ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)

映画、旅、その他について語らせていただきます。
タイトルの由来は、ライプツィヒが私の1番好きな街だからです。

靖国神社へ『樺太1945年夏 氷雪の門』を見に行く(3)

2008-08-13 06:23:30 | 映画
すいません。数日休ませていただきました。今日からブログを再開します。

映画のストーリーと史実は、実はだいぶ異なっています。映画がフィクションなのは当然ですし、それは仕方ないのですが、どうもあらぬ誤解が世間に広がりかねない(ていいますか、すでに広まっています)ので、wikipediaを引用します。

>1945年8月16日、樺太で緊急疎開が始まると、真岡郵便局では局員に残留指示が出された。形式的には残留希望者を募るものであったが、希望者少数の場合は強制残留が予め定められていたので、多くの局員には残留を拒むことは出来なかった。最終的には、20名の電話交換手が残留した。

8月19日朝、非常体制が敷かれる。電話・電信業務は、昼夜を通して行われるため、通常3交代制であたっていたが、この時から非常勤務体制となった。電話交換手の夜間勤務は上野主事補を班長とする上野班と、高石主事補を班長とする高石班に分けられた。

8月19日午後7時過ぎ、電話交換手は夜勤体制になった。この夜、当直の電話交換手は高石班長以下11名の女性であり、この他に、電信課には、電信主事・平井茂蔵を筆頭に、職員7名の男女(男性5名、女性2名)が勤務していた。

8月20日、早朝。ソ連軍艦接近の報告が入ると、高石班長は郵便局長・上田豊蔵に緊急連絡したのを始め、局幹部に緊急連絡を行った。緊急連絡を受けた電話主事・菅原寅次郎は電話交換手・志賀晴代に出勤を求め、電話交換手は12名となった。なお、上田局長は郵便局から僅か200m程の所にある職員宿舎に滞在していたが、郵便局には最後まで姿を表すことは無かった。

緊急連絡からおよそ1時間後、ソ連軍艦が真岡港に現われ、2艘の舟艇が上陸を試みる。(ロシア側資料によれば、上陸開始時刻は午前7時33分である。)この時、日本軍憲兵隊から上陸艇に対して発砲。これをきっかけに、ソ連艦隊から艦砲射撃が始まった。なお、艦砲射撃に至った経緯には異説があるが、日本側から先に発砲したという点では、概ね一致している。

この当時、真岡郵便局には平屋建ての本館と、2階建ての別館があった。電話交換業務は別館2階で行われていた。ソ連軍艦からの艦砲射撃が始まると、真岡郵便局内も被弾するようになり、電話交換手12名は、別館2階に女性のみが孤立することになった。

極度の緊張感の中で、高石班長が青酸カリで服毒自殺、続いて代務を務める可香谷が自殺。この後、1人また1人と合計7名が青酸カリ或いはモルヒネで自殺した。この間、電話交換手は、泊居郵便局、豊原郵便局などに電話連絡している。高石班長は最後に連絡することが役目であったにも係わらず、部下への適切な指示も無く、上司への連絡もせず、最初に自殺した理由は不明である。

この後、伊藤は、既に7人が自殺し、自分も自殺することを泊居郵便局に連絡。更に、蘭泊郵便局へも同様の連絡をした。この時点では、伊藤のほか境、川島、松橋、岡田の4名が生存していた。伊藤は、続いて、内線電話で電信課へ自殺を連絡し、自ら服毒自殺。この時点で、松橋も自殺をしていたので、自殺者9名、生存者3名となった。急の知らせを受けた電信課男性職員は、2階電話交換室へ急行し、境、川島の2名を救出し本館へ移動させた。

一方、本館では、戦闘が始まり郵便局舎も被弾するようになると、被弾を恐れた女性達は、奥の押入れに隠れていた。境、川島救出後暫くしてソ連兵が現われると、被弾の恐れも無くなった。最初は男性局員のみが応対し、女性はそのまま隠れていたが、安全であると判断すると、救出された2名の電話交換手を含む4名の女性局員も姿を現した。実際、金品の没収はあったが、被弾することも陵辱されるようなことも無かった。その後、局員は港の倉庫へ移動した。電話交換手のもう一人の生き残りである岡田は、その後、港の倉庫に移った。

事件から10日以上経ってから遺体は仮埋葬され、12月に火葬・本葬が行われた。



以上で分かるとおり、実際には郵便局側が、交換手たちに真岡に残るよう強く説得しています。映画の中にあるように、交換手たちが職場に残ることを必死に請願した・・・ということでもなかったみたいです。

もちろん、こんなことは冷静になって考えれば当然でしょう。映画にもあるように、旧制中学の生徒に少し教えて電話交換業務が遂行できるわけはないでしょうし、電話交換というのは社会の生命線ですから、かなりのリスクを覚悟の上でも、プロの交換手に残ってもらわなければならないというのは、ある意味(いい悪いはともかくとして)当然でしょう。

しかし、これって、観客に大いなる誤解を生じさせませんかね。たしかに、映画のような話のほうが感動的ではありますが、このような事実の美談化は本質的にかなり問題ではないでしょうか。もちろん映画だからフィクションなのは当然です。しかし、それなら映画の最後に、

<この映画は、史実を基にしたフィクションです>

とでもコメントを入れるべきではないでしょうか。



そして最後の自殺のくだりです。

映画では、9人の女性が申し合わせたように毒をあおって自殺するという風になっています。この映画を見た人は、細かいところはともかくとして、少なくとも自殺の部分は史実(もっとも映画のとおりだとしたら、誰も目撃者はいないわけですから、基本的に想像になってしまいますけど)だと考えるでしょう。私もそうおもいました。が、事実は、最初にリーダーである班長(この人をモデルにした役を主演の二木てるみが演じています)が自殺し、その後五月雨式に8人自殺して3人が助かった・・・なんてことは、この映画からは当然ながら伺えません。

この事件は、自殺を防ぐことは十分可能だったと思いますし、殉国美談としても、非常によろしくない話のように思えます。少なくともその場に男性が1人でもいれば自殺は防げた可能性があるし、班長が最初に自殺したのは、他の交換手たちをひどく動揺させ悲しませて自殺に追い込む一因となったことも疑いありません。

もちろん実際に映画化するんだったら、史実では映画として劇的でないということかもしれません(それは、シナリオと演出が優れていればカバーできるかもしれませんが)。しかしこれが史実だと世間の人が考えて、それで靖国神社でも殉国美談として扱われる・・・というのは、やはり良くないですよね。


そういう意味では、この映画は、世間に誤解を広める映画ということになりそうです。製作者たちに悪意があったとは思いませんが、この映画を史実と考えるのは問題です。

繰り返しますが、この映画は出来はそれなりにいいと思います。ただ、あくまでフィクションとしての部分が映画の本質的な部分にあるということは認識したいということです。

なお、この映画が公開中止に追い込まれた事情は、どうも当時東宝が栗原小巻主演の映画『モスクワわが愛』をソ連のモスフィルムと協同で製作していて、その関係でソ連の圧力に弱かったようです。当時、 『デルス・ウザーラ』とか『青い鳥』など、(当時の言葉を使えば)西側とソ連との映画協力が盛んになっている時代でした。そういうわけで、東宝は、ソ連との関係を悪くしたくないと考えていたようです。それがよかったのかどうか、後に東宝は、栗原主演でまた合作映画を作っています(『白夜の調べ』)。


この映画をどうしても見たいという方は、こちらのサイトから通販で購入できます。また、靖国神社の遊就館のミュージアムショップでも売っています。あるいはまた、遊就館で上映会が行われるかもしれません。各地で上映会も行われていると思います。


この映画を鑑賞した際、靖国神社の方が、「この様なことがあったということを、周りの人に伝えてほしい」みたいなことおっしゃっていました。靖国神社の考えとは異なるでしょうが、私なりの考えをこのブログで発表させていただきました。

なお、この記事を書くに当たって、 『「九人の乙女」はなぜ死んだか』川嶋康男著を参考にしました。川嶋さんに感謝を申し上げます。また、今月末に、この本の文庫版が出るようです。


追伸:この映画を見た後、主演の二木てるみさんのサイトを知ったので、僭越ながらこの映画の簡単な感想を書き込ませていただきました。そうしたら二木さんから、とてもすばらしい返信をいただきました。彼女の人柄のうかがえる文章で、とても感激しました。ぜひこのブログの読者の皆様もお読みになってください。144番が私の感想です。二木さんに、この場を借りて厚くお礼を申し上げます。


2009年2月15日追記:残念ながら、上の私の書き込みと二木さんの返答は、二木さんのHPの管理上の問題で削除されてしまっています。よって、クリックしていただいても閲覧できません。ご了承ください。
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2 コメント

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レポートおつかれさまでした。 (pr3)
2008-08-15 17:53:25
ひょんなことからつかまえた情報でしたが、お役に立てたようでなによりです。わたしもこの映画の内容は知りたいと思っていたのですが、最近目が悪くなって2時間の映像を集中して観ることがつらくなっているので、まとめてご紹介下さったことに感謝します。
1975年ごろというと、戦争を扱った(多くはその悲惨さを訴える)映画が定期的に掛かっていたように記憶しています。邦画の興業構造も変わって、今はこういう映画が全国配給されることはまずないでしょうが、当時としては(こう言っては二木氏などに失礼かもしれませんが)“よくある映画の一本"だったのだろうと思います。妙ないきさつで伝説の映画と化してしまいましたが、古森記者や産経が持ち上げるほど、特別なものではなかっただろうと。
気づいていなかったのですが、この時期の東宝作品というと特技監督は中野昭慶氏なんでしょうね。艦砲射撃シーンはやはりあの大プールなんでしょうか。
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同感です (Bill McCreary)
2008-08-15 19:07:46
pr3さん、コメントありがとうございます。

>1975年ごろというと、戦争を扱った(多くはその悲惨さを訴える)映画が定期的に掛かっていたように記憶しています。

私も同時代ではありませんが、確かにこの時代は戦争映画がたくさん作られたましたね。村山監督も、別に反ソ映画にしようとしたわけではなかったみたいで、右翼から祭り上げられたというのは大いに困惑したのではないかと思います。すでに村山氏は故人ですが、現在この映画を販売している人は、この映画の助監督だったそうですが、石原慎太郎の『俺は、君のためにこそ死ににいく』を監督しているんですよね・・・。要は、かなりの右翼のようですが、結局そのためにだいぶこの映画は汚されてしまったように思います。

>よくある映画の一本

私も同感です。正直この映画を荒木はともかく、大原あたりはほんとに見ているのかな、あるいは戦術として大げさに書いているのかなとも思います。

>艦砲射撃シーンはやはりあの大プールなんでしょうか。

ええ、大プールでした。たしか中野氏だったと思うんですが、クレジットをよく見なかったので、自信がありません。まあまあ迫力はありました。

これからも遊びに来てください。よろしくお願いします。
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