諏訪の「立川流」に逢う。
建築、彫刻の名匠。
NHKの「日曜美術館」で、
「よみがえる諏訪の仏たち」が放映された、2022年11月13日。
「諏訪神仏プロジェクト」で、諏訪の仏たちが公開されている。
期間は、2022年10月1日~11月27日。
諏訪を巡ると、
1)「五重塔」の「五智如来坐像」があった。
2)「普賢菩薩騎象像」があった、「仏法紹隆寺」。
3)「阿彌陀如来」があった、「平福寺」。
4)「千手観音像」があった、「照光寺」。
5)「懸仏」(かけぼとけ)があった、「惣持院」。
そして、「諏訪の仏たちに逢う」を掲載した。2022年11月13日。
諏訪には、さらに、
6)「立川流」がある。
建築、彫刻に、天賦の才と努力を発揮した。
「建築」は、「白岩観音堂」、諏訪大社、下社の「秋宮」…、
「彫刻」は、「秋宮」や、「真秀寺」の「不動明王」…。
「諏訪神仏プロジェクト」の最終日、11月27日に、
「真秀寺」、岡谷市を訪問。
不動明王の「厄除子安身替不動尊像」。
真秀寺のリーフレットには、つぎのように記されていた、
稀代の名工 「立川専四郎富種」 39歳(1855年)の作、
1968年に諏訪大社、上社、如法院の護摩堂から購入。
煩悩を焼き尽くす炎が、メラメラと燃えている、
煩悩を断ち切る剣を右手に持ち、
煩悩から救う絹索を左手に持つ。
眼を剝くすさまじさ。オッカネェ!
今にも襲いかかってきそうだ!
「写真を撮ってもいいですよ」と言われて、うれしくなる。
「立川(たてかわ)流」については、「惣寺院」、茅野市には、
「立川家の系譜」があって、住職から説明していただいた。
初代 立川和四郎(わしろう)富棟(とみむね)、1744~1807、
二代目 立川和四郎富昌(とみまさ)、1782~1856、富棟の長男、
三代目 立川和四郎富重(とみしげ)、1815~1873、富昌の長男、
富昌の次男、立川専四郎(せんしろう)富種(とみたね)、1817~1887。
「真秀寺」の「不動明王坐像」は、この立川専四郎富種の作。
初代 立川和四郎富棟は、諏訪の桶職、塚原家の生まれ。
宮大工を目指して江戸へ出て、立川小兵衛富房のもとで、建築の修行。
諏訪に戻る。当時の寺院建築は大隅流(おおすみ)が主流で、
寺院彫刻に優れていた。再び江戸に出て、
宮彫師の中沢五兵衛から彫刻を学ぶ。
そして、諏訪に戻って、最初の作品、
「白岩観音堂」。1774年。
「惣寺院」、茅野市。
□「唐獅子と象」。
唐獅子も、象も、江戸で学んだ成果。日本にはいない。
この「白岩観音堂」から3年後、1777年に、
立川和四郎富棟が名声を得ることになる「幣拝殿」を建築。
。
諏訪大社下社、秋宮。
□「唐獅子と象」。
デビュー作の「白岩観音堂」と似ている。
この「幣拝殿」の前には「神楽殿」。
諏訪大社下社、秋宮。
二代目 立川和四郎富昌の作。
左後方の「幣拝殿」は、父富棟の作。
華麗な「幣拝殿」に対して、
重厚な「神楽殿」を配して、
富昌は調和をはかったという。
「神楽殿」、正面から。
「神楽殿」の奥に「幣拝殿」。
「幣拝殿」の四隅には「御柱(おんばしら)」。
①「一之御柱」、②「二之御柱」。
2022年5月に建てかえたばかり。
①「一之御柱」の右に▼「案内板」。
。
(要旨)
「幣拝殿」
1777年に落成。
工匠は諏訪出身の初代 立川和四郎富棟。
当時盛んになった立川流建築を学び、
彫刻は中沢五兵衛につき、
いくつかの名建築を残した。
彫刻には、独特のおおらかさがあり、
拝殿内部の「竹に鶴」は代表作。
(写真は、うまく撮れませんでした)
「神楽殿」
二代 立川和四郎富昌の作。1835年、富昌54歳。
技をすべて父にうけ、天性の才能と異常な努力で、
立川流の最高をきわめ、 幕府から、
内匠(たくみ)の称号を許されたほどの名匠。
父の建てた華麗な幣拝殿の前に、荘重さで調和させ、
幣拝殿を引き立たせているところが賞讃される。
諏訪では、
「御柱」が迎えてくれる。
「仏たち」が迎えてくれる。
「立川流」の建築、彫刻が迎えてくれる。
そして、「冬ヨ、寒くなってくれ! 」
諏訪湖が全面結氷して、 男神と女神の逢瀬の道、
「御神渡り」が迎えてくれる。
建築、彫刻の名匠。
NHKの「日曜美術館」で、
「よみがえる諏訪の仏たち」が放映された、2022年11月13日。
「諏訪神仏プロジェクト」で、諏訪の仏たちが公開されている。
期間は、2022年10月1日~11月27日。
諏訪を巡ると、
1)「五重塔」の「五智如来坐像」があった。
2)「普賢菩薩騎象像」があった、「仏法紹隆寺」。
3)「阿彌陀如来」があった、「平福寺」。
4)「千手観音像」があった、「照光寺」。
5)「懸仏」(かけぼとけ)があった、「惣持院」。
そして、「諏訪の仏たちに逢う」を掲載した。2022年11月13日。
諏訪には、さらに、
6)「立川流」がある。
建築、彫刻に、天賦の才と努力を発揮した。
「建築」は、「白岩観音堂」、諏訪大社、下社の「秋宮」…、
「彫刻」は、「秋宮」や、「真秀寺」の「不動明王」…。
「諏訪神仏プロジェクト」の最終日、11月27日に、
「真秀寺」、岡谷市を訪問。
不動明王の「厄除子安身替不動尊像」。
真秀寺のリーフレットには、つぎのように記されていた、
稀代の名工 「立川専四郎富種」 39歳(1855年)の作、
1968年に諏訪大社、上社、如法院の護摩堂から購入。
煩悩を焼き尽くす炎が、メラメラと燃えている、
煩悩を断ち切る剣を右手に持ち、
煩悩から救う絹索を左手に持つ。
眼を剝くすさまじさ。オッカネェ!
今にも襲いかかってきそうだ!
「写真を撮ってもいいですよ」と言われて、うれしくなる。
「立川(たてかわ)流」については、「惣寺院」、茅野市には、
「立川家の系譜」があって、住職から説明していただいた。
初代 立川和四郎(わしろう)富棟(とみむね)、1744~1807、
二代目 立川和四郎富昌(とみまさ)、1782~1856、富棟の長男、
三代目 立川和四郎富重(とみしげ)、1815~1873、富昌の長男、
富昌の次男、立川専四郎(せんしろう)富種(とみたね)、1817~1887。
「真秀寺」の「不動明王坐像」は、この立川専四郎富種の作。
初代 立川和四郎富棟は、諏訪の桶職、塚原家の生まれ。
宮大工を目指して江戸へ出て、立川小兵衛富房のもとで、建築の修行。
諏訪に戻る。当時の寺院建築は大隅流(おおすみ)が主流で、
寺院彫刻に優れていた。再び江戸に出て、
宮彫師の中沢五兵衛から彫刻を学ぶ。
そして、諏訪に戻って、最初の作品、
「白岩観音堂」。1774年。
「惣寺院」、茅野市。
□「唐獅子と象」。
唐獅子も、象も、江戸で学んだ成果。日本にはいない。
この「白岩観音堂」から3年後、1777年に、
立川和四郎富棟が名声を得ることになる「幣拝殿」を建築。
。
諏訪大社下社、秋宮。
□「唐獅子と象」。
デビュー作の「白岩観音堂」と似ている。
この「幣拝殿」の前には「神楽殿」。
諏訪大社下社、秋宮。
二代目 立川和四郎富昌の作。
左後方の「幣拝殿」は、父富棟の作。
華麗な「幣拝殿」に対して、
重厚な「神楽殿」を配して、
富昌は調和をはかったという。
「神楽殿」、正面から。
「神楽殿」の奥に「幣拝殿」。
「幣拝殿」の四隅には「御柱(おんばしら)」。
①「一之御柱」、②「二之御柱」。
2022年5月に建てかえたばかり。
①「一之御柱」の右に▼「案内板」。
。
(要旨)
「幣拝殿」
1777年に落成。
工匠は諏訪出身の初代 立川和四郎富棟。
当時盛んになった立川流建築を学び、
彫刻は中沢五兵衛につき、
いくつかの名建築を残した。
彫刻には、独特のおおらかさがあり、
拝殿内部の「竹に鶴」は代表作。
(写真は、うまく撮れませんでした)
「神楽殿」
二代 立川和四郎富昌の作。1835年、富昌54歳。
技をすべて父にうけ、天性の才能と異常な努力で、
立川流の最高をきわめ、 幕府から、
内匠(たくみ)の称号を許されたほどの名匠。
父の建てた華麗な幣拝殿の前に、荘重さで調和させ、
幣拝殿を引き立たせているところが賞讃される。
諏訪では、
「御柱」が迎えてくれる。
「仏たち」が迎えてくれる。
「立川流」の建築、彫刻が迎えてくれる。
そして、「冬ヨ、寒くなってくれ! 」
諏訪湖が全面結氷して、 男神と女神の逢瀬の道、
「御神渡り」が迎えてくれる。