ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

霧氷の九重そして夕景

2013-02-25 18:37:45 | Weblog
 

 2月25日

 晴れた天気の良い日が続いている。しかし、毎日が寒い。
 前にも書いたように、この家そのものが寒いのだ。家の中にいるのに、厚い上着を着ていなければならない。
 あの暖かい薪(まき)ストーヴのある、北海道の家がなつかしい。

 薪のはぜる音、鉄瓶(てつびん)の小さくたぎる音、高い天井の上から流れくる音楽。
 窓からは日が差し込み、雪景色の林が広がっている。

 北海道の家にいれば、晴れた日には、鮮やかな白雪の日高山脈を見ることができるし、何より毎日、日々変わっていく雪景色を見ることができる。不便なことも多いけれど、寂しくなればいつでも、近くにいる友達に会いに行くこともできる。

 しかし、この九州の家では一日中寒いけれども、毎日風呂に入れるし、洗濯もできるし、ちゃんと家の中に水洗トイレもある。
 九州の家に戻ってきて、もう3か月ほどになるが、ちょうど1か月に1度くらいの割合で用事があって、ここを長く離れるわけにはいかないのだ。
 だからといって、その合間の1か月ほどを北海道の家で暮らすということはもできないのだ。
 というのも、家までの50mもの距離をスコップで除雪し、そして冷え切った家の中を温めるだけでも2日はかかるし、凍結防止で引き上げている井戸のポンプやパイプを再設置しなければならないし、その他もろもろの冬のための設定作業が必要なのだ。もちろん往復の旅費もかかるし。

 それほどまでして、行く気にはならない。
 しかし、まだ北海道に住み始めた若いころなら、万難(ばんなん)を排してでも行ったのだろうが、今ここにいる私は、とても一筋縄ではいかない変わり者になっており、生半可(なまはんか)な理屈ばかりをつけたがる偏屈(へんくつ)おやじにすぎないからだ。
 つまり、だるまさんが転んだ状態のまま、あれこれ言い訳を見つけては動きたがらないのだ。

 この冬には本州の雪山に行きたいと、計画は立ててみたが、「この1週間は晴れても、寒気の影響で雲が広がりやすいでしょう」という、天気予報の言葉にびびってしまい、思い切って決断できないふがいなさ・・・。
 あまつさえ、今年こそはと考えていた海外トレッキングの旅も、最近の20%も下がる急激な円安で(たとえば40万で行けてたものが50万になってしまうのだ)、とたんに行く気をなくしてしまう優柔不断(ゆうじゅうふだん)さ・・・。
 ファッション界のコンサバや政治の世界のコンサーヴァティヴではないけれど、ますます保守的な守旧派のじじいになっていくばかりなのだ・・・それも、あの『ノラや』の先生のように、相変わらず「あーあ、ミャオがいない」となげきながら。

 これではいけない。まだまだ、この世にはたっぷりと未練もあるし、ただの生ける屍(しかばね)や、ミイラになってしまう訳にはいかない。

 「この世もなごり、夜もなごり。死に行く身をたとふれば、あだしが原の道の霜。一足ずつに消えて行く。」

 という、あの近松門左衛門の『曽根崎心中』の名文句を思い出すが、もちろんそんな手を携(たずさ)えての道行きなどではないし、そんな覚悟もないけれど、似たような寂寞(せきばく)たる夕暮れの雪の山道を、ひとりで歩きたくなってきたのだ。

 前回、山に行ってから。もう一月もたっている。
 今年の九州は確かに寒いのだが、それにしても雪が少なすぎる。あの記録的な大雪の東北・北海道の人には申し訳ないのだが。
 毎年、数回はある雪かきも今年はまだ2回だけで、それも10cm位だからすぐに終わってしまった。

 ということは当然、山の雪も少なくて、前回の山登り(1月22日の項)がそうであったように、十分な雪山の景観を見ることができないのだ。
 ここ九州の、わずか1700mクラスの九重の山々でも、数十センチの雪が積もり北西の強い風が吹きまくれば、本州の高い山と変わらない、一瞬の間だけの雪氷風景を見ることができるのだが(’10.1.18の項参照)、今年はとうとうそんな機会がなかった。
 もう3月になれば、ただ湿った雪が降り積もるだけで、あの厳冬期の雪景色を見ることはできなくなるだろう。

 数日前、家の周りでうっすらと雪が積もった日の午後、前回と同じように、雪の九重の夕景を見るために出かけることにした。
 途中の道にも雪はなく、日蔭側に残っているだけ。
 牧ノ戸峠の駐車場(1330m)も平日の午後4時ともなれば、停まっているクルマも少なかった。
 昼ごろまでは雲も出て風も強かったから、朝早く出ていれば一面の霧氷がきれいだったことだろうが、今は、快晴の空が広がり風も収まってきていて、やはり低いところの灌木帯の霧氷は溶け落ちていた。

 沓掛山(くつかけやま、1503m)を過ぎるともう戻ってくる人にも出会わなかった。いつもの一人だけの山歩きだ。
 ただし前回と違うのは、あちこちに広がる雪が溶けた後のぬかるみだ。九重の春山は、これだから閉口してしまう。雪や雨が溶けて数日たった後の乾いた道ならば、本当に心のどやかな尾根道歩きを楽しめる所なのに。

 しかし、雪質は悪くなかった。10cm足らずだが、まだ真冬のしまった粉雪状態だった。
 夕暮れが迫る中、分岐から右に扇ヶ鼻への道をたどる。二人が往復した足跡があるだけだ。ほとんどの人は、そのまま久住山や中岳への道をたどるからだ。
 少し急斜面を登ると、扇ヶ鼻の頂上台地に上がる。あたりは、まるで山上の白いサンゴ礁を思わせる樹氷群が素晴らしかった。ただし残念なことには、背景になる星生山の南面は、すでに雪が溶けて冬枯れの山腹がむき出しになっていた。(写真上)
 さらに行くと、眼前に肥前ヶ城を隔てて、九重核心部の山々、久住山(1787m)や中岳(1791m)などの山々が見えてくる。しかしここでもその南面の雪は溶けてしまっていた。
 風が強く寒くなり、そこで上に冬山用ジャケットを着こみ、手袋も上に厚手のものをさらに重ねた。

 そこから戻って、小さな樹氷群のなだらかな道をたどり頂上に向かう。振り返ると夕日に照らされた久住、中岳などの主峰群が並んでいた。(写真)

  

 ただ残念なことには、前回と同じようにあまり雪がついていないから鮮やかな赤にはならなかった。仕方がない、もう今年の雪山は終わりだろうから、また来年のその時を待つことにしよう。

 すぐに、岩が集まる扇ヶ鼻頂上(1698m)に着く。ちょうど日が沈むところだった。
 南側に、阿蘇山のシルエットが見え、西側の日の沈んでいく赤い地平から、ひとり雲仙の山が浮かび上がっていた。その下にはぐるりと入り込んだ有明海の広がりも見えていた。(写真下)

 日が沈むと寒さが増してきた。6時を過ぎていた。
 寒いからじっとしているよりは歩いている方がいいのだが、それでも足先は冷たく、手袋の中の手は、グーで握りしめていないとがまんできないほどに冷えきっていた。

 前回と同じように、空には半月が出ていて雪道を照らしてくれてはいたが、今回は前回使えなかった手持ちのライトの代わりに、ちゃんとヘッドライトを用意してきていて、早めに頭につけて道を照らして歩いて行った。
 ありがたいことに、行きにあれほどのぬかるみだった道がもう凍り始めていた。
 7時半に駐車場に下りてくると、ただ一台、私の車があるだけだった。
 雪が溶けていて凍結の心配のない道を走って、家に帰り着いた。
 まずは、たっぷりと張ったお湯の暖かい風呂に入って、冷え切った体を温めた。

 このところ少しふさぎ込んでいた気持ちが、山歩きの疲れとともに、暖かいお湯の中に溶かされて消えて行くようだった。
 わずか3時間半ほど山の中にいただけで、そうして自ら閉ざしていた環境を少し変えただけで、その小さな一歩を踏み出せたことで、状況が変わることもあるのだ。
 他人にとっては、一顧(いっこ)だにする価値もない一歩なのだろうが、私にとっては大きな一歩になり、こうしてその人その人の人生が、とりとめもない日常の出来事の中で決められていくのだろう。
 ともかく、心地よいお湯に包まれて私は思ったのだ。「あー、極楽、極楽」と。

 少し前に、NHKで昔のドキュメンタリー映画を放映していた。『ダイマグラばあちゃん』(平成16年制作)。
 その中で、おばあちゃんが口ぐせのように言っていた、「あー極楽だあ」。

 東北は、岩手県の早池峰山(はやちねさん、1917m))のふもとにある小さな集落、ダイマグラ(アイヌ語に基づく地名)に住む開拓農家の老夫婦の物語である。
 そこは戦後に開拓農地として拓(ひら)かれたのだが、東京オリンピックのころにはもう他の家は離農して出て行ってしまい、二人の住む家だけになっていた。
 それでも夫婦は、その電気も引かれていない一軒だけの家に住み続けて、力を合わせて毎年変わらぬ季節ごとの農業の仕事に精を出しては、自給自足に近い生活を送ってきたのだ。
 何の疑いもなく、目の前にある仕事だけを黙々とこなしていくこと・・・誰かのためではなく、自分たちが生きていくためだけに・・・。

(数年前に、地方民放局制作の『ある夫婦の桃源郷』というドキュメンタリーがあったのだが、それも同じように山間部に住む老夫婦の生活を描いた、優れた番組だった。) 

 私はこのところ、生きていくことやいつかは死ぬことについて考えるようになってきていた。前回、その小さな答えの一つをともかくも出してみた。死を意識しつつも、よく生きるということ。
 さらに、母とミャオの死が教えてくれたことは、その時が来たら、黙って自分の天命を受け入れるということなのだが・・・。

 しかし私たちは、自分たちの日々の暮らしの中で、これらの単純なことを分かっているようで、実は分かっていないのではないのだろうか。
 いつも、自分と周りとの関係の中で感謝する以前に不平不満を抱き、その原因の多くを他人のせいにすることで、自らの小さな満足の中に安住し、何も分からないまま歳月を重ねていく・・・。
 そして、ある時、何の前ぶれもなく運命が訪れると、様々な思いがいっせいに吹き上がってきては、ただ慌てふためくことになる。

 私の人生も思えば、それに近いものだったのだ。それが、北海道に行ったことで、自らの意志で一歩を踏み出したことで、自分のためによく生きることへの、入り口を見つけたような気がしていたのだが・・・。

 さらにこれも、最近見たNHKの再放送シリーズからだが、『素晴らしい地球の旅―アメリカの森に生きる職人たち』というドキュメンタリー番組があった。
 フライ・フィッシング用のさお(バンブー・ロッド)を作るために岩手に移住した男が、釣り仲間でもあるかつて日本にいたことのあるアメリカ人の男とともに、フライ・フィッシングの故郷でもある、アメリカ東部のニューイングランド地方を訪れて、釣りを続けめぐり歩いては、そこに住む手作り職人たちを訪ねていくという番組構成だった。
 私は釣りはしないのだが、このフライ・フィッシングについては前にも取り上げたことがあり、自然豊かな林の中を流れる川の中で釣りをする姿には、何か心ひかれるものがあるのだ。(アメリカ映画『リバー・ランズ・スルー・イット』参照)
 さてそんな田舎に住んで自分たちの作品作りをしている人々、そのフライ・フィッシングのさおづくりや、リール(釣り糸巻き上げ器)づくり、フェルール(つなぎ金具)づくりだけでなく、家具職人、カヌー作り、メープル・シロップづくりをしている人々を訪ねていくのだが、その中の一人がこう言っていた。

 「田舎の暮らしは簡単にしてくれる。都会の暮らしはとかく複雑だけどね。」

 さらに、先ほどの『ダイマグラばあちゃん』の話に戻ると、その老夫婦二人だけのダイマグラに、都会から一人の若者がやってきて、空家の一つを借りて住むようになった。そこで老夫婦と若者との、互いに助け合い教え合う新たな毎日が始まることになる。
 しかしそのうちに、おじいさんは動けなくなり、そのまま家で亡くなる。一方、若者は結婚して子供も生まれて、にぎやかになっていくが、そんな中、体が弱ったおばあさんはついに下の町に下りることになり・・・やがておばあさんも亡くなってしまう。
 しかし、映像はその後の若者たちの家族を映し出していく。
 若い夫婦は子供たちとともに、おばあさんから教えられたとおりに味噌作りをするのだ・・・大豆を煮てよく踏みつぶし固めては天井から吊るしていく・・・。

 肩寄せ合い助け合い生きていくことは、人のためとか誰かのためとか、標語として大声で訴えかけるべきことではない。
 もくもくと働き生きていくこと、まずは一人で、そして夫婦で、家族で、そして隣人とともに、当たり前のように仕事ををやっていくだけのこと・・・。

 さらにこれもまた最近見た番組なのだが、『明日へ―証言記録・東日本大震災』という、1年ほど前から続いている、NHKの震災後の人々の証言シリーズの一つである。これまでに13本が放送されていて、そのうちの何本かは見ていたが、今回の南三陸町編の話もまた忘れがいものだった。

 あの大津波が来た時、南三陸町戸倉地区の戸倉中学校は高台にあって、避難場所になっていたほどであり、まさかここまでは来ないだろうと思っていたところ、見る間に近づいてきて、その時、一緒にいた仲間の四人の中学生たちは、急いで裏山に駆け上った。
 もう後ろに波が迫ってくる。下の方で、子供連れの母親が波に洗われていた、彼らはとっさに着ていたジャージを脱いでつなぎ合わせてロープにし、その親子を救い出し、さらにもう一人のおばさんも助け出していたのだ。
 あれからもう1年半が過ぎ、このNHKの番組の取材があり、4人は高校生になっていて、当時のことを振り返り、ただ助けなければと思っただけですと、はにかみながら答えていた。
 そこに、この番組のことを聞きつけたおばさんがやってきて、あの時、私を助けてくれたのはあなたたちだったのね、ありがとうと涙ぐみながら、彼らが立っている斜面に向かって頭を下げていた。

 さらに同じ時、同僚の二人の先生は迫りくる津波から逃げようとして、一人は波にのまれてしまいもう一人だけが助かった。しかし、その彼も両親を津波で亡くし、無力感に打ちひしがれていたのだが、その後、他校に間借りして始めた授業の中で、子供たちの笑顔と生きていく気力に救われて、立ち直ることができたと話していた。


 あの芥川龍之介の『蜘蛛の糸』のように、天上から垂れ下りてきた、一筋の銀色のクモの糸を、人々は譲り合うことができるのだろうか・・・。

 われ先にその糸をつかんでは登ろうとする人と、女子供たちを先に登らせようとする人と、いつか来るだろう順番を待つ人と、そして自分はあきらめ覚悟を決めて座り込む人と・・・。
 

  

ピアノ五重奏曲と「門付け」の女

2013-02-13 10:52:45 | Weblog
 

 2月13日

 このところ、雪は降ってもほんの少しで、すぐに溶けてしまう。
 母がよく言っていたたとえ話だが、昔の田舎娘の化粧くずれのような”焼け野のまだら雪”状態では、とても山に行く気はしないし、といってそれなら飛行機に乗ってまでの本州遠征の雪山歩きをするだけの決心もつかない。

 今ではミャオがいなくなったから、自由に時間は取れるようになったのに、いつまでたっても次の一歩が踏み出せない。望んでいた山登りなどもできるようになったのに、律儀(りちぎ)というべきかぐうたらというべきか、これまでの毎日をすぐには変えられずに、そのありがたさをまだ十分には利用できずにいるのだ。

 もし私が宝くじに当たっても、おそらくは長年のその貧乏性から使い道に困り、みみっちくも手元に少しだけ残して、後はどこか困っているところへと全額寄付してしまうことだろう。
 若いころには一獲千金(いっかくせんきん)を夢見て、何度も宝くじを買い、多少のギャンブルにはまった時もあったけれども、こうして年を取ってくると、今までの長年の窮乏(きゅうぼう)生活が身にしみついていて、今さら余分なお金など欲しくもないし、こうして毎日を生きていけるだけあれば十分だと思うようになってきた。

 年寄りになっていくことの楽しみの一つは、それまでは多くの不満を抱えてはピリピリしていた、あの若き日のぎらついた欲望の呪縛(じゅばく)から、少しずつ解放されていくということだ。
 そうしたストレスを余り感じなくてすむようになった今は、思えばずいぶん楽になったものだ。

 しかし、人間の心理とは面白いもので、そうした自由な気持ちになったから、それですべてうまくいくというわけでもない。
 つまり今まで、何々が欲しいと思って外部に働きかけていたことが必要でなくなると、そこで外部との関係が失われたり、疎遠(そえん)になったりしてしまい、いつしか少しずつ社会からは孤立してしまうようになる。
 つまり自由になって得たはずのものが、自分の孤独を招くもとにもなってしまうのだ。
 そんな時にさらに、いつも一緒にいた自分の身近な家族を失ったとすれば、孤立はさらに深まっていくことになる。

 気分一新の山登りに出かける気にもならず、ミャオがいたころの毎日がそこここにちらつき、家に閉じこもって考えてばかりいれば、当然うつうつとした気分になってしまう。
 読む本も、いつしか孤独や死についての哲学書やエッセイなどが多くなってくる。もっともそれらは、暗い絶望的な話ではなく、むしろ逆に、明るい将来や意義ある生について語られていることが多いのだが。
 つまりそれらは、当然のことだが、自殺願望者たちが考える解決策としての死の考察(こうさつ)ではなく、これから先に訪れるであろう死について、心構えとして学んでおくべきことを説いているからである。
 それらの本をひとくくりにして答えを出せば、死がいつもそばにあるということを頭において、これからも残りの時間を”よく生きよ”ということなのだ。

 まあそれも大ざっぱに誤解を恐れずに言えば、哲学者や倫理学者たちが考える”生と死”という大きな命題は、そうして考えることのできる十分な時間のある人たちによる、あるいは職業として突き詰めて考えねばならぬ人たちによる、大きな研究テーマでしかないのだと・・・。
 毎日を忙しく必死で生きている人々にとって、生だの死だのと考えているヒマなどないのだ。
 さらに、それらの本の中で誰かが言っていたように、死については、私たちはもうその時には生の側にいないのだから、分かりようがないし考える必要はないのだ。そして、もし死が死後の世界を伴うものなら、期待してその日を待てばいいだけのことだ。

 私の目の前で死んでいった二人、母とミャオが身をもって教えてくれたことが、今も私の頭の中にしっかりと残っている。
 何も特別なことではない。ともかくも、その時までは生きていくこと、そしてその時が来たら、覚悟して静かに受け入れること・・・。

 阿弥陀如来(あみだにょらい)のみ懐(ふところ)へ、マリア様のみ胸に・・・宗教の違いを超えて、たどり着くべき自然なる神の懐は同じなのだろう・・・。

 しかし、そうしたことがしっかりと分かるまでは、私は家に引きこもってばかりいて、いかに天気の良い日が続いたとしても、次にはまた重たい曇り空の日が来るのだと思い、いつまでも堂々めぐりの暗い気持ちの中にいた。
 そんな時、私のすっかり滅入った気持ちの上に、さらなる憂愁のベールが包み込んできたのだ。
 ”毒をもって毒を制す”のことわざではないけれど、沈んだ気持ちの時には明るい声よりは、相づちを打つような悲しげな声の方が、大きなな慰めになることがある。(その逆もあるけれど・・・。)

 ある時、ふと私の耳に一つのもの悲しいメロディーが響いてきた。
 小さく、口笛でなぞってみる。そうだ、あの曲だ。
 フォーレの「ピアノ五重奏曲第1番ニ短調」の、出だしの部分、ピアノの音が小さくアルペッジオ(分散和音)で聞こえてきて、次に弦楽四重奏がその後をついで、次第に変奏されて流れていく。

 それは、東京で働いていた昔のことだが、毎日の仕事に疲れてはて夜遅くひとり住まいの部屋に帰ってきていたころ、ちょうどそのころ長く付き合っていた彼女と別れたこともあったのだが、憂愁の思いにとりつかれては、ただフォーレの曲ばかり聞いていたことがあった。

 ガブリエル・フォーレ(1845~1924)は、後期ロマン派のフランスの作曲家である。
 フォーレと言えば「レクイエム」というほどに、あの天国的な音の響きの鎮魂(ちんこん)曲が有名であるが、私が当時夢中になって聴いていたのは、「夜想曲集」「前奏曲集」「舟歌」などのピアノ曲はもとより、特に室内楽曲の数々、「ヴァイオリン・ソナタ」「チェロ・ソナタ」「弦楽四重奏曲」「ピアノ三重奏、四重奏、五重奏曲」などであり、それらの曲の中から聞こえてくる、心のうちに秘めた幽遠(ゆうえん)な思いや、時にはほとばしり流れくるひたむきな思いを込めたような、豊かな音の響きに魅せられていたからである。
 霧の林の中をひとり、思いを胸にさまよい歩くような・・・。

 そして、それらの曲の中でも、レコードに針を落とした瞬間に、私の胸に響いてきたのが、この「ピアノ五重奏曲ニ短調」である。
 当時、ジャン・ユボーのピアノとヴィア・ノヴァ四重奏団によるレコード(エラート・レーベル)を聴いていたが、後にジェルメーヌ・ティッサン=ヴァランタンとORTF(フランス国立放送管弦楽団)四重奏団によるレコード(シャルラン・レーベル)を聴いてすっかり魅了され、その後さらにコラールのピアノにパレナン四重奏団などを聴いたりもしたが、私にはこのシャルランの一枚さえあれば十分だった。
 CDの時代になって、このシャルラン盤は日本ではヴィーナスレコードから再発売され(写真上)、ピアノ五重奏曲2番ともども(どちらも40分余りという極めて短い収録時間ながら)、すぐに買い求めて、こうしてたまに思い出しては聴いているのだ。

 そうして、音楽を聴いてたっぷりと憂愁の思いのひとときに身をゆだねると、いつしか今まで胸の内にとどこおっていた何かが、もう洗い流されていることに気づくのだ。
 人は、そのきっかけが何であれ、こうして再び自分の前にある道へと歩き出すのだろう。

 写真の一枚でよみがえる記憶があるように、一つのメロディーから昔のことを、その時の自分を思い出すこともある。
 それはこうしたクラッシックの音楽だったり、映画のテーマ曲だったり、ジャズやポピュラーだったり、歌謡曲だったり、民謡だったりと、”世は歌につれ、歌は世につれ”のたとえではないけれど、私は幾つもの音楽とともに生きてきて、その幾つもの音楽はまた私の生きてきた時代とともに流れてきたのだと、今さらながらに思うのだ。

 その歌のことで、一人の門付け(かどづけ、家々を回る流しの三味線弾きや唄い手)の女の情景が浮かび上がってくる・・・。

 あの小泉八雲が書いた『心』の中の「門付け」と題された一節である。
 長くなるので前半を要約すると、次のようになる。

 その冒頭には、1895年3月と書いてあるから、作者である、アイルランド系イギリス人のラフカディオ・ハーン(日本名小泉八雲、1850~1904)が、明治中ごろの1890年に憧れていた日本にやって来て、やがて旧松江藩の武士の娘、小泉セツと結婚して、その後、英語教師として松江から熊本へ、さらには神戸へと移り住んだ頃のことである。
(ずいぶん前のことだが、NHKで放送された『日本の面影』という小泉八雲のドラマでは、壇ふみがそのセツを演じていてその凛(りん)とした姿が今でも思い浮かぶほどだ。)

 その彼が住んでいた家に、ある日、三味線をこわきに抱えた一人の若い女がやってきた。その傍にいる7,8歳くらいの子供を連れていた。
 彼女の顔は、見た目は良くなかった。その上に病気の痕(あと)のあばたが、さらに彼女をひどく見せていた。
 彼女は、玄関口に腰をかけて、三味線の糸の調子を合わせ始めた。
 そうしているうちに、いつの間にか玄関の周りの家の外には、女子供や年寄りたちが集まってきていた。

 そして、彼女は三味線を爪弾(つまび)き、歌い始めた。
 しかし、その不格好な唇から聞こえてきたのは、まるで奇跡のような、澄み切って若々しく胸を打つような声だった。
 玄関先で聞いていた彼は、今までにこれほど三味線をうまく弾き、きれいな声で歌う芸者を見たことはなかった。

 彼女が歌うにつれ、周りの人々からは静かなすすり泣きがもれてきた。
 彼には、その歌の意味が分からなかったが・・・しかし、

 (以下は、”A Street Singer" 牧野陽子訳による。)

 「・・・日本の暮らしの中の悲しみや優しさや辛抱強さが、彼女の声とともに伝わってくるのが感じられた。
 それは目に見えぬ何かを追い求めているような切なさである。
 そこはかとない優しさが寄せてきて、周りでかすかに波打っているようだった。
 そして忘れ去られた時と場所の感覚が、この世ならぬ感情と入り混じりつつ、ひそやかに蘇(よみがえ)ってきた。
 ――今生(こんじょう)の記憶の中には決してない時と場所の感覚が。

 この時、私は歌い手が盲目であることに気づいた。」


 私は今でも、この子供を連れた瞽女(ごぜ、盲目の門付け女)のことを思い浮かべると、まぶたが熱くなるのだ。
 必死で生きていくことには、何の理屈もないのだと。

 おまえはこれほど恵まれた中に生きていて、一体何をぐずぐずと考えているのだ、という声が聞こえてくる。
 せっかくの今があるのだからこそ、これからをよく生きるべきだと、ただ自分を励ますように・・・。
 

(参考文献:『<時>をつなぐ言葉 ラフカディオ・ハーンの再話文学』 牧野陽子著 新曜社、『心――日本の内面生活の暗示と影響』ラフカディオ・ハーン著 平井呈一訳 岩波文庫、『日本人の心』ラフカディオ・ハーン著 平川祐弘訳 講談社学術文庫) 
 

 

 

『北の国から』と『愛する時と死する時』

2013-02-05 10:41:55 | Weblog
 

 2月5日

 「福は内、鬼は外」。一昨日、誰もいない家の中で、ひとりで”節分”の豆まきをした。
 長い間、母と一緒に暮らしてきて、その折々に母が行ってきた様々な季節のことどもを、ひとりになってからもそのまま受け継いで続けている。
 若いころならば、そんな古臭い迷信に近い家庭の行事など、小馬鹿にしていたのだが、年を取るにつれて、なるほどこれらのことは、季節の変わり目への備えを促すためなのだと納得できるようになってきた。

 日本人は、日本人として生まれるのではなく、日本人として作られるのだという言葉が思い浮かんだ。
 もちろんそれは、あのボーヴォワール(1908~1986)の、「人は女に生まれない。女になるのだ――女はこうして作られる」という、『第二の性』の冒頭に書いてある有名なフェミニズム宣言ともいうべき言葉から思いついただけのことで、ここで改めて日本人論について考え直すというような大それた考えはない。

 そんな季節の移り変わりを知らせる”節分・立春”だからというわけでもないのだろうが、この三日ほどは晴れて暖かいまるで春のような日が続いていた。
 庭の隅に残っていた雪は、その前の雨で跡形もなく溶けてしまった。
 冬の雪景色が好きだと言っている私でも、こんな寒い家にいるからこそ余計に、春の日差しがとりわけ暖かく感じられるのだ。
 まず洗濯をして、一枚一枚とベランダに干していく。体じゅうに降りかかるぬくぬくとした日の光を受けて・・・。
 ありがたいことに、今、私は生きているのだと思う。
 次にその日の当たるベランダの椅子に座って、穴あき靴下などの繕(つくろ)いものをする。
 その昔、高校生の家庭科の時間に覚えた、針仕事がしっかりと役に立つのだ。

 思うに、中学高校時代に習った学科のすべてが、その後の人生の中でいかに役に立っていることか。
 そんな事とはつゆ知らず、小難しい勉強を嫌い、仲間とただ騒ぎまくっていただけの時間が、今から見れば何と馬鹿馬鹿しく思えることだろう。
 そんな若き日の不勉強ぶりを取り返すべく、ある時、今の高校の教科書を幾つか買いそろえて、勉強しなおそうとしたことがあったのだが、生来の怠け癖は治らず、取りかかってすぐに中断しては今に至っている。何事も、志(こころざし)はよしとすべきなのだが・・・。

 たとえば、上にあげた家庭科は言うに及ばず、誰もが必要だと思っていても話すことができない英語は、その基本となるものを中高校で教わるのであり、それは私の長期外国旅行の時の基礎的な会話のもとになるものだった。さらに、地理や歴史の科目で学んだことは、日本国内はもとより外国での基礎知識として、極めて有用だったことは言うまでもない。
 北海道でひとりで家を建てた時には、これまた数学の数式が大きく役に立ったし、周りの野山を歩き回る時には、幾らかでも生物の知識があれば、それだけ植生への理解も早くなるのだ。
 他にも、その後、数々の文学作品に親しむようになってからは、国語や古文のなお一層の読解力の必要性を痛感したのだ。

 すべては、中学高校時代に習得しておくべきものばかりなのだ。
 学生時代の勉強は、何も受験のためだけではない。いやそれ以上に、大人になって生きていく上での知識を集めた、自分の脳内百科事典、マイ・ウィキペディアを作るためのものなのだ。
 それなのに、そんなことには誰も気づくことなく、イヤイヤ勉強を続けては、中高生時代の大半の時間を無意味に終わらせてしまう。かく言う私もその一人だったのだが、あーあ、今にして思えばもっと勉強をしておくべきだったと・・・。

 暖かい日差しがあふれる家のベランダで、繕いものをしていた話から、わき道にそれてしまったが、さて、次は散髪に取りかかることにする。
 新聞紙を広げて、電気バリカンで自分の髪の毛を刈っていく。
 床屋に行かなくなってから、もう十年近くにもなる。わずか数千円で買ったこの電気バリカンは、故障することもなく、一月に一回、少し伸びた私の頭の毛をやさしく刈ってくれる。
 なるべく鏡に映った自分の顔は見ないことにして、見るとタラーリタラリとあぶら汗をかき、それを集めて煮詰めたところで、鬼瓦印のガマの油として売り出せるわけでもないから、ただ頭だけを見ては髪を刈っていくのだ。

 初めてこの電気バリカンを買った時さっそく使ったのだが、うまく使いこなせずに悲惨な結果になってしまい、そのトラ刈り頭を帽子で隠しながら、恥を忍んで床屋で散髪しなおしてもらったことがある。
 そうした失敗や経験を糧(かて)にして、今では”バーバー鬼瓦”の看板をあげたいくらいの腕前になったのだ。
 失敗挫折こそは、次なる成功のための大事なステップなのだ。
 若い時には悲観的に考えがちになることを、前向きにとらえられるのは、経験を積み重ねてきたからこそのことであり、こうして、年を取ったからこそ、物事に慣れては上手くなっていき、楽しみがまた一つ増えていくのだ。
 一方では、何事にも多感であり、針小棒大(しんしょうぼうだい)に考えては大騒ぎして、喜び悲しむ、あの落ち着きのない若き日の自分になど戻りたくはない。

 年を取れば、いつしか昔の苦しみ哀しみは薄れゆき、今にして喜びの甘い思い出だけが再び香りたってくる・・・。

 上の写真は、今スキャン作業をしている中判ポジ(リバーサル)フィルムからの一枚である。
 十数年前の4月、北海道は天馬街道(てんまかいどう)、野塚トンネル傍から国境稜線への尾根に取りつき、稜線をたどって野塚岳を往復した時の一枚である。
 連休前だから、縦走者の足跡一つなく、真冬の時期と変わらない白い雪の稜線を、ただひとり歩いて行った。
 まだ先にある頂きに着くことよりは、今、目の前にあるその時々の景観に目を奪われて、何度足を止めたことだろう。
 写真左が野塚岳本峰(1353m)、右が西峰である。

 その時の、4時間近くかけての急傾斜の尾根への登りや、稜線からの雪庇(せっぴ)の張り出しの崩落が気になったことなどを覚えてはいるものの、改めてこの写真を見た私の思いは、あの穏やかな白い稜線歩きの、まるで天国の門に至るかのようなひと時であり、今でも私をやさしい思い出のそよ風で包んでくれるのだ。

 このように、自分の頭の中にある記憶は、これまで生きてきた年数分の思い出として蓄えられていて、その忘れていた記憶の一つが、一枚の写真を媒体(ばいたい)にして、鮮やかによみがえってくるのだ。
 今、私の傍には昔の思い出を話し合える相手が誰もいないけれども、もともとこれまでひとりで行動することが多かったから、その時々に撮ってきたおびただしい数の写真の一枚一枚によって、自分の歩いてきた道を思い出しては、自分に語りかけることができるのだ。あの時に、私は確かにあの場所にいたのだと・・・。
 つまり、どんな物事でも、それが悪い結果になったとしても要は考え方次第、後になって自分の都合のいいように考えた方が、明日に続く道を見つけやすいということだ。

 私は、理髪料を節約するために自分で頭を刈ることにしたのであり、外食をせずに食事のほとんどを家で自分で作って食べることによって、食費を切り詰めることができるし、前回書いたように、必要な冷蔵庫やパソコンや本やCDは買うとしても、酒やタバコなどはとっくの昔にやめているし、夜は外に出ないしぜいたくはいっさいしないことで、九州と北海道での生活を両立させているのだ。

 その昔、忙しい東京での暮らしから北海道での生活へと移る時に、心に決めたことは、お金より静かな時間をという原則であり、そのために、お金がないから自分で家を建てたわけであり、水は時々枯れるような井戸水だけが頼りだし、暖房は家の林の木を切った薪(まき)でまかない、ゴミはなるべくそこで処分するようにして、トイレは外に作り工夫して処理できるようにして、五右衛門風呂にはたまにしか入れないが、ともかくそんな不便な生活にも見合うだけの、穏やかな時間がそこにはあるのだ。 
 もちろんこのような節約生活は、テレビのお遊び番組である、数日間無人島で暮らすだけの生活ではないことを、心しておくべきなのだが。

 つまり借金さえしなければ、節約して暮らしていけば、田舎では生活できる手立てはいくらでもある。
 今では一般的になって手軽に入れるローンこそは、実は名前を変えただけの巨大借金であることを肝に銘じておくべきである。お金がなければ買わないまでのことであり、なければないなりに田舎ではやっていけるということだ。

 こんなことを書いているのは、何度か目の再放送になるのかもしれないが、今、BSフジで、あの『北の国から』が放映されていて、それを楽しみに見ているからだ。
 それも最初からの、1時間番組の連続ドラマとして24回分放送されたものが、今年になってから平日の毎日に放送されているのだ。
 私は今まで、このシリーズを見ていなかった。ちょうどそのころ、北海道での家づくりに取りかかっていて、タダで借りていた古い空家と現場を往復するだけの毎日だったからだ。もちろんテレビもなかったし。
 後になって、友達からお前と同じようなことをやっているドラマがあると知らされ、その後、単発物の3時間ドラマになってからやっと見るようになったのだ。
 その中でも白眉(はくび)のシーンは、『'87 初恋』で、中学を卒業した純が、東京までのトラック便に乗せて行ってもらうことになり、そのトラックの助手席に座っている時に、今は亡き古尾谷雅人ふんする運転手から父親が渡したという1万円札を返されるのだが・・・。
 今思い出してもまぶたが熱くなってくる・・・。

 物語のそもそもの始まりは、総集編などを見て断片的には知ってはいたものの、今回のシリーズを見て初めて分かったようなことが幾つもあった。
 昨日の放送分で21回目であり、まだ全部は終わっていないのだが、中ごろあたりまでは毎回のテーマを絞った話にひきずりこまれて、その後少し散漫(さんまん)になってしまった話の回もあったが、ともかく楽しみに見せてもらっている。
 それぞれの回の話の中でも、何度かウルウルと来たのだが、この時ばかりは、もう耐えきれなかった・・・それは、東京から母がやって来ても、許せない気持ちがあってひとり家で寝ていた蛍(ほたる)が、急に母に会いたくなり、駅には行けずに、母の帰る列車を見送るために川べりの土手を走って行くシーンであり、私はひとりきりの部屋で声をあげて泣いてしまった。

 子供のころの母とのつらい別れの思い出が、この年になっても思い返されては、蛍の姿にだぶってしまったからだ。
 鬼瓦の目に涙・・・とても人様には見せられない姿だったのだが・・・ミャオがいたら、きっとあのざらついた舌でなめてくれたことだろうに。

 しかし、この『北の国から』のシリーズや、単発物を含めた一本一本の話のすべてが、納得できるものばかりだというわけではないし、多少の制作上のアラが見受けられる所もあるけれども、そうしたものを超えて、日本人としての私たちの心に響く何かがあるからこそ、毎回、見続けたくなるのだろう。
 上で少しふれたように、私たちは、日本人として生まれてきたのではなく、こうしたドラマのように日本人として育てられてきたからでもあるのだろうが。
 戦争後の昭和の世代が経験してきたもの、それはあのNHKの連続ドラマ『おしん』で描かれていたものと同じような、耐える世界であり、その後『おしん』が海外で、特に貧しい開発途上国で大ヒットしたというのも、うなづける気がするのだ。

 それにしても、ここまでのシリーズを見てきて感じたのは、この話を書き続けてきた倉本聰の脚本の力によるものが第一だとしても、幼い兄妹役の純(吉岡秀隆)と蛍(中嶋朋子)の、自然なセリフと演技の素晴らしさ、そして父親役の田中邦衛、叔母さん役の竹下景子はもとより、その他のわき役たちの多彩な顔ぶれも・・・ひとつだけ例をあげれば、昔の時代劇の大スターだったあの大友柳太郎が、そのの憎まれ役である偏屈(へんくつ)じじいとして登場していたのだが、最後に死ぬシーンまでその迫真の演技からは目が離せなかった。

 日ごろから、テレビ・ドラマなど見ない私がこうして『北の国から』を見続けているのは、かなりリアルに仕上げられた北海道のドラマだからであり、この一家の生活が、私の北海道での生活から遠くはない貧しい暮らしぶりであるからであり、まっとうに貧乏に生きることの大切さを高らかにに歌い上げてくれているからである。
 それはまさに、あのローラ・インガルス一家の家族愛に満ちた『大草原の小さな家』の日本版であり、あの中野孝次のベストセラー『清貧の思想』の実践版でもあるからだ。

 この『北の国から』は、私の子供時代へと引き込んでくれるだけでなく、今のひとりでいる私を励ましてくれてもいるのだ。
 東京生まれの倉本聰が、北海道に移住してまで書き上げた話に、その昭和男の洒脱(しゃだつ)で一本気なロマンに、今はただたっぷりと浸っていたい。
 こうしてひとり田舎に引きこもっている、いじけた私とは違う世界だからこそ、このドラマの家族を憧れを込めて見つめていたくなるのだ。
 「古い奴ほど、新しいものを欲しがるものでございます」とかいう、歌のセリフがあったのだが・・・。


 所で話は変わるけれど、前回のクラッシックCDの話の後に書くべきだったのだが、その後テレビで放映されたクラッシック音楽番組についても少し触れておきたい。

 まずは、マウリッツィオ・ポリーニによるベートーヴェンのピアノ・ソナタ選集。
 あの鮮やかな切り口でピアノ・ソナタの大曲「ハンマークラヴィーア』を録音した若き日のポリーニに比べて、今の彼は、30番,31番,32番と並んだ最後のソナタ集をなんと情感豊かに聞かせてくれることか。
 さらに、去年の来日公演が話題になったヤンソンス指揮によるバイエルン放送響のベートーヴェン交響曲の全曲演奏。
 最近では古楽演奏法などを取り入れた解釈演奏が脚光を浴びている中、しっかりと根づくドイツのベートーヴェン伝統をふまえて、今の時代にも変わらぬゆるぎない力を鮮やかに引き出したヤンソンス。
 若いと思っていた彼はなんと、ポリーニともどももう70歳になるという・・・時の流れ。

 同じ円熟味を感じさせる演奏家がもう一人。イタリアの名メゾ・ソプラノのチェチーリア・バルトリである。
 サイモン・ラトル率いるベルリン・フィルのジルベスター・コンサート(大晦日のコンサート)の前半では、バロック・オペラのアリアと舞曲が演奏され、後半はドヴォルザーク、ブラームスの舞曲とラヴェルの「ダフニスとクロエ」バレエ組曲という、舞曲というテーマにちなんで考えられたプログラムになっていた。
 この「ダフニスとクロエ」は、久しぶりに聞いたのだが、さすがに管弦楽曲の魔術師ラヴェルらしい見事な曲であり、若かりしころ私は、あの「ボレロ」とこの曲を背景に流しながら、大人の恋と若者の初恋についての映画を作れたらと、臆面(おくめん)もなく夢見ていたこともあったのだ。
 「君が緑の黒髪と君紅(くれない)の唇と・・・夢恥ずかしきこの別れ」などという、昔の歌を思い出す・・・。

 話をバルトリの歌に戻そう。私は、バルトリのアリア集のCDを2枚持っている。
 彼女は、あの一時代を築いたヴァレンティーニ・テッラーニの後を継ぐ、いやそれ以上のバロック・オペラやロッシーニ・オペラの歌手としての活躍を期待していたのだが、彼女の技量はバロックにとどまらず、近代オペラでも通用する見事なものであり、逆に言えばそのきらめくような明確な装飾音をつけての歌い方が、余りにも超絶的であり、少し気になるほどでもあったのだ。
 しかし久しぶりに見た彼女は、その容姿から見ても、豊かでまろやかな感じになっており、その彼女の歌声も今の姿にふさわしい、包み込むような温かさにあふれていた。(写真下)

 

 その一曲目の歌声を聴いた時から、私としてはブラボーものだったのだが、さらに私の好きなあの有名なヘンデルの『リナルド』からのアリア「涙の流れるままに」('10.2.27参照)、その原曲となったのが彼のイタリア時代に書かれたオラトリオ『時と悟りの勝利』からの「快楽のアリア」であり、彼女はそれを見事に歌いあげたのだ。ブラビッシモという他はない。

 その他にも、ベルリン・フィル首席奏者のオーボエやコルネットとの掛け合い演奏の見事さは、ジャズにおけるアドリブの掛け合いにも似て楽しかった。
 あーあ、これほどの演奏会なら、ぜひともそのホールで聞いてみたかった。(なんとこの日の演奏のために、何十万もする日本からのツアーも組まれていたとのことだ。)
 さらに4時間近くにも及ぶこの番組の後半では、その前の日の30日に演奏された、あのティーレマン率いるドレスデン歌劇場管によるカールマン・ガラコンサートがあり、カールマン(1882~1953)のオペレッタの名曲の数々を、ソプラノのシェプフとテノールのペシャワの二人が、明るく楽しく歌い上げていた。
 ドレスデンで聞いても、ウィーンのオペレッタの優雅さは伝わってくる。これもまたいい演奏会だった。

 生きていれば、生きてさえいれば、またきっといいことがあるのだろう・・・。

 しかし、一昨日の朝、テレビ画面に映し出された、市川團十郎の訃報(ふほう)の知らせ。私ごときの末席の歌舞伎ファンでさえ、一瞬、絶句したほどで・・・。
 つい先日、稀代(きだい)の才能を持った中村勘三郎を失ったばかりの歌舞伎界が、今度は大名跡(みょうせき)であり歌舞伎界の屋台骨を支える一人でもある團十郎までも失うとは・・・。


 「彼は大声で叫びたいと思った。急いで、大声で、言わなくてはならぬことがあまりにもたくさんあった――」

 『愛する時と死する時』より(エーリッヒ・マリア・レマルク著 山西英一訳 現代世界文学全集 新潮社)。