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小説 囚われた男(22)

2007-01-04 13:20:33 | 小説

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 会社の決算は三月で、久美子の所属する総務課は決算が終わってからが忙しくなる。もちろん準備の仕事もあるが、経理課ほどの忙しさはない。増美はその渦中に突入しょうとしていて、あまり機嫌がよくない。夜遊びは当分お預けになる。
 生実との濃厚なラブシーンを演じて以降、増美とはそれほど濃密とはいえない。増美もうすうす感づいていて、テルマに急接近している様子が見える。一人で『バーニー』に行ってみようか。テルマの様子を見るのも悪くない。

 久美子は受付ゾーンの隣にある経理課に入っていった。幾つもの目が久美子に集中した。特に男性社員のもの欲しそうな表情と女子社員の羨望と妬みと不満も一緒に浮かべて凝視されると、さすがの久美子も落ち着かない。
 久美子は、会社では薄化粧でほとんど目立たないが、もともと透き通るような色白の肌は、なまじ化粧をするより蠱惑的だった。

気配を感じて振り返った増美にささやき声で
「遅くなる? バーニーに行ってるから帰りに寄れないかしら?」
「うーん。九時ごろには帰れると思うわ」
「じゃあ、バーニーで待ってる。テルマに聞きたいこともあるし」
「何を聞くの?」増美は気色ばんで言う。声も大きくなった。あらまあ、なんてことなの。私よりテルマを選ぼうとしているのだろうか。あるいは、生実とのことで離れつつあるのか。
「生実さんのことを聞きたいと思って」それだけ言うとくるりと振り向いて出て行った。いずれにしても増美は仕事を早く切り上げてやって来るはずだ。黙って行くよりも一言誘って行くほうが穏やかな関係を保てる。

 生実は、午後六時十分前に『バーニー』に入って行った。店内はいつもと同じで、喧騒に包まれ陽気な笑い声が、こだまのようにあらゆる方向から降り注いでくる。早い時間帯なのに、もう盛り上がっているグループもある。カウンターに座り、スコッチの水割りを注文する。BGMはオールディーズで、珍しくバリー・マニロウが流れている。

 スコッチの水割りが半分ほどになったとき、ジムやウエイトレスの目が入口に一斉に向いた。入口に颯爽と現れたのは、すらりとした美人だった。
美人はにこやかに微笑んで、真っ直ぐ生実に近づき横のスツールに腰を下ろした。
「お待ちになって?」小暮さやはコートを脱ぎながら尋ねる。生実はそんな問いかけに反応しなかった。あまりにも小暮さやが美しいからだ。真っ白な男物のようなブラウスに黄色や茶色にグレイが混ざったネックレスが第二ボタンまで開けた胸元から覗いていて、第三ボタンや第四ボタンもはずしたくなる。ふと我に返り
「いや、今来たところさ」と言っていた。

 抜け目のないテルマが近づいてきてさやに注文を聞く。
「ご注文はいかがですか?」目はさやに釘付けになっている。
「マーティーニをいただきます」とさや。
生実は「紹介しよう」手をさやの方に向けて「こちらは小暮さやさん」
手をテルマに振って
「テルマさん。絵を描く腕は相当なものだから、いずれモデルに頼まれるかも」と言いながらお互いを引き合わせる。ふたり同時に「どうぞよろしく」と同調したので笑いがさざ波となった。

 生実は、ボックス席の手配を頼みステーキのセットも注文する。
ボックス席は、ジュークボックスやトイレからは遠く離れていて、話をするにはこの店の中ではここしかない。ここのステーキは、アメリカ産牛肉のBSE問題以降、和牛肉を使っていて値段が跳ね上がっている。しかし、味は絶品と言っていい。今は話を後にしてステーキとワインを味わうのに没頭する。
小暮さやの顔もほんのりと色づいてその色香にくらくらする。くらくらばかりしていられない。
「さて、本題に入ろう。私はこの間の話に協力することにした。そこで、私は何の情報も持ち合わせていない。アイデアはそちらにあるのかな?」生実は真っ直ぐ小暮さやの目を見つめた。
「ええあるわ。山梨県の北杜(ほくと)市に千葉が持っている別荘があるの。ここは甲斐駒ヶ岳が見える眺めのいいところよ。そこで麻薬取引が行われるという情報があるの。日時はまだわからない。そこを急襲しろと言われているわ。もっと噛み砕いていえば皆殺しにしろということね」
「なんとね。とっ捕まえるだけというわけにいかないのか」
「逮捕は後々メディアに嗅ぎつけられたり裁判沙汰で私たちの組織が暴かれたりすることになる。それを避けたいからなの」小暮さやはさらりと言ってのけた。
この「私たちの組織」といっても、きっちりと組織図に書き込まれているわけではない。政府直属の内閣情報局内でその都度編成される類のものだ。これは完全に秘密組織で公にするわけにいかない。
「それにしても、もう少し情報が欲しいな」と生実。
「ええ、分かってるわ。二、三日したら詳しいことがわかるはずよ。分かったら知らせるわ」どうやら俺のことをまだ完全に信頼していないようだなと生実は思う。
「じゃそうしよう」といってグラスを目の高さに上げて乾杯のしぐさをした。

 そこへテルマが現れ「久美子さんが来たわよ」と生実に囁いた。振り向くと久美子がにこやかな笑みを顔に張り付かせて近づいて来た。
「やあ、元気かい?」
「ええ、元気よ。でももうすぐ決算で忙しくなるわ。ここにも、しばらく来られそうもないの」と久美子は嘆息してみせる。
小暮さやが小声で生実にささやいた。生実はちょっとまずいことになったなあと思いながらも「こちら小暮さやさん」と久美子に紹介すると「江戸川久美子です」と一礼して生実の左隣に座った。久美子の表情は硬くなっている。小暮さやに嫉妬しているのか生実との関係を詮索して不機嫌なのか判然としない。
小暮さやが突然「私、これで失礼します。用事がありますので」と言った。生実は「そうですか。それじゃそこまでお送りします」二人が出て行くと、テルマが久美子に「あの人、美人ね。魅力的」といってにっこりする。久美子はテルマの移ろいやすさに苦笑せざるを得なかった。
「生実さんとどんな関係なんだろう」と水を向けても、テルマは「わかんない」と言うだけだった。なんだか上の空のようだ。
「テルマ、注文をとってよ。いい?」テルマは電流が流れたようにぶるっとして
「ああ、ごめん。なんにする?」

 この店の売り物の一つ、サーロインとフィレを含んだ最上質の部分のポーターハウス・ステーキとテーブル・ワインを注文する。この料理は、塩と胡椒で味付けした素朴な肉料理で、久美子の好きな料理だ。それにサラダに入っているパイナップルの甘酸っぱさとの相性が、絶妙のハーモニーを奏でる。
注文し終わったとき、あたふたと駆け込んできたのは、増美だった。「ああ、疲れちゃった。何注文したの?」増美も同じものを注文してがつがつとそれこそレディにふさわしくない食べっぷりを発揮した。食事中に戻ってきた生実はただニヤニヤして何も言わなかった。久美子は小暮さやのことを聞く機会が巡ってこなかったし、おまけに、生実との期待していた甘い時間もあっさりと消えていった。
コメント
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