Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

『世界幸福度ランキング上位13ヵ国を旅してわかったこと』

2021-06-30 18:41:02 | 読書。
読書。
『世界幸福度ランキング上位13ヵ国を旅してわかったこと』 マイケ・ファン・デン・ボーム 畔上司 訳
を読んだ。

オランダ系ドイツ人で40代の女性ジャーナリストが、幸せとはなんなのかを探るために世界幸福度ランキング上位13ヵ国を旅し、およそ300人のインタビューをもとに幸せについて考えた本です。13ヵ国をそれぞれ訪れた時の様子を語る章と、テーマ別に各国の人びとのインタビューを構成して幸せの様々な面のひとつひとつを考察した章とを交互に織り交ぜた仕様になっています。

世界幸福度ランキング上位13ヵ国とは、アイスランド、ノルウェー、コスタリカ、デンマーク、スウェーデン、スイス、フィンランド、カナダ、オーストラリア、パナマ、ルクセンブルク、メキシコ、コロンビアの各国がそうです。手厚い福祉政策が特徴的なスカンジナビア諸国が軒並みランクインしています。また、コロンビア、メキシコなど治安が悪く危険な国々や、貧困世帯の多いコスタリカもランクインしているんです。後者の三ヵ国の人々には、人生を辛いものとしない楽観さが感じられるインタビューが多かったように思います。「楽観は意志、悲観は気分」「逆境は人を強くする」などの言葉がありますが、かの国々の人々は政情や自然のなかで鍛えられたゆえの幸福度の高さなのでしょうか。

著者は折に触れて自国のドイツ人を引き合いに出し幸福度の高い人々と比較するのです。ドイツ人は完璧主義で規則を重視する、と決まり文句のようにそういった前提が幾度と書かれているのですが、これ、日本人にも実はほぼぴったり当てはまります。仕事人間としての日本人像といったほうが正確ですが、だからこそ幸福度の高い国々の人たちとの比較が、当事者として考えやすくおもしろかったです。

さて、本書序盤から語られる北欧の国々(スカンジナビア諸国)。これらの国々は国民に、所得のうちかなりの額の税金を課しています。けれども、国民たちにすれば税金を支払うのは同胞にたいして忠実である証ということらしい。国家がしっかり福祉をしていて信頼が厚いから、そういったメンタリティーになるのかもしれません。税金を多く徴収されることの理由として人々によいリターンが目に見えるかたちでちゃんとあるならば、税金が上がることを肯定しやすい。そして国家への信頼度もあがります。

北欧諸国と日本との違いはどうでしょう。北欧諸国にたいして日本は、人口量の多さと人口密度の高さの違いがまず思い浮かびます。まあ、それが影響しているかどうかはわかりませんが、不安と強迫観念、そこから発展して(その逆かもしれないけれど)完璧主義的気質は強いと感じられる(完璧主義的なのはドイツ人といっしょ)。元来、信頼より安心を求める社会ですし(安心社会より信頼社会の傾向にあるのがヨーロッパだと思うのでここはドイツ人とは違うのかもしれない)。日本人はそういうもんだ、として世界の中での多様性の一つとしてこのままでいくのか、それとも他国のよいところを見習って、日本人をバージョンアップしていくのか。考え方は別れるところかなぁと思います。たださきほど書いたような、税金のリターンをきちんとやるという先手を政府が打てば変わってはくるでしょうね。

「規則が多すぎると人を不幸にする」と考えるインタビュイーもいました。それを受けて著者もこう書いています。<信頼は「すばらしいコミュニティ」の基礎である。信頼と団結がないところでは規則が必要となる。ないしは規則を決めたがる。互いに信用しあっていないからだ。><ドイツではよく「もっと規則をしっかり定めなければダメだ」という言葉を耳にするが、もし規則を頑固に適用すれば、対立を避けるどころか対立を招いてしまうことになる。><そうなると柔軟かつ自主的に自由に行動することはできなくなり、規則を守るのが正しい、法にのっとって行動する人が正しいということになるのだ。> 規則が、信頼を築きあげるための機会の損失を生む、ともとれるような考察です。

スカンジナビア諸国のような国民同士での信頼の強い国々では、福祉の給付金制度の悪用がすくなく、だからこそ手厚い福祉政策と重い税金の社会がうまくいく好循環にはいっているようです。信頼度が高ければ監視が少なくなり、また、監視が少なくなれば信頼度は増す。<これは各人の責任感と発達能力を重視する現代社会にふさわしい考え方だと私は思う。何が起こるかわからないのに前もって規則の網を張りめぐらす必要はない。不信感は各人の活動の自由を制限するだけでなく、一国全体を委縮させてしまう。> このあたり、他者への不信感と不安が根強い「安心社会」志向と言われてきた日本ではどう考えたらよいのでしょうね?

また、時間について、各国の人々での意識の違いが興味深かったです。日本など資本主義の先進諸国では時間に追われ毎日いそいそと生きて疲れてしまう人は多いと思います。それって、時間に翻弄されているんですよね。だけれど、いちいち「今、わたしは時間に翻弄されているんだな」などと意識したりはしない。疑いのない当り前のこととしているからです。でも、なにも時間に翻弄されることを無条件に受け入れることはないんです、ほんとは。未来や過去ばかり考えず、「今」に集中することが時間から翻弄されることから自分を守るひとつの手段だと本書から学べます。なんでもない「今」、くだらない「今」、と思うのは固定観念。

そこにしかない「今」とじっくり付き合ってみる。仕事の日にはなかなかそうはいかないけれども、休みの日は時間による縛りのある世界から意識的に逸脱してみると、時間に翻弄されないことで得られる幸福感があると思う。それは、ぜいたくなのかもしれないし、無駄だという人もいるでしょう(いやいや、幸福を尺度にすると無駄なんかじゃけっしてないんですよね)。時間の縛りから逃れて豊かに時間を使うことを「無駄をしていること」だという人は、何を幸福としているかという価値観や世界観が違う……というか、幸福がその価値観の軸にはなっていないんだと思います。そんなことはない、と言う人も、その胸の内に抱いている幸福についてのイメージをよくよく客観的に吟味してみれば(他者との話し合いの俎上にそせるのがわかりやすくて良い)、それはまるで幸福からそうとう離れたものだったりするんじゃないだろうか。あるいは、幸福を最優先しなくても満足だ、という価値観の人だって大勢いるとも想像できます。

本書を読んでいると、日本社会での常識がただのいち地域でのほんのひとつの有り方だとわかってきます。よいとされる国・されない国それぞれに長所と短所がちゃんとありますから、それぞれの幸福感がどういうものと繋がってのものなのかを吟味することだって大切なんだと思います。

ここで突然、ぼそっと個人的な一言をいわせてもらえば、幸福感いっぱいの世界では、「すぐれている」と評価されるような文学はでてこないような気もしました。そこに対立がないからです。幸福のために文学を書きたいと思っていたとしたら、幸福がその妨げになるのかもしれない。そういったところに気付きました。二律背反ですよ。幸福の文学のために、現実の世界は不幸であれ、という愚かなことになる(そうはいっても、世界の文学はよくしらないから、妄想レベルなんですが)。

本書の文章の進み方としては、論考というまで堅くないし、エッセイと決めつけるほど学問的なものが薄くはないです。あまり突き詰めず、日常の考え事のような思索レベルで進んでいきます。結論は急いでいませんし、ぽつぽつと日々思い浮かぶことを書きとめていったものをまとめたくらいの気安さがあります。しかしながら、同じテーマのインタビューをまとめたり、読者の気付かないところでウンウンあたまを使って書きあげた本だという印象を受けました。( Good Job!! )

と、書いてきましたが、僕にとっては決定打のような部分はあまりなかったのですが、遠くからじんわり効いてくるようなものがありました。そう、じんわりと自分のベクトルの角度がちょっぴり変わるような感じです。これも、その人その人によって印象や感慨が違うのだと思います。あまりに「日常の空気」や「常識とされる空気」に窒息気味な人には、肩の力が抜ける内容になっていると思います。「大局観を持つ」じゃないですけれども、気付かずに一体化しちゃってる日常の空気を客観的にとらえる視点を持つためのきっかけになるような本にもなると思うので、そういう意味でちょっと壁を感じるなという人にはおすすめです。そうじゃなくてもおもしろい。


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『ジャイロスコープ』

2021-06-16 23:00:27 | 読書。
読書。
『ジャイロスコープ』 伊坂幸太郎
を読んだ。

2015年出版の、人気作家・伊坂幸太郎さんの作家生活15周年記念短篇集。書き下ろし作品が本書のまとめやくとしてトリを飾るかたちで、それぞれに書かれた時代の違う全7作品を楽しめます。

どの作品も、作家自身が自分の型を破るためにトライしているかのように感じました。作品への踏み込み方が深いですね。アイデアも洒脱な会話も、短篇だからだとかトライしているからだとかで力を抜くところもなく、エネルギーをしっかり傾注しているところがやっぱりプロです。そして、傾注できるだけのたくましい筋力というか、鍛えられた実力があるなあという感じ。本書を手に取ってみることで、伊坂幸太郎という売れっ子作家を卓越したひとりのクリエイターと見て、その内燃機関の秘密、つまりはエネルギーを注ぐことと実力をつけていくことで生じている好連鎖の秘密を感じとることができると思います。

本書に収録されている作品は、力技というか、尾崎世界観さんがご自身の創作についてのなかで語った表現を借りていえば、けっこう「大きく振りかぶったパンチ」を見舞ってくるようなところがあります。そのぶんスキがあるのだけど、そのスキを埋める技術を用いてもいるわけで、読者が白けることもほぼないと思います。「一人では無理がある」のオチしかり、「彗星さんたち」の伏線回収及び大ネタとなっている最後部付近のところしかり。でも僕は、そういった大きな転換をする小説操作が好きらしく、ブフッと笑いながら楽しめました。おもしろかったです。

それに、こういうバタバタしたことを文章世界でできるようになってこそ筆力があがるんだろうな、ともわかるわけで。頭の使い方はほんとうに参考になります。


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『「空気」の研究』

2021-06-11 22:20:13 | 読書。
読書。
『「空気」の研究』 山本七平
を読んだ。

日本人がつよく拘束されている「空気」を論じた1977年発刊の名著。

「空気」へと決定打をあびせた本書の論考をもってしても、現在において「空気」という現象はしぶとくつよく僕らのあいだに根付いてしまっています。でも、ちょっと難しいながらも、本書の内容をある程度咀嚼できる人が増えたならば、「空気」を覆すチャンスも増えていくし、本書が読まれ続けることで、「空気」に抵抗するためのファイティングポーズは継承されていく、つまり覆すチャンスが潰えずつないでいけるのだと思うのです。

本書は、具体例を多く引きながらだけれど、でも中心は本格の抽象的論考で進めていく形ですから、言外でイメージするところでけっこう苦労しました(というか、この本で僕は、読書中にその内容を言葉を離れて考えていがちなことにはっきり気付かされました。そして読書は本来そういうものだとも思います)。読んでいる途中の抽象的論考のその後の展開を推理する、対象となっている「空気」を自分なりにどう捉えてきたかをふわっと整理する、「空気」に関する考えで著者を出し抜く気持ちもまんまん(だって時代の利がある部分はあると思っていますからね)。合計すると、まあ疲れるし思ったほど読み進まないのでした。が、しかし、そのワンダーランドを濃密に冒険しているのは確かなのです。

ほんとうによい読書になりました。こういった、「格闘に似た対話」となるような読書でこれまで読解力をつけてきたんですもの。まだまだ自分にとって高い山はたくさんあるのだ、と希望に近いなにかを感じるのでした。

閑話休題。

最初に「空気」とはどう生まれるのかについて。「臨在感的把握」という語句で著者は表現していますが、モノや言葉、人などから元々感じとれるイメージのようなものがあります。お寺のお札や神社のお守りになにを感じるでしょう? そうやって自然と感じとることが「臨在感的把握」であり、ここから空気が生まれます。そうして、その空気が共有されてつよくなり、仕舞いには科学的な論証までもはねのけて物事を決定する動力源になってしまう。太平洋戦争中に戦艦大和が、沈む覚悟で出港して撃沈されたのも、空気による決定のためだと、本書で例に引かれていました。

さて、40年くらい前の本ですが、ここで語られる日本人像はいまもそうは変わらない。まず、政治家や官僚、会社員などさまざまな人々は何かを隠しているものだと前提するいわば「不信」の態度を持っていることがそのひとつ。次に、これは欧米では革新的な視座ではあるのだけれど、実は日本人的だとされるものがふたつめ。それは、ある出来事にはその背景にこそ原因がある(生活習慣病の原因は高カロリーの食物を入手しやすいからなど)という現象学的(現象学という概念にもさまざまな捉え方があるようですが)といえるような捉えかた(本書では「情況論理」と表現)に潜む「無責任さ(自己無謬性=自分は関係していないという意識)」。

つまり、「不信」と「無責任さ」が大きく二つ、日本人の気質としてあるのだと読める。これこそ、空気を生みやすく、そして空気に翻弄されやすい気質でしょう。この、「空気」と密着した気質は、何を起源としているか。明治以降のみを考えれば、王政復古によって力をもたされた天皇を「空気」で把握しなければならなくなったことが大きいのかなと思いました。そこで「空気」の扱いが血肉化したのかもしれないと推察するところです(ただ、あとがきによると、明治がきっかけでも、初期はそうでもないようで、徐々に空気支配がつよまっていったようです)。

明治維新によって、それまでの臨在感的把握を切り捨てる方向へとパラダイムシフトを促されます。そういったものは科学的ではない、西洋的ではない、だからいわば「ドライ」な考え方を持ちましょう、という有名どころでは福沢諭吉らによるリードです。著者は、このようにあるものを「ないことにする」ことによって、かえってそれは深く沈潜し、逆にあらゆる歯止めが利かなくなり傍若無人にふるまいだすことになり、結局、「空気」の支配を決定的にする、と述べています。抑圧して失敗するパターンです。

また、「空気」支配はつきつめると、暴力などの「原理主義」行動に行き着く。だから、警戒してそこから脱却するのがほんとうはよいことです。対象を相対的に見れなくて、絶対的に見たうえで対象と一体化してしまうのが空気醸成のエネルギーですから、脱却のためには自由でいないと、なのでした。それも生半可な自由(水を差して現実へ引き戻す自由程度のこと)では、空気から脱却したはずの通常化したところからさらに空気支配が生まれてしまうとのこと(ここはもっとちゃんとまとめて説明しておきたいところなんですが、気になる方は本書をあたってください)。だから突っ切った自由が大切になる。それはたぶんに、孤独をかなりの割合で含んだ自由です。さらにいえば、その自由とは、一体化から逃れた自由であり、自分を拘束している「空気」を把握することだそうです。これは今でいえば、メタ認知的に「空気」を見てみることではないでしょうか。

それにしても、ここまで分析・考察されていても、「空気」ってまだまだ現代でもつよいですもんね。「空気」という現象を否定しようとすらしない人が多いし。「空気」を自分のために使ってやろうとする気持ちが上の世代から下へと再生産されてきたからじゃないのかなとも思いました。あるいは、空気に逆らったら怖い、という気持ちの再生産、でしょうか。

僕の簡単なまとめはここまでです。本書を読むと、もっと豊潤に「空気」の論考や「水=通常性」の論考を楽しめます。こまやかに考えてみたい人はぜひ手にとって読んでみてください。


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『戦いの日本史』

2021-06-03 20:34:59 | 読書。
読書。
『戦いの日本史』 本郷和人
を読んだ。

武士が誕生し台頭していくあたりから徳川幕府樹立までの、その時代時代を代表する一対の対立軸から、相対する二人を一組として合計八組とりあげて歴史を解読していく本です。武家がどのように力を得ていって覇者になっていくかがわかります。

ご承知のように、古い武家は新しい武家に取って代わられながら時代は進んでいきますが、その都度、力を増して、最後には(徳川氏の時代には)日本全国を支配するほどのものとなる。それがどういった流れだったのか。資料に乏しいところや資料を疑うべきところを歴史学者の著者の推察や推測で構築しながら、ひとつの仮説的に解いていく体裁でした。

義務教育から高校まで、歴史といえばもう決定した過去を暗記する学問、というふうに捉えている方は多いかもしれません。かくいう僕はほとんどそう考えていました。資料のあるところはその解読はずいぶん以前に完了していて、解釈も決まっている。資料がない部分はその近辺のわかっている(ものと決めている)情勢などから鑑みて埋めてやって、「○○だったのではないかと考えられている」などと短く終える。そういうものだと捉えていて、事件や改革など大きな点をちょっと知ってしまえば面白さは感じなくなり、その他の細かく暗記するところで面倒になる、と思っていた。とにかく、歴史とは解釈が終わったもので、地層のようにゆるぎないものだと理解していた。

でも歴史は、現代でも解釈がいっぽうからもういっぽうへと急に大きく針がふれたりするんですよね。悪者とされていた人が、実はなんのことはない平凡な人だっただとかに変化するなどです。たとえば本能寺の変で織田信長を討った明智光秀は、僕が子どもの頃だった30年くらい前には、裏切り者で悪役の最たるものとされていた。有名なゲームですが『信長の野望』というシミュレーションゲームでの明智光秀の、隠しパラメータ「義理」が低かったりなどしました。表パラメータの忠誠心も低かったですし。でも、信長を討ったくらいだし、それ以前にも重用されていた武将だから政治力だとか軍事面での能力だとかは高かったです。それが今では、新聞記事で新資料発見なんてでたときに、謀反はやむを得ない理由があったっぽいだとか、黒幕がいて明智光秀本人は駒にすぎないだとか、いろいろな説がでてきて、人物像もそれぞれ異なる解釈がされていたりします。それは歴史小説という場で歴史を語るときには特にそうなのではないでしょうか。

本書は、そういった歴史の解釈はアクティブに変化していくもので、まだまだ完成していないものなのだ(または、完成するものでもないものなのだ)というような立場で歴史を見ることをまず教えてくれます。その上で、著者一流の歴史の読解で論理的に納得のいく解釈を進めていってくれる。それがとてもエキサイティングなのでした。

鎌倉時代、後鳥羽上皇と北条義時とを扱った章、この章でのクライマックスである大事件は「承久の乱」ですが、その時代の状況や「なぜ官軍の後鳥羽上皇が負けたのか」との疑問、その前後、そして人物像まで、丁寧な述懐にずいぶん引きこまれて読むことになりました。このような読書体験が、歴史は無機質な暗記モノなんかじゃなくて、考えるものとして学んだり研究したりできるものだぞ、という知見をもたらしてくれます。日本史という学問へのおもしろそうなイメージと親近感が生まれました。

興味のある方のため、八つの対立は誰と誰かを記しておきます。①平清盛と源頼朝、②後鳥羽上皇と北条義時、③安達泰盛と平頼綱、④足利尊氏と後醍醐天皇、⑤細川勝元と山名宗全、⑥今川義元と北条氏康、⑦三好長慶と織田信長、⑧豊臣秀吉と徳川家康。

最後になりますが、ちょっと独特な読み方をしたところについて書いていきます。「一日に一度は庭で生首をみないと気持ちが悪い」とそこらの人たちを切り捨てさせている武士がいて、そういう残酷さは珍しくないとあったんです。室町時代のはじまりの頃のこと。子どもの頃から犬追物(犬を追いかけて弓矢で射て殺す)をさせているし、人間ってどういうふうにも育つものなのだ、と思ってしまいました。たぶん、こういう残酷なことをしてもそこに葛藤を持たなくていいような成立の仕方をした社会にいれば、気に病むこともなくなるのかもしれないです。それはたとえば、今の心理学で定めるような「現代の人間像」って絶対ではないことを教えてくれます。戦場の苛烈さに違いはあるのですが、現代には兵士のPTSDの問題があります。現代のふつうに生活を送っているスタンダードな社会の考え方や価値観がつよくて、それらと板挟みになるからPTSDなどの精神的な病が起こるのかもしれないなんて思いました。

鎌倉時代や室町時代つまり、武士の世。社会が暴虐に対してゆるくて、その暴虐を行使する位置にいる人々が共有する暴虐肯定の社会観が、武士の存在が幅を利かせるようになったがため、それがローカルなものというよりもひろく行き渡っていったから、武士という人間は病みもしないかったのか。その時代に飛んでいってみないとわからないことですけれども。でも、そういう社会でも苦しんで病んでる人がいたってことはあると思う。それがそこそこいるのか、例外の範疇かですが。

「社会と個人のマインドは相互に影響を受けて揺れ動くものである」というふうに僕たちはイメージしやすいものですけど、心理的な規制って社会からも個人からもでてくるもので、個人が規制を感じてそのこころに生まれさせる葛藤を処理できなくなるから、人はこころを病むのかなと仮説的に考えちゃうところなのでした。武士の世においてその暴虐に対して民衆からは無言の抗議の空気は発せられたかもしれないけれど、民衆からの空気による規制はとるに足らないくらい弱く、暴虐を肯定し認める空気のほうがよっぽど強いために、武士は病まなかったのではないのかな。社会からの心理的な規制がゆるかった。出家する者もそれほど苦にしていない気がします、個人的にですが。悪い意味でもおおらかだったんじゃないか。

というところですが、ひとつ知見を拾えましたね。規制はどうやらこころによくなさそうだ、と。自由をつよく望み、守ろうとする人は規制に対してそういうことをよく知っているのでしょうね。

さてさて、話は日本史そのものに戻りつつ終わります。日本史はいちおう受験科目でしたし、10代のころは先に挙げた『信長の野望』や漫画『花の慶次~雲のかなたに』(原作の『一夢庵風流記』も読みました)などの影響で戦国時代だけならばそれなりに親しんではいました。でも、いまやまったく縁遠くなっていて、本書で久しぶりに日本史に触れて、実におもしろかったです。日本史初歩の方にも向いていると思いますよー。わからない人物や固有名詞はネット検索しながらでもオッケーですから。


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