ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

ワタシはネコである(207)

2011-12-25 21:36:15 | Weblog


12月25日

 最近、ずっと食べていなかったキャット・フードを一口食べてから、すっかり、はまってしまった。そのぶんあれほど夢中になって食べていた生ザカナを、半分ほど残すようになった。年のせいだろうか。
 年をとれば、ワタシの体もくたびれているから、昔みたいなドカメシ食いはできなくなるのだ。まして、キャット・フードも昔のような大きな粒のものではなく、粒が小さくて、飼い主が言うには、ワタシのような年寄りネコ向けのものだそうだ。
 それを一日数回は食べる。飼い主は、そのたびごとに私が食べる分だけ、つまりカップさじの半分くらいをエサ皿に入れてくれる。それは、エサを山盛りに置いておくと臭って嫌だから、と飼い主が言っていたからだ。というのは、エサ皿を今までの寒い居間のほうではなく、私の寝起きするストーヴとコタツのある部屋のほうに移して置いてくれたからだ。

 人間は、ワタシたちよりはるかに嗅覚が劣るくせに、ワタシのエサやシッコなどの臭いに敏感過ぎるのだ。その上、潔癖症で、ワタシの足の汚れなどにもうるさい。常日ごろからワタシたちのように、多くの混在した臭いに慣れていれば、ちょっとした臭いにもすぐ反応できるし、さらにいつも多少バイ菌がついているものを食べていれば、いつしか抵抗力がつくというのに。
 それなのに、人間たちは、より快適により安全に暮らすために、悪臭を追放し、人工的な香料で部屋を満たし、すべての身の回りのものを殺菌して、無菌状態にしようとしている。それほどまでに、本来持っている動物本能的な抵抗力を捨ててまで、清潔さにこだわる人間たちに、明日を生き抜く野性的な未来があるだろうか。
 私たち人間以外の生き物は、たとえいかに人間たちが作り出した様々な害悪にむしばまれ、多くを失うことになったとしても、必ずやその野生本能や自らの抵抗力で、これからも生き延びていくに違いない。地球上で一番わがままで、実はか弱い生き物は、人間たちなのだ。
 
 さて、そのキャット・フードを食べてストーヴの前で寝ていると、体からの呼び声が聞こえてくる。まさに、”Nature calls me.”である。飼い主に、何度か鳴きかけて、外に出たいという。
 玄関のドアを開けてもらい外に出ると、夕闇せまるころなのに、それでも真っ白だ。辺り一面に雪が積もっている。雪をかきわけ、その下の落ち葉をかきわけてトイレをすませる。再び部屋に戻り、ストーヴの前に座り冷えた体を温める。
 しかし、飼い主はまだ部屋の明かりをつけずにいて、ストーヴの明かりだけで、何か妙な雰囲気だ(写真)。飼い主が、おばあさんの写真が飾られてあるところに、小さなケーキを置いて、いつものように鐘を鳴らして手を合わせている。その後で、もう一つの小皿をワタシの目の前に置いた。
 ワタシは、甘いものは食べない。横を向くと、飼い主は何かを言いながら,それをむしゃむしゃ食べ始めた。テレビはつけたままで、画面からは鈴の音と賑やかな音楽が流れてきていた。
 ワタシは、それらに背を向けて横になって、目をつむった。何か特別な日らしいが、ワタシには関係のないこと。ワタシたち動物には、一年365日、安全で何とか生き延びることができた今日のように、また明日も続けばいいだけだ。


 「これから雪の日が続きそうなので、数日前、少し離れた町まで行ってタイヤを交換してきた。私のクルマにつけられたスタッドレス・タイヤは、7年前のものであり、いくら九州で積雪日数が少ないとはいえ、さすがに8年目までもは使えない。ただキロ数を走っているわけではないから、十分なミゾの山はあったのだが、スタッドレスの命であるゴムの柔軟さがなくなっていて、夏タイヤ並みに固くなっていたのだ。
 大枚をはたいて、一番新しいスタッドレス・タイヤを買った。私には高額な買い物であり、北海道ならいざ知らず、こんな九州ではとは思うが、早朝の凍った道を走って山に行くためにはどうしても必要なものなのだ。ちなみに、九州の街に住むほとんどの人は、恐らくスタッドレスを買うこともなく、せいぜいチェーンですませることだろうが、雪の積もる内陸の山間部に住む人たちにとっては、日々の必需品なのだ。
 その新しいスタッドレスをつけて、家に戻ってきた。もちろんまだ雪のない路面だったのだが、驚いたことに、前のスタッドレスがいかに2世代前の古いものであったとはいえ、このタイヤは何と走りやすいことか。クルマの性能が一段階上がったようで、乗り心地がよく、その上さらに静かになったのだ。
 このまま夏タイヤとしても走れるだろう。支払ったお金に見合うものだと、ひとり納得した。

 しかし、考えてみれば、この喜びは、日ごろの私の言動とは何と大きく離れていることだろうか。つまり、自然破壊を嘆き、人間文明のこれ以上の進展に疑問を抱いて、なるべく自然に近い形で生きて行きたいと思っている私なのに、一方では新しい科学性能溢れる製品を、喜んで受け入れているのだ。
 これが、矛盾大きい存在である人間そのものの姿なのかもしれない。こうして、人間は、文明をさらに発展させ、それが経済の活力となって、自分たちの繁栄を支えてきたのだ。放射能拡散や地球温暖化くらいのことでは、今更、決して後戻りなどできはしないのだろうが。
 このままパンドラの箱(開けると災難が飛び出し希望だけが残る)をいくつも開けていき、その中にはさらに箱が入っていて、限りなく繰り返していくのだろうか、次第に小さくなる箱を求めて。

 と考えて行けば、暗い未来になってしまう。そして、自分の存在そのものが、価値のない害悪を及ぼすものに見えて、絶望的になるのだが、しかし待て、目の前で安らかに寝ている、ミャオを見よ。
 命あるものは、まずひたすらに、あるいは本能的に生を目指すことによって、それが人の言う、神の摂理(せつり)にかなうものになるのではないか。またさらに人として、すべての宗教の倫理観としてあるように、矩(のり)を超えず、物に執着せずに、弱きを助けて生きることこそが、人間の生の本分になるのではないのだろうか。
 つまりは、流行りのものに飛びつかず、貧しいままで、それを誇りとして、後は脳天気に生きることこそが大切なことなのだ。

 こうして、私はタイヤくらいで喜んだことを反省したのだ。しかし実際は、そのタイヤで走るのだが、ところが雪は今朝までに3cmほど積もっただけだった。その上、天気が良くなり、半分は溶けてしまったのだ。私の北海道の家のある一帯では、まだ12月なのに50cmもの大雪だったそうだ。
 以下、さらに最近の私の反省したこと、そのサルでもできる反省点について書いていくことにする。

 前回に書いた、ネット通販による書籍取り寄せの便利さに感心して、またも年内にと4冊を注文した。
 危ないことだ。パソコンのキーボードを叩くだけで、手軽に手に入れられる仕組みにはまってしまうと、いつしか私も、あのどこかのおぼっちゃまのように、外国にまで出かけて行って、スロットマシンの前に座り、あるいはカケ札を握り締めたりするかもしれないのだ。
 しかし、ミャオから、そんな一か八かの根性はないくせに、との声。

 次に、2週間ほど前のNHKスペシャル『震災遺児1500人』。津波で、若い両親と二つ上の姉を亡くした、まだ小学二年生の女の子。そして、母と弟を亡くし、父と暮らす小学生の男の子。その二人の毎日を見ているだけでも、胸が詰まってしまった。私の子供のころのつらい思い出なんか、まったくたいしたことではなかったのだと。

 三つ目は、昨日の、今年最後のNHK・BS海外ニュースで、今年の主なニュースを時々はさみながら、流れていた歌。あの宮崎駿の『千と千尋の神隠し』のテーマ曲である『いつも何度でも』を、ウクライナ出身の歌手ナターシャ・グジーが、リラの楽器をつま弾きながら歌っていた。
 彼女のその美貌からは想像だにできないが、自らがチェルノブイリの被害者であるということ。さらに、その彼女の冷たく透き通った声が、まるで誰かに強く訴えかけるように響いてきたこと。
 もともと、覚和歌子の作詞と木村弓の作曲が素晴らしい名曲であり、木村弓自身が竪琴をつま弾きながら歌うやさしい歌声は、確かにこのアニメ映画にふさわしいものだったのだが、一方でチェルノブイリを体験したナターシャの歌声は、今度の大震災の惨状と重なって、さらに私の胸を打ったのだ。知らないことが余りにも多すぎる。

 さらに一昨日のNHK・BS、『星の王子さま こころの旅 サンテグジュペリ 愛の軌跡』。これは5年前の再放送であり、そのころまだ衛星放送をよく見ていなかった私には、初めて見る番組だった。
 大体こうしたタレントを使ってのドキュメンタリーは、興味をそがれることが多いのだが、ここでの女優の南果歩がサンテクジュペリの足跡をたどって各地を旅するという構成は、そのままで興味深く見ることができた。
 『星の王子さま』の作者として有名なサンテグジュペリ(1900~1944)は、そのパイロットととしての体験から、他にも『南方郵便機』『夜間飛行』『人間の土地』などの名作を書いている。若いころ私は、前回に書いた、あのヘミングウェイやマルローに並ぶ行動主義の作家として、これらの作品も読んでいたのだが、『星の王子さま』だけは、いわばそんな彼の子供向けの作品だと思っていた。
 しかし最近読みなおした後、さらに今回、この『星の王子さま』のドキュメンタリー番組を見て、私は考え方を大きく改めた。これは、第二次大戦の混迷する世界に送られた、世界平和への強いメッセージであるとともに、ひとりの相手を真剣に愛するための自分へのメッセージだったのだと。あのころ私は、何と本の字ずらだけしか読んでいなかったことだろう。

 最後に、これは残念なことだけれども、あの『アサヒカメラ』に、今年は猫カレンダーが付いていなかった。ただ、猫の写真が数ページ本文中に割り当てられているだけだった。そして巻頭の特集は、『ヌード』だった。
 そんなエライ先生たちが撮った、若いねえちゃんたちの芸術的なヌード写真を見るよりは、私は、いつもすっぽんぽんでそこいらを歩いている、ネコやイヌたちの日常のヌード写真、つまりはあの岩合さんが撮る、今までどおりの”にっぽんの猫”の写真を見たかったのだ、それも毎月飾って見るのが楽しみなカレンダーとして。
 もちろん、版元がカレンダーにしなかった理由は分かっている。別刷り、別製本で費用がかかること、ネコ派以外のイヌ派や動物ぎらいの読者たちから、毎年の猫カレンダーに反対の声が上がっていたことなどだろう。
 そして、これに対するささやかな私の反対の意思は、もう来年からこの雑誌を買わないことだ。本屋の立ち読みですむことだから・・・。とはいっても、私が買っていたのは、カレンダー欲しさのこの正月号だけだったから、大したことではないのだろうが。
 
 さらに、今年一年の反省点をあげていけばきりがない。その上、もう年寄りになるのだから、今さら反省してどうなるという開き直りの気持ちもある。
 今日たまたまつけたテレビで、『邦画を彩った女優達 大原麗子』を見てしまった。そこには、不幸な家庭に育ち、二度の結婚に失敗し、わずか62歳で亡くなった彼女の孤独の女優人生が描かれていた。その中でのナレーターの言葉、『自分に忠実であろうとすれば、結局、孤独を引き受けざるを得ないのだ・・・』。
 自分の思うように生きていけば、残るのは孤独の余生だけだ・・・ということなのだろう。若い時にはそんなことなど考えもしなかったのに、時はすべてを押し流し、すべてを思いよみがえらせる、氷河の動きのように、目には見えずに少しづつ動いていく時の流れ。
 ただ、私は、今まだその流れの中に立っているのだ。ミャオもそばにいる。どうなるか分からない明日よりは、今ここに見えている今日だよな、ミャオ。
 ニャーオ。おーよしよし。」

 
 
 

ワタシはネコである(206)

2011-12-18 17:56:27 | Weblog


12月18日

 うーっ、寒い。飼い主にドアを開けてもらい外に出る。こんな時間なのに外が明るいのは、そうか雪が積もっているからか。ワタシは庭の片隅で、雪と枯葉をかき寄せてトイレをすませる。
 ベランダ側に回り、少し開けてあったドアから家の中に入り、とっとっとと速足で、部屋のストーヴの前に行く。そこに座りこんで、飼い主を見てひと鳴きして、体をなでてもらい、それから少し毛づくろいをする。まったく、この寒い季節になると、トイレに行くのも一苦労なんだから。
 もっとも、飼い主から聞いた話では、北海道の家は、トイレが別の離れたところにある小屋にあって、冬の大雪の時期には、朝まずスコップを持って外に出て小屋までの道を開けながら、やっとたどり着いて、それも暖房もない隙間風だらけの小屋の中に座ってするんだから、大変なんだと言っていた。

 さらには、あの亡くなったおばあさんから聞いた話だが、田舎の昔の家では、ポットン式便所で臭うから、離れになっているか別棟になっているかで、子供の時には、夜トイレに行くのがそれはそれは怖かったそうだ。
 寝ぼけていて、その便器の穴から下のウンチ溜めに落ちて、大騒ぎになったこともあったそうだ。それでも洗っても洗ってしばらくは臭いが取れず、他の皆はその子に近づかなかったそうだ。
 ともかくそんな具合だから、便所へは子供同士で行くか、母親についていってもらうかしたそうだが、それも小学校低学年ぐらいまでのこと、それから先は一人で行かねばならずガマンして、だから昔はオネショする子が多かったそうだ。
 少し前にはやった『トイレの神様』の歌を昔の子供たちが聞いたら、「そんなもんおらへんわ、”便所のお化け”ちゃうんか」と口をそろえて言っただろうに。

 つまり時代は変わり、話も変わっていくということだろうが、ワタシたちネコの世界ではそんなふうにちゃんと新しいトイレの恩恵にあずかれるのは、子供の時から家でしつけられたネコちゃんだけで、ワタシみたいなノラネコ上がりや、多くのノラネコたちは、相変わらず外で用を足している、トイレノラなのだ。
 昨日、飼い主のそばでワタシもテレビを見ていたのだが、被災地の動物たちの現状が映し出されていて、飼いイヌやネコがノラ化して、助けに来た人間たちのそばに近づかないだけでなく、餓死したものさえもいたのだ。
 人間たちの過ちのつけが、何の関係もないイヌネコにまで及んでいることを知らされ、思わずワタシも怒りに駆られて、肉球をぐっと握りしめたほどだった。
 あのイヌネコたちと比べれば、暖かい部屋で十分なエサをもらってこうして寝ているワタシは、何と幸せなことか。ありがとさーん、ニャーオ。


 「1週間ごとに強い寒波が来て、すっかり冬になってしまった。日中に降った雪が、一面に白くなるほどに積もった。このところ、朝はマイナス4度くらいまで下がり、日中も気温は上がらずプラスの3度くらいで、暖房効率の悪いこの家の中ではなおさら寒く感じられる。
 ただし、その前に数日続いていた晴れて暖かい日に、私は外での仕事をほとんど終わらせていた。一部がはがれていた鉄平石のモルタル貼りに二日かかり、家の庭の高い生垣や、カイヅカイブキなどにハシゴを立てかけて、刈り込み作業をするのにさらに二日かかり、後は枯れ葉切り枝を集めて燃やして、なんとか一件落着した。
 とはいえ、日ごろのぐうたらさがたたって腰は痛くなり、体はクタクタに疲れてしまった。しかしそうして働いたおかげで、毎日朝までぐっすりと眠ることができた。思うに、人間の体とは、日々労働するように、そしてその疲労と回復のバランスを取るべくできているのだ。 
 
 労働こそは安眠の母であり、考え過ぎるだけの毎日に安らかな眠りはない。さらに言えば、あのブリューゲル(1525~1569)の『怠け者の天国』の絵にあるように、怠け者の戒めをしっかりと心にとめて、毎日を送るべきなのだ。
 つまり毎日、適度な労働に励み、適度な思考の時間を持ち、適度な食事をとり、孔子が言うように、何事にも矩(のり)をこえずに生きて行くことが大切なのだ、と自らに言い聞かせなければならないほどに、私は、そうではない毎日送っているのだ。
 たまに働くだけだから忍耐力もなく、あちこち体が痛くなり、どうでもいいようなことを考え悩んてはあきらめて、無駄な時間を過ごし、毎日同じような簡単な食事ですませ、まんじゅうでも食べながらテレビを見ては、ひとり馬鹿笑いをしている。
 そんな私を、ミャオがじろりと見る。

 こんな毎日ではだめだと、寒い外に出る。庭にある雪をかぶったシャクナゲの葉の間に、つぼみが一つ(写真)。それは、寒さに耐えて冬を過ごし、半年後には清らかな薄紅色の花を咲かせるだろう。
 かつては、私もそうした高い思いを持って、明日を夢見ていたのだ。
 
 アンドレ・マルロー(1901~1976)やヘミングウェイ(1899~1961)の小説、さらにはあのT・H・ロレンス(1888~1935)の伝記本などに触発されて、いつかは世界へと乗り出してやると、『ああ玉杯に花うけて』(旧制一高寮歌)の歌にあるように『栄華の巷(ちまた)低く見て、五寮の健児、意気高し』というほどに鼻息荒く、小生意気な夢を掲げていたのだが。しかし、そのなれの果てが、今のこのぐうたらな生活を送る自分であるとしても、確かにあの頃の私は、明日に花咲かせるべく大きなつぼみを持っていたのだ。

 たとえばマルローについては、今までにここに何度も書いてきたが(4月23日の項参照)、こうした行動主義的な問題になると、どうしてもまず最初にマルローの言葉が思い出されるのだ。

 『自己を世間から切り離す者が最も信じることのできる武器、それは勇気である。
  人生を何らかの済度に役立つものと考えている人間どもの“思想の屍(かばね)”が、いったい何になるだろうか?
  人生に一定の目的性を与えないことが、一つの行動の動機となり条件となるのである。』

 (『王道』小松清訳 筑摩書房より)

 さらに、この本の後記に書いてある解説者、佐伯彰一の言葉、『マルローのうちにある、ニーチェ風な烈しい単独者の姿勢・・・』は、実は思い返せば、前回まで書いてきた、加藤文太郎と植村直己の二人の単独行者への思いともつながっていくのだ。

 こうして、自分の来し方を、思い起こし理解すること、それは今の自分とはまったく違う小生意気な若き日の自分を、まるで他人事のように興味深く観察し、見直すことができるからである。
 もちろんこうした、過去の思い出に浸ること自体が、すでにもう年寄りの領分であり、上にあげたマルローの言葉を借りれば、『自己を世間から切り離す年寄りたちがもっとも信じることのできる武器、それは思い出である。』ということになるのだが。

 さて、話はさらに、前回書いたアドラーの心理学とも関連することになる。つまりアドラーの言う補償行動こそが、行動主義作家たちの冒険となり、ましてやあの二人の登山家たちの単独行になったのではないのかと・・・。

 ここで、話は現実的なことになるが、私は、ここ当分の間、大型書店のあるような大きな町へ行く予定はない。ということは、読みたい本もそう簡単には手に入らなくなるということだ。
 それで、遅ればせながら、初めてネットで買い物をすることにした。もちろんそれは、知らない店舗や個人相手との金銭物品のやり取りではなく、有名書店との代引き配送による書籍の購入だったのだが、何の問題もなく、三日後には手元に3冊の本が届いた。何とありがたいことだろう。苦もなく、読みたい本がすぐに手に入るのだ、送料もかからずに、本屋で買うのとたいして違わない値段で。
 ただし、あの大きな本屋に行って、何時間もかけてあちこちの書棚をのぞき、一冊一冊手にとって吟味していく喜びはなくなるが。ともかく、こんな田舎に住む人間にとってこそのネット通販、何とありがたいことか。こうして私は、何年も前からネット通販が世間の常識だったのに、まことに遅ればせながら、今になってその便利さを知ったのだった。
 
 それはアドラーの心理学についての2冊と、グルジアの画家、ピロスマニについて書かれた本である。このピロスマニの映画については、前にも何度も書いてきたのだが、ぜひもう一度見たいと思っているのに、DVDは廃盤になっていて、中古市場に出回っている値段は、べラボ―なもので、お金が惜しいというよりは、そんなにしてまでオークション的なセリ値で買いたくはないからだ。
 後は、そのDVDが再発売されることを、さらには私たち名作映画ファンの味方であるNHK・BSで放送してくれるのを、待つばかりである。」

ワタシはネコである(205)

2011-12-11 19:17:06 | Weblog


12月11日

 急に寒くなってきた。今、ワタシの一番のお友達は、ストーヴである。朝、飼い主が起きてきてストーヴの火をつけ、夜、今度はストーヴの火を消して、コタツのスイッチを入れて、隣の部屋に行って寝るまで、つまり一日のほとんどをストーヴの前で寝て過ごしているのだ。 
 飼い主と散歩がてらのトイレに行くのも、やめた。そんな長い間、寒い外にいるのがいやだからだ。トイレは、玄関のドアを朝昼晩の三回、開けてもらって外に出て、素早く庭の落ち葉をかき寄せてすませ、すぐに脱兎の勢いで部屋に戻ってくる。
 そんなワタシを見て、「まったくいつものぐうたら年寄りネコとは思えないな。」と皮肉まじりに飼い主が言っている。
 しかしよく考えてもらいたい。自分だって、この寒さでは、とても暖房器具なしではいられないはずだ。それと同じことで、ワタシがいくら冬用の毛皮を着ているからといっても、もうずっとこのストーヴの暖かさに慣れているから、長時間寒い外にいるなんてことはできないのだ。

 そして、冬のネコはよく寝る、というふうに思っているのは、人間の間違いである。実は寝たふりをして、いろいろと考えごとをしているのだ。それも、生魚やミルク、かつお節に味付けのり、さらに滅多にはくれないマグロの刺身、といった卑近な食べ物のことではないのだ。 
 ああ、そういえば、生つばゴクリと飲んで思い出したが、あのマグロの刺身は、私が病気やケガをした時に、飼い主が小細工して、その刺身の中に薬を埋め込んでいて、それで食べさせてもらったのだが、そんなケチなことはせずに、国民の休日である正月やお盆、さらにクリスマスやネコの日(2月22日)などには、せめて二三切れでも食べさせてほしい、もうワタシは年寄りなんだから。
 『いつまでもあると思うな親とネコ』ということわざもあるぐらいだから、それは『親と金』だろうと飼い主の声、ニャーオ、そうとも言う。

 ともかく話を戻せば、ワタシたち冬のネコはよく寝ているように見えて、実は、ずっと考えているのだ。それは、バカな人間たちの、どうでもいいような日常の話題、タレントがどうしたとか物価がどうだとか政治がだめだとかの、下賤(げせん)な者の話ではない。
 それはもっと倫理学的な、ネコと人間との正しい関係の在り方などについての考察であり、むしろネコ哲学体系とでも呼べるものなのだ。ワタシたちは、肉球つきの手足だから、人間のようにペンを持って記録することができない。だから記憶という手段で頭にため込み、それを親兄弟や子供たち、あるいは他のネコたちとの関係の中で、教えあい学びあってきたのだ。

 こういう時はどうすればよいか、どういうふうに鳴いて人間の気を引くかなど、ネコとして生きていくための何百項目にわたる倫理規定が、ワタシたちの頭の中には書き込まれているのだ。人間たちみたいに、役所の規定をいちいち調べて読み上げる必要もなく、あのパソコン検索よりも早く、瞬時に答えが頭の中に映し出されるのだ。ワタシたちネコは、これをネコンピューターと呼んでいる。 
 ワタシの頭にあるものは、ネコビスタ方式で、人間の科学者たちが調べたところでは、性能は2ニャオGBの一時的メモリーに、500ニャオGBにあたる記憶貯蔵能力があるそうだが、最近の新ネコ類の若いネコたちは、さらに進歩して、ネコ7方式の高い能力を備えているということだが、問題は使い方だ。

 ことわざに、『ネコとハサミは使いよう』というのがあるが、傍で飼い主が『バカとハサミだろう』と言っているが、そうともいう。
 それはともかく、まさしくこれからも正しくネコが進化していくためには、今の若いネコたちの、このネコンピューターの使い方いかんにあるのだが、その使い方も知らずに、ゼイタクな衣装を着せられ、高価なネコ缶を食べさせられ、冷暖房完備の部屋で一生を送るネコたちに、果たして次なるネコへの未来があるのだろうか・・・。
 と、年寄りネコのワタシが嘆いたところで、何にもならないのだが、そんなことより、さて外も少し暗くなってきた。サカナの時間だ。ミャーオン。


 「ニュースによると、北海道では、もうマイナス20度以下に下がったとのことだ。思えば数年前、私は北海道の家で冬を迎えていた。上の写真は、12月中旬の雪が降った朝の日の出のころの風景である。私には、あの凛(りん)とした空気の冷たさが感じられる。
 そんな北海道の寒波の余波を受けて、この九州の家でも、この三日ほど続いて朝の気温はマイナスまで下がり、日中でもプラスの3度くらいまでしか上がらず、そのうえ、今年の初雪になる小雪も舞っていた。

 私は、家の中での仕事にかかりっきりだった。それは、CDの整理である。整理や片付け、掃除などのハウツゥ本がベストセラーになる昨今、私もいつ終わるかもしれない人生を考えて、このあたりで少しは自分の身の回りを整理しておかなければと考えたのだ。
 思うに、余りにも蓄えこんだものが多すぎるのだ。母親譲りのもったいないというケチな性分で、たとえば家で使うタオルは黒ずんでくるまで使い続けているのに、二つの引き出しには、もらいもののタオルがぎっしり詰まっているというありさまだ。
 輪ゴムや包装紙にはじまって、いただき物の食器や何十年も前の調理器具、若いころイキがって着こんでいたトレンチコートや細身の白い背広に至るまで、さらには亡くなってもう7年にもなるのに、そのままで処分しきれずにいる母の衣類に布団など、ひとりで暮らしているには、余りにも使わない余分なものが多すぎるのだ。
 
 それらのものは、そのうちに整理処分するとして、しかし、このそのうちにという気持ちをいつしか忘れて、おっくうになってしまい、結局はまた先延ばしすることになるのだが・・・、今回は蛮勇(ばんゆう)をふるって、まずは自分のコレクションから手をつけることにした。CDにレコード、そして本に雑誌、いずれも1000点を超えるものばかりだ。

 人はどうして、あらゆる物を自分のものとして集め、収集、保有したがるのだろうか。昔、テレンス・スタンプが演じた『コレクター』(1965年)というウィリアム・ワイラー監督のサスペンス映画があったけれども、そうした犯罪につながる異常性格の事例は、残念ながら、現代社会においてもなお後を絶たず、様々な猟奇的な事件となってむしろ増加しているという。
 もちろんそうしたことは、まれな場合であって、ほとんどの人は集めるということを、自分の趣味として楽しんでいるだけである。子供のころのビー玉、メンコ、パッチに始まり、蝶や昆虫、切手などへと発展していき、あとはCDなどの収集ぐらいでとどまっていればいいけれど、中には高価なブランド品を買い集め、ついにはあの有名なフェラーリなどの外車を何台もそろえたり、有名絵画のコレクターになったりするのだ。
 もっとも、それはチョ―お金持ちの世界であり、たとえば百数十億もの金を賭博(とばく)に使った息子と、それは息子の責任で自分とは関係ないという、さらに膨大な資産を持った父親のいるような世界のことだから、下々の私たちの感覚では測りかねるけれども。

 ともかく、人は誰でも、大なり小なり物を集めたがるのだ。それはなぜか。心理学でもよく取り上げられる問題であり、病理的なものとして、認知症や統合失調症から来る場合もあり、強迫神経症と断定される場合もあるとのことだ。
 それでは、そうした症状としての収集癖になってしまうのはなぜか。それは、だれもが推察できるように、自分の心の中の満たされぬ思いや、空虚さを埋めるための代償行為なのだろう。
 だけれどもそれは、人それぞれの成長過程や今の立場、環境、そして思い込みの強さなどの、複雑な関係が絡み合って生みだされたものであり、なおかつ誰にでもあるものであり、ほとんどの場合は、犯罪に結びつくような外的な発散の形をとることはない。ただ自分の心の中だけでのマイナスからプラスへの埋め合わせとなって、無意識のうちに日常生活の精神のバランスをとっているのだろう。
 結論としていえば、適度な収集趣味は、意識しているか無意識であるかにかかわらず、その人が抱え込んでいるストレスを解消させるための、一つの処方箋(しょほうせん)になるのかもしれないということだ。

 さて、CDの整理の話から、ここまで引っ張ってきたのは、前回の加藤文太郎や植村直己の単独行の登山について、それは今の自分の登山スタイルに似通っているということもあって、良くも悪くも自分なりに理解しておきたいと思ったからだ。
 つまり、単独行の登山を続けることもまた、こうした収集癖のひとつの現れではないのかと・・・。それはもちろん、目の前にある何かを集めるという形はとらないけれども、つまりはどの山に登ったかというリストを、自分の心の中に羅列していくことができるからだ。

 加藤文太郎の『単独行』の中に書いてある、山の征服という言葉は、恐らくは敵対する自然を征服するという意味ではなく、自分に課したその山を登り遂げることを意味したのだろう。そうして彼は、まずは夏の北アルプスの山々を、次にまた全く違った姿になる冬の北アルプスの山々を登り続けて行き、それらの制覇リストを心の中で誇りに思い眺めていたに違いない。
 それは、今までだれも成し遂げ得なかった冬季マッキンリー単独登頂や北極点、南極点単独到達へと挑んだ植村直己についても言えることだ。
 そして、そんな彼らとは比較にならないほどの、低レベルでの単独登山を続けている私だが、今まで自分が登った北アルプス、南アルプス、そして北海道の山々などのリストを眺めるのは、その時の思い出とともに自らに誇らしい気持にもなる。(何度も繰り返すが、私は今後とも百名山などを意識して登るつもりはなく、それよりは好きな山に何度でも登ったほうがいいと思っている。)

 次に、どうして単独という形をとるにいたったのか、ということだが。そのきっかけは、たまたま誰も一緒に山に行く人がいなかったから、とかいう単純なものだったのだろうが、しかし根本にあるものは、これは、あくまでも推察の域を出ないのだが、一つには、支配されることからの脱却、つまり自分が支配する側になりたかったからであり、上にも書いたように、心の満たされぬ思いの代償行為ではないのかということである。

 この余りにも偉大な、二人の単独行者に共通するのは、会社や組織の中でも、実直でまじめで黙って仕事をするタイプの人間であったということ、さらには奇しくも、二人ともに4人兄弟の末っ子、7人兄弟の末っ子であったということ。
 私の場合など、大した共通例にもならないのだが、ひたすらに仕事に打ち込みやり遂げるということでは、東京の会社にいた時もそうであったし、その後、北海道の家を一人で建てた時もそうであったと自負している。そして、前回書いたように、子供のころに、知らない土地に一人で放り出されたという体験もある。

 もちろんそんなことは、多かれ少なかれだ誰にでもあることだろうし、私たちはいつも、周りの人々に支配され抑圧されて生きているのだ。そして、その場で反抗できずに、外見上素直に従い仕事はしていても、燃え盛る炎がその心の内にあるはずだ、若いころならなおさらのこと。

 そして、二人にとってのその出口は、冬季単独登山という過酷な運動に自分を投げ入れることであり、その果てにたどり着いた頂上での喜びは、一人で登ったからこそのものであり、山頂をその足元にして、さらに俗世間の街並みを下に見下ろして、まるで頂点に立つ支配者のような喜びそのものだったのに違いない。
 もちろん、そのような思いは、単独行をやり始めたころに特に強くあふれる思いとなって湧き上がり、その後も単独行の登山を続けていく大きな要因の一つにもなったはずだ。
 しかし時がたてば、そのあふれる思いはいつの間にか薄れて、年齢に応じた別の楽しみへと移り変わっていく。おおらかに自分を包んでくれる喜びへと、自然の持つやさしい静けさの中で・・・。

 ここまで書いてきた私の思いのもとになったものの一つは、実は学生のころ学んだ心理学の中で、アルフレッド・アドラー(1870~1937)による精神分析理論を思い出したからでもある。フロイト派の精神分析からは少し距離をおいたところにあった、このアドラーの理論が、その当時から私には心理学の中では、もっとも納得できるものだったのだ。
 今回の単独行の話も、このアドラーの理論の一つに従って進めるつもりだったが、余りにも話が長くなってしまったし、その文献も今は手元にはないので、もっと先になるだろうが、この話はまた別な機会に持ち越したい。


 さて、CD整理の話だが、思い切りの悪い未練がましい私には、十分な処分はできなかった。全部のうちの5分の1ほどにあたる150点(200枚)だけを選んで、買取店に送っただけだった。こんな調子だと、残りのレコードや本の処分は、いつになるのだろうか。

 さらに付け加えて、もう一つ、これはうれしかったことだけれども、前回に書いていた手のひらの傷が、劇的に治ってきたのだ。膿を持ったまま腫れて盛り上がっていたところから、なんと自然に、途中で折れて手の中に残っていた、3ミリほどのトゲの先端部分が出てきたのだ。
 しかしまだ痛く、腫れたままだった。ところがその二日後に、なんと今度は大きな黒いものが出てきたのだ。爪切りではさんで抜き出すと、それは長さ1センチ余り幅2ミリものトゲ枝だったのだ。つまり、知らないことに、二つが刺さっていたのだ。
 それ以上に私にとっての驚きは、これらのトゲが2週間の時間をかけて、体の中である手のひらの中から、ひとりでに出てきたということだ。異物を排除しようとする、なんと見事な体の自然治癒(ちゆ)能力だろうか。
 それも、若い体ならいざ知らず、大分くたびれてきてジジイになりかけた男の体なのに。私は、もしかしたら、まだ若い体を持っていて、ひょっとしたら若いねえちゃんとも仲良くなって、これから先にもチョー明るい未来があるのではないのか。ワオーン、ワンワン。

 その私の声を聞いて、隣の部屋でミャオが鳴くのだ。ニャオーン、ニャンニャン。あーあ、あほくさ。」
 

ワタシはネコである(204)

2011-12-04 21:54:27 | Weblog


12月4日 

 天気の悪い日が三日ほど続いた。ワタシはストーヴのある暖かい部屋で、一日のほとんどを寝て過ごした。

 時々、飼い主が部屋に出入りする。朝昼晩の三回、コタツの上で食事をするのだ。いい匂いがして、ワタシはニャーといって顔をあげる。すると飼い主は、またかという顔をして、ワタシのほうに自分の食べているドンブリ茶碗を差し出す。
 しかし、それは湯気が上がっていて熱そうで、とても猫舌のワタシには食べられない。さらに、もう一つの植物の入った小皿も差し出す。それも余分な液体がかかっていたりして、食べる気にもならず顔をそむける。
 すると、飼い主は何事かを言い、勝ち誇って見下すような眼でワタシを見る。

 あー、いやだいやだ。ワタシは人間のこうした態度がいやだ。まるで自分が支配者であることを誇り、ワタシを見下すように見るあの目つき。ただでさえ鬼瓦顔の上に、偉そうな”どや”顔だ。
 弱い者ほど、さらに自分より弱い者の前では、強いところをひけらかすものだ。飼い主は、めったなことでは暴力を振るわないけれども、態度による”どや”顔の威圧は毎度のことだ。
 ある時のこと、飼い主が読みかけの新聞を開いたまま、居眠りをしていて、たまたま目に入った記事の見出しに、パワー・ハラスメント、セクシュアル・ハラスメントの言葉が並んでいた。
 つまり、権力者、支配者側、あるいは性的優位に立つ側の立場からの、その部下や配下の者への威圧的強制は、立派な犯罪なのであって、その被害者側からの訴えが近年、著しく増えているというものだった。

 もちろん、飼い主はそうした案件に当てはまるほどワタシにひどい態度をとっているわけではない。ただ、ネコであるワタシを見下すような目つきが気になるのだ。ネコもまた、感情に敏感な生き物なのだから、それなりにデリケートなワタシの心を理解してほしいのだ。

 もっともそういえば、昔のことだが、この家の二人が旅行中に、私が部屋に閉じ込められるという事件(’08.1.20の項参照)があって、ようやく解放されたその後で、あのおばあさんがワタシをなでながら話してくれた。

 「悪かったね。知らないでお前を閉じ込めたりして、ごめんよ。オマエも大変な経験をしたと思うけれど、考えてみれば、私も若いころには大変な苦労を重ねてきたんだよ。あのテレビドラマの『おしん』みたいにね。
 それは、自分より目上の人には絶対服従という時代だったから、親や夫からぶたれたり、学校や勤め先での、先生、上司から暴力をふるわれても我慢しなければいけなかったの。特に女の人は弱い立場にあって、どれほど多くの女たちが、なにも言えずに泣き寝入りしていたことか。
 しかし、今になって思うと、その時はいろんな人から叱られて、ぶたれてもなにも言えずに耐えるしかなかったけれども、ただそれだけの悲しい思い出だけではなかったんだね。つまりね、その経験があったからこそ、それからは何事にも耐えられるという自信がついてきたんだよ。
 私がひとりで一生懸命働いて、あの子を育ててきたのも、そんなつらい時代の経験をくぐりぬけてきたからこそできたのだと思う。だから、オマエの今度のつらい経験も、きっと自分のためになるんだからね。」
 
 ワタシはおばあさんを見上げて、ニャーと鳴いた。すると、おばあさんは、おーよしよしとワタシをなでながら、庭のほうに目を向けて言った。「あの、バカ息子もオマエくらい素直だったらねえ。」
 庭のほうでは、そのバカ息子、今の飼い主が、立木に向かって小水をかけていた。


 「11月は記録的な暖かさだったそうだが、12月に入ると暦通りの寒さになってきた。しかし、今日は朝から晴れていて、風も収まり、気温も三日ぶりに13度近くまで上がった。ベランダで寝ているミャオにとっても、またいつも寒さは気にならないと豪語している私にとっても、やはり暖かいほうが何事につけ楽なことは確かだ。

 さて、先日の左官仕事の残りや庭仕事など色々とあるのだが、まだ片付けられずにいる。それは、手のひらの傷が治りきっていないからだ。2週間ほど前に、例のモミジの写真を撮りに、近くの山際を歩き回っている時に、急斜面で滑ってしまい、左手に持っていたカメラをかばった右手が、下の枯れ枝の上にいって、手のひらの小指側から中指近くまで、ブスリと刺さり、さらに手のひらの中央部にも一つとげ枝が刺さっていた。
 小指側から縦断して刺さったものは3cm近くもあり、引き抜くとすぐに血が噴き出してきた。手のひらのとげは家に戻ってツメ切りで引き抜いた。その後の傷の手当てはしたが、翌日になってもハレたまま熱を持っていたから、破傷風(はしょうふう)にかかるのが怖くて病院に行った。そこで、しっかり傷の手当てをしてもらい、注射を打たれて抗生物質の薬ももらった。

 その後、小指のほうからの深い傷は順調に治ってきたのだが、手のひらのほうがいつまでも盛り上がりハレたままで、痛みが取れない。ということは、恐らくとげ枝が中で折れて少し残っているのだろうか。また病院に行けば、今度は切開手術ということになり、しばらく右手が使えなくなるだろうし、それもイヤだった。
 それで、昔やった手法でやってみることにした。そのウミでハレ上がった所に、炎で焼いて消毒した針を差し込みウミを出した。薬をつけて、今は大分良くなっていて、なんとか手のひらを握れるるようになってきたのだが・・・。
 こうした一連の小さな出来事の中で、今更ながらに私は気づいたのだ。できるなら何でも自分ですませてしまいたいという私の性癖は、いったいどこからきたのだろうかと。

 それは良くも悪くも、私がひとりっ子であり、さらに子供のころから母と離れて暮らさざるを得なかった経験と結びついているのかもしれない。
 つまり、ある日突然、絶対的な庇護者(ひごしゃ)である母がいなくなり、私はよく知らない人だらけの、まるで敵対者ばかりの社会にひとり放り込まれたのだ。私は、他人の目を気にしてその中で何とかうまくやっていくしかなかったし、また何でもひとりで決めてひとりでやっていかねばならなかった。その思いが、子供心に強く植え付けられたのに違いない。
 それは私にとって、不幸なことだったのか、それとも幸いなことだったのか、それは今にして思えば、自分の考え方ひとつでどうにもとれるものではあったのだが。

 実はこんなことを書く気になったのは、先日久しぶりに、山岳書の名著の一つである『単独行』(ヤマケイ文庫)を読み終えたからでもある。この新たに出された文庫本は、地方ではなかなか見つけられず、あの秋の槍ヶ岳登山の後、東京に立ち寄ってようやく手にしたものだった。ずいぶん昔に別な出版社から出ていたその本を読んではいたのだが、今は手元に見つからず、改めて買い求めることにしたのだ。

 この本の著者である加藤文太郎(1905~1936)は、昭和初期のころ、それまで山案内人つき登山がほとんどだった時代に、その超人的な単独の登山スタイルで厳冬の山々に挑み、日本の山岳界に驚きと新風を巻き起こしたのだった。 
 たとえばその例をあげれば、当時勤めていたの会社の上司であった遠山氏の話が、この本の後記として載っているが、それは大正14年のことで、朝の5時に神戸の和田岬にあった会社の合宿所から須磨に向かい、六甲山を縦走して宝塚に下り、同じ道を戻って和田岬に戻ったのが、翌日の午前2時、つまり21時間で100キロ余りの山道を歩いたことになるのだ。普通の道でも1時間で5キロというのは、かなりの速足だし、それも標高932mもある六甲山の山道を上り下りしてなのだ。
 さらにもう一つ、昭和5年12月30日から翌年1月8日までの厳冬期に、それも二日間の雪による停滞があり、実質8日間で、高山本線猪谷(いのたに)駅から歩いて大多和峠を越え有峰に出て、薬師岳往復、黒部五郎岳、鷲羽岳、黒岳(水晶岳)往復、烏帽子小屋からブナ立尾根を下り大糸線の大町駅へと、北アルプスを縦断踏破しているのだ。
 それもテントも持たずに、冬季閉鎖の誰もいない粗末な山小屋に泊まり、そのうち一晩は雪の中でのビヴァークなのだ。

 さらに、この本の序文には、あの名アルピニストの藤木九三氏が知人から聞いた話を書いている。
 『・・・3月の穂高を目指して、横尾の岩小屋を出て山にかかると、なんだか雪の中に黒いものが横たわっている。縁起でもないと思いながら近寄ってみると、それは確かに人だとわかったが、てっきりまいっているものと思った瞬間、顔の頭布をとって、ああ夜が明けたかと言ってむくむく起き上がってきた。』
 もちろんそれが、ビヴァーク中の加藤文太郎だったのだ。

 こうして、地元の六甲山や、兵庫北部の氷ノ山(ひょうのせん)などでの長距離山行でトレーニングを重ねた彼は、ついには単独で冬の日本アルプスの山々を制覇していき、残ったヴァリエーション・ルートである、厳冬期の槍ヶ岳北鎌尾根に挑むことになり、ついにはその時にザイルを組んだ山仲間とともに遭難死したのだ。31歳という若さで。
 当時彼の遭難を伝える新聞の見出しには、『国宝級山の猛者(もさ)、槍で遭難』と書いてある。

 古今東西を問わず、早すぎる天才の死に関しては、いつももし生きていたならばと追想されることが多い。彼が生きていたならば、恐らく日本のヒマラヤ登山史を飾る一人になっただろうが、それにしても時代のめぐりあわせが悪い。というのは、この後日本は、中国、そしてアメリカとの長い戦争に突入していったのであり、彼も兵隊として召集されただろうから、その戦地から生きて戻れたかどうか・・・。
 それなら、今の時代に生まれていたならばと考えると、彼こそは日本人初の世界の8000m級の山14座登頂者になっただろうにとさえ思ってしまうのだ。

 そしてこの加藤文太郎のことについて書いていくと、併せて思い起こされるのが、奇しくも同郷の登山家であり冒険家でもあったあの植村直己(1941~1984)である。彼もまた、単独登頂の記録が多く、最後も単独で冬のアラスカはマッキンリー(6194m)に登頂しながら、その帰途に消息を絶っている。
 その彼の山での先輩でもある名クライマー、小西正継氏が植村との対談で言っている。
 『結局冬の(ヨーロッパ)アルプスなんていうのは体力と精神力が一番重要な決め手で、植ちゃんはその点飛び抜けている。冬の壁に何日ころがしておいても大丈夫って感じで。』(『植村直己挑戦を語る』文春新書)

 この二人の本や評論文を読んだ限りではあるが、その性質も似たところがあるように思われてならない。たとえて言えばまさに『剛毅朴訥(ごうきぼくとつ)仁(じん)に近し』ということになるのかもしれない。

 この二人の不世出(ふせいしゅつ)の登山家については、もう語りつくされていることだし、浅学非才のありふれた登山愛好家でしかない私が、今さらあれこれと書き連ねるまでもないこと。ただここで、ふれておきたいのは、その単独行者としての思いである。
 私の登山は、その90数パーセントまでが単独行であり、もちろん記録と呼べるほどのものは何もなく、この二人の登山家の足元にも及ばないけれども、ひとりでもくもくと歩いて行くという彼らのスタイルに、私はなぜか近しいものを感じるからである。
 それは心理学的な側面を踏まえて考えれば、もしかしたら単独行者の思いの一端を知ることができるかもしれない・・・。しかし話が長くなってしまった。続きは次回に書くことにする。」