ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

雪山と美しいもの

2013-11-25 20:51:55 | Weblog
 

 11月25日

 今北海道は冬の天気分布の中にあり、今後1週間の予報によれば、日本海側にあたる札幌や旭川の天気はこれからはずっと雪の日が続くようになるのだが、一方でこの十勝地方では毎日晴れていることが多くなる。(かといって今日のように、時々低気圧の通過で雨や雪の日になることもある。)

 というわけで、秋から冬にかけては、朝焼けや夕焼けの空がきれいに見えるようになるのだが、まず冬の夕方は西高東低の気圧配置で、日高山脈上にそのせき止められた雲が並んでいて、夕焼けはあまり雲に反映されることなく終わってしまうことが多い。
 それも、”冬の日はつるべ落とし”であり、4時前には日が沈んでしまう。
 一方で、朝の日の出の時間は遅くなり今では6時45分くらいになってしまったから、その朝焼けをじっくりと見られるようになってきた。特に東の空に少し雲があると、見事な朝の色彩絵巻を繰り広げてくれるのだ。(写真上)

 そんな、冬の日の快晴の空ほど私の好きなものはない。
 彼方に見える雪の山々、頭上に広がる一面の青空、ピリッとした冷たい空気。
 それが真冬でも、そのマイナス20度にもなるすべてが凍りつく気温の中でも、体も心も引き締り、ほんの少しだけの太陽の温かさを感じながら歩いて行きたくなる。
 本州ではまだ秋の今の時期でも、美しい雪山の姿を求めて、そんな冬の空気を味わいたくて、山好きな人たちは北アルプスの初冬の山に向かうのだろう。

 そして、悲劇は起きてしまった。
 北アルプスは立山連峰の真砂岳(まさごだけ、2861m)で、何と雪崩(なだれ)に巻き込まれて、一挙に7人もの死亡遭難者が出たのだ。
 それは、あの4年前のまだ記憶に新しい、夏の北海道はトムラウシ山(2141m)での、9人もの凍死者を出した事件以来の多数遭難になる。

 他人ごとではない。
 まして、それは初心者ではない冬山の心得も十分にある中高年の人たちばかりなのだ。
 私も、毎年のように(今年はぐうたらなままどこにも行かなかったが)、そんな新雪の時期の北アルプスの山々を歩くのを楽しみにしていたから、なおさらのことだ。
 
 雪の立山連峰へは、最近では6年前の10月の終わりに、混み合うだろう11月の連休の前にと、みくりが温泉の宿を拠点にして、3泊4日もの初冬の雪山歩きを楽しんできた思い出がある。
 最初の日は雲が多かったが、雄山(おやま)に登るころから次第に晴れてきて、続く二日は素晴らしい快晴の空の下での雪山歩きを楽しむことができたのだ。
 二日目は、まず今回の目的でもあった剣御前(つるぎごぜん、2777m)と別山(べっさん、2874m)から、雪の剣岳(2998m)の姿を心ゆくまで眺めて、そして三日目には浄土山(じょうどやま、2831m)、龍王岳(2872m)から立山(3015m)そして真砂岳へと縦走してきたのだ。(写真は、真砂岳の大走り分岐付近から見た立山)

 

 その間、ほとんど人にも会わずに、ただ山々を眺めながら思うままに歩き回った、まさに快心の初冬の山だった。
 もちろん、アイゼンとピッケルの冬山装備だったのだが、まだ雪が積もり始めたころであり雪崩になるほどの心配はしていなかった。

 そして、今回の雪崩の遭難事故が起きたのは、その時の三日目のコースの終わりの所、真砂岳から大走りの尾根をたどって雷鳥沢へ下るルートの、右手の大走り沢斜面で起きていて、テレビ映像で見る限りでは、その上部の、真砂岳頂上直下の(トラバース道がある)所から西側斜面にかけて崩れたようだ。
 特にこのルートでは、頂上から降りてきた道が少しだけゆるやかになり、右に曲がり始める手前のあたりで、左手には立山の三つの峰、雄山、大汝(おおなんじ)山、富士ノ折立が雄大に立ち並び、反対の北側には剣岳がのぞき、西側には大日岳三山も続いて見えている素晴らしいポイントなのだ。
 そこは、適度の傾斜もあり、尾根も丸みを帯びていて、山スキーやスノーボードで滑り降りるにはもってこいの斜面なのだ。

 これはあくまでも推測の域を出ないけれど、ただ尾根の真っただ中を通っていれば問題ないはずだが、誰かが尾根の北側に少し張り出た雪庇(せっぴ)の方に少し身を乗り出したのではないのか、映像で見るとその雪崩の破断面の所でスキーやスノーボード跡も切れているのだ。
 専門家の話では、それまで積もっていた雪がザラメ状になり、その上に前日まで降っていた大量の新雪が積もって、何かのきっかけで広範囲な表層雪崩を起こしたのではないかということだった。
 (雪崩については、私のような単独行者にはできることが限られているのだが、それでも山と渓谷社から出ている『決定版 雪崩学』と『雪崩リスクマネジメント』の2冊を読んで参考にはなった。)

 ところで、今回遭難死した人たちを、単純に注意が足りなかったと非難できるだろうか。
 それは、あの夏のトムラウシ山遭難事件のように、装備や日程における初歩的なミスではないのだから。
 今までもこのブログで書いてきた、あの元楽天監督野村氏の野球運命論(10月14日の項参照)について、それを登山についても同じような確率論として当てはめるべきでははないとは思うのだが、まして冬山では、さらなる確実な安全を図ったうえでの登山・山スキーでなければならないものなのだが、いつもどこかしら冒険的な危険が付きまとう登山には、どうしてもその時々の小さな出来事や環境の変化に左右されてしまうことがあり、結果としての命を懸けた裏表の運命の差が出てしまうとも言えるのだ。

 その場にいなかったから、だから何とでも言える経験のある登山関係者たちは、不注意に過ぎると即断して非難するかもしれない。
 しかし、今まで山で遭難死した人たち、特に数多くの著名な登山家たちに、すべて彼らの判断ミスだったと非難できるだろうか。
 難しい山々に危険を承知で挑戦し続けてきた人たちこそ、遭難にあう確率は、技術や判断を超えた運に左右されることを知っているはずだ。

 私は、技術も判断力も十分ではなく、単なる山歩きが好きなだけの、中級者的な登山者でしかないのだけれども、ほとんどの山行が一人であるだけに、冬山だけではなく、夏の沢登りにおいてさえ、何度もひやりとした経験がある。
 そしてそれは、後になって、技術や判断力を超えた、単なるその時の運の良さだけで助かったのだと知ることが多いのだ。
 もちろん山は運に頼って登ってはいけないが、そういう危機の分かれ目にもあうことがあるということだ。

 たとえば誰でも長い間、クルマを運転していれば、今まで一度や二度、いやそれ以上にひやりとした経験を持っているはずだ。
 私にも、そんな間一髪の冷や汗をかいた覚えが幾つかある。
 一つだけあげれば、数年前にこの北海道で冬を過ごした時に、今にして思えばまだ冬道には十分には慣れていなかったからだと思うのだが、夕暮れの町の道から国道に出ようとしたのだが、その手前ではクルマが一時停車するのでテラテラに凍りついていて、私はそれを知らずに冬道にはもう慣れたつもりでいて、いつもの少し手前からブレーキをかけたのだが、3年目のスタッドレス・タイヤが滑り始めてブレーキがきかないのだ。
 国道を右から、ライトを照らして走ってくるクルマが見える。

 ポンピング・ブレーキで何度かに踏み分けたのだが、クルマは止まらずに滑り続けて、国道に出て行く。 
 もうだめだ。ぶつかる。目を閉じた次の瞬間、目の前に走ってきたクルマはぎりぎりのところで通り過ぎて行き、テールランプが遠のいて行った。
 助かったのだ。
 あと数センチ、コンマ何秒の差で。

 もしあの60~70キロで走ってきたクルマにぶつけられていれば、その時の衝撃だけでなく、クルマは凍った道を回転しながら反対側車線から道の外に落ちたか、あるいは反対車線を走ってきたクルマにさらにぶつけられて大破したか・・・。
 もちろん、そんな冬道での経験だけではない。他にも普通の夏道の時にも、小さな事故ですんだが、命にかかわることになっていたかも知れないことが一つ二つは思い出されるのだ。

 それは山やクルマだけではない。日常の生活のいたるところで、実は危機一髪の事態だったということが、自分では気づかないまでも、今までに何度もあったことだろう。
 そうしたことを、すべて運命論的に考えたくはないが、ここにこうして元気でいる自分を思えば、何かしら、生かされている自分に感謝したくなるのだ。
 そうなのだ、あの子供たちの歌の歌詞ではないけれども、そうして”ボクらはみんな生きている”のだ。

 日々、自分の生きる活力に導かれながら、自分にとっての心地よいもの美しいものを求めながら生きていくこと。
 それは永遠のあこがれのままで、いつまでもたどり着けないものかもしれないし、またその求める程度を下げさえすれば容易に見つけられるものかもしれないし、幸せの青い鳥の居場所は人それぞれの思いによるのだろうが。

 高い望みを持てば、そこにたどり着くのはより困難になり、それだけに、日々努力怠りなく自分の才能を信じて行動し続け、さらに運にも恵まれたわずかな人々だけが、その目的地へと到達することができるのだろう。
 ただ大多数の人は、そこに行き着くこともなく、途中であきらめていくことになる。
 しかし、それで人生の価値が左右されるわけではない。自分の望みを改めて低く抑えて行けば、それなりのものを得ることはできるのだ。
 そこへは比較的容易に到達できるけれども、もちろん成功者としてのあの爆発的な喜びと、それに伴う大きな実利的な満足はない。、
 
 つまり初めから望みを高く持ち、あきらめることなくいつか輝かしい成果を得るためにと挑み続けていくのか、それとも早めに自分の限界を知って、小さな喜びだけでいいと、最初にあきらめることから始めるのか・・・。
 それは人それぞれであって、どちらが正しいとは言えないし、ただ自分で決めた道を歩んでいくほかはないのだ。
 私も若いころには幾つかの大きな夢を求めて、挑戦してはその幾つかにに成功しその幾つかには失敗してしまった。
 その後、自分にできることだけをと小さく範囲を狭めて、それでも自分なりに満足を得ることができると知って、そこで尾羽打ち枯らした哀れな私の心は、ようやく安住の場所を見つけることができたのだ。

 自然のたたずまいに、山の姿に、そして人間の生み出してきた幾つかの芸術の中に、自分が感興できる小さな喜びを見つけた時に、そう感じることのできる自分がいることに、今、生きているのだと感じることに・・・そうなのだ、大集団の中の一人にすぎない蟻の一匹のように、ライオンに襲われ続けるアフリカのヌーの一頭のように、運と不運の中で、それでもただ自分の満足できるものを求めて、無心に生き続けるだけのことだ。

 自分だけの心地よいもの、美しいものを求め続けて、それが生きるということにもなるのだから。


 「それが美しいということは――、見たとたんに美しいと判断でき、その判断が撤回(てっかい)されることがないのが美だ。
  ・・・言い換えれば、まず美しいという選択があり、それがなされたあとに、なぜそれを選択したのかあれこれ考えることになるが、それで選択に動揺や変化がもたらされることはない。 
 いろいろな対象――小説、音楽、建築、彫刻、絵――、などがあるなかで、なんど出会ってもつねに心から称賛できるものと、人はほめるが自分ではとても称賛する気にはなれぬものとがはっきりと分かれる。」

 (アラン 『芸術の体系』 長谷川宏訳 光文社文庫より)

 上にあげたような、彼が選んだ幾つかの芸術のジャンルの他に、私がさらに付け加えるとすれば、他に古典芸能があり、映画があり、さらに人間が作り上げた芸術という枠を取り外せば、もちろん四季の山々の姿があり、空や雲、木々や草花、川や海などの自然のたたずまいがあり、それらこそが、今の私にそれぞれの美しさを見せてくれるものたちであり、まさに私にとっての心地よいものなのだ。

 そうしたものにこだわり続けるのは、自分がそうしたものとは反対の、美しくはないものであるからなのだろうか・・・。
 そしてそれは、他者の目を意識しなくてもすむこうした山の中にいることで、自分の欠点を気にせずに、周りの美しきものたちにかこまれ、心安らかになれるからなのだろうか・・・。

 何かにつけては、仏壇の前に手を合わせて感謝していた母の思い・・・。

 (写真下 みくりが池より立山と左側に真砂岳と大走りの尾根、さらにこの眺めは夕映えに美しく染まることになるのだが。)

 

 

剣山とシラカバ林

2013-11-18 20:24:50 | Weblog
 

 11月18日

 数日前、私は実に1か月半ぶりに山に登ってきた。
 そんなにも長い間、山に行かなかったことについては、前回書いたように何のことはない私のぐうたらさから来たものなのだが、それでも心の中ではやるべき仕事が残っているような、このままではいけないという思いがあったことは確かだ。
 
 そこでそんなナマケモノのオヤジでも登れる山はと考えて、北部日高山脈のはずれにある剣山(つるぎやま、1205m)に行くことにしたのだ。
 秘境性が強く残り、登山道も限られた山々にしかついていない日高山脈、その主稜線の主峰群と比べて、この剣山は、主脈から外れて十勝平野側に張り出していることから、アプローチが簡単で、展望が良く、登り3時間といった手軽さから、日高山脈の山の中では言うに及ばず、おそらくは帯広十勝管内でも、最もよく登られている山ではないだろうか。
 ちなみに、この山には毎週ごとに登っている人にも出会ったくらいだから、地元の山として親しまれているのがよくわかる。

 私も6回ほど登っているのだが、いつも春の残雪時期かこの秋の終わりから初冬の時期だけであり、夏や秋の紅葉の時期にはまだ登っていない。
 つまりどうしても、ある種のトレーニングの意味合いで登る山、とりあえず山にという時に最初に思いつく私にとってのお助け山でもあるのだ。

 ということで今回も、前の登山から1か月半も間が空いて体がなまった私には、まさにうってつけの山だったのだ。
 ただし、近くにあって簡単に登れるとはいっても、油断はできない。
 山麓はヒグマが出没する地域として有名であり、私も何と冬に近いこの時期に頂上付近でヒグマにあったことがあるくらいなのだ。(そのことについては’08.11.14の項参照)
 その他にも、岩山だけに、今の時期気になるのは頂上付近の積雪と凍結具合である。

 家を出て、山麓の旭山あたりに来ると、快晴の空の下、雪をいただく日高山脈東側の山々が立ち並んでいるのがよく見える。
 十勝平野の父なる山である、大きな十勝幌尻岳(1846m)、そして東面のカール壁を見せて札内岳(1896m)とエサオマントッタベツ岳(1902m)が美しい。
 年を取っていつか山にも登れなくなった時には、こうして日高山脈の山々を下からじっくりと眺めて、写真に撮っていきたいものだと思う。(日高山脈のすべての峰々は、東西南北の周りを巡る道路上から見えるのだが、なんといってもこの十勝側からのほうが、ずらりと並ぶ山脈の形で雄大に眺めることができるのだ。)
 そして目指す剣山も、秋まき小麦畑の広がる向こうに、まだ黄葉が残るカラマツ林の上、ギザギザの岩稜を連ねて大きく見えていた。(写真上)

 このあたりの平野が始まる丘陵地帯は、実に眺めの良いところであり、いつも楽しみにしているのだが、この日も澄んだ青空の下、北側には、雪に輝くニペソツ山(2013m)とウペペサンケ山(1835m)が並んで見えていた。(写真)

 

 
 そして、もし剣山に雲がかかっていて登るのをあきらめた時に、結局はこの眺めを写真に撮っただけだったとしても、私はまずまずの思いで家に戻ることだろう。
 それはつまり、もしいつか山に登れなくなっても、こうして私の大好きな絵葉書的な光景を見に来るだけでも、山への思いは満たされるということだ。

 思えば私は、風景写真や都市情景、そして日常の何気ないひと時を見事に切り取ったスナップ・ショットや、美しいおねえさんたちを写したヌードやポートレイト、さらに様々な植物や動物、飛行機に船に鉄道などなどあらゆるジャンルにわたって写真を撮る人、カメラ・ファンの人たちと同じように、目の前にあるその姿が好きであり、それをコンテストなどに発表するつもりなどはさらさらなくて、ただ自分で楽しむために、繰り返し眺めることのできる写真として、形に残したいと思っているだけのことだ。
 そうした趣味としての写真ではなく、同じ眼前の光景でも、自分の思いを込めた芸術的な瞬間として切り取った人たちだけが、プロの写真家になれるのだろうが、私には、残念ながら、そんな芸術家的なセンスもないし、もともと自分の楽しみのために撮っているだけだから、そのぶん制約や義務感もないし、ただ目の前にある眺めを見てカメラのシャッターを押しただけのことだ。

 それでも、こうして偶然に出会えた風景こそが、私の生きていく喜びの一つにもなっているのだ。
 山はいいよなあ。いつも黙ってそこにいてくれて、あとは私が、リカちゃん人形の着せ替え遊びのように、周りを季節の彩(いろどり)で飾ってあげればいいだけで・・・。
 
 さて、登山口の剣山神社に着いて、誰もいない駐車場に車を停めて歩き出す。
 すっかり葉が落ちたミズナラの林の尾根道を、ゆるやかにたどって行く。
 朝家を出た時には-5度だったから、標高400mのこの付近はもっと低い気温かもしれない。
 さすがに寒いから、毛糸の帽子を耳のところまでかぶせてしまう。

 四国の剣山にちなんで名づけられた山だから、先ほどの神社や観音様などの石像が並ぶ山道などいかにも信仰の山らしいが、それも終わって、いよいよ山腹斜面の登りにかかる。
 久しぶりだから、先は長いからと自分に言い聞かせて、まだら雪と霜柱の道をゆっくりと登って行く。
 遠くで、ウソの鳴く声が聞こえる。葉の落ちた木々の間から、頂上付近が白くなっている久山岳(1412m)が見える。
 下草のササが切れて、露岩が目につく明るい尾根道になるが、登りはさらに続いている。

 そういえば10日ほど前に、たまたま見たテレビで、ネパールの山奥から小学校に通う姉弟の姿があって、思わずそのまま見続けてしまった。
 片道、何と2時間!二人は山道を下り、さらに激しい流れの川に架けられた渡しのワイヤーロープの木箱に乗って、その上に子供たちの二人がまたがりロープを手繰(たぐ)っては対岸に渡り、通りがかりのトラックなどに乗せてもらいようやく町の小学校に着く、そんな命がけの登校が毎日続くのだ。
 親たちは川を渡るのに子供たちだけでは危険だから、吊り橋をかけてくれるように政府に頼んでいるのだが、その予定はないとのこと。
 
 次の日に見た別のテレビ番組では、それは世界各地に嫁いだ日本人妻たちの話だったのだが、アラビア半島の石油国、アブダビやドバイでは、そうした石油成金たちの子供たちは、高校生で一か月の小遣いが20万円ももらえて、友達の誕生日パーティーに豪華クルーザーを貸し切って、そこで出前の豪華料理を食べては楽しんでいた。
 
 さらに次の日、同じゴールデン・タイムの時間に、ある民放で、『子どもたちに聞かせたい お金儲けの話をしよう』というタイトルで、子供たちを前に、大小の企業のトップたちが、人よりぬきんでて成功するに至った話をしていた。
 最後にたった一言、「お金の奴隷になってはいけない」と付け加えただけで。

 昨日の新聞、日曜版読書欄に”行き過ぎた市場原理主義、談合主義を告発する”『貧困大国アメリカ』シリーズ3冊目の本(岩波新書)の書評記事が載っていた。
 ここでの評者は、最後に「恐ろしや。これはみんなが良しとした民主主義というシステムの、ただ中に巣食う地獄なのだ」という言葉で締めくくっていた。

 私は、だから・・・すべては社会が悪い、政治が悪いと言いたくはない。いつの時代にも、そうした弱者と強者はいたわけだし、昔からそれ以上のもっとひどい格差社会があったわけだから、何も今のすべてが悪いとは思わない。
 それはあきらめろというのではない。
 少し前に書いた(10月14日の項)、あの元楽天監督、野村氏の言葉をここで再び取り上げてみれば、それは野球においてだけではなく、人生でさえも、”98%の運と、1パーセントの汗と1パーセントの才能”で成り立っているのかもしれないし、それはまた、”49パーセントの汗と49パーセントの才能と2パーセントの運”から成り立っているのだと言い換えることもできるのだが・・・。

 ただそうした話は別にして、私は山道を登りながら、今日もあの往復4時間の時間をかけて小学校に通う子供たちのことを思っていた。
 町の学校の、その子供たちの担任の先生は、「二人の成績は良くありません。ここに着くまでに集中力を使い果たしてしまって。そして学校が終わるやいなや二人はまた2時間をかけて家まで戻らなければならないのですから」と話していた。
 
 私は、なまった体のために、山登りの楽しみのために、片道3時間の道を歩いているのだ。それも今日一日だけの。
 1時間半近くかかって、ようやく標高906mの一ノ森のコブに着いた。朝あれほど見えていたニペソツ山などの東大雪はもとより、大雪、十勝岳方面の山々の上にだけ雲が帯のように流れてきて覆っていた。
 上空には変わらず快晴の青空が広がっていた。

 そこから少しシラカバ林のなだらかな尾根を行き、そして二ノ森岩峰北斜面の急な登りになる。
 道の大きな岩の上に染み出した水が凍りつていた。ロープがあって何とかそれを手掛かりに乗り越えるが、下りでは大変だろう。
 いったんゆるやかになり回り込んで再び登って行くと、あのヒグマに出会った道のあたりにさしかかり、やはり気になって持ってきていた鈴を鳴らし続けた。

 二ノ森から再び稜線を右に回り込み、急な沢状の道を登って行くが、あちこちで岩が凍りついていて、周りには鍾乳洞(しょうにゅうどう)の石筍(せきじゅん)のような大きな氷柱が何本もできていた。
 一歩一歩と足場に注意しながら登って行くが、ここも下りは大変なるだろう。一応アイゼンは持ってきてはいたのだが。
 三ノ森岩峰から稜線を行くと、展望が開けて行く手に頂上の岩塔が見えている。
 北斜面の道だが、雪はそれほど多くはなく数センチほどで、それも凍りついていた。
 最後のアルミ梯子(はしご)3本を注意深く登って、四方に見晴らしが開けた頂上岩塔の上に着いた。
 コースタイム通りの3時間かかったが、1か月半も間が空いての登山としては十分だった。
 
 さていつもの大展望は、春に登った北日高の山々(5月20日の項)からずっと稜線付近にだけ帯のように雲が流れてきていた。かろうじてそこから頂きを見せているのは、北部の名峰、芽室岳(1754m)である。(写真)

 
 
 そして核心部の山々、1967m峰も少し雲に洗われていたが、さらにピパイロ岳(1917m)、エサオマントッタベツ岳(1902m)、札内岳(1896m)、十勝幌尻岳(1846m)と見えていて、はるか遠く神威(かむい)岳から楽古(らっこ)岳に至る南日高の山まではっきりと見えていた。
 風もなく、山々を見ながら頂上の岩の上で40分余りを過ごした。大空と山の頂きの間にひとり・・・。

 頂上から降りていく途中で二人、さらに下のほうで一人の中高年の登山者に出会ったが、いずれもこの山に何度も登っている人たちばかりだった。
 問題は、凍りついた下りの道だ。アイゼンをつけるのが面倒で、そのままで降りて行く。
 最大の注意を払いながら、凍りついた岩の上に足を置かないように、そして最後の大きな岩の全部が凍りついていた所では、道から外れて回り込んで木々の枝を頼りに降りた。
 そして、行きにもきれいだと思った一ノ森コブ付近のシラカバの林・・・黄葉はとっくに散ってしまっていたが、下草のササの緑とシラカバの幹の白、そして青空と、私の好きな山の配色の光景がそこにあった。(写真下)

 一休みして山の静けさを味わった後、さらに山腹の道を下って行く。先ほどの凍りついた道で力を張りつめさらにこの下りでと、もうヒザは限界に近かったが、ようやく2時間半かかって、登山口に着いた。
 町に出て買い物をした後、近くの公営温泉にゆっくりとつかって疲れをほぐし温まって、暮れなずむ山々を見ながら家路についた。

 そして、二日後、ひどい筋肉痛が太ももに来た。ふくらはぎの痛みなら長い登りのせいだろうが、おそらく今回は、あの凍った道で注意して太ももに力をかけて降りてきたせいだろう。
 というより、何よりも1か月半ものブランクがそのおおもとの原因であることに間違いはない。それに加えて、年のせいでもあるのだろうが。
 
 あのネパールの山奥の子供たちは、今も毎日往復4時間もの山道を歩いているのだ。
 しかし、あの子供たちには、これからそうした困難を乗り越え、新たな素晴らしい人生を切り開いていくための、前途洋々と広がる長い年月の未来があるのだ・・・。
 (ベルナルド・ベルトリッチ監督の映画『1900年』の中に出てきた小領主のオヤジが、悪ガキをののしって言った気持ちがよくわかる。)

 それに引きかえ、今の私は細々とした生活ながらも大きな困難もなく、ほどほどに満ち足りた思いの中にある。
 思えば、前途洋々と広がっているはずだった時間は、もうほとんど使い果たしてしまったということだ。
 今では、あの万葉集の沙弥萬誓(しゃみのまんぜい)の歌のように(9月9日の項参照)、自分が漕いできた小舟の航跡を眺めているだけで・・・、それも悪くはないのだが。

 
 
 
 


 

秋の終わりと夕焼け空の月

2013-11-11 18:45:53 | Weblog
 

 11月11日 

 「ささやかな地異(ちい)は そのかたみに

  灰を降らした この村に ひとしきり
 
  灰はかなしい追憶のように 音立てて

  樹木の梢(こずえ)に 家々の屋根に 降りしきった

  ・・・」

 (立原道造 「はじめてのものに」より 『現代日本の文学』 学習研究社版)

 数日前、晴れた日の朝、今が盛りのカラマツ林は朝の光に照り輝き、背後には雪に覆われ始めた日高山脈の山並みが続いていた。
 それも、中部から北部にかけての主稜線の山々は、もう上のほうが真っ白になっていたのに、標高が低くなった南日高の山には、やっと雪が来たばかりの感じだった。
 それだけに、前景の黄葉のカラマツ林とともに、最後の秋の風景を見せてくれているかのようだった。
 (写真上は楽古岳と十勝岳)

 その日の午後、少し風が出て来て、とうとうカラマツの葉がまるで雪のように散り始めた。

 ・・・カラマツの葉は、今年の思い出を振り返るように、音を立てて、庭の枯葉の上に、家の屋根の上に、降りしきった。
 秋が、終わりゆくのだ。

 私の今年の思い出は、と言ってもいつものように山に登ったことだけなのだが、3月初めの大山と4月から5月にかけての日高山脈、そして7月初めの木曽御嶽山、そして8月初旬の北アルプス裏銀座の山々、9月の紅葉の大雪山と、いずれも青空の下で十分に楽しむことができたのだが、少し残念なのはそれ以降今に至るまで、なんと1か月半から2か月になろうとするほどの、登山の空白期間ができたことである。
 
 10年ほど前までは、1か月に5度ほどのペースで山に行っていた時期もあったというのに、少しずつペースが落ちてきて、去年今年と、とうとう一月に一度のペースさえ守れなくなってきたのだ。
 なぜかと言えば、年を取って、すっかりものぐさになってきたからである。
 体力的には当然若いころのようにはいかないけれど、山に登れないほどに体力が衰えたわけではない。
 ただ計画を立て、特に遠征登山の場合は、飛行機、電車、バスへの乗り継ぎと、その前後に泊まる宿への問い合わせなどいろいろ調べていたのだが、その手間がかかることがおっくうになってきたのだ。
 さらに地元の北海道の山でさえ、登山口まで何時間もかけて車に乗っていくのがイヤになってきたのだ。

 家にいて、朝6時に起きて、夜10時に寝るまで、ぐうたらにのんびりと過ごし、テレビで映画やオペラ、ドキュメンタリーなどの録画番組を見て、本を読み、音楽を聴いて、時々は外に出て、家の周りを歩いたり少し庭仕事や大工仕事をしたりして、たまに五右衛門風呂を沸かして入る、そんな何もないしかし自由な一日を送ることのほうが、いいのではと思えるようになってきたからだ。
 今では、忙しく他人とかかわることもなく、決められた時間に追いたてられることもない、朝日と夕日の間に自分にできることだけをやればいいのだから。

 町に行かなければ、お金も使わない。三食自炊で、食事は食べるものさえあればいいから、グルメなどとは全く無縁で、おいしい店の一軒さえ知らない。
 温かい炊き立ての”ゆめぴりか”(北海道米)さえあれば、卵かけカツブシ乗せだけだっておいしいのだ。

 自慢じゃないけれど、東京ディズニーランドやスカイツリーに大阪USJなどなど一度も行ったことはないし、たとえ招待券をもらったとしても行くことはないだろう。
 ”カラオケ”に行ったことはないし、”回転ずし”を食べたこともない。
 ”前世紀の遺物””時代遅れのクソジジイ”だとさげすまれたところで、こんな田舎の一軒家に住んでいれば、それは遠い世界での罵詈雑言(ばりぞうごん)でしかなく、馬耳東風(ばじとうふう)に聞き流していればいいだけのことだ。

 ただしそれは、間違いのないように言っておかなければならないが、何も今の時代に、社会に逆らってあえて自然の中で暮らしているなどといった、正しい主張を持った生き方などではないのだ。
 ただ子供のころから好きだった自然の中で、様々な不便と寂しさは覚悟の上で、のんびりとぐうたらに暮らしていたいというだけの話なのだ。

 だから、好きな山登りがいやになったというわけではない。繰り返すけれども、出不精(でぶしょう)になったというだけのことだ。
 出かけなくてずっと家にいれば、時々つまみ食いをするから、出不精はいつしかデブ症になってしまう。
 取りつかれたように山に登っていた若いころと比べると、体重は5㎏は増えている。これではだめだと、時々家の周りの山道を歩いてはいるのだが。

 さて本来の山好きな私が、山に登らなくなってがまんできるのかと言えば、やはり間近に山を見たいし近くに感じたい思いに変わりはない。
 そこで実は最近、それに代わるものとして、私がすっかりはまっているものがあるのだ。
 それは、何のことはない、前にも書いたことがあるが、”フィルム・スキャン”である。
 昔の35ミリや中判645などのポジ・フィルムやネガ・フィルムを、スキャナー機にかけて、デジタル化してパソコン液晶画面等で見られるようにすることであり、そのままデジタル画像として保管することである。
 つまり昔のように写真屋に行って、フィルムから写真にプリントしてもらう必要がなくなったのだ。最初にスキャナー機材を購入すればいいだけで、そのままパソコンに取り込んでおけば好きな時に見ればいいし、お金もかからない。

 その上に、今はそのフィルム・スキャン作業に慣れてきて、満足できる元の風景に近い色合いが出せるようになってきた、いやある意味では、写真屋でのプリント技術以上にうまく仕上がることもあるのだ。
 それにはもともとデジタル・カメラについていた付属の写真編集ソフトのほかに、最近新たに市販のソフトを購入して、全部で5本のソフトを写真に合わせて駆使できるようになったからでもある。
 つまり、昔は2Lサイズや四つ切りサイズくらいまでお金をかけてプリントしていたものが、今では自宅でパソコン画面いっぱいに21インチ、A3ノビより大きな画面で、金もかけずにきれいに見ることができるようになったのだ。
 何という幸せ。欣喜雀躍(きんきじゃくやく)の思いなのだ。

 昔の山の思い出、光景が、液晶画面に鮮やかに映し出されるのだ。
 そうして、私は来る日も来る日も、山にも行かず、行こうとしたのだが決断できずに家にいて、そのフィルム・スキャン作業に精を出したのだ。

 しかし、いいことばかりではない。単純な作業の上に時間がかかりすぎるのだ。
 うまくいって1日で、数本のフィルムのスキャンと加工保存作業ができるが、他の仕事もしながらだから、1日3本ほど仕上げればいいほうだ。
 私は、中学校の時に山に登り始めて、そのすぐ後から小さなカメラを買ってもらい、以来ずっと山の写真を撮り続けてきた。
 もちろん、単なる記録写真だから、貴重な風景や、芸術写真の類などは一枚もなく、他人から見ればどうでもいいような写真ばかりなのだが、何しろその枚数だけはある、というより多すぎるほどだ。

 私の今までの生涯山行は、正確には数えてはいないが、少なくとも500回は超えていると思われる。
 ただし、その数多い山行はどれとして記録的に自慢できるものは何一つない、ただの山歩きの記録ばかりなのだ。
 ともかくその一回の山行で、フィルム1本以上は使っていたから、最近ではデジタル・カメラだから一日で昔のフィルム3本くらいは使っていることになるのだが、ともかくフィルム時代だけでも1000本近いフィルムがあり、とても自分が生きているうちに、全部のフィルムのデジタル化などできないとわかってはいるのだが、ついついやめられずに、パソコンとスキャナーの前に座り続けている毎日なのだ。

 そんな自分だけで楽しむ、みみっちい仕事にかかわっているくらいなら、誰かのためになる援助なり、ボランティア活動なりに励んだらいいじゃないかと言われるだろうが、もう明日をも知れぬ年寄りにそんな元気はないのでありまして、自分のふんどしを洗うので精いっぱいでして、ハイごめんなさい。
 
 フィルムをセットして、スキャンして出てきた画像を、さらに写真ソフトでその時の色合いに近づけるように加工していく。
 そして、液晶画面でそれを見る楽しさ・・・あの時の空の色、あの時の草木の色合い、あの時の深みのある山肌・・・そこに私の山があったのだ。うーたまらん。
 彼女のうるんだ瞳の色、上気して桜色になった肌、私の耳のそばでささやいた言葉・・・そこに彼女はいたのだ。
 おっとこれは違う、余分な、しかし似たような思い出だが。

 しかしはたして、私の人生の残り少ない時間を、こんな自分のためだけの、機械的な作業のために使っていいのだろうか。
 ただでさえ、引きこもり症候群の私が山にも行かずに、こうしたことにのめりこんでばかりいれば、まるで自分の部屋に閉じこもってゲームばかりしている若者と変わりないのではないのか。
 とその時、頭の中に、例のAKBの「フォーチュン・クッキー」が聞こえてきた。
 
 「人生捨てたもんじゃないよね あっと驚く奇跡が起きる 運勢今日よりも良くしよう それには笑顔を見せること」

 三日ほど前に、いつも行っている友達の家にまだ小学校前の孫娘の姉妹が来ていた。
 今ではその二人と仲良しのにゃにゃんこ仲間である私は、友達夫婦のあきれたまなざしを前に、一緒にその「フォーチュン・クッキー」を歌い踊ったのだ。
 こうして私は、笑顔を見せてきたのである。
 思い出すのは、私にはそれほどの修行の心もないけれど、あの良寛和尚が子供と一緒にてまりをつく姿である。


 「・・・里にい行けば 里子どもいまは春べと うち群れて み寺の門(かど)に 手まりつく・・・
 そが中にうちまじりぬ その中に 一二三四五六七(ひふみよいむな) 汝(な)は歌い 汝はつき つきて歌いて 霞(かすみ)たつ 永き春日(はるひ)を 暮らしつるかも・・・」


 さらに、はるか群集より離れてひとり修行する毎日を、良寛は次のようにも言っている。
 
 「世の中に まじらぬとには あらねども ひとり遊びぞ 我はまされる」


 良寛については、このブログでも何度も取り上げてきたが(’10.11.14の項など)、今の贅沢三昧(ぜいたくざんまい)な私には到底まねのできない、”赤貧(せきひん)洗うがごとし”暮らしの中で、どうして最後までその修養の心を保ち続けられたのか。
 ただしその良寛本人にも、その人生の最後の時に、幸せのほほえみの一瞬が訪れたのだが・・・それは当時、正月の鏡餅(かがみもち)の割れ目で吉凶を占ったように、フォーチュン・クッキーでの占いに通じるところがあったのかとも思うのだが・・・あっと驚く奇跡が起きるこころ・・・。

 「・・・日暮寥寥(りょうりょう)人帰りし後 一輪の名月素秋(そしゅう)を凌(しの)ぐ」

 (日が暮れて子どもたちの帰ってしまった後には、一輪の名月が、秋空に高く輝いている。)

 
 日ごとに寒さが増してくる。今日も朝の気温はー3度で日中でも5度までしか上がらなかった。
 東の空の雲が夕日に染まり、葉が落ちたカラマツの防風林の上には、半月が出ていた。(写真下)

 (参照文献:『良寛歌集』より 『良寛』松本市壽編 角川文庫)


 

 




 

 

紅葉の終わりと黄葉の始まり

2013-11-04 17:53:52 | Weblog
 

 11月4日
 
 この秋、いい季節なのに10月中に、私は一度も山に登らなかった。
 いろいろと理由はあるのだが、すべては年寄りになってきて、日々ものぐさになってきたからである。
 毎年の恒例にもなっていた、紅葉の、さらには新雪の北アルプスへの遠征登山へと出かけるタイミングを失い、さらにいつもの大雪・十勝岳連峰への新雪登山でさえも、体調不良で出かけることができなかったのだ。

 つまり、週に一二度買い物で街に出かける以外は、じっと家にいたというだけのことだ。
 まあそれはいつものことだし、取り立てて私がふさぎ込んでいるとか、引きこもりになっているとかということではなく、ぐうたらな性格そのままに、家にいてのんびりと毎日を送っていただけのことであるが。

 ただそうして無為に時間を過ごしたことが、大切な残り少ない人生の無駄な時間の過ごし方だったとも思わないのだ。
 つまり、ひとりで家の中にいても外にいても、ここでのやるべき仕事はいくらでもあるからである。
 ただしそれは誰かに強制されるものでもなく、また時間を区切ってどうしてもやり終えなければならないものでもないから、自分に甘くなり、ぐうたらに過ごしては物事がいつまでも終わらないという弊害(へいがい)も出てくるのだが。

 秋から初冬にかけての、北アルプスなどの山々の景色を見逃した代わりに、その紅葉に時期にこうしてずっと家にいたから、おそらくは今年初めだてと言っていいくらいに、家の周りの紅葉の移り行きを毎日見逃すことなく見続けることができたのだ。
 というのも、いつもはそうした内地への遠征の山旅や、大雪十勝岳への二三日の山旅で、家に戻るとすっかり紅葉の盛りを過ぎていたことがよくあったからだ。

 前回にも書いたように、今年は黄色は鮮やかだったのだが、赤が今一つだと思っていたのだが、さらに季節外れの雪の影響もあって、何本も木が折れたり倒れたりして、寂しいものになるだろうと思っていたのだが、そこはそれ、雪の被害もなく元気に生きのびたモミジやカエデもたくさんあって、それらが日ごとに赤くなってくれたのだ。
 今までで一番の色合いにはなってくれなくとも、青空に映える紅葉はどれもきれいなものだ。私は毎年のことながら、楽しい気分になってこの秋の記録の写真を撮って回った。(写真上)

 しかし、こうした紅葉の林の楽しみの他に、根雪になる雪が降る前にやっておかなければならない仕事もあった。
 前回書いたように、あの季節外れの大雪で倒れ曲がった木々を片付けておかなければならないのだ。
 まずは、50年にもなるカラマツの大木から取りかかなければならない。それはまだ緑だった葉の上に積もった雪に耐え切れずに、何と根元の所から折れ曲がっていて、さらにそれは周りのモミジやミズナラにホウノキなどを巻き添えにしていたのだ。
 
 大きく曲がっているだけに反発力が強いから、チェーンソーで反対側に切れ込みを入れた後、木が裂けるのを注意深く見ては少しずつ切っていく。いつでも逃げられるように身を構えながら。
 最後のほうでは、チェーン自体が切り口に食い込みとれなくなることもあるから、さらなる注意も必要だ。
 バリバリと音を立てて、他の木も巻き込んで倒れたかと思うと、あちこちで枝葉が引っ掛かり倒れない。皆伐(かいばつ)ではない間伐(かんばつ)の時のむつかしさがそこにある。
 仕方なく、幹の途中にロープをかけて左からそして右から力いっぱい引いてみる。もう汗だくの作業だ。
 そして、何とか他の木々も倒しながら、カラマツの大木は倒れた。

 さらにここからが一仕事だ。幾つも分かれた大きな枝葉を切り払い、幹を大体6尺(1.8m)くらいの長さで切っていく。
 それで10本になったから、つまり20mほどの高さの木だったことがわかる。
 さらに巻き添えになった木々も合わせて、枝葉を払いながら、小分けに切っていく。
 これだけで2時間余りかかってしまった。(写真)

 

 もうこの年寄りには、その後の作業を続ける元気はない。
 ツナギの服を脱いで、長靴を脱いで家の中に入り、お茶を飲みながら何かをつまんで食べては、録画した番組なんぞを見ていると、もう外に出たくはなくなり、それで今日の外での仕事は終わりといった具合だ。
 誰も助けてはくれない代わりに、仕事が少ないといって誰かにとがめられることもない。まあ結構な、ご身分なのだ・・・。

 しかし、次の日にはその残った仕事をやってしまう。
 まず昨日切ったカラマツ丸太を、まとめて運び集めなければならない。直径32㎝で1.8mの丸太を林の中からどうして運び出すか。
 50㎏位の中ほどのものなら抱えて運べるが、下のほうの100㎏位あるものになるともう動かすのがやっとだから、片方を持ち上げて反対側に倒すいわゆる”尺取虫”方式で移動させるしかない。
 ただしこれは持ち上げて立てるまでに重さが腰にくるから、また腰を痛めてしまう恐れがあり、これも注意が肝心だ。
 そうして汗だくになって丸太を運び、残りの雑木も運び集め、切り払った枝などをさらにナタで切りまとめて一か所に集めて、これでようやく林内もすっきりと片づいたことになる。
 そしてすべては1,2年後に、さらに細かく切り分けて、ストーヴで燃やすための薪(まき)になるのだ。
 ここまで2時間半余り、これで今日の仕事は終わりだ。

 さて、林の隣にある豆の収穫が終わった畑の向こうには、午後の遅い光を受けて、黄金色に色づいたカラマツ林が並んでいる。(写真下)
 やがて数日もたてば、強い北風が吹いて、カラマツ葉の黄色い雨が降り続き、一夜にしてカラマツは寒々しい姿になり、そして冬を待つだけになる。
 カラマツの黄葉は、秋の終わりを告げる、季節のカーテンなのだ。
 つかの間のその色鮮やかな黄色いカーテンが消え去ると、やがて冬の白いカーテンに代わるのだ。緑の兆(きざ)しを受けて変わりゆく春の時期まで・・・。

 家に戻って、録画しておいた番組を見る。
 ”ジョルディ・サヴァールのヴィオラ・ダ・ガンバのリサイタル”
 名にしおうあの古楽器演奏者の第一人者であり、かつ古楽器演奏グループ”エスペリオンXX"や”ル・コンセール・デ・ナシオン”を率いる指揮者でもあるスペイン人のサヴァールだが、最近クラッシック音楽界の動向にすっかり疎(うと)くなった私は、彼がこの秋ひとりで来日していて、東京で演奏会を開いていたなんて全く知らなかったのだが、それはともかく、こうしてテレビの大きな画面でその演奏を楽しめるだけでも良しとしよう。

 17世紀のバロック音楽の時代によく使われていた”膝(ひざ)に挟んで弾くヴィオラ”という意味の6弦のヴィオラ・ダ・ガンバは、むしろ6弦のリュートと4弦のチェロとを合わせたような楽器だといわれていて、その名演奏家としてサヴァールの名はつとに高く、私もあのマラン・マレの「ヴィオール曲全集」などの何枚かのCDを持っているのだが、今回のソロ演奏も、プログラムの組み立てが実に面白く、最後まで通して1時間近くを見てしまったが、できれば演奏会場でホールの音を感じながら聴いてみたかった。
 バッハをはじめとして、アーベル、サント・コロンブ、マレ、ヒュームなどの同時代の作曲家からの小品や組曲内の一舞曲をとって組み合わせては、一つの曲のように演奏していたのだ。
 
 それぞれに”祈り””哀惜””人間の声””音楽の諧謔(かいぎゃく)”というタイトルが付けられていて、それらを通してまるで”バロック時代組曲”とでも呼びたい見事な音楽の流れになっていた。


 「秋の風の ヴィオロンの 節(ふし)長きすすり泣き 

  もの憂き哀しみに わが魂を 痛ましむ・・・」
 
 (ヴェルレーヌ「秋の歌」より 『月下の一群』堀口大学訳 新潮文庫)

 このサヴァールのヴィオラ・ダ・ガンバの音色こそは、秋の日の遅い午後に、ひとり音楽を聴き入るにはふさわしかった。
 ひとり奏(かな)でるヴィオラ・ダ・ガンバの音色は、またひとりの私の心にも合い和するように響いていたのだ。

 
 「時の鐘 鳴りも出(い)づれば せつなくも胸にせまり

  思いぞ出ずる 来し方に 涙は湧く・・・」(同上)