ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)

映画、旅、その他について語らせていただきます。
タイトルの由来は、ライプツィヒが私の1番好きな街だからです。

崔洋一監督が亡くなった(2013年に監督と握手をしていただいたことがある)

2022-11-29 00:00:00 | 映画

映画監督で、俳優をしたこともある崔洋一監督がお亡くなりになりました。記事を。

>映画監督の崔洋一さん死去 「月はどっちに出ている」など
2022年11月27日 20時40分 

「月はどっちに出ている」や「血と骨」などの作品で知られる映画監督の崔洋一さんが、27日ぼうこうがんのため亡くなりました。73歳でした。

崔洋一さんは長野県で生まれ、大島渚監督の映画「愛のコリーダ」の助監督などを務めたあと、1983年に「十階のモスキート」で劇場映画の監督としてデビューしました。

1993年、在日コリアンのタクシー運転手を主人公に日本に住む外国人などの姿を描いた「月はどっちに出ている」で注目を集め、ビートたけしさんが主演を務め、2004年に公開された映画「血と骨」では、日本アカデミー賞最優秀監督賞を受賞しました。

また、2004年からことしまで、日本映画監督協会の理事長を務めました。

崔さんはことし1月、ぼうこうがんを公表し、闘病していましたが、崔さんの事務所によりますと27日午前1時、東京都内の自宅で亡くなったということです。73歳でした。

記事にもあるように、崔監督は、今年1月に自分の病気を公表していました。では公表時の記事も。

>崔洋一監督が闘病中のぼうこうがんとは――痛み伴わぬ血尿や血塊…喫煙などが主な発症要因
[ 2022年1月12日 22:01 ]

 映画「十階のモスキート」「月はどっちに出ている」「血と骨」などで知られ、日本映画監督協会の理事長も務める崔洋一監督(72)がぼうこうがんと闘病中であることを12日、本紙に明かした。20年4月に全摘出手術を受けたが、1年後の検査で右腎、リンパ、肺に転移していることが判明。今月4日から新たな治療をスタートし、寛解を目指す。

 崔監督が闘病中のぼうこうがんは、ぼうこうの粘膜に発生する悪性腫瘍。ぼうこう内部を覆う尿路上皮にできる「尿路上皮がん」が9割以上といわれる。発生初期から症状が出やすく、痛みを伴わない赤や茶色の血尿や血塊が出ることもある。頻尿や排尿の際に痛み、残尿感が続く場合もあり、ぼうこう炎と症状が似ている。がんの大きさや、ぼうこうの壁にどれくらい深く及んでいるか(深達度)によって、手術などの治療法が選択される。初期の場合は内視鏡手術が一般的だが、進行するとぼうこう全摘となる。ぼうこうを摘出した場合は、人工的に腹壁に作った排泄口(尿路ストーマ)を使った尿路変更が行われることもある。50歳以上で罹患(りかん)することが多く、男女比は3対1。

 発症の主な要因の一つとして喫煙、化学物質への慢性的な接触などが挙げられる。

人様の生死にかかわることですのでめったなことは書けませんが、遺憾ながら、

>1年後の検査で右腎、リンパ、肺に転移

ではちょっとこの時点でどうしようもないという感がありますね。残念です。

ところで崔監督は、NHKの引用記事にもありますように、大島渚監督の『愛のコリーダ』でチーフ助監督を務めました。この時主演を務めた 藤竜也を大島監督に推薦したのが、じつは崔監督(当時はもちろんまだ監督ではありません)でした。女優のほうが無名の松田暎子だったので、男優のほうは知名度の高い俳優を起用したいのはやまやまでしたが、どの俳優も出演したがらない。それで崔監督が、助監督をしていた『新宿警察』に出ていた藤がいいのではないかと大島監督に推薦、製作記者会見前日に大島監督と崔監督が藤と面談、シナリオを読んでもらいます。最後は、プロデュースを担当した若松孝二監督と一緒に説得(というか、一緒に酒をのんで)、ついには藤から

>出る気がなければ、今ここで、若松さんとも崔さんとも飲んでませんよ

という言葉をもらい、

>記者会見の7、8時間前でした。若松さんが泣き、僕も泣いて、その隣に平然と飲み続ける藤さんがいて……。昼ごろ、藤さんはそのままの格好で帝国ホテルに現れ、僕と控室へ。大島さんは大変緊張しつつも、抱きかかえんばかりに喜んでいました。キャストが紹介された会見場の、あのどよめきが忘れられません。

という次第になったわけです。そりゃマスコミも驚きますよね。なにしろ情報がもれていなかったわけですから。決まっていなかったんだからもれるわけもない。

というわけで、この映画で助監督を務めた以外では、崔監督は大島映画にスタッフとして参加したわけではないのですが、やはりこの時の経験がきわめて彼の映画人生に影響を与えたのでしょうね。この映画に参加しなければ、のちの崔監督は存在しなかったのかもしれない。いや、わかりませんが、彼の様々な能力がこの映画での経験で極端に伸ばされたのは確かではないか。のち(1999年)に、彼が大島監督の遺作となる『御法度』で近藤勇を演じたのも、そういったからみなのでしょう。もちろん大島監督も、崔監督への絶大な信頼をしていたはず。

それで崔監督のフィルモグラフィをみると、劇映画だけをWikipediaから引用しますと(注釈ほか削除)、

映画

ということになります。20世紀までは割合コンスタントに作品を発表してくれていますが、やはりご年齢(1949年生まれ)からすると、ラストの作品が2009年というのは残念ですね。21世紀になっても、『カムイ外伝』までで5本発表しているので、お亡くなりになるまでの13年間に、3本~4本くらいの作品を発表することは可能だったのではないか。山田洋次監督や新藤兼人監督のような超人のようなことを要求するつもりはありませんが、やはりもう少し作品を発表していただけたらなあとあらためて思いますね。大島監督も、『戦場のメリークリスマス』とか製作されなかった『ハリウッド・ゼン』のような海外を巻き込んだ製作費の高い映画にのめりこんで寡作になってしまいましたが、崔監督も、大島監督同様日本映画監督協会の理事長を長きにわたって(2004年~22年。大島監督は、1980年~96年)務めていましたが、崔監督も論客になり、ある意味大島監督と同じ轍を踏んだということもあるかもしれません。実は山田監督も理事長を務めたことがあるのですが、2003年~04年の間であり、そこで崔監督にバトンタッチしたわけです。山田監督が理事長を引き受けたのは、大島監督の後をついだ深作欣二監督が03年1月にお亡くなりになったための一時的なものだったのでしょうが、やはり崔監督には、論客だけでなく映画を撮ってほしかったというのが、私の正直なところです。

それで、私は、崔監督のお姿を1度だけ生で見て、しかも握手までしていただいたことがあります。

「私のべレット」を観た

2013年1月に長期の闘病中だった大島監督がお亡くなりになり、同じ年の3月に池袋で大島監督の追悼上映が催されました。その時、当時の記事から引用すれば、

>なお、同じ日、現日本映画監督協会理事長(大島もかつて長きにわたって理事長でした)である崔洋一のトークショー(崔監督と握手しちゃいました。私感激)が開催され

というわけです。映画が始まる前に、私の目の前に崔監督がいたので、握手を求めてしまいましたら、しっかりしていただけました。あの時の崔監督の柔和な表情を忘れることはできません。

崔洋一監督のご冥福を祈ってこの記事を終えます。


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