ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

ワタシはネコである(185)

2011-03-31 21:01:53 | Weblog



3月31日

 いい天気の日に、日の当たるベランダで寝ていると、暑いくらいだ。そよ風が吹いてくる半日陰になった所に歩いて行って、そこで横になる。
 庭の梅の花の香りがして、鳥の声が聞こえている。少し離れた手すりに置いてあるエサ台には、ヒヨドリが来て、飼い主の食べ残しのリンゴの芯(しん)を、盛んにつついている。
 すべては、こともなく流れていく。一番大切なことは、こうして何も起きなくて、習慣的な毎日が続いていくことだ。

 ワタシは、特別おいしいものを食べたいわけではない。高価なキャットフードや、マグロの刺身が欲しいわけではない。今、毎日食べられているものを、十分に食べることができればそれでいい。
 ワタシは、ブランドものの首輪や衣装が欲しいわけではない。親からもらった、この一ちょうらの毛皮さえあれば十分だ。
 そして何よりも大切なのは、ワタシをなでてくれる飼い主のやさしい手だ。

 相変わらずテレビに映し出されている、大震災の被災者たちのニュースだが、ワタシも飼い主の傍で見ていたら、何とネコの姿があった。それは黒い色の、それも年寄りのネコだった。
 飼い主の説明によれば、そのネコは、津波で壊れて傾いた家から離れずに、たった一匹で暮らしていて、毎日、避難所にいる飼い主のおじいさんが、ネコにエサをやりに通っているということだった。避難所に連れて行けば、他の皆に迷惑がかかるし、しかしネコはほっとけないし・・・。
 その黒ネコは、おじいさんに喉をなでられてその目を細めていたが、両目からは目やにが垂れ、黒い毛並みも汚れていて、お世辞にも可愛いネコとは言えなかった。それでもおじいさんは、自分の家のネコを、おーよしよしと可愛がっていたのだ。
 もっとも、このワタシも、鏡に映る自分の顔を見れば、余り他のネコの器量の良し悪しなど言えないのだが。


 「 数日前に雪が降った後は、晴れた日が続いて、日ごとに気温が上がっていく。この九州でも、あちこちで桜の開花が告げられていて、この週末は、各地の桜の名所では、お花見の客でにぎわうことだろう。
 家の庭では、前にも写真に撮っていたあの梅の花が(3月20日の項)、ようやく満開になり、青空の下に映えて一際きれいに見える。その傍にある、さらに大きなヤマザクラの木には、まだ花どころか、先に開くはずの葉さえ出ていない。

 それでもミャオと散歩していると、所々で春の訪れを感じることができる。先日は、気の早いウグイスが一声鳴いて、そのひと声が辺りにこだましていた。シジュウカラが気ぜわしく鳴き、遠くからはキジの羽ばたきと鋭い鳴き声が聞こえてくる。
 道端には、まだオオイヌノフグリやハコベなどの小さな花しか咲いていないが、人のいない家の庭先には、薄紅色のアケボノアセビの花がいっぱいに咲いていた。(写真)
 わが家にも、普通の山野に自生する白い花のアセビはあるのだが、なぜか今年は余り花が咲いていない。
 私がよく行く九重の山々や、そして家からそのまま歩いて登れる山の中にも、アセビの木が数多くある。2mほどの高さの木の株には、その花の形にふさわしく、鈴なりになって咲いている。
 集団という姿の、素晴らしさ。

 この度の、東北地方太平洋岸の大地震大津波災害による、多数の死者と、多くの避難者たち。そして、その集団を助け支える周りの人々の集団・・・。
 それぞれが、アセビの花のように一つ一つの形としてあり、そして集団となった時に見える感動的な美しさ。
 昔から災害の多い、狭い島国の日本で、互いに助け合わなければ生きていけない、その相互扶助(ふじょ)の思いこそが、この国の度重なる困難を乗り越えてきた源なのかもしれない。
 しかし、私は今、その花の一つにはなれないし、ただ涙を浮かべて見守ることしかできないけれども・・・。

 そして、こうした災害時の助け合いの時に、ふと気づくのは、私自身の余りにも独りよがりな生き方である。前にも書いたように、いつも”群衆から遠く離れて“の思いを持って、いつもひとりで行動し、ひとりでいることは、そうした集団の互助思想の美徳からは、遠く離れた対極の所にあるからだ。
 もちろん、私はすべてをひとりでやっているわけではないし、常日頃から周りの多くの人々の助けを借りて、今あるわけなのだが、それでもやむを得ない事情を除けば、私の気持ちとしては、多くの人の中にいたくはないのだ。
 それは、私の個人的な生い立ちから来るものかもしれないが、その後の人生の分岐点でさえ、私はいつも自ら好んで、ひとりであることのカードを引いてきたような気がする。

 考えるに、性格には生来的なものがあるにせよ、後天的に形づくられた様々な性向は、結局は自分の判断が積み重なり、年輪のように形成されていくものなのだ。
 自分の人生の中で起きた様々な悪いことは、それは親のせいでも周りの誰かのせいでもない、あくまでも自分の判断と行動の結果なのだ。

 今までも度々ふれてきたように、私は時に、あの『方丈記』の鴨長明(かものちょうめい)や、『徒然草』の兼好法師(けんこうほうし)などの隠者生活を思い、一休宗純(いっきゅうそうじゅん)禅師の自分に忠実な人生の意味を思い、良寛和尚(りょうかんおしょう)の通俗を突き抜けたようなひとりの暮らしを思い、或いは哲学者のショーペンハウアーやニーチェの強く主張する個を思い、作曲者ブラームスの孤独の哀愁と、ブルックナーの神にささげるひとりの生き方を思う。

 そこで、その中の一人である良寛の言葉が、ふと頭に浮かんだのだ。
 文政十一年(1828年)に、今の新潟県三条市付近で大地震があり、全壊や消失家屋が一万数千戸、さらに死者千六百人余もの被害を出し、全滅となった村もあったという。
 その時、良寛は三条まで出かけて行って、その惨状を目のあたりにして、数編の漢詩や歌を残しているが、その中から。

 『 ながらへむことや思いしかくばかり 変わりはてぬる世とは知らずて
    かにかくに止まらむものは涙なり 人の見る目も忍ぶばかりに 』

 さらに被害を受けた知人にあてた、見舞い状の末文の一節には、以下のように書いてある。

 『 しかし災難に逢(あう)時節には災難に逢がよく候(そうろう) 死ぬ時節には死ぬがよく候 是はこれ災難をのがるる妙法(みょうほう)にて候 』

 これはよく知られた言葉だから、誤解されることはないと思うけれども、さらに加えて言えば、良寛は、何も被災者に運命だからと冷たく言ったわけではない、災難にあわない良い方法はないかと尋ねられて、上のように答えたのだとも言われている。
 この言葉は、死に対する心構えとして、その達観(たっかん)した思いとして、私も常日頃心に留めている言葉ではあるが、そのことを理解したうえで考えてみれば、やはりこれは、ひとりで生きる者だけの、自分を戒める言葉だと思うのだ。

 この大災害で、大津波により、目の前で家族を失っていった人々にとっては、良寛が言うように、これが災難にあう時だったのだとか、死ぬ時だったのだとか、とても諦めきれるものではない。
 つまりそれは、生活を共にする家族や地域という絆で結ばれた人々と、そうした集団からは離れて独居して生活する人との違いなのだ。さらに言えば、責任ある広いつながりがある日常を持つ人と、狭い自分だけの日常しかない人との差でもある。

 私にとって、良寛が残した漢詩や歌、文の数々は、今も変わらず、人生の先達(せんだつ)の一人としての大きな意味を持っている。
 しかし、このような大災害の前では、そうした独力で生きる個人の思いだけでは、とうてい処理できない事態を、人々は集団の力で、その助け合いの集合体としての力で、何とか解決して、皆は生きのびてきたのだ。
 何という人々の力だろう、何という集合体の美しさだろう。
 びっしりと連なって咲く、あのアセビの花たちのように・・・。
 
 そんな時に、誰の目にもとまらぬ小さな名もなき花にすぎない私は、それでも自分は無力なのだと落ち込みはしない。
 なぜならそれは、ミャオの生きている姿から私が学んだように、余計なことは考えずに、今ひとりでいる自分がただひたすらに生きていくこと、それだけが最も大切なことなのだ、と自らに言い聞かせているから・・・。 」

参考文献: 『良寛』(柳田聖山 中公クラシックス)、『良寛』(山崎昇 清水書院)、『風の良寛』(中野孝次 文春文庫)
   


ワタシはネコである(184)

2011-03-25 20:16:35 | Weblog



3月25日

 午前中、時折、雪が降っていた。春とはいえ、まだまだ寒い日もあるのだ。それでも昼間は青空が広がり、幾らかは暖かくなったから、飼い主がストーヴを消してしまう。そこで、ベランダにしばらくいたが、風が強い。
 部屋に戻ると、飼い主がパソコンの前に座り、カチャカチャと指を動かしている。ワタシは、ニャーと鳴いて、あぐらをかいている飼い主の太ももの上に乗る。(写真)
 少し座りにくいが、人肌は温かくて、やはりいい気持ちだ。

 といって、ワタシがいつもそうしているというのではない。自分の方から、飼い主の膝に上がったというのは、めったにないことなのだ。
 それは、今まで何度も言ってきたことだが、ワタシの素性が、ノラネコあがりだということからきているのかもしれない。人間に抱かれらる事は余り好きではないし、もし膝の上に乗せられても、すぐに下りていたくらいなのだ。
 それで、最近のことなのだが、飼い主が、暖かいベランダの揺り椅子に座っていて、その時にワタシを抱えあげて自分の膝の上に乗せることがあった。その時、ワタシは上下からの暖かさに、すっかり良い気持ちになって、そのまま少しの間、うつらうつらしたくらいである。
 そういうことが何度かあったから、今日はつい、飼い主の膝の上に自分から乗っていってしまったのだ。そんなワタシを見て、飼い主は、あの鬼瓦顔を歪めて、笑い顔を浮かべ、満足げにワタシの体をなでていた。

 まあ、飼い主が何と思ったかは知らないが、ワタシはただ本能的に、暖かい所が、ぬくもりが欲しかっただけのことだ。
 そういえば、飼い主が見ていた地震津波のニュース映像でも、二匹の犬が寄り添って座っていたり、大勢の被災者たちが、肩を寄せ合って暮らしていたりしていた。

 生き物はすべて、たとえ長い時間を一人で生きていかなければならないとしても、ある時は、他の誰かと一緒になって暮らす必要があり、また一緒にいたいと思う時もあるものなのだ。
 生まれた時は、母親とともにあり、そして両親や兄弟などの家族とともにあり、さらに友人とともにあり、恋人とともにあり、やがては自分で家族を持つようになり、またそうして続いていくのだ・・・。

 ワタシも飼い主も、そうはならなかったけれども、それでも二人、いや二匹というべきか、こうして肩寄せ合って暮らしているわけである。


 「 東北地方太平洋岸を襲った大地震大津波から、もう2週間がたつのに、いまだに続く遺体の発見、被災者の避難生活、そしていつまでも収束することのない不気味な原発事故・・・。
 直接の被害のない私でさえ、相変わらず何か落ち着かない日々を送っている。恐らくは、目の前ではないにしても、ほぼリアルタイムに、映像によって、惨劇のさまを目の当たりにしたからだろう。
 多数の人の命を、瞬時にして奪い去っていく、すさまじいばかり自然界の脅威・・・、それを、ただ茫然と見ているしかないのだ。それは、被害を受けなかった他のすべての日本人の心にも、大きな心の傷跡を残したはずだ。

 情けないことに、今私にできることは、幾らかの募金をして、家庭内の節電に気を配り、なるべくパソコンのインターネットにも接続せず、食料の買い出し以外にはクルマにも乗らないし、ストーヴも昼間は消しておく・・・、そんなことぐらいだろうが。
 
 新聞の読書欄で、”こんな時に本を開くなら”という囲み記事で、何人かの書評者のアンケートが紹介されていた。
 しかし私には、そういった被害を受けなかった彼ら知識人たちの、他人事のような、この災害を自らの教訓にするような記事そのものが疑問に思えたのだ。そんな余裕があるのなら、もっと他に、彼らだけにできることがあるはずだと。
 たとえば、彼ら出版文化に関わるものとして、いつまで続くとも分からぬ避難の生活を強いられている人々に、さらに子供たちに、本を送ってやるべきだなどと思ってしまうのだ。

 そんなことを考えたのは、今回の集団避難している人々の生活が、ほんの少しだけだが、私たちが山登りの時に体験する、長期縦走の山旅の日々に似た所があるように思えたからだ。
 もちろん、否応(いやおう)もなく長期間の不便な集団生活をする人々と、自分の趣味で一定期間だけの好きな山歩きを続ける私とでは、比較にならないほどの大きな違いがあるのだが、それを別にして言えば、幾つかの類似体験がある。
 
 体育館などで、すき間なく並んで、毛布にくるまって寝ている被災者たち。狭い山小屋で、一畳に2人ものすしづめ状態で寝ている登山者たち。
 物資が届かず、簡単な食事しか取れない被災者たち。不便な山の上だけに、簡単な食事でがまんするしかない登山者たち。
 水に不自由するのは、被災者も登山者も同じである。
 そして、長い縦走の山旅を終えて、町に下り、そこで数日ぶりに入る風呂のありがたさ。今回の被災者たちの中には、一週間以上風呂に入っていない人もいたそうだから、そのつらさは推して知るべしだ。

 そして、被災者に送る本のことについて言えば、山での天候待ちで、することもなく長い間山小屋にいた時、そこに置いてあった本が、どれだけ私の無聊(ぶりょう)の慰めになってくれたことか・・・たとえば、天気に恵まれなかったあの三年前の、白馬岳から唐松岳縦走の時がそうだったように。(’08.7・29,31の項参照)

 それにしても、大きな事件が起きれば、それだけ人々の大きな関心事となり、様々な視点からの、意見や批判が百出(ひゃくしゅつ)することになる。
 断わっておきたいのは、私は別に誰かに訴えるつもりもなく、ただ、自分の日々の思いをただ、このブログで書き連ねているだけのことだが、それでも思いは尽きない。

 最後に、前にもあげたことのあるアンドレ・コント=スポンヴィルの『ささやかながら、徳について』(紀伊国屋書店)からの、”第3章 思慮深さ”についての一節を。」

 『 思慮深さとは、持続の徳であり、見通しのきかない未来にかかわる徳であり、好機をとらえる徳、つまりは忍耐と予見の徳なのだ。
 ・・・。
 今日私たちは途方もない力をもち、それにともなう責任を負っている。その責任は、私たちや子供たちの生存ばかりでなく、(技術の進歩とその恐るべき射程という事実からして)、数世代にもわたる人類全体の生存を巻き添えにするほどのものであり、かつてこれほど思い責任が課せられた事はなかった。
 たとえばエコロジーは思慮深さにかかわるものであり、それゆえ道徳と無縁ではない。・・・。思慮深さこそ、私たちの徳のなかで最も現代的な徳であり、というよりもむしろ現代が最も必要としている徳なのだ。』

 


ワタシはネコである(183)

2011-03-20 17:42:25 | Weblog



3月20日

 確かに日ごとに暖かくなってきている。午前中には飼い主との散歩に出かけて、その途中のどこでも、芽吹いて伸びてきた若草を食べることができるようになった。
 昼間、飼い主がベランダの揺り椅子に腰をおろして、雑誌なんぞを広げて読んでいたりする。ワタシは、その足元で横になって、一緒に春の日差しを浴びている。
 すると、パタンと音がする。振り仰いでみると、飼い主が、手元の雑誌を落として、うつらうつらし始めたらしい。髪にも白いものが目立ち始めてきた、その鬼瓦顔を見て、年取ってきたなあと思う。そういう自分も年寄りネコだから、余り人のことは言えないが。

 夕方のサカナの時間の後、飼い主が、また庭の枯れ枝や枯れ葉などを掃き集めて、焚火(たきび)をし始めた。
 ワタシは、そんな暖かい焚火が好きだから、燃えている日の傍で横になり、行ったり来たりしている飼い主の姿を見ていた。
 まったく、人間はどうして、あんなに気ぜわしく動き回るのだろう。いったい、地上に降り積もった枯れ葉などを燃やして、何になるというのだろうか。


 「 東北太平洋岸大地震大津波が起きてから、一週間以上にもなるが、やるべき家の仕事や、読むべき本なども読まず、ただニュース映像を茫然として見ては、漫然(まんぜん)と時を過ごしてきたような気がする。
 自分では、わずかばかりの募金に応じる以外、どうすることもできないのだが、様々な家族の、それぞれの劇的なドラマの成り行きを知らされるたびに、繰り返し胸が熱くなる。

 避難所で子供と共に暮らす妻が、福島原発の現地で放射能汚染にさらされて今も働いている夫の、その身を案じながら、涙目ながらもけなげにインタヴューに答えていた。

 妻と、同居する息子夫婦と孫の4人を失いながら、それでも毎日、地区の被災者の捜索にあたる消防団長。彼は地震の後、町の安全を守る水門を閉めに行くことを優先し、家族のいる家に向かわなかった自分の判断を後悔し、インタヴューの中で涙していた。

 避難所にいる78歳の老女が、私たちみたいな年寄りが助かって、若い人たちが死んで、申し訳ない気持ちで、と弱々しい声で話していた。

 水が引いたガレキばかりのの市街地の一角に、動けなくてうずくまる白い犬がいた。その犬の傍に、元気なもう一匹のまだら色の犬がいて、人の姿が見えると寄ってきて、その白い犬の所に導き、指し示すのだ。

 ただただ、みんなを助けてあげたいという思いで、不眠不休の過酷な条件のもと、それでも働き続ける、数多くの人々がいる。本当のヒーロー、ヒロインたち・・・。

 その一方で、まずはどう援助の手を差し伸べるかが緊急の問題の時なのに、いずれも大した被害を受けなかった、都会の近代的なビルの中で、危機管理がどうだのと批判するテレビ解説者がいて、さらには、被災者たちの苦しみ悲しみを考えずに、この震災を人類への天罰だと切り捨てたどこかのエライ知事がいた。
 報道ジャーナリズムとは、批判することだけが仕事ではない。自らが、その先頭に立って、人々を助けるべく励まし鼓舞(こぶ)することも大切な使命だ。政治家が、評論家であってはならない。自らが、その先頭に立って、まず援助活動に乗り出すべきだ。

 その昔から、同じように大きな自然災害に襲われ続けてきた日本。
 12世紀の鎌倉時代に書かれたとされる、鴨長明(かものちょうめい)の『方丈記(ほうじょうき)』には、当時の、大火、辻風、飢渇(きかつ)、大地震の様子が書かれている。以下は、第六段の『大地震(おおない)』より。

 『・・・おびただしく大地震ふ(振)ること侍(はべ)りき。そのさま世の常ならず、山は崩れて河を埋み、海は傾きて陸地をひたせり。土裂けて水湧き出で、巌(いわお)割れて谷にまろび入る。なぎさ漕(こ)ぐ船は波にただよい、道行く馬は足の立ち処を惑わす。
 都のほとりには、在々所々堂舎塔廟(どうしゃとうみょう)ひとつとして全からず、或いは崩れ或いは倒れぬ。塵灰(ちりはい)立ち上りて、盛りなる煙のごとし。地の動き、家の破るる音、雷(いかづち)に異ならず。
 ・・・恐れの中に、恐るべかりけるはただ地震(ない)なりけりとこそ覚え侍りしか。』

 (この『方丈記』から引用したと思われる記述は、あの『平家物語』巻第十二の『大地震』にも見られる。) 

 ところで、これほどのおびただしい数の被災地にも、ほんの少しずつだが明るいニュースも伝えられるようになってきた。
 しかし現地の人々は、これからも悲しみと苦難の重荷を背負い続けての、まだまだ何年もの間の、忍耐の日々が続くのだろうが。
 私たちにできること・・・。

 前回写真に撮った、庭のたった一輪だけの梅の花が、二つ三つと次々に咲き始めている。まるで、明るい仲間たちの数を増やすかのように・・・。(写真)」


参考文献: 『方丈記』 日本古典文学全集 小学館、『平家物語』 日本古典文学大系 岩波書店) 


ワタシはネコである(182)

2011-03-15 17:54:23 | Weblog



3月15日

 暖かい日が続いて、ワタシは毎日、飼い主と散歩に出かけている。その他の時間は、座布団の上やベランダで横になって、ウトウトと寝て過ごす。
 夕方になって、待望のサカナをもらうと、この年寄りネコのワタシにも、とたんに元気がみなぎってくる。ひとしきり、家の内外を走り回り、飼い主が寝る時間には、おとなしくコタツにもぐり込む。そうして一日が終わる。
 日々こともなく、時は過ぎていくのだ。

 「 大地震、大津波に原発事故・・・私は、ただただおろおろと、言葉もなく、衝撃的な映像を見続け、時には同じように涙ぐみ、人々のことを思った。  

 震災からは遠く離れて、テレビを見ているだけの、そんな私にできることは・・・被害を受けなかった私たちすべてが、それぞれに、せめて彼らの日常の負担を、少しずつ分担援助するぐらいのことだろうが。
 そして心の負担の方は・・・、数十万人もの避難している人々には、それまでに、それぞれの家族との毎日の暮らしがあったはずなのに、それを一瞬のうちに失ってしまったのだ・・・その喪失感たるや。

 7年前、私は一緒に暮らしていた母を、突然の急病で失くしてしまった。そして、その日のうちに、私は母の棺の前に座っていた。
 涙が止まらなかった。
 葬式がすんで、ひとりになった私は、何かにつけて涙もろくなってしまった。後悔の思いと自責の念で、ただただ毎日が、空しく過ぎていくだけだった。

 私は二日とあけずに、家の近くの、道もない山々や谷川を歩き回った。そして家に戻っては、バッハの曲を聴いていた。傍にいるのはミャオだけだった。

 『 われら涙してひれ伏し、墓にあるなんじを呼ぶ。
    憩(いこ)え、安らかに、安らかに憩え。・・・』

 (バッハ『マタイ受難曲』第78曲終曲コラール。音楽之友社『名曲解説全集』より)

 一カ月、二カ月、三カ月・・・そして百日目の法要をすませて、私は友達のいる北海道に戻った、そこで北の山々に登りながら、少しずつ元気になっていった。

 あれから、7年もの歳月が過ぎたのに、今でも、私の心には、まだその時のつらい思いの棘(とげ)が、その傷が残っている。もう痛むことは、少なくなってきたのだが、その傷跡は消えることはない・・・。

 人間は、ひとりで生まれてきた以上、本来はすべてのことに、ひとりで耐えていくしかないのだろう。
 その時に、家族がいれば、確かにそれは大きな心の支えになるだろう。しかし、誰でもいつかは、そんな大切な家族を失う時が来る・・・。
 それほどに、つらい出来事が待ち構えている人生だとしても、この世に生まれてきた、喜びに勝るものはないのだ。

 今朝、窓の外を見ると、庭の梅の木の枝先には、いっぱいの蕾(つぼみ)がついていて、そのうちのたった一つだけが開いて、一輪の梅の花が咲いていた。(写真)
 生きている喜びに満ち満ちて・・・。」


ワタソはネコである(181)

2011-03-10 20:54:03 | Weblog



3月10日

 このところ天気はいいのだけれど、毎日風が吹き荒れて、まるで冬のように寒いのだ。飼い主と散歩に出ても、余りの強い風に、ワタシがおびえてしまい、早々と途中から戻ることになる。
 そうなると、まさに「帰心矢の如し(きしんやのごとし)」のたとえのように、ワタシの脚は軽やかになり、一目散に家を目指して、ギャロップの足並みになる。

 そして家に戻れば、日当たりの良いベランダよりは、やはり、寝慣れた部屋のザブトンの上の方がいい。さらに、ニャーと鳴いて、飼い主にストーヴの火をつけるように催促する。
 よっこらしょと横になって、エサの時間まで、そこで寝ていたりする。何しろここは、静かで、暖かくて、心から安心して眠ることができるからだ。

 そこで飼い主が、そんなワタシをなでながら、話してくれたのだ。

 「 これはオマエたちネコだけではなくて、動物全体に言えることなのだろうが、子供と年寄りは、寝ている時間が多い。そのことは、例えて言えば、それぞれに夜の闇から夜明けに向かうひと時と、夕方の日没から夜の闇に向かうひと時に良く似ているのだ。
 
 自然界を創られた神様は、何と行きとどいた配慮をされたことだろう。
 つまり、生まれたばかりの子供を、急に白日(はくじつ)の太陽の下で、すぐに大人と同じように動かすわけにはいかないし、またこの世のの何たるかの経験もなく、適応するだけの力もない子供たちを、いきなり過酷な環境の中に、ひとり投げ出すわけにはいかないからだ。
 そのために子供たちは、暗闇から外の明かりに目が慣れるまでは、ゆっくりと時間をかけて、親のもとでひとり前の大人になって行くための時間が必要なのだ。

 逆に年寄りの場合も同じようなことだ。今までの明るい世界から少しずつ遠ざかり、死が意味する暗闇に、次第に目を慣らしていかなければならない。
 最もここで言う、暗闇とは、決して漆黒(しっこく)の何も見えない、空虚で絶望的な空間としての、死を意味するものではない。
 
 月の光さえない夜の暗闇の中でも、目が慣れてくれば、天空に無数の星々が輝いているのを見ることができるようになる。いやむしろ、太陽や月の光があるからこそ、今まで星々が見えなかったともいえるのだが。

 そうなのだ、生のただ中にいることが、余りにも輝かしいものだから、死の闇が、底なしの暗さに思えるだけのこと。実は、死の後にも、見分けることのできる明るさが十分にあるのだ。
 つまり形としてとらえることのできない、死の闇の中でも、意識としてとらえることのできるものがあること。それこそが、死後の世界なのかもしれない。

 ミャオは、年寄りネコだし、私もまた次第に年寄りになっていくだろうが、何も死に臆(おく)することはない。
 今、長く眠ることで、次第に暗闇に目を慣らしておけば、来るべきその時には、彼岸(ひがん)の彼方にある星々を見ることができるようになるだろう。」

 もうそんな、どうでもいいようなゴタクを並べるよりは、もう黙ってワタシを寝かしておいてくれませんかね。今は、ただ眠たいから、寝るだけのことですから・・・。


 「 三日前、強い風の中にミゾレが混じっていた。翌日、朝の曇り空から、次第に青空が広がってきた。まだ雲の流れが早かったが、天気は回復していくようだった。
 ネットのライブカメラで九重の山を見ると、上の方には雲がかかっているものの、真冬の時のように白くなっていた。
 これは行かなければならない。前回の登山(3月5日の項)が、軽いハイキング登山だったから、心のどこかに、物足りなさがあったのだ。

 登山口の牧ノ戸峠に着いたのは、もう11時近くにもなっていた。クルマで通ってきた途中の道の両脇に、まだ雪は残っていたものの、車道の雪はすっかり溶けていた。
 遅くなったけれども、山々にかかる雲が取れて行くのを見るには、ちょうど良い時間だった。さらにありがたいことには、平日ということもあって、駐車場にはわずか10台足らずの車しかなく、登山者も少なかった。

 いつもの同じルートを、同じようにたどって行く。飽きることなく、毎年毎年、私は、繰り返し同じ山に登っている。
 それは、九州で言えばこの九重山だし、北海道で言えば大雪山である。何度行ったか、数えたことはないのだが、いずれも春夏秋冬を通じて、それぞれ様々なコースをたどり、数十回は行っていることだろう。
 ということは、それらの山々が私の最も好きな山なのかといえば、そういうわけでもない。その昔、あの上越の谷川岳を、『近くて良い山なり』といった登山家がいたけれども(それは岩壁登攀の対象としてだが)、私の九重や大雪についての思いも、それに良く似ている。
 いずれも、手軽に登れて、穏やかな山容で、それでいてそれなりの山岳景観も併せ持っているからだ。ベストではないけれども、私にとってはなくてはならぬ山々なのだ。

 ちなみに、私の好きな山々は言うまでもないが、日高山脈と北アルプス(飛騨山脈)である。

 さてそれはともかく、今、雪の登山道を歩く私の目の前には、青空の下に、両側に樹氷に縁取られた白い木々が続き、雲の取れてきた雪の九重の山々が見えている。もうそれだけで、十分に幸せな気分になれる。
 遠くに人の声がかすかに聞こえるが、私の前後には誰もいない。周りの山々と私があるだけだ。
 5cmから10cmほど積もった雪の上の踏み跡は、扇ヶ鼻分岐で、さらにメインルートの九重山や中岳の方へと続いている。しかし私は、左の雪面に足を踏み出した。雪の時期に何度もたどっている、南尾根からの星生山(ほっしょうざん、1762m)を目指すコースだ。
 
 頂上へと向かう斜面には、所々20cmほどの雪が積もり、ミヤマキリシマやドウダンツツジ、ノリウツギなどの灌木帯には、見事に樹氷がついている。まるで山で見る白いサンゴ礁のようだ。(写真)
 
 稜線に出ると、風が強く吹きつけてきて、鼻も耳も痛いほどだ。この風で、もしかしてと期待していた、風紋やシュカブラは、やはり十分には発達していなかったが、それでも、九重主峰群を背景にしての雪景色は、いつもながらに素晴らしかった。
 足跡一つついていない尾根を登って、頂上に着く。三俣山(1745m)、平治岳(1643m)、大船山(1787m)から、中岳(1791m)、天狗ヶ城(1760m)、稲星山(1774m)、久住山(1787m)と続く久住核心部の山々の眺めだ。
 遠く、阿蘇山や、祖母山の山なみがかすんで見えているが、とても前回の時のように(2月2日の項)、霧島の新燃岳の煙が見えるほどには空気は澄んではいなかった。

 吹きすさぶ頂上にいるよりはと、そのまま星生崎へと岩塊の稜線をたどって行く。アイゼンは持ってこなかったから、岩場では注意しなければいけない。その上、時々吹きだまりもある。
 星生崎からは、眼前に久住山がそびえ立って見えるが、出発したのが遅く時間も余りないから、すぐに下ることにする。
 道は久住分れへ向かうものと、眼下の星生崎下に降りて行くものがあるが、遠回りする必要もないから、直接下ることにした。
 ところが、この冬の大雪で、斜面には残雪がたっぷりと残っていた。アイゼンもなく、急な雪の斜面を、慎重にキックステップで足場を刻み下りて行く。やっと、メインルートの道に出てほっと一息つく。
 岩塊帯を下り、西千里浜に出る所から振り返ると、そこには、いつもながらの久住山のさっそうとした姿があった(写真下)。中岳よりはわずかに低いとはいえ、やはりこの九重山の盟主たるに十分な姿だった。 

 そのころから、空にはすっかり雲が増えて、日もかげってきた。しかし、後は戻るだけだ。ただ、やはり春先の九重だ。道はもう雪が溶けて、所々ぬかるみになっていた。ひたすらに歩き続けて、登山口に戻った。
 往復4時間ほどの雪山歩きで、少し物足りない感じだが、四日前の同じ4時間ほどの山歩きと併せて、合わせ技の一本だと自分に言い聞かせた。

 同じ山に、繰り返し登ること。何のために。気晴らし、手軽な娯楽、スポーツ、少しキツイ健康運動、自然観照、写真・・・。 
 いずれも、少しはあるかもしれないが、それだけではない。最も大きな要因はと言えば、さらにもったいぶってカッコつけて言えば、それはあくことなき美への追及心からなのだ。それも、全く芸術的でも、学究的でもなく、あくまでも俗っぽい個人としての、低レベルな美の価値観に基づいたものでしかないのだが。

 思えば私は、山の景観を写真に撮っては、ひとり見てニヒニヒと笑う、まさにオタク的な偏執狂(へんしつきょう)なのかもしれない。最も、それで誰かに迷惑をかけているわけではなく、開き直って言えば、この私の好み嗜好(しこう)を、ただただ追い求めているだけのことだが。

 もちろんできることなら、さっそうとした姿で、美の遍歴者と称されるほどになりたかった。数多(あまた)の美女群の中を泳ぎまわり、夢のような色恋の遍歴を続け、(プッと、そこでミャオ笑うんじゃない)、あるいは文学、絵画、音楽、映画などの芸術作品の美の中にさまよい、さらには現代ビジネスのあふれんばかりの金銭哲学の美を極め、わが世の春を謳歌(おうか)したかった。
 しかし、あの中国の老子(ろうし)も言っているように、『富貴(ふうき)にして驕(おご)れば、自らその咎(とが)を遺(のこ)す』 ものなのだ。
 だから、今の自分の情けない境遇を、むしろ喜ぶべきなのだ。
 生まれながらに、姿かたちが劣り、才能もなく、努力もせず、優れた地位や身分もなく、大した財産もなく、ただいたずらに今日まで齢(よわい)を重ねてきて、今、ここにミャオとともにいること。

 はたして、孔子(こうし)の言葉もあるように、『四十にして惑わず、五十にして天命を知る。六十にして耳に順(したが)う。七十にして己の欲する所にしたがって矩(のり)を超えず』 と、自らを戒めてきただろうか、またこれからそうあるべく実行していけるだろうか。

 それともミャオのように、心のおもむくままに、時に身をゆだねて、大きなお釈迦(しゃか)様のふところの内にあるように・・・。」
 
 


ワタシはネコである(180)

2011-03-05 21:05:45 | Weblog



3月5日

 このところ、また冬が戻って来たのかと思うほどの、寒い日が続いていたが、今日はようやくすっきりと晴れてくれて、ストーヴの世話にならずに、こうして日当たりのよいベランダで寝ている。
 いいなあ、春の日差しがワタシの体いっぱいに降りそそぐ。体中の毛を広げると、その根元にまで日の光が感じられる。気持ちが良いうえに、毛や皮膚の日光消毒にもなるのだ。

 町の中に住む、部屋飼いのネコちゃんたちは、定期的にネコ・シャンプーなるもので体を洗われ、きれいにされているそうだが、ワタシにはとてもできない相談だ。
 ワタシは、親からもらったこのいっちょうらの毛皮を、いつもしっかりとなめ回し、あるいは歯で噛んですいたりしているだけだ。そういえば、ワタシのシャムネコの母さんが、まだ子供だったワタシの体をなめながら言っていたものだ。

 『これは、ワタシがオマエにあげられるたった一つのものだけれど、世界で他に同じものは決してない、オマエだけの毛皮なんだよ。ちゃんと、自分で手入れさえすれば、一生ものだからね。』

 ああ、母さん。子供の頃別れて、もうそのまま会っていないけれど、今こうして年寄りネコになって、母さんがネコ語で話してくれたことや、教えてくれたことなど、いろんなことを思い出します。
 
 飼い主から聞いた話によれば、あの有名なフランスの作家で思想家でもあるボーヴォワール女史は、女性平等論の立場から、『人は、女に生まれない。女になるのだ。』と言ったそうだが、ネコのワタシは、そこまで深く考えてはいない。
 つまり、ワタシたちネコは、オスネコあるいはメスネコとして生まれ、その性差のあるネコの形のままで、生きていけばよいと思っている。余分な人間たちの習慣などを見習いたいとは思わないし、まして押しつけられるのはごめんだ。
 飼い主の生活に合わせるのは、飼いネコとして当然だけれども、動物としてのネコの自覚を持って生きていきたいものだ。

 純粋なシャム猫であった母さんネコは、こんな山の中に捨てられても、人間たちにエサを乞うために鳴いても、都会のシャム猫である誇りは捨てなかったのだ。今でも、あのりんとした立ち姿を思い出す。
 ワタシには、母さんのシャムの色合いが少し残るだけで、他は全くの胴長短足の日本猫だけれども、母さんの持っていたネコの誇りだけは、忘れていないつもりだ。
 
 (ミャオの生い立ちについては、このブログの始まりの時に記載。’07.12.28~30の項参照。)


 「今日は、朝ー7度と冷え込んだが、日中は13度にまでも上がって、暖かくなり、山もくっきりと見えて、一日中快晴の素晴らしい日だった。
 そんな絶好の登山日和だったのに、私は山に行かなかった。

 昨日は、朝3cmほどの積雪があり、さらに雪もちらついていたが、天気予報によると、午後にかけて晴れてくるとのことだった。これが、九州で雪景色の山を見る、この冬最後のチャンスかもしれない。
 翌日、土曜日は、高気圧が張り出し、九州全土に晴れマークがついている。今日か明日のどちらに行くべきか。

 明日の土曜日に天気が良いとなれば、九重の山々は登山者で賑わうのは確実だ。そうすれば、前回の山(2月2日の項)でのように、またもそんな人々たちの大声の話し声や笑い声を聞くことになってしまう。
 それに、このところずっと天気が悪かったから、洗濯物もたまっているし、ミャオとも、晴れた穏やかな日に、散歩をしたい。さらに少し間があいた、このブログ記事も書かなければならない。
 もっともこのブログは、あくまでも自分の日々の備忘録(びぼうろく)として、勝手気ままに書き連ねているだけの駄文(だぶん)にすぎないのだが、毎回更新するたびに200人近い人が、退屈しのぎにしろ読んでくれていると思えば、そういい加減なことも書けない。
 それは私にとって、少し重荷でもあり、自分への叱咤激励(しったげきれい)にもなるからだ。

 と自分でいろいろと理由をつけて考え、昼まで待ったが、確かに少しずつ晴れてきた。よし、今日行こうと決めて、家を出た。
 湯布院の街を抜け、やまなみハイウェイをそのままたどり、去年登った倉木山(’10.3.14の項)や由布岳正面登山口を過ぎ、猪ノ瀬戸の分岐から塚原方面に向かい、峠の所で由布岳西登山口に着く。ここから由布岳へは去年登ったばかりだ。(’10.2.21の項)
 この車道を隔てて、反対側にも山道がある。余り登る人もいない鶴見岳東登山口である。
 鶴見岳(1375m)は、湯の町別府の湯けむりの背後にそびえる山であり、別府の海岸から一気に1400m近くもせり上がる山容は、そこから北に鞍ヶ戸(1344m)、内山(1275m)、伽藍岳(がらんだけ、1045m)と続く山なみとともになかなか魅力的である。
 とは言っても、鶴見岳には頂上下まで上がれるロープウェイがあり、さらにテレビ、電波などの塔が林立していて、その山岳景観は大きく損なわれ、それほど登山価値が高いとは言えない。
 それでも、海岸の0mからの一気登山が催されるほどで、登山道も三本ほどつけられている。

 今回は、その鶴見岳に行くだけの時間的余裕はない。それで、その鶴見岳の側火山(寄生火山)の一つ、南平台(1216m)に行くことにした。登山口からの標高差は、わずか400mほどだ。
 この南平台は、地図上にはその名前も道も記載されていなくて、ずいぶん前に鶴見岳に登った時に、現地の標識で知って以来、今までに二度登っているが、人に会ったことはなく、北に続く鞍ヶ戸や内山とともに、静かな山歩きが楽しめる一帯だ。

 さて、登山口にクルマを停めて、しばらく林道を歩いた後、新たな登山口標識のある所から、涸れ沢沿いの道に入る。雪は5cmほどで、見上げる沢奥には、木々の彼方に青空も広がっている。
 途中で、雪の下の道を見失ってしまったが、気にすることはない。この涸れ沢をつめれば、上の分岐点のある平坦地に出るはずだ。
 最後は斜面を登り、平坦地に出る。テレビ塔などがある鶴見岳の頂上付近が、霧氷で白く覆われている。辺りには、わずかにシカの足跡があるだけで、一面の雪原だ。それでも木々の間に続く道らしい所は分かる。
 南平台への登りにかかる。雪は15cmほどあり、その上に尾根道の木々の影が長く伸びている。(写真)

 頂上手前のコブに出ると、ススキの尾根になり展望が開ける。由布、鶴見、鞍ヶ戸がぐるりと取り囲んでいるが、残念なことに、由布岳(1584m)の上には、相変わらず大きな雲が広がったままだ。
 少し下り、霧氷のついた低い林の中に入る。20cmほどもある深くなった雪の斜面を登り詰めると、頂上北側の岩の上に出た。
 そこは、辺りを霧氷に囲まれていて、鞍ヶ戸から鶴見岳に続く白い稜線がきれいだった。楽しみにしていた由布岳の眺めは、どうしても上の雲が取れずに日陰になったままだった。(写真下)
 すぐ先にある、ススキに被われた平たい頂上からは、サルで有名な高崎山から別府湾の青い海が見えていた。しかし、全体に少しかすんでいて、九重の山々もようやく見えるくらいだった。
 
 この南平台までは、下から1時間半ほどかかり、風をよけながらそこでしばらく過ごした後、帰りは1時間ほどで、クルマを停めた登山口にまで戻ってきた。
 それは、わずか3時間ほどの軽い雪山歩きだったけれども、シカの声を聞いただけの、静かな山のひと時を十分に楽しむことができた。
 そして、快晴の日の今日、山に行かなかったことは、今にして思っても少しも悔しいことではなかった。洗濯をして、布団を干し、ベランダで少し本を読み、ミャオと一緒に散歩をしたからだ。

 こうして、人の集まる所を嫌がるという性癖(せいへき)がますます増長されていくと、あとはただ頑固(がんこ)で偏屈(へんくつ)な年寄りへの道へと、歩んで行くことになるのだろう。
 救いようがないのは、それを本人自身が悪いことだとは思わず、開き直って、このブログに書いたりしていることだ。
 ともかく今は、ミャオと一緒にひたすらに生きていくだけだが。

 家に戻ると、もう5時過ぎになっていた。クルマの音を聞きつけた、そのミャオが、ギャオギャオと鳴きながら、家の前で私を待っていた。
 私が毎日欠かさず与える生ザカナの時間は、ミャオにとって、その昔の亡き母の時から続く、一日での最大の興奮、喜びの時であり、そのミャオのネコという生き物そのままの姿には、ある意味では感動さえ覚えるほどであり、生きることの意味を思い知らされるひと時でもある。
 こうして私は、ネコを飼いながら、ネコに飼われているのかもしれない。余り人と話さない分、いつしか猫語だけを話すようになったりしていて・・・。

 さらに、それは、あの有名なフランツ・カフカの小説『変身』のように、『ある朝、鬼瓦権三が何か気がかりな夢から目を覚ますと、自分が寝床の中で、一匹のネコに変わっているのを発見した。』 というふうになっていないだろうか・・・。
 ミャゴ、ミャーゴ・・・。あな恐ろしや。」

(参考文献: 『第二の性』 ボーヴォワール著 生島遼一訳 新潮文庫、『変身』 カフカ著 高橋義孝訳 新潮文庫)