ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

日高山脈夕景と 『バグダッド・カフェ』

2012-10-29 17:19:35 | Weblog
 

 10月29日

 北海道の、短い秋が深まってきた。林の中の木々は、それぞれに紅葉の盛りを迎えているものもあれば、もう散ってしまったものもあり、少しずつ色づき始めたものもある。そして、空高く競い立つカラマツの黄葉も始まり、風の強い日には庭や屋根に舞い落ちる。

 毎日、晴天の日々が続いていた。私にとっての仕事の日々である。
 家の周りを取り囲む、林の木々の手入れをしなければならない。春先に何度も見回って、あちこち片づけてから、暑い夏の間は何もしなかった。林の間をめぐる作業道の手入れもしていないから、道は所々ササに覆われてしまっている。
 つまりそれは、日ごろから登山者たちが何の気なしに歩いている登山道も、こうしたササなどが茂る所などでは、年に一二回のササ刈りなどの手入れが必要なのだ。前回に登った大雪山は松仙園(しょうせんえん)への登山道が閉鎖されているのも、そうした理由からだろう。

 ともかく、まずはその自宅林内の作業道のササを刈り払い、道筋をつけてから、傾いたり、枯れ始めたりしているカラマツの木を、チェーンソーで切り倒していく。
 もう樹齢50年近くにもなる、十数メートルほどの木の伐採(ばっさい)には危険が伴う。毎年、プロの作業者たちですら命を失う事もあるほどで、現にだいぶ前の話になるが、私の友達の身内のひとりが、林の中で伐木作業中に、倒れてきた木の下敷きになって亡くなっているくらいなのだ。

 高い木を切る時に、計画的にその区画を全部伐採する皆伐(かいばつ)の場合は、つまり開けた下の方向へ低いところから順に切り倒していけばいいから、まだいいとしても(それでも危険な作業に変わりはないが)、間伐(かんばつ)の場合は、それも家の林のように木が大きくなってきてからの間伐はやっかいである。
 高低差もあまりなく、他の木々が周りを取り囲んでいる所で、特定の一本の木だけをうまく切り倒さなければならないから、なるべく他の木に当たらないような方向を選んでから、まずはその木の根元の部分に楔(くさび)形の切り込みを入れ、その反対側からやや斜め下に向かって、チェーンソーの刃を当てて切り込んでいく。

 そして、切り終わる寸前、木が揺らぎ始めた頃から危険が増してくる。切り終わらないうちに木の幹が裂けて、倒れながら大きく跳ね返ったり、チェーンソーの歯が切り離れた木の幹との間に挟まったり、途中で他の木に引っ掛かってしまったりするからだ。
 それぞれに、今までの経験から何とかひとりで工夫して、木を完全に地面に倒してしまう。そして、まず枝を切り落とし、次に根元部分から、大体6尺(180㎝)位の長さで切っていく。
 昔は、2、4mとか3、6mの長さにも切っていたのだが、クルマも入れない林の中、とても一人で運ぶことなどできなくて、今では6尺物が限度だ。それを一本一本、家のそばまで運んで行く。ストーヴを燃やす今の時期でも、汗びっしょりになる仕事だ。

 一区切りつけたところで、家の中に戻り休んで、時には風呂をわかして入り、やれやれという毎日だが、いつも夕方になると、もう一つの楽しみがある。家の前から見える日高山脈の夕日だ。
 雨の日や曇り空になっている時にはもちろん見えないが、こうして冬にかけては天気の良い日が続き、少しでも西の空にすき間があれば、毎回違った夕焼け空を見ることができる。

 それは、自然という神様が私にくれる、とびっきりのショー・タイムの時間なのだ。
 全天空が、茜(あかね)色に染まる壮大な夕焼け空というのは、年に一度か二度あるくらいだけれども、それでもどんな夕焼けの空もそれぞれに美しい。
 一昨日の夕焼け空も、取り立てて言うほどのものではなかったけれども、ペテガリ岳(1736m)の後ろに夕日が沈み、山々のシルエットの背景が赤くなったまま、しばらくその色合いが続いていく、そのひと時が見ものなのだ。(写真)
 さらに私は夕日が沈む時以上に、沈んだ後の茜空から赤紫の闇へとゆっくりと変化していくひと時が好きなのだ。気がつくと、暗くなった空には一番星が輝いている・・・。

 
 その夕焼け空が印象的なシーン・・・地平線の見える砂漠の中を走る道の傍にある、ネオンの灯ったカフェ兼モーテルの家・・・そこに人々の日々の生活がある・・・。広大な夕焼けの空。
 私が前から見たいと思っていた映画、『バグダッド・カフェ』がつい数日前に、BSの12チャンネルで放映されていた。『東京ごはん映画祭』と名うたれた催し物の一環としての上映らしかったが、そんなことはどうでもよい、ともかく名作という評価のある映画をこうして見ることができたことに、改めて感謝したいと思う。
 さらには、私は最初に公開された映画をもちろんのこと見ていないのだが、これは最近、ディレクターズ・カットという監督の意向によって新たに編集しなおされた、新版ということでもあったのだ。

 私は高校生の時代からの洋画ファンであり、幸いにも東京で出版編集の仕事を得て、その中の音楽・映画セクションンにいたこともあって、昔の名画といわれるものは言うに及ばず、新しい映画についても日々気にはなっているのだが、こうして長年、田舎に引っこんでいる今では、ただテレビで放映される映画だけが頼りという、はなはだ心細い状態にあるのだ。
 だから新しい映画は見ることができず、数年後にテレビで放映されるものだけを見るという、極めて時代遅れな見方をしているのだ。もっともそれによって映画の価値が変わるわけはないと、自分に言い聞かせてはいるのだが・・・。
 ただし、良い点もある。後出しじゃんけん的ではあるが、評価の高いものを選んで見ることができるからだ。

 つまり、テレビで放映されるものは、玉石混交(ぎょくせきこんこう)のピンキリの映画があるからすべてを見るわけにもいかず、どう選択するのかが大切になってくる。
 古い映画の名作と呼ばれるものは、大体頭の中に入っているからいいけれど、比較的新しいものはどう選んで見るのか。そこでは、映画専門誌などで発表されるその年の映画ベスト10などをあてにするしかない。

 とはいっても自分の感性に合うかどうかはわからないし、たとえば、1989年度のキネマ旬報社ベスト10では、あのハリウッド映画の『ダイ・ハード』がベスト1に選ばれていて、私は思わずわが目を疑ったほどだ。ちなみに同じ年のこの『バグダッド・カフェ』は6位、『ニュー・シネマ・パラダイス』は7位だった。
 だから後は、制作された国や監督・出演者などの名を見て、新聞雑誌等の映画評を思い出し、最後には自分の判断で選ぶしかない。

 この1987年制作の映画は、アメリカのラスヴェガス近郊の、モハーヴェ砂漠(砂漠は砂丘をイメージしがちだが、乾燥した荒地をも意味する)を舞台にしている。
 バグダッドというあのイラクの首都の名前が、この地の名前としてつけられていて、映画の題名にもなっているのだ。それはヴィム・ヴェンダースの『パリ、テキサス』(’84)でのテキサス州にあるパリという町の名の場合と同じだが。
 そこにあるさびれたカフェでの話なのに、監督はパーシー・アドロンという英語風な名前ながらドイツ人であり、れっきとした統一前の西ドイツ制作の映画なのだ。

 私はこの映画を、録画ではなく、夜に放映されたその時間に合わせて見始めて、とうとう最後まで画面から目を離すことなく見終えてしまった。
 映画としての面白さもさることながら、この民放BS12チャンネル(TwellV)が、何と途中にCMをはさむことなく、一気に放映してくれたからだ。映画は、テレビで見るにしてもこうあるべきなのだ。(NHKを除く他の民放BSでは、CMが多すぎて録画した後の編集にひと苦労してしまう。)

 ストーリーは、ドイツから観光旅行でやって来た夫婦が、(ラスヴェガスで大損したのか)途中で夫婦げんかをして、妻は車を降りてひとり旅行ケースを引きながら砂漠の道を歩いて、やっとのことで一軒家のさびれたモーテル兼カフェにたどり着く。
 行く当てもないそのドイツ女は、不審に思うカフェの女主人にうとまれながらも、そこで何日かを過ごすうちに、このモーテル・カフェの汚さが気になって、がまんできずにあちこちを掃除してきれいにしてしまう。
 (このあたりのドイツ人のきれい好きは、私もかつてのヨーロッパ旅行で経験していて納得できるし、ドイツは一番居心地の良い国だった。)

 さらに、そのカフェの家族たちを喜ばせるために彼女が始めた手品が大うけとなり、一躍、ヴェガスのショー・タイムよりも面白いと評判になり、カフェはお客さんで大賑わいになる。
 しかし、観光ビザで入ってきた彼女は、それ以上長くはいられなくなり、出て行くことになる。
 もちろん話はそこで終わるはずもない。名曲「コーリング・ユー」の呼び声に乗って彼女は再び戻ってきて、ハッピーエンドへとアメリカ映画らしい結末に向かうのだ。

 いい映画だった。何より、ドイツ人とアメリカ人との違いを融合して作った、ロード・ムービーの温かいヒューマン・ドラマになっていたからだ。
 ドイツとアメリカの違いは、彼女のドイツなまりの英語だけではなく、たとえば、濃いコーヒーを飲むドイツと薄いアメリカンとの違い、そのコーヒーを作る壊れやすいアメリカのコーヒー・ミルと(ケンカ別れした旦那が置いていってくれた)丈夫なドイツのポット式のコーヒー・ミルなどである。

 ジャスミンと呼ばれる主人公のドイツ女を演じる、いかにもドイツらしい名前のマリアンネ・ゼーゲブレヒトは、太った体にやさしいドイツのおばさん顔という容姿で、その存在感が素晴らしい。(確か彼女に似たキューピーおばさんみたいな絵を見た覚えがあるが、画家の名前が思い出せない)。
 ドイツ、ミュンヘン近郊のローゼンハイムから来たという設定で、彼女のまさにバイエルン・カラーのスーツと帽子を見て、なつかしい気さえした。

 さらに相手役の、ブレンダと呼ばれるカフェの黒人の女主人、いつもイラついて生活に追われている感じの表情が見事であり、その子供でティーンエイジャーの遊び好きな娘、いつもバッハのピアノ曲(『平均律クラヴィア曲集』)を弾いている弟(彼には何ともう子供の赤ん坊がいる)、そして一方家を出たものの、愛する妻が心配で遠くから見ているだけの気の弱そうな主人。

 他にも、メキシコ系らしいバーテンダーの若者と、パトカーでついでにコーヒー・ミルを届けてくれる三つ編みの原住民インディアン系の警官。
 さらには、広い敷地の片隅で、トレーラーを停めて家として暮らしている、元ハリウッドの舞台書割(かきわり)画家の男。何と彼はあのかつての『シェーン』で悪役を演じた、ジャック・パランスであり、さらに驚いたのは、モーテルの一部屋で、通りがかりのドライバーたちに、仕事としてタトゥー(入れ墨)を入れてやっていた女は、その昔、絶世の美少女と言われていたあのクリスティーネ・カウフマンだったのだ。

 昔の彼女を知る私たちおじさん一同は、深いため息をつくしかないのだ。
 当時、あれほど美しく輝いていた娘が、18歳の時に映画『隊長ブーリバ』(’67)で共演した、プレイボーイの色男、トニー・カーティスの甘言に乗って口説き落され結婚してしまい、わずか数年で離婚することになり、彼女の女優人生においても、結局はいい作品に恵まれることもなく、この映画では落ちぶれた女刺青(いれずみ)師として出演していたのだ。この時、42歳。
 調べてみると、彼女は今はドイツに戻って映画テレビ・ドラマなどに出演し、自分の名前のブランド・コスメ品も出しているとのことだが。(ウィキペディアより。)

 しかし、この映画を見ると、当時の清純な彼女の面影がちらつき、その後の彼女の人生と時の流れを思ってしまうのだ・・・。
 さらに日本映画界での、鰐淵(わにぶち)晴子の美少女時代の面影とその後の人生も・・・。(幼い頃に彼女の『ノンちゃん雲に乗る』(’55)を見た記憶があるのだが、調べてみると何と母親役はあの原節子だった。)

 もっとも人のことを言う前に、そういうおまえこそ悲惨な人生だったのではと言われそうだが、脳天気な私には、気楽な昼寝の高いびきの毎日であり、まあ”あとは野となれ山となれ”といったところなのだ・・・。)

 すっかり懐かしのスターたちの話で、わき道にそれてしまったが、この映画『バグダッド・カフェ』の話に戻ろう。
 後半部分の、ジャスミン、ブレンダを含めての皆で演出するショー・タイムのシーンなど、いかにも昔のアメリカ映画にありそうなミュージカル仕立てであり、やや冗長(じょうちょう)だし作りすぎだとみられなくもない。
 ただ、いろいろと互いのいがみ合いや苦労の過程があって、結局は楽しく結末を迎えるという古き良き時代のアメリカ映画をほうふつとさせるという点では、それも納得できるのだ。
 あくまでも私の推論なのだが、このドイツ人の監督は、こうした古い時代のアメリカ映画をよく知っていて、一見あり得そうにもないドイツ女を主人公にすることで、現代に置き換えて、夢のある映画を作ろうとしたのではないか。 

 ここでのジャスミンは、まさしくあの『シェーン』(’53)の流れ者のヒーローそのものであり、その時の敵役であったジャック・パランスが、ここでは恋人になる役だなんて・・・さらに、クリスティーネ・カウフマンの女刺青師という役柄は、ペリー・コモの歌で大ヒットした主題歌で有名な『バラの刺青(いれずみ)』(’55、イタリアの名女優アンナ・マニャーニにバート・ランカスターという異色で地味な組み合わせ)での、彼女の切ない表情が浮かんでくるような、まさに考えられたキャスティングだとも思うのだが。
 そして、映画の中でたびたび映し出されたヒッチハイカーとブーメランの組み合わせは、旅をしてもまた戻ってくることへの暗示なのだろうかと、いろいろと考えても見た。

 つまり監督・脚本を手がけた、パーシー・アドロンのこの映画にかける思いが、あちこちから伝わってくるのだ。映画は素晴らしいという作者の思いが・・・。
 それは上でも少しふれたが、奇しくも同じ年に公開されたあの『ニュー・シネマ・パラダイス』にも言えることだし、さらに一人の女主人公が現れて周りの人々にひと時の幸せをもたらすという話の映画は、他にもいくつかあるが、さらにたまたま同年のキネ旬ベスト10の2位になったのは、あの『バベットの晩餐(ばんさん)会』であり、これもまたそうした幸せな気持ちにさせてくれる映画だった。

 さらに一つ付け加えれば、同じドイツの名監督のヴィム・ヴェンダース(『都会のアリス』(’74)、『ベルリン天使の詩』(’87)など)による作品で、上でも少しふれた『パリ、テキサス』(’84)という、ライ・クーダーのスライド・ギターが印象的な名作があった。
 同じアメリカの砂漠の中で始まるロード・ムービーであり、一人の男の家族をめぐる放浪の旅の映画だったが、意図するところは違っていても、同じドイツの映画監督が、地名にこだわって作ったアメリカを描いた映画ということで、この二つの作品には実に興味深いものがある。

 そうやって見てくると、いやー映画って本当に面白いですねと言いたくもなるのだ。
 このところ、このブログで3回続けて映画について書いてしまったが、これらの映画は、私の生涯のベスト映画にあげるほどのものではないにせよ、こうした佳作映画のたくさんの積み重ねが、長年にわたって私の心をはぐくみ、ある時は慰め励ましてきてくれたのだ。
 「若いうちに本当のものをたくさん見ておきなさい。」というあの淀川長治さんの声は、ヨレヨレおやじの今の私の胸にも響いてくるのだ。

 さて、もう1カ月近く山に行っていない。そこで、そろそろ新雪の雪山に登ろうと思っていた矢先、上に書いた自宅林内での作業中に、誤って丸太を足の甲の上に落としてしまった。数十キロもある丸太だから長靴の上からとはいえ、一瞬声を上げるほどの痛さだった。
 歩けないほどひどいものではないのだが、とても山は無理だ。しばらくは、おとなしくしているほかはない。ああ、あの青空の下の鮮やかな白雪の山々の姿が逃げて行く・・・。年寄りにとっては、山は年ごとに逃げて行くのだ。

 昨夜から、季節外れの雨がトタン屋根を叩いて降り続いていて、ようやく昼過ぎには上がったのだが、重たい曇り空のままだ。いい天気の日が続けば、必ず雨の日もあるということなのだ。

 ままよ、人生ではそういうことがよくあるものだ。これも神のおぼしめし。足が痛い、天気が悪いと悔やむよりは、そのおかげでこのブログを書き上げたし、他のこともできるのだと、ぐうたらオヤジは考えるのでありました。
 
 さらに、明日の天気を告げるかのような、上の一昨日の夕焼けとはまた違う、今日の夕焼けの色・・・。(写真下)

 

ムシトリナデシコと 『リバー・ランズ・スルー・イット』

2012-10-23 18:59:19 | Weblog
 

 10月23日

 この数日は毎朝、霜が降りるほどに冷え込み、空気がぴーんと張りつめている。北海道の深まりゆく秋の中、私は仕事の手を休めて、一面に広がる青空を見上げる。周りを取り囲む木々が、一気に色づいてきたのだ。

 これからの季節、札幌や旭川などの北海道の西側半分は、毎日曇りや雨、そしてやがては雪の日が続くようになり、残りの東側の半分、帯広・釧路・北見などでは、晴れた天気の日が続くようになる。
 それは、日本海側と太平洋側に分かれた日本の冬の天気分布そのままの形でもある。

 昨日、いつもの年よりはずいぶん遅く、日高山脈の山々も新雪に輝いていた。
 そんないい天気の日に、家の中にいて、パソコンのキー・ボードを叩いて一日を過ごしてなんかいられない。
 まずは外に出て、夏の間、家の周りのあちこちに咲いていた草花の後片付けをして、電気電話の引き込み線の邪魔になる何本もの木の枝を切り、玄関までの枕木の木道の取り換え補修をし、薪(まき)割りをして、五右衛門(ごえもん)風呂に入る。あー、極楽(ごくらく)、極楽。

 昨日、NHKの「クローズアップ現代」でパソコンやスマホなどの”ネット依存症”の番組をやっていた。
 てやんでえー、こちとら自慢じゃないが、スマホはもとより、ケータイなんかも使わないし、電話を使うのも週に一二回だけ、おまけに人里離れた林の中のボロ小屋に一人住まいで、週に一度、近くの友達の家に行き、よもやま話をして、街で買い物をして暗くなる前には家に帰ってくるという、ちょー孤立生活だから、そんな心配なんぞこれっぽちもない。

 といきがっては見たものの、そんな私だからこそ、誰かに頼りたくなり、ひんぱんにネットでのつながりを求めたくなるはずなのでは・・・。
 しかし、本来が誇り高きグウタラな性格であり、そんな新たな人間関係にわずらわされるくらいなら、最初から一人でいた方がいいと思うのだ。つまりは、厳しい社会生活に対応できない、変り者のオヤジにすぎないのだろうが、それでいいとひらきなおっている。

 私は、これもまた先日テレビでやっていたが、あのダンゴムシを思う。
 外敵に会えば、すぐに体を丸めて自分の身を守り、敵がいなくなってから再び歩き出す。安全な夜になって、枯葉や虫たちの死がいを食べあさり、必死に生きていく。
 他の誰かに認められなくてもいいじゃないか、誰かにさげすまされようが、バカにされようが、いいじゃないか。誰かを恐れさせ、誰かを支配することもなく、ただひとりで地面を這って生きていく。怖くなったら、丸まってしまえばいい。
 大切なことは一つだけ。この世に生まれた自分だけの命だから、大切にして生きていくことだと、ダンゴムシは教えてくれるのだ。
 
 あの『黒猫のタンゴ』のふしで歌う。
 「丸くなるダンゴ、ダンゴ、ダンゴ、僕の先生はダンゴムシ、チャララララ。」

 そのダンゴムシが動き回る我が家のそばに、今の季節には不釣り合いな鮮やかな濃い桜色の花が咲いている。ムシトリナデシコの花だ。(写真)
 この花も外来種なのだが、今ではどこにでも咲いていて、とくに初夏の頃、家の近くの道路沿いに連なって咲いている赤い線を見るのは嬉しいものだ。そして、そのきれいな色合いもあるのだが、荒れ地などにまとまって咲いている姿を見ると、まるで夏の高山に咲いているあのエゾコザクラやハクサンコザクラさえも思い出してしまう。

 私がこの夏に、そんなコザクラ類の花の姿を見たのはわずかに2回だけ、あの大雪と南アルプスに行った時だけだ。
 こうして、今では年ごとに登山回数が減ってしまい、月に1度のペースがやっとのところだ。
 それは、自分の年齢とともに意欲も衰えていくというだけのことなのだが、しかし一方で世間では、最近新たな登山ブームが起きているそうであり、テレビでもNHK・BSの新たな『にっぽん百名山』や、BS・フジの『絶景百名山』のような歩行者目線のカメラ映像で見ごたえのある番組が放送されていて、まだまだ日本には様々な季節に登るべき山がたくさんあることに気づくのだ。

 山の景観からいえば、雪がついている時の山の姿がベストだという私の思いは変わらないのだが、残雪の頃、新緑の頃、花が盛りの頃、紅葉の頃、そしてすべてが雪に覆われた頃とそれぞれの季節に、それぞれの山の姿を求めて、これからもお迎えが来るその日まで、強欲な思いを失うことなく山に登り続けたいたいと思うのだが・・・。

 ただ、周りの自然とともにひとり家にいて、こうして晴耕雨読の生活を続けていくのも悪くはないのだが、外の世界を見てしまうとそこにも行ってみたくなるものだ。
 上に書いたソーシャル・ネットワークでのつながりではないけれども、新しい情報を得られれば、それをもっと知りたくなるし関わりたくなるのが人間の心情だ。
 そうした新しい情報を、次から次に得るのがいいのか、それとも無視する方がいいのか。拮抗(きっこう)した価値をもつものをどちらか選ぶ時には、断定的な答えを出すのは難しいものだ。そして、答えはいつも、節度を守っておやりなさいということになるのだろうが・・・。


 さて、少し前に、いつものNHK・BSではなく民放のBS朝日で、ある一本のアメリカ映画が放映された。
 日ごろから、アメリカ映画を、特にハリウッド映画に対しては、何かと批判的になってしまう私だけれども、もちろんすべてのアメリカ映画を敬遠しているわけではないし、たとえばニューヨーク派と言われるウッディ・アレン(『アニー・ホール』『ハンナとその姉妹』など)や、マイナー系出身のジム・ジャーミッシュ(『ストレンジャー・ザン・パラダイス』『ダウン・バイ・ロー』など)の作品はいつも見てみたいと思うし、少し前までのアメリカ映画の良心を描いてきたともいえる監督たち(キャプラ、ミネリ、フォード、ヒューストン、ホークス、ワイラー、ワイルダー、カザン、ルメットなど)の数多くの作品もまた忘れられない。

 すべては70年代のスピルバーグやルーカスそしてコッポラ世代の監督たちの出現で、アメリカ映画は大きく変わってしまったといえるだろう。
 もっともこうした大作主義の伝統は、彼らに始まったことではなく、あのグリフィス(『国民の創生』1915年、『イントレランス』1916年)に始まり、さらには1960年代に至るまで、『十戒』(’56)や『ベン・ハー』(’59)や『クレオパトラ』(’63)などの歴史ものの大作映画が作られていたのだから、それが近代的なテクノロジーで姿を変えて現在に至っているともいえるのだ。
 それらの映画の根底にあるものは、よく言えば一大スペクタクルの開発であり、悪く言えば見世物としてのけばけばしさなのだ。
 
 しかしアメリカ映画は、そうした近未来的アクション・ファンタジー映画だけではない。昔ながらの、アメリカの古き良き時代の伝統を受け継いでいる映画もあるのだ。その一つが、これから取り上げる『リバー・ルンズ・スルー・イット』(’92)である。
 監督は、『明日に向かって撃て!』(’69)や『スティング』(’73)などの名作で有名なロバート・レッドフォード(1936~)である。
 俳優あがりの監督は他にも多くいるけれども、彼とクリント・イーストウッド(『許されざる者』『硫黄島からの手紙』など)の場合は、間違いなく今後ともにアメリカ映画の名監督のひとりに数えられることになるだろう。

 ところでこの『リバー・ランズ・スルー・イット』は、レッドフォード監督作品としては、アカデミー監督賞を受けた『普通の人々』(’81)の後10年後の、第三作目になる映画である。
 今にして思えば、これはもう20年近く前の映画であり、私が東京に行った時に、たまたま映画館で見たものなのだが、ぜひもう一度見たいと思っていた映画の一つだった。
 そして、新聞の一週間の番組表の中にその名前を見つけた時には嬉しかった。録画して改めてゆっくりと見ることができたのだ。

 物語は、禁酒法時代のアメリカの片田舎、モンタナ州の小さな町の教会の牧師の父のもとで育った、主人公の長男とその弟を中心にした家族の話である。
 彼らは子供のころから、教会で父親の説教の話を聞き、一方では釣りの名手でもあった父から、フライ・フィッシングの技術を学び成長していく。そんな二人の子供の時代から、やがて青年時代を経て大人の時代になるまで、機会あるごとに、父との三人であるいは二人だけで川へと出かけて行き、一緒に釣りを楽しむのだ。そこでの釣りのシーンの素晴らしさ・・・。

 森の緑、川の流れ、その水辺で、リールからフライ(疑似餌、ぎじえ)をつけた糸を繰り出し遠くへと投げる。その糸は逆光にきらめいて、生き物のようにうねり流れていき、そこにニジマスがかかり、水の中から跳ね上がり、しぶきをあげる。
 釣りをしない私だが、この映画のシーを見ただけで、釣竿(つりざお)を買って川に行きたくなったほどだ。
 
 二人の兄弟は、それぞれの道を歩き、やがて再び故郷の街で会うことになるが、そこには運命の出会いがあり、と同時に悲劇の時も待ち構えていたのだ。
 そして何十年かが過ぎ去り、年老いた彼は、ただひとりいつもの川辺に降り立ち、流れに向かって釣竿の糸を投げるのだ。監督レッドフォード自身のナレーションが流れる・・・。

 「・・・谷間に黄昏(たそがれ)が忍び寄ると、すべては消え、あるのは私の魂と思い出だけ・・・そして川のせせらぎと四拍子のリズム、魚が川面をよぎる期待・・・やがてすべては一つに溶け合い・・・その中を川が流れる(A river runs thurugh it.)」

 こうした詩的な言葉は、物語の半ばでも印象的に使われていた。主人公が帰郷して、父の部屋の前を通りかかり、あのイギリスの田園詩人、ワーズワースの詩を朗読する父の声を聞いて、彼もまた暗誦(あんしょう)していたその詩を父とともに朗読するのだ。

 「草原の輝きはもはや戻らず、花は命を失っても、後に残されたものに力を見出そう。本能的な思いやりのなかに、苦しみの末の和(やわ)らぎのなかに、永遠の信仰のなかに、生きるよすがとなる人の心に、その優しさとその喜びに感謝しよう。人目にたたぬ一輪の花も、涙にあまる深い思いを我にもたらす。」(以上 戸田奈津子訳)

 しかし世の中には、こうした説教くさい言葉が語られるような場面が嫌な人もいるだろうから、そんな人々にとってはこの映画は退屈なものになるだろう。
 確かに、この原作(『マクリーンの川』)の物語の背景にあるのは、もともと旧約聖書のカインとアベルの話からとられたエリア・カザン(1909~2003)の名作『エデンの東』(’54)に出てくるような兄弟の話であり、また『草原の輝き』(’61)の青春時代への惜別の思い出でもあるのだろう。

 そうした、やや説教じみた、良き時代への懐古(かいこ)主義的な話が、作り物的なにおいを感じさせるシーンもあるのだが、それでも掛け値なしに言えるのは、モンタナの自然をとらえたカメラ・ワークの素晴らしさであり、アカデミー撮影賞を受けたというのも確かに納得できるし、それはさらにその数年後に撮られた『モンタナの風に吹かれて』(’98)でも十分に生かされている。

 映画のラスト・シーン・・・それらの思いを胸に、ただひとり老いた釣師は川辺に立って、釣り糸を垂らすのだ。まるで昔の思い出を、引き寄せるかのように・・・。


 今日は午前中まで、昨夜からの弱い雨が続き、午後には風が強くなって、紅葉が始まったばかりの木々を揺らしていた。
 明日の朝には天気は回復して、それでも寒気が流れ込んで、一段と冷え込んだ朝を迎えることになるだろう。
 一歩一歩と、冬に近づいていく。私の好きな白い冬の季節は、白く輝く永遠の世界なのか、それともすべてを覆い隠し消し去る、沈黙の白い世界なのか・・・。
 


沼の平(2)と 『きつねと私の12か月』

2012-10-15 20:35:43 | Weblog



10月15日
 
 昨日の朝、家から見える日高山脈の稜線には雲がかかっていたが、上空には快晴の空が広がっていた。
 朝の斜光線の中、露に濡れた草ぐさがきらめいている。気温5度。ぴーんと張りつめた秋の冷たい空気が心地よい。

 もうあのうるさい、蚊やアブたちもすっかり姿を消してしまった。これで、夏の間は敬遠していたさまざまな仕事ができるようになった。庭仕事に林内作業、家や小屋の補修工事など。
 そして薪(まき)割りをして、五右衛門(ごえもん)風呂をわかし、入る。
 とかく日ごろうるさき浮き世なれど、ひとりわが世はこともなし。

 しかし、数日前にふと見たテレビで、ナイジェリアの田舎に住む若い娘が、あなたが知っている諺(ことわざ)はと聞かれて答えていた。

 「ともかく生きていれば、希望はある。」

 日本から来た若いレポーターは、それを聞いて思わず小さく笑っていた。
 しかしそれは、この現代文明の時代に、いまだに最貧劣悪な政治経済環境の中で暮らしている、アフリカの人のことを考えれば、胸にしみいる言葉だった。
 日ごろから、私たちが当たり前のこととして送っている毎日、その平穏な日常こそが、実は人として生きていく上での最高の環境なのだということ・・・。私たちはいつも、小指に小さな傷を受けて初めて、小指一つのありがたさに気づくのだ。

 私は、静かな林の中の家で暮らしている。それでもなお、時には大きな自然である山へと行きたくなる、そこでさらなる自然のありがたさに気づくのだ。だから私は、山に登る。
 前回からの続きで、大雪山は愛山渓(あいざんけい)登山口からの沼の平への山旅、2日目の話である。

 前日の天気が良くなかったので、そのまま登山口にある宿に泊まり、次の日も再度、同じコースを歩くことにした。
 紅葉を見るためには、朝早く出かけて行く必要はない。青空が広がり、木々に陽が当たるようになってからでいい。6時に宿の朝食を食べ、6時半に登山口から歩き出した。
 駐車場には、昨日からあった数台のクルマの他に、朝早くやってきたクルマも数台並んでいた。それでも、あの旭岳温泉や層雲峡はもとより、高原温泉や銀泉台での数十台ものクルマが停まっている混雑とは、比べものにならないほどに静かだった。

 二つに分かれるコースの分岐点で、若い二人が休んでいた。彼らは滝のコースを行くのだろう。
 確かにそちらの方が、昨日見たように紅葉は素晴らしいのだが、朝早いうちは東側の尾根の日陰になってしまうから、また今日も同じように帰りに回ればいい。
 私は、昨日と同じ三十三曲がりの斜面をジグザグに登って行った。下の方からしきりに笛の音が聞こえてくる。ヒグマを警戒する彼らが吹いているのだろうが、いいことだ、”備えあれば憂いなし”のたとえのように。

 私は、山で何度もヒグマに出遭っているのだが(’08.11.14の項参照)、そのうちのいくつかは、山慣れした不用心さから、鈴も鳴らさずにいた私の不注意によるものだった。
 その後も、相変わらずひとりの山歩きだから鈴は持っているのだが、ザックに付けてずっと鳴らして歩くのはうるさいからと、ズボンのポケットに入れて、場所や天気の状態を見て、要所要所で鳴らすことにしているのだ。

 昨日もきれいだったミネカエデの黄葉のトンネルの道が、ともかく今日は青空に鮮やかに映えている。木々の間から遠くに、道北の名山、天塩岳(1558m)が見えている。あの山に登ったのは、もうずいぶん昔のことだ。
 季節は今と同じころ、ふもとの立派な無人の山小屋に泊まり、翌朝、快晴の空の下、さわやかな風に吹かれて前天塩から天塩岳へと周遊したのだが、誰にも会わなかった。

 今、私は青空の下、黄葉の中の山道を登っている。ここでも前後には誰もいなくて、ただ小さな水の流れの中を歩く私の長靴の音だけが聞こえていた。やがて、沼の平の湿原を歩く木道に出る。
 昨日の、半ばガスがかかっていた光景から見ると、快晴の空の下、何と明るく穏やかな風景だろう。
 振り返る先には、朝の光にシルエットになった愛別岳(2112m)の岩尾根が見え、そこから永山岳(2046m)、そして当麻岳(1967m)へ続く山なみがきれいだった。その裾野に当たる斜光線の紅葉の光景・・・。(写真上)

 何度も立ち止まりながら写真を撮って行く。昨日は見えなかった旭岳(2290m)の姿が、沼の水辺に映っている。
 そして沼の平の湿原帯が終わり、再びぬかるみの道になり、昨日の第二岩峰へと登って行く。青空の下、すべての景色はきれいに見えるのだが、ただ残念なことに、昨日までは、色は少し悪いながらも赤くなっていたウラジロナナカマドの葉が、今朝の冷え込みのせいだろうか、丸く縮まり裏返ったりしていた。
 紅葉のベストは1日だけだというのは、厳密に言えば確かにその通りだろう。もっとも、すべての木が同じようにいっせいに丸まってしまうわけではなく、早い遅いがあるし、現にここでもまだ鮮やかな色を残している木々が幾つもあった。

 岩峰には、先に出発した人が二人いてカメラを構えていた。ここは正面に旭岳を眺め、振り返って沼の平を俯瞰(ふかん)できる展望台なのだ。
 彼らが下りて行った後、ひとりきりの静寂の中、しばらくの間は岩の上に座っていた。ただ気がかりなのは西側に浮かんでいる小さな雲だ。
 あの小さな雲が、形を変え大きく広がりやがては山々にかかってくる経緯を、私は今までに何度も見てきている。さらに遠くに見える十勝岳連峰の山々も、南側からの雲に覆われようとしていた。
 しかし、そうした雲が出るのは大体、夏の山でのことなのに、今はもう10月なのだ。いつもなら、向こうに見える旭岳の頂きはもう初雪に覆われていてもいい頃なのに、いつまでも気温が高い夏の天気のなごりのようにも思えた。

 第二岩峰から、再びぬかるみの道を当麻乗越(とうまのっこし、1680m)へと歩いて行く。道はゆるやかな登りなのだけれど、小さな岩がむき出しの水たまりの道が続き、いささかうんざりする。
 ここはその昔、私が通い始めたころから変わらない悪路なのだが、これを全部木道にするのには大変な手間とお金がかかるだろうから、むしろこのままの歩きにくい道の方がいいのかもしれない。どうしてもこれらの景色を見たいという人たちだけが歩いてくればいいのだから。

 途中に散在する大きな岩とササ原の丘陵地帯の所々に、紅葉の灌木がまとまって茂っていて、見事な光景を作り出していた。
 次の第一岩峰に上がると、さらに真正面に、すそ野の紅葉が色とりどりの旭岳と熊ヶ岳(2210m)の姿を見ることができた。しかしその後ろには確かに、もう雲が湧き上がってきていた。(写真)

 

 さらにぬかるみの道が続き、そこを抜けると展望が開けてきて当麻乗越に着く。3人ほどの人がいて大きな声で話していた。私は少し離れた所まで行って岩の上に腰を下ろした。
 振り返ると、旭岳には雲がかかり始めていて、真後ろにある当麻岳にもほどなく雲が吹きつけてくるだろう。私は、予定をあきらめてここで引き返すことにした。何も景色が見えない中を歩きたくはない。
 ただ、晴れていれば、この当麻岳から安足間岳(あんたろまだけ、2200m)にかけてのゆるやかな稜線の道は素晴らしいのだ。
 チングルマの紅葉の斜面をトラヴァースしながら、眼下の裾合(すそあい)平を隔てて望む旭岳と熊ヶ岳の姿、それも紅葉の時期に初雪が降った後ならばなおさらのこと・・・。

 まあ今回は、すっかり体力と意欲が衰えた年寄りの山登りだから、無理をすることはない。目の前に広がる沼の平の光景を、じっくりとなめまわすように眺めて楽しめばいいのだ。(写真)

 

 私はそこで、雲の行き来で陰日向(かげひなた)になる景色を眺めながら20分余りを過ごした後、来た道を戻ることにした。
 まだ10時半になったばかりで、戻るには早すぎるのだが、先のことを考えなければならない。またあの宿の温泉に入りたいし、そのあとで4時間近くも車で走らなければならないし、途中で久しぶりに友達の家に寄っていきたいし、買い物もしたい。たまに山に登ると、いろいろとやりたいことが重なってしまうのだ。

 上空はすっかり雲が増えてきて、昨日と同じようになってきたから、まさに”帰心矢の如し(きしんやのごし)”、ぬかるみの道もなんのその、もう写真を撮る必要もないからと、(とはいえ紅葉の美しさに時々カメラを出したりしたけれど)、ともかく沼の平を抜けて、分岐点にまで戻ってきた。
 そこで昨日と同じように、紅葉が見ごろだった滝コースへ行くかどうか迷ったけれども、急ぎたい気持ちもあるし、この曇り空では昨日と同じ景色だと思い切り、少しでも早く着くようにと朝来た道を下ることにした。
 つまり、同じ道を二往復、それも今朝の青空の下の鮮やかな景色以外は、同じような重たい曇り空の下の景色を再度見ることになったのだ。

 人生には、そうした無駄だと思える決断をしなければならない時がよくあるものだ。それは、自分の判断ミスで同じことを繰り返す羽目になった時も含めて、無用な時間の浪費だったと後悔する時でもある。
 しかし、考えてみれば、それらは決して人生の中での無駄な時間であるはずはない。今後のための、何らかの自分の感性を養うべく用意された、もう一重ねの経験になってくるはずだ。
 と自分への言い訳を考えながら、登山口に着いた。それは6時間半ほどの、今の私にとっては適度な山歩きだった。
 すぐに宿の温泉に入って、今日の山での汗を洗い流し、クルマに乗ってさわやかな川沿いの道を下って行った。

 天気は、下界ではまだ青空が広がっていたが、山はすっかり雲に隠れていた。
 これから長時間の運転になるのだが、途中で友達の家に寄って久しぶりに顔を合わせて話すことができた。電話より、メールより、やはり人間は相手に向かって話し合うのが一番だと思った・・・。

 家に戻ったのは日も暮れた6時過ぎだった。
 しかし、いつも山から帰ってきて感じるのは、体に残る疲労感からか、何か一つの予定されていた仕事をやり終えた時のような、ゆるい満足感とでもいうべき安堵感があり、そこで、母とミャオの写真がある仏壇に殊勝(しゅしょう)にも手を合わせた。
 無事に帰って来ることができました、ありがとう、南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)・・・。

 そして、もう一つの楽しみも待っている。それは、デジカメで撮った写真を、大きなテレビ画面で見て、次にパソコンに取り込んでさらに一枚一枚をしげしげと見ることだ。
 カメラの経験だけは豊富とはいえ、”下手の横好き”でいつまでたっても進歩しない私の写真だが、それでもその時に私が見たものを、大体において鮮やかに再現してくれている。ありがたいものだ。
 あの時の山の景色を、いつになってもひとりでねちねちと繰り返し見ることのできる楽しみ・・・。生きていくということは、その喜びの対象が物であったり精神面であったりと、人それぞれの世界は違えども、そうした楽しみがあるからこそなのだろう。
 先にあげた、あのナイジェリアの若い娘の言葉を思い出す。

 ところで私は、もっと若い娘の話、小学生の女の子が自然の中で、動物とともに生き生きと動き回る姿を描いた映画を見た。
 一カ月ほど前にNHK・BSで放送されたものを、いつものように録画しておいて、最近見たばかりなのだが、いろいろと考えさせられるところが多かった。
 それは、『きつねと私の12か月』という、2007年制作のフランス映画であり、監督・脚本のリュック・ジャケはその2年前の作品『皇帝ペンギン』がフランス本国で大ヒット作となり、アカデミー賞(ドキュメンタリー部門)を受けている。

 物語は、フランス・アルプス地方の山の中で両親とともに暮らす少女リラが、たまたま見かけた美しい一匹のキツネの姿を追って、森の中に踏み入るようになり、いつしかキツネと仲良くなっていくというだけの話だが、背景にある四季の風景が素晴らしく、さらにドキュメンタリー・タッチでとらえられたキツネはもとより、ハリネズミやアナグマ、さらにはヨーロッパ中央部では絶滅したといわれるヨーロッパ・ヒグマの姿も見ることができる。
 (もっともヒグマがいるとなれば、この映画の舞台は、ピレネー山脈のフランス側かもしれないのだが。)

 出演するのはベルティーユ・ノエル・ブリュノー(当時8歳)が演じる少女リラひとりだけであり、いかにもこの映画にふさわしいそばかす顔が可愛い少女であり、映画はその少女が大人になり結婚して子供の母になり、その自分の子供時代の話を聞かせるというナレーションの形を取っていて、最後の最後になって、その母と子供の姿が映し出される。

 その少女リラが森の中を歩く様子は、ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』が迷い込む美しく不思議な自然の世界であり、またサンテクジュペリの『星の王子さま』での、王子さまの男の子がキツネとの出会い、次第になじんでいき友達になるという話も思い起こさせる。
 つまりこの映画は、監督のリュック・ジャケが映像を使って描き出した現代の童話なのだ。そして、これは単なる文部省推薦(すいせん)ふうの映画にはなっていない。
 最後の劇的な別れのきっかけとなる、部屋にキツネを招き入れるシーンがあり、その時のことを思い出すように、母親は幼いわが子に話して聞かせるのだ。

 「きつねが私から離れたのは、私のことを嫌いになったからか、それとも森が呼んでいたからかもしれない。」
 「・・・私も縛(しば)りつけたくはないと思ったから。愛するのと縛りつけることは違うの。きつねは人間のペットにはできないの。」

 単に野生動物との愛にあふれる交情を描いたとしても、人間とのその違いをはっきりと明確にさせること、そこに単なる童話には終わらない製作者の思い、箴言(しんげん)を含んだ物語としての意図を感じるのだ。

 こうしたフランス人のものの考え方の系譜として、どうしても、モンテーニュ(1533~1592、『エセー』)やパスカル(1623~1663、『パンセ』)、ロシュフコー(1613~1680、『箴言集』)さらには、アラン(1868~1951、『幸福論』)などに至るフランス・エスプリの流れを考えてしまうのだ。

 この映画を子供向けのおとぎ話だと、一笑に付する人もいるかもしれないが、前にもいじめの問題で少しふれたこともあるのだが、昔の子供向けの名物バラエティー番組の中で、子役になったみんなが一人をいじめるコント・シーンで笑いを誘っていたのと比べて、何とかけ離れた子供の世界を描いていることだろうか。
 真っ正直に、ひとりで大きな世界に立ち向かうことの素晴らしさ、たとえ傷ついてもそこから学ぶことの大切さを教え伝えていくこと・・・。

 いつからこの国では、ゲテモノ社会が面白がられ、日陰の世界や裏社会に生きる者たちをヒーローに仕立て上げるようになったのだろうか。
 正しく生きることが馬鹿正直とさげすまれ、正直者は簡単に電話詐欺にかかり、損をみる社会になってしまったのだろうか。
 莫大な費用をかけて、現代テクノロジーを駆使して、コンピュター・グラフィックで描かれたありもしない話のハリウッドふうな映画よりは、こうした自然の中で生きる人々の単純な話の映画を、私はもっと見たいと思う。(’11.11.6の項参照)

 それは、年寄りの感傷にすぎないのだろうが、阿鼻叫喚(あびきょうかん)渦巻く現代文明の最先端の中にいるよりは、風の吹きぬける林の中に、このままひとりでいることの方が心穏やかに生きていけるからだ・・・。

 「つかの間の舞台の上で、派手な身振りで動き回っては見るものの、出場が終われば、跡形もない。」

 (シェイクスピア『マクベス』第五幕より、小津次郎訳 筑摩書房)
 

 
  

ラクヨウタケと沼の平(1)

2012-10-08 20:52:13 | Weblog
 

 10月8日

 2週間余り前までは暑さにあえいでいたのに、その後ようやく秋の涼しさになったかと思うと、ついに今朝の気温は3度にまで冷え込んで、道内では霜の降りたところもあったという。

 この急激な季節の変化が、北海道らしいところであり、そこが私の好きなところなのだ。
 薪(まき)ストーヴを燃やす楽しい季節がやってきたのだ。まずは大きな薪を二本と小さななものを一本入れて、火をつける。炎が広がり、ゴーッという音がする。どこかなつかしく、居心地の良い音だ。
 夏の間は、部屋の中が暑くなるので、ガスコンロを使うのをなるべくやめて、電子レンジでお湯を沸かすようにしていたくらいなのに、あれからわずか2週間余りで、これからはもちろんガスコンロも使えるのだが、その前に薪ストーヴの上には、いつもやかんや鍋を乗せておいて、お湯を沸かすことができるようになるのだ。

 こうして、家の中にいるのも悪くないし、また外に出て歩き回るのにもいい季節になった。
 一昨日、近くの落葉松林(からまつばやし)に行ってみた。去年や一昨年だけでなく、このところ不作続きのラクヨウタケ(ハナイグチ)を探すためにである。

 もうずいぶん昔の話だが、母とおばさんが北海道にやって来て、この家で何日かを過ごした時に、近くの落葉松林に行って、ラクヨウが群生した20cmほどもある見事な大株を採ってきたことがあったのだが、もう二人とも亡くなった今では、それも私だけの思い出になってしまった。
 今年も、余りにも暑く長い夏が続いたから駄目だろうと期待はしていなかった。そして案の定、林の中に入ってもカラマツチチタケ(食べられるが淡泊な味)はあるものの、ラクヨウの姿は見つからなかった。
 それでもなんとか、ほんの一口だけでも食べたいと、長い棒でササをかき分けて歩いていたところ、いつもの大きく開いたラクヨウではなく、まだぬめりが残るナメコ状(ツボミ状)の、小さなラクヨウが二三本出ていた。さらにしゃがんで辺りを見回すと、他にもあちこちから顔を出している。(写真上)やったぜ、久しぶりの大収穫だ。
 1時間ほどの間に、そんなツボミ状や少しカサが開いて大きくなったものも含めて、レジ袋半分ほどものラクヨウを採ることができた。

 家に帰って、半分は近くにいる友達の所に持って行ってやるとして、残りは水につけて置き、そこで落葉松の葉などのごみを取り除いてきれいに洗い、適当に細かく切って、鍋で軽く煮る。それを冷ました後、三杯酢と醤油で作った自分好みのダシで浸した容器の中に入れ、上にカツオブシを乗せて、一晩味を浸み込ませておいて、翌日、温かい白いご飯に乗せていただく。
 うー、たまらん。生きていてよかった。

 このラクヨウタケは、、私はいつもの三杯酢味にすっかり慣れてしまっていて、他の食べ方はあまり試したことはないのだが、人によっては、大根おろしに醤油をかけて食べたり、あるいはみそ汁に入れて食べたりしているようだ。
 ともかく金はなくとも、グルメではなくとも、あの春先の山菜といい(’11.5.2の項参照)、ここにいれば季節のものを味わうことのできる幸せがある。
 日ごろから、様々な悩みや苦しみがあるとしても、人は些細(ささい)な一つの喜びを糧(かて)にして生きていけるものなのだ。


 ところで、この連休はいい天気だった。とくに今日は、一日中快晴の見事な青空が広がっていた。くっきりと見える日高山脈の山々は、もう秋色模様だった。
 心配していた各地の紅葉も、遅れただけで、むしろ近年にない鮮やかな色づきになった所が多かったとのことだ。
 北アルプスは穂高連峰の、あの涸沢カールも今頃は錦繍(きんしゅう)の帯が辺りを取り巻いていることだろうし、ここ北海道の大雪山きっての紅葉の名所である高原温泉沼めぐりコースでも、昨日今日と青い湖面に映える紅葉が素晴らしかったことだろう。

 そんな最高の時に行けなかったことは少し悔しくもあるが、とはいっても連休の最中に、私が出かけて行くことなど有り得ないし。紅葉の盛りと混雑を秤(はかり)にかければ、どうしても、最盛期をずらした前後に、それも混雑しない平日の天気のいい日にということになってしまうのだ。
 それは、週末にしか休みを取れない人たちには申し訳ないのだが、まあそこはそれ、何もやることのない年寄りのわがままだと認めてもらえれば、あーゴホゴホ、老い先が短いもので・・・。

 と言いつつも、見た目も体もいたって元気な自称年寄りの私は、数日前、あの台風が通り過ぎた後の晴天の日をねらって、紅葉の大雪を見るべく、出かけて行ったのだ。
 つい数年前までは紅葉のシーズンだけでも、数回は道内各地の山に足を運び、そのうちの少なくとも三回くらいは大雪山だったのに。今年はこの山行だけで、もう紅葉の山は終わりだろう。
 それは、今までに見あきるほどの紅葉の風景を見てきたのだから、今ではその時期に一度だけでも、なじみの場所に行くことができれば十分であり、むしろそうしてわざわざ出かけて行くよりは、秋色深まる林の中のわが家で、ひとりウジウジとグウタラに一日を送っていた方がいいと思うようになってきたからなのだ。
 考えてみれば、その人が年寄りかまだ若いかは、そうした日々の生活の意欲の差にあるのだろう。


 ある日、地獄の沼から手が伸びて来て私の足を捕まえ、毎日ほんの少しずつだが私の体が引き込まれていく。
 そしていつの日か、三途(さんず)の川を渡り、閻魔大王(えんまだいおう)の前に引き出されることになるだろう。生前の私の行いを考えればそれも仕方あるまい。そして、私の罪状が述べられる。

 「一つ、本来の人間としての義務を果たさなかったこと。一つ、わがまま勝手にひとりで生きてきたこと。一つ、怠惰(たいだ)にぐうたらに生きてきたこと。一つ、・・・。」

 その長い罪状が読み上げられた後、大王はじろりと私をにらんで言うのだ。
 「はなはだ許しがたいことばかりで、八つ裂きの刑に処して余りあるが、ただ・・・。」

 と大王は、自分のひげをひとなでした後、私を見下ろすようにして言葉を継いで言った。
 「おまえの日ごろの勝手な振る舞いはともかく、おまえの母や飼い猫のミャオのことを、彼らが冥界(めいかい)に行くことになるまで、気にかけ面倒を見ていたことは、わしも見て知っておる。よって、その罰を減じて、永遠の孤独地獄の刑に処する。」(参照 芥川龍之介『孤独地獄』)


 私は寝汗をかいて目が覚めた。そういうことか。それならば、来世へと続く永劫(えいごう)の時もひとりならば、覚悟の上で今を生きるしかない。
 私はしたくをして、朝、家を出た。行く先は、車で4時間近くもかかる大雪山の愛山渓(あいざんけい)温泉である。

 旭岳(2290m)や白雲岳(2230m)、黒岳(1984m)などが集まるいわゆる表大雪(おもてだいせつ)の山々への登山口は、主なものだけでも五つあり、そのうち旭川方面の、旭岳温泉(旧勇駒別温泉)口(下山口として利用されることの多い天人峡温泉口もあるが)と、反対側の層雲峡温泉口が、ともにロープウエイが利用できて最もよく登られているが、あとの三つは季節的なバスの便があるだけで、もっぱらクルマで行くしかないから、銀泉台口と高原温泉口のようにマイカー規制のある紅葉の時期はともかく、それほど混雑することはない。
 その三つの中でも、特に愛山渓から入るコースは山域がいささか地味であり、それだけに人も少ないから静かな山歩きを楽しめるのだ。もっともそれは、沼の平(ぬまのたいら)に至る泥濘(でいねい)の道を覚悟しての上でのことだが。
 私の住んでいる十勝からは最も遠くにあるこの愛山渓口は、他の登山口と比べればどうしても回数が少なくなり、半分の5回くらいしかないのだが、それも今回は6年ぶりになるのだ。

 愛山渓倶楽部(くらぶ)の温泉宿舎前(1010m)に着いたのは10時前だった。ずっと走ってきた道は、何と全線舗装(一車線ながら)されていた。前回来た時は、まだ半分ほど砂利道が残されていて、前に車が走っていると、ほこりだらけになったものだった。(もっとも銀泉台口と高原温泉口は相変わらずのダート・コースのままだが。)
 
 登山口に着いたのが遅かったから、一晩ここに泊まることにして、ともかく今日の行程は軽く切り上げて、松仙園(しょうせんえん)の高層湿原までのつもりだったが、何と道が不明瞭のために閉鎖との告知板が出ていた。
 昔からあまり人の行かないコースだったから、広大な大雪山国立公園を管理する側からいえば、手が回らずに仕方のないことなのだろう。

 そこで、沼の平コースに変更した。
 天気は朝の予報では、台風一過の晴れだったのに、何と曇り空で山々の姿も隠れていた。
 それでも、人のいない静かな道を歩いて行くのはいい気分だった。しかし、またもや1カ月も間が空いた登山だからと、ゆっくりと登って行った。
 ただこのコースは、相変わらずの水が流れている沢歩きのような道だけれども、黄色く色づいたミネカエデのトンネルが素晴らしかった。(写真)

 

 分岐点から沼の平に出ると、周囲が開けて、愛別岳(2112m)から永山岳(2046m)、当麻岳(1967m)へと続く、紅葉が点在する山なみの山すそあたりだけが見えていた。
 誰もいない木道を歩いて行く。左右に幾つもの小さな沼が見えている。
 この沼の平の終点になる六の沼(1430m)のそばで腰を下ろして、辺りの山々にかかる雲が取れるのを待ってみた。
 確かに青空が少し見えてきて、雲が吹き払われそうな気もするのだが。そこで少し登った当麻乗越(とうまのっこし)へと向かう縦走路の途中にある、第二岩峰(展望台)の所まで行くことにした。
 そこは見晴らしの良い場所で、沼の平を俯瞰(ふかん)できるうえに、旭岳の姿も見ることができるおあつらえ向きの展望台なのだ。
 しかし待っても待っても、雲は取れてくれなかった。あとから来た中高年3人組が下りて行った後、私もあきらめて戻ることにした。

 再び木道を歩いて沼の平を抜け、分岐点に戻った。帰りは行きの三十三曲がりの道を戻るのではなく、沢沿いに下りての滝コースを下ることにしたが、そこには、今日の天気の不運を補うかのような素晴らしい光景が待っていた。
 この沢沿いの谷間は、紅葉の盛りにあったのだ。鮮やかな赤い色は少なかったが、橙色と黄色の織り成す十分に見ごたえのある風景だった。(写真下)
 台風の雨が降った後の、水量豊かな二つ滝の眺めもまた素晴らしかった。そして再びミネカエデの黄色のトンネルの道を下って行った。

 紅葉の季節の最中にあるのに、宿の宿泊者は私を入れて3人だけだった。
 テレビもラジオも入らない静かな宿だった。ゆっくりと温泉に入り、山の幸(さち)あふれる夕食をいただき、早めに布団の中に入った。6畳の部屋に私一人だった。
 9時を過ぎると物音ひとつ聞こえなかった。枕が変わると眠れない私だが、いつしか深い眠りに落ちていった。
 明日は晴れる予報なのだが・・・。

(次回へと続く。)

 


夕焼けの次の日は晴れるか

2012-10-01 20:02:50 | Weblog
 

 10月1日

 昨夜からの雨が、激しく屋根を叩いていた。その音で私は目を覚ました。台風が来ているのだ。

 北海道の家の屋根は、冬場の雪のことを考えて、ほとんどが金属製のカラー・トタンの屋根材でできている。そのうえ、三角屋根のように勾配があるから、積もった雪は自然に落ちるようになっているのだ。
 もっとも最近では、そうして落ちた雪が軒下にうず高く積もってしまうので、平屋根にしてそこで雪を溶かす無落雪屋根という住宅も増えてきてはいるが、ともかく、初めて北海道に来た内地の人たちが気付くのは、内地の瓦屋根やスレート屋根とは違う、まるで外国の家ようなカラー・トタン屋根の住宅の形だろう。

 というわけで、見た目はいい北海道のカラー・トタン屋根なのだが、困ったこともある。雨の音がうるさく聞こえるのだ。
 ましてこの家は、自分で建てた家だから、少しの空間も利用できるようにと、小屋裏(屋根裏)も利用しようと、ロフトの寝室にしたから、雨の音がじかに聞こえてくるのだ。
 屋根材の下はコンパネを張り、その下に垂木(たるき)を通して、その間には20ミリのウレタンフォームと50ミリのグラスウールの断熱材を入れてあるのだが、そのくらいでは遮音(しゃおん)効果は上がらない。
 内地の家の、瓦やスレート材でふいた屋根がいいのは、雨の時には雨粒をやさしくはじいてくれて、余り音がうるさくならないからだ。
 その上に、我が家の場合は、屋根の上には裏の林の木々の枝葉が垂れかかっていて、そこからまとまって落ちる雨だれの音がまたうるさいのだ。
 
 とても、あのショパンのピアノ曲、『雨だれ』を優雅に聞く気分にはなれないほどだ。

 とはいっても、冬の雪の時は降り積もるだけで音は聞こえないし、急勾配に作った屋根だから、積もった雪も自分の重みで滑り落ちるし、日本海側の大雪に苦しむ地域の家のように、屋根の雪下ろしなどはしなくてすむのだ。
(もっとも、軒先を超えて数メートルも積もるような豪雪地帯では、周囲の敷地も広い北海道の屋根のように、両側に落とすわけにもいかないのだろうが。)

 ともかく、もともと枕が変わったり、外がうるさいとなかなか眠れない神経質なクマのような私なのに、もう何年もこうしてそんな雨音がうるさく聞こえる家に住んでいられるのは、いつの間にかそんな中でも眠れるようになったからである。

 つまり簡単に言えば、慣れてしまっただけのことなのだが。神経質な若いクマから、大したことでは驚かない鈍重な年寄りクマへと、私は変わったのだろう。
 あれほど恐れていた、人生の中での、とげだらけのように思えた幾つかの恐ろしい言葉も、今では、自然の大きな時の流れの中では、さほど恐れるに値するものではないように思えてきたのだ。

 子供の時に川で溺れて死ぬ目にあった私が、その後びくびくしながらも再び水に慣れ、泳ぎを憶えて、いつしか、岸から遠く離れた海の上をひとりで泳げるほどにまでなった時、その時に感じたのは・・・水は恐るべき相手ではなく、ただ自分の周りに満ち満ちてあるだけのもので、私をやさしく包んでくれているもの、つまりよくたとえとして言われるように、母の静かな胎内にいる胎児のような・・・そんな気持ちだったのだ。
 慣れるということは、不安、おびえ、恐怖といった負の感情をなだめ押さえ、時や歳月が手助けをして、恐れるものではない平穏な世界へと導いてくれる、ある意味では本来人に備わった防御本能的な働きであり、神の作りたもう見事な人としての平衡感覚によるものなのだろう。

 こうして私たちは、慣れるという幾つもの経験を積んでは、若者から年寄りになっていき、そしてそれほどまでにおびえることなく、人生の最終目的である終末を迎えることができるのだろう。

 今、もろもろの悩み苦しみがあるにしても、慣れることだ。それは誰のせいでもないことだし、自分だけで引き受けるべく与えられた人生の課題であり、人それぞれがそれと伴に生きていく他はないのだから、深刻に考えずに慣れていけばいいだけのことだ。
 時や歳月は、黙って私たちに寄り添ってくれ、どんな悩みでもいつかは慣れてしまい、大したものではなくなってくるのだ。ずっと昔からあって、親しんできたものののように、いつものようにそこにあるだけのことなのだ・・・。

 そしてそのことが気にならなくってくると、私たちは、余分なわずらわしさから離れて、新たな自分の地平に向かって歩き始めることができるようになる。
 それが、よしんばまた別の課題を負うことになっても、それもまたいつかは時が解決しては、次なる一歩へと進むだけのことであり、それが人生を生きるということなのだろう。

 あの高村光太郎の有名な詩の一編を思い出す。

「 僕の前に道はない 
  僕の後ろに道は出来る
  ああ自然よ 父よ
  僕を一人立ちにさせた広大な父
  僕から目を離さないで守ることをせよ
  常に父の気魄(きはく)を僕に充(み)たせよ
  この遠い道程のため
  この遠い道程のため 」

(高村光太郎 『道程』より)

 誰のためにでもなく、湧きあがる思いのままに書いた言葉が詩になっていく・・・。
 私は、自分が落ち込んで何もする気がなくなっている時に、そんな自分に嫌気がさした時に、外に出ては裏の林の中を歩くのだ。
 そして、ふと思い出される言葉が、あの詩の一節であり、さらに前にも書いたように(’11.1.5の項参照)、もう一つの彼の詩の言葉でもあるのだ。私を励ますように。

 それはまた、谷村新司の『昴(すばる)』の歌の一節を口ずさむ時でもある。
 「あーあ、いつの日か誰かがこの道を」、歩いたであろう道をひとりでたどりゆく思いでもあるのだ。

 つまり私は、余りにも長い間、家の中に沈殿していただけのことだ。前の富士登山から、もう1カ月以上にもなるのに山に行っていないからだ。

 今年の大雪山は、関連の公式ブログなどで見る限り、いつもの紅葉がずいぶん遅れている上に色づきも今ひとつだし、平日の天気もあまりよくなくて、ついつい出かけるのをためらってしまっていたからだ。
 それならば、内地の北アルプスなどの紅葉はと、気になってネットで調べた時点で、もう山小屋は混雑のために予約中止だということであり、さらにこの台風で、とても計画を立てる気にもならなかった。
 つまり、去年(’11.10.16~22の項参照)、一昨年(’10.10.4~11の項)と続いた北アルプス紅葉山歩きも、今年はとうとう出かける気にさえならなかったのだ。
 そうした幾つかの不運とやる気のなさが、私自身をせめてたてては、すっかり落ち込んでしまっていたのだ。

 しかし、このブログで1週間に一度は何か記事を書くように、自分の小さな義務にしているから、嫌でもパソコンの前に座らなければならない。
 そこで何かを書いていくうちに、幾らか気持ちが高揚(こうよう)してきて、いつしか今の煉獄(れんごく)にある思いからは抜け出していることに気づくのだ。
 やるべき仕事や果たすべき義務が多すぎるのも、それは問題だが、一人でできるだけの日常の仕事があり、課された小さな義務があることは、まさしく自分のためになることなのだ。
 それも、ミャオの扶養義務というタガが外れた、今の私にとっては・・・。

 一昨日の夕方、西の空が少し変わった夕焼けになった。(写真)
 それはまるで、太陽の燃えあがる炎コロナの一部のように、あるいは、噴火した火口に反映するマグマの炎のように、またある時は、神が示す何かの啓示のように、夕空に赤く映えていた。

 次の日は、曇り空で、時々小雨の天気だった。 
 つまり、夕焼けの次の日が晴れるというわけではないということだ。
 一般に言われているのは、西の空が晴れているから夕日が見えるのであり、西から天気が変わる天気予報としては、確率として、翌日は晴れることが多いのだろうが、すべてそうなるわけでもない。
 この日の夕焼け空は、上に書いたように何か怪しげな、何かの予兆を含んだような空の染まり方だった。
 人は後になって言うのだ、そういえば昨日は・・・と。

 こうして、すべての出来事を、自分の思いが納得できる方向へと導き、日々慣らしていくのだ。すべて人生は、慣れていくことなのだと。
 ただし、慣れることが大きな不用心につながり、過ちにつながることもある。長い間の慣れによる思い込みだ。

 私は、ここでいつも書いているように、大小のトイレを外ですませている。
 大きい方は、薪小屋(まきごや)の隅に作ったトイレで、それは極めて清潔なスタイルで処理しているのだが、小の方は、畑や芝生の庭の肥料とするべく(その昔、生肥やしは効かないと母が言っていたが、’07.12.31の項参照)、あちこちでしているから、とても我が家の芝生の庭では、座ってくつろぐというわけにはいかないのだ。

 ともかく、トイレに行くのは冬の寒い時や雪の日は大変なのだが、まあそれはなんとかできるとしても、最近は年のせいで、夜中に目が覚めてトイレに行くことが多くなったから、真夜中に外に出なければならない。
 ここでは、ヒグマもうろついたことがあるくらいだから、がぶりと先っちょをやられたらと思わないでもないが、そこはそれクマの方でも、ほんの一口しかないものをまさか食べたいとは思わないだろうからと考えて、それにいつしか暗闇にも慣れて気にならなくなっていたのだが・・・。

 ある夜のこと、寝ぼけ眼(まなこ)で外に出て、慣れているからライトも持たずに、芝生の庭で小用をすませようと何歩か歩いて、前を広げてひな鳥をつまんで、パンツを濡らさないようにと一歩前に出たところ・・・ギャオーと一声あげて飛び上がってしまったのだ。

 前から書いているように、庭の端はトゲトゲのハマナスの生け垣になっている。
 すっかり目が覚めた私は、その痛さよりは相手がハマナスの枝であったことに気がついて、他の生き物にやられたのでなくてよかったと思った。
 家の周りには、キツネにクロテン、エゾリスにノラネコ、さらにはヘビも住みついているからだ。

 慣れることがいいばかりではない。いつも隣り合わせの危険もあるということだ。
 油断大敵(ゆだんたいてき)のおそまつでした。チーン。