Wind Socks

気軽に発信します。

小説 人生の最終章(10)

2007-04-25 11:26:57 | 小説

13

 香田は午前九時半に車で自宅を出た。診察の予約時間は十時半になっているが、途中何が起きるか分からない。事故で渋滞したり自分の車が故障したりするかもしれない。
 香田は現役時代、会社に出勤するのは一番早かった。通勤電車の遅延を考えているのと、皆が出揃ったところへのこのこと顔を出すのが嫌いなせいもあった。家族からはA型人間だと揶揄された。
 季節は六月に入っていて、今日も汗ばむほどの陽気になるという天気予報になっている。フォックスファイヤー・ブランドの、胸に二つのポケットがある白のコットンシャツにブルージーンズを合わせた服装は、少しでも若々しさが欲しいという願望の現われだった。いずれも着続けていて、かなり古びて見える。
 車のオーディオにMDディスクを差し込み、エディ・ヒギンズ・トリオのピアノ・ジャズを聴きながら、病院の駐車場に滑り込んだのは、午前十時十分頃だった。

 けいは、香田が薦めてくれて読んでいたヴァージニア・ウルフの「ダロウェイ夫人」から顔を上げて廊下の先を見つめた。丁度香田がこちらに向かって歩いて来るところだった。顔を下げて知らん振りをしようかと思ったが、なんだか卑屈な気がしてじっと見つめて待った。
近づいて気がついた香田が
「おはよう。お変わりないですか」と笑顔で問いかけてきた。けいはメールの返事をしていない負い目も一瞬に吹き飛んで
「ええ、ありがとう。香田さんもお元気そうですね。それに若々しい」なんと調子よくお世辞まで言っていた。香田は苦笑いを浮かべながら
「ありがとう。あなたもシックですよ。なかなかいい配色だ」けいは、部屋で着ている男物風の白のコットンシャツと脚にフィットした黒のスラックス姿だった。シャツは第三ボタンまで外された襟ぐりが見え、首から茶色っぽい素朴なネックレスが覗いていた。

 周囲の人は、中高年の男女が若者のような歯の浮いたお世辞を言い合っているというような目つきで眺めていた。けいの隣の人に横にずれてもらって、けいの跡に香田は腰を下ろした。けいの体温で席が暖かく、厭でもけいの肉体を想像してしまう。さらに並んで座ると、肩が触れ合い薄着の季節で、一層妄想が湧き上がり息苦しくなる。それを振り払うように
「いい季節になりましたから、この間、妻と日光の方に行って来たんですよ」けいは香田が、いい季節になりましたからと言ったとき、瞬時に誘われるのではと身構えたがそうではなかったのでほっとしていた。同時に「そうですか、それは良かったですね。行楽シーズンで混んでましたか?」と言っていた。
「ウィークデイですから、それほどでもなかったですね。あなたは如何なさっていたんですか?」香田は横目でちらりと見ながら言った。
「私は、ジムに行ったり友人とジョギングをしたりしていましたわ」と言いながら顔を香田に向けた。
「ほう、そうですか。実は私もジョギングをするんですよ。短い距離ですが」ちょっとはにかんだ表情だった。
そのとき、けいが呼ばれて「お先に」と香田に言葉をかけた。香田は少し中腰になってけいを通した。けいは、ほのかな花の香りを残して診察室に入って行った。

 取り残された香田は考えていた。やはり誘うべきか。自分の決断に従えば、誘わないのがいいのは分かっていた。しかし、こうして直(じか)に顔を合わせ、小さな部分ではあるにしろ触れ合ってみるとその決心が揺らいでくる。
 アナウンスは香田順一の名前を呼んでいる。薄暗い診察室の前の椅子で待っていると、担当医から名前を呼ばれ、名前の分からない機械の前に座り、眼底や眼圧を調べて前回と同じ薬の処方で終わる。
 カーテンを引き開けて、見渡してもけいはいなかった。処方箋を持って精算に行き、病院の前にある院外薬局で薬を受け取る。毎回同じことの繰り返しをしている。うんざりするが、この程度の病気であることにある意味で安心感をもつべきなのだろう。
 駐車場に引き返す途中、もう一度院内に戻って会計前の椅子席に、けいを探すがやはり姿は見えない。残念だけど諦めるしかない。そう思うと、決然と駐車場に向かった。

 会計窓口からのびるカウンターの奥にある廊下の角からけいは密かに見つめていた。なぜだか自分でも分からないが、香田がどんな行動をとるのか確かめたい気持ちがあった。明らかにけいを探しているのは間違いない。
さて、どうしよう。香田を嫌っていないことは確かだし、むしろ好感を持っているといってもいい。が、今結論を出すこともない。今夜あたりゆっくりと考えてみよう。
 けいはモノレール駅へ歩き始めた。病院からゆっくり歩いてモノレール駅までほぼ十分の距離だが、汗がにじみ出てくる。なんとなく体がしゃきっとしない。この六月の気だるい空気のせいなのだろう。
 夕食の惣菜を求めてデパートの地下に降りて行った。一人身になると料理が億劫になる。だからといって、出来合いの惣菜を買う気がしない。最近では若い人に限らず、年齢に関係なく、買う人が増えている。そうはいっても簡単料理になりがちだ。誰か食べてくれる人がいるのとは大違いだ。
 午前中ということもあって、客はそれほど多くない。食品売り場をゆっくりと歩きながら、山のように積み上げられているのを見ると、全部売れるのだろうかと心配になってくる。世界には飢えで苦しんでいる地域や国があるというのになんと恵まれていることか。
 けいは、多くを作らず作ったものは全部食べることで、苦しんでいる人たちに何も出来ない自分の感情と折り合いをつけている。さて、今夜はエビフライにブロッコリーのアリオリソースをかけたものにしようかなどと、頭の中で独り言を呟いていた。

 香田が自宅に帰り着いたのは正午少し前だった。窓を大きく開け放たれたリビングの窓から入ってくる蒸し暑い風に、不快な気分にさせられる。妻の丸子は、昼食の支度で鍋がじゅうじゅうと音を立て、まな板で何かを切っている音が聞こえてくる。
 テレビのスイッチを入れる。NHK・BSの大リーグ中継にチャンネルを合わせる。セイフィコ・フィールドでのロイヤルズとマリナーズの試合を放送している。試合は始まったばかりで、三回の表マリナーズの攻撃の場面だった。イチローはすでにヒットを打っているようだ。
 マリナーズは今年も、三番四番打者の不振が続いていて、今後に不安を残している。かつての大リーグ中継を見ていたような、どきどきする興奮が薄れてきたように香田には思えてならない。
 十一年前、ドジャースに入団した野茂英雄のデビューは鮮烈に覚えている。ドジャー・ブルーのユニフォームがカリフォルニアの青い空の下でまぶしく輝いていた。
 先駆者となった野茂に続いて、多くの日本人メジャーリーガーが誕生した。それにつれて大リーグ中継は、日本人選手中心の編成になり、大リーグへの幅広い視野が狭められたように香田には映る。何も日本人選手だけがメジャーリーガーではないという反発も含めて、見たい選手が見られない不満を抱え込む格好になっている。そんなことを考えていると、妻から「お昼ご飯ですよ」と知らされた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする