季節の変化

活動の状況

ベルリンの壁一式

2014-12-07 00:01:55 | Weblog
ベルリンの壁には、裏側に無人地帯、さらに奥の白い壁、
無人地帯にある監視塔と照明の一式で、強固になっていた。

ベルリンの壁は1961年8月13日に、最初は有刺鉄線で東西を分断した。
すぐに、壁に置き換えた。「ベルリンの壁」である。

ベルリンの壁は、だんだん強固にして、脱出を困難にした。
まず、ベルリンの壁に近い建造物はすべて壊して、無人地帯を作った。
無人地帯の奥には別の壁を作って、ベルリンの壁に近寄れないようにした。
幅100メートルの無人地帯には、監視塔、照明を配置して、
無人地帯に入った脱出者を射殺する手段を整えた。こうして、
ベルリンの壁は、付帯する設備一式ができ上がって、強固になった。

このベルリンの壁が、1989年11月9日に崩壊した。
ベルリンの壁が崩壊する前年の、1988年にベルリンの壁を見た。
西ベルリン側の仮設スタンドから、東ベルリンを眺める。1988年3月。

右の階段を上がり、東ベルリンを眺め、左の階段から下りてくる。

西ベルリンへ行って、ツアー・バスに乗った。
西ベルリンと東ベルリン両方を見るツアー・バス。
西ベルリンでは、ベルリンの壁のそばに設置された、
仮設スタンドから、東ベルリンを眺めることが組み込まれていた。
ツアー客は40名ほどで、フランス人、イタリア人、それに、日本人。

仮設スタンドから眺めるベルリンの壁の裏側。1988年3月。

⇒は監視塔。

ベルリンの壁の一式を見ることができる。
手前から「ベルリンの壁」、
幅が100メートルの「無人地帯」、
無人地帯の奥に、さらに「白い壁」、
無人地帯には、⇒の「監視塔」、
それに、「照明」がある。

東ベルリンから脱出するには、
まず、奥の白い壁を乗り越える、
無人地帯を、猛烈にダッシュする。
ベルリンの壁によじ登る。高いところは、3.6メートル。
ベルリンの壁の笠は丸くしてある。手掛かりがないように。

無人地帯を横切っているときに、
国境警備隊に見つかって、射殺される。
夜には、無人地帯の照明が、こうこうと輝く。
照明は、ベルリンの壁と白い壁に平行に、2列ある。

奥は東ベルリン市街。
東ベルリンは、人の気配がしなかった。
冷たい、まるで、死んだような街だった!

前日に、西ベルリンを見ている。
西ベルリンの中心街にあるカイザー・ヴィルヘルム教会。1988年3月。

第2次世界大戦の、ベルリン大空襲で廃墟となった(1943年)。
新しい教会が右に建設され(1962年)、廃墟は戦争の記念として遺されている。

付近は、人でにぎわい、新しい車が走っている。
復興し、活気にあふれていた西ベルリンを見てから、
翌日に眺めた東ベルリンは、時間が止まったままのようだった。

仮設スタンドを下りて、監視塔に近づいてみた。

ベルリンの壁越しに見えた監視塔は、
上部の黒い窓から脱出者を監視し、下部の銃眼から射殺する。
監視塔のトップには、サーチライトが乗っている。
脱出者を、照射しながら追跡する。

シュプレー川監視塔。1988年。

シュプレー川が東西ベルリンを横切る。
⇒は監視塔で、川幅が狭く、脱出しそうなところにある。
銃弾は、こちらまで十分届きそうだ。そうでなければ、意味がない。

泳いで、すぐにでも渡れそうな川幅で、
ここからは、対岸の東ベルリンが、見渡せる。

左の親子3人は、東ベルリンに親戚がいる離散家族だろうか?
ありそうなことを推測してみた。
親子3人と祖父母が、東西に引き裂かれた。
そして、年老いた祖父母の最後に、孫を見せにきた。
目印にするために、そろって青い服を着た。

親子3人がそろって、西に脱出することは極めて難しいから、
父親が青年のときに、一人で西に脱出した。1960年代か?
そして、西で結婚して、子どもが生まれた。1980年代か?
年老いた祖父母に、孫を見せてあげたい。1988年。
少年は、私を珍しそうに見ている。

西ベルリンには、ガードレールのほかは、建造物がない。
脱出者が、岸に泳ぎ着いたら、上がれるようになっている。
ところが、対岸の東ベルリンには、フェンスがあり、
橋や道路の一部を利用したベルリンの壁がある。
フェンスとベルリンの壁の間を、国境警備隊が巡回する。
それに、絶えず見張る監視塔がある。拡大した写真。

上部の窓で脱出者を監視し、下部の銃眼から射殺する。
監視塔のトップには、サーチライトが乗っている。
銃眼は、位置を低くして、各面に2個づつ設けて、
シュプレー川を泳いだり、潜水する脱出者を狙い撃ちする。
シュプレー川は、脱出者が多かったにちがいない。

夜は、フェンスとベルリンの壁の無人地帯に取りつけた照明が輝く。
夜のベルリンの壁は、照明で浮き上がったことだろう。
155キロメートルに及ぶ。

シュプレー川には、警備艇がある。

手前の警告板には、
イギリス管理区の境界。ここを越えるな
とある。
この岸までは、西ベルリンということになる。

対岸の東ベルリンには、フェンス、ベルリンの壁(白)、照明が見える。
監視塔を入れて、東西ベルリンを遮断する、お決まりの一式になる。
フェンスとベルリンの壁の無人地帯は、国境警備隊が巡回する。
歩いたり、車であったり、シェパード犬を連れたり。

ベルリンの壁を越え、シュプレー川に飛び込んで、
泳いだり、ボートに乗ったり、シュノーケルで潜ったり……、
と、脱出を試みるが、東の国境警備隊に見つかって、
監視塔から、あるいは警備艇に追跡されて、射殺される。

シュプレー川沿いにある犠牲者の十字架。1988年。

フェンスの向こうは、シュプレー川を挟んで東ベルリン。
シュプレー川の脱出が多かったのだろう?
十字架には、名前と命日が書いてある。

ベルリンの壁は1961年8月に、最初は有刺鉄線で、
すぐに壁を築いて、東西ベルリンの行き帰を遮断した。
ベルリンの壁は、だんだん強固になり、一式ができ上がる。
犠牲者の命日を見ると、1962年6月5日、
1693年11月4日、1964年…が読み取れる。
ベルリンの壁ができてから、2年~3年と早めである。

ということは、
「東ドイツには希望はない、命を懸けても脱出しよう!」
と、共産政権には先行きがないことを、早めに察知して、
「脱出するなら、今の内だ!」と、
脱出を決行したことになる。1960年代。

ベルリンの壁は、だんだん強固になってきたから、
脱出がますます困難になって、長い間、東ベルリンに住んだ。
しかし、
「言われるがままにやってきたが、幸せにしなかった」
「西との差は歴然だ! もうだめだ! この国には希望が持てない」
とまでに極まり、ベルリンの壁が崩壊した。1989年。
1990年10月に、東西ドイツは統一して、東ドイツは消滅し、
1991年12月には、ソ連までが崩壊した。

東西が直接、ドンパチの「武力戦争」をして、東ドイツが消滅したのではない。
計画経済」が、「市場経済」に負けたのである。
半世紀かけた大実験だった。

異民族の襲撃から護る万里の長城は、世界遺産になっている。

奥は、雪を抱く祁連(きれん)山脈。嘉峪関(かよくかん)で。2005年6月撮影。

人間の檻」、ベルリンの壁は、世界遺産ではない。

1989年に、東ドイツ市民の旅行の規制が緩和されると、
ベルリンの壁は、「いまわしい物」として、取り壊された。
同じ民族をイデオロギーで分断したベルリンの壁一式は、
進歩して強固になったが、世界遺産には、ならなかった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする