Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

時間を節約する!と躍起にならないこと。

2021-07-24 12:07:44 | 考えの切れ端
僕らは他者との関わりで生きている。そのなかでいろいろとストレスはあってどこかで休憩したくなるもの。でも一日の中で、「一分でも節約して休憩に充てるぞ」と躍起になっても、たぶんそうやって溜めた時間ではよい休憩にはならない。時間の節約にエネルギーを使い過ぎているっていうのがあるし、休憩に入るときの自分の状態が穏やかでなさすぎてうまく心身が休憩に入れないだろうからです。休憩のために一分節約したばかりに、二分なければ休息できない疲労をためてしまうことになってしまいがち。反対に、時間の節約にぴりぴりせずにいたほうが、幾分短めの休憩でも休める。量ということでもないんです。つまり、普段どういう質の時間の使い方や過ごし方をするかなのだと思う。

でも実際、急ぐときは急がなきゃだから、過度にならないように適度にバランスを取りながらになります。過ぎたるは及ばざるがごとし、ですから。そして、時間の量と質についての意識をつねにどこかでもっておくことが大切になります。

休息時間によい休憩が取れるかは、活動しているときの「時間の使い方の質」によるでしょう。ぴりぴりし通しだったり焦ってばかりだと、回復するために休憩時間がたくさんいるようにもなる。そのためにもっと時間の節約をし始め、そのためにさらにぴりぴりして、それを癒すためにさらに休憩時間が欲しくなって……と、節約がエスカレートしていく。悪循環にはまってしまいます。

こういうのはひとりだけで気をつけられるところもありますけれども、他者と相互で影響を与えたり受けたりしあうものでもあるので、みんなができるだけ落ちつけるといいですよねえ。好循環のためには、こういったことを各々が考えておくことが必要なのでした。

おそまつ。
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『ゆるす 読むだけで心が晴れる仏教法話』

2021-07-21 22:53:36 | 読書。
読書。
『ゆるす 読むだけで心が晴れる仏教法話』 ウ・ジョーティカ 魚川祐司 訳
を読んだ。

ミャンマーの高僧であるウ・ジョーティカ師が1997年にオーストラリアで行った法話をもとに構成された本。仏教の専門的で難しい法話ではなく、非仏教徒でもわかるような言葉と内容で、「心の科学」とも言われる仏教の視座から主に「怒り」「許し」について語っています。また、マインドフルネス(今の自分に自然と集中できている状態、でしょうか)を重視し広めようとしている方のようで、随所にその思想や瞑想の大切さを説く場面がありました。「スピリチュアル」という言葉で表現される種類の内容が重なっていますが、もともと「スピリチュアル」という言葉自体がとても曖昧なものなので、そこに神秘主義やオカルトを想像する方もいらっしゃるでしょう。しかしながら、本書で語られる「スピリチュアル」は「精神性」だとか「深い人間性」だとかそういった言葉に僕だったら意訳するだろう中身でした。

およそ2600年の歴史を持つ仏教。日本には飛鳥時代に伝来したといわれ長い歴史がありながら、いまや葬式仏教と呼ばれるくらい一般の日本人との接点は偏り小さくなってきています。現在では葬儀も家族葬などのお金をかけないものが増えてきているそうですし、多額の寄付金が必要になる「戒名」をつけて頂くことを避ける人も珍しくはないというような話を聞くこともあります。こういった仏教のイメージとはまた違って感じられるのが著者の生きる上座部仏教の世界です。

著者のウ・ジョーティカ師の属する上座部仏教は、戒律をまもりながら各々で自分を高めていろいろ考え抜き悟りをひらくまで励んでいこう、というような宗派のようです。対する日本の仏教は大乗仏教の流れのものですから、お釈迦様の言葉をよくかみしめて考えたりなどし教えを守っていこう、というようなものに近い宗派だと思います。だからたぶん、日本のお坊さんが話すこととはちょっと違う角度というか、哲学的な性格が強いのではと思います。

つまるところ「怒り」は反応なのだ、と話していました。物事にたいして自動的に感情が反応してしまうことが怒ること。あまりに怒りすぎると見境がなくなり、歯止めも効かなくなります。そうなれば、もはや感情の奴隷としての存在であり、それは自由ではないのだ、とありました。さらに、怒りは心のムダづかい、だとして、もっとエネルギーを効率的に使っていくほうが人生のためです、というように説いています。

なぜ反応してしまうか、そのひとつの理由として「参与する」ことが挙げられています。この「参与する」という言葉は「コミットする」だとか「関わる」だとかという意味合いで捉えてよさそうですが、生きている以上、参与せずに生きることは弧絶して生きることと同じなのではと想像できたりします。でも著者が言いたいその主旨のニュアンスは「怒らないために参与を止めなさい」というのとはちょっと違うようなんです。個人的に考えてみれば、参与しすぎないこと、つまりベタベタしすぎる人付き合いではなく互いに敬意を持ち互いを尊重するような距離の取り方でおそらく参与のしすぎは解消されるでしょうから、そういった方向を向きましょうと促しているように受け取れたのですが、著者の考えはもっと精神的に深いところにあるのでした。著者は、現代はニュースなどがあふれていて、そのひとつひとつにすら参与してしまう有り方についての話をしたあとでこう言っています。

「あなたが現象に参与しない限り、誰も本当の意味であなたを幸せにはできないし、また誰も本当の意味であなたを不幸にはできません。」
「参与しているからこそ、私は自分の幸福と不幸に責任があるのです。」

要するに、参与することによって幸福になることがあるし反対に不幸になることもあるのだけれども、参与するかしないかというのは自分で選択できること、なのです。そして、自動的に参与してしまわないためには、マイドンフルネスを会得していなければならない、というところに繋がっていくのでした。

「ゆるし」についても平易な言葉で語られながら中身は深く、なるほどなあと頷きながら癒されそして学ぶ、という読書でした。たとえばこのような文言。

「許さないでいることはある種の牢獄です―――あなたは他人を投獄するのですが、しかしそのようにすることで、同時にあなたは、自分自身をも投獄しているのです。」

これはボードレール『悪の華』の「死刑囚にして死刑執行人」と近いところにある意味合いの言葉だと思います。著者は、許すことでひとは自由になれるということについての考察を述べるなかで、許さないことでそこから何を得ているのかを考えることがとても大切だ、という洞察をしていて、さまざまな角度から物事を考えてきたひとなのがうかがい知れるところで、ほんとうに「考える人」だなあ、と清々しさをおぼえるくらいでした。

「許すことは忘れることではない」「理解すれば怒りは消える」「「許さない」という自傷行為」など、これらは各項のタイトルなんですが、それぞれ難しくなく読める言葉遣いで語られた項ですし、それらによって自分の思索を深めさせてくれるし、いたわってもくれるし、励ましてもくれるしで、充実した読書時間にひたれました。

そんななか考えたのが次のようなこと。いつか流行った「十倍返しだ!」に比べれば、ハムラビ法典の「目には目を」には公平感ときっちりした「だからといってこれ以上はしてはいけません」という制約を感じたりします(この気付きは、昨年放送のNHKのドラマ『タリオ』のセリフからです)。人間性をさらに発展させたら「ゆるします」になると思うのですが、これは「十倍損した!」といいながらもそれを飲みこんでする行為ですよね。この「ゆるす」がすごいんだ。そのすごみがわかるようになる本書の後半部でした。

「怒り」にも「ゆるし」にも、うまくその対処にフィットするやりかたがわからない方はたくさんいらっしゃるでしょう。大きなヒント以上のものを得られる本なので、そういった感情面のコントロールを試みたいひとにはうってつけです。また、SNSで攻撃的な言葉で問答無用の責めに辟易しているひとにも、寄り添ってくれるような中身だと思いました。


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ワクチン摂取一回目

2021-07-20 23:13:43 | days
新型コロナワクチンの第一回目の摂取の注射を先週の水曜日にしていただきました。ファイザー製ワクチン、つまりmRNAワクチンです。

mRNAワクチンは新しい技術ですから、大丈夫なのだろうか? と不安はあったのですがネット検索やSNSでいろいろ知ってみると大方の不安は解消されたのでした。抗体を作るためにウイルスの設計図を作らせるmRNAを体内に入れるのがこのワクチンの方式。そのmRNAは一週間もすれば壊れてしまうそうです。壊れてしまうということは、意味を成さなくなるということでしょう。いろいろと副反応はありますがそれはしょうがない部類といいますか、デルタ株まで流行り出した現在はなおさら受け容れるべきリスクだと判断しました。

それで、摂取後どうだったか。一日目の夜から摂取した上腕部外側にこわばるような痛みがでました。僕の場合なかなか痛くて、注射した左腕を下にして眠れないくらい。ただし、それも二日目の夜には8割方解消し、三日目には治ったという程度です。あとは、頭がざわざわする感じがありました。血圧が高くなっているかのようなざわざわ感で、それが高じると軽いめまい、あるいは軽い頭痛が出ました。これは月曜日には解消したと思っていましたが、今日もちょっとあります。しかしながらこれは、猛暑の影響かもしれないんですよねえ。僕の住むところも昨日は8時間以上30℃を超え、最高気温は34℃を超したのですが、家にエアコンはありません。さすがに二年ぶりに扇風機を組み立てましたけれども、それでもけっこうきついです。軽いめまいや頭痛のたぐいは暑さのせい、もしくは副反応が暑さに助長されたものかもしれないと素人判断なので大きな声ではいえませんが、そう考えたりしていました。

デルタ株の流行を考えると、僕が二回目のワクチン摂取をうけて抗体ができる頃が8月末になりますが、それでもなんとか間に合う感じなのでは、と踏んでいます。みんなが気をつければそんなことはないのですが、いかんせん、流行のスピードが速いと感じます。まあ、かなり潔癖にというか厳しめに計算しての印象としてのものなので、9月や10月にワクチンの一回目を受ける方をどうこういうというわけではありません。

二回目の摂取のほうが副反応がつよい場合が多いそうですが、SNSやネットニュースで読んだところですと欧米では摂取後に水を多く飲むとよいとされているとか。次回はそれをならってみようと思います。ちなみに、両親は二回目の摂取も終わり、母などはなんの副反応もでなかったです。睡眠と食事をよくとり、注射に緊張せずにいるだけでも、副反応のリスクは低減するのではないかなあと考えているのですけど、実際、どうなんでしょう……??

世の中、いろいろな考えや見方があるでしょうが、これだけ感染力の強いウイルスが出回っていて、アメリカの状況などを読んでみても、なんだかワクチンを打つか打たないかで淘汰される事態に化してきたような感じがあります。ワクチンを打つときには納得がいっていることは大切だとは思うのですが、懐疑派の方には今一度、ネット検索などでもmRNA方式のワクチンについて調べ直して再考してみていただきたく……おせっかいではありますが……小さな声で言わせていただきました……。
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『はじめてのゲーム理論』

2021-07-17 23:50:33 | 読書。
読書。
『はじめてのゲーム理論』 川越敏司
を読んだ。

ゲーム理論はもともと、ジョン・フォン・ノイマンらによるポーカーについての分析から生まれ、有名になった理論です。いまでは医療の世界であたらしい医者の配属の仕方に用いられていたり、建築業界などで工事の入札を自分の会社が赤字にならない金額でうまく権利をものにするために使われる論理だったりするそうです。

そうじゃなくても、有名な「囚人のジレンマ」(別々に取り調べを受けるAとBの両者のうち一人だけ自白しもうひとりが黙秘すると前者は無罪放免で後者は長期の刑期に服すことになり、ともに自白するならば刑期は免れないが情状酌量の余地がもたらされ、両者が黙秘だと両者とも軽微な罰だけで済む状況のなかで、AとBはどう行動するべきか? を考える問題)と呼ばれる状況と似たようなジレンマ・葛藤に僕たちも日常ででくわすときがあり、そのときに頭をひねろうとするその思考パターンを洗練させて学問化しているのがゲーム理論だといえるでしょう。

そのようなジレンマに対してナッシュ均衡とパレート効率性という二種類の最善手があります。その二つを中心に、そしてそれらの性質を見ていきながらゲーム理論の領域に足を踏み入れていく読書になりました。

余談ですが、僕は大学生の頃にバイト仲間たちと社会心理学の範囲で知った「囚人のジレンマ」の論議をしたことがありました。軽い雑談の中でですが、みんな懸命に最善の解や新しい解をひきだそうといろいろ言いあったものでした。その流れもあって、バイト仲間とラッセル・クロウ主演のアカデミー賞受賞作『ビューティフル・マインド』を観にいったりしたんですよねえ。この映画の主人公が、ナッシュ均衡を生んだノーベル経済学賞受賞者・ジョン・ナッシュ博士だったのです。

本書はさまざまなジレンマのケースを扱いながら、ゲーム理論を用いた社会デザインの学問である「メカニズム・デザイン論」にも足を踏み込んでいきます。ゲーム理論でわかる人の動きを考えながら規制やルールを決めて、上手に人を動かす仕組みを作ろうというのがこれです(それに付随するコラムでは、低賃金と高賃金では、高賃金のほうが労働者の労働に対する真剣味が増し生産性があがる効果があることについての説明があって、そのとおりだな、と膝を打ちました)。身近で使える簡単なルールでいえば、二人でケーキをわけるとき、一方がケーキをカットし、もう一方がどちらを自分のものとするかを先に決める、というのがありました。カット&チューズ法というそうです。これは上手なやりかたですよね。公平です。

でも、ゲーム理論には「不可能性定理」という問題があることも解説されていきます。たとえば「コンドルセ・パラドックス」という、多数決では決定不可能なことを証明したものがあるのですが、さらに、「コンドルセ・パラドックス」を発展させて考えた投票制度に関する「アローの不可能性定理」というのがあって、これによると、民主的で公平でというように、理想の投票制度の満たすための5つの条件をかかげてそれら全てを満たすパターンを導き出せばそれは「独裁制」に行き着くのだそうです。これは当初の目的と相反する答えなので、完璧な投票制度は作れない、という不可能性定理となるのでした。

不可能性定理には、「個人の自由の尊重」と「全員一致の原則」を同時に満たすルールは存在しない、というものもあると書かれていました(アマルティア・センの「リベラル・パラドックス」)。こういうのを知ると、自身が探している理想のようなものはセピア色の牧歌的なものだったのか、と残念に思う方もいると思います(僕も思いました)。

また、人々の思惑にもとづく戦略的操作とは無縁の社会を、僕たちは作ることは出来ないこともわかっているそうです。しかしながら著者は、そこで悲観せず、だからこそゲーム理論をいかして戦略的に「したたかな生き方」をしてほしい、という願いを綴ってもいたのでした。著者が本書を著し、この学問に邁進するのには、そういう考え方が土台にあるのでした。

じゃあ、ゲーム理論を学んで社会のデザインに生かそうとしても様々な不可能性定理によってまったく役に立たないかといえば、今後を考えると決してそうではない兆しがあるようなのです。それが「量子ゲーム(量子ゲーム理論)」の分野。量子力学の知見である「量子の重なり」や「量子もつれ」を活かして考えると、囚人のジレンマなどの数々の難問が解けてしまう。今後、量子コンピュータが試験段階から実働段階にうつると、量子ゲームの方法でたとえばネットカジノのブラックジャックを勝ちまくるようなボットプレイヤーが登場するかもしれないという話もありました。

というようなところです。数式がでてくるところはわずかで、文章での解説力(論理力)がしっかりしていてなおかつわかりやすいので、読解力があれば数式にもついていけるくらいの初歩のレベルだったと思います。僕はあまり数学だとかをやってこなかったのでこういう本にはたじたじになりやすいのですが、なんとかついていけました。それどころか、楽しく読めました。


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『推し、燃ゆ』

2021-07-12 00:10:08 | 読書。
読書。
『推し、燃ゆ』 宇佐見りん
を読んだ。

デビュー二作目での第164回芥川賞受賞作。

推しのアイドルを夢中で追いかける主人公・あかり。そのアイドルがファンを殴った時点から物語が始まります。雑な言い方になりますし、内容とはまるで関係がないのだけど、技の繰り出すところとその種類を考えてみるのに学べるものがあるなあというふうに読みはじめました。わかりやすいところだと、最後のほうなどの誇張的表現の多用で盛り上げていく、だとか。どういうふうに書いているかな、というところから始まりましたが、読み進めるうちに興味は中身へと移っていきました。ページを繰るごとに主人公の日常の送り方やどういうふうな生き方をしているかなどの解像度がゆっくりと増していきます。おもしろさも吸引力もそれにつれてクレッシェンドする感じでした。

以下、ネタバレのある感想になります。



あかりは昔から勉強が苦手でしたが、でも推しについての知識となるとガツガツといったくらい貪欲に吸収していきます。母に強制的に暗記を強いられても覚えられず、姉に親身になって勉強を教えてもらってもいっこうに身につかなかったあかりですが、どうして推しについてであれば必死にノートを取りながら覚えられるのか。ひとつの答えとして、自分が望む他律性と自分が望まない他律性に対するもはや生理的な反応の違いだと僕は考えました。

あかりは、推しについて以外のことは捨てていきます。それも削ぎ捨てていく。骨になるまで肉を削っていくように、です。もう、自分の道は決まった、と決めているんですね。あかりの場合、アイドルを推すのも、ひとつの「道」と化しているんです。これはもうある種の「求道」ではないでしょうか。

さて。あかりの、自分の望む他律性は推し。推しを推すことに心血を注いでいます。推しが好きな映画を自分も見たりするなど、推しの好みを自分にも課している。推しへの好意ゆえに、推しの人生を正しいものとしてそれに従おうとする。そしてその行為にエネルギーをすべて注ぎこむので、学業に限らず部屋の掃除や整理整頓なども捨ておくようになっている。唯一、外の世界と繋がっていた定食屋兼居酒屋のバイトも「一時間働くと生写真が一枚買える、二時間働くとCDが一枚買える、一万円稼いだらチケット一枚になる」と考えながら、仕事自体をやりすごすようにこなしています。それゆえにその心構えがしわ寄せとなって、いつまでたっても一人前になれません。

社会や環境など自分をとりまく大きなもの。もっというと、運命もその範疇にいれていいのかもしれません。それらすべて、「大きな他律性」としてみてみる。たとえば「大きな他律性」に内包された生であっても、自律的に生きると自分の半径1mだけバリアを張った、みたいになれたりするものです。そして、たぶんにあかりが望まない他律性がこの「大きな他律性」であって、この支配から逃れるために「小さな他律性」であり自分が望む他律性でもある「推しの他律性」を選んだのではないか。「大きな他律性」を忘れられるような「小さな他律性」に身を委ねることがあかりの生き方なのだと僕は読みました。

社会などからの「大きな他律性」には個人を支配しようとするリズムというか波長というかがあって、無言の圧力でそれに合わせなさいと迫ってきます。そこに「小さな他律性」が「大きな他律性」とは違うBPMのリズムだったり大きさや早さの違う波長だったりするものを発っしているのを自分で選び、受けとめると、「大きな他律性」のリズムから逃れられる効果があると思うんです。受容できるリズムひとつを選べば、他のリズムを排除できる性質があるように考えられるんです。これは自分の身体感覚に落としてみてもそうだなあと感じられる。

しかしながら、「大きな他律性」に対する根治療法的対処が「自律性」で、対症療法的対処が「小さな他律性」なのではないか。推しを推すことに賭けるような「小さな他律性」の元で生きることには、あまり未来が感じられません。未来が閉じてしまっているのを見ないふりをしているかのように見えてしまいます。

あかりは高校生の段階でこれだけなにもかもを削ぎ落していくような生き方をしていっているのはちょっと早いなという気がしました。それ相応の年齢になると、要らないなというものを少しずつ捨てていくことで生きることが楽になるっていうのはあると思うのですが、でも僕自身を振り返ってみると「あれれ」と思ったのです。なぜなら僕も高校生当時、僕なりの削ぎ落とし方をしていたなあと思いだしたからでした。高校という段階がうんざりしたタイプだったのでした。

で、あとで気付くのだけれど、自分から自然に削ぎ落してきたつもりでいても、それこそ「大きな他律性」などの力によって喪失させられているものも少なくないのです。本書の主人公・あかりには、このあと時間をかけてでも再生していけよ、と思いました。「大きな他律性」からの影響はとても大きくて、この物語はそのことについて書いているのではないか、と独断的に読んだのでした。あかりの苦しさの根本にあるのは、それだと思うんですよね。

以上でした。

作者について感じたのは、すばらしい才能はもちろんなのですがそれ以上に勇気というか肝っ玉が強いというか、そういうところでした。失うものは無いんだ、っていうところから覚悟をして放たれた全力のパンチっていう印象です。正攻法です。まだほんのすこし荒削りかなあと思えるところが僕個人としては感じた部分はあるのですが、それを上手く活かす文体でもあったでしょうか。文体がそういった部分も肯定してポジティブに作用させる。まあ、読み手のほうも冷笑的にならずにオープンに受け入れようという感覚で読むといいでしょうね。こっちでオープンになったぶん、ちゃんとしっかりしたリターンがもらえます。

河出書房新社
発売日 : 2020-09-10

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『霊と金』

2021-07-07 22:30:49 | 読書。
読書。
『霊と金』 櫻井義秀
を読んだ。

「宗教嫌いの神秘好き」と形容される日本人。日本社会で勢いを増しているスピリチュアルについて警鐘を鳴らす本です。副題は「スピリチュアル・ビジネスの構造」。2009年刊行の新書ではありますが、著者の目と分析力が、本書で扱われるいろいろな事件やトラブルの底の部分まで透徹しているので、今読んでも翳りのない論考として光っていました。構造的にどうなっているのかがちゃんとわかっているからこその、スピリチュアル・ビジネスに対する(そしてある部分での社会構造に対する)見抜きがあります。

最初に登場するのは、宗教団体がその身を隠して作った会社が運営するヒーリングサロンに取り込まれそうになった女性の話で、そのやり口がわかる内容になっています。とにかくお金を吸い上げるために、スピリチュアルの論理を駆使し、「御霊光」だとか「浄化」だとかの文言と共に巧妙にヒーリングから抜け出せなくさせます。いろいろな決まり事で個人を縛って、組織からのお仕着せに従ってしまうように仕向けるんです。そこで語られるのは、「○○しないと不健康になるから、これを試しましょう」だとか「もっと他の人を勧誘してこないと、徳が下がる」だとか、一歩ひいて考えれば何を言っているんだ、という類いのことばかりです。でも、組織のスタッフと付き合いが生まれて、心理的に近い距離から言われてしまうとつっぱねるのに勇気がいるようになるのでしょう。それに、個人の内に勇気が育つ前に、組織のスタッフ側から勇気の芽を摘むような圧力がかけられる。

これは、次に登場した統一教会の話も似ています。統一教会の論法は、特有の論理で強固に縛るものから始まります。これも、前提を疑えるし否定もできるのですが、教会側から「否定などしたら罰が当たる」というような脅かしで不安や恐怖を植え付けてくるのがずるく、いじわるなのです。逆に、そういった論法でくるほうが倫理的に罪なのですが、教義というのは恐ろしいもので、「それは絶対の真実」だから逆らえないし覆せないとしてくる。世の中、ひとの心理と一体化しようとする「絶対」ほど悪いものはないというのに。これは世界三大宗教であろうと、「絶対」との一体化を説くものは悪だと僕は考えます。

統一教会の話でいうと、この宗教団体の創始者は韓国人で、日本人は韓国人よりもよっぽど低い霊的な地位にあるのだと規定しているそうです。これは嫌日だとか反日の思想を韓国人のほとんどが持っているのではないかとのイメージが日本の中ではけっこうあると思うのですが、実は韓国人が反日だというよりも、韓国人の多い統一教会の信者(とそのシンパもでしょう)が反日の姿勢のようです。一般の韓国の人々は、特段、日本人に極端な悪いイメージはもっていなそうです。このあたりは踏まえておかないとやぶからぼうに韓国の人々にたいして妙な感情を抱いてしまうので注意が必要だなと思いました。

その他、教会や寺社仏閣の収支についての話、占いやオーラ撮影などの店が多く出店する見本市である「すぴこん」の話、そして最後にテレビ番組による影響を考えながらリスク認知をしっかり自覚することで自分の身を守る方法はあることを示して終わっていきます。

「すぴこん」の章がなかなかにぶっとんでいて面白いのですが、こういうコンベンション(見本市)に多数の集客があるのは、どうやら多くの人がテレビでスピリチュアルの世界観になじんでしまっていることと、ここで癒しが得られることを見こんでいるということがあるようでした。本書に登場する「日常的にドラゴンが見える人たち」だとか、まったく異世界の人たちだなという印象を受けますが、人間は多様で千差万別ですし、なんらかの特殊な才能(スピリチュアル的にというより独特さという点で)を持つ人たちなんだろうなあと思うことにしました。ただ、著者も言っているとおり、オーラにしても占いにしても、エンターテイメントとして楽しんでいるうちは安全なんですが、のめり込んでしまうととんでもないことになります。実際、出店している各店には、あなたもオーラを解釈できるようになるだとか、スタッフになれる道を用意しています。その講習を受けて免許をとるのに何十万とかかるのですが、そこでえた免許は当り前ですが任意のもので、社会的には本来なんの影響力もないものなんです。s楽しみでやっている分にはいいですが、本気でやっていると、その道はちょっと違いますよ、といいたくなります。

あと、鋭い見抜きにしびれたところがありました。女性の占い好きは、自分の頑張りだけでどうなるものでもない立場にあるから運を見たがるゆえのことだ、というのがそれです。つまり、女性の人生は結婚・出産・子育てと大きく人生が変わり、自分の頑張りだけでどうなるものでもない、だからたとえば相性占いをして運を知りたいのだと。占い好きとか宗教信者の女性割合とか、僕は性差として脳の構造に特徴的な何かがあるのではと見てしまいがちなところがありました。でも出産・子育てだけじゃなく、とりまく社会的環境・文化的環境が行動や考え方に抑圧をかけているものだし、それだけ自力でやれる裁量が少ない立場だから運をみるっていうのには納得でした。

そこを前提にして考えてみると、考えが膨らんでいくのです。スピリチュアルや新興宗教などに惹かれるのは、辛い現実世界とは別の世界を見たいというのがひとつあるようです。現実とは違う世界に浸ることを考えれば、仮想現実や拡張現実、つまりVRとかARが今後代替することになるんじゃないかとも考えることができます。自分の頑張りだけじゃどうにもならないのは、格差社会の現在、男性のなかでも増えたでしょうから、なおそう考えられるんです(自分の頑張りだけじゃどうにもならなくて運が見たいという心理になって占いに走る男性は増えていないかどうかはちょっと知りたいところです)。

ただ、こうやってテクノロジーが発達した現在、スピリチュアルに走らない代わりに仮想現実の世界が市民権を得ていく、というか仮想現実世界が広がっていくイメージは、かつての宗教やスピリチュアルと重なるような気がします。苦難の道を行く人々が求める「別の世界」は、もう宗教やスピリチュアルじゃなくても仮想空間にあるだろうし、やる気があれば自分好みの世界を作り出して共感する人たちと共有することでその仮想世界がよりちゃんとした世界然としだす、というイメージって浮かびませんか。仮想空間が、宗教やスピリチュアルに変わって、ある種の受け皿になっていっているような気がしてくる。

また、もうちょっと考えを膨らませることもできます。頑張りだけじゃどうにもならない男性が格差社会によって増えたことは、それまでの女性の立場と似通った立場の男性が増えたことだとしてみます。そうすると、たとえば美少女バトルアニメや魔法少女アニメなどの人気が高いのは、男性が頑張っても報われない自身の立場を、運に頼りたくなる最たる存在である「少女の社会的・文化的境遇なその存在」に仮託するからなのではないでしょうか? 運によって著しく人生が変わる境遇にあるとする存在(少女の存在)に、格差によってうまくいかない存在になっている男性たちが感情移入しやすくなったのかもしれない。

この視点は、女性アイドル人気にも通ずるように思います。頑張りだけじゃどうにもならないなかで、それでもどうにかなっていくストーリーに魅せられているっていう部分はあるのではないか。ただ、かわいい、とか、きれい、とかだけで人気が出るわけじゃないところがなおそうなん感じられるのです。

というふうに、最後は読者の中で発展を見せるようないろいろなヒントが詰まっているともとれる本です。そうじゃなくても、ストレートに内容を吟味することでスピリチュアル・ビジネスや新興宗教をより客観的に考えることができるようなきっかけにもなり得るでしょう。

一度きりの人生に、余計な干渉やトラブルはできるだけ避けたいものです。そのためにはどうやら学びって大事です。それも、応用が利くような知見と、柔軟な思考力を養うためのものが特に。

そういえば本書を読み終えて思い出したことがあります。昔、神道系の新興宗教のお札を車に貼った人が上司だったなぁと……。

まあ、それは置いておいて。世の中のよく見えない部分を照らす光でもありますし、社会構造について少し解像度があがる読書にもなりますから、おすすめでした。


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在宅介護の現状への意見

2021-07-06 14:14:53 | 考えの切れ端
母を、父とともに在宅介護している者としてひとこと意見を書こうと思います。


介護は、要支援・要介護などを受ける人たちに主眼をおくのはもっともです。だけれど、実は介護をするほうの負担がとても大きい。だって、ぶっちゃければ、僕らみんな人間的にちゃんとしてない人たちでしょう? そんな人たちが人間的に成熟しないままいきなり介護の現場に放りこまれるんです。

DV(ドメスティック・バイオレンス)だってたぶん、在宅介護の現場では少なくないと思います。だから介護者がそこまで追い込まれないように、介護者のほうも支援・ケアする仕組みは大切なのでちゃんと作ってほしいのです。認知症の人を介護しているんだったら、ユマニチュードを教えてもらえる仕組みがあれば違います。ユマニチュードは認知症の人たちとのよりよい関係性を考えて、認知症の人をちゃんと一人の人間として尊重する姿勢を前提とします。そういった前提から生まれた「認知症の人との接し方」などの技術があります。介護者がそれらを学んで実践することは、同時に、普通の人とのあいだのコミュニケーションの仕方の学びや実践にも応用が利くでしょう。コミュニケーションでいえば、相手も自分も活かすというような「アサーション」という技術もそうですから、それも介護者は知ったり学んだりできたらいい。

また、介護者のこころがぴかぴかに健全だという前提、あるいは介護者のこころの状態を鑑みられていない在宅介護はおかしい。介護者が闇を抱えていたり、医者にかかっていないだけで病気だということもある。そういう状態で介護をしてもそれこそ暴力に繋がったりするのでケアが必要なのです。認知行動療法やカウンセリングが必要になる。だから、介護者は心理療法のカウンセリングを保険適用でだとか格安で受けられるようになるだとか、同様に認知行動療法も心理的バリアの低い状態で、つまり訪問診療や訪問介護のように介護者が自宅で受けられたりするとうまくいきやすいと思うのです。介護自体がポジティブにできるようになりますから。

介護者に対するケアが十分であれば介護自体がうまくいきだすんです。国の政策によって施設や病院でのケアから在宅ケアへと方向転換されてきているのだから、そうであるならば介護者を支援・ケアするのは理にかなっていると思うのです。

また、精神医療が必要な人が要介護認定されている場合、オープンダイアローグが役立つと思います。この技術を学んでいる専門家の介入があってもいい。オープンダイアローグも、ユマニチュードやアサーションと並んで、ふつうのコミュニケーションに対する考え方を養う部分がある技術。要するに、介護者の人間生育にも応用が利く。介護をすることはある種の学びを得ることや修養をすることにも繋がるものです。うまく支援やケアを受けながら介護をすれば、介護者は人間的にも深くなれると思う。現状の仕組みで在宅介護をしていれば、消耗ばかりの人生になりますから、そこを転換する仕組みが欲しいのですよ。

介護に正解があるわけじゃない。わけがわからないなかで自己流かつ孤立無援で奮闘しても、たいていは心がすさんでいってしまう。そこに政治は着目して欲しい。

世界の先端を行く、超高齢社会の国なんだから、なおさらなんじゃないかなあ。どうでしょうか?
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