ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

心地よき韻律

2016-02-29 21:02:49 | Weblog



 2月29日

 昨日は、そよそよと春の風が吹いていたのに、今日は一転、強い北西の風に変わって、気温も昨日と比べて一気に10度以上も下がり、昼間の気温でもやっとプラスの2度、そして今は吹雪模様になっているのだ。
 それでも、こうして日ごとに振れ幅の大きい大きな変化をつけながらも、雪の下に春のうごめきを隠しつつ、月日は確かな歩みを止めることはないのだ。

 ”時よ止まれ”と叫んでも、”BACK TO THE FUTURE(バック・トゥ・ザ・フューチャー)”と言って見たところで、今の時間に生きている私たちは、決して過去には戻れないし、未来に飛ぶこともできないのに。
 思うのだが、テレビや映画で近ごろはやりの、過去の時間の中に入り込んで、今の自分が活躍するなどという、ありえない話ほど、私を興ざめさせるものはない。
 自分が今ここにいて、決して戻れない過去のことを思い出して回想したり、あるいは、これからの将来のことに思いを馳せたりするのは、莫大な記憶量を持ち、豊かな想像力を持つ人間だから当然のことだとは思うのだが、それとは違う時間を超えた話というのが理解できないのだ。
 ”もし何々だったら”と一瞬思うのは、誰にしもあることだけれども、それが現在進行形の話となって、登場人物が過去と混在しながら物語が綴られていくということに、私は耐えられない。
 過去の話を描く時には、今の私たちが知りうるできうるかぎりの、当時の時代を再現する形で、それが生き生きと描かれていればなおさらのこと、時代を超えて誰でもが共感することだろうし、未来のことについても、今の私たちが予想しうる科学の進歩を基に、ありうることだと納得できる中で、組み立てられた話ならば、これもまた時代を超えて誰もが感動することになるのだろうが。

 こうした話を書いたのは、時制を無視したありえないドラマや映画について、逐一(ちくいち)批判するつもりではなく、逆に良い形の見本として、若いころに初めて見て、今に至るまでいつも”私の映画ベスト5”の一つであり続けた、あのデイヴィッド・リーン監督の名作『アラビアのロレンス』(1962年)が、先日いつものNHK・BSで放映されて、それを見たからなのである。
 大きく見れば、私の青春時代を、さらに今に至るまでの人生を左右したと言えるのかもしれないし、前にもここでも何度も書いたことのある、マルローの小説『王道』(’15.12,14の項参照)とともに、大げさに言えば、私の行動基本学 (そうした倫理学の区分はないが)とも呼ぶべきものの、礎(いしずえ)となったものだからである。
 
 時は第一次大戦の、アラビア半島。長年にわたるオスマン・トルコの支配に苦しめられていたアラブ地域には、各地それぞれの部族が棲(す)み分けていて、第一次大戦を機に、彼らはドイツ・トルコ軍に対して反乱ののろしをあげていた。
 そして、ドイツと戦っていたイギリス・フランスなどの連合国は、ヨーロッパでの戦場の背後にあたるこの中東戦線を重要視して、アラブの民を連合国側の味方につけて利用するべく画策していた。
 そこで、このアラブ地域に詳しい若い将校のロレンスが、エジプト・カイロにあるイギリス軍現地本部に呼ばれたのだ。
 彼は大学時代に考古学を専攻していて、特にアラブ地域の遺跡などを探査して回り、現地の部族たちのことも熟知していたからだ。

 映画の始まりは、後年彼がバイク事故で亡くなる、その日の様子を回想風に描いていて、次に、ウエストミンスター寺院での国葬並みの葬儀が行われた後、新聞記者が彼の評判を聞いて回っている場面になり、そして一転、事の始まりになった、彼がカイロの軍本部に呼ばれて、新たな任務を告げられるシーンから、物語は始まっていくのだ。
 その将校クラブで、仲間と話しながら、余興のように、彼は火のついたマッチを指先で消してしまう。
 仲間の一人が真似してみるが、火の熱さに耐えられずに声をあげてしまい、彼にどうしたらできるのかと尋ねるのだ。
 彼は、振り返り答えた。「そのコツは、熱いと思わないことだよ。」

 映画『アラビアのロレンス』は、もちろん事実と離れて、映画としてまとめやすく話が変えられている箇所が幾つもあるが、この映画が契機となって、何冊かのロレンスに関する本を読んで知ったのだが、このマッチの火のエピソードは、事実としてのことだそうだし、ただそれを映画の最初のシーンに持ってきて、以後のロレンスの行動力を暗示させることにした、脚本(ロバート・ボルト)と監督デイヴィッド・リーンの演出力の見事さを感じないわけにはいかない。
 そして、そのロレンスが最大部族ベドウィンのファイサル王子に会うべく、アラブ人の案内によりラクダに乗って砂漠を旅していく場面・・・地平線の彼方から、朝日が昇ってきて、周りの砂漠が照らし出されていき、そこに、あのモーリス・ジャールのテーマ曲が流れてくる・・・若き日にこの映画を見た時、当時の70ミリの大画面に映し出された、この砂漠のシーンのカメラの素晴らしさと、背景に響く壮麗な音楽に、私は早くも涙してしまったことを憶えている。

 こうして、この3時間47分にも及ぶ大作を、一つのシーごとにまだまだ書いていきたいのだが、このブログで数回に分けて書いても足りないだろうし、もう一つだけ次のシーンを書くとすれば、砂漠の中で命の水になる井戸のそばで二人が休んでいる時、砂漠の蜃気楼の彼方から、オマー・シャリフ演じるその井戸の持ち主であるハリト族の族長が、ラクダに乗って現れるシーンは、何度見ても素晴らしい映画史に残る名場面だと思う。(写真上)
 彼は、自分の井戸の水を飲んだ、掟(おきて)破りの別の部族の案内人の男を、非情にもラクダの上から銃を構えて撃ち殺すのだ。
 余りにも残酷な仕打ちだと怒るロレンスのそばで、案内人の男はこと切れていた。
 頭にかぶっていた白いターバンに、赤い血の色がポツンと見えていたが、その赤い色が次第に滲み出し広がっていく。
 私は今まで、二人のやり取りを見ていて、画面右端にある案内人の死体など気にしてはいなかったのだが、今回見直して、初めてそのことに気がついたのだ、あの人気脳科学者がテレビで出題する問題が解って、”アハ体験”をした時のように。

 史実の物語をなるべくその時代に沿って描くこと、今の時代の安易なコンピューター・グラフィックス技術などはなかったし、さらに特撮などに頼ることもなく、長期にわたる現地ロケをして、当時の事実としてあるべき形のままに写し出し、その中で”砂漠の英雄”とたたえられた男の真実の姿を描き出そうとした、監督の意図が伝わってくるし、この一シーンは、その小さなこだわりの一つが、現れているだけかもしれないが。
 ともかく、この映画を見て以来、すっかりデイヴィッド・リーン監督の映画のファンになり、有名な『戦場にかける橋』(1957年)、『ドクトル・ジバゴ』(1965年)『ライアンの娘』(1970年)はもとより古い時代の『逢びき』(1945年)『マデリーン』(1950年)『超音ジェット機』(1952年)『ボブスンの婿選び』(1954年)『旅情』(1955年)などあさるように見たものである。

 そして、今回の『アラビアのロレンス』について、どうしても付け加えておきたいのは、この放映が、より詳細な画像の4Kの画面編集によるものだということだ。
 この映画は、今までにNHKでも何度も放映されており、VHSのビデオ・カセットの時代から、飛躍的に画質が安定したDVDの時代、さらにBR(ブルーレイ)の時代へと変わり進んで、そのたびごとに録画してきたわけだが、家のテレビは5年前のまだ4K対応ではないころのものだが、それで見ても4Kの画質の素晴らしさは称賛に値するものだ。
 日ごろから、科学技術の進歩ぶりを、もろ手を挙げては喜べないとうそぶいている、ひねくれ者の時代遅れのじじいでも、この4K映像には驚いたのだ。科学の神様、ありがとうございます。
 こうして、この4Kの映画をちゃんとBRに録画したのだが、次は何とか4Kのテレビも買いたいと思う。
 残り少ない人生の時間しかないからこその・・・、まあ何とあきらめの悪い”じじい”だこと。 

 ”じじい”で思い出したのだが、数日前のネット・ニュースに、”老人天国、若者の自殺増加”という、まるで老人が生きているのが悪いと言わんばかりの記事が載っていた。
 もっとも、別のサイトで調べると、このニュースを書いた人は、その数字の出どころや結論づけが強引だと、うわさされている人物の手によるものだということだったのだが。

 これもネットニュースから、ブログに書かれた衝撃的な言葉が反響を呼んでいる。タイトルは”保育園落ちた、日本死ね”。
 最近の保育園不足で、自分の子供を保育園に入れられなかったある働く母親が、結局働いている会社を辞めるしかなくなったし、何が一億総活躍社会だなどと、政府に対する悪口雑言の限りを書き込んでいたが、しかし周りからは、共感の声、多数。

 さらに、一週間ほど前の事件で、”末期の前立腺ガンにかかっていた83歳の夫が、認知症になった77歳の妻の看病に疲れ果てて刺殺”、”その後警察に逮捕された夫は、取り調べにいっさい応じず、出された食事も拒否して、衰弱死亡した”。警察のコメントでは、”なんで取り調べに応じず、食事も食べなかったのか、一切わかりません”。

 そして、テレビ・ニュースでも大々的に取り上げられたあの大阪梅田での、”クルマ暴走事故”、51歳の運転手を含む死者2人けが人多数。警察側の発表、”大動脈解離での突然死によるものと思われる”。
  
  これらの事件について、誰でも何かしら言うべきことがあるのだろうが、しかし、もう私みたいな年寄りの出る幕ではないのだと思っている。

 もっと明るい話題について書こう。

 昨日はそうして気温が15度近くまで上がるほどの、温かい春の一日だったので、洗濯をした後、午後にはいつもの1時間ほどのウォーキング散歩をしてきたのだが、風のそよ吹く快晴の一日で、すっかり汗をかいてしまったのだが、その途中で、足元に小さな水色の花が咲いているのを見つけた。
 敷石として並べられているレンガの隙間に入り込んで、あのオオイヌノフグリの花が三輪ほど咲いていたのだ。(写真下)



 今は、庭木のサザンカの花は咲いているけれども、地面に生えている草花では、このオオイヌノフグリ(それにしても少しおかしくてかわいそう名前ではあるが)と、さらに小さな1cmにも満たないハコベの花は、いつも春が近いことを教えてくれる大切な花なのだ。
 私の家がある辺りは、情緒ある古い遺跡があるような所でもないし、ただの山間部の小さな集落に過ぎないけれども、こうしてオオイヌノフグリや傍らにあるハコベなどの、雑草に過ぎない小さな草花を見ると、いつもあの島崎藤村(1872~1943)の有名な詩を、口に出してみたくなるのだ。

「 小諸(こもろ)なる古城のほとり

 雲白く遊子(ゆうし)悲しむ

 緑なす繁縷(はこべ)は萌(も)えず

 若草も藉(し)くによしなし

 しろがねの衾(ふすま)の周辺(あたり)

 日に溶けて淡雪流る

 ・・・。 」

(島崎藤村 『落梅集』より「小諸なる古城のほとり」 新潮日本文学2 新潮社) 

 昔の時代の詩の、韻律を含んでいて、何と響きの良いことだろう。
 さらにさかのぼれば、江戸時代の大阪、人形浄瑠璃(じょうるり)の作者、近松門左衛門による見事な七五調のせりふ回し、あの有名な「曽根崎心中」の”道行(みちゆき)の場”・・・”この世のなごり、夜もなごり、死にに行く身をたとうれば・・・。というくだりから、さらにさかのぼった平安時代の『平家物語』の、誰もが知っている有名な出だしの名文・・・”祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹(さらそうじゅ)の花の色、盛者必衰のことわりをあらわす。・・・。そしてついにはあの『万葉集』にまで行きつくだろう。たとえば、その中の一首・・・”世の中を 何にたとえむ 朝開き 漕ぎ去(い)にし船の 跡なきごとし” (沙弥満誓 しゃみのまんぜい)。
 こうして、昔の日本語が、創りあげ伝えてきたものは、どこへ行ったのだろうか・・・。
 だから今、私が毎日読んでいるのは、こうした古文、日本の古典文学になってしまったのだ。
 もっとも、今の時代の日本語がどうとか言う前に、今このブログに書いている私の文章自体が、まとまりもなく、文章の長短さえも頭に入れずに出まかせに書いているだけだから、余り人のことは言えないのだが。

 そこは、”脳天気”な”ぐうたらじじい”の私のこと、自分のことは置いといて、まずは好きなAKBにうつつをぬかしている毎日なのだ。
 前回書いたように、作詞家兼プロデュースサーの秋元康の超人的な努力により、一気に多くの新曲が日の目を見たわけで、そこで何度も言うように、本家AKBの新曲「君はメロディー」は、あのゴテゴテしたMV(ミュージック・ビデオ)ではなく、先日の歌番組で見た清楚(せいそ)なスカート姿のメンバーたちのほうがはるかに良く、歌詞は単純だが何とも曲調がアイドル曲らしくて耳に残るし、一方の乃木坂の新曲「ハルジオンの咲くころ」の歌詞は、さすがに乃木坂を”掌中の珠(しょうちゅうのたま)”と考えている秋元康らしく、よく練られている詩だとは思うのだが。

 他の6曲にもなる新曲とのカップリング曲の中では、NMBの「Must be now」や藤田奈那のソロ曲「右足エビデンス」の流れをくむ、HKTのダンス・ナンバー「Make noise」が、そのMVでの踊りと併せて、群を抜いて素晴らしい。
 アイドル好きなAKBファンには余り売れない曲かもしれないけれども、このジャンルの曲は今後ともぜひ続けてほしい。
 もう一つ気に入ったのは、AKB乃木坂混成チームによる「混ざり合うもの」、あの”にゃんにゃん”こと小嶋陽菜(こじまはるな)をセンターにして左右に乃木坂の人気メンバー白石と西野を配した一列目は見た目も素晴らしいし、何より乃木坂ふうなロングスカートの制服に、AKBと乃木坂の曲調を合わせたような歌と、静かなモダン・ダンスのような振り付け、雪の上で小さくリズムをとる足首のアップのビデオ映像も印象的だし、全体的に、昔の異色の名曲「胡桃(くるみ)とダイアローグ」を思い出してしまう。

 はい、在宅AKBファンである、じじいは、じじいなりに楽しんでいるのでありまして、残り少ない人生、何とか笑みを浮かべて生きていきたいと思っているのではおりますが・・・。 


蠢動(しゅんどう)

2016-02-22 23:14:38 | Weblog




 2月22日

 数日前に、九重山に行ってきた。
 前回の時は(2月2日の項参照)、全国的な寒波襲来に合わせて、山に登ったので、それなりの雪氷景観を見ることができたのだが、今回はそれほどまでの強い寒気だったというわけでもなく、家の周りでも数センチ足らずの雪で、それもすぐに溶けてしまったから、山のほうの雪もそれほど期待はできなかった。
 ただし、前回は、圧雪アイスバーンの道だったのだが、今回は両側の山斜面に雪はあるものの、路面に雪はなく、黒くてらてらと光っているだけだった。
 それは、北国の道では怖い、あのブラックアイスバーンとは違う、べたついた路面、つまり、塩カルがまかれた”塩の道”になっていたのだ。
 確かに、路面の凍結を防いでくれるから、おかげで幾らかは安心してして走れるのだが、問題はその後で、ていねいに洗車しておかないと、クルマの下部は赤サビだらけになってしまう。
 前回の車検で、クルマのサスペンション部分がすっかりサビついていて、まるごと交換の羽目になったくらいなのだ。

 ともかく、道はクルマも少なく普通に走れて、いつもより早く牧ノ戸峠の駐車場に着いた。今回も、やはり雪山が好きな人たちのクルマが、他に30台ほど。
 雪は少なめだったが、周りの灌木は、すべて霧氷・樹氷に覆われていて、前回と違うのは、何より上空に青空が広がっていることだ。
 青と白、他のどんな色の組み合わせよりも、私の好きな、山でのとびきりの配色なのだ。
 そして、霧氷・樹氷のトンネルになった、雪の遊歩道を歩いて行く。
 ひと登りすると遊歩道も終わり、沓掛山前峰に着く。
 沓掛山(1503m)山頂方面の、北側が見事な霧氷・樹氷に覆われていて、遠くに小さく由布岳(1583m)と鶴見岳(1375m)が見えている。(写真上)
 その反対側、南側には、霧氷の森に覆われた扇が鼻(1698m)北側のナベ谷を隔てて、遠く一筋の煙を上げながら、阿蘇の山々(高岳1592m)が見えていた。(写真下)



 雪が降った次の日の、天気の良い朝に、風も穏やかになり、空気が澄んで遠くの山までもよく見えるような、そんな日だけをぜいたくに選んで、私は山に登ってきたし、残り少ない日々しかないこれからも、そうして登り続けたいと思っている。
 私の生涯を通して、わがままに自分の思い通りに、数十年にわたり続けてきたもの・・・それがこの山登りである。
 詳しく数えたことはないが、おそらくは1000回ほどにはなるだろうその山行の中で、同行者がいたのは20回にも満たないだろう。そしてそのほとんどが、若いころのことである。
 なぜ、そうまでして一人で登ってきたのか、問われるまでもないことだが、それは、日にちを決めた登山ではなく、ただ自分のわがままに、晴れた日だけを選んで山に登りたかったからである。

 そこで、どうしても出てくるだろう”あなたにとって山とは何ですか”といった、余りにも類型的な質問には答えたくはないのだが、その意味では、あのエヴェレストで消息を絶ったマロリー(1886~1924)が、”山がそこにあるから”と答えたのは、いかにもイギリス人らしい、その何も知らない質問者に対する皮肉を込めた、彼なりの返事だったと思うのだが、私もまったく同じように答えたいところだ。
 つまり、単に”山”といっても、人それぞれに様々な思いを含んだ心の反射板みたいなもので、そう簡単には答えられないだろう。
 ただ地表上に盛り上がり、無機質な岩石と微生物が棲みつく土壌からなり、そこに動植物たちの広大な繁殖・繁茂圏が形作られている、自然界の一つの形でしかない山だけれども、二つと同じ形のものはなく、それぞれの変化にとんだ様々な山々に対して、そう簡単に一言で答えられるはずもないのだ。
 つまり、自然界の存在である山に対して、私たちは擬人化してあれこれと思いをかけているのかもしれないが、それらはすべて、あくまでも人間側の、個人的な働きかけや思い入れにすぎないのだ。
 そういった意味でも、マロリーが”山がそこにあるから”と答えたのは、まさに至言であるといえるだろう。

 私にとって、山は、私の人生の中で、ただ最も長く同じ時を過ごした相手だった、というだけのことなのだ。
 そしてできることなら、その山ふところに抱かれて、西行が言うように、その花と雪の言葉こそ違え、「願わくば 花の下にて 春死なむ その如月(きさらぎ)の 望月(もちづき)のころ」と思ったりもするのだ。
 さらには、前回も書いたことだが、最近は昔読んだ日本の古典を、少しづつ読み返していて、あらためてその時代の人々の死生観を思い、その一行一句に納得する日々ではある。

 今読んでいるのは、あの『方丈記』を書いた鴨長明(かものちょうめい)の手になる『発心(ほっしん)集』(上、下巻 角川ソフィア文庫)だが、ずっと前に抄本(抜粋本)で読んだことはあったのだが、今こうして年を取ってきて、そこに収められているすべての話を一つ一つ読んでいくのは、なかなかに面白く楽しい日課にさえなっている。
 例えば、修行僧や聖(ひじり)の姿をした実は高僧たちが、地方を行脚(あんぎゃ)して回り、いくつかの徳ある行いをした後、それぞれに座禅を組んだままの姿で、あるいはお経を唱える形のまま、いつしかこと切れて入滅(にゅうめつ)していくさまは、多分に美化されたものがあるにせよ、その時代の仏僧たちが、いかに仏の教えに一途に生きていたのかと、今にして知らされる思いがするのだ。
 今私たちは、余りにも様々な、有用無用の情報の山に埋もれながら、何を求めているのかすら分からなくなっているのかもしれない。
 そう書いている私からして、こうして山登りが好きで、日本古典文学に親しみ、古いヨーロッパ映画を好んで見て、クラッシック音楽を聴き、AKBが好きだという、とても説明のつかない支離滅裂さなのだから。

 さて、とんだ寄り道をしてしまったが、この日の九重の山歩きを続けよう。
 沓掛山前峰の先にある本峰からは、霧氷の縦走路の彼方に三俣山の姿が美しく見え、隣の星生山も一面の白い雪に覆われている。
 あとは、ゆるやかな高原状の縦走路を行くだけなのだが、登山者は離れて前後に一人二人といるくらいで、静かな山歩きを楽しめた。
 雪は10cm~30cmくらいと、やや少ないけれども、霧氷のトンネルや、小さなシュカブラ紋様など雪山の楽しみを一つ一つカメラに収めながら歩いて行く。
 多くの人が、6本爪、10本爪ンドのアイゼンをつけて歩いていたが、それが面倒な私は、背中のデイパックに入れたままだ。 

 扇が鼻分岐のポイントから、多くの人がたどる久住本峰や中岳へと向かう道と分かれて左に、星生山南尾根へと向かう。
 この南尾根から星生山さらに星生崎へと続く岩稜帯をまじえた縦走路は、わずか1キロ足らずだけれども、九重山の中でも唯一の、プチ・アルペンルートともいえる所なのだ。
 ただ、岩稜が凍り付き雪庇(せっぴ)が張り出すような、本格的なアルパイン・コースにまでなることは、めったになく、今回も最後までアイゼンをつけることはなかった。
  そして、いつもは人が少なく足跡さえついていないことが多いルートなのに、今日は珍しいことに、先行者二人の足跡があり、さらには反対側から降りてくる人が、一人ずつあわせて三人にも出会ったのだ。
  ともかく、急な登りもあるこの南尾根だが、先のほうでは吹きさらしの斜面になっていて、いつものようにシュカブラができていて、その彼方にそびえる久住山(1787m)と、さらにその後ろ遠くに祖母・傾の山波も見えていて、このあたりが私の大好きなポイントであり、あきることなく何枚もの写真を撮った。(写真下)



 そして星生山頂(1762m)に着いたが、牧ノ戸の登山口からのコースタイムの倍近く、3時間ほどもかかっている。もっとも、ここまですでに200枚もの写真を撮っていることを考えれば、それも当然だし、今回はこの先の星生崎(1725m)までしか行くつもりはなかったから、時間に追われることもないのだ。
 風を避けて、山頂から北面の方に少し降りて、そこで初めて腰を下ろし、温かい飲み物を飲んで軽い食事をとった。
 すぐ隣に大きく三俣山(1745m)が鎮座し、この星生山から三俣山に向かう尾根の途中が硫黄山と呼ばれていて、いつも噴気をあげているのだが、今日はいつもより硫黄の臭いが強く立ち上ってきていて、休憩もそこそこにして、星生崎への縦走路をたどった。(写真下)


 

 岩稜帯の凍結があれば、アイゼンをつけるつもりでいたが、思ったほどではなく、周囲の展望を楽しみながら、星生崎へとたどり、さえぎることなく久住山を眺める岩陰で一休みをした後、その東面へと続く急な斜面を下って行った。
 以前には何度も、途中から雪の斜面をラッセル、トラヴァースして、星生崎下のコブへと近道をしたものだが、今ではもうその元気もなく、久住別れの避難小屋まで降りて、コブへと登り返し、そこからいつものように、シュカブラ模様を前景にしてそびえ立つ久住山を眺め、写真を撮りながら、西千里浜から縦走路を戻って行った。
 ただし、所々で道の雪が溶けて、ぬかるみ状態になっていた。もう九州の山は、春山になってきているのだ。
 ほんのささやかなことだけれど、小さな春のうごめきが感じられるのだ。
 
 帰りも、星生崎周りで2時間半ほどかかったけれども、往復6時間足らずの年寄りにはちょうど良い雪山歩きだった。天気も申し分なく、風も弱く、時折薄雲が出るくらいの快晴の一日で、今年の九重の冬山がこれで終わりだとしても、まずは満足できる年だったといえるだろう。
 その昔、あの上越の谷川岳が”近くてよき山なり”ともてはやされたように、九州北部地方に住む人たちにとっては、九重山こそ”近くてよき山なり”なのだろう。
 もっとも谷川岳の場合は、東京から手軽に通える、北アルプス並みの岩壁とアルパイン・ルートを持った山としての、上級者向きの山としての意味なのだが、この九重山の場合は、初心者や私たち年寄り向きの山として、高山の雰囲気を手軽に味わえ登れる山としての意味なのだ。ああ、ありがたや。

 そしてクルマで家に戻る道すがら、雪道の心配もなく、AKBの歌を、それも前回あげたあの「やさしくありたい」を繰り返し聞いていた。山での満足した思いと、やさしい気持ちにあふれながら・・・。
 ところでこの3週間に、NHK・BSで金曜日の深夜の映画放送枠で、『Documentary of AKB48』の平成23年(2011年)度から平成24年度、平成25年度それぞれにおける、AKBの活動ぶりが描かれているドキュメンタリー映画、3本が立て続けに放映された。
 その3本とも、この2年前ぐらいに一度放映されていて、その時にも見てはいたのだが、今回また録画して見直してみて、そこで一生懸命になっている少女たちの涙に、またももらい泣きしてしまった。
 思えば、前にも書いたように、AKBを好きになったきっかけは、ふと聞いた「上からマリコ」の歌詞に感心して、それが秋元康の作詞だと知って、それからは、少しずつAKBの歌を聞くようになり、決定的だったのは、それ以前のAKB創成期から当時のエースと呼ばれていた、”あっちゃん”前田敦子が卒業したころまでのことを知らなかったので、この3本の映画を見て、昔のAKBのことを初めて知って、私のAKB好きに拍車がかかったわけでもある。

(以下、キーをミスタッチして字体が変わって元に戻せずそのまま書いているが、別に他意はない。)

 その後の、いい年をしたじいさんの”AKB狂い”ぶりはこのブログのあちこちで書いている通りである。そして、今もその秋元康が作詞した新曲を楽しみにしているのだが、紅白後のこの1か月半ほどは、たいしたAKBの歌番組もなく、少しじれったく思っていたくらいなのだが、このところでネット上に一気に、AKBグループの新曲MV(ミュージック・ビデオ)があふれ出てきたのだ。
 まず第一に、年に4回出している本家AKB選抜チームによる新曲「君はメロディー」のMVを見たのだが、まず歌について、曲調は悪くはないのだが、見事なメッセージ・ソングだった去年の総選挙曲「僕たちは戦わない」以降の、「ハロウィン・ナイト」「唇にBe my baby」そしてこの「君はメロディー」と続いて、どこか覇気のないあたりさわりのない歌詞に思えてしまうのだ。
 むしろ、NHK朝ドラのために書いた「365日の紙飛行機」や、その他のグループ、乃木坂の「話したい誰かがいる」や NMBの「Must be now」、じゃんけん大会で優勝した藤田奈那の「右足エビデンス」、そして、最近私がはまっている指原と柏木による「やさしくありたい」(前回2月15日の項参照)など、さすがに、秋元康の詩だと思わせるものがあったのに、それらと比べればこのAKBの新曲「君はメロディー」には、前作同様”分かりやすいアイドル曲”に成り下がってしまった感がぬぐえないのだ。
 つまりは、うがった考えをすれば、メッセージ・ソングとしては彼の最高傑作かもしれないあの「僕たちは戦わない」が、業界を取り巻くもろもろの所から多少の批判を受けたからなのではないのか、とさえ勘ぐってしまうのだ。(3年前に、あれほど国民的ヒット曲になった「恋するフォーチュン・クッキー」がレコード大賞をとれなかった時のように。)

 さらにこの「君はメロディー」 のMVも、有名な女性演出家の手になるものというけれども、個人的な意見ではあるが、蛍光色をゴテゴテと使った派手な衣装と小物に背景は、年寄りには視覚的に刺激が強すぎるのだ。
 こうした、歌詞内容とは全く関係のないMVは、別に今に始まったことではなく、一例をあげれば、もちろん私は後になって見て知ったのだが、せっかくのいい曲なのに、あの「ギンガム・チェック」 の余りにも低レベルなMVを見て驚いたことがある。
   ホットパンツの女性警察官はご愛敬だとしても、怪獣までもが出てくるシーンには,もうただただあきれる他はない。よくあんな内容で、OKを出したものだと思う。

 さらには、前にあげた「僕たちは戦わない」のMVでは、あらかじめ批判をかわすように歌詞の意味とは逆の、少女たちが近未来の背景の中で戦う姿を、あえて見せつける必要があったのかもしれないが、それでも歌詞の内容とはかけ離れた映像の違和感を感じてしまうのだ。

   ともかく、そんなお金をかけた歌詞とは関係のないAKBのMVを、ファンたちは喜んで見ているのだろうか。

 逆に、あの「365日の紙飛行機」のMVは、NHK朝ドラの主題歌だからということもあるのだろうが、清楚(せいそ)な服を着たAKBのメンバーたちが歌っているだけのシーンが続くだけだが、ここ何作かの新曲MVの中では、最も好感をもって見ることができる映像に仕上がっていた。
 何事も、金をかければいいということではないのだが。
 ついでに、昨日のNHK・BSの深夜に放送された『MUSIC JAPAN』 では、その「365日の紙飛行機」の時と同じような、少女たちらしい服を着た彼女たちが「君はメロディー」を歌っていた。良かった。あのゴテゴテしたMVは何だったのだろうか。

 AKBの曲の中で、私がベストだと思う曲は、作詞作曲、振り付けダンス、MV映像の三拍子が奇跡的にそろった、あの「UZA(うざ)」(’14.11.24の項参照)をおいてほかにないが、AKBを代表する曲といえば、「恋するフォーチュンクッキー」と上にもあげた「365日の紙飛行機」ということになるだろうし、好きな曲はと言われれば、例の「やさしくありたい」と”ゆきりん”柏木由紀が歌う「でもでもの涙」をまず思い浮かべてしまうのだが。
 最後に、今度のAKBの新曲 「君はメロディー」のカップリング曲として、各グループにも新曲が割り当てられていて、NMBとSKEのアイドル曲、HKTのダンス・ナンバー、さらには乃木坂AKB混成チームによるものなど興味深い新曲が並んでいる。
 AKB創成期からの前田敦子、大島優子、高橋みなみの卒業後の、AKB第2章の始まりを意識した、運営側の並々ならぬ決意なのだろうか・・・前列に顔を出し始めた次世代メンバーの子たち。
  すべてのものが動き始める、春の初め、蠢動(しゅんどう)するものたち。

 2月22日、猫の日なのだそうだが、ミャオはもういないのだ・・・。 

 (以上、ここにあげたAKBの曲のほとんどは、youtubeで見ることができる。)


やさしさが余ってる

2016-02-15 22:24:53 | Weblog




 2月15日

 全国的にも、3月から5月ごろの気温だというニュースが流れ、そんなストーヴをつけなくてもいいほどの、春のような暖かい日が三、四日も続いた後、昨日の午後あたりから強い北西の風に変わり、急に寒くなってきて、今日は朝から雪が吹きつけていて、最高気温は+2度までしか上がらなかった。
 時々、青空も広がり、いわゆる”風花(かざはな)が舞う”状態だったのだが・・・それにしても”風花”とはいい日本語だ。
 もっとも、これで、いつもの冬に戻ったというだけのことだが。
 
 しかし、こうして、はっきりとした四季の区別があることがいいのだ。
 たとえ、青空ときれいな海に囲まれた”一番天国に近い”と言われるような有名な島でも、一年中暑い日が続くような所には、とても居られない。
 かといって、いくら雪景色が好きな私でも、一年中氷点下になるような寒い所には、とうてい住み続けることはできないだろうし。
 それならば、一年中温暖な、地中海沿岸やアメリカ西海岸のような場所ならばいいのかというと、それも余りに穏やかすぎて物足りない。

 結局は、今年は寒い、今年は暑いなどと文句を言いながらも、雪の降る寒い冬の後には、ちゃんと花々が咲き乱れる春が来て、暑い夏の後には、周りの木々が見事に色づく秋が来て、という鮮やかな四季の変化を感じ取れる所こそが、つまりは、この日本にいることこそが、私の幸せなのだと思う。
 体が縮みあがるような寒さの中にいるからこそ、来たるべき春の彩(いろどり)を想い、そしてセミの声が聞こえるけだるい夏の心地よさをなつかしみ、またその夏のしたたり落ちる汗の中にいるからこそ、来たるべき秋の涼しさと紅葉の華やかさに憧れ、そして冬の青空の下の雪景色を想うのだ。
 
 前にもあげた、あの貝原益軒(かいばらえきけん)の『養生訓』にもあるように、”はじめにこらゆれば、かならず後の喜びとなる”のだから。(’15.12.7の項参照)
 何事も、悪しき日々があってこその良き日であり、耐え忍ぶべき負荷があってこその、待ち望んだ解放への喜びへとつながるのだろう。
 そうした、四季の変化に応じて暮らしてきた、私たち日本人だからこそ、些細な日々の変化にも気づき、こまやかな気遣いを持って、すべての人々に接し、これから先の未来へと、その思いを託することができるのではないのだろうか。
 
 今の時代は、いわゆる、現代世界標準化され、グローバル化される世界だからこそ、そうではないもの、独特の歴史ある個性あるものが、注目されるようになってきたようにも思える。
 それは、反動として生まれた闘争主義ではなく、ゆるやかな囲みの中で、よそ者さえもいつしかやさしく取り込んでいくような、日本人の文化風土の中に見出すことができるのではないのだろうか。
 そうした意味でも、日本の古典文学の数々は、今の私たちに、その文化風土の成り立ちを教えてくれる最高の資料であり、興味深い日本の歴史の連載読み物なのである。
 そこには、私たち日本人の今とは違った過去の世界があり、それでもなおかつ、今も昔も変わらぬ世界もあり、それぞれの時代の社会の中で、必死に生きてきた人々の姿が胸を打つのだ。
 (今私は、いわゆる古文、古典文学ばかりを読んでいる。今の時代の小説には、もうついていけないからだが、それでいいのだと思う、年寄りには昔の本の中にいる友達だけで十分だ。)

 話は変わるけれども、最近日本に来る外国人の数が急激に増えていて、年間2千万人近くにもなるというが、その数は、日本の人口の6分の1にも及ぶということになる。
 そして、”爆買”で有名なツァー客を除けば、彼らの多くが、世界中にある同じような大都会の一つである東京に行きたいわけではなく、より日本的なものがある、地方の文化景観を求めているとのことだ。
 それも、現代文明の最先端技術文化を持っていながら、世界の国々の中でも、より安全で、より清潔で、より人々がやさしく、そして独自の歴史ある文化遺産を持った国としての日本を。
 そうした外国人たちが求める日本の姿は、もし自分が外国人であったらと置き換えてみれば、ヨーロッパ諸国を渡り歩いて旅をしてきた経験をもつ身としては、なおさらのことよく理解できるのだ。
 また私たちが、時代を超えて日本を眺めるとき、日本の古典文学に見る日本の姿にこそ、時代を経て変わらぬ人間の真実を、人情の機微(きび)を知ることができるのだと思う。
 そこに、共通して流れるのは、大きくまとめて言えば、”いつも仏の慈悲のもとにある人々” ということであり、その時代時代の作者たちの、少し離れて見守る”やさしい心”なのだ。

 今回どうして、こうした古い人情話めいたことについて書こうと思ったかというと、一つには、前回に書いた、この1年で買ったクラッシックCDについて、その中で、『エマ・カークビー リサイタル集』(CD12枚組)を挙げていたのだが(写真上)、最初の一枚から久しぶりに聴く彼女の懐かしい歌声に、私の心の中に相応(こた)える思いが湧いてきたからだ。
 ルネッサンスからバロック時代の、いわゆる”アーリー・ミュージック”時代の声楽曲を専門にする彼女の歌声は、その後の”オペラ”の時代の、きらびやかでドラマティックな発声法とは異なっていて、メロディー奏法に従った”ノン・ビブラート”の、平明・清澄な歌声であり(ビブラートとは違う装飾音がつけられることもあるが)、それは、その時代が求めたであろう、すがすがしく伸びやかな歌声であり、今もそのやさしい歌声に、私は癒(いや)されるのだ。
 (それは、例えは悪いけれども、都はるみの演歌と、由紀さおりの童謡の歌い方くらいの差というまではないのだが。)

 中でも、私が初めて聞いた二枚「Pastoral Dialogues(田園会話劇)」「Amorous Dialogues(恋愛会話劇)」には、イギリスやイタリアの作曲家たちによる十数曲ずつが収められていて、リュートやヴィオールの伴奏に乗せて、エマ・カークビーが相手役のバス歌手やテノール歌手とともに、まるでバロック・オペラ二重唱のように歌っているのだ。
 その「Pastoral Dialogues」のほうの、ジャケット写真は、バロック時代のイタリアの画家、カラッチ(1560~1609)による「ヴィーナスとアドニス」である。(写真下)



 この絵は有名なギリシア神話(オウィディウスの『変身物語』)にある「ヴィーナスとアドニス」によるもので、神話で有名な美神ヴィーナス(アプロディーテ)は、息子のキューピッド(エロース)と遊んでいて、誤って愛の矢に刺されて、その時に通りかかった美少年の狩人アドニスに恋をしてしまう。それから二人は一緒の時を過ごすことになるが、ヴィーナスが危険な狩りに出かけるアドニスに忠告していたのにもかかわらず、彼は出かけて行ってイノシシに襲われ殺されてしまう。ヴィーナスは嘆き悲しみ、アドニスの血の跡からはアネモネの花が咲いたという。
 この絵は、キューピッドの矢に刺されたヴィーナスが、通りかかったアドニスに会った、まさにその時を描いている。

 当時のキリスト教宗教画が、厳しい戒律で守られていたのは当然のことだが、それ以外の王族貴族の館などを飾った絵には、例外として、ギリシア神話などの昔の神々の姿を人間の形をした神々として、芸術的にその裸体画を描くことが許されていたのだ。

 それはもちろん、王族貴族階級からの要望があったからであり、誰が見ても同時代の女性の裸体画であるのに、その二律背反の絵画の世界を許したのは、当時の教会と王族との力関係にもあったのだろうが。
 後年スペインの画家、ゴヤ(1746~1828)があの有名な『裸のマハ』を描いたとき、ごうごうたる非難が巻き起こったのは、それが神話の女神ではなく、生身の女性の裸の姿だったからだ。
 今の時代の私たちから見れば、神話に出てくる女神たちの絵は、普通の女性の裸の絵にしか見えないのだが、時代はその時その時を刻印し、その刻印されたものを見る私たちの見方が変わっただけなのかもしれない。

 エマ・カークビーのやさしい歌声の話から、いつしか絵画の話になってしまったのだが、それにしてもギリシア神話の時代から中世、ルネッサンス、バロック、近世、現代へと歴史をたどることのできる、西洋絵画の流れを見ていると、いつも様々なことを教えられて、興味尽きないところだ。

 ”やさしい”ことについての話に戻ろう。もう一つは、前回も触れたあのAKBの歌「やさしくありたい」についてである。
 今度のAKBの新曲、「君はメロディー」は、AKBの10周年記念の曲ということもあって、AKB創設時代の1,2期生メンバーである、二人のエース”あっちゃん”前田敦子に”ゆうこ”大島優子、そして高橋みなみ、篠田麻里子、板野友美という卒業生たち5人も加わっていて、そのあおりを食らってか、去年の選挙1位2位である、”さっしー”指原莉乃と”ゆきりん”柏木由紀は、それぞれ12番目13番目という低い序列に下げられていた。
 この曲のセンターに、今、日の出の勢いのHKT,AKB兼任の”さくら”宮脇咲良(総選挙7位)が指名されたというのはわかるとしても、指原・柏木の二人の思いはもとより、ネット上でも、彼女たちの”オタ(ファン)”たちの不満の思いがくすぶり続けているのだが、しかし、それが将来を見据えて考えた、秋元康以下の運営側の意向とあれば、納得する他はないのだろう。
 何といっても、今までは短命だった日本のアイドル歌手の寿命を、手を変え品を変え、10年それ以上にまで伸ばし続けているのだから。

 ところで私は、この1,2位コンビが歌った「やさしくありたい」という曲が好きで、クルマの中でよく聞いていると、前回書いたのだが、もちろんパソコンでも”youtube”で聞くことができるから、家にいても時々聞いているくらいなのに、まだ十分にこの曲の良さについては書いていなかったので、今回ちゃんと書いておこうと思ったのだ。
 いつものことだが、私が、乃木坂46を含むAKBグループの歌を好きになるのは、すべての歌の歌詞を書いている秋元康の詩に納得がいくからなのだ。(それでも中には、どうみても平凡に思えて、それほど聞きたいとは思わない曲もあるのだが、それはともかく、年間何十曲もの歌詞を量産し、AKBグループ全体のプロデュースもし続ける、まさに超人的な彼の仕事ぶりには、あらためて敬意を表す他はない。)
 そして、私にとっては、さらにその歌詞に良い曲調があてはめられていれば、それだけで十分であり、実は、メンバー選抜や振り付けや衣装そしてその曲のMV(ミュージック・ビデオ)などは二の次で、歌を聞くために直ぐにTVの歌番組を録画したり、CDに取り込んでは繰り返し聞くことにしているのだ。

 ところでこの「やさしくありたい」は、TVでは一度も二人が歌っているところを見たことがなく、ただネット情報で知って、初めてyoutubeで画像なしの歌だけを聞いて、それ以降すっかり気に入って、前回書いたように、去年度の私のベスト3の曲うちの一つになったのだ。
 内容は、仲良く友達として過ごしていたのに、彼女に好きな人がいることも知らずに、告白したせいで別れてしまった男の子の嘆きを歌っているのだが、何度も繰り返される「やさしさが余ってる」というフレーズが心に響くのだ。(実は初めて聞いた時には、”やさしが待ってる”と聞こえて、それでも十分に歌詞として納得していたのだが。)
 今まで、ごく自然に、愛情を込めたやさしさで彼女を想っていたのに、その相手が目の前からいなくなってしまい、今自分の心の中は、その誰かにかけたいやさしさが、あふれて余っていると・・・。


 そして二番目の歌詞が泣けるのだ。

 「 思い出が余ってる
  忘れるにはいっぱい
  時間と涙の川に
  少しくらいは流れるかな
  ・・・
  いつまでもいつまでも
  やさしくありたい 」 

  (「やさしくありたい」 秋元康作詞 伊藤心太郎作曲、歌詞全文はネット上公開)

 去年スキャンダル事件が明るみになって、ネット上でさんざん叩かれた”ゆきりん”、総選挙1位になっても、その自分の努力を認めてくれずに、いつも容姿の好き嫌いだけで”アンチ”たちから叩かれる”さっしー”・・・。皆で、やさしくありたいのに・・・。

 そして、もう少し長生きさせてあげられたのに、ただ私が至らないばかりに、母もミャオも、いなくなってしまって・・・そして彼女たちにも・・・ただただ、思い出に”やさしくありたい”だけなのだが・・・。 

(参考文献: 『ギリシア・ローマ神話』 トマス・ブルフィンチ 大久保博訳 角川文庫) 


闇に差す光

2016-02-08 21:49:32 | Weblog



 2月8日 

 前回書いたように、10日ほど前に雪山に行って来て、雪氷芸術を眺め楽しんできたのだが、その後も何度か雪の降る日はあったものの、春の淡雪ふうなままに積もっては、いずれもすぐに溶けてしまった。
 もう、強い寒波による雪の日はないのかもしれない。
 
 そうした冬の毎日で、雪山を見るのが好きな私としては、それでも、どちらがいいとは言えない複雑な心境なのだ。
 つまり、前々回に書いたように、古い作りのわが家は、窓ガラスが凍り付くほどに寒くて、さすがに雪が好きな年寄りでも、わが身にこたえてはいるのだが、かといって、こうも雪の降る日が少なく降る量も少ないとなれば、それだけ雪山を楽しむ機会も少なくなってくるし・・・ただ、”じじいは、コタツで丸くなる”生活を繰り返す毎日で、ますます”あの世”が近くなってくるだけ・・・”ああ、南阿弥陀仏(なむあみだぶつ)”と。

 そんな、暗闇のわが世にさす光はないものか、と思っていた私がふと思い出した1枚の絵。
 「聖マタイのお召し」。
 あの有名なイタリア・バロック期の画家、カラヴァッジョ(1571~1610)による名作の1点である。

 私が若き日に、ヨーロッパへの、4か月にも及ぶバックパッキングの旅に出かけたのには、単純な憧れからであり、今まで本を読み、写真やテレビ映画でしか見たことのなかったヨーロッパを、どうしても自分の目で確かめ感じてみたいと思ったからであるが、その中には、絵画、建築、音楽から、都市、社会、民族さらには自然、山岳景観など、多岐に及ぶ目的項目があって、その中でも、美術館めぐりは、まずは第一にあげられるべき優先項目であった。
 その中でも、最大の目的の絵は二つ。

 一つは、オランダ・アムステルダムの国立美術館にあるフェルメールの「牛乳を注ぐ女」であり、そこで、私はその絵の前にひとり、二日間数時間余りもの至福の時を過ごしたのだが(そう言えば、数年前の屋久島旅行での、あの”縄文杉”と、ひとり対面した時<’11.6.25の項参照>もまた同じような思いになったのだ)、そしてもう一つどうしても見たかった絵は、イタリア・ローマのサン・ルイジ・ディ・フランチェージ教会にある、カラヴァッジョの「聖マタイのお召し」であった。
 しかし、まことに残念ながら、その日は何かの催しでもあったのか、扉は固く閉ざされていて、中に入ることはできずに、あの有名な祭壇画を見ることはできなかったのだ。(この「聖マタイのお召し」の絵については、天才画家カラヴァッジョの余りにも短い人生とともに、また別の機会にぜひとも書きたいと思う。)

 ただその代りに、ヴァチカン美術館で、他のカラヴァッジョの二点を見ることはできたのだが。
 さらにこれは、後になって気がついたのだけれども、劇的なドラマ性を思わせる祭壇画が多いカラヴァッジョの絵の中で、おごそかな中にも、心なごやかな安らぎの時を思わせる一点がある。
 「エジプト逃避行にて(脱出途上の休息)」がそれであり、同じローマの、ドーリア・パンフィーリ美術館にあったのだが、しかし、その時には、そこにも行くことができなかった。
 この絵は、聖書にある、聖家族一家(幼子キリストを抱くマリアと大工のヨセフ)が迫害を逃れてエジプトに向かう途中に、ひと時の休息をとったその場面を描いているのだが、この絵は、カラヴァッジョの画風が、劇的な明暗法によるドラマティックな方向へと変わっていく、その過渡期の作品とされていて、爛熟(らんじゅく)期バロックのマニエリスムふうな技法があるにしても、すでに他の誰でもない、天才画家カラヴァッジョの見事な表現力がさえわたっているのだ。
 
 特に中央に立って、マリアと幼子イエスを慰めるために、ヴァイオリンを弾いている天使が素晴らしい。男でも女でもない、中性的な天使の優雅な後姿を、当時まだ20代前半でしかなかった若者の手になるとは思えないほどに、見事に描きあげている。(写真上)
 全画面は133×162cmもの大画面だとのことだが、今写真には写っていない左側には、天使のために楽譜を広げて持つヨセフがいて、その後ろには優しい目をしたロバの姿も描かれている。
 しかしこの絵の主役は明らかに、ヴァイオリンを奏でる天使であり、この見事に装丁された豪華本の表紙にと、編集者が選んだ思いもよくわかる。
 私が、CDショップで思わず手に取ったのも、よく知っているこの絵が、見事にトリミングされて表紙になっていたからでもある。(他にも、去年の12.28の項で書いているように、バッハの『ヴァイオリン・ソナタ集』のジャケット写真にもなっていた。) 

 後年、2001年東京で『カラヴァッジョ展』が開かれて、8点もの作品を見ることができたのだが、いまだに私は、あの「聖マタイのお召し」の絵を見られなかったことを悔いているのだ。 
 こうしてここまで書いてきたのは、一月前にこのブログで、映画『ピロスマニ」を見るために、わざわざ長距離バスに乗ってその大きな街にまで行って、その時のついでに本とCDを買ってきたと書いていたのだが、今回はその時に買ったCDについて、ぜひとも触れておきたいと思って、その前置きとしての話がすっかり長くなってしまったのだ。

 しばらく前の今頃には、この1年で買ったクラッシックCDのベスト10について書いたりしていたのだが、次第に購入枚数が減り、かろうじてベスト5を選べるくらいしか買わなくなり、それがさらにベスト3になってしまい、もう今年からはやめようと思っていたのだが、今回、久しぶりに箱セットもの3点を買って、そのいずれもが良い買い物だったので、どうしてもここに書いておきたくなったのだ。
 特にカラヴァッジョの絵が箱の表紙になっているこの1点・・・おそらくは、私のCD購入史上、最高の一品になるかもしれない・・・いや外観においては、これ以上のものにはもうめぐり会うこともないだろう。

 『モンテヴェルディの時代』 オーストリア・Outhere社製、RICERCARレーベル CD8枚組(曲目:モンテヴェルディの代表作『オルフェオ』から、同時代の作曲者たちのマドリガーレやミサ曲など、演奏者:ア・セイ・ヴォーチェ、コンチェルト・イタリアーノ、レザール・フロリサン、タヴァナー・コンソート他)、解説本229p。縦200mm×横145mm×厚さ60mm、総紙製、重さ1.2kg。(購入価格7657円、現在バーゲン価格で1000円安)

 写真上にあるような表紙側外観だが、それを開けると観音開きになっていて、両側に分かれ、以下写真下にあるように、左右ともにカラヴァッジョの絵で、左が「聖マタイのお召し」の部分画、右が「女占い師」(パリ、ルーヴル美術館)の部分画で、その下に取り出してあるのは、左は解説本で、表紙はあの有名なストロッツィ(1581~1644)によるクラウディオ・モンテヴェルディ(1567~1643)の肖像画、右には、紙ケースにCDが収められていて、その表紙はカラッチ(1560~1609)による、ジョヴァンニ・ガブリエリ(1554~1612)の肖像画である。



 今まで何枚ものCDを買ってきたけれども、これほどまでに持つ喜びを与えてくれたものはなかったと思う。
 これまでに買ってきたCDは、それが普通なのだけれども、プラスティック・ケースに収められていて(中には紙ケースに収められたものもあるが)、紙製のレコード・ジャケットと比べれば、どうしても無機質な感じがするのだが、この一巻は、もちろん8枚のCDがプラスティック製であることには変わりはないが、他はすべて紙製であり、明らかに別種の、豪華本としての手触りと重みを味わうことができるのだ。(そこに、ヨーロッパの人々のクラッシック音楽への思い入れを感じるほどだ。)
 演奏者も一流のバロック・ルネッサンス演奏者たちであり、中には今までにすでに持っているものもあるが、そんな重複など気にはならないし、昔に買ったCDのほうは処分して、この一巻があれば十分なのだ。
 クラッシック音楽ファンならば、特にバロック・ルネッサンス音楽が好きならば、まして初期バロック時代の最大の音楽家であるモンテヴェルディと、その時代の作曲家たちの音楽に興味がある人ならば、ぜひ手元に置いておいておきたいほどの一巻である。何より、その書籍のような外観と、選ばれたバロック演奏者たちによる8枚ものCD付きなのだから。

 しばらく前までは、もうクラッシック音楽CDは十分にあるから、これからCDは買う必要はないとかほざいていたのだが、ふと久しぶりに立ち寄ったCDショップで、この一巻を見つけてしまったのだ。
 それは、コレクターとしての最上の喜びというべきか、それとも、なかなかそこから抜け出せないコレクター中毒の苦しみというべきか。
 もっとも、最近話題になっている、不法物の中毒よりは、はるかに心にやさしい趣味だと思うのだが。考えてみれば、人間という生き物は、何はともあれ、”蓼(たで)食う虫も好き好き”に、様々なものの収集に酔ってしまう、コレクターとしての自己本能があり、それが、一つの生きる目的にさえなっている場合があるのかもしれない。
 
 ともかく、この豪華本CDの一巻が、この1年のベストであるだけでなく、私のレコード・CDのすべての中での、ベスト1になるのかもしれない。
 こんな”尾羽打ち枯らした”じじいにも、まだ喜びにめぐり会えることがあるのだ。神様・・・。
 
 さらに、この時に買った他の二点のセットものCDは。
 『エマ・カークビー リサイタル全集』 CD12枚組 DECCA L’0ISEAU-LYREレーベル、5065円 (言わずと知れたルネッサンス・バロック声楽ソプラノの第一人者であり、指揮者リュート奏者でもあるアンソニー・ルーリーとともに数々の名盤を残しているエマ・カークビー、すでに彼女のCDは何枚か持っているのだが、重複しても気にならないほどの内容であり、その上一枚500円にもならない値段に、つい手が伸びてしまったのだ。)
 『フレットワークが演奏するJ・S・BACH』 「バッハ名曲集、フーガの技法、ゴールドベルク変奏曲」 CD4枚組 harumonia mundiレーベル、3076円 (昔のヴィオール3人組時代のCDは幾つか持っているのだが、その後二人の日本人が加入したことは知らなかった。それにしても、やはりバッハの曲は、アレンジされたものでも聴いてみたくなるのだ。)

 ということで、この一年間の私のベスト・クラッシックCDは、たまたま買っただけの以上の三点とする。
 ただこうして、クラッシック音楽を聴く機会が減ってきたのは、言うまでもなくこのじじいの年甲斐もない”AKB狂い”によるものなのだが、それならば、そうした日本のJ・ポップと呼ばれる歌の中での、この一年のベスト3曲を選んでみるのも悪くはないだろう。
 まず、最初にあげたいのは、去年の10月放送の”のどじまんTHEワールド”で、インドネシアの女子大生ファティマが歌った『NARUTO 疾風伝』からの「ブルーバード」であり、今でも時々聞きたくなるほどの名唱だった。(去年の10.5の項参照)
 そして、次は乃木坂の去年秋の曲で、「今、話したい誰かがいる」(秋元康の乃木坂の曲に駄作はない)であり、紅白で歌った「君の名は希望は」が最高の名曲であることはわかっていても、あの曲はフル・バージョンで聞いてこそのものであり、今年の紅白にはこちらのほうがよかったのではないかと思う。
 最後に、AKBからは、誰でも歌える「365日の紙飛行機」を選びたいところだが(去年の11.9と23の項参照)、私は、去年の総選挙1位の”さっしー”指原と2位の”ゆきりん”柏木が歌ったのに、ちょうど”ゆきりんスキャンダル”でさんざん叩かれているころだったこともあるのだろうが、ほとんど注目を浴びることもなかった曲「やさしくありたい」は、今でもクルマの中で聞くたびにいい曲だと思うのだが。 

 こうして、じじいの闇の世界にも、若い娘たちの明るい歌声が一筋の光となって届いているのであります。

 前回恐ろしく長い文章になって、結局二日もかかってしまい、年寄りの気力体力を奪うことはなはなだしく、これでは残り少ない命を縮めるだけだと反省し、書きたいことをすべて書かないで、抑えめの分量にすることにしたのであります。 
 腹八分、何事も、やや足りないくらいがちょうどいい。

 (参照文献: 『カラヴァッジョ ファブリ世界名画集12』 平凡社版) 

   

  


雪山の光と影

2016-02-02 20:27:33 | Weblog



2月2日

 数日前に、山に行ってきた。
 前回の登山から、もう一か月以上もたっているし(’15.12.17の項参照)、そろそろ山に行かなければと思っていたのだが、天気と雪の降り具合と、なるべく平日にという条件がうまく重ならなくて、おいそれと出かける気にはならなかったのだ。

 しかし、時は来た。
 何しろ、沖縄で雪が降るほどの、最強寒波が九州を覆い、前回書いたようにわが家でも寒さをしのぐのに大変だったのだが、逆に言えば、高い山々は厳しい風雪にさらされていて、これ以上ない雪氷芸術を見るチャンスが来たということにもなるのだ。 
 ただ、なかなか天気が回復しないし、その日も曇り時々晴れの予報が出ていたから、山の上ではそれ以上に悪いことは目に見えている。
 いつもなら、このくらいの予報ならば、”晴天登山”を旨(むね)としている私としては、とても出かける気にはならないのだが、今後の週間予報では、寒波の峠は過ぎていて、明日は曇りでその翌日、翌々日は何と雨の予報になっているのだ。
 気温が高い雨の予報ということは、山の上の雪も溶けてしまうことを意味している。
 ということは、その十分ではない天気の日に行くしかないのだ。普通の人なら登山日和(びより)なのかもしれないが、私にとっては、もしかして青空が少しでも出てくれればと、天気を運に任せた登山になってしまうのだ。

 朝の気温-5度で、家の周りにはまだ15cmほどの雪が残っていて、1時間ほどかかる九重山牧ノ戸峠(1330m)駐車場までの道は、ずっと圧雪アイスバーンの状態だった。
 それでも、北海道での冬道の経験はあるし、この九重への冬道も毎年のことだし、それほど心配はしていないのだが、ただスタッドレスタイヤが5シーズン目になるのが気がかりだったので、スピードは抑えめにして走った。
 ただありがたいことに、たまにすれ違うクルマがあるくらいで、前後にクルマはいなくて気をつかわずにすみ、予想外に早く牧ノ戸に着いた。
 駐車場には、こんな曇り空の天気と雪道にもかかわらず、すでにクルマが30台余り。みんな雪山が好きなんだ。

 登山靴をはき冬用スパッツをつけただけで、アイゼンはつけずに出発する。
 ほとんどの人は、6本爪から12本爪までのアイゼンをつけて、遊歩道の坂道を登って行った。
 私も、もちろんザックの中に10本爪のアイゼンは用意してきているのだが、この雪の時期専用の、深いトレッドパターンの重登山靴をはいて、何度もこの九重の雪山を歩いてきた経験があるので、アイゼンは必要になった時につければいいと思っていた。

 もちろん、それだけでなく、何よりも私のものぐさからアイゼンをつけないだけの話なのだが、むしろつけたくなるのは、こうしたちょうど手ごろに踏み固められた粉雪の道ではなく、前を行く足跡があまりなく、雪が深い時にこそ、足元を確実にして登りたいのでつけるようにしているのだが。
 もちろん言うまでもないことだが、凍った斜面や岩稜帯が続く本州北海道の高山地帯では、12本爪のアイゼンとピッケルがないと歩けないが、この九州の山では使うべきところは限られているのだ。
 この九重で言えば、岩稜歩きになる星生山や天狗・中岳と黒岳など、さらに全面が凍り付いた久住別れの小屋前や御池など、さらに意外にも牧ノ戸峠からの遊歩道も、観光客などが多くて磨かれたツルツル道になることがあり、アイゼンをつけたほうがいいことは言うまでもない。

 さて、歩き始めてすぐに、いつもの霧氷(樹氷)の灌木のトンネルが始まる。曇っていても、やはり見事なものだ。
 展望台まで上がると、周りの山々が見えてくるが、依然として雲に包まれたままで、上のほうは隠れている。
 しかし、沓掛山前峰まで上がると、ちらりと青空の影が見えた。
 その先の沓掛山本峰(1503m)から少し下って、なだらかな尾根の縦走路を行くころには、はっきりと、しかし途切れがちに青空が見えてきた。
 そして、行く手に続く尾根と分かれて、左に伸びる星生山(ほっしょうざん)南尾根の一部が、くっきりと姿を現した。(写真上)

 本峰はその後ろにあるのだが、南尾根のその高みだけでも”威風(いふう)堂々あたりを払うがごとき” 姿だった。
 晴れた日に、後ろに星生山頂上稜線が連なっている時には、ただ手前のコブにしか見えない、その高みが、まるで”一国一城の主(あるじ)”であるかのごとき姿をして、流れゆく雲の中に見えている。
 私はいつも言っているように、快晴登山を心掛けているから、こうした雲の多い天気の日に山に登ることは少なく、まして雲の多い空が、青空へと劇的に変わっていくさまを見ることは、最近ではあまりなかったことでもあり、思わず立ち止まって、その光景に見入ってしまったのだ。

 様々な言葉が、私の頭の中をかけめぐっていった。
 ”光と影””陰と陽””陰影礼賛(いんえいらいさん)””引き算整理の写真” など・・・風景を表現するときに、よく耳にするいくつかの言葉と、雑誌などに掲載されている、一瞬の時をねらった、見事な山岳写真の数々が思い浮かんだ。
 時とともに動く雲の流れによって、余分なものが隠されて、自分の意図する主題だけが強く浮かび上がってくるからこそ、山の写真を撮る人たちは、こうした天気の変わり目の時をねらって来るのだろう。
 今日も、大きなザックに三脚をつけた単独行の人に、何人も出会った。
 山の写真家にとって、九州の山では、手軽に山に取り付くことができて、高山環境の雪山が見られる、この九重山の人気が高いのはもっともなことだと思う。

 こうして雲の間から時折のぞく光景の素晴らしさはわかってはいても、芸術的写真センスのない私は、むしろ、いつもすっきりと晴れ渡った空の下にある鮮やかな山の姿を見たいと思うし、そうした一点も曇りのない山の写真を撮りたいと思っているのだ。
 有名な写真家の先生たちが、最も撮ってはいけないという順光での”お絵かき写真”こそが、子供たちが素直にきれいだと思って描いた原色の絵のように、私のもっとも見たい光景であり写真なのだ。
 つまり、このブログでは何やら難しいことを書いたりしているけれども、頭はいたって単純であり、何も考えずに、きれいと思ったらシャッターを押しているだけの、独りよがりの山写真マニアなだけだ。

 そこが、光と影の世界を突き詰めて考え、自ら作り出していく芸術家と、目の前にあるものだけしか見ていない”ディレッタント”、好事家(こうずか)、マニアとの違いなのだろう。 
 しかし、この年になって、今さら芸術家然として、写真の撮り方に凝ったところでどうなるというのだ。
 これからも、(能天気ではなく)脳天気なじじいのまま、青空の下にすっきりと裾野から頂上までもが見える、あの富士山のような写真を撮っていきたいと思っている。それが私の、山の趣味であり、私だけの楽しみなのだ。

 そして、ゆるやかに登り続けた扇ヶ鼻分岐あたりから、突然、北側の空に、今までの白濁色の中から、目もくらむような青空が広がってきた。 
 ”ブラボー、ブラビッシモ!(ブラボーの最上級)”
 平坦な西千里浜の向こうには、巨大な白鯨(はくげい)のような星生山(1762m)が長々と横たわっていて、さらに東へと続く尾根の先は星生崎(1725m)の急な岩稜帯となり、雪に覆われたその姿は高山らしい雰囲気にあふれていた。(写真下)

 

 そして、行く手には、氷雪芸術であるいくつものシュカブラ紋様を前景にした、いつもの久住山(1787m)の姿が見事なのだが、背景に青空が少ないのが残念だった。
 とは言っても、何度も立ち止まり、何枚も写真を撮って行く。
 星生崎下のコブを越え、久住別れの避難小屋へと下り、そこから久住山への道と分かれて、中岳方面へ向かう。
 雪は吹き溜まりでは数十センチもあるから、やはり踏み固められた道をたどったほうが歩きやすく、頂上からの展望を考えると、どうしても天狗、中岳方面へと足が向いてしまうのだ。
 登山者もさほど多くはなく、遠く離れて一人二人と見える程度だ。
 
 空池のふちを上がって、そのまま手前の御池の方には行かずに、急な岩礫の斜面がシュカブラに覆われた天狗ヶ城へと登って行く。振り返ると久住山がひときわ大きくて立派に見える。(写真下)



 この時も、できることなら後ろは明るい青空であってほしかったのだが、雲の間からところどころに日が当たるだけの、いかにも寒々とした光景になってしまった。それはそれで、記憶の風景としてはいいのかもしれないが。
 ともかく、山には、姿形はそれほどでなくとも、この天狗ヶ城のように頂上からの他の山々の眺めが良いものと、逆に久住山のように頂上からの眺めはさほどでもないけれども、他の山々から見ると立派に見える山があるのだ。もちろん、両者を兼ね備えた山が良いことは言うまでもないことだが。
 さらに登って行く西斜面には、風が強く吹きつけてきて、寒いうえに、体ごと振られそうになるほどだ。
 身をかがめながら、ようやく天狗ヶ城(1780m)にたどり着いた。
 すっきりと開けた東側に、ちょうど雲間からの光が当たって、白い中岳(1791m)と、その後ろには、山肌をミヤマキリシマやドウダンツツジなどの灌木に覆われて、少し暗く見える大船山(1787m)が控えていた。(写真下)

 

 出発前の、天気の不安を思えば、予想外の天気の回復であり、青空の広がりが十分ではなかったにせよ、こうして雲のかからない山々を眺められただけでも、ありがたいことなのだ。
 コースタイム2時間余りのところを、3時間もかかっているが、ここまでにもう150枚近くの写真を撮っていて(本当にデジタル時代になって良かったと思う、下手な写真を心おきなく撮ることができるからだ)、さらにはもうじじいである私の体力を考えれば、いくら時間がかかろうと無理しないで歩けばいいだけの話だ。
  北尾根を少し下った斜面の所で、風をよけて腰を下ろし、温かい飲み物を飲んで軽い昼食をとった。そういえば、登山口から一度も休まずに来て、腰を下ろすこともなかったのだ。
 上空の雲はさらに隙間なく広がってきて、山々はすっかり輝きを失っていた。
 これなら、中岳まで行ったところで意味はない、今日はここまでで戻ることにしよう。

 しかし、風に向かっての急斜面の下りはつらかった。
 厚手のフリースに、冬山用ジャケットの服はともかく、冬用の厚手の手袋だけでは手が冷たくて(冬用のオーバー手袋を持ってくるべきだった)、手袋の中でグーを作って握りしめているほどだった。
 久住別れに戻って、ようやく風が落ち着いたのだが、それまでの吹きさらしの風で、頭全体がぼーっとして、まだふらふらとさ迷い歩いている感じだった。
 しかし、手や足先には、冷たさの後のぽかぽか温まる感じが戻ってきて、ようやくいい気分になった。
 さらに再び、西千里浜から振り返り見ながら、シュカブラの彼方の久住山の写真を撮っていき、さらのその先の、最後の光が差していた扇が鼻付近でも、あくことなく何枚もの写真を撮った。
 朝と変わらずに、粉雪のままの踏み固められた縦走路を下り、少し登り返して、沓掛山の頂上からたどってきたコースを見ると、上空はすっかり雲に覆われてしまい、山々にもその雲がかかり始めていた。 

 私が山にいた間、山々が見えて、少しの間だったが、青空も広がってくれて、何とありがたいことだろう。じじいにはまさに適度な、往復6時間の雪山ハイクの一日になったのだ。
 そして、クルマに乗って家に戻る道すがら、朝、あれほどに一面白の圧雪一部アイスバーン状態だった道が、除雪車の出動と、気温が5度くらいまで上がったためだろうか、見事に雪は溶けていて、普通の道路状態になっていたのだ。
 そういえば、私が縦走路を戻ってくる途中、(試験休みらしい)軽装備の若者達のグループが二組も登ってきていて、よくあんな冬道をクルマで上がってきたものだと思っていたが、つまりはこうして雪がもうなかったから来られたのだろう。 
 つまり、九州の雪山については、そこに行くまでの道も、山の上の雪もすぐに溶けてしまうということなのだ。
 そして、さらに天気予報通りに、そのあとの二日続けての雨で、家の周りの雪はもとより、山の雪も大部分が溶けてしまったのだ。もっとも今日からまた少し寒くなり、ライブカメラで見る牧ノ戸峠には、雪が降っていたが。

 
 さて山の話はそのぐらいにして、前回のテレビで放送される映画について、まだ書き残していたものがあるのだ。
 まず、何と、あのイングマール・ベルイマン(1918~2007)の『第七の封印』(1957年)が、今週末NHK・BSで放映されるのだ。
 ”ワオーン、ワンワン”と吠えたい気分なのだ。

 一年前まで、私は、東京にいた若いころに名画座で見たあの『第七の封印』を、何とかしてもう一度見たいと思っていたのだが、一般受けするような映画ではないから、テレビ放送されるとはとても思えないし、かといってDVDも廃盤のままで、ただ例のごとく、高価なオークション値段の中古DVDはあったのだが、とても買う気にはならず、何ともやりきれない思いの日々を送っていたのだが、1年前のweb上に、何とこのDVDが新たに発売されることになったとの告知が載っていて、それは映画館二回分くらいもする値段だったのだが、すぐに注文して手に入れ、家のテレビでようやくじっくりと見ることができたのだ。 
 そうまでして、やっと手に入れた『第七の封印』が、今週末、NHK・BSで放映されるのだ。

 今手元に持っているDVDを見て、もったいないことをした、一年待っていればテレビで見られたのにとは思わない。それはそれで、あの時に、久しぶりに会った映画の喜びを味わったのだから。 
 そのこととは別に、録画コレクターとしても、あの『第七の封印』がテレビであるとなれば、これを録画せずにいられようか。
 断わっておくが、これはあくまでも風変わりな映画観を持った、私個人の、独断と偏見による”私の好きな映画ベスト5”の中の一本というだけのことであり、広く誰にでも薦められる映画ではないのである。
 ただ私としては、もし世界のすべての映画監督の中から一人だけを選ぶとすればという問いかけがあれば、迷うことなくすぐにその名を挙げるだろう映画作家であり、そんなイングマール・ベルイマン監督の作品の中でも、1,2位を争うほどに、私が強い感銘を受けた映画だから、多少の興奮をもって、テレビ放映を機に、ここに書いてみたくなったのである。

 何度も言うけれども、この白黒フィルムの古い映画は、全編が陰鬱(いんうつ)な空気に覆われていて、いわゆる”ロードムービー(旅物語)”的なストーリーはあるものの、難しい哲学的な話が出てくることが多くて、楽しく面白くなければ映画ではないと思う人々には、はなからとてもついていけないし、見る気もしない映画だということになるだろう。
 しかし、こうして私に深く考えさせるような、その映画の小難しさこそが、私には思考のパズルとしての面白さなのであり、また、その命題に答えを出すべく、単純な頭で考えていくことこそが、例えは悪いけれど、女王様にムチで叩かれているような、苦労して思考することの快感へとつながるのだ。
 
 この映画は、言って見れば、考え込まれて作り上げられた、大人のためのおとぎ話なのかもしれない。
 中世の時代の北欧、ようやくキリスト教が広く伝播(でんぱ)して根を下ろし始めたころ、一方では、北欧神話にあるような原始的な民族信仰の残滓(ざんし)も見受けられる時代、そうした北欧のある国で、十字軍の戦いを終えて故郷の城に戻るある一人の騎士と、その周りの人々が織りなす、死への旅立ちの物語である。

 十字軍の兵士として、理想に燃えて、キリスト教信仰を掲げて向かった異教徒との戦いの場で、彼が見たものは、すべてを打ち砕く死の世界であり、心身ともに傷ついて故郷に戻る途中で、さらに彼が見たものは、頑迷(がんめい)な信仰による弊害と、恐るべき疫病(ペスト)の蔓延(まんえん)であり、彼は戦場にいたころから取りつかれていた死神の幻影が、今はっきりと目の前に現れたのを見るのだ。
 そこで、彼は命の猶予(ゆうよ)を願うために、その死神とチェスの勝負をする。白夜の海を背景に二人が向き合う、何という不気味で美しいシーンだろう。

 従者とともに故郷への旅を続ける彼は、旅の役者一行や魔女裁判にかけられる娘、浮気性の妻を探す木こりの男や、ただ一人生き残った百姓娘たちに出会い、彼らを引き連れて、自分の居城に戻ったが、そこにはただ一人自分の妻が待っているだけで、彼女の背後には、あの死神の姿が見え・・・やがて人々は、連れ立って踊りながら、裏の丘へと登って行く、大草刈り鎌を持った死神を先頭にして・・・一度見ると忘れられない、あの裏山のシルエット・シーン。
 先にあげた死神と騎士のチェス・シーンと、この裏山の人々のシルエット・シーンの二つだけで、逆に言えば、この映画のすべてが語られているとも言えるだろう。
 ベルイマン自身は、後になってこの映画は子供の時に見た古い教会の壁に描いてあった絵を憶えていて、この映画のストーリーを考えついたと語っているが、そうした歴史背景を考慮に入れ、十字軍の兵士と死神というシンボリックな対決を主題としながらも、宗教戦争の無意味さと、疫病地獄の前の人間の無力さを、目前に迫る生と死の問題としてとらえ、静謐(せいひつ)な白黒画面の中に描き出したのだ。

 (ちなみに、この”第七の封印”とは、新約聖書の最後に置かれた「ヨハネの黙示録」にある、第8章の”子羊が第七の封印を解いた時・・・”以下に、御使いのラッパの音とともに示される全人類へとおよぶ禍(わざわい)の様が描かれていて、あの有名な、人類滅亡の時が始まるのだ。) 

 日本ではまず企画されることもないだろう、宗教哲学的な問題を、臆(おく)することなく正面切って取り上げた、稀有(けう)な作品であり、興味のない人にとっては、見るに値しないただの古臭い映画にしか思えないことだろうが。
 そして、それでいいのだ。人はそれぞれ姿かたちが違うように、その思いや考えが違って当たり前だし、人それぞれのベスト10の映画は、決して同じにはならないだろうし、それが他人と自分を区別する個性にもなるのだから。
 ただこれが、私の好きな映画だというだけの話だ。
 
 さらに、この映画の中に出てくる、箴言(しんげん)とでもいうべき、様々な言葉の一つ一つを取り上げていきたいところだが、それでは、ただでさえ膨らんだ今回の原稿量が膨大なものになってしまう。
 そこで、とくに有名な”神の沈黙”や”内なる神との相克(そうこく)”といった問題だけに絞るとしても、それこそが、さらに後のベルイマン映画でも繰り返し語られる重要なテーマになっているから、以後の主要なベルイマン映画のそれぞれについても引用し、さらには背景となる北欧の歴史や宗教社会なども参考にして、この『第七の封印』について考えていくことになり、浅学軽薄な私にはとてもそれだけの力はなく、それが1年前にDVDを購入して見た後、感動のままに、すぐさま感想文をまとめられなかった大きな要因の一つでもある。
 
 さらに、これも前回書くつもりでいたのに、イタリア映画の話でいっぱいになり、書き加えられなかったのだが、数日前に同じようにNHK・BSで、ドルトン・トランボ(1905~1976)によるアメリカ映画『ジョニーは戦場に行った』(1971年)が放送されていた。
 これは、今まで何度かこのNHK・BSの”アカデミー賞特集”などで、放映されていたから、私もDVDに録画してはいたのだが、そこは映画ファンのコレクターとして、新たにブルーレイにちゃんと録画しなおしたのだ。

 第一次大戦でアメリカから出征した若者が、四肢(しし)損壊、大脳損傷というただ生きているだけの物体に過ぎない形で帰還するのだが、しかしそんな体になりながらも、かすかに人間としての彼の意志は残っていたのだ。
 1939年に原作を書いたドルトン・トランボは以後、反戦的な国家反逆罪に値するなどとして、たびたびその本の発禁処分を受けたほどなのだが、彼の信念は強く、32年後、自らが監督となってようやく映画化したのだ。
 当時、映画を見た人が誰もがそうであったように、私も衝撃を受けたのだが、そこで私が感じたのは、反戦思想というよりは、もっと深いところに起因する、人間の生と死の問題についてであった。
 その意味では、今回取り上げたこの二つ映画の底辺あるものは、永遠に解決することのできない問題である”人間はなぜに生き、なぜに死ぬのか”ということについての、真摯(しんし)な問いかけだったと思うのだが。

 この映画についても、他の映画などの例を挙げて、アメリカ映画史の一つの流れをたどることもできるし、またそれに対するものとしての、アメリカ映画史の王道の流れを考えることもできる。
 ただ、私は映画の評論家でもなければ社会歴史学者でもない、ただの一映画ファンに過ぎないので、底の浅い知識が尽きる前にこのあたりで終わりにしたいが、これからもことあるごとに、気になる映画があれば、その都度、取り上げていきたいと思っている。
 それは、私が一つの山について書くのと同じように、そして一冊の本について書くのと同じように、また音楽やオペラについて書くのと同じように、さらには歌舞伎や人形浄瑠璃(じょうるり)についても書きたくなるのと同じように、私にとって、生きていくうえで、これからもかかわっていきたい実に興味深い分野の一つ一つだからである。

 その最後にあげた日本の古典芸能の一つである人形浄瑠璃であるが、江戸時代の大阪の人形浄瑠璃の作者、近松門左衛門(1653~1724)を主人公にしたNHKテレビドラマ『ちかえもん』が、おなじみの”木曜時代劇”として三週間前から始まっていて、特にその第一回目の冒頭には、あの『曽根崎心中(そねざきしんじゅう)』の出だしの、「この世のなごり、夜もなごり。死ににいく身をたとうれば、あだしが原の道の霜。」という有名な語りが謡われていて、もうそれだけで期待が高まるのだ。
 確かにNHKの時代劇だから、細かいところまで時代に沿った形でセットされていて、それは安心して見ていられるけれども、今の時代の歌を入れたりして現代風に遊んでいる部分が多く、道化役を入れて茶化しながら、喜劇仕立てにもしていて、そのおふざけもギリギリのところでかろうじてとどまっているから、何とか見ていられるのだが。
 せっかくの題材だから、もっとその時代らしく、突き詰めた雰囲気の中でやってほしいというのが本音のところだが、それでも毎週見たくなる時代劇ドラマではある。
 それにしても、ああ、久しぶりに、本物の文楽『曽根崎心中』の舞台を見たくなった。 
 
 こうして、年はとっても、山には登りたいし、映画は見たいし、文楽も見たいし、AKBの歌も聞きたいし、余りにも多くの煩悩(ぼんのう)があって、まだまだ死にきれずに、しぶとく生きていたいのだ。 

 (参考文献: 『世界の映画作家9 イングマル・ベルイマン』 キネマ旬報社、『ベルイマンを読む』 三木宮彦著 フィルムアート社)

 (追記: 昨日、登ってきた山について書いていたのだが、追加事項として映画について書きたくなり、いつの間にか分量が多くなってしまい、とても昨日だけでは終わらせられなくなり、とうとうここまでかかっての、二日分もの原稿量になってしまったというわけだ。
 前回、前々回と続いた、途中で原稿消失という事故ではないのだけれども、またしても今回も投稿が一日先に伸びてしまった。それは、じじいになって集中力がなくなってきたからだと思うべきか、それとも、じじいになってよく二日にもわたって書いているというべきか。・・・羽根車の中を回り続けるハツカネズミのように。)