ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

晴天烈風

2018-01-29 21:39:51 | Weblog




 1月29日

 数日前、この冬の最強寒波が日本列島を覆っていた時、それを待ちかねていた私は、山に行ってきた。 
 もっとも、この雪や寒さの中、山登りどころではなく、むしろそのために、日々の仕事に差しさわりが出てくるような、多くの一般の人たちには申し訳ないのだが。
 というのも、いくら日本海側の気候の影響を受けて、冬場の雪が多いと言われる北部九州の山々でも、特に九州で最も高い山々が集まっている(たかだか1700mの高さしかないが)九重山でも、雪はとけやすく、冬の季節を通して春先までしっかりとした雪渓として残っていることはほとんどなく、いわば”パートタイム雪山”として、楽しむほかはないのだが、それでも、ひと冬に何度かは厳冬期の冬山の厳しさと美しさを味わうことができるのだ。 
 東京では、久しぶりの21㎝の積雪に(青森酸ヶ湯では早くも2mを越えているとか)、さらには48年ぶりと言われる-4度の気温(この冬の北海道の-30℃から言えば春先の気温でしかないが)、そうした全国規模の寒波に日本列島が包まれていたときこそが、実は九州の雪山を楽しむには最適の時なのだ。

 しかし、考えてみれば、こうして老い先短い年寄りが、最後の愉(たの)しみにとばかりに、喜々(きき)として雪山に出かけていく姿は、はたから見れば、何やらあの世の白亜の宮殿へと向かう、亡者たちにも似て・・・。
 近頃の言葉で言えば、入学希望者たちが、事前にその学校を見て回る”オープン・キャンパス”の制度に似て、さしづめ”オープン・ヘイディーズ(冥土)“とでも言うべきか・・・そこに、頭に三角巾ならぬ白い毛糸帽をかぶった私めが、その白亜の迷宮へとそろりそろりと近づいて行くさまは、もうそれが三途の川を渡り閻魔(えんま)大王の尋問(じんもん)を受けるべく歩いて行くのか、それともギリシア神話の冥界の王ハデス(ヘイディーズ)のもとへと向かう姿なのか・・・。

 私の友達の中には、そんな私をはなから馬鹿にして、”そんな金にもならない山登りなんぞをやって何になる、どのみちお迎えは来るのだし、その間うまいもの食ってテレビでも見ていたほうがましだわ”と言うのだが。
 確かに、その通りでもあるのだが。
 しかし、もって生まれたマゾヒスティックな性分なのか、”あーあ親の因果が子に報い、産まれ出でたるこの姿、哀れ悲しき嬰児(みどりごは)は、いつしかじじいになり果てて、相も変わらぬ山狂い、雪のムチをば身に受けて、鼻水、涙を流しては、身もだえ喜ぶその姿、この世の人にはあるまじく、魔界の人となりぬべし・・・”。
 こうして、雪山好きの変態じじいは、今日も今日とて、雪道にクルマを走らせては、山に向かうのでした。

 朝のうちは曇っていたので、しばらくは空模様を眺めて家で待っていたのだが、例の気象庁の天気分布予報でも、九重山の辺りは、昼頃からはそれまで灰色だったマス目の色が晴れの色に変わっているし、西の空に雲が少なく青空が増えてきたところで、出かけることにした。これが、山に近い田舎に住んでいる者の利点の一つだ。
 思えば前回、曇り空の中、淡い期待だけで無理に出かけて行った時、天気分布予報では、九重山域だけがずっと灰色や白のまま、曇りや雪を予報していて、全くその通りの天気だったのであり、そんな中出かけて行った私が悪いのだ。(1月15日の項参照)

 さて、九重までの山間の道は、所々圧雪状態で雪が残っていたが、おおむね下の舗装道が見えていて、前回の全線圧雪アイスバーン状態と比べればはるかに楽だった。 
 牧ノ戸峠の駐車場は、平日ということもあって、20台ほどの車が停まっているだけで、すぐ手前の方に停めることができた。
 結局、今回も前回と同じく、登山口を出たのは11時になる前くらいだったのだが、前回と明らかに違うことは、まだ雲が多いものの、上空のあちこちに青空が見えていることだった。その雲の流れから、やがて晴れることを確信した。いいぞ。
 雪に覆われた遊歩道の周りの樹々や灌木は、遠目には霧氷(樹氷)のように見えるのだが、そばで見ると、ただ枝や幹に雪が降り積もっただけの姿であることがわかる。(前回1月22日の項参照) 
  確かに家の周りでも、15㎝くらいの雪が降り積もったのだが、風が吹き付けて積もったものではなく、上から降ってきたやわらかい雪だったので、これでは山の上での霧氷(樹氷)や、さらに頂上付近での風紋やシュカブラなどもあまり期待できないと思っていたのだが。
 
 しかし、その遊歩道の雪のトンネルを抜けると、今や晴れ渡ってきた青空を背景にして、おなじみの三俣山(1745m)が正面に大きく鎮座していた。
 さらに、遊歩道の続く沓掛(くつかけ)山前峰まで上がると、ミヤマキリシマやリョウブやノリウツギなどの灌木帯はすべて、はっきりと霧氷の雪氷に覆われていた。 
 雪が降った後、昨日から風が強くなり、この山の上では今も強く吹いているからなのだろうが、前回の灰色の空を背景にした霧氷の姿と比べて、何と青空に映えることだろうか。 
 楽しい気分になって、沓掛山の雪の尾根道を歩いて行く。そして沓掛山本峰(1503m)頂上からの眺めは、三俣山、星生山、扇ヶ鼻と眼下のナベ谷のすべてが白く覆われ、上空を青空が覆っている。
 岩場の山頂から下って、なだらかな雪の尾根道を歩いて行く。
 そして、いつものナベ谷源頭の光景(冒頭の写真)だが、やはり青空があると素晴らしい、前回の曇り空の時の写真と比べれば、一目瞭然だ。(1月15日の項参照)

 九重山のメインルートである、この牧ノ戸峠(1330m)登山口からの道は、出発点の標高がすでに高く、すぐに見通しの良いなだらかな尾根道に出て、いつも左右の展望を眺めながら歩いて行けるのが楽しいし、他に九重山全体では10数本余りのコースがあるのだが、年寄りになった今ではなおさらのこと、特に冬場は、どうしてもこの牧ノ戸コースを選んでしまうことになる。
 そうして登山者が多いので、今回も20~30㎝の積雪があったのだが、その雪の道は踏み固められていて、さらに歩きやすくなっているのだ。 
 逆に言えば、年寄りになっても比較的楽に歩いて行くことのできる、この九重山への道があることに、感謝したいと思う。
 ”ふるさとの山は、ありがたきかな”(石川啄木の歌より)と、この年寄りはつくづく思うのであります。

 さて、扇ヶ鼻分岐下の霧氷(樹氷)のトンネルをくぐって、西千里浜に出ると、今までの風がさらに強まって吹きつけてきた。
 そのすぐ先の凹地の所で、前回と同じように初めて腰を下ろし一休みして、冬山ジャケットの中に厚手のフリースを着込み、頭には目出し帽とその上にツバ付き毛糸帽子を重ねてかぶった。手袋も冬用の二枚重ねだ。
 この日の朝の家の外気温は-8度で、日中の最高気温もマイナスのままだったから、この風の強い山の上での気温は推して知るべしで、北海道での冬の体感気温としても、少なくとも-15℃くらいはあっただろう。

 さて、その吹きさらしの西千里浜を歩いて行くと、いつもの久住山の鋭鋒が見えてくるのだが、残念ながらその前景となる所に雪が少なく、風衝地(ふうしょうち)の土が露出しているほどで、当然のことながら、風紋やシュカブラもあまり見られなかった。
 この晴れた天気だから、風が強くても、前回の星生崎下のコルまでではなく、もちろん先まで行くつもりだったが、久住山(1787m)は展望が今一つだし、そして登りの北斜面の所でさらに強い風に吹かれそうだし、いつもの私の定番コースである天狗ヶ城から中岳へと向かうことにした。
 
 避難小屋まで下りて、そこから久住分れ、そして空池火口のふちを通って御池(みいけ)火口へと登る。
 その途中で、下りてくる二人に出会うが、おそらくは彼らが戻ってくる人の最後だろう。 
 今まで牧ノ戸からここまで、十何人かの戻ってくる人に出会ったけれども、ひとりの人が多くて他には2人3人くらいで、静かな平日の雪山だった。 
 完全に凍結している御池を眺めた後、左の急斜面を登って行く。 
 雪の上の足跡が少なくなり、それ以上に北西からの風が山肌に沿うように吹き付け、うなり声をあげていて、時には眼も開けられないほどの雪煙が舞っている。
 右手は火口壁になっていて、時に風で体が持って行かれそうになるから、なるべく左手の斜面側に行くが、そちらのほうが風は強いし。 
 やっとのことで、烈風(れっぷう)吹きすさぶ天狗ヶ城(1780m)頂上に着く。

 周囲を取り巻く素晴らしい展望はともかく、この風だから、少し中岳の方に下りた岩陰で腰を下ろす。
 もう2時過ぎだったが、ようやく暖かい紅茶を飲みながらの昼食にする。正面に九重山群の最高峰中岳(1791m)と、その後ろに山腹が灌木樹林におおわれて少し暗い色合いの大船山(だいせんざん1787m)が見えている。
 中岳の右に離れて稲星山(1774m)、その後ろ右手にかけて遠く祖母山(1755m)・傾山群、そして凍結した御池の向こうに、大きな山体を横たえた久住山(1787m)が見える。背後に九州脊梁の山々と阿蘇高岳がのぞいている。(写真下) 


 

 さらに立ち上がって、風を受けながら西から北を見ると、こちら側からはアルペン的な山容に見える星生山(ほっしょうざん1762m)、右手遠く涌蓋山(わいた山1500m)、手前に噴気をあげる硫黄山の尾根が下りてきた北千里浜の向こうに、どっしりと鎮座する三俣山(1745m)があり、その右手のかなたに由布岳(1583m)と鶴見岳(1375m)、そして坊がツルの湿原の向こうに平治岳(ひいじだけ1643m)、そして再び大船山へと戻る、ぐるりと回り見る大展望だ。
 この時初めて、私は、目出し帽の上にかぶっていたツバ付き帽子が、吹き飛ばされてなくなっていることに気がついた。
 厚手の目出し帽だから寒くはないし、サングラスもかけているから余計に気づかなかったのだろう。しかし、初冬の山歩きなどには重宝していた、ツバ付き毛糸帽子だけに残念ではあるが。
 
 さてこの強い風の中、もうこれ以上先に向かうことは考えられなかった。いつもはこの天狗から中岳へと向かい、御池を通って戻って来るのだが、さらには夏のミヤマキリシマの花のころなら、さらに稲星山にまで足をのばしたりしたものだが、とてもこの風ではあきらめるしかない。
 登りの時以上に向かい風に気を使い、ゆっくりと下りて行った。
 すぐ下の御池分岐までくると、一安心だった。 
 帰り道、もう誰もいない雪山の道で、何度も何度も立ち止まり、行きと同じように写真を撮った。 
 もう3時に近く、午後の斜光線が、星生山の山陰に濃い陰影をつけていた。(写真下)


 
 久住分れへと戻り、そこから星生崎下のコルへと登り返し、岩場のトラバースを下っていると、なんと一人の同年配の人が登ってきた。 
 声をかけると、これから星生崎まで上がって、夕陽の久住山を撮るとのことだった。
 確かにあの星生崎の高みからは、久住、中岳・天狗、三俣山、星生山が見えて、これまたぐるりと山々を見回せるいいポイントなのだ。
 さらに、西千里浜から分岐へと歩いて行く途中でも、これから夕陽の山の写真を撮りに行くという同年配の人に会った。 
 確かに、彼らのその思いはよく分かる。
 私も、山の夕景の写真は撮りたいのだが、帰りの暗い道、下の雪道だけを見て歩いて行くのが嫌だし、その後で暗い夜道を運転して帰るのも嫌だし、と思っていたのだが、今日はこうして天気がいいし、この時間だから、何とか夕方まで待ってみるかという思いにもなっていた。

 なだらかな尾根道を下って行き、沓掛山本峰に登り返して、そこで待つことにした。 
 他に誰もいない山頂で、1時間ほど待ち続けたのだが、山々は思ったほどには赤くならなかった。
 それでも薄赤色に染まって行く三俣山の姿(写真下)はなかなかに良かったし、猟師山(りょうしやま1423m)の西に沈んでいく夕日は真っ赤になっていた。


 
 夕闇迫る雪道を下りて行き、牧ノ戸峠の駐車場に戻ると、もう私のクルマの他には、3台くらいが停まっているだけだった。 
 年寄りになってからは、あまり夜道の運転はしたくないのだけれども。その、すっかり日が暮れて夜のとばりに包まれる中、雪の残る山道をスピードを落として走って、やっとのことで家に戻ってきた。 
 そして、帰ってきてすぐに入った風呂のお湯が、熱くそして温かく私の体を包んでくれた。
 青空の下、雪の山々が見えていた、なんと幸せなひと時だったことだろう。
 これが、生きているということなのだよ・・・と遠くから声が聞こえてくるような・・・。
 それがこの世の声なのか、あの世の声なのかは分からないけれど。


雪の尾根をたどって

2018-01-22 22:11:43 | Weblog




 1月22日

 早朝から降り始めた雪は、またたく間に積もっていった。
 風もなく、真上から雨のように降り続く雪。
 しかし、屋根の軒先からは、しずくも落ちてきている。
 正午の時点で、気温0℃。積雪15㎝。

 道路にも、クルマのわだち一つついていない。
 こういう日には、家の中にいればいいだけのことだ。 
 引きこもり老人の私としては、この天気でどうこうの影響があるわけでもないし、むしろ、楽しみな雪景色を見ることができる一日になるだけのことで・・・。

 もちろん、毎日忙しく立ち働いてる多くの人たちにとっては、こうした災害と言えるほどの雪降りの日は、日々の生活に直接影響する大問題になるし、じいさんの雪見見物などに付き合っているヒマはないのだろうが。 
 都会に住めば、日常の生活は便利だし、日々変わりゆく街の中にいて、いつも新しい情報を目の当たりにすることもできるのだろうが、その反面、多くの人が集まって住んでいるだけに、問題が起きればその連鎖的な広がりを食い止めるのに、それ相当の労力を要することになるし、個人としても、ぶつくさ文句を言いながらも、それぞれに相応の被害を甘受しなければならない。 
 田舎に住んでいれば、集団の喧騒(けんそう)からは逃れられて、静かな生活を送ることができるのだが、一方では、一人の力ではどうにもならないことや、生活上での様々な不便なことに耐え忍んでいかなければならない。
 何事も、いいことばかりでもなければ悪いことばかりでもない、いつもそれぞれの欠点利点を相半ばして補うようになっているのだろうが。

 そこで、前回から続く雪山の話だが、今日の雪が、山でいくら降り積もったからと言っても、さあ雪山のチャンスだとばかりに、ほいほいと喜んで出かけて行く気にはならない。 
 それは、冬場の南岸低気圧が、日本の沿岸沿いに進んできて、北から下りてきていた寒気団に触発されての雪降りであり、いわゆる日本海側での、”里雪型”と呼ばれる降雪に類似した降り方だったからだ。
 つまり、気温はあまり低くならずに、真上から降り積もる雪は湿って重たく、溶けやすく、そんな状態の雪では、いくら山の上でも、風紋、シュカブラといった雪氷芸術が見られるはずもなく、霧氷(樹氷)かと思える光景も、ただ枝に雪が降り積もっているだけの、すぐにバラバラと落ちてしまう、つかの間の雪景色でしかないからだ。
(ちなみに、冒頭の写真は、今日、わが家の庭の木に降り積もった雪の枝の模様で、遠目には山の霧氷と区別はつかないが・・・。前回参照)

 数日前に、正月に録画してまだ見ていなかった、冬山の番組を見た。
 あの「グレートトラバース 日本百名山(二百名山)一筆書き踏破」で有名な、田中陽希(ようき)君がこの度新たに、彼の集大成となる「グレートトラバース3 日本三百名山一筆書き踏破」の計画を立て、今年それ実行するにあたって、その訓練のためにもと、去年の11月下旬から冬の北海道、大雪山から日高山脈を大縦走するというふれ込みのテレビ番組だった。
 これまで、動力を使わずに、自分の足とカヤックなどの小舟だけで、つまり自分一人の人力だけで、一筆書き状に日本百名山を、さらには日本二百名山をと登って行く姿が、NHK・BSで放送されていて(今までに何度か再放送)、そのたびごとに彼のタフな体力と頑張りには感心させられていたのだが、それは彼にとっては、”プロ・アドベンチャーレーサー”(山、川、海などの自然のフィールド中で、多種目のアウトドア競技を競い合い総合優勝を目指す競技者)としての当然の仕事であり、誇りでもあったのだろうが。

 しかし、それとは別に、これらの番組で私が見たかったものは、彼が登る背景に映し出されていた、四季それぞれの色合いの中にある山々の姿だったのだ。
 ただし、計画的に日にちを守らなければならない彼のレースとしての登山では、ガスに包まれ雨が降っていても決行されなければならず、展望登山派の私としては、何も見えない日に山に登るなんて、と思ってしまうのだった。
(もっともそんな私でも、前回のように、ガスに包まれた中で山に登ることもあるのだし、さらに言い訳をさせてもらえれば、この九重の山々には冬だけでも数十回は登っており、青空の下の雪山の姿形もそれまでに十分見ていたからのことであって、それが初めての山であったならば、もう二度と来ることがないのかもと思い、決して天気の悪い日に登ることはないだろう。)

 もちろん、彼のこうしたトレイル・ランニング的な登り方は、私のよく言えば”高踏派的な趣味”の登山とは全く違う、むしろ真逆に位置するような、勇ましく男らしい対決姿勢を前面にみなぎらしたスポーツとしての登山であり、そうしたレースを模した彼の山登りのスタイルに、さらには、行く山行く山で彼を応援する人々の群れがあって、私としてはどこか違和感を覚えざるを得なかったのだが。 
 しかし本来、山に登るということは、万葉の昔から”歌垣(うたがき)の集い”のために筑波山に登っていたように、様々な目的があってのことであって、何も風景を静かに愛(め)でることだけが、あるべき登山の姿というわけではないのだから、お友達との観光気分の登山も、集団訓練のための学校登山も、もちろんあって当然のことだろうし、むしろ私のように、なるべく人を避けるような登山こそ、異端視されるべきものかもしれない。

 さて話を戻すが、その田中陽希君の「グレートトラバース3 プロローグ 冬の北海道大縦走」の番組を見るのは楽しみだった。あの北海道の二大脊梁(せきりょう)山脈を冬期に全行程単独縦走するとは・・・。
 ただし、心配もあった。それは単独行だからということではなく、つまり映像には一人で山に登って行く彼の姿が映し出されていたとしても、つまりはその彼の姿を撮っているカメラマン他のスタッフ数人がいつも同行しているわけであり、本当の単独行ではないからだ。
 そうではなく、彼が自らを冬山初心者だからと言っていたこと、彼の冬山経験の少なさを心配してのことである。 
 もちろん、あの頑丈な体とスタミナ、大学時代スキー部の主将を務めたという経歴は十分なのだが、烈風吹きすさぶ冬山の稜線では、長い停滞を余儀なくされ、地形図、天気図を読む力だけではなく、積み重ねてきた経験が大きくものをいう時が何回もあるからだ。 
 特に日高山脈では、厳冬期に単独で全山縦走したのは数例しかないはずだから、それを今回、彼のように冬山経験の少ない人がいかにしてやり遂げたのか、ぜひ見てみたいという期待があり、一方では心配する思いもあって、複雑な思いでいざ見始めたのだが。
 
 どうも番組の始めの方から、彼へのインタビューの話が長すぎると思っていたのだが、まずは最初の大雪山は旭岳へと登る時に、一回目は天候悪化で、旭岳の登り口となる姿見の小屋までで引き返し、二度目の挑戦は、まずまずの天気の中で旭岳(2290m)に登り、裏旭の夏のテント場にブロック雪を積み上げて風よけを作り幕営するが、翌日は再び天候悪化で下山することになってしまった。
 その後で彼は、大雪山は天気が良くないけれども、もう一つの日高山脈の方は天気が良いから大丈夫だと思うと言っていたが、これで番組の残りが30分余りしかないから、この時点でテレビを見ている私は、もう日高山脈全山縦走は無理だったのだと思ってたのだが。
 さて、その後ともかく彼は、日勝峠から入山し(台風被害の後この秋に開通したばかり)、すぐそばのペケレベツ岳(1532m)から少し行ったところで雪壁を積み上げて一日目のテントを張り、次の日にウエンザル岳(1576m)を経て西芽室岳(パンケヌーシ岳1750m)から下ったコルの辺りで再びテントを張ったが、翌日は悪天候で停滞し、次の4日目に晴天の空の下、芽室岳(1754m)頂上に登った後、再びこれからの天候悪化の予報のために(おそらく夏道コースの西尾根から)下山。 
 つまり、当初の予定の大雪山から十勝岳連峰、そして日高山脈への大縦走の計画が、いずれも最初の山だけで(全山縦走の場合芽室岳がその最初の起点になることが多い)、撤退を余儀なくされて、いささか番組のタイトルには、そぐわない結果となってしまった。 
 しかし、何も無理を通して遭難事故を起こすよりは、いずれの場合も途中で撤退したのは賢明な選択だったと思う。

 ただ残念ながら、こういう中身のない番組にしてしまった問題は、冬山初心者の田中陽希君にあるのではなく、そういう彼が計画した冬山縦走を実行させた番組責任者、プロデューサーにあるのではないかと思うのだが。
 冬の時期には、二日と天気が続くことがないあの大雪山や、晴れていても猛烈な風が吹く日高山脈についての、彼らの認識が甘かったと言えばそれまでだが、いつも単独行で、特に冬場にはびくびくしながら日帰り登山で雪山に登っていた私には、とてもできない冬山縦走であり、実際の所、当初の計画通りに、冬の北海道の二大山脈を大縦走する、若い彼のその超人的な姿を見てみたかったのだが。

 彼が手こずり体力を消耗してしまった、雪のハイマツ帯での苦闘・・・一歩ごとに足が埋まり、最後には四つん這いになって登る姿には、自分も同じ経験があるだけに、他人事だとは思えなかった。
 そこで思い出したのだが、十数年前の話になるが、一年を通して冬場も十勝にある家に住んでいた私は、厳冬期の1月半ば、野塚トンネルからの西尾根経由で、できるならば野塚岳(1353m)まで行ければと快晴の朝、家を出たのだ。
 このルートは、日高山脈の積雪期の入門ルートとして知られていて、ほとんど尾根通しで行くために、あとは稜線上の雪庇(せっぴ)さえ注意すれば、雪崩に会う心配は比較的に少ないと言われていた。(後年、この野塚岳で雪山遭難事件が起きるが。) 
 最初の尾根への急斜面の取り付きで、それまでつけていたスノーシューを早くも脱いでアイゼンに付け替えた。
 もっとも、真冬の北海道の山の雪はサラサラと積もっていても、その下の地面に近いところだけは凍っていて、日高山脈では、尾根の下の方の森林地帯の登りでさえ、スノーシューでは歩きにくく、まだ”ワカン”のほうがましだと思う。



 むしろ、かなり上部のほうまでは山スキーで登ったほうがいいのだろうが、あいにくやっとスキーが滑れるぐらいの私では、転んでばかりでかえって時間がかかってしまう。
 だから最初から、アイゼンをつけただけの、いわゆる”つぼあし”で登って行くことのほうが多いのだが、それでも下の樹林帯では、稜線のように吹きさらしで雪が固まっているところが余りないから、時々足がはまり込んで、そのたびにそこから抜け出すのに一苦労して、余分な体力を使うことになり、テレビで見た田中陽希君のように、四つん這いになって登って行くこともあるのだ。

 この尾根には、おそらく2週間ほど前の正月休みにころに登ったであろうと思われる、雪面の古い足あとがたまに残っていて、それだけでも単独行の私には、心強い道しるべのように思えたのだ。
 しかし、高度が上がるにつれて樹々が少しずつ少なくなり、さらに固い雪面も現れてきて、そこで一息ついて振り返ると、見事な青空の下にトヨニ岳(南峰1480m)の姿が素晴らしかった。 

 

 これはと思い、ザックを下ろして何度目かの一休みをする。
 静かだった。風もほとんどなく、鳥の声すら聞こえなかった。
 最初の尾根取り付き点からしばらくは、下の国道を通る車の音が聞こえていたのだが、ここまでくるともう聞こえない。 
 登り始めてまだ1時間半ほどだが、もうここで戻ってもいいと思ったほどの眺めだった。
 あのトヨニ岳には、それまでに二度登っていた。いずれも春の残雪期に、一度目は南尾根から(写真に見える中央の尾根)さらに奥にあるトヨニ岳本峰(1531m)までをテント泊して往復し、二度目は、写真左手に続いている国境稜線をたどってトヨニ岳本峰山頂にテントを張り、ピリカヌプリ(1631m)を往復した。 
 いずれのルートにも夏道はなく、一般的には夏に沢を詰めて登られているのだが、残雪の尾根歩きが何よりも好きな私にとっては、その時も、青空の下での爽快な稜線歩きを楽しむことができたのだ。

 さて、せっかくの登山日和なのに休んでばかりはいられないと再び歩き出す。
 まだまだきつい尾根の登りが続き、やがて行く手には木々が少なくなり、見上げる尾根の上が平らになって青空が増えていた。
 ついに、野塚岳北尾根が伸びてきてさらに先の1225mピークまで続く尾根との分起点となる、1151m地点にたどり着いたのだ。 
 風紋が作る小さな雪原のかなたに、南日高の山々が立ち並んでいた。(写真下)



 写真左から、南日高を代表する名峰、楽古岳(1472m)に十勝岳(1457m)そして二つ重なり並んだオムシャヌプリ(1379m)、さらに写真には写っていないが、すぐ近くには野塚岳の頂上ピーク(1353m)も見えているが、残念なことに少し雲がかかり始めていた。
 野塚トンネルそばの駐車場を出てから、2時間半がたっていた。
 あと2時間ほどで、野塚岳頂上には着くだろうが、明らかに先ほどの快晴の空からあっという間に雲が広がってきていたし、展望派の私としては、そんな中、今から頂上に向かう気などなかった。

 あとは、この雪山の展望を思う存分楽しむだけだ。
 私は、誰もいないこの分岐点の尾根で、45分余りを過ごして、雪山の眺めを楽しんだ。
 そして、すっかり雲の増えたトヨニ岳を正面に見ながら、登ってきた雪の尾根を下って行った。
 下りだからということもあり、さらには自分の登ってきた足あともあって歩きやすく、1時間余りで下ってきた。
 家に戻る途中で温泉に寄って、冷えた体を温めて、その湯気の向こうにあの青空の下のトヨニ岳の姿を思い浮かべた。
 
 頂上に登らなくても、それに見合うだけの眺めがあれば、私の山登りとしては目的を達成したことになるのだ。
 あくまでも、私だけの、”趣味としての山登り”なのだから。

 さて、今日の夕方、降り積もった雪の中を散歩してきた。
 山々は見えなかったが、周りの雲が赤く染まっていた。
 それでも、また明日も雪の予報が出ている・・・”東京でも大雪”というニュース画面が映し出されていた。 


モノクローム

2018-01-15 22:51:32 | Weblog




 1月15日

 強い寒波の襲来で、北陸地方を中心にして、平年の数倍にも及ぶ積雪があったとのことで、様々な被害はもとよりのこと、これからも続く、雪国の人たちの苦労が思いやられる。
 この九州北部の平地の市街地でも積雪になり、山間部にあるわが家周辺でも15㎝ほどの雪が積もった。
 気温も毎朝ー7度まで下がっていて、窓ガラスは凍りつき、そのまま昼間もマイナスの真冬日になって、暖房設備が十分ではないわが家だからこそ、その寒さもこたえるのだが、しかし一方では、雪山に登る時の寒さは覚悟しているから、それほどつらくはないという変な理屈もあるのだ。
 だからこそ、そうした雪国の人たちの御苦労には申し訳ないという思いもあるのだが、私たち雪山ファンにとっては、今こそが待ちかねた季節でもあるのだ。

 気温が下がったうえに、風雪による積雪があれば、九州の高い山(大体1500m位以上)では、風紋や”えびのしっぽ”にシュカブラなどの、雪氷模様を十分に楽しむことができる。
 確かに、北海道や北アルプスなどの高山帯での、大規模な雪氷芸術には及ぶべくもないが、この九州でも、部分的な範囲ではあるがそれなりに、冬山の景観を楽しむことができるということだ。 
 もっとも今までに、私が目にした雪氷芸術光景の中で、最大のものは、ここでも何度も取り上げたことのある、あの蔵王の樹氷で有名な地蔵岳から、熊野岳(1841m)そして刈田岳に至る稜線上のものである。(’14.3.3,10の項参照、とは言っても、北海道や北アルプスでは、12月から2月までの厳冬期を除いての、いわゆる初冬期や春山に登って見たものだけだから、あまり大きなことは言えないのだが。)

 今回、雪が降り積もった後に、私は天気予報と空模様に目を凝らして、山に行く機会をうかがっていた。
 というのも、九州の山だから、晴れて気温が高めになれば、それらの雪氷芸術はパラパラと崩れ落ちてしまうからであり、もっとも青空が広がる背景があるのが望ましいから、できればそうした雪氷状態が保たれている、風雪直後の、晴れた天気の朝、早いうちから登りたいのだが。 
 ただし、本当に鮮やかな配色模様の写真を撮りたければ、朝夕に赤く染められた山々の姿が一番であり、そうした時をねらって山に行くべきなのだが、未明のころや夕闇迫る中、ただライトを頼りに下を見て歩くだけの登山がはたして、という思いが展望登山派の私にはあり、その上に、最近とみに根性なしのグウタラじじいになってきてからは、そうした夜討ち朝駆けも次第にできなくなっており、さらには相も変わらず、昔のままのはっきりくっきりの絵葉書写真が一番だと思う、私の低劣な美的感覚ゆえのことでもあるのだろうが。

 さてそうして、前回書いた地元の山に登った時と同じように、雪が降った後の空模様を、いつ晴れてくれるのかと、じりじりと焦る思いで待っていたのだが・・・。

(この後、3時間ほどかかって大半の記事を書き上げて、下書き保存しようとしたところ、最近たまにあるのだが、突然ネットにつながりにくくなって、ブログ会社側からの通信がありませんと出て、そこでそれまでの3時間分の原稿が一気に消えてしまい。もうただ唖然とするばかりで、この年寄りには、再び思い返して書く気力はありません。以下概要だけを記して、あわせて写真だけは、記載することにします。)

 やがて、家から眺める一面の曇り空に、少し青空が見えてきたので、思い切って山に行くことにした。
 山道は全線が圧雪アイスバーンで、牧ノ戸峠駐車場はすでにいっぱいになっていたが、かろうじて手前の空き地にクルマを停めることができた。
 アイゼンをつけて歩き始めた遊歩道の両側は、霧氷(樹氷)の花盛りできれいだったのだが、何しろ雲が垂れ込める一面の曇り空で、モノトーンの道は異次元世界を歩いているようだった。(写真下)
 



 もう昼に近く、これから登る人よりは下りてくる人たちばかりに出会ったが、その中でも若い人たちが多いのには感心した。
 この若い世代の人たちが、今のうちから山に親しみ、さらに自分たちの周りの、自然保護へと意識を高めていってほしいと願うばかりだ。
 途中のナベ谷の源頭部は、秋の紅葉もきれいなのだが、冬の霧氷(樹氷)もきれいだ。しかし残念なことに、日も差さない暗い空のもとでは、全くの白黒写真にしか見えないのが残念だった。(冒頭の写真)

 扇ヶ鼻分岐から、西千里浜に出ると、吹きつけるガスの中で、先ほど脱いだ厚手のフリースを、再びジャケットの下に着こむが、その時の手先がすぐに赤くなって、がまんできなくなるくらいに気温が下がっていた。
 その時、上空に青空がちらりと走り、星生山(ほっしょうざん、1762m)の山影が見えたのだ。
 これは期待できるかもと西千里浜に向かい、途中で何度も立ち止まり、さらには星生崎(ほっしょうざき、1720m)下の岩塊帯トラヴァース道の途中で待っていると、その時、まさに乾坤一擲(けんこんいってき)の瞬間で、目の前に、肥前ヶ城の広い台地上の頂が見え、さらに振り向いた反対側には、星生崎の岩峰が青黒いまでの北側の空を背景にして、高くそびえ立っていた。(写真下)





 さらに、その青空は西から東に流れ、私が思わず声をあげた次の瞬間、ほんの二三秒の間だけだったが、この九重山群の盟主、久住山(1787m)の姿が見えたのだ。(写真下)
 しかし、山々はまた雲の中に隠れてしまったが、ともかくもう一度あの一瞬に望みを抱いて、この岩塊のトラヴァースの道をたどり、コルに着いて、そこからいったん下の避難小屋まで下りて、何も見えないだろう久住山頂上へというコースはあきらめて、この星生崎下の先端にある岩影の所まで行って、そこで風を避けながら待つことにした。
 そこからは、晴れていれば、正面に久住山が見え左に天狗ヶ城と中岳が見えさらに三俣山がのぞき、振り向いた正面には星生崎の岩峰が覆いかぶさるように見える所なのだ。
 しかし30分近く待っては見たが、もう久住山が見えるまでに晴れることはなくて、あきらめて戻ることにした。
 帰りの道でもう一度青空が出てはくれないかと、たびたび上空を仰いで見たが、むしろ暗い雲が厚みを増してくるようだったし、さらに向かい風になって寒さが身にしみてきた。
 晴れていれば、背景の青空との鮮やかな対比が美しい霧氷(樹氷)も、相変わらずの変わり映えのしないモノクロームの映像だった。

 昼前に出て夕方前に帰り着いた、わずか4時間余りの雪山トレッキングだったが、これはいつも晴天登山を目指している私にとっては、最近では珍しい失敗登山になってしまった。
 家に帰り着いて、いつものようにカメラをテレビにつないで見たのだが、そこに映し出された画像一覧を見て、一瞬目を疑ってしまったのだ。白黒写真ではないのかと。
 高校生のころ白黒フィルムで撮ったものを、今になって、スキャナーにかけてデジタル映像化した時に見たものと同じではないか。
 何たることか。しかし、その一覧の終わりの方になって、ようやく青空の写った10カットほどの画像が出てきて、やっと今日の山行の時のものだと理解したほどだった。
 
 この日の登山は、確かに失敗登山ではあったが、これが無駄なものだったとは思わない。光がないことで、雪の風景がかくも変わることを改めて強く感じさせられたし、この日は、白黒写真の日と記憶することになるだろう。
 誰にとっても、人生に、無駄だったと言えるような時間など、ありはしないのだ。
 さらに言えば、この不気味なる光のないモノトーンの世界こそ、実はあの「古事記」にも出てくる神話の世界の、天照大御神(あまてらすおおみかみ)が天岩戸(あまのいわと)の岩屋に隠れて、世界中が闇に包まれたという話を思い出すが、それはつまり、今日の山の天気ような不気味な暗い空の日が続いて、当時の古代の人々が困り果て、その神話の世界の中に原因を見つけようとして、日ごろからの悪行を戒める意味でも、乱暴者の須佐之男命(すさのおのみこと)を引き合いに出したのではないのか、と考えられるのだが。

 さらに断片的なことになるが、途中で霧氷と樹氷の違いについても考えてみたのだが、一般的には、水蒸気が風に吹き付けられ立ち木に付着してできものや、あるいは川辺から立ち昇る水蒸気が樹々に凍りついてできたりしたもの、それら雪氷状のものをすべて霧氷と呼んでいて、あの蔵王や八甲田でスノーモンスターという名前がつけられている、巨大な雪氷像を、樹氷と呼んでいるようだ。
 しかし、字面(じづら)から言って、私としては、水蒸気などが付着してできた半透明の氷状のものだけを、霧氷だと思いたいし、一方で吹きつけた雪がもとで”かき氷”状に発達していったものは、樹氷と呼びたいのだが、ただその樹氷がさらに発達して、木々をすべて覆うほどになったものは、樹氷塊(じゅひょうかい)という新たな名前をつけたらとも思うのだが、それは、いかにも私みたいなじじいが考えつきそうな、あまりにも格好悪い古臭い呼び名でしかなく、支持されないのは目に見えているのだが・・・。

 さらにもう一つ、天気についてだが、この曇り空の山行の次の日は、九州中で福岡県を除いて快晴のマークが出ていて、気象庁の天気分布予報図でも、高気圧に覆われる九重山域は、晴れのマス目で覆われていて、もしその通りの天気なら、今日と同じコースをもう一度登りなおしてみたいと思っていたのだが。 
 ところが、翌日の天気は、朝から曇り空で、日中も時々薄日が差すくらいの天気で、青空が見えることもなく、山に行くのはあきらめたのだ。
 しかし、前日の衛星画像からもわかるように、西の方から高い空の雲にせよ、大きな雲の塊が近づいてきていたのだから、本来は朝になってからでも遅くはないから、天気予報を修正するべきだったのに、現にある民放の天気分布予報では、朝から九重山域を含めて九州中北部は曇り空の色に変わっていた。
 天気予報は、年々その精度が上がってきていて、十分に信頼するに足るものなのだが、そのことを理解したうえで言いたいのは、気象庁は予報だけ出せばいいというものではなく、もし予報がはずれた時には、何もそれをとがめるつもりなど毛頭ないのだが、一般の天気情報愛好家のためにも、せめて一日の終わりに、予報がはずれた原因などを説明してくれることがあってもいいと思うのだが・・・。

 さらに、今回消えた原稿には他にもいくつかのことを書いていたのだが、忘れてしまったものもあり、また書き直すのも面倒で、このあたりで終わりにしたいが、田舎に住んでいると、こうしたWi-Fi通信不安定の状態もあり、都会で光ケーブルを使ってサクサクとパソコン作業をしている人たちから比べれば、あの兎と亀の数式のように、永遠に近づけない距離があるような・・・、しかし、われら田舎者には、いつも周りにいっぱいの自然があるのだ、どや。
 それにしても、こんな時間までもかかって、原稿を書き直して、ああ疲れた。バカじゃないの。


 


霧氷の尾根道

2018-01-08 21:02:47 | Weblog




 1月8日

 ようやく、山に行ってきた。
 前回の、紅葉時期の最後の登山(11月20日の項参照)から、なんと2か月も間が空いたことになる。
 もっとも、最近では、特に年を取ってからは、ものぐさじじいの本性が出てきて、ふくれあがってきた腹鼓(はらつづみ)叩いては、”人間~五十年~下天のうちをくらぶれば~”などと、いかにも世の中を悟りきったような、エセ隠者のまねごとをしたりして、どうにもわれながら始末に負えない、わがままじいさんになったものだと、”反省猿”ならぬ、”反省じじい”としての、しかしながら、相変わらずのぐうたらな毎日を送っていたのであります。

 そんな、わがままじじいにも、ふと自然の呼び声に相応えて、きっと天空を振り仰ぎ見る時があるものでございます。
 そう、それは数日前にこの冬初めてといってもいいような、5~6㎝の降雪があって、翌日は全九州的に晴れマークが出ていたからなのでありますが。
(それまで、12月初めに二度ほど降った雪は、わずか1~2㎝ほどのうっすら積もったぐらいのもので、とても喜び勇んで雪山に出かけていくというものではなかったのだ。)

 とはいっても、物事はいつも自分の思い通りにはいかないもので、つまりその日は休日であり、同じように雪山を待ちかねていた人々で、九重の牧ノ戸、長者原などの登山口駐車場は一杯になることだろうし、ここは九重をあきらめて、いつもの地元の山に、家の裏山に登ることにしたのだ。 
 さらに、全九州的にお日様マークいっぱいの好天の予報だったのだが、朝から風が強いのはともかく(霧氷の生成条件としてはいいのだが)、まだ雲が多くて、展望登山が第一の私としては、なかなか出かける気にはならない。
 (九州の天気予報は、海に面した所に各県庁所在地があるために、それらの都市を中心にした天気予報が出されていて、全九州的に晴れマークがついていても、内部の山間部では、雲の多い天気だったということが良くあるのだ。
 つまり、詳しく見るには各県ごとの細かく地区割りされた天気予報を見るしかないのだが、そういう時に役に立つのは、気象庁の天気分布予報図であり、小さいマス目として各地域の天気変化が表示されるので、天気予報の確率としてはより確かなものになるが、もちろんそれでも、その分布予報図通りにはならないこともよくあるし、やはり、その日その日の天気は、運まかせの部分がどうしても出てくることは仕方ないことかもしれない。

 そうこうして天気を待っているうちに、1時間2時間と時間は過ぎていくが、焦ることはない。  
 そこが地元の山のいい所であり、昼過ぎに登っても楽に夕方までには帰って来られるからと、じっくり構えて、何度も空模様を見ては、やがて西の空の雲が少なくなってきたのを確かめてから、家を出たのだが、もう11時にもなっていた。
 何の標識もない登山口の駐車場所までは、家から歩いても1時間ぐらいで行けるので、少し前までは、時々歩いて行っていたのだが、寄る年波とぐうたらさには勝てずに最近では、すっかり登山口まで車で行くようになってしまった。 
  
 両側に雪の残る林道を歩いて行き、いつものコナラやヒメシャラなどの木々の林の中をたどって行く。 
 林の中にまだらに残る雪と、その樹々の枝模様をはっきりと見せてくれる青空があり、時々私が雪を踏みしめる靴音が聞こえているだけで、静かだった。
 暗い杉林から再び明るい林の中を通って、すっきりと青空の広がる、カヤトの山腹に出る。 
 その斜面には、所々にアセビやミヤマキリシマの株があり、さらに葉を落としたリョウブやノリウツギなどの木には、びっしりと霧氷がついていて、背景の青空と相まって光り輝き、これこそ冬の低山歩きの楽しみなのだと、ひとりうれしくなってしまう。(写真上)

 上空には青空も広がってはいたが、まだ流れゆく雲も多く、周りの風景も日が差したり雲で陰ったりと目まぐるしく変わっていた。
 しかし、次第に風も収まってきていて、辺りの景色をカメラに収めながら、十分に雪山歩きを楽しむことができた。(写真下)


 雪は5㎝から10㎝ほどで、もともと岩場もない草山だから、夏用の軽登山靴で登っていても何の問題もなかった。
 過去には、この山でも30㎝以上も雪が積もって、ラッセルしながら登ったこともあるが、その時でも冬用登山靴にスパッツをつけただけで、アイゼンも使わなかったが、九州の低い山ではいつも湿った雪のことが多いから、むしろ下り坂で、土の表面だけがぬかるんで滑りやすく、軽アイゼンがあったほうがいいのかもしれない。
 さて、なだらかな草山の稜線をたどって行くと、下りてくる人がいて、さらに下りの時にはまだ登ってくる人もいて、併せて数人もの登山者に出会ったが、この山ではいつも誰とも出会わないことのほうが多いのに、この時は、正月休みから成人の日の3連休という休日続きの日だったからかもしれない。 
 頂上からの眺めは、残念ながら、晴れている割にはあまり良くはなかった。
 まだまだ雲が多いうえに、空気もなぜかもやった感じで、遠くに見えるはずの九重山群や他の山々も、かすんでいてかろうじてその輪郭が見えるくらいだった。

 下りは、余り整備されていないもう一つの南尾根の道を下って行ったが、まだまだ霧氷をつけた樹々もあって、青空と氷の織りなす見事な冬の景色に、思わず立ち止まることも多かった。
 ただ、この道の末端部は、数年前までは歩けないほどに荒れていて、ササやカヤが背丈以上に生い茂り、道に迷うこともしばしばだったが、その後一度、別の測量目的でササ刈りされていて、一応問題なく通ることはできていたのだが、今回歩いてみると、確かに通れるにしても、ササ刈りされた後のササの芽が次第に伸びてきており、数年後にはまたあのうっそうとしたササヤブに戻ってしまうことだろう。
 もっとも、いつも静かな山に登ることが好きな私には、そうして、登山道が消えて行ってしまうことを、それほど残念に思うわけではないのだけれども。 
 つまり、そんな道でも、晴れた日に方向を確かめながら、あるいは地図と磁石で方向を確かめながら、特に足元に注意して慎重に行けば、苦労したぶん新たな発見もあって、そうしたヤブ山歩きもまた楽しいものとなるのだから。

 頂上からわずか1時間足らずで、クルマを停めていた所に戻って来た。 
 登りには2時間近くもかかっていたが、併せても3時間ほどの雪山ハイキングで、あまり疲れることもなく、”年寄りの冷や水”みたいな無理な鍛錬(たんれん)登山ではなく、こうしたほど良い山歩きこそが、今の私にはふさわしいものなのかもしれない。
 
 家に戻って早めに、風呂に入る。 
 温かいお湯が体を包んでくれる。 
 大きなため息を一つ、幸せだなあと思う。 
 いつも山から戻ってきて、家の湯船につかっている時の、何とも言えない充足感・・・。
 それは誰かと競い合い、勝ち取ったからというものでもなく、多くの人の中から選ばれて、名誉ある位置にいるからというのでもなく、誰かに見てもらい知られるためのものでもなく、ただ、今日自分が成し遂げたことに対する、湧き上がってくるような喜びで、つまり、自分が生きているということに感謝する喜びだからなのかも知れない。


 昨日テレビを見ていたら、ある北海道在住の若い冒険家が、日本人で初めての単独無補給の南極点到達に成功したというニュースが流れていた。
 とても、私の小さな草山ハイキングとは比較すらできない、大きな冒険旅行ではあるが、その底流に流れる思いには、何か小さな共通点があるような・・・。
 そして、私にも若い時があったのだと思う・・・。

 あの灼熱のオーストラリアの砂漠の中、生きているものの気配一つ見えない中、ひたすらに続いている道のかなたに、あの地平線の向こうに、生きている私が見ることのできるものがあるのだと・・・。 

 大きな丸太を、ただ自分の力だけで、誰の手も借りずに、一段一段と積み上げていき、やがて一番上の棟木(むねぎ)に垂木(たるき)を通して下地のコンパネを打ち付けていくと、屋根の形が出来上がり、ついに一棟の家の形が見えてきたのだ・・・。

 八ノ沢をさかのぼり、八ノ沢カールから、雪の斜面に一歩ずつステップを刻みながら、カムイエクウチカウシ山の頂上直下にたどり着き、そこにテント張って迎えた朝の光の中、ぐるりと周りを取り囲み続いていた、日高山脈の峰々・・・。

 すべて、誰かと競ったものではない。
 すべて、自分の心のうちで決めたものを、ひとりで実行しただけのことだ。 
 すべての問題は、自分で解決しなければならないし、すべての結果、責務は自分にあり、決して誰かのせいではなく、すべては自分の咎(とが)に帰するものなのだ。

”クロードは心の中で叫ぶ。・・・冒険ってものは、世間の奴らが考えているような逃避じゃない。それは追及なんだ。”
”彼は冒険を夢の糧とする人間を知っていた。・・・また彼は、冒険が、希望の炎を燃やすところの刺激の手段であることも知っていた。しかしそのむなしさも忘れなかった。”
’”死の支配の理念・・・地上からは消え去る?そんなことはちっとも問題ではない・・・たとえ勝利を勝ち得なくても、いつでも戦うことは辞さないだろう。・・・しかし、おのれの生のむなしさを、癌(がん)にさいなまれるように、受け入れながら生きることは・・・一生、死の冷や汗を掌(てのひら)に感じながら暮らすことは・・・彼にはとうてい耐えられないことだった。”
”・・・未知への探求、一時的にしろ征服、被征服の関係を打ち破ること。こうした経験を持たない人間たちは、それらを冒険と呼んでいるが、しかしこれが死に対する防御でないとしたら何であろう?”

(『王道』アンドレ・マルロー著 小松清訳 世界名作全集36 筑摩書房) 


いやしけ吉事

2018-01-02 22:19:05 | Weblog

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 1月2日

 10年前、北海道は十勝地方の一隅にある、小さな丸太小屋で、私は正月を迎えていた。
 外の気温は、たびたび-20度を下回る日もあったけれども、家には家全体を温めてくれる、しっかりとした薪(まき)ストーヴがあったので、外に出ない限りそう寒くはなかった。(外にあるトイレに行く時は大変だが。)
 畑を区切って立ち並んでいる、カラマツの防風林に、朝日が当たり始めた。(写真上) 
 それらの木々の、すべての小枝に、白い霧氷がついていた。
 背景に青空があり、木々の間に遠く、白い日高山脈の山々が見えていた。

 やがて、朝の一仕事を終えて、日差しの暖かさがいくらか感じられるようになってから、私はしっかりと着込んで、家を出た。
 なだらかな丘陵地帯が続く、雪の原を、私は自分の足跡だけをつけて、ゆっくりと登って行った。

  ”冬だ、冬だ、何処(どこ)もかも冬だ
 見渡すかぎり冬だ
 その中を僕はゆく
 たった一人で・・・”

 (「冬の詩」高村光太郎 現代日本の文学 第6巻 学習研究社より)

 やがて、雪の牧草地の丘の上に着く。
 ぐるりと取り囲む雪原のあちこちで、小さな雪の妖精たちが日の光を受けて、きらきらと輝いているかのようで・・・。
 そのかなた遠くに、広い青空を背景にして、白い日高山脈の山々が並んでいた。
 あれが1832峰、そしてピラミッド峰にカムイエクウチカウシ山(1979m)と立ち並び、さらに1903峰から春別岳へと続いている。(写真下)



 

 "雪、白く積めり。
 雪、林間の路をうづめて平らかなり。
 ふめば膝(ひざ)を没して更にふかく
 その雪うすら日をあびて燐光(りんこう)を発す。
 燐光あおくひかりて不知火(しらぬい)に似たり。
 路を横切りて兎(うさぎ)の足あと点々とつづき
 松林の奥ほのかにけぶる。”

 (「雪白く積めり」高村光太郎 同上)

 こうして、晴れた冬の日に、この丘の上にいて、この景色を見ていることこそが、私の願いだったのだ。
 一つの思いが、長年をかけて、現実となってかなえられた今、他に何を望むことがあろう。

 私は、いつも多くのことを望みはしなかった。
 若い日の経験から、望みのほとんどが実現されずに、いつしか望みのままに消えてしまうことを知っているからだ。
 それだからこそ、いつまでたっても望みは”望み”と呼ばれ続けるのだろうが。
 元気で今を生きていることが、その大前提にあるとしても、その中で、私はいつも、その時々に実現できる思いを一つだけ持つことにした。
 そして、今までにその多くのことが、現実のものとしてかなえられてきた。
 望みを低く持てば、そしてそのことで満足できれば、人生は、多くの小さな喜びに満ちていることがわかるはずだ。 
 あの時の雪原に、きらきらと輝いていた、雪の結晶たちのように・・・。

 現実として九州の家にいる今、私は、暮れの数日前に町まで出かけて行って、買い物をすませてからは、散歩のとき以外は家にいた。
 やるべきことはいくらでもあって、庭の掃除から、もう五度目にもなる落ち葉焚(た)きをして、家の中をあちこち大掃除したりして。   

 そして、この正月にかけては、比較的に天気が良く、少し冷え込んだ時もあったが、雪が降ることもなく、穏やかな毎日が続いていた。 
 山では、頂上部分には霧氷がついているのだろうが、おそらくは、まだ雪山と呼べるほどの十分な雪は降っていないだろうし、そんな時に、出かけていく気はしない。そのうえ、人も多いだろうからと、いつもの出不精に理由をつけて、まだ山には行っていないのだ。
 なんと、これでもう2か月近くも、山登りの間が空いたことになる。

 そのぶん、どうしてもテレビを見たり、パソコンでネット情報を見たり、本を読んだりして過ごす時間が多くなる。
 テレビでは、年末にかけて”紅白歌合戦”などの長時間の歌番組が多くあり、そのほとんどは録画して、流し見しただけではあるが。
 その中でも、長年のファンであるあのAKBについては、さすがの私もいささか熱気が冷めてきて、それは私だけでなく、ネットやテレビを見ていても盛りを過ぎた感じがしてしまい、いずれの歌番組でも、”上り坂”にある乃木坂のレコード大賞受賞と、さらに今注目を浴びている欅坂(けやきざか)との、いわゆる”坂道グループ”との差をはっきりと見せつけられたような気がした。

 それにはいろいろな要因があるのだろうが、前に何度も書いたことがあるように、私がAKBファンになったのは、まず総合プロデュサーでもある秋元康が書いている、歌詞に感心したからでもあったのだが、今ではその才能が多くのグループを作ることで分散されてしまい、最近では、じっくりと聞きたくなるような歌が少なくなってきたのだ。
 そうして今では、新しい歌をYoutubeからダウンロードして、それをCDに入れてまで聞くことはなくなってしまった。
 ただし、一年以上前に自分で作った、乃木坂とAKBの歌を半分ずつ入れたCD を、クルマで出かける時には聞いてはいるが。 

 その昔AKBが歌っていた「River」(’09)、「Beginner」(’10)、そして「UZA(ウザ)」(’12)といった時代の流れを行くような歌が、今では欅坂や乃木坂に回されてしまい、AKBには相変わらずの、一昔前からの古いタイプのアイドル・ソングばかりを歌わせているのが気になる。
 さらには、このAKBと乃木坂、欅坂の所属するレコード会社が違うことにも、関係があると思うのだが。
 つまり、昔の時代から日本の歌謡界を支えてきた老舗(しにせ)のキングレコードと、新しいソニーミュージックの、それぞれに担当する音楽ディレクターたちの、言っては悪いけれども、時代感覚センスの差が見えてくるような気がするのだが。
 
 さらには、ソニーミュージックはデビュー当時の売れないAKBを早々と見限って、キングに移籍させたとたんに、そのAKBが大ヒット曲が連続するようになり、当時、地団太ふんで悔しがったであろうソニーの意地もからんでいたからだろうが。
 バブル時期に破綻したあの山一證券社長が涙の会見で、「頑張っていた社員たちは何も悪くはないんですから」と声を絞り出して弁明したように、AKBグループの娘たちは何も悪くはないのだけれども。
 もっとも、さらには、ファンの思いを裏切る上位メンバーの娘たちのスキャンダル事件がいくつかあったことも、その人気凋落の一因になったのだろうし、そして加うるに、去年の6月の総選挙でのドタバタ劇も少なからずの影響があったと思うのだが。
 あの時、沖縄の野外会場が雷雨で中止になったことで、その沖縄にまでお金をかけて詰めかけていた、多くのファンの思いをそのことで一気に引かせてしまったことなど、運営母体の責任というよりは、自ら金の生る木の太い枝を切り落としたようなもので、そこには不注意ではすまされない危機管理能力のなさを感じてしまうのだが。
 シャープ、東芝の身売りするほどになってしまった経営危機も、同じ根元にあるような・・・。

 一転、ヨーロッパはウィーン、毎年恒例のウィーン・フィルによるニューイヤー・コンサートが今年も中継放送されていた。
 あの若獅子と呼ばれたイタリアのリッカルド・ムーティも、今やすっかり成熟した年配の指揮者になっていて、時代の流れを思わないわけにはいかないが、指揮ぶりはまだ若々しく、楽団員ともども時には彼らの音の流れのままに、楽しそうにウィンナ・ワルツを演奏していた。
 今こそ変わるべきものと、変わらぬまま続けて行くべきもの・・・。

 元日のバラエティー番組から、日本テレビ系列の「今夜くらべてみました」。
 なんとそこに、今年95歳になるという瀬戸内寂聴さんが出演されていて、さすがに足腰は弱っているようだったが、やや早口の語り口と、人生には恋愛と(自己)革命が必要だと説く、変わらぬ強い信念にただただ感心するばかり。
 90歳で亡くなった母が、生前尊敬していた数少ない一人だった。

 さて、年の初めに、改めて何かを始めようという気はないけれども、ただ今も読み続けている「万葉集」以降の日本の古典文学は面白いし、再読するものも初めて読むものもあるけれども、次から次へと新たな興味がわいてくる。 
 「枕草子」「土佐日記」「伊勢物語」「今昔物語」「平家物語」「謡曲(ようきょく、能狂言の台詞)」などなど、それぞれに新しく古い世界への眼を開かれる思いがして、なんとか元気に生きている間に、江戸時代までの日本の古典を読んでしまいたいのだが(さらには、明治時代の尾崎紅葉も一時熱中して読んだことがあるくらいだから、そこからさらに森鴎外、夏目漱石へと日本文学は続いて行くのだが)。
 ともかく年寄りになって、改めて見つけたこの日本古典文学の宝の山、何とかねちねちと楽しみながら読み続けていきたいものだ。
 山登りは、年を重ねるごとに体力気力が衰えてきたのだが、読書の方は、近眼老眼ともにあるけれども読むことに困ることはなく、死ぬまで続けるとすれば、こちらのほうが実現性は高いのだろうが。
 そう簡単にくたばってたまるかと、この偏屈で気むずかしいじいさんは思っているのであります。

 まあ年の初めだから、あまりにもよく知られた歌だが、やはりこの一首をあげておくべきだろう。

 “新しき 年の初めの 初春の 今日降る雪の いやしけ(重なり積もれ)吉事(よごと)”(大伴家持)

(『万葉集』巻第二十 4516 伊藤博訳注 角川文庫)

 今日、雪は降っていないけれど、その代わりに、夜、いつもよりは大きく見える満月の月が、こうこうと輝き、雪のように白く辺りを照らし出していました。