畑のつぶやき

畑や田んぼの作物の生育や農作業の報告
農家の暮らしの日記
田畑を取り巻く自然の移ろいの描写
食、農への思い

雪景色

2011-01-31 18:40:35 | 暮らし

1月31日(月) 

朝、外は真っ白。と云っても、薄らと雪が残る程度で、地面は見えるし、積もったというほどではない。雪国では、雪が降ったなどとは言わないだろうが、この地では、珍しい雪だ。昨日、山を越えてきた、自然食品店のスタッフ。運転はこわかったと言っていた。

さらに、追い打ちをかけたのが、今朝の気温。何時もの濡縁で、氷点下8℃を指す。外流しの水道も、バルブを閉めて、開栓しておいたが、凍ってしまい、10時近くなっても水は出てこない。いろいろ作業にさし障るので、温めて配管内の氷を融かす。こんなことはこの何年も経験したことがない。不自由な、味噌焚きとなった。(釜の水が少なくなって足すにも、家の中から汲んでこなければ)

幕張の、居酒屋のマスター(我が家の野菜のお客さん)一行4人、自然食品店の応援スタッフ5人。新たに参加。豆がに上がるころに、ようやく水道も開通。にぎやかな味噌作りが始まる。子どもも二人、手伝ったり、はしゃぎまわったり。段取り通り、26kgの大豆を煮潰して、味噌桶に仕込む。子供も含め、総勢17名が昼食を取るのは、2時を回るころ。大勢で、ワイワイと食事を楽しみ、そろそろと、席を立つ時、外は少し、ひんやりしてくる。最後の片づけを済ませ、今年の恒例の味噌作りも、無事に終了。


味噌作り

2011-01-30 18:55:16 | 農作業

1月30日(日)   いちじ   のち ちらつく

味噌作りの一日目。久しぶりに、6時前に布団を出る。米をとぎ、炊飯器のスイッチを入れて外に出る。まだ日の出前、ようやく薄明るくなったばかりだ。釜戸に薪をくべ、焚きつけの新聞紙に火を付ける。四つの釜戸を次々と焚きつける。細い枝から燃え始め、太い薪に火がつけば、もうたち消えることはない。火の番をしながら、食事の支度。母を起こすが、奇跡的に、シーツもパジャマも濡れていない。子孝行の母に朝食を取らせ、デイサービスに送り出し、本格的に今日の準備。道具や機械を準備する。10時過ぎには、地元の友人夫婦も到着。東京から、Kさんも到着。火の番は交代し、昼の準備も始める。昼食は簡単に、おにぎりと、豚汁と漬物。そのころには、豆も煮えて柔らかになる。友人夫婦から、豆をミンチに掛ける。彼らは、作業終了次第、帰って昼食というので、我々は、お昼にする。

一休みして、我が家の味噌作りにかかる。大豆と麹と塩を混ぜてから、ミンチに掛けるから、豆は昼飯前に釜から上げて、冷ましておいた。ちょうど人肌くらいで、ベストだ。一人がすくってミンチ機にのせる。一人が詰まらない様に少しづつ投入口に落としてゆく。大豆だけの場合と違い、麹と塩の固さと粘りで、時間はかかる。完了は、4時をかなり回るころ。作業は明日も続くから、簡単に片づけ。ホッとする頃、急に寒さを感じる。空には、真っ黒な雪雲。暗くなる、6時近くには、雪が舞ってくる。

たいしたことはないだろうと、たかをくくっていたが、降り続く。念のためにと、明日のために用意した薪にシートを掛け、ようやく、今日の作業は完了。明日は、千葉の自然食品店の味噌作り。今夜には、プラス四人。食事の用意だ。


ゆでタマゴ

2011-01-29 17:58:06 | 暮らし

1月29日(土)    ときどき 

思ったより天気は悪くならない。洗濯ものは、よく乾いてくれるが、畑の方はカラカラ。少しでもお湿りが欲しいが、そんな兆候はない。野菜が干上がってしまっている。ブロッコリーもカリフラワーも蕾が小さなまま、じっと乾きと寒さに耐えているといった感じだ。

出荷作業。味噌用の豆を洗って、釜に入れ、水を張っておく。寒さのせいで、水もひときわ冷たい。

午後は、月曜日の昼食の準備。当日は、20人近くに膨れ上がる見込み。ダイコンと、タマゴが余るほどだから、おでんを作って、という連れ合いのリクエスト。早めに煮込んだ方がよいし、明日は、我が家と地元の友人の味噌作り。朝から火の番をし、午後は100kgを超える味噌を仕込むことになる。最近は、大勢の食事の支度は珍しくもなった。前倒しで準備する。

そこで、ゆでタマゴの話になる。おでんに入れるためには、殻をむかなくてはならない。いつも、ゆでタマゴの殻むきには、苦労している。というか、気の短い私には、きれいに剥けない。白身が殻に着いてくる。ゆっくり、ていねいにやれば、ある程度きれいに剥けるのだろうが、タマゴ一個の殻むきに、時間をかけては、ゆでタマゴ一個がいくらになる、と云うのが私の発想。それでいつも、表面がぼろぼろのゆでタマゴを並べることになる。

今回は、20日以上前のタマゴを、この日のために取っておいた。新しい卵ほどむきにくいのは常識。ならばと、月初めのタマゴを大鍋に入れて、弱火に掛けた。じっくりとゆでて、水に放つ。空鍋に入れ、揺すってひびをいらせて、水を張る。しばらく放置して、冷たくなった頃を見測って、殻をむき始める。2~3個剥いて、いい加減にしろ、と、大声が出る。相も変わらず、白身着きの殻ができてしまう。つるりと見事に剥ける卵は、三割もない。気室の方がきれいに剥け始めたと思い、気を良くすると、次の殻には、白身がつく。注意して、薄川と白身の間に水を入れる様に剥いても、ちょっと油断すると、小さな割れ殻にぶちっと白身。もう駄目。雑になり、ボコボコ卵。

なぜなんだ。きれいに剥けるのはよほど古い卵なのか。私が、そんなに下手なのか。

違いと云えば、有精卵か、そうでないかだけの違いしかないと思うのだが。

教えて!


日記

2011-01-29 08:39:02 | 農作業

1月28日(金)   ときどき 

畑片づけ。あまりの出来の悪さに、放りっぱなしだったヤーコンを片づけようと、引っこ抜いたら、そこそこのイモが付いている。捨ててしまうのも忍びないと、掘り取ることにする。予定外の時間を使ったが、コンテナに一つほどを収穫。これで、一通り夏野菜の片付け、マルチの撤去は終わる。残渣を燃したら、耕すことができる。

午後は、味噌作り(30日、31日)の準備。年に一回しか使わない大釜を4個、味噌小屋からかつぎ出す。ドラム缶製の釜戸も用意する。歳を取ってゆくこれからも、準備はできるのだろうかと思いながら、腰をかばいつつ、洗ったり、据え付けたり。大豆は、明日朝には洗って、水に浸しておかなくてはならない。時間も場所も取る。日常の作業と、並行するから、うまく棲み分ける必要もある。クン炭作りなどの道具は、一応しまいこむ。明日の出荷に支障がないようにもしなければならない。などなどと、せわしなく動く。

さらに、母帰る、である。10日ぶりのことだが、この間は、新潟での葬儀出席や、出かけはしなかったが、新潟の親戚の葬儀など、非日常のことが続き、母との生活のパターンに戻るタイミンにずれが生じた。昨晩はなんとなく疲れてしまった。


日記

2011-01-27 18:27:47 | 農作業

1月27日(木)  

一日畑作業。夏野菜の片付け。マルチの撤去が、ようやく終わった。ナスやピーマンの残渣は、固く、大きいので、そのままの状態では、耕して、鋤きこむことはできない。枯上がっていなければ、なんとか鋤きこめるだろうが、今となっては無理。引き抜いてあるので、燃してしまうしかない。そんな片づけが残ってしまうが、耕せるめどがついた。


2011-01-26 19:03:17 | 暮らし

1月26日(水)    時々

出荷の手伝いを少しした後、畑に出かけ、畑の片付け。マルチの撤去片づけを、午後も続ける。

我が家の成り立ちに、少し触れておく。私などとても我慢できない、ばかばかしいことだが、こんなこともあっただろうし、今でも、これに近いことは起こりうるだろう。

祖父母が、長男夫婦とうまくゆかずに、隠居宅に移り、末娘だった母が面倒をみることになったと書いた。そこまでは、どこにでもある話だ。父と母が一緒になったのは、「家」であり、「墓」であった。母の父の弟夫婦は昭和10年代に、二人ともなくなった。子供たちも数人いたらしいが、小さいうちになくなり、一人残った長女も、18年に20代で、死んだ。墓を守る必要があった。母の叔父の妻は、父の叔母だったのだそうだ。それぞれの甥と姪を一緒にさせて、墓を引き継がせる。それが、選択された道だった。そのように決めたのは、母の父であり、父の父だったのだろう。詳しいことは知らない。そして、住む家は、祖父母の隠居宅。

長男夫婦と一緒に暮らせない、年老いた祖父母の世話をする。そして、死に絶えた、叔父叔母の家の墓を引き継ぐ。両親は、そんな大役を背負い夫婦になった。しかし、それは、一つの不幸の始まりでもあった。ちなみに、婚姻届は、二人の長男である「私」の誕生の、5か月前だった。


弔電

2011-01-25 17:45:34 | 暮らし

1月25日(火)  

籾すり。準備、片づけを含め、一日では終わらなかった。機械の掃除、片づけが、出来ないまま、疲れて家に入る。28表の玄米を、保冷庫に積み込むと、身体中の精気がすべてなくなるほど、がっくりしてしまった。木曾から送ってもらった、「おやき」をほう張りながら、焼酎のお湯割りを一杯。生き返った。

朝、電話。今日、告別式の喪主になる従姉からだった。昨日、妹が、母の香典と悔みに言ったお礼でもあるが、母からの、弔電を貰いたいとのことだった。一般的には、ありえない状況だろうが、複雑な、わが家系から、納得できた。涙ながらの、電話の声に、すぐ手続きするからとこたえ、受話器を置く。

調べてみると、電報の電話による受け付けは、8時から。告別式は、10時からという。少しでも早くと、インターネットで、手続きをする。告別式に、間に合ってくれればと思いながら、パソコンを閉じる。

母の生まれた家。母は、地の名家であると、誇りに思っていた。私達、兄弟の育児、教育も、その思いに沿っていた。それが嫌で、私は、生まれた地に帰ることが嫌だったのだが、それは置く。家を継いだのは、母とは20歳以上離れた、長兄。長兄が結婚して、義姉と両親との間がうまくゆかなくなり、両親(私にとっての、祖父母)が、家を出て、隠居宅に入ったそうだ。末っ子だった、母が老親の世話をすることになったらしい。

母にとって、兄嫁は、両親を追い出した憎い嫁。兄は、そんな嫁を許すだらしない男。子供の頃には、そんな話をよく聞いたものだ。私にとって、叔父叔母は、記憶の隅にわずかに残っているだけだが、従姉妹たちはしっかり分かっている。高校までは、同じ集落に住んでいたわけだから。しかし、家に戻るつもりなく、上京してからは、地元の親戚、隣組などには、全く関心なく、やりたい事をやっていた。叔父叔母の葬儀も覚えていない。両親がいたから、私は関わらずに済んできたのだが。

従姉妹たちは、男の兄弟はなかった。家に残ったのは、次女だったと思う。生涯独身で、いつごろまで叔母の面倒を見ていたのだろう。姪たちと年齢の近い母は、何かとおせっかいをしたのだろう。両親を誇りに思う母は、姪たちに、自分の育った、00家と云う家を見ていたのだろう。家に残ることなく、嫁いで行った姪たちに、「家」を守っている次女を大事にしろと、云っていたらしい。

そんなことを思い出して、喪主を務めることになった従姉は、母の弔電を、霊前に供えたいと思ったのだそうだ。


二台一台

2011-01-24 18:09:53 | 農作業

1月24日(月)   いちじ 

郵便局。現金書留などを利用するのは、何年ぶりのことだろう。香典を送る。妹には、振替で、立て替え分を送金。

トラクターがおかしくなってきた。あちこちの具合が悪く、修理利きれない。修理したと思っても、一年もしないうちに、他の部分との関連で、取り替えた部品も具合が悪くなるありさまだ。今の歳なら、まだ、ローンを組んで、なんとか購入することもできる。後五年もたつと、70に手が届く歳になる。そうなると、ローンを組むことも難しくなるだろう。思い切って、買い替えることにした。そのトラクターが、先日納車になった。

古いトラクターの分解。同じトラクターが、もう一台あるので、(こちらもかなりの年代物で、あちこち、不具合は多かった。ロータリーでなく、他の作業機専門に使っている) 使える部品は、予備として、保存しておくことにする。一体での保存は場所取りだ。そこで、使えて、予備としてあった方がよい部品を分解する。二台のトラクターから、それぞれに、よい部分を寄せ合って一台に作りかえる。そんなつもりで、部品を取り外す。しばらくは、施肥などの、それほど馬力を要さない作業機には、使えると思う。

新築した、納屋の火災保険。農業共済組合の職員に、申し込み、手続きに来てもらう。


親戚

2011-01-23 21:25:05 | 農作業

1月23日(日)   ときどき 

午前中は畑。夏野菜の片付け。トマトの支柱の撤去片づけ。

午後は、駅伝を見ながら、ベーコンの包装。大豆の選別。連れ合いは、二回目の麹作り。

夜は、寺の役員会。二週間遅れで開催。

朝、魚沼から電話。私が生まれ育った集落にある親戚からだった。従姉がなくなったとの知らせ。母の兄の子供で、私とは、20歳以上離れているはずだ。一人暮らしだったし、体調もすぐれないとの話は聞いていた。隣町に住む妹が、電話に出ないからと、訪ねてみたら、亡くなっていたという。生涯一人だったので、葬儀は、妹一家が、喪主として行うという連絡だった。母が認知症が進まない時は、母と何かと音信はあった。父の死後、急速に進んだ認知症のため、この5年ほどは、ほとんど音信は途絶えたままだった。

母がちゃんとしていれば、高齢の母に変わり、私が参列すべきなのだが、母の認知症を良いことに、失礼させてもらおうと決める。川を挟んだ対岸に、妹は住んでいる。葬儀を終わらせたばかりではあるが、妹に連絡。母の代理として、母の名の香典を持って、悔みに行ってくれるように頼む。兄が参列できない非礼を詫びてくれるようにも。私の香典は、明日にでも送ることにする。

 


道普請

2011-01-22 18:34:57 | 農作業

1月22日(土)    いちじ  

午前中は、出荷作業。クン炭焼きも。

午後は、花畑。進入道路の道普請だ。車を乗り入れて、切り返しをしたり、普通車の場合は駐車をしておく場所が、大きく凹んできた。しかも、何箇所もでき、雨が降ると、大きな水溜りができ、四輪駆動でないと、スリップしてしまうほどになっていた。我々の軽の車は、四駆になるので、脱出不能になることはない。しかし、大きな水溜りに入らざるを得ず、連れ合いはこぼしていた。機械を運ぶ、2トントラックは、四駆でないから、機械を下ろすと、後輪が軽くなり、スリップして動けなくなる。機械を積んで重い状態で、Uターンして、機械を下ろしていた。

連れ合いからは、早くから、直してほしいと頼まれていた。秋の間は雨が多かったり、水が引かなかったりで、凹みはずっとグチャグチャしていた。そんな状態で土を入れると、入れた土も水を吸って、ぬかるみがひどくなるだけなので、乾くまで待つように言っていた。暮からこの間、一月ほど、雨は全くなし。ダイコンや、ニンジンの葉っぱも、水不足で、霜にあたると、回復できないほどだ。葉先の方が、チリチリになってきた。それほどだから、凹みの土もカラカラに乾いている。今が、道普請の適期。

軽トラックに、2台半ほどの土を運ぶ。凹みに下ろして、均す。少し高くなる位に、土を盛り、車の車輪で、踏み固める。今後も、水溜りができるほどの雨が降らない間に、何度も踏み固め、固くしておけば、水を吸っても、柔らかにならずに済む。こんな作業も、半日仕事だった。