畑のつぶやき

畑や田んぼの作物の生育や農作業の報告
農家の暮らしの日記
田畑を取り巻く自然の移ろいの描写
食、農への思い

記録ー自死

2013-11-23 19:01:38 | 記録

10月11日 夕方

静内署から電話。かかりつけの歯科医が判り、歯型から、本人と確認できたこと。また、本人が所持していた血液検査報告書から、町立病院の医師からもいろいろと話を聞くことが出来た事。かなり身体の具合が悪かったこと。アルコール依存症の傾向があり、肝臓の機能が、酷く悪かったこと。毒素が脳を侵すような、肝性脳症も疑われること。また、死亡直前の何日かの行動も、調べた結果、ちょっと脈絡のなく思われるようなこともあったこと。そんなことから、事件性もないと判断した。ということで、遺体を引き取ってください。

そんな電話だった。思っていた通りだ。それが、昨日の今日であったと云うことだ。連れ合いと相談し、14日に出かけることにした。そして、数日で、一切を始末して来ることにする。兄弟に電話する。新潟の妹が、自分も行くと云ってきた。今日、明日で、予定をはっきりさせて、スケジュールを連絡することにする。

やらなければならないこと一覧から、こちらにいながらにできることを選択。そんな調べものに深夜まで時間をつぶした。

弟の死は、焼身に寄る自死だった。

 


記録ー訃報

2013-11-18 18:24:16 | 記録

10月10日。昼。

訃報は、静内署からだった。

死んでから見つかった遺体は、警察の管轄になる。死因が事故なのか、事件なのかを調べなければならないからだ。家庭内で死んだ場合も、たとえば脳梗塞化などで死亡した家族を発見した場合でも、警察の管轄になることは多い。

まして、弟は、単身者だったし、自宅以外での死亡が確認されていた。警察からの電話は、身元確認の捜査でもあった。弟との関係とか、近況なども聞かれた。携帯電話の記録から、電話をしていると云われた。兄だと云うことを告げて、状況を聞いたが、詳しいことは、捜査中なので話せないし、遺体の身元も、弟と思われるが、断定はできない、という話だった。警察からの問い合わせには、分かる範囲で答えたが、今後のことは、どうにもできない。

夕方に、もう一度、電話がある。死亡の状況などは、説明してくれたが、まだ捜査中とのことだった。

連れ合いと、私が、一切を負うしかないだろう、ということを話し合い、兄弟たちに、連絡する。

しかし、具体的には、警察の捜査が終わり、遺体の引き取りを要請されてからだ。それまでは、なにも手が着かないが、気持ちと、頭の準備をしておこう。何をしなければならないかを、頭の中で、整理しながらの、仮通夜のお酒だった。


記録ー別れ

2013-10-21 19:38:40 | 記録

弟が死んだ。5人兄弟のすぐ下の二つ違いの弟。63歳だった。

カテゴリーの「記録」では、弟の「生ー死」について記録しておくことにした。

男、男、男、女、男の5人兄弟の、長男が私だ。弟については、深くは知らない。逆もその通りだろう。高校までは、同じ家に暮らしたが、それ以降は、私は東京、弟は仙台。家での何かの行事ではあっていたかもしれないが、記憶にはない。その後、卒業後すぐだかはわからないが、弟は、君津市の山奥にある、実験動物を飼育するような研究所に就職した。

私が、26歳の時娘が生まれ、数年後、友人たちと、今住む地、房総の南部の山にプレハブ小屋を建て、年に何回か、家族総出で遊びに行くようになった。その地と、弟の住む地とは、かなり近いところだった。一度、訪ねたことがあった。また、その頃、妹も地元で結婚した。だから、20代の最後の頃は、数回あっていると思う。

その後、弟は、北海道に渡った。競走馬を育成する牧場を終の仕事と決めたようだ。

私が、33歳の時、東京を離れ、房総の南部の地に移住して、農業をを生業にしようと決めた。その夏休み、一家三人は、車、フェリーで、両親は飛行機で、千歳空港で、合流し、北海道旅行をした。その時、務める牧場に訪ねた。その翌年だったと思う。両親と、兄弟家族全員で、集まろうと、水上の温泉に集まった。

35歳の4月、私たちは、引っ越しをして、翌夏に、両親も移住することになった。その冬、弟は、北海道を一時離れ、一冬を両親と過ごした。そして、雪も消え、再び北海道に帰る時、私たちの所に来て、しばらく滞在した。

それ以来、会うことはなかった。


出発

2013-10-20 17:20:03 | 記録

10月20日(日)  

朝は小雨だった雨は、本降りとなり、降り続く。母の部屋の準備をする以外は、机の前。

この10日間ほどのことをまとめる作業に入る。北海道滞在中のことなども、まとめなくてはならない。実務は済ませてきたつもりでも、いろいろと引きずることもあれば、あとから出てくることもあるだろう。そうなった時にあわてたり、記憶を掘り起こしたりしないで済むように、今のうちにできる限りきちんとしておきたい。そんな気持ちから、この雨天に感謝しながら、パソコンを打つことに決めた。

 雨は夕方には小雨になり、その中、母は帰宅。今回は短い2泊だが、11月は忙しいので、明日は病院での診察を予定する。

10月14日(月) 体育の日  出発する。5時半過ぎのバスに乗るため、連れ合いに送ってもらう。金田バスターミナル着は7時過ぎ。羽田行きは、7時23分。十分時間はある。しかし、バス停の時刻表を見てびっくりする。休日運休とある。あわててダウンロードした時刻表を見るが、こちらにその記入はない。しかし、現実だ。次発は1時間後。羽田着は8時50分。飛行機は9時半発。乗り慣れていれば、十分の時間かもしれないが、まだ何度目かのフライトのおのぼりさんには焦らざるを得ない短時間だ。連れ合いに電話をしたりと悪あがきをするが、腹を決めて、一時間待つことにする。出足からこれでは、どうなるのだろうと不安にもなるが、そんな気持ちを捨てて、小説を読む。

羽田での手続きも順調で、あまるほどの時間はあった。以後は順調で、12時には苫小牧。予定より一本早い12時22分発の日高本線に乗る。これは、静内までは行かず、鵡川終点だが、鵡川の街を見てみようと、余裕も出る。30分ほどで鵡川。閑散とした駅前。なにもない。駅脇の唯一のそば店で、昼食。通りに出てみるが、周辺は、ほとんど何もない。ポツンと空いていた、夜はカラオケスナックにもなるような喫茶店でコーヒー。どこもかしこも、地方の駅周辺のにぎわいの無さを嘆くように話す、マスターとしばし時間を過ごす。

     

  

2時間後、次の列車が到着。一両編成の様似行き。ガタゴトと一時間ほどゆられて、16時、静内駅到着。

 

さあ!。これからが本番だ。