ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

それぞれの生きる道

2017-08-28 21:15:57 | Weblog



 8月28日

 気温が低く、曇りや小雨の日々が続いて、それは二週間近くにもなったのだが、数日前から、ようやく青空が広がりはじめて、気温も30度を超えるまでに上がり、まるで、内地の梅雨明けの夏が来たかのようだった。
 そして、今年もまた、わが家へと続く道端に、いつものオニユリの花が咲いていた。(写真上)
 それまでつぼみのままだったのに、この天気に合わせて花開き、2mほどにも伸びた茎の下の方から、毎日二三輪の花を咲かせてくれている。遠くから見てもすぐにわかるほどに、そこだけが昼間のかがり火のように明るいのだ。

 この数日の暑い天気は、二度目の夏とでも呼びたいほどだった。
 私が用事があって九州に戻っていたころ、7月の半ばには、この北海道の十勝地方は、連日猛暑日が続いていて、37度もの気温を記録していたのだが、もちろん今は、それほどまでの暑さではなく、朝夕の涼しさは北海道ならではのもの。
 
 それまでの不順な天候続きの後に、ようやくこうして、いつもの暑い夏が来たのだから、私が外に出ると、待ちかねていたかのように、アブや蚊たちがわっと集まってきて、Tシャツから出ている腕のまわりや首筋を刺してくる。
 もちろん私は、あの偉い聖人たちのように、こんなじじいの血でよければと、吸われるがままにしておくことはできないから、そのうちの何匹かはピシャリと叩きつぶすのだが、どうしてもどこかは刺されてしまう。
 その後が、めっちゃ、かゆーいのだ。
 
 相変わらずに、庭の草はぼうぼうに繁ったままで、その草刈りどころか、わずか5分ほどでも外には出たくないのだが、一日のうちには、どうしても何度かは外に出なければならない。
 それも、家の中にトイレのないわが家だから、小用はそこらあたりにまき散らしているのだが、その間にも蚊やアブはやってくる。 
 ヤツは両手を使っているから、今なら大丈夫だと知っていて、寄ってくるのだ。
 私も、その蚊やアブたちに、何をむざむざと血を吸わせてなるものかと、片手を離して応戦する。
 小さな放物線を描いて出ていた水流は、大きく乱れ、時には自分の着ているものにさえ降りかかる。あちゃー。

 まったく、周りに人がいないからいいようなものの、もし人が見たなら、シッコしながらなんで踊っているのだろうと思うことだろう。
 人の行動は、不思議に見えても、必ず何かの理由があるものなのだ。

 一方の蚊やアブたちにしても、考えてみれば、自分が叩かれ殺されるかもしれないとわかっていても、その思い以上に、本能が彼ら彼女らを突き動かして、巨大な栄養倉庫である人の体へと向かうのだ。
 つまり、おもに人を刺しに来るメスたちは、卵を産むためには、どうしても人間たちの栄養豊かな血が必要なのだ。 
 その栄養を取り込んで、ギンギラの活力に満ちた体になった彼女らは、やがて小さな水たまりに卵を産んで、それがボウフラになり、やがては蚊へと羽化していくことになるのだ。
 死の恐怖以上に強い、次世代へと託す生の本能・・・それが、人間を含めて、すべての生物たちに共通する種の絆という本能なのだろう。

 昨日放送されていた、日本テレビ系列の「24時間テレビ」を見ていて、そのことをまた感じさせられた。
 もちろん、番組のすべてを見たわけではなく、テレビをつけた時にところどころ見ただけでではあるし、時にはいささか鼻につく感動仕立ての構成に、チャンネルを変えてしまうこともあったが、その中でも例の人気シリーズ「はじめてのお使い」で、目の不自由なお母さんの代わりに、4歳の女の子が何の不満も言わず(4階までの階段を登って家に帰るのさえ大変なのに)、忘れものためにまたお買い物に行きなおして、その帰りを両親と少し上のお兄ちゃんとで心配しながら見守っているシーンに、家族の思いがあふれていた。
 そのお兄ちゃんの、幼稚園の七夕の短冊飾りには、”おかあさんの目がよくなりますように”と書いてあった。

 さらにもう一つのエピソードから・・・、駅のホームで貧血になり気を失って転落し、走ってきた電車にひかれて、左足ひざ下を失ったスポーツ万能だった女子高生は、それでもあきらめずに、義足をつけてアーチェリーでのパラリンピック出場を目指していて、同じ障害者たちを励まそうと、北アルプス槍ヶ岳登山に挑戦する。
 私は、この槍ヶ岳には十度近くも登っているのだが(’11.10.16,22の項参照)、岩場での恐怖心さえ抱かなければ、そうむつかしい山ではなく、十分なサポートがあれば小学生でさえ登れるくらいなのだ。
 ただ、行き帰りに三日もかかるような長距離に、そして負担のかかる下りに、義足で耐えられるのだろうかと心配したのだが・・・頂上に着いた彼女の笑顔がすべてを物語っていた。

 そこでふと思い出したのは、一か月ほど前にNHKテレビで見た短い番組、”みちのくモノづくり”に出ていた、ひとりの年寄りの旗指物(はたさしもの)師のことだ。
 大震災の年でも、途切れることなく開催されてきたあの”相馬野馬追”の祭り、そこに出場する騎馬武者たちの姿を飾る幟(のぼり)の旗、その旗指物を作る82歳の男の話だ。
 それまでは、10年前に息子に三代目を譲って仕事のほとんどを任せていたのに、去年その息子が突然の急病で亡くなり、やむを得ずに再び仕事に復帰して、大切な過程である旗指物を川面にさらす”友禅流し”の時などは、息子の嫁に手伝ってもらったりして、不自由な老齢の体で仕事を続けているのだが、”野馬追というのはただの祭りではない、絆だ”と言うその目には、自分の仕事への強い誇りが感じられた。
 そして、仕事をしながら彼がつぶやいた言葉、”仕事ができるうちは生きているということだから”・・・。

 私は、深く感じ入ってしまった。
 それは、何と簡潔直截(ちょくさい)に胸を打つ言葉だったことだろう。

 生きているから働くのであり、働いているということは、とりもなおさず生きているということなのだ。
 ずいぶん前のことだが、これもまたテレビで見た話なのだが、ガンの宣告をされた医師が、冷静に自分の余命期間を聞いて、何をしたかというと、その日が来るまで今まで通りに、患者を診察し手術をこなして、やがて亡くなってしまったということなのだが、それが一つの美談として取り上げられていて、その時、私はそうではなく、彼は他人のためではなく、結果的に他人を助けたことになるのだろうが、むしろその時間を自分が生きるために、仕事を続けることを選択したのだと思ったのだ。
 つまりそれは、彼にとって何かいいことをしようとしたのではなく、天命のままに、生きてる限りはしっかりと仕事をして生き続けたということであり、私はその彼の、人間としてあるべき、生きるという強い意志に感心したのだ。

 私の北海道の友人達は、それぞれに皆、サラリーマンでいう定年退職の年を迎えているのだが、誰一人として今の仕事をやめようとはしていない。
 余計な理屈や説明などはいらないのだ。ただ、働けるうちは働くということが、人としての生き方なのだから。

 以下、何度かここにあげてきた言葉だが、こうしたことを書くときにはいつも思い出してしまうのだ。

 ”お前がどのような運に生まれついているにせよ、働くにしくはない、
  ・・・
    労働につぐに労働をもってして、たゆみなく働くのだ。”

(『仕事と日』ヘーシオドス 松平千秋訳 岩波文庫)

 ”華佗(かだ、後漢の時代、紀元2~3世紀の医者)が言に、人の身は労働すべし、労働すれば殺気消えて、血脈流通すといえり。およそ人の身、欲を少なくし、時々身を動かし、手足をはたらかし、歩行して久しく一所に安座せざれば、血気めぐりて滞(とどこお)らず、養生の要務なり。”

(『養生訓』貝原益軒 伊藤友信訳 講談社学術文庫)

 それなのに、私はひとり、ぐうたらな毎日を送り、ひとり生き続けているのだ。
 何という、不条理だろうか・・・。

 家の林のへりに沿って咲いている、オオハンゴンソウの花が盛りを迎えている。(写真下)
 死者をよみがえらせるという、あの反魂香(はんごんこう)からその名前を付けたとされている、外国種のキク科の花であるオオハンゴンソウは、その名の通りにお盆の前から咲き始めて、今が盛りになっている。
 その数ほどに、私の知っている亡くなった人たちがいて・・・いつかは・・・。

 クルマで道を走っていると、さらにもう一つの別の外来種である、もっと色の濃いアラゲハンゴンソウ(キヌガサギク)も咲いていて、道の両側が黄色のベルトになって続いている・・・十勝の秋だ。




 
   

 


雄心もなき

2017-08-21 21:21:57 | Weblog



 8月21日

 二日前、いつもの曇り空の朝から、青空が広がり始めて、またたく間に快晴の空になった。
 この二週間余りで、初めての、気持ちよい晴れた一日だった。
 と喜んだのもつかの間、昨日今日と、再び重たい曇り空に戻ってしまった。
 雨の日が続くわけではないのだが、青色が見えない空はどこかやりきれない思いになる。
 家の前の、緑に繁る牧草畑から、穂先が黄金色に色づいてきたデントコーン(飼料用トウモロコシ)畑へと続く、その上には、いつもなら日高山脈の山々が見えるのだが、もう何日も見ていない。(写真上)
 
 オホーツク海高気圧の張り出しの中、その南東部に位置する北海道の道東から、東日本の太平洋側に位置する仙台、東京などでは、同じようにぐずついた天気が続いているらしい。
 ただ気温が低く、涼しいのはありがたいが、もっともそれにも、日照不足による農作物への悪い影響もあるし。
 その天気のこともあってか、気質的に”お天気屋”な私にとってみれば、どうにもこうにも何をするにも気分が乗らずに(歳のせいかもしれないが)、さらにはもう1か月以上も山に行っていなくて(そのためか山の夢ばかり見ては)、ただ相変わらずに、ぐうたらな毎日を送っているだけのことなのだが。

 そこでふと、万葉集の中にある一つの歌を思い出した。

 ”天地(あまつち)に 少し至らぬ ますらをと 思いし我や 雄心(おごころ)もなき”

(『万葉集』第十二巻 2887 伊藤博校注 角川文庫)

 もちろんこの歌は、恋歌であり、娘に恋している自分の気持ちを、”自分は、天地の広がり程に、いやそれには少し足りないかもしれないが、それほどまでの気骨を持った男だと思っていたのに、あの娘のことを思うともう目はハートマークになってしまい、だらしない様(さま)になってしまう。あの勇猛果敢(ゆうもうかかん)な自分は、もうなくなってしまったのか。”と表現しているのだ。
 同じように、こんな私でも、若いころには、そういうふうに思いが募っていく、幾つかのひたむきな恋をしたことがある。
 そして、そんな恋のさなかにある時は、いつもの男友達の前では決して見せない、”ますらお”の雄心とは違う、もう一つのふぬけな私の姿があったはずだ。
 月に向かって”ワオーン、ワンワン”。
 そう意味で、この歌は、恋する男の気持ちを見事に言い当てているともいえるのだが。

 しかし、よれよれのじじいになりつつある今の私は、そうした恋の歌ではなく、壮年の自分と老年の今の自分との対比の歌として、ふと思い出してしまったのだ。若いころに、初めてこの歌を知った時に感じた思いのように。

 その昔、道もない日高の山の頂きを目指し、ただ一人、沢をさかのぼって行ったことが何度もあったのだが。
 それは、危険や不安な思いよりも、冒険心や期待の憧れのほうが勝っていたからでもあり、さらに、そのころはまだ若く、十分な体力に裏打ちされていた自信があったからでもあったのだが、こうして年を取ってきた今、まず基礎的な体力が落ちてくると、おのずから危険と不安な思いは増幅されていき、それが未知なるものへの冒険心や期待の思いを凌駕(りょうが)するようになり、もう出かける気さえなくなってしまって、こうして年寄りは、自ら年寄りになるべく追い込んでしまうのだろう。

 それだから、上にあげた万葉集の歌は、そうした年寄りの嘆きの歌として、理解できないこともなく、最近とみに引きこもりじじいになっている私には、自虐(じぎゃく)的な歌として、思い出されたのだ。 
 昔は、天地の境まで自分に登れない山はないとさえ思っていたのに、年寄りになりつつある不安に駆られると、もう若い時のような猛々(たけだけ)しい気持ちはなくなってしまい、万葉集の一つの歌さえも、自分の年に合わせて解釈してしまうようになったのだ。

 こういうふうに、他人の作品を、自分になりに勝手に解釈することもできるのだから、作家が生み出した作品そのものに、懇切丁寧(こんせつていねい)な説明が付けられていない限りは、すべての芸術作品には、受け手側それぞれが、その作品を見て読んでは、あるいは聞いては感じとることのできる解釈の幅があり、そうした自分の世界観を反映させる受容体があるがゆえに、共通理解項目としての芸術作品が存在するのだろう・・・。

 そういえば、数日前に、定期番組としては今年の春に終わったはずの、NHKの『ファミリー・ヒストリー』の特別編として、あのニューヨークで活躍した前衛芸術家であり、1980年に銃殺され亡くなったジョン・レノンの妻としても有名な、オノ・ヨーコの家族の歴史が取り上げられていた。
 そして、その出来上がった番組を、今年84歳になるオノ・ヨーコと41歳になる息子のショーン・レノンが、並んで座って見ているという番組構成になっていて、二人は、自分たちの知らないことまでよく調べていて面白いと、お互いに言葉をかけあいながら、番組を見ていた。

 ヨーコの父方の家系は、九州の柳川藩士であったが、明治維新の改革で今までの碌(ろく)を十分に得られなくなり、父の協力もあって、ヨーコの祖父は当時珍しかったアメリカへと留学して、優秀な成績を収めて帰国し、金融官僚から後に日本興業銀行総裁になる。
 そして、後のヨーコの父となるその息子は、父親の跡を継いで、同じように著名な銀行家の道を歩き、当時の安田財閥の孫娘であったヨーコの母と結婚することになるのだ。
 長身でハンサムな彼と、財閥のお嬢様であった彼女との組み合わせは、まさに絵にかいたような理想の結婚だったのだ。
 しかし、太平洋戦争の悪夢はその家族にも暗い影を投げかけ、父は駐留していたベトナムに抑留され、お嬢様育ちの母は、三人の子供を連れて不便な田舎に疎開しては、家族を守っていた。 
 戦後、家族は再会し、やがて子供たちも成長して、ヨーコはニューヨーク留学の後その地で前衛芸術家になり、長男は三菱商事に勤め、次女は世界銀行で働きそれぞれの道を歩いていくのだ。

 そしてヨーコは、ロンドンで自分が開いていた個展を訪れたジョン・レノンと知り合い、結婚することになるのだが、そのレノンが作った世界中の人が知っている名曲「Imagine(イマージン,1971年)」は、オノ・ヨーコの詩集に影響を受けたものだと彼自身も言っていたが、この番組の終わりのところで、ヨーコとショーンが言葉をかけあっている背後に、あの「イマージン」の曲が流れてきた時、私は思わず胸がいっぱいになり、涙ぐんでさえしまった。 
 1980年12月、若い私は長いヨーロッパ旅行を終えて、再び出発地のロンドンに戻ってきていた。
 寒い朝だった。
 肩をすくめて歩いていた私に、新聞スタンドからの声が聞こえてきて、貼り付けられた白い紙に大きく”JOHN LENNON SHOT DEAD"(ジョン・レノン射殺される)と書いてあった。
 それまでの4か月に及ぶヨーロッパ旅行の思い出が、その時に、一気に彼方へと消えて行ってしまうかのような衝撃だった。

 ビートルズの多くの名曲とともに、私たちが知っていた幾つかのこと、メンバー間の確執(かくしつ)、オノ・ヨーコの存在、平和活動などなど。 
 40歳という若さでジョンが亡くなって、あれから37年という歳月が流れ、オノ・ヨーコは84歳になり、息子のショーンは41歳になり、すべての出来事の中で、その歴史の中心を誰にするというわけではないけれども、何人もの人々の、同時進行のサイド・ストーリーがそれぞれに流れていたわけであり、いつの時代にも、いつの時にも、その時に生きた人々さえも、そのすべてを捉えきることはできないということであり、私たちは、いつも、ほんの一部のことしか知りえないのだということ・・・。

 初めの話に戻れば、和歌の解釈でもいろいろと考えられるように、人はいつも自分の経験と知識をもとにし、自分のなりの視線でしか、世の中を見られないということなのだろうか。 
 良かれ悪しかれ、今の世の、”百家争鳴(ひゃっかそうめい)”のかまびすしい声の中に、それぞれの真実があり、それぞれの誤りがあり、それぞれの生きる姿があり・・・その混迷こそが現実の姿なのだろう。

 ところでこうして、原稿を書いている間に、昼前から見る見るうちに空が晴れてきて、すっかり青空が広がり、二日前と同じような快晴の空になった。
 気温も二日前と同じように、すぐに20℃を超えて26℃くらいにまで上がった。 
 遅ればせながら、夏が戻って来たのだ。
 前回写真を載せていたように、またヘビが屋根に上がってきたが、日差しが強すぎて(トタン屋根のヘビになってしまうから)早々に日陰に引っ込んでしまった。

 チョウもいろいろと飛んでいた。 
 その中でも、玄関先の日陰の所には、同じように暑い日差しを避けてか、ヒカゲチョウの仲間が多く飛んできてはとまっていた。
 そして、その玄関の丸太の所には、小さなアカマダラがとまっていた。(写真下)
 このチョウは、北海道にだけしかいない種であり、春に孵化(ふか)して飛び回る春型と今いる夏型があって、全く同種なのかと思うほどに色合いが違っている。
 アカマダラとは、その春型に関して名づけられたものであり、夏型はこうして地味な黒地紋様になるが、それだけに翅(はね)の白斑紋様が鮮やかに見え、何より外べりの白いフリル紋様がエレガントだ。
 さらに同種の、少し大きいだけの全国にいるサカハチチョウとの、特に夏型の見分けが難しいのだが、それは白斑紋様の並びと後ろ翅の突起だというのだが・・・。

 夕方になるまで、快晴の空は続いていたが、西の空に薄い雲が広がってきて、見事な夕焼け空にはならなかった。
 それでも全く久しぶりに、うっすらとではあるが、日高山脈の稜線が連なって見えていた。
 山に登れなくとも、何とか山が見えてくれていれば、それだけでもありがたいのに・・・どれどれ、今日も山を観る時間になったなと立ち上がり、腰を丸めたまま、じじいはひとりよたよたと歩いて行くのでした。

 彼岸の世界があるという、西の空に向かって・・・。



小さい秋と屋根のヘビ

2017-08-14 20:51:28 | Weblog



 8月14日

 何という寒さだ。
 こんな言葉を、8月のさ中に言うことになるとは。
 昨日の気温は、朝10℃で日中も15℃そこそこまでしか上がらなかった。
 ストーヴの火をつけたくなる、一歩手前の所だ。
 もうずっと、一日中フリースを着込んだままで、下も靴下をはいていないと足先が冷えてしまう。
 曇り空、時々、霧雨か小雨が降るという空模様の毎日で、一週間。

 私の好きな”お日様”は、いったいどこにいったのだろうか。
 前回書いたように、あのひどい暑さの九州からやっと逃れてきたというのに、この北海道は今、涼しいというよりは、もうそこを通り越して、秋の季節の中にあるような・・・。

 それも何度も書いていることだが、今年の夏の天気図での気圧配置が、いつもの年とは大きく異なっているためだろうか。
 今まで梅雨明けが宣言されていたのは、いつもの夏の太平洋高気圧が張り出してきて、梅雨前線を押し上げてという形をとった時が普通なのに、今年はその太平洋高気圧が弱く、逆に北からの高気圧が長く伸びてきて、九州・四国・本州を覆い、それまであった前線が消えたためだというが。
 しかし、その弱い北からの高気圧であったために、前線や低気圧が発生しやすくなり、日本列島の上では、寒い空気と熱い空気がまじりあって不安定な天気になり、豪雨被害が出たり、ピーヒャラドンドンと雷様が鳴り響く毎日になったということなのだろう。
 そうしたわけだから、この夏は、とても長期縦走の山旅を楽しめるような安定した夏空が続くことはなく、もうこのまま夏は終わってしまうのだろうか。

 そして、北海道はその北からの高気圧に近いから、道東では、太平洋側からの冷たい風が雲を呼び込んで、日高山脈と大雪山系の防波堤に区切られて、雲のたまり場になり、お日様が見えないということになるのだろう。
 この高気圧は、北海道の初夏のころに現れる、いわゆる”オホーツク海高気圧”に似ていて、下界では、雲に覆われた日が続き、日中にしばらく青空がのぞくだけという天気になり、しかし、一方の山の上は晴れていて、雲海を見ながらの、絶好の天気の山歩きを楽しめるというわけなのだが。
 しかし、今はお盆休みの混雑期で、花も少なくなっていて、とても山に行く気になんかにはならない。

 そういうわけで、ずっと家に居て、しかし、庭や道の両側の草は伸び放題で(よく繁ったものだホイ)、帰ってきてしばらくは晴れていて、いつもの(25℃くらい)暑さが続いていたが、蚊にメクラアブ、ウシアブが飛び回っていて、とても外に出る気にはならず、その後こうして天気が悪く気温は下がってきて、虫たちは少なくなってきたものの、それなのに今度は、草が雨に濡れていて草刈りガマでの刈込みがしずらくなって、結局は、ぐうたらに日を重ねていただけだったのだ。

 ただし、いつもの家の林のふちの所には、あの外来種のキク科の花である、オオハンゴンソウがいっぱいに茎を伸ばして黄色い花を咲かせ始めていた。
 それだけでも、十分に秋のはじめを思わせるのだが、その花の上に枝葉を茂らせている、ナナカマドの小枝の先が、もう黄色に色づき始めていた。(写真上の上部の小枝)
 林の木々の中でも、シラカバ類やサクラ、ウメ類ははいつも紅葉が始まるのが早いのだが、最近の冷たい空気のせいで、それが一段と進んできているようにもみえる。
 こうして、ここ北海道では、小さな秋どころか、紅葉の秋がもうやってきているのかもしれないのだ、九州・四国・西日本ではまだ猛暑日が続いているというのに。

 もう一か月もの間、山に行っていない。
 こうして、最近は、山に登る回数が目に見えて減ってきてしまった。
 特に今年は、夏の遠征登山はもとより冬の遠征登山にも行かなかったから、毎年の私の山の思い出がぽっかりと空いてしまったようで・・・それだからでもあるのだろうが、最近、山の夢をよく見るようになった。
 夢に出てくる山は、私のよく知っている山のようでもあり、初めての山のようでもあり、天気がいい時もあり、またあまりよくない時もあり、つまり私の今までの山の思い出をごったまぜにして、勝手に組み合わせたような、いくらか変なところがあり、整合性のない山歩きの夢なのだ。
 私は心理学者でもなく、自分の夢判断などできないから、その意味するところまでは分からないのだが、ただ言えることは、今私が山に行きたいと思っているということだ。

 先日、山の日(11日)にNHKで「北アルプス ドローン大縦走」という番組をやっていた。
 今まで空中撮影と言えば、ヘリコプターやセスナ型によるものが主体であり、最近ではパラグライダーによる映像も撮られるようになってきたが、あの田中陽希君によるNHKの「グレートトラバース」”百名山、二百名山踏破シリーズ”でドローン撮影が多く使われるようになり、それは彼の行動を記録撮影するためのものであり、今回の番組のように、この北アルプスのメインルートを、ドローンによる低位置から捉えて、山の表情やルートの細部までを、山岳写真家の視点から撮るというのは、今までにない試みだっただけに、実に興味深く見ることができた。
 新穂高から双六、三俣蓮華、そして戻って西鎌尾根を経て、槍ヶ岳さらには大キレットを経て北穂高までというルートを、山岳写真家に率いられた数名からなる撮影隊は、天候待機やドローン調整もあって、通常の5日の倍の日数10日をかけて縦走していた。

 私も何度かたどったことのある、大展望の広がる縦走路だが、特に大キレットの両側がすっぱりと切れ落ちた岩稜帯と滝谷(たきだに)の岩壁での、ドローンならではの近接撮影は、まるで自分が登っているような迫真の影像で画面にくぎづけになった。
 山岳映像記録の世界は、写真から始まり、動画撮影へと広がっていき、いずれもフィルムからデジタルへの変革期があったのだが、さらにこのカメラを設置した無線操縦の小型飛行体ドローンを使うことによって、山の世界は隅々に及ぶまで記録撮影することができるようになり、撮影手段の大革命の時を迎えたのだというべきなのだろう。
 私たちが今まで見ることができなかった、新しい視点位置から山を観ることができるということ、それは、他の科学の進歩と同じように、”もっと知りたい、より良くしたい”という、人間の欲望と好奇心の行き着く所の、一つの形でもあるのだろうが。

 こうして、新しい視点からの影像を見ることができたのは、確かに興奮するほどの喜びではあったが、やがては、物資の運搬や遭難現場などで普通に利用されるようになるのだろうし、それを冷静に見てみれば、こうして自然界の奥深い所にまでドローンが現れて、辺りを常時席巻(せっけん)することにもなるのだろうし、と思っては将来を憂へる気持ちにもなるのだが。
 というのも、私も山の上で、ある撮影隊がドローンを操縦して飛ばしている所に出くわしたことがあり、その時そのドローンには重要な役目があったのかもしれないが、正直なところ、私にはただうるさい邪魔な物体でしかなかったのだ。 
 奥深い自然界である高い山の上に、その自然界にはありえない科学人工物があり、そして自然界にはありえない甲高い人工音をたてて、こうるさく飛び回ること。 
 たとえば、北アルプスなどで、荷揚げ用のヘリコプターが行き来する時に聞くあの爆音は、自分たちが小屋に泊まり食事をさせてもらうためなのだからと、何とか我慢するしかないのだが、この時のドローンは、私には直接利害関係もなく、ただただ自然界にはない異物としてのひどい騒音でしかなかったのだ。 

 それは、最近多くなった、山頂で下の街の人とスマホ携帯で話している人々に対する違和感と、同じものだ。 
 しかし、いざ遭難した時には、そのスマホ携帯がいかに役に立つかを分かっている上でも思うことなのだが、個人的には、山の上では、日常世界に引き戻される電話の声など聞きたくはないのだが。 
 などと、私が思ってはみても、あと10年もしないうちに、山には数多くのドローンが行き交うようになり、スマホ携帯はさらに進化して、山の上で誰もが街中と同じように話すことになるだろう。 
 まあそんな先のことまで憂えたところで、そのころには、もう自分自身がすっかりじじいになってしまっていて、山に行く体力気力も失っているのだろうし、余計なことを心配しても始まらない。
 そんなことより、ただ今までの長い間、静かないい山々に登らせてもらったと、いい時代に生まれたと感謝するべきなのかもしれない。

 今回は、山にも行けず、天気もずっと悪い中、思わず最近のことから、愚痴めいた内容のないこ話をグダグダと書き連ねてきてしまった。
 そこで最後に、ピリリと気持ちが引き締まる画像を一枚(写真下)。

 1週間ほど前、玄関の小屋根の上にいたヘビである。
 今まで書いてきたように、ずっと天気が悪く気温が低い日が続いていたのだが、ただその日は、薄日が差して少し気温が上がって来たので、変温動物であるヘビは、自分の体を温めようと、屋根の上にまで上ってきていたのだ。

 前にもここに書いたことがあるが、わが家にはいつも大小数匹のヘビがいて、この玄関の軒の所には、いつも数匹分のヘビの抜け殻が垂れ下がっていて、お守りのためというわけではないのだが、そのままにしてあり、初めて家に来た人が見上げたならば、おそらくは後ずさりしたくなるほに不気味な感じであり、”ヘビ屋敷”といわれても不思議ではないほどである。 
 もちろん、彼らは私と住み分けていて、家の中にまでは入ってこないし、ただ家の周りにいる小さなトガリネズミやアカネズミ、さらには鳥の卵に昆虫たちなどを食べているのだろうから、昔から言われているように、”家の守り神”としてそのままにしておけばいいのだと思っている。
 このヘビたちは、おそらく全部がアオダイショウであり、別に毒蛇ではないのだから、私が近寄れば逃げるだけのものであり、このままでいいのだが、それにしてもたまたま私が玄関にいた時に上からドタリと落ちてきたり、あるいは垂れ下がっていたりするのを見るのは、誰でもそうだろうが、あまりいい気持ちではない。 
 もちろん、私はヘビが好きではないし、手でつかむこともできない。昔、一度つかんだことがあるが、あの何ともいえない不快なヌルっとした感触は今でも忘れない。 

 ある日、たまたま家のそばにいたヘビを見つけて、熊手ホウキで捕まえて火バサミに挟んで、数十メートル離れた牧草地に投げ捨てたことがあるのだが、その日の夕方、そのヘビが道を横切って家の方に戻って行こうとしているのを見てしまったのだ。 
 何という、動物たちの方向感覚と帰趨(きすう)本能だろう。
 私は、あきらめた。自然の多く残る林の中に家を建てて、そこに住んでいるのだから、他の生き物たちと一緒に生きていくしかないのだと。

 それにしても、屋根の上のヘビ、あまりいい気分はしない。
 前にも、ここで取り上げたことがあるが・・・。
 

 蛇

 長すぎる。 
 
(ルナール『博物誌』より 岸田國士訳 新潮文庫)


 


センチメンタル・ジャーニー

2017-08-07 21:35:23 | Weblog



 8月7日

 数日前、北海道に戻って来た。
 九州の、あの蒸し暑いまとわりつくような湿った暑さから一転、今、何という涼しさの中にいることだろう。
 九州での気温から、10度近くも低いのだ。朝の冷え込みも、むしろ開けたままの窓から入ってくる冷気がさわやかなくらいで、布団にくるまってうとうとしている時の心地良さ・・・。

 前回書いたように、今年の梅雨明け時期は、素人目(しろうとめ)から見てもいまだに不確かであり、まして台風の襲来も重なって、今後の天気予報も良くならないままだ。
 青空と花の時期が一緒になるはずの、今年の夏山は、分厚い雲の中に消えてしまったのだろうか・・・。

 しかし、そんな自然界の空模様を嘆いてばかりいても始まらない、何か代わりになる旅を考えないと。
 そこで、北海道に戻る手順を変えてみることにした。
 いつもの最短時間の、羽田乗り換え帯広行きの航空機ルートを、千歳空港直行便にする。
 運賃も、乗り換え便でない分、ずっと安くなるし。
 ただし、千歳空港から電車に乗り継ぎ、さらに南千歳駅で帯広行きに乗り換えなければならず、時間的には羽田乗り換えと比べ、かなり余分に時間がかかってしまうことになるが。
 それでも、この直行便を利用することが、九州と北海道帯広とを結ぶ路線の最安値(割引航空券)であって、実は長い間、この定番ルートで九州ー北海道を行き来していたのだ。

 しかし、何しろ時間がかかりすぎる、朝早く九州の家を出ても、北海道の家に着くのは夕方から夜になってしまう。
 そこで、年寄りになるにつれて、いろいろと考えるようになったのだ。
 残り少ない人生、こうして何事にもけちけちと節約の人生を送っていて、しかし、そのことで大切な時間を無駄に使ってはいないか、お金を出して買える時間があるのなら、老い先短い自分のためにその時間を買うべきではないのかと。 
 そこで最近は、もう十数年あまりにもなるのだが、余分に費用はかかるが(と言っても相変わらずの割引航空券で)羽田乗り換え便を利用するようになっていたのだ。

 そしてこの夏、天気がはっきりしなくて夏山遠征を断念した私は、ただいつものルートで帰るのは面白くないからと、私のクラッシック・ルートである、福岡ー千歳直行便を使い、あわせて帯広までの石勝線列車の旅を楽しむことにしたのだ。
 さらに付け加えるに、どうしても見たいと思っていた美術展の一つが札幌の美術館で開かれていて、まさに渡りに舟の好都合で、札幌でその絵を見た後、一晩泊まって、翌日列車に乗って、昼間の景色を眺めながら、戻ればいいと。
 それらの費用がかかっても、いつもの夏山遠征で山小屋に何泊もするよりは、ずいぶん安上がりの旅になるのだからと、ひとりほくそえんでいたのだが・・・。

 そして出発の当日、家から空港のある福岡に向かうにつれて、青空が広がってきた。
 当日の天気予報は、南にある動きの遅い大型台風の影響を受けて、九州中南部を含む本州太平洋側は雨になり、一方の北からの高気圧の張り出しの中にある、北部九州から本州日本海側は晴れるだろうとのことだった。
 そして期待を込めて、千歳行きの飛行機に乗り込んだのだ。
 上空からの観望天気では、広く中層雲の雨雲が広がっていて、南部の方では巨大に発達した積乱雲が湧き上がっていた。(写真上)
 
 飛行ルートは、本州のほぼ日本海側の上空に沿って飛んで行くのだが、夏の日の午後ということもあって、積雲や積乱雲が数多く出ていて、楽しみにしていた山々の姿はすべて見えなかった。
 もし天気が良く、視界が遠くまできいていれば、縦位置に北アルプスの山々が並んでいて、遠く富士山のシルエットの三角形までも見えて、さらには上越国境から、飯豊山群、朝日連峰、月山、鳥海山、十和田湖、八甲田山と息つく間もなく、東北の山々との対面を楽しめるのだが、それらすべての山々は厚い雲の中に隠れてしまっていた。 

 ただし、海岸線から海にかけては、よく晴れていて、それだけに目立って見えていたのは、能登半島の基部にあたる、羽咋(はくい)平野の境を区切る、見事な断層崖の区分紋様である。(写真下、下の方が北)


 
 私は、今までこの断層の名前を、羽咋断層とばかり思っていたのだが、今回改めて調べてみて、それに邑知潟(おうちがた)断層という正式な名前があったことを思い出した。 
 さらに邑知潟という名前からもわかるとおりに、昔は大きな遠浅の潟、つまり湖になっていて、それが干拓されて、現在では写真にみるとおりの、見事な美田地帯になっているのだ。

 この邑知潟断層は、北東方向に直線状に連なったいくつもの断層の総称であり、その本体をなすのが中央部にある石動山(いするぎやま)断層である。
 この断層の南側に接しているのが宝達(ほうだつ)丘陵であり(写真の上側)、最高の宝達山でも637mにすぎないが、この断層帯中央部の名前としては、その北にある石動山(564m)の名前が付けられている。 
 中学生のころから、山が好きで地図が好きだった私は、この”石動(いするぎ)”という山の響きが心に残っていて、今に至るまで覚えていたのだ。
 まだ母が元気だったころ、レンタカーで一緒に北陸地方を旅して回ったことがあり、その時にこの羽咋平野を走ったのだが、確かに南に低い山なみが連なった光景は、断層崖と呼ぶにふさわしかった。

 それは確かに、あの北アルプスと安曇野(あずみの)、さらには伊那谷と中央アルプスや南アルプスとを区切る、断層崖ほどに大きなスケールではないけれども、小さくまとまった形が、圧迫感のない一つの地形の典型を見せてくれていたのだ。 
 日本には、こうしたひな形のような小さな断層崖、断層山脈があちこちにあって、例えば、福岡県の耳納(みのう)山脈、四国の讃岐山脈、関西の六甲山地や生駒山地、比良山地、中部の養老山地など、そこでは小規模ながらも、はっきりとした断層崖と平野面に分かれた地形を見ることができる。

 さて飛行機は、さらに北上し続けて、眼下に佐渡島の大きな島影が広がり、それはあの映画『2001年宇宙の旅』(1968年、スタンリー・キューブリック監督作品)で、宇宙船の窓の外にいっぱいの大きさになって、月面がゆるやかに流れていったように、まさに宇宙から眺める景色のようだった。
 さらに、日本海の孤島である(それだけに日本で見つかる迷鳥の報告例が多い)粟島(あわしま)と飛島(とびしま)が見え、そこから東北内陸部に入るが、相変わらず雲が多くて山は見えない。
 やがて、少しずつ高度が下がっていき、まるで地図を見ているかのような青森市上空から、陸奥(むつ)湾や下北半島を経て太平洋に出るが、次に陸地が見えた時は、北海道の勇払(ゆうふつ)原野の上を低く飛んでいて、ほどなく千歳空港に着陸した。

 2時間半近くの飛行機の旅で、山々が見えなかったことは残念ではあったが、私の旅のクラッシック・ルートとして、久しぶりに懐かしい気持ちがした。 
 次に、JR空港駅から電車に乗って札幌まで行って、絵画展を見た後そこで一晩泊り、翌朝その札幌から特急に乗って2時間半ほどの間、北海道中央部横断・日高山脈越えの列車の旅を楽しんで、十勝平野の中心都市帯広に降り立つのだが。 
 途中の夕張付近では、あの倉本聰の名作ドラマ『北の国から』で、正吉が蛍(ほたる)への愛の告白として贈った、”百万本のバラ”ならぬ黄色い野生の菊、海外種のオオハンゴンソウが咲き始めていた。
 しかし、占冠(しむかっぷ)辺りから見えるはずの日高山脈最高峰・幌尻岳の姿は雲の中で見えず、さらに新狩勝トンネルを出てからループ状に降りて行く、あの雄大な景観も雲の中で見えず、そして十勝平野も霧の中だった。 
 こうして、昔のルートをたどる、この夏のセンチメンタル・ジャーニーは、残念ながら私の思いどおりに応えてはくれなかったけれど、それでも昔の思い出がいろいろと、ここかしこにあふれていた。 
 それらの、きらめきの思い出を繰り返すことができただけでも、この旅は良かったのだ。


 そして、この旅のもう一つの目的は、札幌の道立近代美術館で開かれていた、”レオナルド・ダ・ヴィンチと「アンギアーリの戦い」展”を見ることであった。 
 あの「モナ・リザ」で有名なレオナルド・ダ・ヴィンチ(1452~1519)について、今さらその偉大なる業績など書くまでもないことだが、もちろんイタリア・ルネッサンス期に活躍した巨匠の一人だというよりは、むしろ世界絵画史にまたとない足跡を残した画家の一人であると言っておくべきだろう。
 彼の残した絵は、前記のルーヴルにある「モナ・リザ」と、ミラノの教会の壁画として描かれた「最後の晩餐」がとりわけ有名であり、他にも、パリのルーヴルとロンドンのナショナル・ギャラリーのそれぞれにある二つのバージョンの「岩窟の聖母」と「聖アンナと聖母子」「洗礼者ヨハネ」(いずれもルーヴル)などの評価が高いが、私が唯一見ていないレオナルドのもう一つの未完の大作というのが「アンギアーリの戦い」だったのである。

 とは言え、この”タヴォラ・ドーリア(ドーリア家所有の板絵)”と呼ばれる絵は、レオナルドが描いた真筆ではなく、彼が描いた壁画を誰かが模写したその残存作品なのである。(写真下) 
 その絵の存在は昔から知られてはいたが、所有者を転々として、最後に東京富士美術館の所属になり、その後イタリアに寄贈されることに決まり、それを機に日本で公開されることになったというわけである。


 レオナルドには、完成された作品として残された絵が少なく(十数点)、その代わりに900点にも及ぶというスケッチ・デッサンが残されていて、私もそれらの作品を画集で見ていて、中でも「アンギアーリの戦い」に関する下絵・スケッチの、優れた描写性に魅了され、何としても完成された絵として見てみたいものだと思っていた。 
 もともと、この「アンギアーリの戦い」の壁画は、フィレンツェのヴェッキオ宮殿会議室”五百人の大広間”の壁面を飾るために、フィレンツェがミラノ公国との戦いに勝った戦勝記念画として、レオナルドに委託したものであり、別の壁面には、当時、天才若手として台頭著しかった、もう一人のルネッサンスの巨匠ミケランジェロ(1475~1564)に「カッシーナの戦い」を描くように依頼していて、その壁画事業責任者が、何とあの『君子論』で有名なマッキャベリであったとのことである。
 16世紀初頭のフィレンツェ・・・何という時代だったのだろう。

 しかし、この二人の巨匠による壁画制作は、結局完成されることはなかった。 
 レオナルドは、「最後の晩餐」のフレスコ画をテンペラ画ふうに描いて、剥離(はくり)してしまうという失敗を犯していたが(近年修復はされてはいるが)、この「アンギアーリの戦い」では、二度と失敗を繰り返すまいと油絵として挑んだのだが、その下地材で失敗して一部絵の具が流れ出してしまい、とうとうレオナルドは途中放棄してしまったというのだ。 
 さらに、ミケランジェロの方も、下書きをしたところでローマ法王庁に呼ばれて、そこであの有名なシスティーナ礼拝堂の壁画の制作にあたることになり、こうしてまた「カッシーナの戦い」の壁画も完成されることはなかったのだ。 
  
 しかし、レオナルドの部分的に描かれていた壁画は、そのまま数十年もの間残されていて、未完成作品にせよその出来栄えが素晴らしく、当時の他の画家たちの手によって数多く模写されたということであり(後年あのルーベンスさえもが、模写作品に啓発されて、彼なりの作品として一枚の絵を仕上げているのだ)、今回公開されたこの「アンギアーリの戦い」の”ダヴォラ・ドーリア”は、それらの模写の中でもより信頼できる作品だとされているのだ。

 前置きだけで、すっかり長くなってしまったが、そうしたいわくつきの作品であり、真筆ではないにせよ、レオナルド最盛期の技術をうかがい知ることができる絵ならば、どうしてもこれは見ておきたいと思うのが、絵画ファンならば誰でもが願うところだろう。 
 平日の3時過ぎに、こんなマニアックな絵を見に来る人など余りいないだろうと思っていたが、どうしてどうしてかなりの人たちの流れが切れることはなかった。 
 他にも、当時の他の画家たちによる戦争絵画や、レオナルドやミケランジェロ、そしてあのマッキャベリの肖像画なども展示されていてそれぞれに興味深かったが、何といっても、やはり見たかったのは、この「アンギアーリの戦い」の絵であり、類似模写作品が他にもあったが、いずれもレオナルドの真筆ではないにせよ、その迫力を彼らなりにとらえていて、その主題である、軍旗を奪い合い闘う兵士たちの姿はもとより、何より私が驚いたのは、そこに描かれたたけり狂う馬たちの、迫真の表情であり、生きて動いている動物の肉感を見事に表現した筆さばきである。
 この戦いの群像シーンを、今の写真ライト技術でもってしても、あれほどまでに鮮やかに浮かび上がらせることができるだろうか、と思ってしまうほどだった。
 もし完成していれば、おそらくは「最期の晩餐」をしのぐ、世界最高級の壁画の一つになったであろうに・・・。

 50年後、この放置されていた残存壁画は、新たに依頼を受けた画家のヴァザーリによって、新しい壁画が描かれて、レオナルドの本絵は塗りつぶされたと思われていたのだが、近年の調査によれば、ヴァザーリが敬愛する師の壁画を残そうとして、わずかの隙間をあけて保存し、その上に自分の絵を描いたらしいということがわかったとのことだ。 
 ということは、何とかヴァザーリの絵も残し、そしてレオナルド真筆の「アンギアーリの戦い」が見られるようになる日が来るのかもしれない・・あーあ、その日まで私は生きながらえることができるのだろうか・・・。

(参考文献:”レオナルド・ダ・ヴィンチト「アンギアーリの戦い」展” 東京富士美術館、「世界名画の旅』イタリア編 朝日文庫)