ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

夏の終わりの思い出

2016-08-29 21:37:56 | Weblog



 8月29日

 今、札幌などの北海道の西半分は晴れているというのに、十勝地方をはじめとする東部には前線が停滞していて、霧雨や小雨の毎日が続いている。
 冬場には、毎日、凍(しば)れた青空の”十勝晴れ”が続く天気とは真逆の、夏によくある空模様だ。
 その上に、台風が三つも続けて来て大きな被害を受けたばかりなのに、さらに大きな台風が近づいてきているのだ。
 もう、これ以上の雨風は、日々の民(たみ)の暮らしをも壊すことになりますれば、なにとぞ、その民の嘆きをお聞き入れなされて、八大竜王様、雨風をやめ給え!(源実朝の短歌より。) 

 とは言っても、良かったこともある。まずは、井戸水を心おきなく使えるようになったことであり、もう一つは、一気に気温が下がって、夏が終わったと実感したことである。
 昨日の気温は朝13度で、その後も霧雨の中、日中も気温は上がらず17度くらいで、一日中、フリースの上着を着て、靴下をはいているほどだった。
 ともかく、内地はもとより、この北海道でさえ時々感じることのある、日本の夏の、あの”ねっとり”とした暑さが、私は苦手なのだ。
 そのために、この北海道に住みたいと思ったくらいなのだから。
 若いころに行った海外旅行の途中で、乗り継ぎのために、香港やシンガポールなどに立ち寄ったことがあるが、秋や春だったにもかかわらず、あのむっとするように体を包み込む生暖かさには、閉口したものだった。私は暑い所には住めない体質なのだろう。
 最近では、移住するなら7割以上の人が、沖縄などの南方移住を望んでいるというのに、その沖縄に一度も行ったことがない私は、そういう人たちとは逆に、こうして寒い北海道に居続けたいと思っているのだが。(ここでは、井戸水、風呂、トイレと問題点もあるが。)

 過疎化が深刻になり、移住者が来るどころか、若者たちの内地への脱出者が増えている北海道。外国人たちにとっての、北海道ブームは続くかもしれないが、日本人、特に若者たちにとっての北海道とは、さほど魅力がない所になってしまったのだろうか。
 リュックサックを背に、1か月有効の鉄道周遊券で、北海道の若者宿を巡り歩いては、一緒になって、”拓郎”や”チューリップ”や”かぐや姫”などを歌い、みんなが仲間だった時代。
 ”うたごえ喫茶”から”西口フォーク集会”へとつながり、北に向かう”カニ族”の若者宿へと続いてきた、歌声の流れは、すべて、新しく生まれた”カラオケ・ボックス”の中に小分けにされていってしまい、今の時代のポップスやロックのコンサートでの、一体感あふれる手拍子とかけ声に変わってしまったのだ。
 それが時代というものだろうと、年寄りとしては、ただ深い感慨を持ってながめているだけなのだ。
 
 昨日の午後は、テレビのチャンネルをあちこち替えながら、いろいろな番組を見ていたのだけども、例の”24時間テレビ”は、いつもの難病と闘う子供たちの姿が涙を誘うけれども、やはりどうしても、感動ドラマに仕上げようとする部分が多すぎて、さらには取り巻き連が多すぎて、鼻につくという批判もわかる気がする。チャリティーの趣旨は正しいだけに、何とかできないものだろうか。

 その裏番組として、私が長い時間見ていたのは、NHKの”民謡フェスティバル2016”だった。
 それぞれの大会での優勝者たちなどが出場していて、日本中のいろいろな民謡を聞かせてくれたのだが、プロの民謡歌手とは違う、それぞれの個性ある歌い方が、別な歌を聞いているようで、実に興味深かった。
 ただし、6月に開かれたその大会の出場者60組のうち、このテレビで放送されたのはその半分だったとのことだが、その中から選ばれて優勝したのは、およそ一般受けはしないだろう、「津軽音頭(つがるおんど)」を、土の臭いあふれる地元感たっぷりに、少し武骨なまでの地声を響かせて歌っていた、年配の男性だったが、民謡界のお歴々が審査員に名を連ねるこの大会ならではの、結果だったとも思う。
 普通に考えれば、きれいな伸びのある歌声で歌っていた、他の若い人たちのほうが良かったのにとか、どうしてあんな聴き映えのしない、浪花節(なにわぶし)語りのような歌い方の、あのおじさんが選ばれたのかと思った人も多かったと思うけれども、私もまた、民謡に詳しくはない素人の聞き手にしかすぎないのではあるが、ある意味納得できる結果でもあった。

 というのも、前にも書いたことがあると思うが、東京で働いていた時に、音楽担当部門にいた私は、日本の流行歌や民謡の古い録音を聞く機会があって、それぞれに聞いていったのだが、その中に、村田文三の歌う「相川音頭(あいかわおんど)」が入っていて、最初聞いた時には、こんな素人っぽいじいさんの歌のどこかいいのだろうとさえ思っていたのだが、二回三回と聞くうちに、その昔のあの源義経(みなもとのよしつね)の活躍ぶりを、口説(くど)き風に素朴に歌っていく歌い方に、すっかり魅せられてしまったのだ。
 感情あらわに表現するのではなく、逆に淡々と歌詞を並べていくことによって、次第に物語の詠嘆的な哀しみが浮き上がって見えてくるということ。

 私はその時、そこから大切なことを、教えられたような気がしたのだ。
 例えば映画の一シーンで、極端に言えば、主人公に悲しみが襲ってきた時に、辺りをはばからず泣きわめくように演じるのか、(もちろんそれは監督に指示されてのことだが)、それとも、感情を押さえて、その顔に一筋の涙が伝うだけの静かな演技にするのか、ということで、観客に伝えるそのシーンの意味が、全く違ったものになってしまうのだということ。
 
 もちろん、この大会での「津軽音頭」の歌い手は、顔を赤くしてのこぶし回しを聞かせた歌い方ではあったが、そのほかの若い歌手たちのような、よく通るきれいな声とは縁遠いものであり、それだけに、その昔の祝い唄、仕事唄などから歌い継がれてきたという、民謡の一つの流れ、伝統の芸を目の前に聞くような気がしたのだ。

 そしてこの時の”奨励賞”には、若い男女の二人が選ばれていたのだが、その一人、若い娘が歌った茨城は大洗(おおあらい)の民謡「磯節(いそぶし)」の歌には、思わず引き込まれてしまった。
 同じ民謡でも、その後”お座敷唄”として、芸妓たちによって、ある時は”長唄”ふうに洗練されていった、もう一つの民謡の流れがあり、そんんな「磯節」だが、今までにも、そうして洗練された芸妓たちの歌う、”お座敷唄”ふうの「磯節」を聞いてはいたのだが、今回の振り袖姿の彼女はまだ20代初めぐらいだろうが、十分な技巧を身につけていながらも、高い声にも無理がなく滑らかで、そこに若さの初々しさも混じっていて、私が今まで聞いてきた「磯節」の中でも、特に印象に残る一曲になったのだ。そして、彼女は、なにより、孫娘のようにかわいかった。

 さらにここで、他にもう一つあげるならば、同じ”奨励賞”を受けたもう一人の若い男ではなく、彼も確かに将来性を感じさせはしたが、私にはそれ以上に、あの独特の音階が心に響いてくる、奄美沖縄地方の民謡の中からの一つ、奄美島唄の「うらとみ」であり、それを、大島紬(おおしまつむぎ)の振り袖を着た若い彼女が、三線(さんしん)の弾き語りで歌っていて、思わず聴き入ってしまった。
 やはり私には異国の響きに、ついほろりと来るような感受性があるのかもしれない。
 上に書いたように、暑い所だからとまだ一度も行ったことのない、奄美や沖縄なのに。


 そして、夜になって、ふと見たNHKのドラマ「キッドナップ・ツアー」。
 日ごろからドラマなど見ない私だが、情けない弱い父親役を演じていたのが妻夫木聡だから見たわけではなく、その小学生くらいの子役の女の子の、演技というかセリフ回しの巧みさに、思わず感心して、途中からだったがつい最後まで見てしまったのだ。
 この子は、将来きっと、あの大竹しのぶクラスの、演技派女優になるに違いないとさえ思ってしまった。
 つまり、リオのオリンピックで、日本のスポーツ界にも次々と若い力が台頭してきているように、さらには何かと、落ち目のAKBだとか言われてはいるが、その中から少しずつ、次世代へと受け継いでいく将来性あるメンバーの娘たちが、AKBグループそれぞれに育ってきているのと同じように。
 もっとも、この私がもうこの世にはいないだろう、そんな先のことまで、どうなるかなどと、気を回すことはないのかもしれない。
 時代は少しずつ新しいものに代わっていき、また少しずつ古いものがなくなっていくというだけの話だ。

 ところで話は変わるが、冒頭に写真を掲げたように、今回は、ヒザを痛めてもう2か月も山に行っていない代わりに、その山恋しさを埋めるべく、昔の山行の中から、今の時期に登った山の思い出の一つを取り出してきて、今の時期の、夏の終わりの山行を追体験してみようと考えていたのだ。
 ところがいつものクセで、話が横道にそれてしまい、そしていつしか民謡の話になって、そこに時間をかけすぎてしまったので、以下簡単にその時の山の話を書いていくことにする。

 8月下旬の今頃は、私は、いつものように日高山脈の沢登りに行くことにしていた。
 今の時期、山の稜線を歩くにはまだ暑いし、かといって秋の紅葉には早すぎるし、さらにはお盆の時期まではあちこち人が多くて出かける気にはならなかったし、それならばといつもお盆過ぎのころに、沢登りに出かけるのを楽しみにしていたのだ。
 いつものごとく、単独行の沢登りだから、ザイルを使うような難しい沢には入らないし、(かといって20mのロープ一本はいつも持っては行くのだが使ったことはなく)、つまりやさしい沢での、水しぶき浴びての楽しみながらの沢登りであり、それでも目的は山登りだから、山頂までは行くという山行だったのだ。

 そうした時に、真っ先に頭に浮かぶのが、日高山脈南部の山、野塚岳(のづかだけ、1353m)である。
 この山の下を貫いての国道が開通して以来、この周囲の南部日高の山々へのアプローチがどれほど楽になったことか。
 基本的には、登山者は誰でも自然保護の立場であることに変わりはないのだろうし、こうして自然豊かな日高山脈を削って道が作られても、その自然破壊状態にもよるのだろうが、すべての登山者がその利便性の恩恵に浴することになり、大きな反対の声にならないのが現実でもある。
 (とは言っても、生活道路としての実用性がない、あの大雪山銀泉台からの道や然別湖線が、自然保護団体の反対の声もあって、途中で廃止になったことは、実に喜ばしいことではあったのだが。)

 ところで、この山行は、このブログを書き始める前のことで、9年も前のことになり、ちょうど私がデジカメを使い始めたころで、わずか500万画素のコンパクト・デジカメではあるが、今こうしてパソコン画面でその写真を見る限りにおいては、最近のデジタル一眼カメラのものと比べて、それほど大きく見劣りするものではないということが分かる。
 つまり私たち素人写真家が写真を撮るには、何も最近の5000万画素を超えるようなカメラまで使う必要はないということだろう。

 さて、帯広方面からの国道を南に走り、日高山脈に分け入って、野塚トンネルを抜けて、その南側の出口の所にある駐車場にクルマを停める。
 ここからは、下を流れるニオベツ川の直登沢をつめて野塚岳へと登ることができるし、少し下った翠明(すいめい)橋の所からは、オムシャヌプリ(1379m)南西面の沢を直登して頂上に行くこともできる。
 さらに少し先の、上二股の沢からは、オムシャヌプリ東西峰の間のコルへと、涸れた沢をつめて登って行けるし(’09.10.4の項参照)、またそのまま二股の沢本流を行けば、十勝岳(1457m)西面の直登沢をつめてのルートにもなる。雪のある冬季には、ここを起点にして、十勝岳西尾根をたどることもできる。
 さらに同じ冬季には、このトンネル出口からすぐに尾根に取りついて、野塚岳西峰(1331m)から伸びてきた南尾根の稜線に上がることもできるし、その尾根上のコブ1120m付近からの、十勝岳(1457m)は、とてもその高さには思えないほどに立派な姿で見える。

 ともかく、下のニオベツ沢に降りて、すぐに左岸にわたり、二股を過ぎて、そのまま広い河原を歩いて行く。
 まだ、朝の光の影の中で、ウラジロタデが群落になって咲いていて、その上には朝日に照らし出された、野塚岳東西峰の姿が見えている。(写真上)
 やがて、沢らしくなってきて、沢靴のまま水の中を歩いて行くのが気持ちがいい。
 左側から、一本の滝が落ちてきていて、光を浴びた水しぶきがきれいに見える。
 そして周りの灌木(かんぼく)が低くなり、明るく開けてきて、ゆるやかなナメ滝状になった所に出る。(写真下)



 ここは、私の好きな場所で、いつも一休みすることにしている。
 さらに、大きな滝もなく沢をたどって行くと、900mを越えた二股に出る。まっすぐ行けば、最初の写真に見える東西峰のコルの所に出るが、写真で見てもわかるように、ガレ場になっていて落石が心配だから、とても行く気はしない。
 右股の直登沢に入ると、やがて急な小滝の連続になり、しぶきを浴びて登って行くと、高度感もあって少しドキドキする所だ。(写真下)



 そこを過ぎて、そのままつめて頂上へと直登しても良いのだが、左の頂上南斜面の草花が気になって、左に小沢をたどって行く。
 それまでにも、日高山脈に多いミヤマダイモンジソウやオオイワツメクサなどの白い花と、エゾノシモツケソウやタカネナデシコなどの赤い花も咲いていて、まだ十分に夏らしい感じも残っていたのだが、さすがにこの高さまで来ると紫色の秋の花が目立つことになる。ヒダカトリカブトやエゾオヤマノリンドウが咲いていて(写真下)、中には変種の白い色のものもあった。
 やがて頂上からコルに下る踏み跡に出て、一登りで野塚岳頂上だった。

 トンネル出口の駐車場から、3時間半ほどかかっていたが、あいにく頂上付近には雲がついたままで、1時間ほど待ってみたが十分な眺めを楽しむことはできなかった。
 まあ、何度もこの野塚岳の頂上には立っているので、それほどこだわることもないのだが、山登りは頂上からの展望が第一と考えている私には、いささか残念なことでもあった。

 下りは同じ沢を戻って行くのではなく、別のルートで、国境稜線を少し南に下り、その辺りからまた周りの景色が見えるようになってきたのだが、1220mのコブからその一直線の南尾根を下って行く。ただし、最後の二股に降りるあたりが背丈を超えるササの密集地で、一苦労して河原に降り立った。
 頂上からの下りは、2時間半ほどで、ヒグマの気配もなく、ただ頂上の展望がなかったことは残念だったが、適度な沢登りの一日を楽しむことができたのだ。
 これが、この年の、私の夏の終わりの思い出だった。

 つまり、ヒザが悪くて山に行けなくなっても、今まで登ってきた、山々の思い出の引き出しを一つずつ開けていく楽しみがあるということだ。
 このブログを書く以前の、フィル写真時代のものがまだまだごっそりとある。
 こうしたいくつもの山での思い出を、しみったれじじいの愉(たの)しみとして、これからも少しずつ小出しにして書いていくことにしよう。
 ほうーれ、ひとーつ、またもうひとーつ・・・ローソクに照らし出されて薄笑いを浮かべる、じじいの横顔の不気味さ。

 まあ、人それぞれに、いろいろな愉しみがあるのだから・・・。

 


台風による倒木

2016-08-22 21:51:37 | Weblog



 8月22日

 数日前に、台風7号が北海道を直撃した。
 それも、本州をかすめて勢力の衰えぬまま、えりも岬に上陸し、道東の釧路、十勝地方を駆け抜けて行ったのだ。
 釧路での最大瞬間風速は40m/sにもなったというが、この十勝地方でも、多くの所で30m/s近い風が吹き荒れていて、各地で雨や風による被害が出ている。

 台風による影響は、その日の午後から出始めて、次第に風雨ともに強くなり、夕方には大荒れの状態になり、周りの木々は風にあおられて大きくしなり、屋根のあちこちで風に吹き飛ばされた木の枝が落ちてくる音がして、横なぐりの雨は、雨戸を閉め忘れていた小さな窓にも打ちつけてきて、水しぶきを受けながらようやく雨戸を閉めたほどだった。
 小さな停電が二度、それでもテレビで台風の状況を確認できていたからまだいいものの、吠えては吹きすさぶ風の音と、飛ばされてきた小枝が屋根を叩く音に耐えながら、ただすべてが過ぎ去るのを待つしかなかった。
 しかし、夜になってさすがの風も少しずつ収まってきて、深夜には、鮮やかな月が中空の空にかかっていた。

 翌日の朝早く起きて外を見ると、家の周りは一面、折れて吹き飛んできた木の枝が散乱していた。
 まず最初に、家の前の生活道路である道に散らばっていた、大小さまざまの木の枝を片付けていくだけでも、1時間近くかかってしまった。
 そして家の庭は、もともと戻ってきてからも、そのまま草刈りもせずに放置していたものだから、芝生はもう30cm以上にも伸びきった状態で、その上に昨夜の枝葉が散乱していて、とても緑の芝の庭などと呼べる代物(しろもの)ではなく、ただの荒れた草地になっていた。
 それ以上に問題なのは、林の中だった。

 併せて10本ほどのカラマツの木が、倒れあるいは大きく傾いていた。
 写真(上)では、左側の一本は根元からへし折れ、右側のもう一本は根こそぎに、1メートルもの穴を開けて倒れている。
 ところが、肝心のチェーンソーは修理に出さなければならない状態であり、何よりこの暑いさなかに、アブや蚊に襲われながら伐採作業をするなんて、とてもできないから、少なくとも秋になるまでは、そのままにしておく他はない。
 今までに何度も、夏の台風や、冬から春先の強風で、林の木々が何本も倒れているのだが、幸いなことにと言うべきか、あるいはこれだけの木がありながら奇跡的にと言うべきか、ほとんどが林の中だけで倒れていて、家に倒れかかったり、道路をふさぐように倒れたことは一度もなかったのだ。

 思うにそれは、山崩れなどが起きやすい斜面地の植林地ではないことにも、一因があるのだろうが、わが家の林のような平地の植林地では、その林の周辺部ではなく、中央部のほうが風による被害を受けやすいということだろうか。
 植林地の木々を長期間育てて、商品価値の高い立派なものしていくには、節目(ふしめ)の多い木を作らないためにも、途中で何度かの枝打ち作業が必要になるが、まずは木々の成長時期に合わせての、その面積にふさわしい木の数にと調整していかなければならない。
 つまり、間伐(かんばつ)が必要になってくるわけであり、今、国内では、時期を過ぎて木々が混み合ったままの、放置植林地が増えていて、問題になっているのだ。
 細い木々が混み合った状態では、一本一本の商品価値が極端に低くなるから、赤字を出してまでの間伐作業を行わなくなり、そうして放置されれば、見た目には緑の林に見えても、木々が密集しているから、それぞれの木々の根張りが弱く、強い雨風に耐えられずに、そのほとんどが斜面地だから、山崩れ崖崩れの原因にもなってしまうのだ。

 そうした内地の植林地とは違う、わが家の植林地でも、どうして強風の影響で木が倒れるのか。
 それも、薪ストーヴに使うためもあって、適宜(てきぎ)に伐採しているのにだ。
 思うにそれは、一つには間伐されても、他の木々との間の距離が短いことで十分に根張りができずに、さらには周辺部のいつも風にさらされてより強い根張りを持った木々と比べれば、いつも周りを他の木々に囲まれていて、明らかに抵抗力が弱くなっているからだろう。
 今まで山登りで原生林の山を歩いていて、時々そうした倒木に出会うことがあったのだが、それらの木々も、もちろん樹々の病気や寿命ということもあるのだろうが、そうした周りの木々との関係で弱くなっていたのだとも言えるだろう。
 木は、自然の中では、一本だけでは成長していけないし、またあまりに仲間が多すぎても、仲間以上には大きくはなれないのだ。

 こうして、台風で倒れた木のことについて書いていたのに、そのこととは関係もなく、ふとあの映画の中での言葉が頭の中に浮かんできた。

 「あなたと一緒では苦しすぎる。でもあなたなしでは生きていけない。」

 私の敬愛する映画監督の一人である、フランソワ・トリュフォー(1932~1984)の、1981年の映画『隣の女』で、最後に語られる有名な言葉である。

 彼は、エディット・ピアフの歌によってこの映画を作ることを思いついたと話しているが、確かにこの言葉を思いついたからこそ、この映画のストーリーが作られたのだと言ってもいいほどであり、あの衝撃的なラスト・シーンの後だけに、深く心に残る印象的な言葉である。

 この映画とともに思い出すのは、監督は違うけれども、ジャン・グラニエ・ドフェールの1973年の映画『離愁』であり、話は原題の『汽車』にあるように、疎開列車での二人が、刹那(せつな)の恋で異常とも思えるほどに盛り上がるが、その後偶然も重なってに別れることになり、連絡も取れずにそれぞれの道を歩み、話は淡々と進んでいたのだが、それがある日呼び出されたナチスの取調室で、二人は久しぶりに再会したのだ・・・互いに一瞬見つめ合い、処刑されること(死)を覚悟しながらも、ひしと抱き合う・・・あの時のロミー・シュナイダーの涙を流しながらの万感胸に迫る表情は、映画史上に残る名場面だとも言えるだろう。
 この映画もまた、このラストシーンのためだけに作られたのに違いない。

 それにしても、わずか52歳という若さで亡くなってしまったトリュフォー、芸術家の世界では、いつも20代30代という若さで亡くなってしまった、いわゆる早逝(そうせい)した天才たちの、惜しみて余りある才能が話題になるけれども、確かにトリュフォーの52歳という年齢は、天才の早逝というには当たらないのかもしれないが、今の時代からすれば、確かに早すぎた死であり、同じく私の敬愛する映画監督であり、80歳に至るまでも名作を作り続けた、あのスウェーデンのイングマール・ベルイマン(1918~2007))や、同じフランスのエリック・ロメール(1920~2010)と同じくらいにまで、彼が長生きしていて、さらなる映画を作っていればと思うと残念でならない。

 ちなみに、私がこの三人の監督を好きなのは、今まで見たきた彼らの作品のすべてが、いつも期待にこたえてくれるような出来であり、一作たりとも駄作だと思えるものがなかったことである。
 もちろん、彼らの映画は、それぞれにその特徴を異にしており、まずベルイマンは、その因習的なまでの宗教観念に縛られた人々が、次第に自我に目覚めていき周りの人々の中であがく姿を、人間観察者としての冷徹な目でとらえては、普遍的な人間の本質として描き出した点にあり(2月2日の『第七の封印』の項参照)、またトリュフォーは、感情の生き物としての人間を、彼と彼女らのそれぞれの運命の中での劇的なドラマとして描いた点にあり、もう一人のロメールは、同じフランスのヌーヴェル・ヴァーグ派の監督でありながらも、まさにそれまでの映画にはありそうでなかった、ドキュメンタリー的な日常の会話劇の中で、いつしか到達できる男女のほのかな相互理解の、心地よい感情を表現しようとしてきたことにある。

 同じヌーヴェル・ヴァーグ派で、もっとも有名なあのジャン・リュック・ゴダール(1930~)が、今では歴史的な名作となった『勝手にしやがれ』(1959年)で、当時はタブーとされていた揺れるハンディ・カメラを使って、主人公の気持ちを表現し、その革新的なドキュメンタリー・タッチの影像によって、時代の旗手として評価されたのと比べれば、ローメールの映画は、まさに、ドラマとしての激情的な場面もなく、目新しい映像表現もないけれど、あえて、その場で普通に会話しているような場面を続けることで、作為的な映画ドラマのストーリーを避けて、ドキュメンタリーふうに、日常的な真実を描いているのだとも言えるだろう。

 人は誰かを、あるいは彼や彼女が作り出したものを、寸分たがわずにその外形や人となりとして好きになるのではない。
 自分の好みは、決して誰かとすべてにおいて同じであるはずもなく、あの五輪の輪と同じように、少しづつ好きな部分があってつながっていて、その部分においては好きなのだということだろう。
 映画作品においても、それぞれに全くその作風が異なっている、ベルイマンとトリュフォーとロメールが好きなのは、私の個性としてのいくつかの好みの中で、触れ合う部分があってからのことだし、もちろん、好きな映画監督はと問われて、私と同じように、この3人の映画監督をあげる人など、まずはいるはずもなく、それでいいのだと思う。
 さらに、世界中にいる多くの映画監督の中でも、あの作品だけが好きだとか(例えば『ピロスマニ』のように、1月17日の項参照)、さらには、あれとあれだけはと特定の作品だけに限定すれば、好きな監督や作品などを言えば、もう数限りなくあげていきたくなるだろうし、それがまた、他人とは決してすべて同じ好みの作品とはなりえない、個人の評価嗜好(しこう)の面白い所ではあるが。

 映画は、まだまだ広く深いし、音楽もまたしかり、さらに小説、古典、絵画などもまた同じように限りがないし、個人としての好みの分野は、こうして無限に増え続けていくのだろう。
 何という、欲張りに楽しい人間の趣味の世界だろう。
 もちろんそこに、私の好みとしての、自然の景観を見ることや、山々の写真なども入るのだけれども・・・。

 ヒザが悪くなって以来、もう2か月近くも山に行っていない。
 かと言って、あの最後の登山に後悔するところは何もない、素晴らしい山歩きだったのだから・・・。(7月4日、11日の項参照)
 
 フランスの詩人ジャムふうに、”山に登るための祈り”として。

 「神様、わたしに山にある星を取りにやらせて下さい。
 そういたしましたら、病気のわたしの心が
 少しは静まるかもしれません
 ・・・。
 神様、わたしはよろけながら歩く
 ロバのようなものです・・・。
 あなたがわたしたちに下さったものを
 お取りあげになる時のことを考えると
 怖ろしくなります
 ・・・。
 神様、わたしのために山にある星をひとつ下さる事ができないでしょうか
 わたしにはそれが必要なのでございます。
 今夜わたしのこの冷たい空(うつ)ろな 
 黒い心臓の上に乗せて眠るために。」

 (もとの詩は、『月下の一群』よりフランシス・ジャム「星を得るための祈り」堀口大學訳 新潮文庫) 

 台風倒木のことについていろいろと書こうと思っていたのだが、いつものように横道にそれて、これまたいつものようにジャムの詩で終わってしまったが、当初考えていたようにとりあえずは、台風後の写真をあげておくことにする。

 

 台風の三日後に裏のデント・コーン(飼料用トウモロコシ)畑に行ってみると、台風の翌日には完全に倒れていた一株一株が、さすがの生命力で少しだけ起き上がった状態になっていた(写真だけではわからないかもしれないが)。
 さらに、上に書いてきた林の木の場合とは逆で、このトウモロコシ畑では、周辺部が最も多く倒れているのだ。
 しかし、明日未明にはまた追い打ちをかけるように、次の台風が、北海道東部を直撃するとの予報が出ているから、また一株ごとに倒れてしまうことになるだろう。ただでさえ、大雨続きでトラクターも入れないところで、収穫作業がどうなるのか心配になってしまう。

 さて、世界中の若者立ちが集(つど)い競うスポーツの祭典、オリンピックが終わり、久しぶりに夏の甲子園の決勝戦まで勝ち進んだ、わが北海道代表の北海高校の戦いが幕を閉じたのと同時に、北海道の夏も終わりを告げるのかと思いきや、連日の台風の襲来で、蒸し暑い空気が流れ込み、今日は28度、明日は30度までも気温が上がるとのことで、思えば今、わが北海道日本ハム・ファイターズが、何とか0.5ゲーム差で首位のソフトバンク・ホークスを追いかけているように、まだまだ北海道での熱い戦いは終わらないのだ。
 いつもの年なら、お盆時期を過ぎる頃になると、北海道は涼しい空気に覆われて、長そでシャツを着る頃になっているのに・・・。

 まあこうして、暑い寒いと言いながら、人は何度目かの夏をそして冬を迎えながら、生きていくのだろう。
 これもまた、ありがたいことなのかもしれないのだが・・・。 


山の夢を見る

2016-08-15 21:43:47 | Weblog



 8月15日

 最近、夢をよく見るようになった。
 少し前のことや、昔のことや、断片的につなぎ合わせたものや、一場面だけのものもある。
 それらは、時と場所を越えて、私の記憶の中にあるものと、ないものとが入り混じっている。
 私は、どこからきて、どこに行くのだろうか。

 こうして、毎晩のように夢を見るようになったのには、一つには、よく言われているように、睡眠が浅く、いわゆる”レム睡眠”の時間が多いからなのだろうが。
 このところ、例のヒザ痛で、山に行くどころか、家周りの仕事さえ全くしなくなって、ぐうたらな毎日を送っているからだと、自分ではわかっているのだけれども・・・。
 それは、スポーツ選手たちの引退の時の言葉で、よく言われているように、確かに年を取ってきて、体力気力の衰えが目立つようになってきたからだ、というのは否めないけれども、やはり基本としての、歩くことに差しさわりが出てくると、こうにまで外の活動が制限されるものかと、たいしたことでもないと思っていたヒザの損傷が及ぼす影響について、改めて思い知らされたのである。
 もちろん、そんなことは百も承知で、今までにも、小さな指一本のケガで不自由することとか、他人のケガや病気、不幸などを見て、自らの教訓戒めとしてきたはずなのに、人は何事も自分の身に起きて初めて、事の大きさに気づくものなのだろう。

 そのために運動しなくなり、体が疲れないから、脳だけがその分はしゃぎまわって、あることないことの私の記憶を引き出してきては、ごっちゃまぜにして、時空を超えた意味不明のいくつもの夢を作ることになるのだろう。
 体の運動の不足分を、脳が補ってくれているのだと考えるべきなのだろうか・・・。

 二三日前に、私は山に登っている夢を見た。
 急勾配に切れ落ちた、チムニー状(煙突状になった狭い溝)の岩壁の下りの所だった。
 それまでは、確か日高山脈のカムイエクウチカウシ山(1979m)の下りだと思っていたが、カムイエクには三度登っているが、確かルートになった登路にあんな所はないはずだ。
 三股から八ノ沢のカールに上がる所がかなり急だけれども、むしろ泥壁状で、ダケカンバやミヤマハンノキの枝をつかんでの登り下りだったと思うが。

 とすれば、北アルプスは穂高連峰の涸沢岳(からの北側への下りか、あるいは剣岳の下りだったか、しかしいずれの時も天気は良かったから、夢に出てきたほどに暗い感じではなかったし、とすれば、今になって思い出したのは、去年の鹿島槍ヶ岳(2889m)から五竜岳(2814m)縦走の時のキレット付近か、それもまた夢で見たほどに陰鬱(いんうつ)な感じではなかったし、そこで再び思い出したのは、さらにさかのぼること8年前の白馬岳(2932m)から唐松岳(2696m)への縦走の時で(詳しくは2008.7.29,31,8.2の項参照)、この時は天気が悪く、白馬岳で二日も停滞した後、結局、目的の鹿島槍ヶ岳までは行くことができずに、途中の唐松岳から八方尾根経由でエスケープ下山してしまったのだが、その時の、ガスにまかれた不帰ノ儉(かえらすのけん)のキレット付近の光景に似ていることに気づいたのだ(写真上)・・・人の記憶の何という、変幻自在(へんげんじざい)な湧出(ゆうしゅつ)ぶりだろうか。


 それも、こうしてヒザ痛のために、もう2か月近くも山に登れずにいる私の思いを察してか、私の脳内処理班が昔の記憶の中から、幾つかのものを掘り起こしつなぎ合わせたムービー・フィルムとして、私の頭の中にある私だけの試写室で上演してくれたのだ。
 わが身のことながら、何とけな気な脳の働きぶりだろうと思うし、感謝もするけれども、できることなら、もっと爽快な気分で歩いていた、会心の登山の時の光景をつなぎ合わせた、山の夢を見させてくれればと、いささか虫の良い思いにもなるのだが。

 (この8年前の、天気に恵まれなかった後立山(うしろたてやま)縦走の時に、晴れたのは、最初の日の白馬大池までと、天狗の小屋での夕日の時だけであり、もっともその時に、暮れなずむ空にシルエットで浮かび上がった剣岳(2999m)の姿だけは、今でも忘れがたいが。写真下)
 
 

 そういえば、さまざまに見る夢の中でも、まだ年寄りになる前のこと、それでもいい年をしたおじさんではあったが、そのころの夢として、恋人ふうに親しくなった娘と、どこかに行く途中だったり、何かをしようとしていたりする夢を見たことがあるが、それも、もっと先まで見たいと思っているのに、昔の映画館のフィルムのように、突然ぷつんと切れて、目の前に暗闇の館内が広がり、周りに人々が座っている現実に引き戻されるように、布団に一人で寝ている自分に気づかされることになるのだ。
 できることなら、それらの続きを、私が死を迎える時でもよいから、あの映画『ニュー・シネマ・パラダイス』(1988年)のように、それまで自分の脳内検閲で、夢の途中で終わっていたハッピー・エンドになるはずのカットされたフィルムをつなぎ合わせて、快哉を(かいさい)の声をあげ続けるような一連のフィルムとして、あの世に向かう私の頭の中で上演してほしいものだ。

 映画史に残る名作であるあのオーソン・ウェルズの『市民ケーン』(1941年)で、自分の権勢をほしいままにして生きてきた彼が、最後には孤独のまま死んでいくことになり、かすかに微笑みながらつぶやいた「Rose bud(バラのつぼみ)・・・」という言葉。
 そんな、他人が聞いてもわからないような謎めいた言葉も悪くはないが、やはり自分の夢の中で検閲削除された、いくつもの夢をつなぎ合わせての影像シーンに勝るものはないと思うのだが。
 もっとも、何事もすべてが思い通りに運ぶとは限らない。むしろ、ハッピーエンドのほうがまれなのだ。
 今までいつも途切れていた、それらの夢の終わりが、実際見てみると、すべて悲喜劇の結末になっていたとしたらと考えると、やはり、それも賢明な選択ではない。
 ということは、私が常日頃から思っているように、バッハの音楽が流れる中で、眼前に山々の景色が広がる映像が見られれば、それが一番なのかもしれない。

 (数日前に、いつものNHK・BSで、今年の6月に録画された演奏会の模様が、もう放映されていた。
 ベルリン古楽アカデミーによる、バッハとその息子であるエマニエル・バッハなどの曲が演奏されていた。
 できることなら、私もそのトッパン・ホールでの、この時の演奏会のすべてを聞きたかったのだけれども・・・特に、あの有名な「オーボエとヴァイオリンのための協奏曲」の、第二楽章のまさに”天国的”な音の流れに・・・ただただ陶然(とうぜん)として、聴き入るばかりだったのだ。)
 
 こうして、ヒマな年寄りは、自分の最後のことを、穏やかな気分になるべく夢想するのであります。
 まさに、死して後(のち)のことなど誰にもわからないのだから、すべて生きているうちなのだよ。

 「されば人の死にて後のようも、さらに人の智(さとり)もて、ひとわたりのことわりによりて、はかりしるべきわざにはあらず。」

 (本居宣長 『玉勝間(たまかつま)』 岩波文庫、梅原猛 『百人一語』 新潮文庫)

 これは江戸時代の国学者、本居宣長(もとおりのりなが、1730~1801)の言葉であるが、彼は、賀茂真淵(かものまぶち)を師として学び、さらに『古事記』『万葉集』などを研究しては、それまで日本に深く根付いていた、”阿弥陀成仏”の仏教世界観を否定して、独自に国学の集大成を行ったのだ。

 それゆえに、彼は、私の愛読書の一つでもあり、ここでも何度も取り上げてきた『徒然草(つれづれぐさ)』の著者でもある、兼好法師の、仏教の教えから来た”無常”の世界観を批判してもいるが、もっともそれは、彼なりの日本文化の解釈として十分に評価されるべきものでもある。
 上の言葉のおおまかな意味は、「人が死んだ後のことなど、こざかしい知恵と(仏教の)大まかな通りいっぺんの理屈だけで、理解できるようなものではない」と、一喝(いっかつ)しているのだ。
 そして、同じ『玉勝間』の中の言葉から。

 「この世を厭(いと)い捨つるをいさぎよしとするは、これみな、仏の道にへつらえるものにて、多くは偽(いつわ)りなり。」
 
 と、舌鋒(ぜっぽう)鋭く、似非(えせ)の世捨て人たちを批判している。

 「人の真心(まごころ)は、いかにわびしき身も、早く死なばやとは思わず、命惜しまぬ者はなし。」
 
 この言葉からは、たて前に生きるのではなく、現実的には、どんなにひどい状態にいても、誰も死にたくはないのだからと、医者でもあった彼の冷静な観察眼を知ることができるし、この時代にすでに、近代的な自我の意識を有していたということもできるだろう。
 江戸時代から受け継いできた旧来の日本的社会観と、明治に入ってからの西洋的な意識構造の文化が流れ込んできた中で、自我の意識に悩んだ、あの夏目漱石(なつめそうせき、1867~1916)に至る道筋の一つが、そこにあるのだと言えなくもないだろう。
 すべての事がらの、意識改革や表現変革は、何も一夜にして一個人の思いだけで突然生まれたわけではなく、そこに至る多くの人たちの考え方や、いくつもの道筋が合わさって、一つの大きな意識や思想として定着していくことになるのだろう。
 もっとも、だからと言って、その大多数が認める考え方がいつも正しいとは限らないのだが。

 今日8月15日は、終戦記念日。それは”敗戦記念日”だという人もいるが、私には何とも答えられない。
 今後の国の行方は、若い人たちが決めることだ。
 私は、静かに林の中で暮らし、静かにそこで一生を終えれば、それでいいと思っているだけで。
 残すべき何物もないし、残してあげたいなどという大それた思いもない。
 
 それにしても、リオ・デ・ジャネイロにおけるオリンピックでの、若い選手たちのひたむきな集中力と意志の強さは、見ていて何と素晴らしいことかと思う。
 そして、競い合う相手への、仲間意識にあふれている。
 宗教の違い、人種の違いなどで、殺し合いをしている場合ではないのだ。
 そこには、オリンピックの舞台ならではの、崇高にして、唯一無比の力があり、世界は、こうして続いていくのだろう。
 
  


飛行機からの雲と扇状地

2016-08-09 21:08:38 | Weblog



 8月8日

 数日前、北海道に戻って来た。
 ヒザの痛みで、いつもの遠征登山に行くのはあきらめるにしても、もうこれ以上出発を延ばすと、お盆休みの混雑期になって、もう帰れなくなってしまうからだ。
 東京への飛行機の便では、通路側だったが、帯広行きの便は、何とか窓側に座ることができた。
 それにしても、周りは、夏休みを田舎で過ごすのだろうか、子供連れでほぼ満席に近い状態だった。
 その日は、全国的に天気は良かったのだが、やはり夏の昼前後になれば、あちこちで雲が沸き立っていて、山々の展望は望むべくもなく、南アルプスも富士山も見えなかった。
 
 それでも、それなりに、いつもの飛行機からの展望を楽しむことができた。
 というのも、私の好きな山々の展望をさえぎってしまう雲は、いつも邪魔なものだけれども、夏の時期にはその山々の眺めの代わりに、雄大な雲の造形美を見せてくれるからだ。
 その雲は、普通の旅客機の巡航高度である、高度1万メートル付近の高さにまで達するかのような勢いで、下から盛り上がってくる。
 もちろん、それこそが、積乱雲(入道雲)なのだが。
 上にあげた写真には、手前に晴れ渡った北関東の平野部があり、そこから低い山間部にかけて積雲が点々とあり、そして、画面中央奥の上越国境の山沿い辺りには、大きな入道雲が何本も乱立していて、さらにその上には1万メートルをはるかに超えるあたりに、雲の中でも最も高いところにある巻雲がたなびいている。
 私はかつて、ヨーロッパ行き南回りの飛行機便で、遠くヒマラヤの高峰群を見たことがあるのだが、まるでそうした雪の山なみを思わせるような積乱雲の連なりを、今までに何度も見たことがある。

 そして今回、特に興味を引いたのは、晴れている所が多かった、東北縦断のコースの下に見える風景である。
 地図を広げればわかるように、南北に延びる東北地方の、中央部を奥羽山脈が貫き、その左右に、まず西側には、出羽山地から越後山脈へと断続的に連なる山なみがあり、東側には北上山地から少し離れて阿武隈山地に連なる山なみがあり、それぞれの山なみの間が盆地になっていて、その地域内で、独自の自然環境や地方圏文化などをはぐくんできたのだ。
 今までにもう幾度となく、それらの山々や盆地に平野などを、飛行機の上から眺めてきているのだから、今さら改めて書くこともないのだが、同じ山に何度も登るのと同じように、今回もこの季節ならではの景観として、また別の目新しい興味を持って見ることができたのだ。

 下の写真はその一つ、会津盆地とその中心都市、会津若松市の全景である。
 雲の多かった北関東の山々の上を抜けたところで、今までびっしりと広がっていた積雲がまばらになり、まるであのモーセが紅海を渡った時のように(映画『十戒』1956年版参照)、左右の雲が開けて、会津地方だけが晴れ渡った空の下に見えていた。
 そして、会津若松市街地の中心部には、少し濃い緑の城郭公園が見え、その中にはっきりとあの鶴ヶ城までもが見えていたのだ。
 その昔、母を連れて東北旅行をした時に、会津にも寄って、この鶴ヶ城の天守閣にまで上がったことも思い出した。



 さらにしばらく前には、あのNHK『ぶらタモリ』で、この会津若松ロケの放送があり、その時に、地形的水利的な要所としての、築城や城下町形成の話が面白かったので、よく憶えているのだが、この飛行機からの眺めでは、さらに俯瞰(ふかん)的に見ることができて、特に川が平野部に流れ出し、扇状地を形成したその端緒部に城があり、そこからさらに下の方の、周囲部に城下町が広がっていったのがよくわかる。

 こうした山に囲まれた盆地の光景は、次には米沢、さらには山形と、その部分だけが、雲の海から押し開かれたような景観となって広がっていたのだ。
 つまり、夏の雲の形成状態から言えば、周りの山々の上には、上昇気流によってできた積雲の、それぞれの小さな雲のかたまりが並んでいて、まだ平野部には大きな上昇気流が起きていないから、雲も発生せずに晴れているということになるのだろう。(もっとも時間がたてば、さらに大地が温められて、強い上昇気流による入道雲ができるようになるのだろうが。)

 飛行機はさらに少しずつ、奥羽山脈から東寄りに離れていき、仙台上空から北上平野、北上山地、そして三陸海岸から太平洋へと抜けるのだが、その途中で、先ほど会津若松でも見た扇状地の地形が、ここでは真下に、より近い距離ではっきりと見えていた。(写真下)
 それは、今までにも何度も見ていて、気になって地図て調べたこともあるくらいなのだが、多分、今の岩手県奥州市であり、旧水沢市から胆沢(いざわ)町、平泉町にかけて広がる胆沢扇状地(いざわせんじょうち)だろうと思うのだが。



 扇状地とは、山間部を流れてきた川が、急に平野部に出て、そこに上流から運んできた土砂を堆積させていき、その出口(扇頂)の所から下流域にかけて扇状に広げて作った地形のことであり、その扇状地の中央部(扇央)では、川は伏流水になって消えてしまうこともあるが、その扇形に開いた末端部(扇端)では、豊富な湧き水になって噴き出すことが多く、昔から集落地や耕作地として利用されてきているし、ここでもその扇端に沿って、街並みが続いているのが見て取れる。
 特に有名なのは、山梨県の甲府盆地や長野県の安曇野、富山県の砺波(となみ)平野、そして今日は雲があって見にくかったが、那須野ヶ原の複合扇状地などがある。

 こうした扇状地の地形は、現地に立って見ても、それとわかりにくいことが多く、むしろ少し離れた小高い所から見れば、そこで初めて扇状地なのだと気がつくこともある。
 とはいえ、やはりよくわかるのはこうした飛行機などから見下ろした全体像であり、昔の地理の教科書に描かれていた、模型図そのままの形を見ることができる。
  こうして、今回はいつもの山々の姿を見ることはできなかったけれども、鮮やかな夏の雲の姿と扇状地の地形をつぶさに見ることができて、それだけでも、実に有意義な飛行機の旅だった。

 しかし、降り立った北海道は十勝帯広空港の気温は、むっと来る熱気とともに、何と32度とのことだった。
 これでは、九州の山間部にあるわが家での30度よりも、高いではないか。
 とても、北海道に来たのだからと、ぜいたくな避暑気分に浸っている場合ではないのだ。
 
 一月ぶりで戻った、郊外の田園風景は、牧草やビート(砂糖大根)に豆類の緑の濃さが増していて、九州に行く前に黄金色に色づき始めていた小麦類は、今や刈り取り前の黄土色に変わっていた。

 戻って来た家の周りは、私がいなかったその間の気温が低く、雨が多い冷害気味の天気だったと聞かされていたのに、その割には、まさにぼうぼうと言っていいほどに草が伸び放題で、その後も帯広では毎日30度越えの日々で、いまだに草刈はしていない。
 朝は15度近くにまで冷え込んで、仕事をするにはちょうどいい気温なのだが、外に出れば、何しろいつもの大きな牛アブにメクラアブそして蚊たちが、手ぐすね引いて待ち構えていて、こうしてヒザを痛めて山にも登れなくなったヨレヨレじじいなのに、その年寄りの血を求めてわっと集まってくるのだ。

 つまり、暑くて虫もいるから、まだ草苅りをしていないのだ。
 家の中でただぐうたらにダラダラしては、テレビでオリンピックや高校野球、イチロー、日ハム、AKBを見ているだけだから、始末に負えない。
 食っちゃ寝の毎日で、年寄りなのにムチムチと肥え太り、それを知っている虫たちが、外に出てこい大コール。
 仕方なく外に出るのは野外トイレのためで、いつものように木陰に行って、小の用足しをしていると、その哀れな先っちょまでもねらって、やつらが飛んでくるのだ。
 若いころなら、それで刺されて大きくなれば、それはそれで使い道もあったのだろうが、今じゃ昭和の枯れすすき・・・替え歌ふうに・・・。
 ”この暑さに負けた。いいえ、自分のぐうたらさに負けた。この庭を追われて、いっそ丸々太ろうかと。・・・”
 と、くだらない下ネタ話をして、オチのない替え歌を作っては、ウダウダしているじいさんのひとりごとでした。

 それにしても、AKBの新曲「LOVE TRIP」も悪くはないのだが、乃木坂46の新曲「裸足でSUMMER」が、それ以上に、軽快なリズムに乗ったいい曲だと思う。
 ずいぶん前の曲だがあの「バレッタ」と同じように、しばらくは繰り返し聞きたくなる曲だ。
 こういうことを言っては、AKBに悪いけれども、明らかにAKBとは1ランク上の美人ぞろいの乃木坂の歌うビデオでも見て、さわやかな気分になって、いい夢でも見るか。
 
 とか言ってるわりには、いつも悪い夢にうなされたりしている始末で、そういえば、帰ってきたこの北海道の家の、玄関先の屋根の梁(はり)の所からは、何と合わせて4匹もの蛇の抜けがらが垂れ下がっていて、これで地面で見つけた他の2匹分の抜けがらと併せて、ここには常時6匹もの蛇がいることになる。
 それだけ、蛇のエサになる、ネズミ類や昆虫などが多くいるということだろうが・・・それにしても、ここはまるで、”怪談・蛇屋敷”の世界であり、そのためにか、今までに何度か蛇がうじゃうじゃいる夢を見たこともあり、それを思うだけでも、昼間の暑さを忘れて、十分涼しくなりそうだが・・・。
 まだまだ、『真夏の夢』は続くのであります。

 
 (以上のことを昨日書いたのだが、その日には”天皇陛下のお気持ち表明”があり、さらには今日が”長崎・原爆の日”であることなどを思い合わせると、どうでもよいような個人的な身辺雑事の話などはと、いささか気おくれがして、とりあえずこうして一日先送りにして、投稿するに至った次第であります。
 この二つのことに限らず、世の中の多くの人はそれぞれに責任ある位置にいて、それぞれに懸命になって日々を生きているのに。
 それなのに、めぐりゆく季節とともに、ただ風に流れる雲のように、ぐうたらに生きているだけの、自分の生き方は何なのかと、わずかばかりでも顧(かえり)みることのできた1日にもなったのだが・・・。8月9日記)

  


歌を忘れたカナリア

2016-08-01 22:03:51 | Weblog



 8月1日

 カナカナカナ、ジー、ギー、ツクツクッーシと鳴く、セミたちのほかに、とうとうクマゼミまでもが、シーワシワシワシとひときわ大きな声で鳴き始めた。
 木々に囲まれたわが家の周りは、まるで”セミの鳴き比べ大会”さながらのにぎやかさである。
 こちらに戻ってきた当初は、朝夕のヒグラシの声がうるさいほどで、そばに近づいて木をゆすったりしたぐらいだが、時間がたてばまた同じようにいっせいに鳴き始め、けっきょくは”元の木阿弥(もとのもくあみ)”状態で、いつしか慣れて、セミたちの声にはもう何とも思わなくなってしまった。
 
 しかし、このヒグラシの鳴き声の習性は、実に興味深い。
 つまり、ほかのセミたちが鳴かない、夜明けのころと日が沈む夕方に、いっせいに鳴くのだ。
 それは、オスたちがメスたちに自分たちの存在を示すための、一大歌比べの場だからなのだろうが、みんなそれぞれに必死なのだ。子孫を残すための本能に導かれて。
 しかし、そうしたことを、人間社会に比べてなどと感傷にふけるまでもなく、ヒグラシの鳴き声は、一方では、天気の番人といってもいいほどに役にたつ鳴き声でもあるのだ。

 私はこの家にいる時には、毎日風呂に入りその残り湯をそのままにしておいて、朝、寝汗で首の周りがべたついているから、その残り湯の風呂にさっと入り、そしてほとんど毎日のように洗濯をしている。
 北海道にいる時には、風呂は四五日おきにしか入らず、洗濯も二三週間に一度コインランドリーに行くくらいで、こことはまるで違う生活を送っているのだが、それはさておき、その洗濯ものをベランダに干していて、もし急に曇って通り雨や夕立になりそうな時には、その前にこのヒグラシたちが鳴き始めて、天気が悪くなってきたことを教えてくれるので、部屋の中にいても、すぐにベランダに出て空模様を見ては、素早く洗濯物を取り込むことができるのだ。

 ヒグラシは、その名の通りに朝夕に鳴くが、日中でも、日差しが陰って曇り空になった時にも鳴くのだ。まるでほかのセミたちが鳴くのをやめた、そのつかの間の時までもねらっているかのように。
 そこで思い出すのは、北海道の家の周りを取り囲む林で鳴く、あのエゾハルゼミたちのことだ。(5月30日の項参照)
 彼らは、ここのヒグラシとは逆で、朝、太陽の光が林の中にも差し込むようになってから、ようやく鳴き始め、夕方、日が沈む前まで鳴いているが、その間にも曇って日差しがなくなり、冷たい風が吹いてくると、いっせいに黙り込んでしまう。まさに、シーンとした状態だ。 

 前回に書いた、あのキツネノカミソリもそうだが、ほかの草花が枯れている冬の間に、ただひとり緑の葉を茂らせ、春になってほかの草花たちが芽を出し茂り始めると、自分の葉はいつしか枯れてしまい、夏になるころには一本の長い茎だけを伸ばして、その先に鮮やかな花を咲かせるのだ。
 彼らは、長い進化の過程の中で、自分たちの環境に合わせて生きていく生き方を、もう体の本能として会得しているのだろう。 

 そんなことをしみじみと考えたのは、もちろん自分の身を思ってのことでもあるが、依然としてヒザの状態が思わしくないのだ。
 予定では、7月初めにこちらに帰ってきて、2種間ほどで、梅ジャムづくりやほかの用事仕事をすませて、梅雨明けを待っていつもの夏の遠征登山に行くつもりでいた。
 ところが今年は、その中部地方以北の梅雨明けが遅れ、さらには、その夏の天気がいつもの太平洋高気圧の張り出しによる晴れではなく、東シナ海や日本海にある小さな高気圧と北のオホーツク海付近にある高気圧の張り出しによる天気だから、一定するはずもなく日々不安定で、とても長期の山登りに適した天気だとは言えないのである。
 もちろんそれ以上に、自分の足のヒザの状態がよくなくいこともあって、それは、普通に生活するときにはあまり差しさわりはないのだけれども、坂道や階段の上り下りでは、いまだに痛みが出てしまい、とても山に行ける状態ではないのだ。
 この長く続くヒザの痛みは、多分じん帯の損傷によるものだとは思うが、そおれをなおすには、ギブスをはめての、あるいは手術を受けての長期間の治療が必要になり、今こうして二つの家を行ったり来たりしている私には、あらかじめ長期間いる所での治療の覚悟が必要になるのだ。 

 といった具合に、梅雨明け後の天気も思わしくなく(九州は毎日猛暑日が続くほどの夏空が広がってはいるが、写真上)、ヒザは悪いし、結論を先延ばしにしてぐうたらに過ごしていたら、なんともう一月近くも、こちらにいたことになるのだ。
 夏の盛りに、それも今年の十勝地方では、雨が多く気温が低くて冷害さえも心配されているほどで、そこにあるもう一つのわが家を、いつまでもそのままにしておくわけにもいかないし。
 山はもうあきらめるとしても、といっても、いつまでもここにいるわけにもいかないのだ。

 ただ、正直に言えば、今は北海道には帰りたくないという気分なのだ。
 それは、良くも悪くもここでの生活に慣れてしまって、再び環境が悪くなる所へ戻るのはとためらい、二の足を踏んでいる状態なのだ。
ということだ。
 確かに、夏の九州は暑く、もう1週間近くも35度を超える猛暑日が続いている所もあるくらいだが(幸いにもここは山の中で、周りにも木が多くて、30度を少し下回るくらいなのだが)、家には古いながらもクーラーがあるし、夕方までは扇風機だけでも過ごせるほどに、暑さには慣れてきたし、何より毎日風呂に入ることができて、毎日洗濯もできて、夜中のトイレで起きても家の中に水洗トイレがあるし、そうした居心地の良さが、私を北海道へ帰る思いから遠ざけているのだ。どうしよう。

 「唄(うた)を忘れた金糸雀(カナリア)は
 後ろの山に棄てましょか
 ・・・
 いえいえ それはなりません
 唄を忘れた金糸雀は
 象牙(ぞうげ)の船に銀の櫂(かい)
 月夜の海に浮かべれば
 忘れた唄をおもいだす」 

 (「かなりや」 西条八十作曲  成田為三作曲 1919年大正3年)
 
 こうして、ふと古い童謡の1節を思い出したのだが、考えてみれば、私たち世代は良い時代に育ってきたものだと思う。
 父母が苦しんだ、戦争の悲惨さを直接体験することもなく、当時まだ残存していた大正ロマンからの残り香も漂い、戦前の古めかしい芸術体系を受け継いできた、日本の大衆文化の系譜とでも呼べる芸能の世界を、わずかばかりでも味わうことができたからだ。
 今のテレビ・アニメの歌で育ってきた世代と比べれば、なんともありがたいことに、こうした雑多な土俗的あるいは都会的な、大衆芸能の抒情世界に触れることができて、その中で育ってきたことが、私たちをいわば、江戸の昔から続く”情におぼれる”日本人として、性格づけていくことになったのだろうか。それが良かったのか悪かったのか、評価は分かれるとしても・・・。

 そうした思いにふけりながら、今ここで自らのドラ声をあげて歌うことは、近隣への多大な影響を考えて差し控えることにするが、今でもいくつかの童謡唱歌がふと口をついて出たりするくらいだし、その後、ここでも自分の経歴として書いたことだが、会社に入ってからの担当部署が、自分の好きな映画・音楽部門だったこともあって、当時から仕事とはいえ、日本の童謡・唱歌から民謡・流行歌に、外国の民族音楽からクラッシック・ジャズ・ロックに至るまで、節操もなくあちこちに首を突っ込み、いろいろと聞いてきたおかげで、何かといえば、それらの歌のある一節が、今でもふとした時に頭の中に流れてくるのだ。

 「早春賦(そうしゅんふ、”春は名のみの”という歌い出し)」「牧場の朝(”ただ一面に”という歌い出し」「からたちの花(”からたちの花が咲いたよ”という歌い出し、島倉千代子の「からたち日記}もいい曲だが)」「冬景色(”狭霧消える港への”という歌い出し」「叱られて」などから、「七里ヶ浜哀歌(”真白き富士の嶺”の歌い出し)」に、旧制高校時代の部歌や寮歌としては、「琵琶湖周航の歌(”われは海の子”の歌い出し)」「嗚呼玉杯に花うけて」「人を恋うる歌(”妻をめとらば”の歌い出し)」「都ぞ弥生(”都ぞやよいの雲むらさきに”の歌い出し)」などの名曲の数々に、さらに加えて応援歌などを、学校の先輩に教えてもらうことができたし、当時はやっていた”うたごえ喫茶”では、もちろん女の子を”ひっかける”目的で行っていたのではあったが、そこでもさらに多くの名曲唱歌を知ることができたのだ。
 もちろんカラオケもなく、アコーディオンやギター一本の伴奏で、数十人や何百人もの若者の男女たちが一緒になって歌っていた時代・・・。

 そして、そんな私たちが育ってきた子供時代とは・・・ラジオからは「赤胴鈴之助」や「新諸国物語・紅孔雀(べにくじゃく)」「風雲黒潮丸(”黒潮さわぐ海越えて”の歌い出し)の歌が流れていたころ、私たち子どもは、腰に棒きれの刀を差して、”ポケモンGO”ならぬ、横町にいる隣の小学校の敵を探して歩き回っていたのだ。
 プラモデルなどはもちろんのこと、ゲーム機さえもなかった時代、みんなが貧乏だった時代、子供は隣近所の大人たちに怒鳴り散らされていた時代、相撲や力道山を見るために、テレビのあるお金持ちの家に見せてもらいに行っていた時代、島倉千代子や三橋美智也の歌が流れていた時代・・・あの時代が良かったなどと言うつもりはないが、ただあのころは、日本文化の人情的なロマンチシズムにあふれていた時代だったと思うのだが、良きにつけ悪しきにつけても・・・。

 「カナリア」の歌の話から、すっかり話がそれてしまったが、ともかく今では、すっかり山の歌を歌うことを忘れた私だが、そこは日ごろから深く考え込まずに、脳天気(ちなみに認知症に近づきつつある私としては、能天気ではなく脳天気と書くのがふさわしい)私にとって、すでにもうだいぶん前から山に代わるものをと考えてはいるのだが。
 なあにヒザが悪くて山に登れなくなったぐらいで、自分の目の前に広がる世界がなくなるわけではなし、自分の考え方ひとつでどうにでもなるというものだ。
 ここでは、前にも取り上げたことのある、あのフランスの哲学者アラン(1868~1951)の言葉をあげておこう。

 「 わたしが考えているこの幸福となる方法のうちに、悪い天気をうまく使う方法についての有効な忠告を加えておこう。
 わたしがこれを書いている今、雨が降っている。
 屋根瓦が音を立てている、無数の小さな溝がざわめいている。
 空気は洗われて、濾過(ろか)されたみたいだ。雲はすばらしいちぎれ綿に似ている。
 こういう美しさをとらえることを学ばなければいけない。
 しかし、雨は収穫物を台無しにする。とある人は言う。なにもかも泥で汚れると別な人が言う。
 そして第三の人は言う。草の上に座るのは、たいへん気持ちがいいのに、と。
 言うまでもないことだ。だれでもそれは知っている。あなたが不幸を言ったからといって、どうともなるものではない。
 そして、わたしは不幸の雨にびしょぬれになり、この雨は家のなかまでわたしを追いかけてくる。
 ところが、雨降りのときこそ、晴れ晴れとした顔が見たいものだ。
 それゆえ、悪い天気のときには、いい顔をするものだ。」

 「悲観主義は気分に属し、楽観主義は意志に属する。」

 (『幸福論』 アラン 白井健三郎訳 集英社文庫)

 どれほど天気のいい日ばかりが続いても、いつかは雨降りになるのだし、いくら雨の日ばかりだとはいっても、いつかは必ず晴れるものだ。
 夕方には、昼間の入道雲が崩れて、向こうの山の端を区切って、夕焼けの空になっていた。(写真下)