宗教改革の時代に、キリスト教徒であった彼が、ストア学派の自然欲求の抑圧とは逆の、つまり、反宗教的な自然主義的な考え方を持っていたことに驚かされるのだ。

 さらには、目まぐるしくイスラム王朝が代わっていた時代の、12世紀ペルシャに生きた哲学者詩人のオマール・ハイヤーが書いたと言われる四行詩からなるあの有名な『ルバイヤート』(平凡社ライブラリーの岡田恵美子訳の本が手元にないので、ネットサイトに載っていた小川亮作訳のもの)をあげておく。

 ”楽しく過ごせ、ただひと時の命を、
  一片(ひとひら)の土塊(つちくれ)も、ケイ・コバード(ペルシャ神話の王)やジャム(魔法の杯)だよ。
  世の現象も、人の命も、けっきょく
  つかの間の夢よ、錯覚よ、幻よ!”(109)

 ”酒を飲め、永遠の生命だ。
  また青春の唯一の効果(しるし)だ。
  花と酒、君も浮かれる春の季節に、
  たのしめ一瞬(ひととき)を、それこそ真の人生だ。”(133)

 今のイスラム国家の厳しい戒律からは考えられない、あまりにも刹那快楽主義的な詩だが、背後に浮かび上がる、無常観・・・。

 いつの時代でも、どの国においても、こうした共通の死生観があり、死を意識することで、自分たちを律し、それだからこそ逆に、つかの間の生の賛歌を謳歌したくもなったのだろう。

 “いのち短し 恋せよ乙女 
  あかき唇 あせぬ間に
  熱き血潮の 冷えぬ間に
  明日の月日は ないものを”

(「ゴンドラの唄」吉井勇作詞 中山晋平作曲 松井須磨子歌、あの大正時代録音のレコード針音が混じる松井須磨子の声で聴きたい。)

 私には、もうこうした若き日のたぎり立つような想いはないけれども、追憶の中では、幾つもの思い出が浮かび上がってくるのだ。
 
 新緑の季節、連休の間どこにも出かけられなかったが、いつもは早々と北海道に行ってしまい、のんびりと庭の新緑を楽しむことなどなかったのだが、今年は相次ぐケガや病気事故などで長居して、いつもは見られないサルスベリの赤い新緑の葉を見ることができたし、サクラやカキの若葉を背景にした。赤いモミジの新緑の葉も見ることができたのだ。(冒頭の写真)

 「人は決して今思っているほど不幸でもなく、かつて願っていたほど幸福でもない。」(前記『ラ・ロシュフコー箴言集』より)