2月25日
晴れた天気の良い日が続いている。しかし、毎日が寒い。
前にも書いたように、この家そのものが寒いのだ。家の中にいるのに、厚い上着を着ていなければならない。
あの暖かい薪(まき)ストーヴのある、北海道の家がなつかしい。
薪のはぜる音、鉄瓶(てつびん)の小さくたぎる音、高い天井の上から流れくる音楽。
窓からは日が差し込み、雪景色の林が広がっている。
北海道の家にいれば、晴れた日には、鮮やかな白雪の日高山脈を見ることができるし、何より毎日、日々変わっていく雪景色を見ることができる。不便なことも多いけれど、寂しくなればいつでも、近くにいる友達に会いに行くこともできる。
しかし、この九州の家では一日中寒いけれども、毎日風呂に入れるし、洗濯もできるし、ちゃんと家の中に水洗トイレもある。
九州の家に戻ってきて、もう3か月ほどになるが、ちょうど1か月に1度くらいの割合で用事があって、ここを長く離れるわけにはいかないのだ。
だからといって、その合間の1か月ほどを北海道の家で暮らすということはもできないのだ。
というのも、家までの50mもの距離をスコップで除雪し、そして冷え切った家の中を温めるだけでも2日はかかるし、凍結防止で引き上げている井戸のポンプやパイプを再設置しなければならないし、その他もろもろの冬のための設定作業が必要なのだ。もちろん往復の旅費もかかるし。
それほどまでして、行く気にはならない。
しかし、まだ北海道に住み始めた若いころなら、万難(ばんなん)を排してでも行ったのだろうが、今ここにいる私は、とても一筋縄ではいかない変わり者になっており、生半可(なまはんか)な理屈ばかりをつけたがる偏屈(へんくつ)おやじにすぎないからだ。
つまり、だるまさんが転んだ状態のまま、あれこれ言い訳を見つけては動きたがらないのだ。
この冬には本州の雪山に行きたいと、計画は立ててみたが、「この1週間は晴れても、寒気の影響で雲が広がりやすいでしょう」という、天気予報の言葉にびびってしまい、思い切って決断できないふがいなさ・・・。
あまつさえ、今年こそはと考えていた海外トレッキングの旅も、最近の20%も下がる急激な円安で(たとえば40万で行けてたものが50万になってしまうのだ)、とたんに行く気をなくしてしまう優柔不断(ゆうじゅうふだん)さ・・・。
ファッション界のコンサバや政治の世界のコンサーヴァティヴではないけれど、ますます保守的な守旧派のじじいになっていくばかりなのだ・・・それも、あの『ノラや』の先生のように、相変わらず「あーあ、ミャオがいない」となげきながら。
これではいけない。まだまだ、この世にはたっぷりと未練もあるし、ただの生ける屍(しかばね)や、ミイラになってしまう訳にはいかない。
「この世もなごり、夜もなごり。死に行く身をたとふれば、あだしが原の道の霜。一足ずつに消えて行く。」
という、あの近松門左衛門の『曽根崎心中』の名文句を思い出すが、もちろんそんな手を携(たずさ)えての道行きなどではないし、そんな覚悟もないけれど、似たような寂寞(せきばく)たる夕暮れの雪の山道を、ひとりで歩きたくなってきたのだ。
前回、山に行ってから。もう一月もたっている。
今年の九州は確かに寒いのだが、それにしても雪が少なすぎる。あの記録的な大雪の東北・北海道の人には申し訳ないのだが。
毎年、数回はある雪かきも今年はまだ2回だけで、それも10cm位だからすぐに終わってしまった。
ということは当然、山の雪も少なくて、前回の山登り(1月22日の項)がそうであったように、十分な雪山の景観を見ることができないのだ。
ここ九州の、わずか1700mクラスの九重の山々でも、数十センチの雪が積もり北西の強い風が吹きまくれば、本州の高い山と変わらない、一瞬の間だけの雪氷風景を見ることができるのだが(’10.1.18の項参照)、今年はとうとうそんな機会がなかった。
もう3月になれば、ただ湿った雪が降り積もるだけで、あの厳冬期の雪景色を見ることはできなくなるだろう。
数日前、家の周りでうっすらと雪が積もった日の午後、前回と同じように、雪の九重の夕景を見るために出かけることにした。
途中の道にも雪はなく、日蔭側に残っているだけ。
牧ノ戸峠の駐車場(1330m)も平日の午後4時ともなれば、停まっているクルマも少なかった。
昼ごろまでは雲も出て風も強かったから、朝早く出ていれば一面の霧氷がきれいだったことだろうが、今は、快晴の空が広がり風も収まってきていて、やはり低いところの灌木帯の霧氷は溶け落ちていた。
沓掛山(くつかけやま、1503m)を過ぎるともう戻ってくる人にも出会わなかった。いつもの一人だけの山歩きだ。
ただし前回と違うのは、あちこちに広がる雪が溶けた後のぬかるみだ。九重の春山は、これだから閉口してしまう。雪や雨が溶けて数日たった後の乾いた道ならば、本当に心のどやかな尾根道歩きを楽しめる所なのに。
しかし、雪質は悪くなかった。10cm足らずだが、まだ真冬のしまった粉雪状態だった。
夕暮れが迫る中、分岐から右に扇ヶ鼻への道をたどる。二人が往復した足跡があるだけだ。ほとんどの人は、そのまま久住山や中岳への道をたどるからだ。
少し急斜面を登ると、扇ヶ鼻の頂上台地に上がる。あたりは、まるで山上の白いサンゴ礁を思わせる樹氷群が素晴らしかった。ただし残念なことには、背景になる星生山の南面は、すでに雪が溶けて冬枯れの山腹がむき出しになっていた。(写真上)
さらに行くと、眼前に肥前ヶ城を隔てて、九重核心部の山々、久住山(1787m)や中岳(1791m)などの山々が見えてくる。しかしここでもその南面の雪は溶けてしまっていた。
風が強く寒くなり、そこで上に冬山用ジャケットを着こみ、手袋も上に厚手のものをさらに重ねた。
そこから戻って、小さな樹氷群のなだらかな道をたどり頂上に向かう。振り返ると夕日に照らされた久住、中岳などの主峰群が並んでいた。(写真)
ただ残念なことには、前回と同じようにあまり雪がついていないから鮮やかな赤にはならなかった。仕方がない、もう今年の雪山は終わりだろうから、また来年のその時を待つことにしよう。
すぐに、岩が集まる扇ヶ鼻頂上(1698m)に着く。ちょうど日が沈むところだった。
南側に、阿蘇山のシルエットが見え、西側の日の沈んでいく赤い地平から、ひとり雲仙の山が浮かび上がっていた。その下にはぐるりと入り込んだ有明海の広がりも見えていた。(写真下)
日が沈むと寒さが増してきた。6時を過ぎていた。
寒いからじっとしているよりは歩いている方がいいのだが、それでも足先は冷たく、手袋の中の手は、グーで握りしめていないとがまんできないほどに冷えきっていた。
前回と同じように、空には半月が出ていて雪道を照らしてくれてはいたが、今回は前回使えなかった手持ちのライトの代わりに、ちゃんとヘッドライトを用意してきていて、早めに頭につけて道を照らして歩いて行った。
ありがたいことに、行きにあれほどのぬかるみだった道がもう凍り始めていた。
7時半に駐車場に下りてくると、ただ一台、私の車があるだけだった。
雪が溶けていて凍結の心配のない道を走って、家に帰り着いた。
まずは、たっぷりと張ったお湯の暖かい風呂に入って、冷え切った体を温めた。
このところ少しふさぎ込んでいた気持ちが、山歩きの疲れとともに、暖かいお湯の中に溶かされて消えて行くようだった。
わずか3時間半ほど山の中にいただけで、そうして自ら閉ざしていた環境を少し変えただけで、その小さな一歩を踏み出せたことで、状況が変わることもあるのだ。
他人にとっては、一顧(いっこ)だにする価値もない一歩なのだろうが、私にとっては大きな一歩になり、こうしてその人その人の人生が、とりとめもない日常の出来事の中で決められていくのだろう。
ともかく、心地よいお湯に包まれて私は思ったのだ。「あー、極楽、極楽」と。
少し前に、NHKで昔のドキュメンタリー映画を放映していた。『ダイマグラばあちゃん』(平成16年制作)。
その中で、おばあちゃんが口ぐせのように言っていた、「あー極楽だあ」。
東北は、岩手県の早池峰山(はやちねさん、1917m))のふもとにある小さな集落、ダイマグラ(アイヌ語に基づく地名)に住む開拓農家の老夫婦の物語である。
そこは戦後に開拓農地として拓(ひら)かれたのだが、東京オリンピックのころにはもう他の家は離農して出て行ってしまい、二人の住む家だけになっていた。
それでも夫婦は、その電気も引かれていない一軒だけの家に住み続けて、力を合わせて毎年変わらぬ季節ごとの農業の仕事に精を出しては、自給自足に近い生活を送ってきたのだ。
何の疑いもなく、目の前にある仕事だけを黙々とこなしていくこと・・・誰かのためではなく、自分たちが生きていくためだけに・・・。
(数年前に、地方民放局制作の『ある夫婦の桃源郷』というドキュメンタリーがあったのだが、それも同じように山間部に住む老夫婦の生活を描いた、優れた番組だった。)
私はこのところ、生きていくことやいつかは死ぬことについて考えるようになってきていた。前回、その小さな答えの一つをともかくも出してみた。死を意識しつつも、よく生きるということ。
さらに、母とミャオの死が教えてくれたことは、その時が来たら、黙って自分の天命を受け入れるということなのだが・・・。
しかし私たちは、自分たちの日々の暮らしの中で、これらの単純なことを分かっているようで、実は分かっていないのではないのだろうか。
いつも、自分と周りとの関係の中で感謝する以前に不平不満を抱き、その原因の多くを他人のせいにすることで、自らの小さな満足の中に安住し、何も分からないまま歳月を重ねていく・・・。
そして、ある時、何の前ぶれもなく運命が訪れると、様々な思いがいっせいに吹き上がってきては、ただ慌てふためくことになる。
私の人生も思えば、それに近いものだったのだ。それが、北海道に行ったことで、自らの意志で一歩を踏み出したことで、自分のためによく生きることへの、入り口を見つけたような気がしていたのだが・・・。
さらにこれも、最近見たNHKの再放送シリーズからだが、『素晴らしい地球の旅―アメリカの森に生きる職人たち』というドキュメンタリー番組があった。
フライ・フィッシング用のさお(バンブー・ロッド)を作るために岩手に移住した男が、釣り仲間でもあるかつて日本にいたことのあるアメリカ人の男とともに、フライ・フィッシングの故郷でもある、アメリカ東部のニューイングランド地方を訪れて、釣りを続けめぐり歩いては、そこに住む手作り職人たちを訪ねていくという番組構成だった。
私は釣りはしないのだが、このフライ・フィッシングについては前にも取り上げたことがあり、自然豊かな林の中を流れる川の中で釣りをする姿には、何か心ひかれるものがあるのだ。(アメリカ映画『リバー・ランズ・スルー・イット』参照)
さてそんな田舎に住んで自分たちの作品作りをしている人々、そのフライ・フィッシングのさおづくりや、リール(釣り糸巻き上げ器)づくり、フェルール(つなぎ金具)づくりだけでなく、家具職人、カヌー作り、メープル・シロップづくりをしている人々を訪ねていくのだが、その中の一人がこう言っていた。
「田舎の暮らしは簡単にしてくれる。都会の暮らしはとかく複雑だけどね。」
さらに、先ほどの『ダイマグラばあちゃん』の話に戻ると、その老夫婦二人だけのダイマグラに、都会から一人の若者がやってきて、空家の一つを借りて住むようになった。そこで老夫婦と若者との、互いに助け合い教え合う新たな毎日が始まることになる。
しかしそのうちに、おじいさんは動けなくなり、そのまま家で亡くなる。一方、若者は結婚して子供も生まれて、にぎやかになっていくが、そんな中、体が弱ったおばあさんはついに下の町に下りることになり・・・やがておばあさんも亡くなってしまう。
しかし、映像はその後の若者たちの家族を映し出していく。
若い夫婦は子供たちとともに、おばあさんから教えられたとおりに味噌作りをするのだ・・・大豆を煮てよく踏みつぶし固めては天井から吊るしていく・・・。
肩寄せ合い助け合い生きていくことは、人のためとか誰かのためとか、標語として大声で訴えかけるべきことではない。
もくもくと働き生きていくこと、まずは一人で、そして夫婦で、家族で、そして隣人とともに、当たり前のように仕事ををやっていくだけのこと・・・。
さらにこれもまた最近見た番組なのだが、『明日へ―証言記録・東日本大震災』という、1年ほど前から続いている、NHKの震災後の人々の証言シリーズの一つである。これまでに13本が放送されていて、そのうちの何本かは見ていたが、今回の南三陸町編の話もまた忘れがいものだった。
あの大津波が来た時、南三陸町戸倉地区の戸倉中学校は高台にあって、避難場所になっていたほどであり、まさかここまでは来ないだろうと思っていたところ、見る間に近づいてきて、その時、一緒にいた仲間の四人の中学生たちは、急いで裏山に駆け上った。
もう後ろに波が迫ってくる。下の方で、子供連れの母親が波に洗われていた、彼らはとっさに着ていたジャージを脱いでつなぎ合わせてロープにし、その親子を救い出し、さらにもう一人のおばさんも助け出していたのだ。
あれからもう1年半が過ぎ、このNHKの番組の取材があり、4人は高校生になっていて、当時のことを振り返り、ただ助けなければと思っただけですと、はにかみながら答えていた。
そこに、この番組のことを聞きつけたおばさんがやってきて、あの時、私を助けてくれたのはあなたたちだったのね、ありがとうと涙ぐみながら、彼らが立っている斜面に向かって頭を下げていた。
さらに同じ時、同僚の二人の先生は迫りくる津波から逃げようとして、一人は波にのまれてしまいもう一人だけが助かった。しかし、その彼も両親を津波で亡くし、無力感に打ちひしがれていたのだが、その後、他校に間借りして始めた授業の中で、子供たちの笑顔と生きていく気力に救われて、立ち直ることができたと話していた。
あの芥川龍之介の『蜘蛛の糸』のように、天上から垂れ下りてきた、一筋の銀色のクモの糸を、人々は譲り合うことができるのだろうか・・・。
われ先にその糸をつかんでは登ろうとする人と、女子供たちを先に登らせようとする人と、いつか来るだろう順番を待つ人と、そして自分はあきらめ覚悟を決めて座り込む人と・・・。