1月25日(火)
籾すり。準備、片づけを含め、一日では終わらなかった。機械の掃除、片づけが、出来ないまま、疲れて家に入る。28表の玄米を、保冷庫に積み込むと、身体中の精気がすべてなくなるほど、がっくりしてしまった。木曾から送ってもらった、「おやき」をほう張りながら、焼酎のお湯割りを一杯。生き返った。
朝、電話。今日、告別式の喪主になる従姉からだった。昨日、妹が、母の香典と悔みに言ったお礼でもあるが、母からの、弔電を貰いたいとのことだった。一般的には、ありえない状況だろうが、複雑な、わが家系から、納得できた。涙ながらの、電話の声に、すぐ手続きするからとこたえ、受話器を置く。
調べてみると、電報の電話による受け付けは、8時から。告別式は、10時からという。少しでも早くと、インターネットで、手続きをする。告別式に、間に合ってくれればと思いながら、パソコンを閉じる。
母の生まれた家。母は、地の名家であると、誇りに思っていた。私達、兄弟の育児、教育も、その思いに沿っていた。それが嫌で、私は、生まれた地に帰ることが嫌だったのだが、それは置く。家を継いだのは、母とは20歳以上離れた、長兄。長兄が結婚して、義姉と両親との間がうまくゆかなくなり、両親(私にとっての、祖父母)が、家を出て、隠居宅に入ったそうだ。末っ子だった、母が老親の世話をすることになったらしい。
母にとって、兄嫁は、両親を追い出した憎い嫁。兄は、そんな嫁を許すだらしない男。子供の頃には、そんな話をよく聞いたものだ。私にとって、叔父叔母は、記憶の隅にわずかに残っているだけだが、従姉妹たちはしっかり分かっている。高校までは、同じ集落に住んでいたわけだから。しかし、家に戻るつもりなく、上京してからは、地元の親戚、隣組などには、全く関心なく、やりたい事をやっていた。叔父叔母の葬儀も覚えていない。両親がいたから、私は関わらずに済んできたのだが。
従姉妹たちは、男の兄弟はなかった。家に残ったのは、次女だったと思う。生涯独身で、いつごろまで叔母の面倒を見ていたのだろう。姪たちと年齢の近い母は、何かとおせっかいをしたのだろう。両親を誇りに思う母は、姪たちに、自分の育った、00家と云う家を見ていたのだろう。家に残ることなく、嫁いで行った姪たちに、「家」を守っている次女を大事にしろと、云っていたらしい。
そんなことを思い出して、喪主を務めることになった従姉は、母の弔電を、霊前に供えたいと思ったのだそうだ。
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