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小説 人生の最終章(9)

2007-04-22 13:06:39 | 小説

11

 香田は朝起きたとき、今日は図書館に行く日になっているのを思い出した。借りた本を返すこともあるが、この辺で心に響くものを読みたいとも思っていた。
 中央図書館は車で三十分ほどの距離にある。まだ新しい建物で、生涯教育関係や子供のための映画会など、催しものにも力を入れている。本棚の間はゆったりとしていて、人とぶつかることはない。
 香田は、はじめにデータベース検索機で本のありかと在庫状況を調べて、本棚に向かうことにしている。新しい本は貸出中の表示が多い。
 今日はヴァージニア・ウルフの〝書評は役に立つか?〟とか〝病気になったときに読むには、どんな本がいいか?〟など皮肉とユーモアに満ちたエッセイと短編を収めた「病むことについて」を借り出した。
 ヴァージニア・ウルフの著作は、「ダロウェイ夫人」「灯台へ」「ヴァージニア・ウルフ短編集」と読んできて、中には難解な文章に阻まれ、読解力を試されているような気分にもなったが、ウルフの文体は何故か人を惹きつける。

12

 昨夜は夢を見なかった。ワインをボトル二本も京子と空け、彼女が帰ったのは午後十一時ごろだった。タクシーを呼んで帰ってもらった記憶がある。
 結構酔っていて、お互い言いたいことを言ったようだった。これっぽっちも覚えていないが。それにいやに頭が痛いので、二日酔いなのだろうとけいは思った。顔を洗っても歯を磨いても一向にしゃきっとした気分にならない。
 朝食のことを思うと吐き気がして、とても食べる気がしない。子供のころ父が言っていたのを思い出した。二日酔いに迎え酒がいいとか。じゃあ試してみよう。
 冷蔵庫からよく冷えた缶ビールを取り出して飲んでみると、最初の一口は、うっとして胃の中のものが戻ってきそうだったが、二口三口と重ねていくと、すんなりと喉を通るようになった。と同時に体内のアルコールを誘い出したのか、一本の缶ビールが二本の効果を見せ始めた。
 不思議に頭痛もしないし胃のむかつきも気にならない。おまけにほんわかといい気分まで連れて来てくれた。
 深呼吸をして窓の外を見ると、初夏の光に海は輝いて見えた。その風景は、ますます高揚した気分をもたらした。京子が無事帰宅したのか確かめたくなり、指は京子の電話番号を押していた。三度目の呼出音で京子が出た。
「吉田です」駆けてきたのか声は弾んでいた。
「浅見です。無事に帰ったのね。きのう飲み過ぎちゃったみたい。頭が痛くて胃がむかついていたの。缶ビールで迎え酒をしたら大分良くなったわ」
「そお、かなり酔ってたわ。私にキスをしようとしたわよ。いつもそうなの?」
「まさか、でも覚えていないわ。何か変なこと言わなかった?」ちょっと心配そうでぶっきらぼうに訊ねる。
「言わなかったと思う。私も酔ってたからうろ覚えなのね。でも、これだけは言えるわ。浅見さん、いい相手を早く見つけることがいいようね」
「どうして?」
「はっきり言わせてもらえば、浅見さん、欲求不満なんでしょう。そのように見えたもの」そうかも知れないしそうでないかも知れない。けいは、計りかねていた。
 再び夜が訪れた。今日も夏日だった余韻が残っていて、扇風機の風が心地よい。東京湾は、すでに黒に染まり、かすかに京浜の明かりが朧に見える。
キッチンの壁に貼ってあるカレンダーをぼんやりと眺めていると、六月二日金曜日で焦点が合った。もう少しで忘れるところだった。病院にいく最後の日だった。
 ふと、香田のことが脳裏に浮かんできた。メールの返事をしていないし、明日病院で顔を合わせるのが苦痛に感じられる。
 でも、いまさら悔やんでも始まらない。明日彼がどんな対応をするか見てみるのもいいかもしれないし、一度くらい日帰りのドライブに付き合っても――という考えが浮かんで消えた。
コメント
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