ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

飼い主よりミャオへ(32)

2008-09-30 21:33:15 | Weblog
9月30日
 拝啓 ミャオ様
 今朝の気温は3度にまで下がり、道ばたのフウロソウ(ゲンノショウコ)の葉が、縁取られたように白くなっている。これで、三日続けて軽い霜が降りたことになり、すっかり秋の空気になってしまった。
 家の林の方から、騒がしい鳥の鳴き声が聞こえてくる。それは、今まで他の鳥や猫の鳴きまねをして、私を振り向かせたあのいたずらミヤマカケスの声とは違う、久しぶりに聞くツグミの声だった。
 数羽の群れだから、おそらくは秋の渡りの途中なのだろうが、もうそんな季節になったのかと思う。
 今にして思えば、こんな秋の季節へと変わるのを教えてくれていたのは、九日前のあの夕焼け空だったのだ(写真)。
 その日の夕方の4時半、外に出てみたのだが、薄雲が空を覆い、今の橙色のままで、今日の夕焼けは終わりだろうと思っていた。5時過ぎに(日の入りは5時25分頃)外を見ると、空に赤い色が広がり始めていた。
 カメラを持って外に出て、家の前にある隣の農家の牧草畑に行く。最後の牧草の刈り取りが終わったばかりで、まだ昼間の枯れ草の匂いが残っていた。
 そこで私は、6時近くになるまでの間、年に数度あるかないかの、まさに豪華絢爛たる赤い彩の天体ショーを楽しむことができた。
 夕焼けは、どの様な色や広がりがあるにせよ、それぞれにそれなりの美しさがあるし、決してその日と同じ夕焼けを見ることはできないものなのだ。その一つとして、あの日見たものは、’08.9.21の夕焼け空として記憶されるだろう。
 北から南へと、日高山脈の全山が連なるシルエットの上に、その光の源である西の空から、私の立っている東の方へと向かって、豊かに広がる巻雲(すじ雲)が伸びている。頭上を覆う天空の、中ほど辺りまでが、鮮やかな赤に染められていて、やがてそれは、次第に深紅色へと変わっていく。ただ立ちすくみ、見続ける他はない空の色だった。
 なんという幸せなひと時だったことだろう。去年も10月の始めの頃に、同じように、だけれどもまた別な素晴らしい夕焼けを見ていたのだ。
 思い出の中の朝焼けや夕焼けの空は、他にもまだ幾つもある。そのほとんどが、山に登った時であるが、空を染める色と伴に、山々の姿も華やかな色へと変わっていく、そんな贅沢なひと時の眺めだった。
 若かりし頃の旅先での思い出・・・オーストラリアの赤い砂漠の中で、夕陽が茫漠とした地平に沈んでいき、その後も全天空を覆い続けた薄あかね色の余韻・・・ポーランドの大平原を走り続ける列車の窓から見た昇る朝日、低く漂う朝霧、穏やかなシルエットになった樹々や家々・・・。 
 すべて遠い昔の話だ。私はただ、それらの赤い光に満ち満ちていた景色の思い出に浸るだけだ。時という名の翼をつけた白馬が、茜色に染められて、永遠の空へと帰って行く・・・。
 
 「ケッ、馬鹿馬鹿しくって聞いてらんねえよ。飼い主さん、自分の顔を鏡でよく見て下さいよ。そんな白馬が空にってえツラですかねえ。(小声で)・・・鬼瓦顔のくせして。くだらない夢を見ているヒマがあったら、一日でも早くこちらへ戻ってきてワタシの面倒見て下さいよ。」
 ミャオ、そう言われると、その通りだし申し訳ないとも思うけれども、なんだな、辛い気持ちの人間ほど、夢を見たがるものなんだ。それで、自分の心の中で埋め合わせすることができるというわけだ。そこんとこ、分かってくれ。
 今日、夕焼け空のことを書いたのは、次の日には(夕焼けの後の晴れの予報通りで)、大雪の紅葉を見に行ってきて、そちらのことを書くのが先だったし(9月24日、27日の項)、ところがその山登りで足首を痛めて、今のところ家でおとなしくしているしかないから、ヒマで色々と思い出したというわけなんだ。
 ともかく、ミャオも元気でいてくれ。
                       飼い主より 敬具

飼い主よりミャオへ(31)

2008-09-27 17:05:54 | Weblog
9月27日
 拝啓 ミャオ様
 今朝は、5度と冷え込んだ。初霜の日もそう遠くはないだろう。冬型の気圧配置で晴れてはいるが、風が強い。山側には雲が連なっていて、その間から見える幾つかの峰々は白くなっている。
 つい数日前までは暑いと言っていたのに、今日はもう暖房がほしいくらいだ。この劇的な変化が北海道らしくもある。それでも、外の陽だまりにいるのは心地よく、秋の季節もいいものだと思う。

 ところで前回の続きなのだが、9月22日に、紅葉が盛りの高原温泉沼めぐりのコースを回った後、まだ時間も早かったので、もう一つのコースである緑岳へと向かった。
 登山口のすぐのところから、樹林帯の急な登りになる。エゾマツやトドマツの間に、鮮やかなモミジの赤い色が見えてきて、さらにミネカエデやダケカンバの黄色が道の両側に続いている。
 登りきると、開けた高原台地の第一花畑に着く。手前にチングルマの紅葉がうねり続き、その果てはウラジロナナカマドやダケカンバの赤や黄色の尾根で、彼方に緑岳が見えている(写真)。
 その中の道を歩いて行く。青空の下、明るい高原の、彩の道だ。振り返ると、石狩、音更連峰からニペソツ山、然別の山々などが、逆光になった午後の空に、淡い山波を見せている。
 大賑わいの沼めぐりコースに比べれば、はるかに人も少なく、静かな山歩きを楽しめる。所々で立ち止まり、紅葉の風景をカメラに収めていく。ああ、山はいいよなあ、山は。
 奥の花畑のところで、眼下の沢を隔てて、緑岳とそれに続く東岳への迫力ある山稜が見える。そこからは高く伸びたハイマツの山腹を回り込んで、いよいよ岩塊帯の最後の登りになる。
 しかし雲が出てきて、辺りの景色はその雲の影を映してまだら模様になり、トムラウシ山の姿もその雲に隠れていた。帰りのシャトル・バスの時間もあるし、今回はここまでにして、大きな岩の上に上がって、緑岳の裾野を彩る紅葉を楽しむことにした。
 先ほど、小屋泊まりらしい大きなザックの若者たちが、頂上へと登って行った。明日から数日間、天気は崩れて、高い山では雪になるとの予報も出ている。しかし、その天気の悪い間でも、青空がのぞく時もあるだろう。紅葉と初雪の織り成す光景は、今の時期にしか見られないものなのだ。
 さて、ゆっくり休んで眺めを楽しんだ私は、さらに帰り道でも、行きとは違う紅葉の風景を眺めながら下りて行った。花畑の間の緩やかな道で、左右の景色に目を移していた私は、思わずアッと叫んでしまった。
 ギクッといやな音がして、左の足首が裏返っていた。痛いと思うのと、やってしまったと思うのとが一緒だった。
 前にも書いていた通り、私は一年ほど前に同じように右足首を捻挫して、それはもしかしてヒビが入るほどの重症だったかもしれないのだが、今になって山登りの時などには痛みが出てきて、もう無理なことはできないなと思っていたのに。
 今度は左かよー。痛みでケンケン歩きをしながら、深刻なケガにもかかわらず、私は思わず笑ってしまった。
 だるまさんがころんだ、の姿を思い浮かべたからだ。ミャオ、山登りの好きなオレの両足がダメになったら、オマエは台座に座ったオレを、綱をくわえて引っ張って行って・・・くれたりはしないよなあ。
 しかし、ものは考えようで、あの北京パラリンピックでの選手たちの活躍は、健常者である私たちが、むしろ励まされるくらいのものだった。その時はその時で、彼らを見習ってがんばればいいのだ。
 ともかくなんとか歩けるから、骨折ではないのだろうが、それにしても情けない。あんな平坦な道で、それも疲れていたわけでもないのに。十年ほど前に、まだ元気だった私は、北アルプスの立山から笠ヶ岳への長い道のりを縦走して、新穂高に下るその道の最後の二時間ほどのところで、同じように小石に乗り上げて、もんどりうって転んだことがある。
 あの時は無理なスピードで歩き、長い山旅で疲れていたし、今回とは状況が違う。つまり、今回は年ということか・・・。これからは、年なのだから、十分に気をつけるようにという神のお告げなのか。
 少し痛みを感じながらも、他の登山者などを抜いたりして、40分ほど歩いて、登山口に戻ってきた。やれやれだ。 
 そして、満員のバスの中、400円のバス代を払うついでにザックの中を探したところ、何とクルマのキーがない、家のドアの鍵もつけてある。いくら探してもない。どこで落としたのか。合鍵は、家にはあるけれど、どうして家に帰るか。バスで層雲峡に戻り、さらに都市間バスに乗り換え、そして家の近くまで行くバスに乗って・・・今日中には無理だ・・・などといろいろなことを考えてしまう。
 レイク・サイトに着き、ともかく車のところに行ってみると、ハッチ・バック・ドアの下のところに、キーは落ちたままだった。9時間もの間、他に数十台もの車が停まっていたのに。
 余りにも、教訓の多い一日だった。素晴らしい紅葉を見られた幸せ、不注意による足首の捻挫、不注意によるキーの紛失、そのキーがあっけなく見つかった幸運。
 あの名優、大滝秀治さんのセリフではないけれど、こんな出来事など、「くだらん、じつにくだらん」と、吐き捨てるように言われるかもしれないけれど。私にとっては、実に考えさせられる出来事の一日だった。

 その後、6日がたった。足首の痛みは残っているが、湿布薬のためかハレもひいて、なんとか普通には歩ける。病院に行くべきなのだろうが、ギブスをされると何もできなくなってしまう。こんな田舎の一軒家で、のんびりと一人で暮らしていることの大きな代償だ。病院に行くからには、相応の覚悟がいる。ミャオ、なんとかしてくれ。
 そう言いつつも、撮ってきた山の紅葉の写真を、きれいな液晶画面で見ながら、思わず、ニタリと笑う鬼瓦権三の姿がそこにはありました。(浪花節調で)・・・あーあ、あんあん、馬鹿は死ななきゃー直らーないー・・・。まずは、お粗末の一席。
                       飼い主より 敬具

飼い主よりミャオへ(30)

2008-09-24 21:50:46 | Weblog
9月24日
 拝啓 ミャオ様 
 今日も晴れて、朝の気温は8度と冷え込む。日中は風が強く、気温も17度くらいまでしか上がらない。昨日までは、平年に比べて気温が高く、というよりは暑いくらいだったのに、昨日、寒冷前線が通過した後、この秋、初めての冬型の季節配置になって、北西の風が吹き、一気に冷たい空気に入れ替わってしまった。
 家の裏手の林の方からは、木々の梢をゆする風の音が聞こえる。懐かしいような、そして次なる白い冬の季節を知らせる風の音でもある。
 昨日、大雪山の旭岳(2290m)と黒岳(1984m)では、夕方前になって、初雪が確認され、今日は、その旭岳や利尻山、羊蹄山など、道内の主な高い山では、麓からの初冠雪が観測されている。
 紅葉の盛りの時に、雪が降り、次の日に晴れてくれれば、青空の下に、白い雪に覆われた稜線と山すそにかけては紅葉という、フランスの三色旗のような、鮮やかなコントラストの光景を見ることができるのだが。しかし、この数日の天気予報は、曇りや雨で余り良くなかった。それだからこそ、天気が崩れる前に、その盛りの紅葉を見ておこうと、一昨日(9月22日)、毎年の恒例の高原温泉の沼めぐりへと出かけたのだ。
 前回と同じように(9月15日の項)、朝、4時半頃家を出て、2時間半ほどで、紅葉の繁忙期の駐車場になっている大雪湖畔のレイク・サイトに着く。そこでシャトル・バスに乗り換えて、高原温泉まで行く。入り口のヒグマ情報センターで、毎年レクチャーなるものを聞かされて、ようやく、沼めぐりコースへと歩き出すことができる。
 何はともあれ、青空の下、紅葉に彩られた幾つもの沼を見て歩き、途中の高みからは、錦織なす大雪の山々を見ることができるのだ(写真 高根ヶ原の稜線下)。一周四時間ほどのコースの次から次へと、紅葉の見せ場が出てくる。カメラをザックにしまっておく暇もないくらいだ。
 後でカメラで撮った枚数を見てみると、この一日だけで160枚余りにもなっていた。昔のフィルム・カメラの時代には、枚数を気にして撮っていたが、今のデジタル・カメラに換えてからは、枚数を気にすることなく、思うようにシャッターを押すことができるようになったからでもある。
 もちろん、写真を撮ることだけに夢中になっていると、肝心の目の前の光景をじっくりと見ることができなくなってしまう。しかし、カメラにその場の光景を収めるることもまた、必要なことなのだ。それらは、私だけの大切な記憶の保管場所(アーカイブス)としての写真になるからだ。
 私は写真を撮る時に、芸術的な写真に撮ろうとか、評価されて写真誌に載るような写真を撮ろうとかは、考えたことがない。だから、私の写真はいつまでたってもありきたりのエハガキ写真ふうで、進歩がない。ただ私は、自分が登った山々の記録としての写真が撮れれば、それで良いのだけれど。
 つまり私は、後でその時の山の姿を思い出すために、写真を撮っているのだともいえる。それは、例えば自分の人生の中で、今にして思えば忘れられない出会いだったのに、その人の顔をどうしても思い出せない場合があるし、逆に、たいした出会いでもなかったのに、写真があるおかげで、その人のことをいろいろと思い出すこともあるからだ。
 もちろん厳密に言えば、写真がその場のすべてのことを写し出しているわけでもないし、また写っていることすべてが真実のものであるかどうかも分からない。しかし、そうしたシビアな実証、表現能力を備えた写真を撮るなどと構えないで、単なる自分の記憶の保管メディアとして、気楽に撮っていけば良いと思っている。
 ここに一枚の写真がある。当時2歳になる私が、32歳の母(なんという若さだろう・・・)に抱かれて写っている。私の手にはおもちゃが握られている。木で作られた象の形をしたおもちゃだ。その象の足のところが、四つの車輪になっている。
 私は、そのおもちゃのことを良く覚えている。セピア色の古い写真だけれど、その象のおもちゃは、青と紫のグラディエーションでぼかしたような色合いだった。
 もちろん、私は2歳時の記憶などは信じていないけれど、いわゆるデジャヴー(既視感)としての記憶があったのか、それとも、後になって母に聞いた話を元に、いつに間にか自分の記憶として作り上げていたものなのかは、分からない。
 ただ言えることは、この一枚の写真が残されていたことで、私は他にもいろいろとその頃のことを思い出すことができたのだ。
 写真について、少し小難しいことを書いたかもしれないけれど、私にとっての写真の意味を書いておきたかったのだ。ミャオ、その写真のおかげで、毎日オマエの顔を見ることができるんだ、どうしているのかなと思って。私の鬼瓦顔の写真を、九州の家のドアのところに貼っておけば、オマエも少しは寂しさが紛れるかなー・・・なんてことはないよな、オマエにとってはただの紙切れだもの。
 さて、この沼めぐりコースを終えて登山口に戻り、まだ時間もあるし、青空も広がっていたので、もう一つのコース、緑岳へと向かうことにした。そしてこちらでもまた、期待にたがわぬ紅葉の景色を見ることができたのだが、その帰り道で思わぬ出来事が待っていた。そのことについては、次回に書くことにしよう。
 (ここまで書いてくるのに、パソコンの調子が悪く、なんと昨日から二度も全部の文章を消してしまったのだ。まったく、なんとかならないだろうか。機械を相手には、ただただガマンするしかない。ミャオを相手にしている時のほうが、よっぽど分かりやすいし、ラクなのに。)
                      飼い主より 敬具

飼い主よりミャオへ(29)

2008-09-19 16:42:29 | Weblog
9月19日
 拝啓 ミャオ様
 今日は、朝から17度もあり、昨日からの熱気が残っていて、日中はさらに27度まで上がり、日差しが暑い。これでは夏の続きだ。昨日の小樽は30度を越えていた。秋の北海道なのに、どうしたというのだろう。
 いつもの年なら、畑作農家などは、そろそろ霜の心配をする頃なのに。(写真は、昨日街まで買い物に行った時に撮ったものだが、黄色く色づいた豆畑が青空に映えてきれいだった。)まあ、それは、霜の被害がなくて、豊作の実りの秋を迎えることになり、喜ばしいことなのだが、こういつまでもだらだらと暑いと、元来暑さに弱い私にはこたえる。
 家の庭や道などの草刈作業が残っているのだが、いつもの年ならもうめっきり少なくなっているあの蚊たちが、栄養豊かなこのメタボおやじに向かって、喜びの羽音をさせて集まってくるのだ。「あなたが九州に行っていた間は、新鮮な血にありつけず、この家に頼っている私たち蚊は、どれほど苦労したことか」などと、耳元でささやきながら、ブスリと刺してくるのだ。
 いくら、この家の周りの自然を守る会の会長たる私といえども、痛い思いをしてまで、彼らに自分の血を提供するつもりはない。寒さには強い私だから、ともかくあのうるさい蚊たちがいなくなるくらいに、冷え込んできてほしいのだが。
 この秋は少しおかしい。大雪山の紅葉は、今月の初めに、いつもより二週間も早く、稜線付近の木々の色を染めたのに、その後はこの暑さで、遅々とした歩みになり麓のほうに向かっているが、これならば、平年並みかむしろ遅くなるのかもしれない。
 いつも秋になると、ヒグマの目撃情報が増えてくるのだが、今年も多くなってきていて、昨日は、釧路方面で、夜、遡上し始めたアキアジ(鮭)を見に行った人が、ヒグマに襲われて命を落としている。テレビ・ニュースで映しだされた、現場に残された血染めの軍手が、その悲惨さを物語っていた。(余談だが、奥多摩でジョギング中に、ツキノワグマに襲われた世界的なクライマーの山野井さんの回復を祈るばかりだ。)
 その前にも、根室線では二度も、ヒグマが汽車にはねられ即死している。野生動物が多いことは、それだけ豊かな自然があるということなのだが、他にもシカやサルの例があるように、増えすぎた動物たちと人間との住み分けの問題を、なんとか解決できないものだろうか。
 ミャオたち、イヌやネコのように、人間の社会にうまく溶け込んで、生きていくというのも一つの手だろうが、しかし、すべての生き物を人間たちのペットにすることなど、到底できない。ならばせめて、この地球上に君臨して他の動植物たちの生死の鍵を握っている人間が、なんとか他の動物たちとうまく共存をはかり、管理していかなければならないのだが・・・。
 そういえば、ミャオのことで思い出したのだが。私のパソコンは、グーグルをホーム・ページにしているのだが、そこに載っていたYouTube動画の一つを、思わずクリックして見てみた。(というのは、ここではダイアル・アップでしかネットはつながらないから、大体は動画を見るのは無理なのだ。)
 2分足らずの作品を見るのに、止まっている時間のほうが多く、10分余りもかかったが、面白かった。「俺vsネコ 積み上げ戦」。ペット・ボトルのキャップを積み上げる飼い主と、それを倒すネコとの一部始終を撮っている。それだけのことだから、馬鹿馬鹿しいと言えばそれまでだが、思わず見続けてしまった。
 カメラの位置がいいし、単純な動作を繰り返し結果を期待させる組み立てもいい。殆どネットの動画など見たことのなかった私にとっては、映像創作の世界が、すでに一般の人の手に成るところまで来ているのだと、再認識させられた。
 かといって、このままYouTubeのファンになることもないだろう。ともかく、ダイアル・アップで見るには無理があるし、のめり込んで時間を使うのも心配だ。つまり、たまたま見た投稿動画が面白かったというだけのことだ。
 それにしても、立派なネコちゃんだった。雑種で半ノラの、ミャオとはえらい違いだ。しかし、もちろん私はミャオが一番好きだし、毎日オマエのことを思っているからね。
 さて、今日は久しぶりに、外のゴエモン風呂を沸かして入るとしよう。
                      飼い主より 敬具
 

飼い主よりミャオへ(28)

2008-09-15 16:53:54 | Weblog
9月15日
 拝啓 ミャオ様
 三連休の間、天気は良く、朝は少し冷え込むものの(今朝は13度)、日中は26度くらいまで上がり、平年と比べると、かなり暖かい、というより暑い感じがする。
 私は、三日間ともずっと家に居た。街中はもちろんのこと、山も紅葉を求めて、人々でいっぱいだろうから、とても外出する気にはならない。実のところ、それ以上にやるべき仕事が色々とあったからだ。
 まず、友達が長いすソファを運んできてくれた。なんでも、家を新しく建てた人がいて、古い家のものはなんでも持って行ってくれということで、もらってきたとのことだった。
 その友達は、居間にカーペットを敷いただけの私の家に来た時には、どうも居心地が悪そうで、ソファぐらい買えとよく言っていた。
 というのは、本来が内地(北海道以外の日本)の古い人間である私は、畳にコタツという伝統的な居間の生活に慣れており、北海道に建てたこの家でも、さすがに畳にはしなかったが(費用が高くつくので)、居間のカーペットに座り込み、ごろ寝をするというスタイルだったのだ。
 ところが、北海道では普通の家では、ソファがないところはないほどに、居間には長いす、ソファが置かれていて、家族も客も、そこに座り、テレビを見たり話たりする。このスタイルは今では、日本式な家屋とその生活習慣にこだわる人たち以外は、日本中の至る所で見られるものだ。いわゆる、その西洋的なライフスタイルは、戦後のめざましい経済復興を遂げた辺りから、一般家庭でも取り入れられ、すでに定着しているのだ。
 ところが、このソファ文化は、北海道では内地に先駆けて取り入れられ、瞬く間に普及した。それは、なぜか。寒かったからである。
 昔の北海道は寒かった。気候的にも、そして家屋的にも。つまり、内地と同じ軸組み工法による旧来の日本式な建物だったから、冬は隙間風が入ってきて寒く、朝起きると、寝ていた布団の口の辺りが白く凍っていたという話をよく聞くほどだ。
 薪や石炭などのストーヴはあったものの、隙間風による冷気は低いところに漂う。畳やカーペットにそのまま座るより、少しでも高いところに座ったほうがいい。だから北海道では、いち早くソファが普及したのだ。それは、ここで何度かの冬を越した私の実感でもある。
 もちろん今では、北海道の家は他の内地の家よりも、常に一歩進んだ高断熱気密化の住宅が建てられていて、セントラル・ヒーティング等の暖房設備の普及と伴に、隙間風は昔話になり、恐らく冬は、沖縄以上に、日本で一番暖かいところではないだろうか。
 長い話になったが、それで依然ボロい家に住む私を、友達が気にかけていて、ソファを持って来てくれたというわけである。もちろん、長い間使われたものだから、汚れているし、あちこち破れたり、穴が開いたりしている。それを補修して、きれいにするために時間がかかった。
 さらに、九州のほうで十数年間使っていたオーディオ・アンプが故障して、捨てるにはもったいなくて、修理に出して、北海道のほうへ送ってもらった。それで、その配置や、配線のため、他のものも片付けたりで何時間もかかってしまった。
 そして、もう一つ、家の屋根に取り付けていた自作の天窓が、古くなり少し雨漏りするようになった。出来合いのサッシの天窓は高くて買えないから、修理し、一部作り変えなければならない。昨日から取り掛かって、なんとか今日中には終わらせるようにしたいと思う。(こんなことをブログに書いているヒマなんかないのにと思うかもしれないが、ちょうど一区切りついて、後は取り付けるだけなのだ。)
 
 そんな三日間だったのだが、その前に行ってきた大雪山の紅葉のことについても、少し書いておきたい。
 9月11日、天気予報は全道的に晴れマークだ。翌日は少し天気が崩れ、三連休にはまた良い天気が続くらしい。つまり行くならこの日しかなかったのだ。
 朝、4時前に起きて、4時半出発。日の出は5時。2時間半走って砂利道に入り、ホコリを舞い上げるクルマの後について、銀泉台登山口へ。7時半に山道を登り始める。
 すぐの所、大雪山随一との評判高い第一花園の斜面の紅葉は、この三年ほどは毎年、鮮やかな錦模様を見せてくれていたが、残念ながら今年は橙色が多く、余り良くなかった。あの8月下旬に強い冷え込みがあって、平年よりも二週間も早く紅葉が始まっていたのだ。
 近づいて見ると、確かにウラジロナナカマドの葉が、一部茶色になって縮んでしまっているが、橙色の他にまだ緑色の葉もある。ということは、登山口で聞いたように、確かにもう終わりでもあるし、まだこれから色づくとも言えそうだ。
 上の駒草平では、まだウラシマツツジやクロマメノキの紅葉が残っていたし、何よりも見事に晴れ上がった空の色が見事だった。数日前にネットでの写真が鮮やかだったあの第三雪渓付近では、それなりにきれいではあったが、確かに盛りを過ぎてはいた。
 二時間ほどで赤岳の頂上に着き、そこから緩やかな稜線の道を白雲岳に向かう。風が強いが、それほど寒くはない。行きかう人も稀になり、周囲の展望を楽しみながら、ひと登りで白雲岳の山頂(2230m)に着く。誰も居なかった。
 目の前に広がる光景。あの旭岳(2290m)の手前の山すそを彩る紅葉が、ここでも今ひとつの色合いだったが、それでもいつもの事ながら素晴らしい(写真)。
 南には、離れてトムラウシ山(2141m)と十勝岳連峰があり、夕張、芦別の山も見えている。さらに遠く長大な日高山脈の山影には、主峰の幌尻岳(2052m)から南の楽古岳にいたる峰々がそれぞれに確認できる。東には、ニペソツ山(2013m)から石狩・音更連峰が並び、そしてニセイカウシュペ山から武利岳などのいわゆる東大雪の山々との間には、まず阿寒の山があり、さらに遠く斜里岳から知床連峰、そして知床岬に至るあの知床岳まで見ることができた。
 なんという、至福のひと時だったことだろう。紅葉を見ることよりも、なによりもこの青空と山々の眺めに勝るものはないのだ。何度も見ている光景なのだが、決して見あきることはない。広大な大自然に囲まれて、ひとり在ることの安らぎ。

 ミャオには、そんなことで喜んでいる飼い主の気持ちなど分からないかもしれない。しかし、私もオマエも、ある意味では自然の中に居ることに慣れ親しみ、もうそこから離れることのできない動物、つまり自然の子供(アメリカの地理学者、センプルの言葉)なのかもしれないね。元気で居てください。
                      飼い主より 敬具

飼い主よりミャオへ(27)

2008-09-13 16:49:27 | Weblog
9月13日 
 拝啓 ミャオ様
 今日は、晴れ後曇りの天気で、気温は朝17度、日中27度もあり、蒸し暑い。北海道に居るのに、これでは、数日前まで居た九州と変わらない、暑さではないかと思うほどだ。
 三日前、突然に家を閉めて、ひとりで出て行ったことについて、毎回の事ながら、いつも申し訳なく思っている。
 あの日、朝起きたときに、オマエはもぐりこんで来た私の夏布団の中に居た。私は、まず軽い朝食をすませて、家の戸締りにかかった。さらに水道や、プロパンなどの栓を閉めて、あちこちを確認して、部屋に戻ると、まだオマエは夏布団の中で寝ていた。
 私は、オマエをベランダに呼んで、コアジを二匹出してやった。朝からのサカナに、オマエは不思議そうな目で私を見て、それでもしっかりと食べていた。
 そこでベランダのドアを閉め、さらに玄関のドアも閉めて、外に出ようとしたところ、オマエはベランダから玄関側にまわり、私が閉めようとしたドアをかいくぐって、家の中に入ろうとした。
 一瞬の差だった。自分の鼻先のところでドアが閉められて、オマエは飛びのいて軒下に下がり、おびえるようにして、私を見ていた。まるで、他人を見るように・・・。
 私はオマエのほうを振り返らないで、急いで家を離れて、バス停までの道を歩いて行った。いつも繰り返される、別れの悲しいひと時に、私は胸がふさがる思いだった。
 帰ってきて、一週間たって、やっとオマエは家のネコになったというのに、そのあと二週間ほどで、また別れがやってくる。それならむしろ、半年の間、帰ってこないままのほうがいいのだろうか。
 そうすれば、年に一度、春先だけの別れですむのだが、いかに近くの知り合いのおじさんに、オマエのエサを頼んでいるとはいえ、やはり心配なのだ。二度ほど、まだあのオマエがなついていたおばさんがいたころ、オマエのことを頼んで、半年ほど家を空けたことがあった。
 しかし、二度目のときに、そのおばさんが途中で引っ越して行ってしまい、オマエは寒い冬をひとりで過ごすことになったのだ。
 春になって、北海道から九州の家に戻ってきた私は、やっとのことで探し出したオマエが、ほとんどノラネコの姿になっていたのを見て、長い間家を空けて、オマエの傍にいてやれなかったことを、心から申し訳ないと思った。
 それで、夏の間はせめて二ヶ月の間ということにして、行き来をすることに決めたのだ。しかしそうすれば、別れの回数は増え、辛い思いをすることが増えるのは、何ともしがたい。ましてオマエの辛さを思うと・・・。
 いつも思うことだが、子供の頃、私を親戚の家に預けて働きに出ていた、母の気持ちが、今にして痛いほどに分かるのだ(5月11日の項)。
 ともかく私は、オマエが再びあのポンプ小屋の生活に慣れ、エサを持ってきてくれるおじさんにゴロニャンし、同じノラ仲間のパンダネコと一緒に、元気に過ごしてほしいと願うばかりだ。
 毎回、苦労をかけてすまないね。

 ところで、戻ってきたこちらの家の様子だが、やはりあちこち草が伸び放題で、これからまたしばらくは、庭や道の手入れで一仕事になるだろう。行く前に咲き始めたばかりのあのオニユリ(8月19日の項)は、こちらでは二三日冷え込んだ日があったそうで、もう葉が枯れていて、数十個もあったツボミのうちの最後の三つの花が咲いているだけだった。
 その代わりに、ハマナスの赤い実が点々と生っていて、キヌガサギク(アラゲハンゴンソウ)と、オオハンゴンソウの黄色い花が、今を盛りに咲いていた。
 庭には、伸びた草の上一面に、シラカバの枯葉が降り積もっていた。こんな夏を思わせる蒸し暑い日だが、周りの虫の声と伴に、秋は確かに近づいてきているのだ。
 そんな秋の彩(いろどり)を求めて、北海道に戻ってきた次の日に、もう大雪の山に登ってきた。素晴らしい天気に恵まれた一日だった。そのことについては、また次回に書くことにしたい。
 ミャオ、オマエを置いて行った私を、恨まないでくれ。いつもお前のことを思っているのだから。ともかく今はただ、元気で居てくれと願うばかりだ。
                    飼い主より 敬具   

ワタシはネコである(59)

2008-09-06 15:28:18 | Weblog
9月6日 蒸し暑い日が続く、9月になったというのに。今日も、晴れのち曇りの天気で夕方にはにわか雨、朝から20度近くもあり、日中27度まで上がる。
 ワタシは、すっかりこの家のネコになった。普通の飼いネコにとっては、当たり前のことであるが、ノラと飼いネコの間を行き来しているワタシにとっては、それは毎回、それまでのワタシの生活習慣をがらりと変えなければならず、時間のかかる大変なことでもある。
 飼い主が帰ってきてから、ワタシがノラからこの家の飼いネコに戻るまでには、二週間もかかったのだ。それほどに、ネコが自分の生活環境に慣れるには、相当の時間がかかることなのだ。
 もう今では、一緒に散歩に行って、飼い主がワタシをおいて先に帰ったとしても、一二時間はかかるけれども、ちゃんと自分の家に帰ってくるし、ひとりで外に出たとしても、半日もたたないうちに戻ってくるのだ。
 昨日の朝は、16度くらいと少し冷え込んだ。ワタシは飼い主の足元の羽布団の上で寝ていたのだが、少し肌寒、いや毛寒さを感じて、夏ぶとんをかけて寝ている飼い主の傍へともぐり込んだ。
 寒い冬の時ならともかく、このまだ暑い夏の終わりといった時期に、飼い主の布団の中に入って行ったのは、初めてのことだ。横になって寝ている、飼い主のおなかの辺りに、ワタシの背中がスッポリ収まるように、ワタシも横になって寝る。
 飼い主は、寝ぼけた声で何かを言ったが、ワタシに直接に布団がかからぬように、腕を回してくれた。ワタシは、やはり飼い主のそばが一番良いと思った。ワタシが、安心して一緒の寝ることができるのは、この飼い主とあの亡くなったおばあさんだけなのだ。
 朝になって、飼い主はひとり起きて、しばらく何かゴトゴト物音を立てていたが、ワタシをベッドに残したまま、静かにドアを開け閉めして、出かけて行った。
 昼前になって、ドアの音に気づいて、ワタシが玄関に迎えると、飼い主は汗まみれで、背中にリュックを背負っていた。なるほど、そうだったのか。以下、飼い主が話してくれた。

 「いつもの近くの山に登ってきた。朝早くは天気が良かったのに、すぐに曇ってしまい、頂上に着くころには、周りの山も雲に隠れてしまった。それでも、久しぶりの登山だ。例のごとく、誰にも会わなかったし、ひとり景色や花を眺めながら、山を歩くことができた。山はいいなあ。
 ただし、何度も登っている山なのに、初めてで驚いたことがいくつかあった。その一つは、登山道が隠れるほどに、ササやススキ(カヤ)が茂っていたことだ。
 余り手入れされることもない道だから、仕方がないのかもしれないが、それにしても、オレの背丈以上あり、トンネル状になった所を、両手で掻き分けて行くほどだ。そのうえ、朝露に濡れていて、誰も先に通った気配もないから、すぐにまるで雨にあったように、全身ずぶ濡れになってしまった。
 やがて林をぬけて、尾根道に上がると、そこからは高原状になって展望も開けるのだが、相変わらず両側からササやススキが覆いかぶさっている。この山には、もう二十年以上、登り続けているのだが、こんなに繁茂しているのを見るのは初めてだった。
 今年の夏、九州が異常に暑かったことと何か関係しているのだろうか。いつもは、あちこちに見える山の花々も、茂みの中に埋もれていた。そのことを、単純に地球温暖化と結び付けたくはないが、いろいろと考えてしまう。
 さらに驚いたのは、毎年5月の中旬に咲くミヤマキリシマの花が咲いていたことだ。季節はずれに、一つ二つ咲いているのは見たことがあるが、一株全部が満開なのだ。傍にはススキの穂がでているというのに。
 それでも、数は少ないながらも、いつもの花々を見ることができた。チクシフウロ、マツムシソウ、ワレモコウ、コオニユリなど。しかし、不確かではあるが、分布地には入っていないこの山で、隠れるようにして咲いている暗い色の花、タカネシュロソウと、さらにくちばし型の赤い花がともえ状になった、あのシオガマギクの仲間の、トモエシオガマを見かけたのも驚きだった。
 そして、もう一つのコースを下りに使い、秋の気配が感じられる静かな林の中を通って、戻って来た。往復、四時間ほどのハイキング・コースだが、一か月ぶりの山歩きを十分に楽しむことができた。
 ところで、北海道の大雪山系の山々では、いつもの年に比べて二週間も早く、紅葉の盛りを迎えているとか。オレが北海道に戻るころまでもつだろうか、気がかりだな。」

 エーッ、もう北海道へ帰るんですか。せっかく、この家の飼いネコに戻ったというのに。飼い主さん、それはないですよ。ワタシというもがありながら、なんでそうなるの。
 今日のアジは大きくて、少し食べ残すほどだったのに。それは、いなくなる前触れの、豪華ディナーだったわけですか。
 
 

ワタシはネコである(58)

2008-09-02 19:10:31 | Weblog
9月2日 この一週間は、天気が良くなかった。昨日は、朝から20度を超えていて、日中は26度位だが、蒸し暑かった。曇り空から、晴れ間が見えたが、再び曇って、雨が降ったりやんだりで、まさにネコの目天気だと、飼い主が言う。
 大体ネコに関する諺(ことわざ)、譬(たと)えの類に、余り良いものはない。飼い主は、ワタシがもう自分の家に落ち着くだろうと思っていたのに、突然いなくなり、一日帰って来なかったので、変わりやすい天気に譬えたのだ。
 その前の日の夜中に、ワタシは突然、目を覚ました。起き上がって背伸びをし、飼い主の寝息の聞こえる部屋から、外に出た。雲の多い闇夜だったが、星もいくつか出ていた。
 それまでの、丸二日間、ワタシはいわゆる食っちゃ寝、食っちゃ寝の生活を送ってきた。外に出るのは、トイレの時くらいという有様だ。それは、雨が降って天気が悪かったこともあるが、久しぶりに、エサ、安全な寝場所、飼い主という飼いネコとしての三条件がそろったからでもある。
 そんな満たされた条件の中で、さてネコとしてのあるべき姿は、存在意義は何かなどと、哲学的に考えたというわけではない。寝ていて、目覚める前後に、ふと何かの呼び声が聞こえたような気がしたのだ。
 樹があり、草むらがあり、動物や昆虫たちの息づかいが聞こえるところ、ワタシの五感を研ぎ澄まして生きてゆかねばならないところ・・・。それは、飼い猫ではなく、本来の野生動物であるワタシの心に呼びかけてきたのだ。・・・あの、ポンプ小屋へ戻ろう。
 それは、都会のビジネスマンが、ふと「そうだ、京都へ行こう」(あの有名なコマーシャル)と、思い立つのと同じことなのかもしれない。
 ワタシは夜の道を、細心の注意を払いながら、用心深く歩いて行った。いやむしろ、歩いている時間よりは、はるかに立ち止まり座り込んだりしている時間の方が多かったのだ。
 何時間かかったのだろう、ようやく懐かしのポンプ小屋に着いたのだが、あの相棒のパンダネコはいなかった。朝になるまで待ったのだが、いつもエサを持ってきてくれるおじさんもやってこない。ワタシは辛抱強く、昼過ぎまでそこにいたのだが、次第に空腹を覚えてきた。サカナと飼い主の顔が、思い浮かんだ。帰ろう、あの家に。
 ところが、途中で雨は降るし、昼間とはいえあちこちの物音は気になるし、何度も座りこんで待つしかなくて、すっかり時間がかかり、家に着いたのはもう夕方に近かった。
 ベランダで、天気に合わせて洗濯物の出し入れをしていた飼い主は、ワタシがニャーと鳴いて、上がってくると、鬼瓦顔の相好を崩して、「そうか、帰ってきたのか。オーヨシヨシ」と、ムツゴローさん可愛がりをして、すぐにコアジ、二匹を出してくれた。
 たまらんのー、ワタシはガシガシとサカナをかじりながら、飼い猫であることの幸せを感じていた。
 食べ終わって、いつもの飼い主の部屋の羽根布団の上で横になり、毛づくろいをしていると、居間の方から、例の音楽が流れてくる。ワタシがニャーと鳴いて、傍に寄っていくと、飼い主が説明してくれた。
 
「三日前、ちょうどオマエがいなかった時に、郊外の大きなスーパーに買い物に行ってきた。そこで、CD・DVDのバーゲンをやっていた。大型スーパーなどでよくやっている例の安CD・セールだ。
 もちろん、そんな所にはたいした物はない。聞いたこともないオーケストラの演奏するクラッシク名曲集か、著作権の切れたポピュラー・ヒット曲、そして古い映画のDVDといったものだ。
 期待しないで見て回っていたところ、なんと正規レコード会社の1000円廉価盤集が、一枚315円で売られていた。その値札ラベルの下には500円という数字も見えた。車の中で聞くCDとして、ともかく買うことにした。
(1)ヘンデル 「水上の音楽」他 ムンツリンゲル/アルス・レディヴィヴァ (ムンツリンゲルはレコードの時代のチェコ・スプラフォンの名バロック音楽指揮者、奏者)
(2)ハイドン 弦楽四重奏曲「セレナード」「ひばり」、モーツァルト 「狩」 ベルリンフィルSQ他 (比較的新しい録音で弦楽四重奏の名曲が聞ける)
(3)ベートーヴェン 「大公」、シューベルト 「ます」 スーク・トリオ (ステレオ・レコード初期の有名トリオの名演奏、この後デジタル再録している)
 そして、家のオーディオで聞いたところ、車の中で聞くにはもったいないくらいの良い演奏だった。まさに、安物買いの楽しみはここにあるのだ。
 さらにその時に、あわせてジャズのボックス・セットも買ってしまった。若いころには良く聞いたジャズだが、クラッシクばかり聴くようになってからは、もう年に何度か聞くくらいだが、興味がないわけではないのだ。
(4)ジョン・コルトレーン 10枚組 モノラル録音 1890円 (ジャズが難しくなる前の、気楽に聞ける良い時代の演奏だ。しかし何といっても、あのセロニアス・モンクとのライヴ・セッションを収めた一枚だけでも、この値段の価値はある。去年は同じようなマイルス・デイヴィスの10枚セットを買ったが、これも良い買い物だった。)
 というわけで、100円ショップ・ファンでもあるオレの安物買いは、たまには失敗することもあるが、この喜びがあるからやめられないのだ。例えていえば、オレがいなくなって、ミャオがポンプ小屋生活に戻り、それでももしかして飼い主が帰ってきていないかなと、家に行ってみたところ、なんとあの鬼瓦が家にいて、そこで久しぶりにサカナにありつけた、そんな幸せな気分、オマエにも分かるだろう。」 
 
 そんなたとえ話よりは、飼い主のアナタが毎日家にいてくれて、ワタシも毎日サカナを食べられる、それが普通の飼い猫だと思うんですがね。何とかしてくださいよ、飼い主様。