ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

北の国から、再びの春

2014-04-28 20:16:46 | Weblog

 

 4月28日
 
 数日前に、北海道に戻ってきた。
 まだすべてが冬枯れのまま景色だけれども、あたり一面雪に覆われていた冬と比べれば、それだけでも確かに春だった。
 カラマツの林のそば、日陰になったところに少しだけの残雪があり、冬の姿を忍ばせていた。(写真上)


 帰ってきた日は、曇り空で寒々しく、気温も13度くらいしかなかったのだが、その後晴れた日が続き、気温も一気に20度を超える毎日になって、一昨日など、帯広では27度と鹿児島と同じ夏日になっていた。

 日本の北と南の気温が、日本国内で一番高かったというのも、なかなか面白い現象だった。

 帰ってきた日に、庭の片隅で、とがった緑の葉の間からのぞいていた鮮やかなクロッカスのつぼみは、この暖かさで一気に開いて、周りがすべて枯れ草色なだけに、強烈な春の命の色彩を見せていた。(写真)

 
 
 林のふちでは、こちらはいかにも野の花らしい落ち着いた色合いで、フクジュソウの黄金色の花が二つだけ、花開いていた。
 園芸種のクロッカスと、野草のフクジュソウ。人間がかけ合せて作りだした鮮烈な色彩と、自然界のなじみある色合い。
 どちらがどうだという前に、私には、いつも春の到来を一番先に教えてくれる、大切な花々である。

 そしてこの二つの花が嚆矢(こうし)となって、草花や木々の若葉の緑がいっっぱいに満ち溢れて、北海道の春は一気に、あるいは爆発的な勢いで広がっていくのだ。
 たとえて言えば、管弦楽曲『春の祭典』。
 あの北国のロシアの大地で、すべての命ある物たちがうごめき出し、むせ返るほどに増え、やがては飛び跳ねるような活気に満ち溢れる、春の様子を表現した、あのストラヴィンスキーの『春の祭典』の冒頭部の全奏音の高まり、命の開放感あふれる喜び。

 私は九州でも、すでに春の訪れを見てきていたのだが、そこではまだ真冬のころから、雪のない大地のあちこちで少しずつ、ゆっくりと春の予感を感じていた。
 真冬でも、サザンカの花が咲いているし、日当たりのよい斜面では、あのオオイヌノフグリやハコベなどの小さな野の花を見つけることができる。
 さらに山の中にある家から、ずっと下った町にまで行けば 、そこここに、黄色い菜の花やスイセンの花さえも目にするることができたのだ。
 同じころに咲き始めたウメの花が終わると、一気に春の盛りの華やかなサクラの季節になる。 

 こうして、私はぜいたくにも、一年で二度の春を迎えることができるのだ。
 しかし、ということは、九州での鮮やかな新緑の光景を見ることはできなかったし、また北海道の早春、長い冬が終わり日ごとに雪が少なくなっていき、ついには去年以来の地面が現われてきて、初めての緑色である、芝草やフキノトウの芽が顔をのぞかせるころの、湧きあがる喜びを味わうことはできなかったのだ。

 何事にも、いいことばかりではなく、その裏には公平に、いつもそれを相補う形での良くないこともあるということだ。

 九州の家では、毎日風呂に入って、次の日はまだ温かい風呂の残り湯で洗濯ができたし、水道の水で普通に洗い物ができたし、ウォシュレットなどではない旧式の便座だが、ちゃんと水洗トイレを使うこともできたのだ。
 ところがこの北海道の家では、井戸水だから、それも6mほどの深さしかない浅井戸だから 、いつも枯れてしまうことを気にして十分には使えない。
 ゴエモン風呂にはその水を大量に使うから、いつも1週間くらいはそのままの溜め置きで、沸かすのにも時間がかかるからたまにしか入らない。風呂好きな私だから、毎日入りたいのに。
 洗濯は、井戸水が冷たい上に、雑排水は地下浸透だから、多少はまた井戸水に戻るのではと気になって。最近はほとんど町のコインランドリーを利用している。

 さらに問題はトイレだ。大きい方は外の小屋に作った溜め込み式のトイレなのでいいとしても、年を取ってから、夜中にトイレに起きるようになって、そのたびごとに家の外に出て立ちションするしかないのだ。
 おお寒っ、冬場ならなおさらのこと。
 そのうえ一軒家の真っ暗な外だから、いつヒグマが出てきて、間違えて先っちょをかじられないかと気になるし。 

 というわけで、いかにも豊かな”北の国から”の生活のように見えて、実は、内情はあばら家での原始生活と言ってもいい程度のものなのだ。
 まあそれでも、電気は来ているから、こうしてパソコンは使えるし、テレビを見てひとり馬鹿笑いすることもできるのだが。

 ところが、この度帰ってきたら、何と井戸のポンプが動かないのだ。
 毎年凍らないように、吸入・吐き出しのパイプは外して、本体の水抜きもしていたのに、ポンプのモーターが動かない。
 取り外して見てみたが、とても素人(しろうと)の手におえるものではない。
 このポンプは二代目で十年ほどになるが、今までにも二回ほどこの冬場の凍結等で故障して、そのたびごとにかなりの修理代がかかっていた。
 
 その修理代を考えればと、思い切ってポンプを買い替えることにして、ネットで調べると近くの大きな町のホームセンターよりはずっと安くなっていて、すぐに注文して三日で届いたのだが、さて事はそう簡単には運ばなかったのだ。
 今までのポンプにつないであった塩ビパイプとの金属継ぎ手がさび付いてしまっていて、手持ちの工具とサビ取りスプレーぐらいではびくともしないのだ。そこでスパナで挟んで、ポンプ接続金具を金づちでたたいて回そうとしていたら、そこがポロリと折れてしまった。
 万事休す。

 もうこうなれば、新たに吸入・吐き出し用の塩ビパイプと継ぎ手の部品などを買ってきて、自分でできないこともないのだろうが、もうこの年寄りにはそんな元気は残されていなかった。
 地元の工事店に、お願いするしかなかったのだ。
 やれやれ、ネットで安いポンプを買ったまでは良かったのだが、そして周りのみんなにいい買い物をしたと言いふらしたのに、結局は素人の先走りにすぎなかった。

 よくあることだ。うまくいったことはさも自慢げに話してまわり、しくじったことはあまりみんなに話したくはないものだ。
 そういえば、あのエラスムスの『痴愚神礼賛(ちぐしんらいさん)』の中に、こういう古いたとえ話が書いてあった。


 「人間はズダ袋をかついでいるが、前のほうの袋には自分のよいところを入れ、後ろの袋には自分の悪いところを入れておくから、自分の悪いところには気づかない。」

 エラスムス(1466~1536)は、ルネッサンスから宗教改革期のネーデルランドにおける高名な人文主義者であり、神学者でもあり哲学者でもあった。
 彼が書いた『痴愚神礼賛』は、当時の堕落した王侯貴族や聖職者たちを痛烈に批判風刺した作品であり、それが当時の一般民衆にうけて、ベストセラーになったとも言われている。
 さらに彼は、あの『ユートピア』を書いたイギリスのトーマス・モア(1478~1535)とは深い友情で結ばれていたが、モアはヘンリー8世のイギリス国教会への改変に反対して刑死してしまう。
 そのモアのひたむきな生き方を描いていたのが、あのフレッド・ジンネマン監督の『わが命つきるとも』(’66)であり、前にもこのブログで少し触れたことがある。(3月24日の項参照)

 ところで、この話は、古くローマ時代のホラティウスやペルシウスなどが書いた、風刺詩の中の一節としても知られていて、それをエラスムスは、この本の中で、賢人ぶった人たちにたとえて皮肉って書いていたのだ。
 
(以上『世界の名著 エラスムス トマス・モア』より『痴愚神礼賛』渡辺一夫・二宮敬訳 中央公論社)

 前回、あの上田秋成の『癇癖談(かんぺきだん)』について少し触れたのだが、思えば洋の東西を問わず、いつの時代にも、おごり高ぶる人々をにがにがしく見つめては、皮肉り風刺する文を書かずにはいられない人々がいたのだ。
 つまりどのような世の中でも、悪の意識すらなく我欲をむさぼり生きた人たちがいて、それに対する形で正しさを求め良心に従い行動した人たちがいて、しかし、多くの人々は、自分の身の回りのことだけで、生きていくだけで精いっぱいだったのだろう。
 
 世の中は、少しは進歩しているようで、実は昔と大して変わってはいないのかもしれない。
 季節が移り変わっていくように、ただ人々が変わっているだけなのかもしれない。
 みんな同じように、喜び悲しみ、笑い泣いただけのことなのかもしれない。

 私がこちらに戻ってきて、毎日快晴の日が続き、気温もぐんぐんと上がり、むしろ九州にいた時よりも暖かく(ただし明朝は-5度くらいにまで冷え込むとのことだが)、帯広では、昨日北海道内で一番早く、エゾヤマザクラの花が開花したとのことだ。
 家の庭でも、昨日エゾムラサキツツジの花が二つ三つ開いたかと思ったら、もう今日はいっぱいに咲いている。(写真下)

 ナナカマドの芽が盛り上がってきて、桜のつぼみも赤く見えてきた。今年は明らかに、すべての花の咲くのが早いようだ。
 そして、十勝平野の彼方に立ち並ぶ日高山脈の稜線は、まだ白く連なっているが、山の雪は今の時期としては少なめだった。
 つまり、私はもうその山の一つに登ってきたのだ。

 次回は、その山の話について。


  
  


  


シャクナゲとクセ

2014-04-21 18:50:46 | Weblog

 

 4月21日

 晴れて暖かい日が続いた後、雨の日に変わって少し肌寒くになってきた。
 適度な日の光と、適度な水分。当たり前のことなのだろうが、なるほどこうして植物たちは成長していくのだと思う。
 寒さが続けばなかなか花は開かないし、花が開いても寒さにやられてしおれてしまうこともあるし、強い風で吹き飛ばされてしまうこともある。
 その後日照りが続いたり、あるいは逆に水浸しの日が続いたりすれば、もちろんのこと、枝葉の繁りや実の付き具合が悪くなってしまう。
 それぞれに持って生まれた、その木々の性向やくせがあるとしても・・・。 
 
 家の庭の花も、この晩冬から早春、春たけなわの今にかけて様々が花が咲いて、私の目を楽しませてくれた。
 木の花だけでも、サザンカ、ジンチョウゲ、ウメ、コブシ、サクラなどがあり、そして最大の華やかな見ものになるのがシャクナゲである。
 毎年、このブログでも取り上げたくなるほどの(’13,4.14の項参照)、待ちに待った開花なのだ。 
 
 冬の間、まだ小さな固いツボミだったものが 、春の日差しを受けて次第に大きくふくらんでいき、ある日そのツボミが割れて、包まれたままの赤い花びらが顔をのぞかせると、もう開くのは、あと一押しの暖かい日の光だけだ。(写真上、4月10日時点)
 そして、二日後には咲き始め、一週間後には一気に五分咲きほどになり(写真下)、今日は雨の中だが、もう八分程の花が開いている。

 
 

 若いころには、花なんぞには大した興味もなく、ああ咲いているなぐらいにしか思わなかったのだが、一つには、山の上での高山植物を見たり写真に撮ったりしているうちに、さらには年を取ってきて、同じ命ある生き物だと分かってきてから、今まで以上にその生育過程などが気になって注意して見るようになってきたのだ。
 まあ人間とはわがままなもので、いつも自分の生育、年齢に合わせてしか周りのものを見られないのだ。

 若いころには、周りの若者たちの行動だけが見比べる基準になるし、やがて家庭を持てばそうした生活を維持する大人の人間たちが基準になり、年を取れば同年輩の健康・病気だけが関心事となる。
 もっともそれらのどれ一つとして、自分と同じ事例などないのだが。
 時と環境と、彼らのその時その時での決断だけで、様々な違いが生まれ、いつしかそれは自分だけのスタイルやり方になって、性格・クセとして形づくられていく。
 そして、それらが良くも悪くも自分の個性になっていくのだろう。

 その点で言えば木々も同じことだ。
 もともと持っていた遺伝子を受け継いでの、その木の性質が、さらに周りの環境によって、様々に変化して、今ある木の形になっているのだ。

 このシャクナゲについて言えば、実はこの木は家の庭の環境に一番合っているのではないのかと思われるからだ。
 植えてから12,3年にもなる、ツクシシャクナゲの園芸種なのだが、いまでは2mを超すほどの高さにもなったし、ともかく大ぶりな花を枝先いっぱいに咲かせて、毎年花の数が増えていくばかりなのだ。

 家の庭は、わずかに勾配のある山すそ斜面にあるのだが、全体にやせた土地で 土は火山性の粘土状のものであり、昔からあったヤマザクラなどは、それほど大きくはならなくても、それなりに土地になじんで毎年いっぱいの花を咲かせてくれるのだが、 今までに植えたことのあるスオウやヤエザクラなどは、いつの間にか枯れてしまった。
 それなのに、シャクナゲは酸性土の
この土地にうまく合ったのだろう。今では家の庭木の中では、一番華やかな見ものになってくれたのだ。

 シャクナゲという木は、日陰に強いと言われているが、確かに家には他にも二三本あり、そこでは他の木が大きくなって、日当たりが悪くなったりしてるのだが、それでも何とか日の当たるほうへと、枝葉を伸ばして、そこで幾つかの花をつけている。
 しかし、いつまでも、それぞれの木が伸びるままにしておくわけにはいかない。私は、この土地にあったこのシャクナゲを大きくするべく、他の木々を切る決心をしなければならないのだが、それらの木には申し訳ない気もするし・・・。
 そうした私の優柔不断さが、家の庭をまとまりのないものにさせてしまったのだ。
 
 考えてみれば、植物たちに対する憐みの思いと、ともかくものが多ければよいという、貧乏根性が抜け切れないのは、おそらくは母の性癖からきているものなのだろう。
 母は、初めのうちは芝生の庭の雑草をていねいに取っていたのだが、すぐにこれはハルリンドウの芽だから、スミレの葉だから、秋にクサモミジになるからと、いろんな野草の草花を残したものだから、芝生の庭はあっという間に雑草だらけになってしまった。 

 最初は、ひどい庭になったものだと思っていたが、そのうちこの雑草だらけの庭もまた一興あるのかなと思うようになってきたのだ。
 確かに小さなハルリンドウの花はいじらしいし、キクザキスミレはこの地方特有のものだし、オキナグサも絶滅危惧種の一つだしと、むしろそれらを生かして楽しみに眺め、雑草は主にタンポポ、ニガナの類を引き抜くだけにしたのだ。
 いつの間にか私は
母の野の花への思いと、草取りのクセを受け継いでいたのだ。

 
 人は、親の性格的なものを遺伝的に受け継いでいるというけれども、それは医学的に証明されるものというよりは、長い間一緒に暮らすうちに、次第に影響され受け継がれるものではないのかと、つまりはその家族のクセではないのかと思っているのだが。
 生まれた時からずっとそばにいて、一緒に生活してきた子供が、親に似るのは当たり前のことかもしれないが、それは血縁としてのDNAによるのではなく、いわゆる動物の”刷り込み” 現象と似たような、親と同一行動をとることによる、行為の受け継ぎなのではないのだろうか。
 考えてみれば、私が母から受け継いだ性格的なものは、幾つか思い当たるふしもあるが、またそうではないものも数多くある。
 
 それは人間の間だけではない。動物との間にだって、あることだ。
 飼っているイヌやネコの性格が飼い主に似ているとか、またその逆に飼い主の顔つきがそのイヌやネコ似てくるとか、よく言われていることだ。
 ともかくも、一筋縄ではいかない人間の性格やクセは
、”なくて七くせ、あって四十八くせ”と言われるほどに様々なものなのだ。
 それを一つ一つたどって行けば、実に興味深く、それぞれに精神分析学的な研究の対象となりうるし、またそこから芸術的なあるいは科学的なひらめきが生まれてくる、源泉ともなりうるのだ。


 しかし、注意してみれば誰にでもある
その人だけの変わった性格やクセは、口さがない人々から見れば、格好の揶揄(やゆ)の対象となるのだ。
 そのあたりの観察力が、あの”笑っていいとも!”でのタモリは見事なものだった。
 お笑いの流れに乗せて、軽くからかうさまはまるで、年寄り子供の喜ぶさまと同じだった。
 (『笑っていいとも!』が終わったおかげで、昼休みにはニュースと『徹子の部屋』でも見て、30分で切り上げることができるようになった。ここでは大英断を下したテレビ局に感謝すべきだろう。) 

 そこで思い出したのが、あの江戸時代後期に大阪で活躍した上田秋成(1734~1809)である。
 いうまでもなく、彼は日本怪奇幻想文学の祖とでも呼ばれるべき人であり、名作『雨月物語』や『春雨物語』などの浮世草子・読本作家でもあるが、一方で 本居宣長との論争でも有名な国学者であり、様々な趣味人でもあった。

 彼は他にも風刺のきいた随筆・草紙などを数多く書いていて、その中の一冊に『癇癖談』(かんぺきだん) があるが、その巻頭の文で彼自身が、これを”くせものがたり”と呼んでも構わないと書いているが、この”くせものがたり”が”いせものがたり(伊勢物語)”をパロディー化したものであることはあきらかである。
 もちろん、これは彼が愛すべき古典『伊勢物語』をよく研究し、傾倒するあまり、その形式を借りて、言葉遊びを入れて、世の中のえせ文化人・通人たちを痛烈に批判した随筆集になっているのだ。
 その限りで言えば、またこれは、あの中世の優れた隠者文学・随筆集である、『方丈記』や『徒然草』の風刺 にも通じるところがある。
 彼自身が、鴨長明や吉田兼好と同じように、晩年、山里に隠棲(いんせい)していたことからも、その考え方がうかがえるのだが、さらに彼は、そんな自分自身の姿さえも、皮肉を込めて書き綴っているのだ。

「・・・作者はたれともしるさざれど、伝えていふは、在郷の中将とかや。
 さだめて、田舎道場の新発意(しんぼち)どのが、やつし腹して、才まぐるものか。文辞(ことば)の京めかせると、故事を雅俗を摘みきたれるとを、これやそれと闇(めくら)のつぶての、当粋(あてずい)なかしら書して、おのが洒落社中(しゃれなかま)にひけらかさむとす。・・・」

 これを、自分なりに訳してみれば、「・・・作者は誰とも書いていないけれども、伝え聞くところによれば、田舎に住む位のある人とのことだ(『伊勢物語』の作者、在五中将在原業平 をもじって)
 いやきっと、田舎のお寺の説教の場で語るような、新米の坊主が、洒落っ気を出して、自分の才気をひけらかしたものだろう。 
 言葉づかいを都風にして、昔から言い伝えられていることなどを、雅(みやび)な言葉や卑俗な言葉におきかえて、 めくらめっぽうに粋がって書き散らかし、洒落の分かる自分の仲間たちにひけらかそうとしたのだ。・・・」

 それから、『伊勢物語』の始まりと同じように、『むかし、をとこありけり。・・・』から始めて、当時の”好きもの
たち”(好事家)の、それぞれの理にかなわないおかしげなる様を風刺していったのだ。

 
 そして最後には、自分のことさえも皮肉って書いていく。

「むかし、深草の里に、世を倦(うむ)じてや住家をもとめて、かくれたる人ありける。・・・」

 その物思いにふける、作者の小さな庵の窓辺に、一羽のウグイスとコマドリがやってきて、この屋の主は一体何をしているのだろうかと、さえずり話し合うのだが、最後にコマドリが言うには・・・。

「このあるじが輩(やから)は、これおこなふ事あたはぬものなり。にごるといへば、悪(にく)むべきを、ただ世のありさまと見ば、ことごとしくいむべきにもあらず。
 ・・・世にすたれたるあそびも、ひろふ神のまもりはありけるものを、それこれのたがいをいはで、世に押し売りつつ、見きかむには、いかりもうらみもあるまじきことならずや。
 それをたがえるものにうちなげくは、我がしこのこころのおごりなり。
 淡きをくらひ、薄きを着るとも、あたへばかさねん、おくらばくらはん。
 驕(おご)らずというにはあらで、まずしきがなす、身のおこないぞ」とて、駒王のからからとわらへば・・・。 

(この屋の主人のような人は、自分も濁ってまでは世の中の人とは付き合えないのだ。ただ、憎むべき世の中だと言って、すべてのことを忌(い)み嫌うべきではない。
 ・・・今の世の中ではすたれた和歌や管弦、芸能などでも、”捨てる神あれば拾う神あり”で、どこかでおこなわれているものもあって、そういった世の中の移り変わりがあることを  見聞きすれば、そうむやみに腹立たしく思ったりすることもなくなるのではないか。
 それを、あれこれ指摘して文句言うのは、その人の心のおごりなのだ。
 食べ物は質素に、着るものは薄着でガマンしていても、もしおいしいものがあれば喜んで食べるだろうし、温かい着物があれば喜んで重ね着するだろう。
 だから、質素で高潔な生き方をしていると言ったところで、結局は自分が貧しい暮らしをしているだけのことではないのか」と、コマドリは”ヒンカララララー”と笑ったのだ。) 

 (以上「新潮日本古典集成」より 雨月物語・癇癖談』 浅野三平 校注 新潮社)  

 まさしく、”もって、銘すべし”と、自らを省みるにふさわしい一節ではある。
 この上田秋成については、その名作『雨月物語』 についてだけでなく、あの泉鏡花に与えた影響や、晩年の随筆集『胆大小心集』や岡本かの子の『上田秋成の晩年』など(いずれも青空文庫で読むことができる)と併せて、いつかじっくりと書いてみたいものだ。
 
 この三日ほどは曇りや雨の肌寒い天気が続いているのだが、その前に、天気のいい日に、裏山のほうへ往復一時間余りの坂道歩きをしてきた。勾配のある道を登って行くと、やはり息継ぎがきつくなり、脚も疲れてくるのだが、その一方で心と体は喜んでいるのだ。

 青空の下、シダレザクラの向こうに、そのサクラ以上に、新緑の彩(いろどり)の木々が鮮やかだった。(写真下)
 春はいいよなー、春は・・・。
 

  

 

 


春の初めに咲く山の花

2014-04-14 18:21:53 | Weblog
 

 4月14日 
 
 家の庭では、満開のウメの花が散り、満開のコブシの花が茶色く枯れてしまったけれど、それに代わって、ヤマザクラが咲き始めたかと思うと、この暖かさですぐに満開になり、さらに春に咲く花の今や主役になってしまった、シャクナゲの赤いツボミが大きくふくらみ始めている。
 青空の広がる快晴の日が、三日間も続いたのだ。
 
 前回も書いたように、本州の残雪豊かな山々では、ましてこの週末は天気も良かったようで、多くの登山者たちが、まさに雪の春山歩きを十分に堪能できたことだろう。
 なかなかこの時期に、遠征登山とまでの決心がつかない私としては、それでもぐうたらな心を励まして、近場の山でガマンするべく出かけたのだが。 
 久しぶりに登ろうと思ったのは、あの別府市街地の後ろに高くそびえ立つ鶴見岳である。
 標高は1375mだが、1800mにも満たない九州本土の山々の中では、もっと注目されてもよい高さの山である。

 ただし残念なことに、頂上近くまでロープウエイが架かっていて、その頂上へは舗装された遊歩道を数分歩けばいいだけなのだ。さらに頂上の周りには、3基ものテレビなどの電波中継塔が並び立っていて、高山の雰囲気をこわしている。
 何よりも、山には原始性や自然性が残されていることを第一とする私にとって、それらの建造物があることは、到底許しがたい人工的景観になるから、私の名山の選定からは第一に除外すべき山になる。

 しかし、前回にも書いたように、山は多方面の視点から見るべきであり、この鶴見岳へも、新緑やミヤマキリシマの咲く時期、さらに冬の霧氷や雪がある時期に、ロープウエイとは反対側から登り、鞍ヶ戸(くらがと)、内山などと結ぶ縦走路を歩けば、なかなかに味わい深い山であることに気づくことになる。
 そして展望的には、別府湾の海が眺められることはともかく、何よりも隣にでんとそびえ立つ由布岳を間近に眺められるし、九重や祖母傾山系を遠望できる楽しみもある。
 と言って私は、この山について多くを知っているわけではない。
 ロープウエイでは2度ほど上がっているが、登山道をたどっての頂上へは、これまでわずかに2回、冬と早春のころにしか登ったことがないからだ。
 
 さて、由布院方面から行くと、城島高原遊園地とロープウェイ駅との間にある大鳥居の上付近(標高約700m)に車を停めてから、出発することになる。
 杉並木の石段の参道を上がると、鶴見岳をご神体としてまつる、火男火売(ほのおほのめ)神社(通称、御嶽権現 おんたけごんげん)に着く。
 上の林道を通って車が来ていて、神主や掃除の人たちが立ち働いていた。これは、次の日曜日に、恒例の”鶴見岳一気登山”があるからとのことであった。
 (ちなみにこの一気登山は、別府の海岸から鶴見岳山頂までの1375mを一気に登ろうという催しであり、毎年大勢の参加者があり、普通には登り5,6時間ほどかかり帰りはロープウェイで降りてくるそうだが、頂上までの最短時間は何と1時間11分!だとか。今年は雨で中止とのこと。)

 その神社の横から、いよいよ正面登山道と呼ばれる山道になる。
 杉林の斜面を登ると、なだらかな傾斜地になって、木の根がはびこる道をゆるやかに上がって行く。
 その半日陰の中に、そこだけ明るくなった一角があった。
 高く並ぶ杉林と、まだ枯れ枝ばかりの雑木林の境に、一本だけ明るくいっぱいの花をつけた木があった。
 クロモジの花だ。(写真上)

 春浅き山の、下部の樹林帯で、いち早く点々とした小さい花をつける木々がある。
 たとえば、九重の沓掛山(くつかけやま)周辺でよく見かけたことのあるマンサクに、このクロモジがあるが、他にはダンコウバイやアブラチャン、シロモジなどの似たような花もあって、私にはそれらをいまだに十分には見分けられない。
 しかし、何と言ってもまだ周りが枯れ枝色の中、これらの黄色い花や、ヤナギの類の新緑の葉の色は、登山者たちにいち早い春のきざしを教えてくれるのだ。
 
 山腹をめぐる林道に出会い、さらにゆるやかに道をたどると、左に南平台(なんぺいだい)を経て西側から頂上へと向かう南登山道を分ける。
 その辺りで杉林は終わり、コナラやブナ、カエデなどの自然林に代わってくる。そして、山腹をゆるやかにジグザグを繰り返しながら登って行くと、いつしか木立がノリウツギなどの低木林になってきて、その間から由布岳の姿も見えてくる。
 枯れ草色のカヤの稜線に出て、展望が一気に開ける。
 上空には青空が広がっているのだが、春がすみのためか、別府湾からサルで有名な高崎山そして南に遠く九重がやっとわかるくらいに見えている。
 
 ロープウェイ駅から続くレンガ舗装道に出て、周りに電波中継塔を見ながら登ると、高い標識と奥宮の祠がある頂上に着く。北東側の展望が開けて別府の市街地と、別府湾が見えている。
 途中で、ロープウェイからの観光客3人に会っただけで、その静けさが、私にはありがたかった。
 確かに今の時期は、下のサクラは満開だが、山の上ではもう霧氷は見られないし、かといってツツジの時期には早すぎるし、観光客にとっては、天気のいい日の展望以外にあまり見どころのない時なのだ。

 それでも、今は誰もいない頂上だが、いつにぎやかにならないとも限らない。私はそのまま、北西に続く鶴見縦走路へと降りて行った。
 その所々で、小さなカヤの斜面に出て展望が開け、鞍ヶ戸(1344m)から内山(1275m)、硫黄山(1045m)へと続く鶴見山脈の連なりが見えるが、何よりも正面奥にでんとそびえる由布岳(1583m)の、存在感のある姿が素晴らしい。(写真)
 
  
 
 この枯草色のカヤの間には、ミヤマキリシマの株がいくつもあって、さぞや花時には美しいだろうと思われる。

 右下に、この鶴見岳の活火山のしるしでもある噴気孔の煙を見て、尾根をたどると鞍ヶ戸との鞍部に着く。
 このまま稜線をたどれば、鞍ヶ戸から内山を経て硫黄山への縦走路になるのだが、雪のある頃に一度往復したことがあり、途中の船底の鞍部への急な上り下りは標高差150mもあって、雪と泥で滑りやすく苦労したことを覚えている。
 しかし、今は年寄りの私だから、長い距離は避けて短い楽なコースを選ぶことにして、その縦走路から左(南側)にジグザグ道を下りて行くと、先で由布岳東登山口から来た道に出会うが、この道は左に曲がって南平台へと向かう道でもあり、冬の雪のある時期に由布岳を眺めるために何度も来たことがある。
 今回もその道をたどりゆるやかに登って、開けたカヤトのコブになっている南平台(1216m)に着く。
 
 ここはいい所だ。いつ来ても、誰にも会わないし、何より正面にひとり大きく鎮座する、由布岳の姿を眺められるのがいい。後ろには電波中継塔の並ぶ鶴見岳が見えている。
 腰を下ろして一休みする。遠くで、何とルリビタキの声が聞こえていた。
 思えば、初夏の北海道の山で、その山の斜面のあちこちから聞こえてくるこのルリビタキの声に、私はいつもさわやかな北海道の夏を感じたものだった。
 このルリビタキがいかに夏の渡り鳥とはいえ、まだ4月の初めなのに、彼はこれから北海道にまで行くのだろうか。
 私もまた。そんな渡り鳥の生活を繰り返しているのだが。
 別に巣作りをするためでもなく、ただ北海道にいたいという私のわがままだけで・・・。
 
 静かな一人だけの山歩きを続ける私だが、今日のこの鶴見岳への山歩きでは、それぞれ別な所で一人ずつに出会った。私と同じ世代のおじさんたちだった。
 それぞれにあいさつの言葉を交わしたが、そのまま互いにすれ違い、一人だけの道を歩き続けて行った。
 自分の前には自分の行く道があり、それをたどって行くだけなのだ。

 前回この鶴見岳に登ったのは、もう10年も前のちょうど今頃のことで、私はそのころ、一週間に一度、短い時には三日とあけずに、山に行っていた。母が亡くなった後だった。
 人気のない登山道を選んで歩き、あるいは家の周りの名前もない小さな沢を登り下りしていた。
 その所々には、ヤマザクラが咲いていた。誰に見られることもない、山の中の一本桜・・・。
 山から帰ってくると、家にはミャオが待っていた。
 ただ鳴き声でしか答えてくれないミャオだけど、ひとりになった私にはどれほどありがたい存在だったことか。
 しかし、そのミャオも2年前に、家のコタツの傍で眠るように息を引き取った。
 
 すべて何も悪くないし、何も間違ってはいない。ただ順送りに、二人とも私の目の前からいなくなっただけのことだ。
 そのうちに、私もこの世から、順送りの一人としていなくなるのだろうが、それまでは精いっぱい生きていくだけであり、そのことが、二人の死に際を見て私が教えられた最も大きなことだった。

 残された時間が多かろうが少なかろうが、今までどおりに日を送ればいいだけのことだ。
 もし一日を、ぐうたらに大したこともせずに、無為に送ったとしても、実はそれが自分の望んだ快適な一日だったと思えばいいだけの話だ。
 よく考えてみれば、誰でも、自分の人生に無駄な時間などなかったと分かるはずだ。
 同じことの繰り返しに費やした時は、学ぶために必要な時間であったし、失敗に終わったことは、すべて教訓として心に刻みつけるためのものであったのだから。

 自然の中から生まれてきた私たちは、また自然の中に戻って行くだけのことなのだ。小さな地球のゴミだったものが、またゴミに帰るだけのことだ。
 無窮(むきゅう)のかなたから、続いてきたかとも思える地球の歴史の中で、私たちが生きた時間など、小さな流れ星のまたたきにさえ値しないものなのだから、まして取るに足りない自分の身の回りのことで、何も世界の終わりのごとく悩み苦しむ必要などないのだ。
 大切なことは、できるだけ自分の心を静かにたもつことなのかもしれない。


「虚を致すこと極(きわ)まり、静を守ること篤(あつ)ければ、万物並び作(おこ)るも、吾を以て復(かえ)るを観る。

 それ物の芸芸(うんうん)たる。各々(おのおの)その根(こん)に復帰す。根に帰るを静といい、これを命に復(かえ)るという。・・・。
 
(心を完全に空っぽにし、しっかりと静寂を守っていれば、万物のすべてが盛んに生育していても、私にはそれが根に帰って行くさまが見える。

 草木は今を盛りと繁茂していても、やがてはそれぞれ根に帰っていくものである。地下の根に帰ることを静寂に入るといい、これを本来の姿に帰るという。・・・。)

 (『老子を読む』楠山春樹 PHP文庫より)

 私は腰を上げて、草原の頂きを後にして、鶴見岳との狭間になる鞍部へと下って行った。
 途中から杉やヒノキの林に入って行き、一部道が分かりづらいところもあったが、再び明るい枯れ枝の自然林の所に出てきて、そこからは所々にテープ印があり、道が間違っていなかったことに一安心する。
 林の奥から、甲高い木をたたく音、多分アオゲラのドラミングなのだろうが、姿は見えなかった。
 右下の、枯れた沢沿いには、ヤナギの新緑だけが点々と鮮やかだった。

 行きにたどった正面登山道に出て、あとは下って行くだけだったが、そのあたりからヒザが痛くなってきた。
 当然と言えば当然のことだ。前回登ったあの蔵王から、何と一か月以上、40日もの間が空いたことになるからだ。
 山登りを続けるのなら、少なくとも月に2回は山に行かなくてはならないのに、年を取れば余計のこと日々の訓練をしておくべきなのに、私がその間、長い坂道歩きの散歩をしたのは2回だけ、これじゃ当然、脚もヒザも痛むはずだわ。
 そして神社からの石段の下りは、もうマゾヒスティックな苦痛に耐えることであり、アヘアへと小さな叫び声をあげてのつらい行程だった。周りに人がいなかったからよかったものの。

 そんなほうほうのていで、私はようやく停めていたクルマのもとにたどり着いた。
 普通の人なら往復で4時間くらいしかかからない道を、5時間もかかっている。
 それは、こんな小さな山登りでさえ、100枚以上の写真を撮ったことと、やはり長い間山に登らなかったこと、さらに合わせてぐうたらなじじいになったせいでもあるだろう。
 
 それでも、こんないい天気の日に家に帰るにはまだ早すぎる。
 期待していたヤマザクラには出会わなかったし、それならば近くのサクラの名所へと行ってみることにした。

 別府・志高湖(しだかこ)の水辺に植えられたソメイヨシノの花は、ちょうど満開になっていた。
 クルマでいっぱいの駐車場の片隅に何とか停めて、花見のシートを広げた人々の間を通って、痛む足を少し引きずりながら湖畔へと歩いて行った。
 水面に花びらが、二三枚、その向こうに桜並木が続き、かなたには由布岳と鶴見岳が並んでいる。(写真)

  

 それは、まさしく私の好きな絵葉書写真の一枚だった。
 こうした私の好きな風景を、死ぬまでに幾つ見られることだろう・・・。 

 皇居内の桜を見るために一部が解放されて、2,3時間待ちの行列をものともせず、5日間で38万人もの人がつめかけたとか・・・。
 その満開の桜を見ることができた一人の男の人が、満面の笑顔でインタビューに答えていた。「死ぬまでには、一度は見ておきたいと思って、もうただ感激です。」
 
 東京ディズニーランドが開演30年で、入場者が6億人に達したとか。一日平均で6万人という数字は、日本の小さな地方都市の人口にもなり、日本の人口の5倍にもなる人たちが、行ったことになるのだ・・・。

 私は、人が群がり集まるところへは余り行きたくはない。
 私は、おそらく死ぬまでに、皇居の桜を見ることはないだろうし、ディズニーランドも知らずに一生を終えることになるだろう。

 それよりも、行きたいところがある。
 まだまだ知らない日本の山々に登りたいし、その新緑のころや、花々が咲いているころに、そして紅葉が盛りのころや雪に覆われたころの山々を見てみたいのだ。
 あのヒマラヤの山々にも一度は行きたいのだが、ガイド付きの大勢の他人とのツアーなど私にはとても考えられないことだし、ただ若いころに行ったスイス・アルプスならば一人でも行けないことはないのだが、国内の遠征登山でさえ気合をかけてやっとのことで出かけているのに、まして外国旅行の準備手続きなどを考えると、ついおっくうになってしまうのだ。

 若いころには、夢でいっぱいにふくらんで張りつめていた風船も、今やすっかりしぼんで手の中に納まるくらいになってしまったが、過去の思い出を含めればそれだけでも十分すぎるほどなのだ。
 それだから、これからも日本国内の山に行くだけだとしても、私は十分に満足することができるだろう。
 思い返せば、この冬の蔵王(3月3日、10日の項参照)、去年の夏の黒部五郎(8月23日の項参照)・・・いずれも、最大のほめ言葉をもって讃(たた)えたいほどの、私の思い出に残る、かけがえのない絵葉書写真の一枚ずつになったのだから。

 そしてまだまだ、私を満足させる山々の景色が日本にはあるはずだ。
 もちろん、それらの山々のすべてに登ることなどできないだろうし、そうして途中で私の命が尽きたとしても、それはそれで仕方のないことだし、今までの素晴らしい山々の思い出を胸に、この世に別れを告げればいいだけのことだ。

 あの芭蕉(ばしょう)の辞世の句のように、「旅に病んで、夢は枯野をかけ廻る」・・・。

 

若い時の苦労は・・・

2014-04-07 18:32:53 | Weblog
 

 4月7日

 最高気温が20度近くまでも上がるような、あれほど暖かい日が続いていたのに、この数日は10度ほども一気に下がり、ミゾレも降ってまるで冬に逆戻りしたような寒さだった。
 私は、そこであわてて厚着をしたり、ストーヴをつけたりコタツにもぐり込んだりするからまだいいが、その寒気に直接さらされる野生の動物たちや植物たちはどうしているのだろう。
 
 もちろん、同じスタイルのままで耐えるしかないのだが。
 しかし、彼らは、そのくらいの気温の変動では、びくともしない体を持っている。
 気の遠くなるほどの昔から、何代にもわたって寒暖の差にさらされ続けてきた体は、その変容を記憶した遺伝子を次の世代に伝えては、多少の環境の変化には耐えうる体つきになっていったのだろう。
 ちなみに人間たるや、こざかしい知恵を働かせて、自分の身にまとう衣を調節したり、自分のすみかで暖をとったりする方法を覚えて、そうして道具を使うことで環境の変化に耐えてきたのだ。
 しかし、もしそうした道具が使えない日が来たら・・・。

 これまでに、自然の中で他の外敵を次々に征服していった人間も、しかし今や、自分の身の回りをあまりにも整理処分し清潔にしていったために、本来内在していた自らの抵抗力を弱めて、些細な細菌にたやすく感染するようになってしまったのだ。
 前回少しふれた(というより余り評価できない映画ではあったが)、あの日本映画『復活の日』(’80)ではないけれど、環境汚染による自然破壊と同時に、新型ウィルスなどによる病気のまんえんで、人類はいつの日にか滅亡の危機に追い込まれるのではないのかと、私は何の根拠もない漠然とした不安の想像を広げてしまう。

 その時に最初に滅びるのは、いわゆる先進国と呼ばれる国々の人々、現代の経済文化の利益をいっぱいに享受している人々なのだろうか。
 いかに高度な医療技術があるとしても、余りにもぜいたくな環境に慣れすぎていて、余りにも脆弱(ぜいじゃく)な体になってしまっているから・・・。
 そして、生き残るのは・・・現在もなお敵味方に分かれて殺し合う争いの中にあり、政治経済の不安定さゆえに、貧しさと劣悪な生活環境にあえぎ、後進国と呼ばれる地域に住む人々・・・乳児死亡率、病気罹患率が高く、平均寿命が著しく短い国に住む人たち、たとえばアフリカの大半の地域に住む人々、しかし彼らこそが、実はそうした近未来的な人類存亡の危機に対して、生き残る人たちではないのか、そうした彼らこそが、むしろ人類の生存の希望となる人たちではないのか・・・。 
 人類は、約200万年前に彼らが初めて出現したアフリカの大地で、再び振り出しに戻るのではないのかとさえ思ってしまうのだ。

 しかし、私はそうした人類の行く末を真剣に憂えているわけではない。
 私ごときが、聞きかじりの知識だけで、勝手な未来予想図を描いたところで、何の裏付けもない妄想にすぎないからだ。
 ただ、悠久の時が流れる地球の歴史の中では、人類生存の時間などわずか一行で記述されるだけのものでしかないということ。
 そんなかすかな人類生存の光芒(こうぼう)の中で、さらに見えるかどうかも分からぬ、一瞬の個人の命の跡など、天空の数え切れぬ星屑の一つにもならないだろう。

 だからこそ、だからこそ、今奇跡的にも生きているものたちの命がいとおしく感じられ、今の自分の小さな命がありがたく思えるのだ。
 しかし、そういうふうに思えるようになったのは、実は長い歳月を生きてきた自分の体験があってゆえのことなのだ。
 その昔、何も分からずにやみくもに大声をあげて走り回っていた、あの若き日の無謀で大胆な挑戦の成功と失敗の結果として、それらの経験の積み重ねを経て、そう考えるようになってきたのだ。

 思い起こせば、もう何十年も前のことになるが、若き日の私は、あの時オートバイに乗って、オーストラリア大陸の砂漠の中の道を走っていたのだ。
 
 遥かなるかなたの、空と地平の区切りに向かって、果てしなく続く一本の道。(写真上)
 周りを、360度に渡って取り囲む、丸い地平線。
 生き物の影はおろか、クルマ一台さえも見えない道のただ中にたたずみ、私は涙を流した。
 怖かったからではない、つらかったからではない。
 そこにそうしていることが、私の望みだったからだ。 
 
 私が、悠久の大地の中で、ひとりそこに立ち、今生きている自分を思ったからだ。

 しかし、そうしたセンティメンタルな感慨にふけるのも、ほんのわずかなひと時だけだった。
 砂漠の中で、次のペトロール・ステイション(ガソリン・スタンド)まで何としてもたどり着かなければならない。

 その昔、オーストラリア大陸をぐるりと一周する道は、Route 1(国道1号線)と呼ばれていたが、北西部のダーウィンからパースに至る道の半分ほどは、未舗装路になっていて、単なるダートではなく、所々、ウェイブ・コロゲイションと呼ばれる、昔の洗濯板のような波状道路になっていたり、さらには深い砂の道になっていて、4輪の自動車ならともかく、そのクルマで走る人たちでさえ命を失うことがあるほどの、全くどこが国道1号線なのだと思ってしまうほどの状態で、特にひとりでバイクで走るには、かなり過酷な道だったのだ。

 バイクが、オフ・ロード用の車種で荷物も少なかったなら、あれほどに苦労することもなく、むしろダートとして楽しめる所もあったかもしれない。
 しかし、私が選んだバイクは、当時ストリート・スクランブラーと銘打たれていた、ホンダのCL350だった。
 広いオーストラリア大陸をツーリングするには、やはり大半を占める舗装道路で距離を伸ばせるスポーツ・タイプのものがいいし、なおかつ悪路走行にも対応したものでなければならないからだ。
 しかし現地を走って初めて分かったのは、問題は車種ではないということだった。
 それは、後ろに乗せる荷物との、バランスの問題だったのだ。
 
 もし、荷物をあまり乗せずに、空身に近い状態だったならば、あの深い砂の道でもあれほど苦しむこともなかっただろう。
 しかし、後ろには両側にサイドボックスをつけていて、荷台には大きなリュックサックとそして予備のガソリンタンクの入ったバックをくくり付けていて、それだけで100㎏近い重さがあり、当然のことフロントのタイヤが浮き上がりやすくなる。
 深い砂の道では、後ろのタイヤに荷重がかかり、前のタイヤは軽くてふらつきやすく、バランスを失ってはすぐに倒れることになる。(写真)

 

 もっともそんな砂の道だから、スピードも出せないし、注意して倒れればケガをすることはない。
 しかし、バイク自体の重さと後ろに積んだ荷物を併せれば、300㎏近い重さがある。
 そのうえ、早くしないと、倒れたバイクのタンクからガソリンがこぼれてしまう。

 気温45度。その暑さの中、ケガをしないようにと、レース用の革製の上下を着こんでいる。
 誰も見てはいない。誰も手伝ってはくれない。
 何とか早く、その重たいバイクを抱え起こすしかない。必死になって気合の声を出して・・・。
 
 ただ先に向かうために、ただ生きるために、有無を言わせない本能による、いわゆる火事場の力を出したのだ。

(上の写真は、そうして何度も倒れた後で、次のスタンドも近かったし、バイクのタンクのガソリンも残り少なく、こぼれてもいなかった。だから、私には少し心の余裕もあって、それだからこそ、記録として撮った一枚だけの写真なのだ。)

 今まで、このブログでは余り書くこともなかった昔のオーストラリアの旅のことについて、今になってなぜ書いておこうと思ったのか。
 理由は簡単だ。前回、初めてオーストラリアの旅の写真を乗せた時(1月6日の項)と同じように(あれ以来中断したままになっていたのだが)、その続きのスライド・フィルムのスキャン作業をしていたからだ。
 
 そして、その中断したところから始めて、上の写真にあるように、この旅の一番の悪路帯だった西北部の道から、麗しの街、パースにたどり着くまでを、ようやくスキャンし終えたばかりだったのだ。
 そして今、そこまでで再び中断して、この旅のスライド・フィルムはまだ半分は残っているし、白黒フィルムも20数本はある。
 
 生きている間に、もう一度それらの写真の光景を確認して、記録ノートを清書しては思い返し、最後にはそれらのすべてを人の目につかぬように、焼き捨てるなりして処分しておかなければならない。
 なぜかといえば、それは私のために私がひとりで行った旅であり、私とともにそれらの記録が消え去ることが望ましいからだ。

 つまり、この旅の記録が、人類の進歩に寄与するほどの出来事であり発見であったのならばともかく、取るに足りない個人のずいぶん昔の旅の記録にすぎないからだ。
 すべて私とともになくなってしまうのが、正しいものの処理の仕方だ。
 
 これからも若き日の私と同じように、未知の冒険に乗り出す若者がいることだろう。その時は、彼は苦労して冒険の旅への準備を整え、さらにも増しての苦労を重ねて実行するべきなのだ。
 何も先人の後を追うだけでは、新しいものを得ることはできない。
 しかし、そうした苦労をして、探し回り歩き回ったすえに手に入れたものは、パソコンのキーボードを叩いただけで手に入れたものよりは、はるかに価値のある喜びを与えてくれることだろう。
 
 ”若いうちは、苦労は買ってでもせよ”という言葉は、何も年寄りたちのサディスティックな命令口調の、苦労強制ということではない。
 まさしくそれは、年寄りたちの若き日の反省から出た、心ある忠告の言葉なのだ。
 若者たちは、何かを探し求めてもダメなときに、すぐにあきらめてしまうのではなく、辛いけれどももう一度頭を低くして、挑んでみるべきだということ。

 一度拒否されても、すべての門戸が閉ざされたわけではないのだから、可能性がある限りは進むべき道はあるということだ。
 それでも、結局は失敗して、やめざるを得ない結果になることが多いのだろうが、しかし、また別な道を探すことはできる。
 そしていつの日にか、成功への道を潜り抜け、今まで経験したこともないほどの、明るく開けた黄金のひと時を知ることになる。
 さらに時がたち思うのだ、自分のやり遂げたことが、あれほどに輝いていたなんて・・・。

 私はそういうことを、誰かに伝えたいと思っているわけではない。
 あの時の、あの若い私に向かって、今になって思い出すように語りかけているだけのことだ。
 若い時のあの一途な思い、人生の時の重さも知らぬまま、自らに呪文(じゅもん)のように言い聞かせるだけで、ひたすらに走り続けていた日々・・・。

 ”若いうちは、苦労は買ってでもせよ”という言葉をネットで調べていたら、同じ意味だという英語のフレーズが書いてあった。

 ”Heavy work in youth is quiet rest in old age."

 まあ直訳すれば、”若い時にきつい仕事をしておけば、年を取ってからはゆっくり休めるものだ”ということなのだろう。
 
 思うに、その言葉だけでなく、格言とか言い伝えとかことわざとかいったものは、いずれも年寄りたちが、若いころの自分の無謀な行動やひどい失敗などを思い出して、えらそうに若いものに教えさとす言葉なのかもしれない。
 しかし、若者は誰も年寄りの言うことを、聞いてはいないのだ。
 そこで、若者はまた同じ過ちを繰り返すことになる・・・それでいいのだ。自分の身に及んで、そこで初めて分かるもの、身につくものだから。


『世の中は、泡沫(うたかた)のごとしと見よ。

 世の中は、かげろうのごとしと見よ。

 世の中を、このように観(かん)じる人は、死王もかれを見ることがない。』

 (『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元訳 岩波文庫より)


 春になると、母がいつも楽しみに待っていた、庭のコブシの花が満開になった。
 毎年、ほんの少しずつ花の数が増えていって、今ではもうそこだけが明るく華やかで・・・。(写真)


『年年歳歳花相似(ねんねんさいさい はなあいにたり)

 歳歳年年人不同(さいさいねんねん ひとおなじからず)』

(『唐詩選』劉希夷(廷芝)「白頭を悲しむ翁に代わりて」岩波文庫)

 

キケローとジョージ6世

2014-04-01 20:23:52 | Weblog
 

 4月1日

 もうすっかり、春本番を感じさせる暖かい日が続いていて、冬枯れ色の庭も、あの”花咲か爺さん”の話のように、見る間に明るく変わってしまった。
 昔の人が、それまでの見慣れた冬枯れの景色から、一気に春の色合いに変わった喜びを、あの昔話に託したのだろう。

 鮮やかな、春の景色の幕開けだ。
 ウメの花が満開になり、コブシの白い花があふれ、ツバキの赤い花に、足元には黄色いスイセンの花、そしてジンチョウゲの香りが漂う。
 そんな家の庭に、鮮やかに、ウグイスの一声。

 その温かい日差しに誘われて、久しぶりに山道を1時間ほど散歩してきた。
 思えば、とうとうこの3月は一度も山に行かなかった。あの、厳冬期の蔵王に行ってからもう一月以上もたってしまったのだ。
 一つには、今九州の山に登るには、どうも中途半端な時期だからだ。
 雪の季節は終わってしまい、今雪は頂上付近にうずくまったネコのようにわずかに残るだけで、どう見ても残雪の山の景観とはいえない。
 そのうえ、九重などの火山性の山道には朝夕の凍結でできたぬかるみがあって、足元ばかり見ていなければならないし、新緑の時期にはまだ早くて、見るべきものが何もない。
 いやかろうじて、あのマンサクの黄色の花がちらほらと、そしてアセビの花も見られるかもしれないが。
 
 ともかく九州の山では、冬の雪景色を楽しめる前後の季節、つまり紅葉の終わりから雪が積もるまでと、雪が溶けてしまい新緑になるまでの時期が、山としては一番さびしい時期なのだ。
 しかし、本州の山や東北・北海道などの高い山では、見るべきものが何もない時期などあり得ない。
 というのも、秋の紅葉の終わりのころには、もう雪が積もり始めるし、冬の大量の雪は、新緑のころを過ぎても、鮮やかな残雪の景観となって、私たちの目を楽しませてくれるからだ。

 もし私が今、日本アルプスや上信越の山々、東北・北海道の山々のふもとに住んでいるとしたら、周りにはまだ雪に覆われている山がいくらでもあるから、天気のいい日にはそんな山々に登っていることだろう。
 それならば、先日蔵王に行った時のように、また遠征の山旅に出かければいいのだが、そこはそれ、口先だけは達者な、実は腰の重たいぐうたらじじいのこと、テレビの前に巨体を横たえて、くだらないバラエティー番組でも見ては、下卑(げび)た笑い声を立て、誰もいない気楽さからは、鼻ホジはするわ、屁はこくわ、どもならん。

 それでもさすがは人の子、こんなことではいかんと、なまった体を鍛えるべく、時を見ては山坂歩きをしようという、殊勝な心がけもまだ残っている。
 というわけで、晴れた青空の下、すがすがしい春風が吹く中を歩いて行くと、道端に咲く、レンギョウの黄色い花が目につく。
 さらに歩いて行くと、あちこちに今が盛りの、アセビの花が咲きこぼれんばかりに、すずなりになって咲いている。(写真)
 足元には小さな紫色の、オオイヌノフグリ・・・すべては、春が来たことを告げる花たちだ。

 久しぶりに、30分ほどもかかる坂道を登って、少し息を切らせながらも、立ち止まることなく歩いて行く。
 上空の青空と、遠くに見える山々、汗ばんだ体に風が吹き抜けてゆく。
 いつもたとえにあげる映画の題名のように・・・”Far from the mudding crowd"『遥か群衆を離れて』(’67)、そのために多くのことを犠牲にしたにせよ・・・何事もなく、穏やかに生きていくこと・・・それが私の望んだことなのだ。

 これもまた、今までに何度も取り上げてきた、あのローマ時代の政治家にして、哲学者であったキケロー(BC106~BC43)の言葉を思い出す。

「・・・不平のない老年を送る人・・・そういう人は欲望の鎖から解き放たれたことを喜びとし(ている)・・・。」
「・・・(引退後)快楽がなくなった。これなくしては人生は無だとか、いつも敬意を払ってくれていた人々からさげすまれるようになったとか、(いう)繰り言を耳にした(が)・・・(しかし)すべてその類の不幸は、性格のせいであって、年齢のせいではない。」

「老年にとって・・・あらゆる欲望への服務期間が満了して、心が充足している、いわゆる心が自分自身とともに生きる、というのは何と価値あることか。」
 
 (『老年について』キケロー 中務哲郎訳 岩波文庫より)

 つまり、心穏やかに生きることは、実は群衆から離れることではなく、”遥か欲望から離れて”いること、そうした離れたところで暮らすことにあるのかもしれない。
 私が、山に登るのは、こうして誰にも会わない山道を歩くのは、逃げているのではなく、私の望ましい場所に向かっているだけのことだ。背筋を伸ばして歩くこと、”Walk tall"・・・。

 こうして、今までに学んできた言葉を思い出すことによって、時々自らを励ますことが、私には必要なのだ。
 人は助けが必要なとき、誰かの力添えによって、あるいは有意義な助言を受けて、奮い立つ力が湧いてくる。
 それがひとりっきりの時だとしても、心のうちから浮かび上がってくる言葉があるはずだ、昔誰からか聞いた言葉であり、あるいはいつか教えられた言葉だ。
 いつも人は一人で生きてきたのではない。その後ろに広大に広がる自然があるように、いつも誰かの励ましの言葉に包まれて生きてきたのだ。
 そうしたすべてのことに、感謝する思い・・・。

 などと真面目なことを考えながら、前回、書くことのできなかった映画『英国王のスピーチ』(2010年)について、少し考えてみることにした。
 この映画が、すでに高い評価を受けていることは知っていたから、去年民放のBSで初放映された時には、喜び勇んで録画したのだが、時期が悪かった。
 ちょうどその夜は、雷が鳴り響き、哀れ電波障害を受けて録画番組は一部ずたずたになってしまい、これでは見る気にならないとそのまま見ないでいたのだが、このたび例のNHK・BSで放映されることになり、ようやく安心して全編を見ることができたのだ。

 そして見終わった後、すぐに思ったのは、何と言っても映画になりそうにもない、小さな話題を取り上げて、うまく肉付けしていった脚本のうまさである。
 イギリス王室にかかわる謎めいて重層化した話を、歴史的な成功譚(たん)へと、一つに収れんしていくその手際よさに、ただ感心するばかりであった。

 その話とは、老いたイギリス国王ジョージ5世(在位1910~36)が亡くなった後、その後を継いだのは長男のデイヴィッドであり、エドワード8世となったのだが、離婚歴のあるアメリカ人シンプソン夫人と結婚するために、在位わずか1年にも満たずに退位してウィンザー公となった。
 代わって跡を継いだのが、次男であったヨーク公アルバートであり、これからはジョージ6世(在位1936~52)として国務に携わることになるのだ。
 しかしアルバートは、デイヴィッドのように帝王学を学んできたわけではなく、今の海軍士官の地位で十分だと思っていたのに、突然の国王の地位に戸惑ってしまうのだ。それにはもう一つの、理由もあった。
 彼は、公の場でのスピーチの時に緊張するあまり、言葉に詰まりつかえてしまう癖があったのだ。

 時は風雲急を告げるヨーロッパであり、これからは公の場への出席も増えて、それとともにスピーチの機会もさらに増えてくることだろう。
 かつて、アルバートのスピーチの失敗を傍で見たこともある、妻のエリザベスは、今までの古い言語治療法では治らないと思い、人づてに聞いた言語障害療法士のもとへと、夫とともに尋ねることにした。
 裏町のあまりきれいではない部屋に通されて、そこで初めてオーストラリア人のライオネル・ローグと対面することになる。

(この時、ライオネルのオーストラリアなまりを、もちろんキングス・イングリッシュのアルバートは気にしたのだが、それは私たちがよく知っている”エイ”を”アイ”と発音するような目立ったものだけではなく、調べてみると、多くの単語の発音や用語法としても見られるものだとのことである。別の機会にこのオーストラリアン・アクセントについても書いてみたいと思う。)

 さて、彼はまず、精神分析的にアルバートの幼児体験の幾つかを暴き出して、それがトラウマの一つになっていたことを教える。
 さらには、国王になるアルバートを、皇族の親しい人にしか呼ばせない愛称で”バーティー”と呼びかけては、二人だけの部屋で発声や呼吸法などの治療法を進めていく。(写真)

 

 しかし途中で、当然のことながら国王たるべきアルバートの逆鱗(げきりん)に触れることになり、断絶にまで追い込まれることもあったが、やはり治療の必要に迫られて和解しては、さらに訓練を重ねて日を追うごとにその効果が現われてきて、ついにその大切な日がやってくる。
 アルバートは、全国民に対してラジオで、ヒットラーのドイツとの戦いに突入したことを知らせ、今後の戦いを鼓舞する見事なスピーチをしたのだった。
 
 放送室の外で待っていた王妃エリザベスは、いつもアルバートの傍に付き添ってくれていた彼に対して、今まで決して呼ぶことのなかった名前で、感謝をこめて”ライオネル”と呼んだのだった。

 最近新しく見つかった、ジョージ6世へのライオネルの治療記録などを調べて、書き上げられた脚本は、当時の王室内紛や、第二次大戦前の国内外の大きな事件などには余り触れることもなく、主題(原題)の”King's speech"にかかわる人々だけを取り上げ整理したことで、流れるような一つの物語となったのだ。
 日本の脚本家のいったい誰が、こうした皇室のあまり公にはされていない話題を、その人々のひたむきさと、激情と小さなユーモアを含めて、上品にそして感動的に、書き上げることができるだろうか。

 話は横道にそれるが、これはたまたま、民放BSで放送された小松左京原作の日本映画『復活の日』(’80)を見たのだが、その話は世界が新型細菌のまんえんによって人類絶滅の危機にさらされるという、近未来のSF的なストーリーだった。
 しかしその脚本はあまりにも単純で、さらにストーリーをつなげるだけの映像に面白味はなく、すぐに早送りをしてしまったのだが、あれほど多くのハリウッド・スターと日本俳優陣をそろえていながら、ありきたりのストーリを追うだけの安っぽい映画に、もうそれ以上は見てはいられなかったからである。

 同じような話なら、いかにアメリカ映画とはいえ、あの核戦争後の世界滅亡の姿を描いたスタンリー・クレイマー監督の『渚にて』(’59)のほうが、はるかに真実味があり、人間の哀しみと愛おしさにあふれていた。
 『復活の日』のラストで、主人公がずっと同じボロボロの服をまとい、海岸から砂漠、そして氷河のある高山までの信じられないほどの距離を、ヨタヨタした足取りでさまよい歩く、という姿自体が非現実的であり、日本映画の芝居小屋演劇の域を出ない悪しき典型を見る思いがした。
 誰でも、映画はスクリーンに映った架空のお話だと分かってはいる。だからこそ、真に迫った現実だと思える夢を見たいのだ。

 さて『英国王のスピーチ』の話に戻ろう。
 この映画では製作者の意図と、脚本、監督、撮影、美術などのラインが見事に統一されていて、映画を見る側としても、疑問がわき起こる暇もなく、そのまま映画のストーリーの中に入っていけたのだ。
 そして、その物語にふさわしい演技陣だった。
 
 ジョージ6世アルバートを演じたコリン・ファースはそれまでにも、『高慢と偏見』(’95)『イングリッシュ・ペイシェント』(’96)『恋におちたシェイクスピア』(’98)などのイギリス名作映画に出演していて、今回の国王役も、制作発表前にはまだ3番手の候補だったとは思えないほどの、はまり役になっていた。

 相手役の言語療法士ライオネル・ローグを演じたのは、あのオーストラリアの個性派俳優、ジェフリー・ラッシュである。
 オーストラリア映画『シャイン』(’96)で一躍脚光を浴び、その後も『恋におちたシェイクスピア』『エリザベス』(’98)さらには、あの『パイレーツ・オブ・カリビアン』シリーズでも有名である。
 しかし実在のライオネル・ローグは、残された写真で見る限り(ウィキペディア参照)、なかなかに端正な顔立ちをしていて、悪く言えば多少容貌魁偉(ようぼうかいい)なジェフリー・ラッシュとは、まさに別人の違いがある。 
 もっとも制作サイドからいえば、国王と療法士という立場の映画での効果をより鮮明にさせるために、さらにはオーストラリアン・アクセントで話すオーストラリア出身の俳優ということで、結果として納得できる人選になったのだ。

 次に王妃エリザベス役のヘレナ・ボナム・カーターは、『眺めのいい部屋』(’86)であの内気で気の強い娘役を演じ、さらにゼフィレッリの『ハムレット』(’90)ではオフィーリア役だったのに、今やお母さん役になっていて感慨深いものがある。
 しかし、何よりこの映画のキャストで驚いたのは、というかうれしかったのは、あのクレア・ブルーム(1931~)がジョージ6世の母親王太后役として出ていたことである。
 あのチャップリンの名作『ラインムライト』(’53)の可憐な踊り子役、オリビエの『リチャード3世』(’55)での王妃アン役の彼女が・・・。

 さらに、この映画に必要な歴史的人物たちも、チャーチル、チェンバレンそしてボールドウィンなどを、メーキャップなどで似せた顔つきにした俳優たちが演じていた(特に髪がセンター分けのボールドウィンなど思わず写真で見た通りだと思ったほどだ)。
 付け加えれば、このジョージ6世一家の二人の幼い娘たちの、長女のほうは現在のエリザベス女王であり、妹のほうは今は亡きマーガレット王女になるのだ。
 
 というわけで、今まで誰も取り上げなかったテーマを見事にふくらませて作り上げた、全く良くできた映画であり、映画を見終わった後にもいい映画を見たという満足感は残るのだが、テーマが現代に近い王室関係の話ということもあって、映画のために大きく話を広げるわけにもいかず、やや内向きの小ぶりな感じになったことは否めない。
 それならば、欲を言えば、二人の男の心理的対決の様を、もっとじりじりと迫る感じで描いてほしかったとも思えるのだが・・・。

 ところでタイミングよく数日前に、同じイギリス王室の映画『ヴィクトリア女王 世紀の愛』(’08、ジャン・マルク・ヴァレ監督、エミリー・ブラント主演)がNHK・BSで放映された。
 実はこの作品は、ジョン・マッデン監督ジュディ・デンチ主演の映画『Qeen Victoria 至上の愛』(’97)で描かれていたヴィクトリア女王の、それ以前の若き日の時代のことを描いたものであり、しかし作品の出来としては今一つで、ヨーロッパ王室間の単なるラブ・ロマンスに終わってしまった感がある。

 話のヒロイン、ヴィクトリア女王(在位1837~1901)は、ドイツ系ハノーヴァー選帝侯家の血筋を引くジョージ3世の、第4王子であったケント公エドワードの長女として生まれたのだが、父親の兄弟たちに後継ぎがなく、回りまわって彼女が18歳の若さで、イギリス女王の地位に就くことになったのである。
 その後、同じドイツの名家ザクセン=コーブルク=ゴータ公の次男アルバートに出会い、二人は結婚して、単なる入り婿ではなく、共同統治という形でイギリスを治めていくのだが、そのあたりの若き日のヴィクトリアとアルバートの姿が、この映画『ヴィクトリア女王 世紀の愛』(原題”The young Victoria")で描かれている。

 そしてその後のことが、その前に作られた映画『Queen Victoria 至上の愛』(原題 Mrs.Brown)の主題になっていて、映画の出来としてはこちらのほうが見ごたえがあった。
 夫のアルバートを亡くしたヴィクトリアは、長い服喪期間を経て、いつしか従僕で馬丁のブラウンと思いを通わせる仲になり、口さがない連中は、女王のことを陰で”Mrs.Brown" と呼んでいたが、その関係もやがて終わり、彼女は隆盛を迎えていた大英帝国の力強き君主であり続けて、82歳で亡くなるまで、実に64年間にわたってイギリスとその広大な植民地を統治し続けたのだ。
 彼女の名前に関して呼ばれる”ヴィクトリア朝”こそは、すべてにおいてまさにイギリスの絶頂期の呼び名だったのだ。
 
 ついでに、前回取り上げた映画『ブーリン家の姉妹』で描かれていたアン・ブーリンは、ヘンリー8世の王妃になり、その後わずか3年もたたないうちに断頭台に送られることになったのだが、その悲劇の彼女が生んだ子供エリザベスは、その後めぐりめぐってイギリス女王の座につき、45年の長きにわたってイギリスを統治することになり、あのスペイン無敵艦隊を破り、東インド会社を作り、大英帝国一大発展の礎を築くことになったのだ。
 その”処女王”と呼ばれたエリザベス1世については、インド出身のシェカール・カプール監督、ケイト・ブランシェット主演で『エリザベス』(’98)『エリザベス ゴールデン・エイジ』(’07)と続く連作として制作されている。

 長い歴史を誇るイギリス王室だが、そこには王座をめぐる深慮遠謀(しんりょえんぼう)をめぐらした駆け引きの日常があり、時には血みどろの争いさえもあったのだ。
 そうした歴史の真実を、映画とは別にたどって行くことも興味深いことだ。

 しかし、闇の中に隠されて浮かび上がることのない真実もあり、いやむしろ北極海に浮かぶ氷山のように、今となっては誰も知らないことのほうが多いのかもしれない。
 結局、私たちは自分たちの周りだけの小さな世界の中に生きて、それもほんの少しのことだけを見知っただけで・・・その辺りに生きている虫たちと何も変わることなく、ただ生きていた日々に一喜一憂しただけのことかもしれない。


(追記1)全く余分なことだが、いつも昼食を食べながら見ていた、あの『笑って、いいとも!』が終わってしまった。
 タモリは、いわゆる”すかしたやつ””かっこうつけたやつ”がきらいだった。
 いつもそんな彼らを、遠回しな皮肉に包んで揶揄(やゆ)していた。
 博学な知識をブラックなユーモアに包んで、ひとり薄ら笑いを浮かべていた。
 いつも漂う、やさしいひとりのにおい。
 そんなさびしさの中で、誰にも見られないところで、いつも自分は”すかして”いたのだ。
 もう二度と現われることのない、一代きりの偉大なる才能(タレント)だった。
 
 なぜやめたのか。うんざりしたのだ、周りの”すかしたやつ”らに。
 いくら、百冊のうすっぺらな内容のない本を読もうとも、それはたった一冊の名作を読むことの足元にも及ばないのだ。

 これから、昼食の時間には、私を元気にしてくれるAKBの歌の録画でも見ることにしよう。


(追記2)まず最初に、この記事はいつもの投稿日より一日遅れてしまった。
 というのも、自分のミスで、書いていた原稿をまた半分以上消してしまったからだ。
 いつも、原稿を書き上げるには数時間もかかるから、その間中”gooブログ”とつないだままにしておくわけにはいかない。
 そこで、キーボードを打っている時にはネットは切断していて、一休みする時にはそれまでの原稿保存をクリックするのだが、その時ネットとつないでいないと、一瞬で消えてしまうことになるのだ。
 今までに何度かその失敗を繰り返してきたのに、さらに年寄りになった今、そのうっかりミスが出てしまったのだ、あちゃー、やってしまった。

 結局、今日また一日かかって、さらに分量が増えてしまい、ようやく書き上げたところだ。
 しかし今日投稿した文章には、まだ誤字脱字があるだろうから、明日また読み直して訂正し、さらにもう一日たって少し訂正し、もう読み返さなくなるのは、二三日たってからのことだ。
 その昔、編集業務に携わっていた者としては、当時の腕のほどが知られてお恥ずかしい限りだが、まあそれも今や年寄りになって、半分ヨイヨイに近づいてきたからでもあり、それを分かって書き続けるという、相変わらずの年寄りの執念深いいやらしさからでもあるのだ。
 
 以上の記事すべては、昨日出すつもりのものであり、4月1日の日付とは何の関係もない、念のため。

 つまり、私の人生そのものが、すべて”エイプリル・フール”のようなものだから、せめてここに書くことぐらいは、真実の片割れでもと・・・。
 ただ確かに、今日は晴れて気分の良い一日ではありました。家でパソコンの前にいるのがもったいないような、はい・・・。