みどりの野原

野原の便り

1月30日② 恵比須神社・白髭大神・正福寺 

2023年01月30日 | Weblog

八木町めぐり解散後、一人で歩いていたら、宝形造の屋根が見えて立ち寄った。
ここも前にも来たことはある。

恵比須神社 鳥居・狛犬 拝殿


拝殿をのぞいたら三十六歌仙の額が見えた。


隣には白髭大神 鳥居と狛狐


同じ境内に建つ宝形造のお堂。ここは何?


露盤に「正福寺」と書かれているのを発見。
調べると正福寺は廃寺になっている。これは薬師堂らしい。


入ってきた反対側には門がある。

正福寺(廃寺)と 恵比須神社 白髭大神 が同じ境内地にある、神仏習合の姿のようだ。

神社でよく見る三十六歌仙の額、神社に多いが、寺にもあるそうだ。
神社でよく見る狛犬も、まれには寺院にもある。  
前に、寺に鈴の緒があってあれッと思ったが、それもあり。
違うものも鷹揚に受け入れるのが日本のいいところなのかな?

宝形造の正福寺薬師堂の縁側でまったり日向ぼっこの猫ちゃん。
この平和な風景がいつまでも続きますように・・

八木の町、まだまだ奥が深い。

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1月30日① ボランティアさんと「八木町 めぐり」 横大路・太神宮灯籠・大和国分寺 ・JR畝傍駅 ・八木札ノ辻 ・センタイバ跡

2023年01月30日 | Weblog

ボランティアさんの案内で半日の八木町めぐり。
「八木町」は、横大路・下ツ道を中心として生まれ発達した町。

自分でも歩いたことはあるが、知らない話が聞けるかな?

「ミグランス」
2018年内膳池の跡地にできた橿原市役所分庁舎とホテルが入った複合施設。
建物の愛称「ミグランス」は市章にもなっている「トビ」の学名「ミルブス ミグランス」から。
トビは神武天皇東征の時、神武天皇を勝利に導いたという神話がある。

10階の展望フロアへ。
東・西・南を展望できる。


東の展望 耳成山 母校も見える。


西 二上山 

展望フロアの北側は壁。
その向こうはカンデオホテルの露天風呂だそうだ。
近くて遠い・・


大きい太神宮灯籠
この灯籠は横大路の少し東に今も残る「せんたいば跡」(センタイバ 接待場)から移設されたようだ。(センタイバは後で行く)

「横大路」は飛鳥時代、推古天皇の頃にできた日本最古の国道
葛城市の長尾神社から桜井市小西橋あたりまでの大和盆地を東西に走る古道。
東は伊勢へ、西は竹内街道へ続く。
江戸時代には初瀬詣でや伊勢参りが盛んになり「伊勢街道・初瀬街道」と呼ばれるようになった。

今では車のすれ違いもしにくいほどの道幅の狭い道だが・・
1992年の発掘調査で藤原京の横大路の南の側溝(幅2.6m 深さ50㎝)が見つかり、北の側溝跡も発掘されており、藤原京の横大路の道幅は30~40mあったことがわかっているそうだ。

そんな広い道路があったとは想像できない。

江戸時代盛んになった伊勢参詣(お蔭参り)の道しるべとして街道沿いに設置されたのが「太神宮灯籠」(おかげ灯籠)
今も各所に残っている。

「太神宮灯籠」と彫ってあるものと、「大神宮灯籠」と彫ってあるものを見かけるので違いが気になっていたが、意味に違いはないらしい。


「大和国分寺」 
次々起こる災難(地震・凶作・伝染病・貴族の反乱・・)
聖武天皇は仏教により乱れた国を安定させようと、全国に国分寺・国分尼寺の建立を命じた。
国分寺の総本山として東大寺を建立した。

大和国分寺 本堂 2003年焼失、後に再建


宝物館には十一面観音立像(国の重文)非公開
ネットによると、十一面観音立像は宝物館に収蔵されていたために消失を免れたそうだ。


境内のウメの木の枝のあちこちに何やら白い塊が見えた。
ネットに入っているのは貝殻のようだった。貝殻の種類はいろいろ。

何だこれは! こういうのに俄然興味が湧く。
帰って調べたところ「カイガラムシ駆除」のためらしい。
ナニコレ珍百景でも取り上げた光景のようだ。
本当に効果があるものなのか??

「JR畝傍駅」

JR畝傍駅 
『明治26年(1893)明治天皇の神武天皇陵参拝のために誕生。
現在の駅舎は昭和15年(1940年)の起源2600年祭の式典に合わせて造られ、橿原神宮と同じ総白木造が特徴。
皇室の休憩用の「貴賓室」も設けられている。
昭和34年(1959)成婚間もない皇太子夫妻(現上皇・上皇后美智子さま)が畝傍御陵を参拝された際にも貴賓室を使用されたとか。
パレードは見に行ったな~。

上の写真の右側の三角屋根のところが貴賓室(非公開)
2015年に公開された時、貴賓室の中を見学した。昔の映像も見せてもらった。

私もブログに書いたが、一緒に見学した 娘のブログ 参照 の方がきれいなので紹介する。


ホームへの階段


ホームの傾斜 以前SLが走っていた頃との関係らしいが・・よく聞けなかった。

この畝傍駅が老朽化で存続の危機にある。
貴重な木造駅舎や貴賓室、なんとか残してほしい・・

「井戸の辻」から北へ。
この道は 「下ツ道」 といい、上ツ道・中ツ道と並んで古代大和盆地を南北に縦貫するようにつくられた幹線道路の一つ。
江戸時代には中街道と言った。奈良市から橿原市を経て五條市に至る街道


町家が連なる下ツ道(中街道) 




懐かしい「たばこやさん」を見つけた。 ウィンドウは板で覆われていた。
入口上部に「墨絵具特約店 増井鐵筆堂」が読める。

今工事中の「谷三山の生家」の前も通る。

谷三山は幼い頃に聴力を失いながらも財力もあり理解もあった家族の元で、書を読み勉学に励み、「私塾 興譲館」を開き、多くの門下生を輩出した幕末の儒学者。
吉田松陰も師と仰いだそうだ。対談は筆記によったという。
高取藩に認められ、士籍を与えられた。
「高取に過ぎたるものが2つあり、山のお城と谷の昌平(三山の通称)」と言われた。

以前、谷三山に関する講演会に参加したことがある。参照
今井町の「花甍」の前に大きい顕彰碑が建っているのは知っているが、晩成小学校には谷三山の座像があることを今日知った。
また見に行ってみよう。

「札の辻」
南北に通る下ツ道(中街道)と東西に通る横大路の交差する場所。
江戸末期の「西国三十三所名所図会」には高札場があり旅籠や旅人で賑わう様子が描かれている。

「八木札の辻交流館」は、元「東の平田屋」と言われた旅籠だったところ。


かつての旅籠「東の平田屋」 改修されて八木札の辻交流館となっている。
今日は月曜で休館日。


道路を挟んで西側には「西の平田屋」ここも旧旅籠
今も居住しておられる。


札の辻の南東角には魚市場があったそうだ。
左側に六角井戸の名残も見える。(電柱の左)


札の辻から北の道幅が広くなっている所には市場があったそうだ。
昔の喧騒が想像できない静かな街並み。

登録有形文化財に指定された町家が並ぶ。


立派な棟瓦に気がついて写真を撮って帰った。
はて、これは何と読むか?
時間をかけて調べてみたがわからなかった。


結局は息子が調べてくれて「河合」ではないかと言うことに落ち着いた。

札の辻から少し西へ。


伊勢参りの旅人を接待するための「接待場(せんたいば センタイバ)跡」
先日来た時はここに車が止まっていて、全体が見えなかったのだが、ここは個人の所有地だとか。
じゃあ仕方なかったな。

西に移築したという太神宮灯籠はどこに建っていたかというと・・


金毘羅大権現灯籠の東側 空き地になっているところに建っていたらしい。
ここで、旅人たちをもてなしたんだな。

ここから八木駅前に戻って解散となる。
ボランティアさんの説明でわかったこともあったし、自分の発見もあった。

この後、写真を撮らなかった魚市場跡などを一人で回った。
恵比須神社に立ち寄った。 ②に続く。

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