ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)

映画、旅、その他について語らせていただきます。
タイトルの由来は、ライプツィヒが私の1番好きな街だからです。

日本における「方向音痴」の位置づけをかんがえるうえで、なかなか興味深い論点ではないか

2024-04-19 00:00:00 | Weblog

先日

登山でも(海外)旅行などでも、1人になってしまっても何とかできるだけのスキルは持っていたい

という記事を発表し、その中でかなり牽強付会に方向音痴についての話をしました。登山の単独行をする人で極端な方向音痴の人はいないのかもですが、日常生活でひどく苦労する人はいます。前記事で書いた山本弘先月お亡くなりになりました。ご冥福をお祈りいたします)の奥さんは、山本によればあまり苦にしていないようですが(山本は、その件について


 僕にとって道に迷うというのは大変なことで、何としてでも避けたい事態である。だが、妻や娘にとってはそうではない。迷うのが当たり前になっていて、まったく苦にしていないのだ。

「適当に歩いてればそのうち着くやん」「迷うのも楽しいよ」と妻は言う。苦にしていないのだから、「努力して方向オンチを治そう」などと思うわけがない。

 僕の身の回りの少数のサンプルだけで断定するのはためらわれるが、方向オンチの人にはどうも楽天的な性格の人が多いような気がする。

 彼らは方向オンチであることを楽しんで生きているようだ。

と書いています)、それは確かにそうなのかもですが、もちろんみながみな、そういう人ばかりではない。困っている人たちもいます。山本の奥さんだって、緊急に移動しなければいけない場合は、そんなのんきなことを言ってもいられないでしょう。

で、方向音痴について検索していて、面白い記事を見つけました。福井県の開業医の書いた記事です。元は、福井県の医師会の会報に掲載されたものが、日本医師会のサイトに転載されたもののようです。

方向音痴と海馬

一部抜粋してご紹介。


 大きなショッピングセンター内でトイレヘ行くと、待ち合わせ場所へ戻れず電話を掛ける。広い駐車場では車を止めた場所が分からなくなる。地下の駅から目的地への案内表示に従って歩いても、違う出口へ出てしまう。大きい病院の中で迷う(さすがに白衣を着て、人に尋ねるわけにはいかない)。学会会場へたどり着けず、分かっているふりをして学会に参加しそうな人に付いていく。電車やバスで目的地と反対方向に乗ってしまい、慌てて降りる。初めて入った店で食事をして店を出ると、帰る方向と必ず反対方向へ歩き出す。ホテルの部屋を出てエレベーターホールへ行こうとしても、たいがい反対方向へ踏み出してしまう。
 このようにいつも逆方向へ行ってしまうということは、ある意味方向感覚は一定しているのではないかと思われ、"思った方向と反対方向に行けば良いのではないか"と言われることがあるが、右か左かを迷っているのではなく、反対の反対に行っても必ず反対の方向になるのである。


先月、認知症で受診が困難になった患者さんから往診の依頼があり、2回目の往診へ行くことになった。「明日は、私が一人で往診に行ってくる」と看護師に言ったところ、「一人で行けるかどうか心配なので、一緒に付いて行きます」と言われた。クリニックから10分ほどの距離で、8号線から右に入ってすぐの家だったので「何を心配しているのか」と内心少し不機嫌になった。
 翌日昼の休憩時間を利用して、しぶしぶ看護師を助手席へ乗せて往診に出掛けた。8号線を直進し、次の信号を右折して、すぐの四つ角を"左折"しようとした瞬間、「先生、右折です」と言われて急いでハンドルを右に切ったところ、目の前に患者さんの家が現れた。何事も無かったかのように家の中へ入ると、「先生、暑いところご苦労様。すみませんねえ、わざわざ往診してもらって」とニコニコした認知症の患者さんが待っていた。
 家族が「2カ月前までは、自分で運転して通院していたのに、道を間違えたり車の運転も危なくて......」と言った時、隣の看護師がこちらを見て笑った。診察を終えて、「近い所ですから気になさらずに、いつでも往診に来ますよ」と家を出て、車を発進させたところ、8号線とは反対方向に走り出していた。午後の診察時間にギリギリ間に合ったのは、同乗してくれた看護師のおかげであったのは言うまでもない。

この医者は開業医ですから、医者なので一定レベルの頭の良さは当然あるし、また開業医である以上看護師ほかスタッフを雇用しているわけで、つまりは一定の経営能力ほかの社会常識も備わっている人でしょう。が、それでもこの始末なわけです。つまり知能指数とか社会常識といったこととはあまり関係ないわけです。

方向音痴の人の話を見聞すると、ほとんどギャグのような気がする

の記事でもご紹介したように、水谷豊片平なぎさもかなり極端な方向音痴らしい。お二人ともドラマで主演をはれるレベルの役者のわけで、ってことはこれまたいろいろな点で優秀でしょう。そういう人たちも、方向感覚は非常に悪いということです。つまりは、これも前掲の医者と同じようなものでしょう。頭の良し悪しとは関係ないということです。

で、この件についていろいろ検索していたら、面白い記事にぶち当たりました。

方向音痴は治るのか? その方向音痴、実はあなたの心が原因かも?

筆者の方は、日本人における方向音痴の特性として、


【方向音痴の原因?】方向音痴はチャームポイント?
 
ここまでは、方向音痴を、人が持つ(もしくは「備える」)認知機能の面から考えてきました。しかし、日本人に限っては、どうも認知的側面からの研究では不足しており、社会的側面から方向音痴の原因を解き明かす必要があることが、分かってきました。
 
ある研究グループは、Web上の方向音痴に関する書き込みを研究しました。
すると、本来、方向音痴とはネガティブな要素のはずなのに、「私は方向音痴です」といった、方向音痴を自ら宣伝する書き込みが多く見受けられたのです。
 
実は、この研究は2000年に行われたものです。だいぶ昔の話ではありますが、でもきっと、今でも同じ調査をすれば、同じ傾向が出ることが推測されます。
 
 例えば、日本のマンガ/アニメ文化では、いわゆる「ドジっ子」は軽蔑される対象ではなく、かわいらしく愛されるキャラクターとして、ステレオタイプな表現のひとつとして定着しています。
「ドジっ子」が愛されるのは、他者を必要とすることもひとつの要因です。「ドジっ子」の面倒を見てくれる、お兄ちゃん/お姉ちゃん的キャラクターとの対比の中で、「ドジっ子」は愛されるわけです。
 
 これも研究の結果、自称方向音痴の人たちには、「自ら地図を確認することをしない」「誰かに依存して後を付いていく」傾向が強いことが分かりました。
 
方向音痴を自称する人たちの中には、そもそも「道を覚えよう」という意識が欠如している人が多いことは、なんとなく、読者の皆さまも思い当たるフシがあるのではないでしょうか。
 
なぜならば、彼ら/彼女らは、方向音痴を自分のネガティブファクターだとは、本気で思っていないからです。そして、日本文化の中に、方向音痴を容認する傾向があるからこそ、彼ら/彼女らの存在も容認されていくわけですね。

としています。上の引用での、方向音痴の人は、道を覚えようという意識の欠如というのは、山本の記述と一致します。で、これ読んだとき、私「なるほどなあ」と思ってしまいました。上の山本弘の奥さんの珍発言などはそれにつながるし、またその珍発言への山本の解釈も、そういう部分に対応しているというものでしょう。またマンガのキャラクターなども、確かにそういうところがあるかもです。『ドラえもん』の野比のび太などは、まさにその典型でしょう。アジアでは『ドラえもん』が高い人気があるのに、欧米ではさほどでないという背景には、のび太があまりに依存度の強いキャラクターであることもあるはず。欧米の映画やアニメで、あのような依存度の高い人物が主人公であるものは観た記憶がありません。『ドラえもん』も映画にかんしては、さすがにあれほどの依存度ではないですが。

それでWikipediaでは、この記事を執筆している時点で、他言語で「方向音痴」という項目はありません。これは、前の記事でも確認していましたが、やはり現在も不変です。英語で「方向音痴」というのをどう表現するかというのを確認してみても、日本語のようにそのものずばりの表現というわけでもない。

そう考えてみると、日本という国は、方向音痴に関して世界的に見てもかなり特異に容認している、あまいという傾向はあるようですね。それがなぜなのかというは、私のような素人ではなかなか解明できなさそうですが、ともかく、ジェンダー意識とかの観点からしても、そういう女性の依存気質みたいなものは是正すべきだし、それと並行しての「女性=方向音痴の人が多い」みたいなバイアス観念は排除すべきものなのでしょう。私もそういう偏見にとらわれていないという自信はないので、ここは私も今後注意したいと思います。


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