ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

片方の靴下

2017-02-27 22:21:08 | Weblog

 

 2月27日

 朝の気温は、さすがにまだ2月の季節どおりに、マイナスの日が続いていて、時おり朝、薄く雪が積もっていることもあるが、それはまさに春の淡雪で、すぐに溶けてしまう。
 晴れた日には、気温は10度を超えて、時には家から続く坂道を、ずっと上まで登って行きたくなる。
 いつもの、往復1時間以上はかかる、長歩きの散歩なのだが、まだ冷たい西風が残っていても、今ではどこか、その風当たりや空気に、ほのかな柔らかさが感じられるようになってきた。
 周りの樹々は、冬枯れ枝のままで、さらには、枯葉をつけたままのカシワやコナラを見ても、まだ季節は変わってはいないと思うのだが、背景の裏山と青空との間には、もう冬の厳しい張り詰めた空気は感じられないのだ。(写真上)

 別にそうして、春のきざしを一つ一つ並べあげていかなくとも、カレンダーを見れば、明後日には3月になってしまうのだ。
 ともかく、そうして坂道を登っていた時、すぐ上のヤブに囲まれた日当たりのよい斜面から、”キョーン”鋭い声が一つ二つと聞こえた。
 今の時期に、こんなところを歩く人は余りいないものだから、驚いたシカが発した警戒音だった。
 それに続いて、”ダダダー”と群れになって逃げてゆく姿が見えた。

 新緑の春からまだ青草が残る秋にかけては、山にいることが多いシカたちも、冬の間はこうした人家近くの山里に降りてくるのだ。
 その被害たるや、毎度ここにあげるのもしばしばだが、減るどころか増える一方で、たまにこの集落から離れた山のほうで鉄砲の音がするのだが、さすがに頭の良いシカたちは、人家のそばでは発砲できないことを知っているかのように、こうして家々の近くの、日当たりのよい藪の中で休んでいるのだ。
 本来は、夕方から朝早いころまでが彼らの行動時間なのだが、最近では、日中でも人の姿を見ても距離があれば逃げようとせずに、ササや木の皮や小枝などを食べているのだ。
 もちろん周りの民家の人たちも、その度重なる被害に手をこまねいてあきらめているわけではなく、ハウスや防護網などだけではなく、一部では電気柵さえも設置して対策はしているのだが、それでも被害は出てしまう。
 家でも今までにも、春先の草花はもとより、一部の樹々にさえ被害が出ていたのだが、アオキの葉を食べつくしただけでなく、食べる所もないと思われるヒノキの若木の皮をはがしていたこともあったし、さらにこの冬は何と、前回写真にあげたシャクナゲの、それとは別のシャクナゲの若木の葉と花芽を食べてしまったのだ。(写真下)




 ただそれでも、幹の皮をはいで食べたわけではないからすぐに枯れることはないだろうが、葉をなくした木々の被害は決して軽いわけではなく、元に戻るまでは1年以上はかかるだろう。
 そうした、シカの被害で忘れられないのは、前にもここであげたように、家の近くにあった大きなネムノキの、その幹の周りをぐるりと皮をはがされ、その下の生木の部分までをかじられてしまったことで、その木は翌年から枯れ始めて、とうとう土地の所有者が危険だからと切り倒してしまった。

 毎年、夏になると虹色の花を咲かせていたあのネムノキ・・・富山側から北アルプスに入る時に(剱岳、立山連峰、大日三山、五色ヶ原に薬師岳などへの)起点になる、富山鉄道の終点立山駅、あの駅に近づくころに、谷あいの斜面にいつも咲いていた、何本ものネムノキの花を見るのが楽しみだったのに、もう何年もの間、夏の季節には行っていないのだ。
 ・・・もう一度、あのネムノキと立山の山々を見たい、釼や奥大日や薬師の頂きに立つことはできないとしても。

 ”彼は最後の力を振り絞って起き上がり、虚空(こくう)に向かって手を伸ばし、何かの山の名前をつぶやいては、そのまま倒れ込んでしまった。
 その口元に、かすかな笑みをたたえながら。
 それが、昭和ロマンの時代に山に登り続けてきた、彼の人生の最後の時だった。”

 こうして、私は”妄想族”らしく、また新たな、自分の最後の時を思い浮かべてみるのだが。
 もちろんそうして、自分の最後の時をできることならと想像するのは、誰にでもあることであり、例えばここでも何度も取り上げたことのある、あの有名な西行法師の歌だが。

「願わくは 花の下にて 春死なむ その如月(きさらぎ)の 望月(もちづき)のころ」

 この歌は、古代国家の王族たちのように、巨大な墳墓や豪華な埋葬品に託して、死後の世界にまで現世の世界の続きを望んだものではなく、ただ風流な季節の景観の中で、ひとり潔(いさぎよ)くこの世に別れを告げて、極楽往生を遂げるべく望んだ思いを託しただろうと思うのだが、ここでもう一つ、同じ『山家集』に収められているものの中からの一首(1520)。

「うらうらと 死なむずるなと 思いとげば 心のやがて さぞと答うる 」

(この歌の中の、”思いとげば”という部分を、”思い解けば”と解釈する読み方もあるが、ここでは、”思い遂げば”という意味にとらえて、私なりに勝手に解釈してみたのだが。”何げなくやがては死ぬのだろうと考えていけば、心の中でそうなのだよと答える声が聞こえる”というふうになるのだろうか。参考文献:『西行』西沢美仁編 角川ソフィア文庫、『中世的人間像』「西行」西田正好著 河出書房新社)

 この歌の後に、上にあげた「願わくは・・・」の歌を連ねて読み解けば、それらは決して悔恨や未練からくるこの世への訣別の歌ではなく、心静かに満ち足りた今を送る、その西行を取り巻く自然への、この世に対する惜別の歌であったように思えるのだが。
 
 前回、ゲーテの格言の一つをあげたように、自らの心の安寧(あんねい)は、すべからく際限ない我欲を抑えることにはじまると思っているから、こうした人生の先達者の言葉を繰り返し聞けば、これから続く更なる先の道へと思いを深くするばかりである。

 そこで、今回のブログ記事の題名「片方の靴下」であるが。
 もう3週間ほど前の話だが、ある晴れた日に、いつものように洗濯をしてベランダに張ったロープに洗濯物を干したのだが、洗濯機に入れたはずの靴下の片方がない。
 まあそんなことはよくあることで、ベランダまで運ぶときに落としたり、時には他の洗濯物の中に張り付いていたり、あるいはそもそも、洗濯機の中に入れずに部屋の片隅に残っていたりなどと、すぐに見つかることがほとんどだったのだが、今回はそれでも見つからない。
 それで、壁の隅に置いてある洗濯機と壁との隙間を、懐中電灯で照らして探したがない。
 それでは、洗濯物をベランダで広げて払ったときに、下の地面に落ちてしまったのかと探したがない。
 何かと間違えて、近くにあるゴミ箱に捨ててしまったのかと探したがない。

 あの内田百閒(うちだひゃっけん、1889~1971))のネコ小説『ノラや』(中公文庫)ではないけれど、次の日も次の日も探してみたけれど、どこにもいない。
 そして、私は少しずつあきらめていくしかなかった。
 私は若いころから、靴下にこだわるつもりなどなく、ずっと4足1000円のスクール靴下をはき続けていて、冬だけは最初は山用のおさがり靴下を、そしてさらには少し厚手のもこもことした冬用靴下を買い足してはいていた。
 ところが、この厚手の冬用靴下は、内側ですぐに毛玉ができて、2,3年と持たずにすぐに一部が透けるほど薄くなり役に立たなくなってしまう。
 そこで、ケチな私が奮発して、2足1500円の、ブランド名が織り込まれた厚手のロング・ソックスを買い、はいてみたのだが、さすがに高いだけあって、はき心地が良いしズレないしと、逆に登山用としても使うほどで、今では合計4足も持っている。 

 その靴下の、片方がなくなったのだ。
 それまでのスクール靴下なら、同じ白や黒の靴下はいくつでもあるし、片方の足裏がすり減って破れた時のスペアとして取っておけばいいのだが、この厚手のロングソックスは、4足それぞれ色もロゴ名も違っていて、スペアにすることもできずに、それでもあきらめきれずに、三日ほどは探し回ったのだが見つからなかった。
 そこで区切りをつけた。
 靴下は、地面に落ちてイヌやネコなどがくわえていったか、誤ってごみとして捨ててしまったかで、今後は気をつけることにしようと。
 そして、片方の靴下は、山用のストックやピッケルの先端の保護カバーとして使えばいい。
 
 そして、結末はいつもごく簡単に、意外な形で現れるものだ。
 三日前のこと、洗濯機の前でリンゴを落とし、拾おうとして腰を落とした時、洗濯機の下の部分が少しふくらんだような色になっていて、どうしたのかと思って触ってみたら、それは布だった。
 引っ張り出してみると、それは3週間もの間、見つからなかったあの靴下だった。どひゃー!
 
 つまりそれは、思うに洗濯物を洗濯機から取り出すときに、いつも面倒だからと、カゴを使わずに腕に抱えてベランダまで運ぶのだが、その時洗濯機のそばに落とし、二度三度と洗濯物を腕の中に収めているときに、その落とした靴下を知らずに洗濯機の下に蹴りこんでしまっていたのだ。
 探していた時も、まさか見えている洗濯機の前面にはと、かがんでのぞきこむこともせず、残りの三方向の壁などとの隙間だけ探していて、さらにはその靴下が明るいグレーだったから、洗濯機の白と似たような色で区別がつかなかったこともある。
 ともかくこうして、一件落着した。

 全く他人には、どうでもいいような、”しょーもない”話だろうが、私にとっては、これまた様々な示唆(しさ)に富んだ小さな大事(おおごと)だったのである。 
 それはつまり、前回(2月20日の項参照)にあげたゲーテ(1749~18329)の言葉の意味するところであり、それはまた以下にあげる有名な老子(ろうし、紀元前604~532)の言葉の中にもあり、そして、今までここで何度も上げてきた、吉田兼好(1283~1350)の『徒然草(つれづれぐさ)』へと、大きく時代を隔ても受け継がれてきた思いだとも言えるからだ。

「足る(こと)を知るものは富めり。強(つと)めて行う者は志(こころざし)有り。」

(持っているだけのもので満足することを知るのが富んでいることであり、自分を励まして行動する者がそのこころざすところを得るのである。『老子』小川環樹訳 中公文庫) 


シャクナゲの花芽

2017-02-20 23:20:47 | Weblog



 2月20日
 
 暖かい雨が降っている。
 朝の気温は10度もあった。まだ冬のさ中なのに。
 庭のシャクナゲの花芽が、明らかに大きくなってきた。(写真上)
 つい10日ほど前には、雪にうなだれていたその葉が(写真下)、今は、より日の光を受けようとして、葉先を持ち上げてきている。




 隣にある、ウメの枝のつぼみも赤みを増してきた。
 周りの草原からは、ホオジロのさえずりが聞こえてくる。
 このホオジロは、10日ほど前の雪が降った後に、もう鳴き始めていた。 
 昨日、一昨日と終日快晴の穏やかな日が続き、春の日差しと空気にあふれていた。

 毎年めぐってくる、春の季節の様子が見えてくるかのような、そんな陽気だった。
 確かにそれは、人の気分を浮き立たせて、戸外に出てくるようにといざなうような暖かさだった。
 冬は、もう終わったのだろうか。

 私の待ち望んでいた、雪氷芸術の冬は、わずか2回の雪山を見ただけで終わってしまったのだろうか。
 それならば、いつもの本州への雪山遠征の旅に出かければいいのだが、泊りがけの旅に出ること自体が、もうすでにおっくうになってきている私には、もうとても、一週間前から天気調べをして行く日を決め、交通機関や宿の手配をするという一連の行動が、もう決めてしまえば絶対にその日に行かなければならないしと、強制される大きな負担に思えてきたのだ。
 それよりは、暖かい日差しあふれるベランダに洗濯物を干した後で、揺り椅子に腰を下ろして本を読んだり、家の近くを散歩していたほうが、ずっと気が楽に思えてきたのだ。山は、家の裏山か、すぐに行ける九重の山に登っていればいい。
 あのボーヴォアールふうに言えば、”こうして年寄りは、周りから年寄りだと見られるだけではなく、それ以上に自分で自分を年寄りにしてしまうのだ”。(彼女が書いた『第二の性、女はこうしてつくられる』(生島遼一訳 新潮文庫)の冒頭の有名な言葉、”人は女に生まれない。女になるのだ。” にたとえて言えば。)
 
 思えば、去年の3月初めに八甲田の樹氷を見に行って(’16.3.14の項参照)以来のこの1年、雪山遠征はもとより、夏山遠征にも行っていないし、驚くことに、そのほとんどが九重の山と周辺の低山に登っただけで、北海道にいた時もわずか一回行っただけで、もっとも、その大雪山緑岳登山の時に、ヒザのじん帯をひどく痛めて、それ以来数時間以上かかる登山には、すっかり臆病になってしまったというのが、もっとも大きな理由なのだが。


 ということで、この冬はそんな乏しい冬山体験しかしていないのだが、それだからこそ、再びここで1週間前のあの九重の雪山歩き(2月14日の項参照)を思い返しては、ラクダやウシが二度噛みを楽しむように、ねちねちと楽しむことにしよう。写真だけは、たっぷりとあるのだから。
 まずは、何と言っても、あの飯田高原(はんだこうげん)の朝の霧氷風景が忘れがたい。(写真下)

 

 そして、さらにクルマで雪道を走り、たどり着いた牧ノ戸峠からの、さあいよいよの登り坂の遊歩道。
 その日陰になった霧氷トンネルを登って行くと、先行者の影が空に縁どられた出口になり、その先に見たものは。




 さらに、青空の下、霧氷の木々に囲まれた尾根道をたどって行くと、その日の目的の山でもある、星生山の西面が近づいてくる。
 その手前に、背景の山を飾り立てるかのように、霧氷の灌木が立ち並んでいる。まるで、雪のサンゴのように。
 



 この光景を、松田聖子の歌う『青い珊瑚礁』(三浦徳子作詞 小田裕一郎作曲)ふうに歌ってみれば。

「ああ 私の雪は 北の風に乗って降るわ
 あの 白い風切って走れ あの山へ」

 といった感じだったのだが、前回書いたように、それから天気はすっかり曇り空になってしまい、何も見えないガスに包まれた山頂だったのだ。
 それでも、こうした何枚かの写真に残されているように、雪山の楽しさを味わうことはできたのだ。
 そして、この8年余りの間だけでも 、去年の八甲田をはじめとして、その前の蔵王、大山(だいせん)、燕(つばくろ)大天井岳(おてんしょうだけ)、八方尾根と唐松岳などと、十分に雪山冬山の素晴らしさを楽しませてもらったのだから、今年だけどこへも行かずに本州の雪山を見られなかったことぐらいで、それほど悔しい思いはしないのだ。
 それは、前回書いたように、自分の心の中での、低い満足点での折り合いをつけることに慣れてきた、年寄りならではのあきらめ方でもあるのだが。
 
 つまり、足りないものはいつも身の回りにある何かで、その満足度は低いかもしれないが、何か他のもので補うことはできるはずだ。
 例えて言えば、周りの環境の色に同化して、片足だけをあげて、ゆらゆら前後しては、ゆっくりと進む、あのカメレオンのように生きていけばいいのだ。
 そうして、ライオンにはライオンの、ヌー(同じサバンナに群れで暮らすウシ科の動物)にはヌーの、そしてヒマラヤのユキヒョウにはユキヒョウの(1月2日の項参照)、アイベックス(ヒマラヤヤギ)にはアイベックスの、さらには津軽海峡のハヤブサにはハヤブサの、ヒヨドリにはヒヨドリの、それぞれの捕食者と獲物としての関係があり、その中で互いに生きていくほかはないのだ。

 私たち人間も、この時代のこの間だけにしか生きていけない、限りある命だから、その短い時間の中で、時代が悪い、環境が悪いとこぼしているよりは、そんな中でも自分の満足できるものを見つけることができれば、それが例え周りからはいかに低く見られようとも、自分の中では十分に満足できるものであったりするものだから、つまり要は、自分の好きなものを見つけることであり、それはただ自分だけの小さな満足でもいいのだから、低い平均点にまで下げればいいだけの話のだ。
 そうすれば、今までよりもずっと広い世界が目の前に開けてきて、いかに人生が喜びの発見に満ちているかがわかるはずなのだ。
 
 そうしたことを、私は、思えば母や祖母や叔父などからいつしか教えてもらっていたのだと、この年になって初めて気づくのだ。 
 それだからこそ、貝原益軒(かいばらえきけん)の『養生訓』を読んでも、ヘルマン・ヘッセの『庭仕事の愉(たの)しみ』を読んでも、あるいはNHK・Eテレの『猫のしっぽ カエルの手』のベニシアさんの暮らしぶりを見ていても、あるいはNHKのドキュメンタリー『足元の小宇宙』で紹介された、あの85歳の絵本作家の甲斐信枝さんの、京都嵯峨野での雑草の花観察の毎日を見ていても、さらには富良野に住む倉本聡さんが書いた『北の国から』のドラマを見ていても、そして、あの黒姫山の山麓の森の再生に力を尽くし、森林サンクチュアリーを開いた、C・W・ニコルさんの生き方を見ていても、何か通じ合えるものがあるような気がするのだ。

 とは言っても、そうして田舎に住んでいる人たちは間違いなく少数派に過ぎず、圧倒的大多数の人々は、高層マンションや戸建ての違いこそあれ、都会生活が好きであり都会に住むことをよしとする人々なのだ。
 つまりどの世界にも、物事を良しとする人々と、悪しきことだと反対する人たちがいるということだ。
 ただ私たち年寄りは、それらの意見が両極端にならないように、それでもお互いがそれなりに自分の生き方なりにやっていけるようにと、適当に塩梅(あんばい)して考えることはできるのだが。

 ここであのゲーテの言葉の中から。

「豊かさは節度の中にだけある。」

(クリストフ・カイザーへの書簡から、1780年1月20日。『ゲーテ格言集』高橋健二訳編 新潮文庫 )

「人間は、その無際限な努力が、自分自身に限界をさだめないうちは、幸福になれない。」

(『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』山崎章甫訳 岩波文庫)
 
 いつもこうした格言や名句をあげるのは、あくまでも対話者のいない自分への戒めの言葉であり、励ましの言葉でもあるからだ。
 
 朝の雨が上がった後、さらに時々、小雨混じりの強い風が吹き荒れて、気温は14度くらいまでしか上がらなかった。
 また、冷たい空気が入り込んでくるとの予想だが、もう九重の山があれほど白くなることはないのかもしれない。
 その代わりに、昔の思い出をと。

 ・・・雪は、ひとしきり降り続きました。
 その夜、私は、ひとりランプのもとで、昔の雪山の物語を織ったのでした。
(立原道造「はじめてのものに」よりの自作の一節)
 

 


雲の間に間に

2017-02-14 23:10:08 | Weblog



 2月14日
 
 また、強い寒波が西日本の日本海側を覆い、相変わらずの記録的な大雪になっているとのことだが、その余波を受けて北部九州でも雪が積もり、高い山々は再び雪化粧して白くなっていた。
 山に行くとしても、雪の降った後の天気予報は曇りのち晴れで、今一つ気乗りがしない。
 しかし、その翌日の天気予報は、晴れマークが多くなり、ここぞとばかりに出かけたのだが、そこまで天気や混み具合など考えに入れて実行に移しても、うまくいかないことはよくあることであり、今回の雪山歩きは、まさにその教訓に満ちていた。
 それでも、幸せなひと時も感じることができたのだから、すべてが良くなかったというわけではない。
 道は相変わらずの圧雪アイスバーン状態の所が多かったのだが、前回と同じように、飯田高原の広がりの向こう、霧氷に輝く木々のかなたに、九重の山々が並んでいる光景は、私のような絵葉書写真趣味の人間にとっては、全くおあつらえ向きの光景である。(写真上)

 というのも、すぐそばに小さな川が流れていて、-10度くらいになると、その川から立ち昇る蒸気が近くの木々の枝については凍りつき、霧氷になるのだろうが、ちなみにほんの少し川から離れて立っている木には、もうほとんど霧氷はついていないのだ。
 山で見られる霧氷や樹氷は、強い風とともに吹き付けられた水滴や雪粒が、風上に伸びていくいわゆる”エビのしっぽ”状の形であるが、この川沿いの平地にできる霧氷は、言ってみれば、白くまぶされた砂糖菓子のように、幹から枝の先にまで雪の結晶がぐるりと張り付いた霧氷なのである。
 雨滴や水滴が0度前後の気温の変化によって、雪や氷に変化していくという、本来は水である物資の面白さ。

 その千変万化の、雪の結晶の研究に一生を尽くした、あの中谷宇吉郎博士(なかやうきちろう、1900~1962)の気持ちがわかるような気がするのだ。
 ここで彼の書いた『雪』や『中谷宇吉郎随筆集』(いずれも岩波文庫)の中から、いくつかの文章を引用して取り上げたいところだが、あの有名な鈴木牧之(すずきぼくし)の『北越雪譜』(岩波文庫)とともに手元にはなく、北海道の小屋に置いたままで、残念ではあるが、話をこれ以上ふくらませることはできない。
 ともかく、思い出すのは、あの北海道の真冬の雪であり、自分の服や手袋の上に結晶となって落ちてきては、そのままの形を保っている雪。
 あのすべてが凍てつく寒さの中、雪に自分の足跡だけをつけて、ただ一人で白い息を吐きながら、あの雪原と青空のはざまを目指して歩いていたのだ・・・。

 そして、九州の雪山を歩いている私。
 前後に、人の声が聞こえ、さらに離れた後ろからは、10数人もの集団の甲高い声が聞こえている。
 しかし、雪山の光景は変わらない。
 遠くには阿蘇山や由布岳が見え、行く手の向こうには、三俣山から星生山そして扇ヶ鼻への広がりが続いている。
 この縦走路の尾根越しに見る三俣山(1745m)の姿は、繰り返しどうしても写真に撮りたくなる、私にとっての条件反射的な光景ではある。(写真下)




 ただ、少し気がかりなのは、青空にいくつも浮かんでいる小さな雲たちの動きである。
 時々、その雲が山々に影を落としていた。
 扇ヶ鼻分岐からは、そのまま久住山(1787m)や中岳(1791m)へと向かう主要縦走路と分れて、つまりあのグループとは離れて、星生山南尾根への道を行くことにした。
 前回が、久住山だけだったから、今回は、天狗ヶ城から中岳へと向かうつもりでいたのだが、この星生山(ほっしょうざん、1762m)の道を選んだのは、一刻も早く静かな雪道を歩きたかったのと、もう一つは先ほどから明らかに増えてきた雲の広がりがあり、これでは青空が見えなくなってしまうかもしれないから、近い山にと考えたからでもある。
 ただありがたいことには、このメイン・ルートから離れた雪道にも、しっかりと昨日のものらしいトレースがついていた。
 数年くらい前までは、足跡がついていること自体が珍しく、純白の雪の斜面に自分の足跡をつけて登って行くのが楽しかったのだが、その思いは今も変わらいし、そのことについては前回書いたとおりであるが、この南尾根の岩場含みのそして吹き溜まりの所もある道には、誰かが通った跡のトレースがついていてくれたほうが、この年寄りにとって楽なことは言うまでもない。
 そう思うようになったのは、私が年を取ってきたということなのだろう。(下の写真は、先ほどまでたどってきた縦走路からの星生山、手前の日陰になった尾根が南尾根。)
 
 
 

 さて、そんな南尾根の雪道をたどり始めたのだが、楽しみにしていた西千里浜の平坦地を隔ててそびえ立つ久住山の姿を、雲が隠し始めたのだ。
 それは、行く手の星生山から星生崎そして久住山 へと続く連なりの真上に、広く厚い雲が広がり下りてきては、時々それらの頂きさえも隠そうとしていたのだ。
 灌木樹林帯を抜けると、吹きさらしの南尾根斜面になり、冷たい風が吹き付けてきて、耳や手先が痛くなるほどだった。
 しかし、そんなことよりも、この斜面でいつも見られるシュカブラ(えびのしっぽ)や風紋ががっかりするほどに少なかったことである。
 背景の山々が見えなくても、こうした雪氷芸術作品を見ることができれば、それだけでも大ききな愉(たの)しみになるのだが、今や星生山頂上さえも雲の中に隠れようとしていた。

 その肩からは、東西に延びるなだらかな頂上稜線をたどって行く。
 もう辺りは何も見えない、吹きつける風とガスの中だ。
 その白いガスの中に、頂上標識の柱と何と数人もの人影のシルエットが立っていた。
 あまり人に会うことのない、雪の星生山なのに、それもこんな天気の良くない時に、その上平日なのに、若い人を含めて7,8人もの登山者たちがいたのだ。

 この星生山に登るルートは、意外に多く5本もあって、私のたどってきた南尾根ルートと西千里浜から直接頂上に向かうルート、それは途中で右に曲がって頂上の反対側の東側に出るものもあり、その岩塊帯の東尾根を星生崎から縦走してたどるもの、さらに昔は、反対側の硫黄山道路途中から山腹に取りつき、北側斜面をたどって行くものがあったのだが、この道は今では植生保護のために立ち入り禁止となって通行できなくなっている。
 
 あまり風の当たらないところに座って20分近く待ってみたが、相変わらず白いガスの中で、晴れてくれそうにもなく体も冷えてきたので 、あきらめて下りて行くことにした。
 いつもなら東側の岩尾根をたどり、周りの展望を楽しみながら、久住分かれの避難小屋に降りて西千里浜をたどりぐるりと回る周回コースをとるのだが この天気ではいかんともしがたい。
 ただ途中から少しでも晴れてくれればと思い、元来た道の南尾根へと下って行った。
 そして確かに、再び青空ものぞき始めて、雲の間に間に久住山も見えてきたのだが、雲が多いことに変わりはなかった。(写真下)



 
 下に降りてきて、主要縦走路と一緒になり、後は三々五々に下りてきた人たちと、相前後して広い尾根の雪道を下りて行った。
 沓掛山(くつかけやま、1503m)に登り返し、三俣山から星生山、そして小さく久住山がのぞき扇ヶ鼻へと連なる山々の上には、再び青空が広がり始めていた。
 今ぐらいから登り始めて、夕映えに染まる山々を見て夕暮れの道を戻ってくるか、あるいは重装備をして避難小屋で寝て明日の朝焼けを見て戻るというのが、一番良いのだろうが。

 しかし今や、腹鼓(はらつづみ)をなでながら家の風呂に入って、暖かいストーヴのそばでテレビでも見ながら、ぐうたらな夜を過ごしたいこのタヌキおやじには、到底無理な話であって、すごすごと引き下がり山を下りたのでありました。
 しかし、今日は5時間ほどの短い行程で、あまり疲れなかったし、まあほどほどに雪山も見られたことだしと、見事な年寄りならではの妥協満足点を見出しては、クルマに乗ってわが家に向かったのであります。

 ということで、今回の反省点は、まず天気について、予報で晴れと出ていても、弱いながら冬型の気圧配置が続いている場合、まして日本海側の松江で時々雪の予報が出ていたくらいだから、まだ北西の風が吹いていて、山沿いの所では雲ができやすことはわかっていたはずなのに、まして天気予報は、九州各県のほとんどが海沿いにある県庁所在地の都市部の天気予報であり、山間部の予報ではないということを、また改めて知らされた想いがするのだ。
 そして集団登山客に会わないためには、これはその時の運、タイミングの差でしかないのかもしれないが、30分でもずれていればあまり気になることもないだろうし、もっと朝早くに出発するか、それとも、あの秋の紅葉の山のように('16.11.12の項参照)、誰も行かないような山に行くかだが・・・。
 
 それにしてもこの冬の雪山は、2度も頂上付近での天気が良くなくて、すっきりと晴れた雪山歩きを楽しめたのは、前回の久住山(1月30日の項参照)の一回だけとは・・・そしてこの九州での雪山は、もう一回行くチャンスがあるかどうかということで。
 それならば、いつもの本州の雪山遠征へ行けばいいのだが、それも今まではすべて大成功(’14.3.3-10の項参照)だったのだが、こうした半ば失敗の登山もあるし(いつも言うように頂上からの展望が得られなかった山は私にとっては失敗登山であり)、それがそろそろめぐってくるのではないのかと、年寄りの疑り深い目で見ると、タヌキ腹でぐうたらに風呂につかっている、タヌキおやじの間抜けな顔に重なるのだった。

 それではこの辺りで”ドロン”させてもらいますと、古いカビの生えたギャグを言いながら・・・あーヨイヨイと。


雪な踏みそね

2017-02-06 22:02:55 | Weblog


 2月6日

 二日前の夜から朝にかけて、かなりしっかりと雨が降った。
 真冬だというのに。
 確かに、季節を分ける”節分”が過ぎたのだから、これから季節は春へと向かって進んでいくだけなのだろうが、それにしても、繰り返し言うけれども、何と雪の少ない天気のいい日が続く冬なのだろうか、と思ってしまう。
 昔はこうだったと言う、年寄りのセリフじゃないけれども・・・ああそうか、もう自分も年寄りなのか・・・それはともかく、昔と比べれば格段に雪の降る日が少なくなり、ましてやその量もすっかり少なくなってしまった。

 昔は、一晩で50㎝近くも積もったことがあったし、道もずっと雪が溶けずに残っていて、その頃は、クルマのタイヤには鋲(びょう)を埋め込んだ”スパイク・タイヤ”で走っていて、確かに氷上停止能力は優れていて、冬の雪道には欠かせないタイヤだったのだが、いかんせん、雪の積もっていない道を走るときには、舗装道路を削っているようなもので、粉塵公害になるからと廃止されたのは当然のことだったのだが、そんな冬用タイヤをつけていても、一度ひやりとしたことがある。
 それはずいぶん前の話で、私が冬の九重に通い始めてまだ数年目かのころのことで、4WDではない普通乗用車の前輪にだけ(つまり駆動する側にだけ)スパイク・タイヤをはいて、例の牧ノ戸峠への山道を上っていて、大曲りのカーブを抜ける所でアクセルを踏んだところ、スピンして半回転し道路の中央でやっと止まったのだが、今ほどクルマの通行量は多くはなかったし、前後にクルマがいなかったから良かったものの、もし運悪く上下どちら側からか車が来ていれば、衝突は間違いのないところで、急斜面につけられた道なのでガードレールは取り付けられていたものの、突き破れば、急斜面の山腹を転げ落ちたことだろう。

 まあこれだけ長く生きていると、誰でもそうなのだろうが、今までに他のクルマにぶつけられたり、エゾシカにぶつかったり、自分で砂利道の下に落ちたり、接触事故を起こしたりという経験があるのだが、考えてみればこうして元気でいるということは、いずれも大した事故ではなく、幸いにもそのぐらいですんで良かったということなのだ。
 それは、相手や自分がもう少し注意していればと、いつまでも悔やんでしまうのか、あるいは、良くそのぐらいですんだものだと、もう一つタイミングが悪ければ重大事故になっていたのにと、おかげで運良く助かったのだと考えるべきなのか。
 それは、しばらく前に引用した、あのシェイクスピアの言葉(1月16日の項参照)そのままなのだが、要は考え方一つということになるのだろうが。

 ともかく、若いころには、年寄りがいつも”ああ、ありがたいありがたい”とつぶやいていたのを見て、そのぐらいのことで何がありがたいのかと、半ばせせら笑いをしていたものだが、自分がそんな年寄りの一人になろうとして、そんなありがたさにもようやく気がつくようになったのだ。
 つまり年を取ればとるほど、自分が生きてきた人生が、いかに幸運の連続で成り立っていたかを思い知らされることになるのだ。
 そこに、あのハイデッガーの『存在と時間』の理論を重ね合わせれば、死を意識することで残された人生を考え、確かな時間の持つ意義を知ることになるのだから、”ありがたや”とつぶやくことは、ごく自然な人としての思いなのだろう。

 こんなことは、若いころには考えもしなかったことだ。
 つまり、山も海も美しいし、朝日には感激し夕日には見とれてしまう。それは年齢に関係なく、誰もが感じることだ。
 しかし、ものの見かた一つで、それはどうにでも思いをふくらませていくことができる。
 若いころには、沈んで行く美しい夕日を見れば、そこには『緑の光線』(1985年、エリック・ロメール監督)さえも伴った、限りなく繰り返される希望の未来を見ることができたのだが、年寄りになると、その沈んで行く夕日は、その日を限りのものだけにひときわ美しく見えたとしても、ただその先にある暗闇の世界が気になるようになり、日が落ちて色青ざめた景色に、自分のドラマを見るような思いにもなるのだ。
 
 さて、いつも書き始めるとすぐに横道にそれてしまい、本題に取り掛かるのが遅くなってしまうのだが、今回は冒頭に掲げた写真からもわかるように、前回に続いて九重山登山の時のことなのだが、前回記事が長くなりすぎるので書ききれなかったことを、補足分としてここにあげておきたいと思う。
 それは、いつも雪山で思うことであり、前々回の地元の裏山登山(1月23日の項参照)の時にも感じたことであるが、雪面につけられた先行者たちの足跡についてである。
 上の写真は、前回の九重登山の帰り道で、長者原の展望地点(約1000m)からの、シデ原湿原を前にして、その向こうに鎮座する名前通りの三俣山(みまたやま、1745m)を望んだものであり、右手には硫黄山の噴煙が上がっている。

 ただしこの写真をよく見ると、右端の雪面に足跡がついている。
 私はできることなら、この足跡を入れたくはなかったし、このカヤトの原の一面に広がる雪面だけを前景に入れての、絵葉書写真を撮りたかったのだ。
 雪面の写真を撮るときには、なるべくならばその雪が降ったままの自然な状態で撮りたいと思っているから、すでに雪面がいくつもの足跡で荒されているような所では、あまり写真をを撮りたいとは思はないのだ。
 もっとも、今までもこの場所で何度も写真を撮っていて、ある時は、この写真の中央部のあたりにまでいくつかの足跡がつけられていて、仕方なく雪面を少しだけしか入れられずに写真を撮ったことがあったくらいだから、その時からすれば今回は、まあ何とか青空、雪山、雪原の三点セットの絵葉書写真になったとは思っているのだが。

 この雪面の足跡については、前回の九重登山の最中にもあちこちで見たのだが、それは、せっかくできた風紋やシュカブラ(エビのしっぽ)などを、わざわざわき道にそれて踏みつぶしたり、ストックでこわしたような跡が目についたことである。
 彼らにとっては、冬の朝、子供たちがよくやるような、霜柱を踏みつけたり氷を割ったりするのと同じような、何の意味もない遊び半分のことなのだろうが。
 それだけに、前回も書いたことだが、あの久住山から下りて中岳への道に向かう途中の、小さな高みの所で撮った写真は、そうした足跡を気にしないでカメラを向けることができて、実に良い気分だった。(写真下、振り返って久住山を望む。)



 私は何も、雪面につけられた足跡のすべてが良くないと言っているわけではない。
 むしろ、雪山での足跡は、先行者がつけてくれたラッセル跡として、大いに助かるものだし、残雪期の山で道が消えている所での足跡は、何日か前のかすかなものでも大きな目印にもなって、ありがたいことこの上もないものだ。 
 ただ私は、降り積もった雪面や、自然の雪氷造形を見るのが好きだというだけのことなのだ。

 こうした雪の見方は、何も私だけのわがままな思いではなく、昔の人もそう感じていたのだろうし、確かあの『万葉集』の中でも見たことがあると思って、調べたのだが、昔の文庫本には鉛筆で当時、気になった歌の所に鉛筆で印をつけていたし、全20巻もある『万葉集』だが、その内容から大体の巻数の予測はつくし、そう難しい作業ではなかったのだが。
 第十七巻から第二十巻までは、そのほとんどが、この『万葉集』の最終編者ともいわれている大伴家持(おおとものやかもち)の歌によって成り立っていて、それは彼の”歌日誌”とさえ呼ばれいて、『万葉集』の中では群を抜いて歌数が多く、併せて470首もの歌が収められているのだ。
 そのところが少し気になるし、不偏不党的な『万葉集』にしては、いささか手前みそ的な選者だと言えなくもないのだが、しかし、それぞれの歌の完成度が高く、それもむべなるかなと思ってしまう。

 さて、その第十九巻の、天平勝宝二年の項の大伴家持の「雪の日に作る歌一首」の後に、同じ雪の歌として置かれているのが次の長歌である。
 それは、当時の左大臣藤原房前の言葉を受けて、三形沙弥(みかたのさみ)が作ったとされ、今も読み継がれている長歌とその反歌一首であるが、ここではその長歌のほうだけをあげておくことにする。

「 大殿(おおとの)の この廻(もとお)りの 雪な踏みそね しばしばも 降らぬ雪ぞ 山のみに 振りし雪ぞ ゆめ寄るな 人や な踏みそね 雪は 」(4227)

(左大臣の大殿の、屋敷の周りの雪は踏み荒らすではないぞ。そういつもは降らない雪だぞ。いつもは山にだけ降る雪なのだぞ。近寄ってはならぬ、そこの人、踏んではならないぞ、この雪は。) 

 さらに、大伴家持は この歌をよく憶えていたのだろうが、この歌の後で、天平勝宝五年正月の十一日の日付で詠まれた歌がある。
 前書きとして、「十一日に、大雪降り積みて、尺に二寸(約36cm)有り、よりて拙懐(せっかい)を述ぶる歌三首」とあり、その中から最初の一句を。 

「 大宮の 内にも外にも めづらしく 降れる大雪 な踏みそね 惜し 」(4285) 

(大宮御所の内庭にも外にも、珍しく大雪が降り積もっている。その雪を踏みつけないように、あまりにもきれいで惜しいから。) 
 
(以上、『万葉集四』  伊藤博訳注 角川文庫参照)

 私が、むしろ好ましいと思った足跡がある。
 冬も、あの北海道の家に住んでいたころ。
 寒さもいくらかゆるんできた、3月初旬の夜明け前、それでもこの日は冷え込んでいて、-15度。
 裏山の雪の丘に登り、日の出を待っていた。
 まだ上空に月の残る、早暁(そうぎょう)の雪の丘に、一匹のキタキツネの足跡が続いていた。(写真下)