江戸時代の古地図を見ながらの街歩き 九条から安冶川周辺を案内してもらう。
九条 高架 JR高さ10m 阪神高さ15m 便利になったが、完成までにはいろいろ苦労が。
九条 安冶川
今、九条 西九条といわれるところは、元は「南浦」と呼ばれ淀川の砂が堆積してできた河口の島だったが、林羅山という儒学者が「衢壌(くじょう)島」と名づけ、それが後に「九条」になったもので条理性とは関係ないとのこと。
そして江戸時代の古地図でも川で区切られている九條村と西九条(三角形)とは元はひとつの島で、水の妨げとなって洪水に悩まされていたという。
そこで川村瑞賢という人が安冶川を切り開いく治水工事を行った。
人力での作業だったが忍耐強い人夫を雇いわずか20日で工事を完成させたという。
こうして九条と西九条は川で切り離されて今の形になった。
川の名は「洪水よ安らかに治まってほしい」という願いを込めた「安冶川」と名づけられた。
川村瑞賢は大変な功労者で、顕彰碑が建てられていた。
安冶川トンネル
2回ほど通ったことがある。
西九条側のエレベーター入口 歩行者・自転車など利用客は多い。 15m下る。
右)川底の通路 長さ80m 乗り降りの場所や途中に警備員さん?のような方がいて安心。
近くに「源平渡し」跡があり渡し船が盛んだったが、明治中ごろより工業地帯の発達に伴い利用客が増え、渡し船では対応できなくなり、かといって橋を架けると船が通行できなくなるためにこのトンネルが造られた(S19年)
上りエレベーターを降りると九条側。横に階段が見える。次に来た時は階段を降りてみよう。
右)人や自転車用の入口の横に、閉ざされた大きく高い扉がある。今まで気づかなかった。
S52年までは車も通行できていたらしいが、普通の車には不必要に見える高い入口は軍事物資を運ぶことを視野に入れたものだったらしい。
幸いにも?すべての道路完成する前に終戦となったという。
大仏島 今は富島
古地図では安冶川と細い川に挟まれた三日月のような島
そこには奈良の大仏再建に奔走した高僧「公慶上人」にまつわる話が。
港があり諸藩の船の往来するこの地で勧進を行ったところから大仏島と呼ばれるようになった。その後、富が集まったことから富島と呼ぶようになった。
大阪の発展はここから
さびたクレーンは繁栄を物語る港の跡
栄えた港はその後大型船に対応できなくなり国際港も神戸に移り廃止となった。(明治)
今は倉庫や工場が並ぶあまり人気のないところだが、近くには税関発祥地 電信発祥地 大阪開港の地 などの碑が並んでいて、大阪の発展の元となった地域であることを実感。。
近くには中国人の雑居地 川口外国人居留地などがあったが、襲で焼きつくされたという。
途中に「安冶川橋の碑」というのが建っていて興味をひいた。
ここを船が通る時、橋の中央部が回転して船を通す仕組みになっていたらしい。
運用わずか5年で洪水で流されてしまったらしいが、今あればどんなにいいだろう。
川沿いの大きい倉庫(三井倉庫?)は空襲でも焼けなかったらしい。
よかったじゃないのと思ったが、説明を聞いてぞっとした。
空襲の際、目標物を探す目印にしたというのだ。
旧大阪府庁にも焼夷弾の跡が残る。
何でもない風景にもいろんな歴史があるものだ。
ポンポン船の乗り場のそばを通った。乗ってみたい。
S30年代の水上生活者の子供と友達の友情を描いた宮本輝の小説「泥の河」の舞台となったところには碑が建っていたが、今では想像できない風景だ。
昼食は中の島センタービル31階で。こんなに高い所に登ったことはない。
真下は川 遠くには金剛葛城の山やま 目の前には灰色のビル群。緑は少ない。
「夜景がきれいそうね」という声が聞こえた。まあ確かに。
午後は
新疆ウィグルの歌い手さん男女による歌や踊りを鑑賞 最後には一緒に踊る。
阿波踊り調 盆踊り調になるのはやむを得ず、でも楽しいひと時だった。
元松島遊郭の近くを通り、女性解放のために活躍した松島歌子の話を聞いた。
いろんな人の苦労があって今があることを強く感じる一日で、講師の先生の大阪への愛にあふれたお話は魅力的だった。
九条 高架 JR高さ10m 阪神高さ15m 便利になったが、完成までにはいろいろ苦労が。
九条 安冶川
今、九条 西九条といわれるところは、元は「南浦」と呼ばれ淀川の砂が堆積してできた河口の島だったが、林羅山という儒学者が「衢壌(くじょう)島」と名づけ、それが後に「九条」になったもので条理性とは関係ないとのこと。
そして江戸時代の古地図でも川で区切られている九條村と西九条(三角形)とは元はひとつの島で、水の妨げとなって洪水に悩まされていたという。
そこで川村瑞賢という人が安冶川を切り開いく治水工事を行った。
人力での作業だったが忍耐強い人夫を雇いわずか20日で工事を完成させたという。
こうして九条と西九条は川で切り離されて今の形になった。
川の名は「洪水よ安らかに治まってほしい」という願いを込めた「安冶川」と名づけられた。
川村瑞賢は大変な功労者で、顕彰碑が建てられていた。
安冶川トンネル
2回ほど通ったことがある。
西九条側のエレベーター入口 歩行者・自転車など利用客は多い。 15m下る。
右)川底の通路 長さ80m 乗り降りの場所や途中に警備員さん?のような方がいて安心。
近くに「源平渡し」跡があり渡し船が盛んだったが、明治中ごろより工業地帯の発達に伴い利用客が増え、渡し船では対応できなくなり、かといって橋を架けると船が通行できなくなるためにこのトンネルが造られた(S19年)
上りエレベーターを降りると九条側。横に階段が見える。次に来た時は階段を降りてみよう。
右)人や自転車用の入口の横に、閉ざされた大きく高い扉がある。今まで気づかなかった。
S52年までは車も通行できていたらしいが、普通の車には不必要に見える高い入口は軍事物資を運ぶことを視野に入れたものだったらしい。
幸いにも?すべての道路完成する前に終戦となったという。
大仏島 今は富島
古地図では安冶川と細い川に挟まれた三日月のような島
そこには奈良の大仏再建に奔走した高僧「公慶上人」にまつわる話が。
港があり諸藩の船の往来するこの地で勧進を行ったところから大仏島と呼ばれるようになった。その後、富が集まったことから富島と呼ぶようになった。
大阪の発展はここから
さびたクレーンは繁栄を物語る港の跡
栄えた港はその後大型船に対応できなくなり国際港も神戸に移り廃止となった。(明治)
今は倉庫や工場が並ぶあまり人気のないところだが、近くには税関発祥地 電信発祥地 大阪開港の地 などの碑が並んでいて、大阪の発展の元となった地域であることを実感。。
近くには中国人の雑居地 川口外国人居留地などがあったが、襲で焼きつくされたという。
途中に「安冶川橋の碑」というのが建っていて興味をひいた。
ここを船が通る時、橋の中央部が回転して船を通す仕組みになっていたらしい。
運用わずか5年で洪水で流されてしまったらしいが、今あればどんなにいいだろう。
川沿いの大きい倉庫(三井倉庫?)は空襲でも焼けなかったらしい。
よかったじゃないのと思ったが、説明を聞いてぞっとした。
空襲の際、目標物を探す目印にしたというのだ。
旧大阪府庁にも焼夷弾の跡が残る。
何でもない風景にもいろんな歴史があるものだ。
ポンポン船の乗り場のそばを通った。乗ってみたい。
S30年代の水上生活者の子供と友達の友情を描いた宮本輝の小説「泥の河」の舞台となったところには碑が建っていたが、今では想像できない風景だ。
昼食は中の島センタービル31階で。こんなに高い所に登ったことはない。
真下は川 遠くには金剛葛城の山やま 目の前には灰色のビル群。緑は少ない。
「夜景がきれいそうね」という声が聞こえた。まあ確かに。
午後は
新疆ウィグルの歌い手さん男女による歌や踊りを鑑賞 最後には一緒に踊る。
阿波踊り調 盆踊り調になるのはやむを得ず、でも楽しいひと時だった。
元松島遊郭の近くを通り、女性解放のために活躍した松島歌子の話を聞いた。
いろんな人の苦労があって今があることを強く感じる一日で、講師の先生の大阪への愛にあふれたお話は魅力的だった。