Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

カクヨム投稿版『忘れられた祈り』

2021-02-13 14:17:52 | 自作小説2
小説投稿サイト・カクヨムに2013年作の短篇『忘れられた祈り(2021年直し入り)』をアップロードしました。

ここです。
https://kakuyomu.jp/works/16816452218600288859

最近書くものはあとで読みかえすと難解すぎたりして、要はへたくそなんですが、この頃の作品はほどよい緊張感と自由さと執筆環境面の比較的良好さが好結果をもたらしている作品だと自分では思います。
さながら青い鳥を探しに行ったかのように、幸せを求めて消えたミチル。彼女を愛するシュウの物語です。消えたミチルを探しだすべく、北の森へ向かうことになるシュウ。そしてペンダントの意味は? といった作品です。ご覧あれ。



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『忘れられた祈り』 最終話

2013-10-09 06:00:00 | 自作小説2
翌朝は雲の少ない快晴の空模様になった。二階の自室の窓を開けて、心地よい空気を室内にやんわりと吹き込ませる。すぐ下の道路には大型の白い犬に引っ張られながら、けつまずくように歩を進める中学生くらいの女の子が見えた。隣家の花壇ではコスモスが楽しそうにお喋りしあうかのように密生して咲き誇り、その上をトンボが、ぐるりと空中を舞ったりふわりと静止したり、出来の良いグライダーでさえ到底叶わない高レベルな飛行を楽しんでいる。あぁ、ミチル、君のいない世界が、こんなに楽しく美しく過ぎていくよ、とシュウは切ない気持ちになった。彼にはひとつの考えがあった。もう、ミチルを追うことはできない。もし追っても、それは地図も無く海賊の宝を探すようにただの徒労に終わるだろう。昨日の煙たちとの邂逅。それは夢を見ているかのようだったが、決して夢ではないとシュウは強く確信していた。だからこそ、彼らが言った、時間を流れさせる役割を持つもの、だとか、次元、だとかいう言葉を冷笑的にではなく受け入れて、それを基盤にして今後の自分のあり方を考えたのだ。僕は準備をする。次元を越える準備ではない。またミチルに次元を越えて戻ってきてもらうための準備をする、そう彼は考えた。シュウは祈る。祈りという行為に力はないとは今の彼は思わない。祈る意識、想う意識、それらはきっと、世界のどこかを蝶のはばたきのように微かにでも刺激するのだ。そうして、きっと世界はめまぐるしくそんな情念の意識の力にぐるぐると掻きまわされているに違いない。そんな無数の情念の中の輝く一つの光になって、ミチルへ届いてほしい。それが彼なりの、無力感を通り越したのちの考えだった。

勤務開始の時間までに余裕があったので、彼は近くの川べりまで散歩をしに行った。小石を拾って、川へ投げて水切りをする。ちゃっちゃっちゃっと小石が水面を滑っていく。どこかから若い女の子たちの弾むような話声がして、シュウはそれが聴こえてくる方向へ何の気なしに視線をやった。女子高生が二人、離れたりくっついたりしながら歩いてくる。そこで、シュウは、はっとする。背の低いショートカットのほうの女子高生の胸に、あのペンダントがきらめいていたからだった。驚くことに、ミチルがしていた、あの不思議な感じのするペンダントをその女の子がしているのだった。何か運命的なものを感じて、シュウは、とにかくどこでそれを手に入れたのかを訊いてみようと、女子高生たちのほうへ駆けよって、あの、と声をかけた。しかし、彼女たちには、何か不審な感じがしたらしく、シュウが近寄ってくると道路の反対側へと進路を移し、身体をちぢこませるようにして寄り添い、いつでも逃げられるように距離を保っていた。シュウが、困ったなと思いながら、そのペンダントだけどさ…と言って指をさした瞬間、彼女たちは、キャーッとそれまでなんとか保っていた平静を打ち破る声を出して一目散に走って逃げて行った。シュウはさすがに追いかけようとは思えず、バツの悪い気持ちを抱えてその場に立ちつくしていた。とはいえ、あの女子高生はペンダントをいったいどこで手に入れたのだろうか。まさか自分が知らないだけの、流行りものの量産品というわけではないだろうとは思う。あの子はミチルと知り合いで、何かの機会にあのペンダントを譲り受けたのだろうか。それとも、こんな疑いを挟むのは申し訳ない気がするのだが、ミチルがペンダントを落として、それを拾って自分のものにしているということも考えられないだろうか。いろいろと想像をしてこころを揺り動かしてしまう。でも、またきっと、この道で彼女には会えるだろうと期待していた。それまでに、不審者と思われないような声のかけ方を考えておかなければいけない。別に、普通の人が普通に話しかけるだから、受け取り手の彼女たちが自分たちが被害者的に思うのが速すぎる、いうなれば過敏すぎるのだけれども、世間的には近頃、変な犯罪も増えたように思えるし、防犯としては適った行動なのかもしれないと思った。だけど、それはそれとして、シュウは、いかにも自分が無害で安全ですよということを過度に強調する話し方と態度を考えなければならなくなった。また、明日、トライしてみよう、そうシュウは心づもりを決めて、始業に間に合うように事務所へと急いだ。

あくる朝、川べりの道すがらにまたシュウはいて、水切りをしている。きっと女子高生たちは、バス停へ行くためにまた今日もこの道をあれこれ噂話などをしながら歩いてくるに違いない。その噂が自分のことだったなら、ちょっとやるせないなと思っていた。そんなところへ、彼女らは昨日と同じように川上の方から歩いてきた。どうやらシュウの存在に気付いたようで、また道路の端の方に進路を変えた。シュウは、あまりに近づきすぎてから声をかけたのでは驚かせてしまうと読んで、適当な距離のまま、適度な声の大きさで、手短に用件を述べた。昨日は驚かせてしまって申し訳ありません、一つ訊きたいことがあったんです、そのペンダントはどこで手に入れたんですか、僕にとってそのペンダントは重要なものなんです。彼女たちは、怪訝な表情のままひそひそと話をしてから、そのペンダントをしている茶色がかった短い髪の、背の低い方の子が返事をした。

「…このペンダントは小さい頃に親に貰ったものですけど」

そうだったんですか、実は行方がわからなくなった僕の大好きな人がそのペンダントをしていたんです、珍しいペンダントですよね。

「そうなんですか、親からはこのペンダントはこの世に二つしかない貴重なものだと聞いていましたし、それって何かの間違いじゃないですか。他の人が持っているなんて考えられないし。」

シュウはもう少し訊きたいことがあるのだが、よかったら本通りの喫茶店で君の放課後に待ち合わせできないかとお願いした。返事はOKだった。どうもありがとう、それじゃまた後で。そうシュウは言って軽く会釈をし、別れた。彼女の名前は、ミオ、と言った。

シュウの気はそわそわと風に揺れる木の葉のように落ち着かなかった。昼飯に食べたから揚げ弁当の味もわからないくらいに、気持ちはミオとミチルの関係に囚われていた。そして、その日は仕事を早退し、その足で本通りの喫茶『しらかば』へと向かう。待ち合わせの午後4時半まではまだ30分余りあったが、それは自分の気持ちをできるだけ落ちつけて話に臨むためでもあった。店内にはビル・エヴァンスが流れていて、落ち着きたい気持ちを後押ししてくれる。待ち合わせを10分過ぎてミオは現れた。

「ごめんなさい、バスが遅れてしまったんです。」

いや、いいよ、よくきてくれたね、そういってシュウはミオを迎えた。ミオは高校一年生で、将来は保母さんになりたいのだという、立派な目標を持ってるね、えらいなぁ、とシュウは褒めると、ミオは頬を少し赤らめて、ありがとうございます、とはにかんだ甘酸っぱい笑顔を見せた。その笑顔がどこかミチルに似ていて、まさかの予感を彼は抱いた。ねぇ、ミオさんに兄妹はいないの、そう訊くと、

「いえ、一人っ子ですよ。」

と返ってくる。ミチルは生まれて間もなく養子に出されたのだし、よっぽどのことでもないかぎり、もしもミオがミチルの妹だとしても、姉がいるなどという話は聞いていないだろう。そこは親にでも訊かない限りわからないところかもしれないと思っていると、ミオのほうから意外な言葉が発せられた。

「死んだ姉がいるとは聴いていますけど」

そう聞いてもうシュウの中では二つの点が一本の線でピーンと繋がってしまった。かなりの確度で、ミチルとミオは姉妹なんじゃないだろうか、いや、姉妹だとしか思えない。そう確信したシュウの顔を、ミオはくりくりした瞳で見つめている。なにか、ペンダントについて言われていることってないのかな、たとえば、お守りになるだとか。

「そうですねぇ、これはひいおじいちゃんが作ったものらしくて、それも何かが乗り移ったように急に部屋にこもって、二日で二個作ったって聞いています。そのうち、うちの家系に女の子が生まれたらこれを渡して欲しいとおじいちゃんに遺言したんだって。それで、その後おじいちゃんにはお父さんしか生まれなくて、お父さんには私が生まれて、やっとペンダントは持ち主を持ったっていうわけなんです。ひいおじいちゃんは北の森の管理をしていたそうです。森の中のことはなんでも知っていたみたい。それと、ペンダントをどうして作ったのかってきかれたときには、“忘れられた祈りのため”って答えてたんだって。どういう意味なのかわからないけど。」

もうひとつのペンダントについては何か聞いていないの。

「もうひとつは、死んだ姉のお墓の中に一緒に埋葬してあるって言ってましたよ。だから、シュウさんが見たっていうわたしのと同じペンダントっていうのは見間違いなんじゃないですか」

いや、見間違いじゃないよ、まったく君のと同じものを、彼女は、ミチルっていうんだけれど、ミチルはしていたんだ。そして、ミチルは生まれて間もなく養子に出されていてね、きっと、死んだことにされている君のお姉さんだと思う。

「えっ…」

ミチルの面影が君にも感じられるよ。

「お姉ちゃんが生きてる…」

でも、行方がわからない、手がかりさえないんだ。

「そうなんだ、お姉ちゃん、会ってみたい…。」

それにしても、ミチルが高校を卒業してこの街にやってきたっていうのは、すごい偶然だね。だって、自分の実の両親や妹が住む街に、それと知らずにやってきたんだからね。

「それって、きっとこのペンダントの力だと思う。二つのペンダントには陰と陽の役割があるっていわれていて、きっと、引きつけられたんだと思う。」

ミオの表情が真剣になってきた。この年頃の女の子らしく、こういう「どうせオカルトでしょ」と否定され嘲笑されそうな話の流れになっても、真面目についてきてくれる。そういうのが、もしかすると、失われていってはならない、時間を流れさせる役割を持つものに通じる何かなのかもしれない。

「北の森の大樹に頼めば、もしかするとお姉ちゃんは戻ってくるかもしれないです。」

そう言うミオの瞳は真っすぐで、きっ、としていて雷が鳴ってもびくともしないくらい強かった。北の森の大樹って、あのしめ縄をしてあるやつかな。

「そうです、あの樹です。行ってみませんか。」

また北の森か、とシュウは思った。いいよ、行こう、でも今日はもう無理だから、明日にしよう。明日は土曜日だから朝から行けるね。じゃ、明日の朝、あの川べりで待ってるよ。

「はい、よろしくお願いします。」

言いながらミオはぺこりと頭を下げたが、頭を下げたいのはシュウのほうだった。何をどうできるかはわからないけれど、あの妖しくも聖なる感じのする北の森に働きかけるのだ。漆黒の絶望の壁にひびが入って、その亀裂から一条の希望の光が射しこんだような気がした。

次の日の朝、ミオは、よくぞそんな服を持っていたなと讃えたいくらいの見事な迷彩色の作業着を着て、川べりに現れた。シュウは、薄桃色のシャツに、ジーンズというようないつもの格好をしていて、それを見たミオは逆に呆気にとられているように見えた。北の森への道のりを歩いている時に、言ってなかったけど、こないだ北の森に入ったんだ、と彼はミオに打ち明けた。信じられないだろうけれど、と前置きしたうえで、洞穴に入ったことと、人型の煙が出てきて話を聞いたことを包み隠さず話した。ミオは、うん、うん、と真摯に聞いてくれたうえで、

「やっぱり北の森には何かありますね、だから、今日もきっと期待できる。」

と目を眩しいくらいに輝かせた。

大樹は、洞穴のある場所よりも12,3分くらい遠くの場所に生えていた。表皮にはところどころ苔がむし、細いしめ縄がゆるめに巻かれていて、近寄りがたい雰囲気を醸し出している。さて、着いたけれど、どうすればいいんだろう、そう話しかけた時、ミオは既にペンダントを両掌に挟んだ形で祈りを捧げていた。辺りには虫の鳴き声がひっきりなしに流れている。ひんやりと湿って、濃い空気が鼻をなでていく。ここまで来る間にミオに、昨日は言いませんでしたが、と断わりを入れられた上で聞いたのだが、北の森の大樹とミオの曽祖父とは会話ができたのだという。ペンダントを作れと言われたのも、もしかすると大樹にかもしれないと、ミオは言っていた。もう20分近くミオは祈り続けている。そんな彼女の顔を見やると、額に汗の玉を浮かべていた。どんな祈りをしているのだろう、と思いながら、シュウは祈ったりやめたりを繰り返していた。それからしばらくして、「やることはやりました」とミオは疲労を浮かべた笑顔をシュウに向けた。首につけなおしたペンダントは以前よりも輝きを増しているように、シュウには見えた。

それから、1週間、2週間、3週間、なんの変化もない日々が過ぎていった。シュウとミオはケータイのアドレスを交換し合いたまにメールのやりとりをするようになっていた。その中で、ミオの両親はミオの姉が死んでいないことを認めたという内容のものもあった。きっと、ミオの家庭は北の森の件以来大変なことになったろうと思うし、その原因が自分にあることを考えると、そうやって真実を暴いたことが良かったのか、悪かったのわからなくなった。ただ、ミオの両親は、ミチルを認めたあとに、彼女を受け入れたいと言いだしたと、さっき届いたメールに書かれていて、それでシュウは救われた気持ちになった。でも、遅かったのだ、というやりきれなさは無くならなかった。

しかし、思いもしなかった時は急にやってくる。それは秋が終わりを迎える頃、寂しい季節がさらに寂しさを増していって、こころまでが冷えてしまいそうな夕方だった。シュウの自宅兼事務所のチャイムがポーンっと鳴った。はーい、とシュウがドアに向かい、どちらさまですか、と開くと、そこに深々と頭を下げたミチルの姿があった。

ミチル…

驚きよりも喜びが勝った。ミチルじゃないか…、さあ、入って。シュウの目には温かな涙が浮かんでいた。

「ごめんなさい、急にいなくなったのにまた戻ってきたりして。どうか、またここにいさせて欲しいんです。」

そう言うミチルの声も涙声だった。いいよ、ミチル、君を待っていた。また前みたいに一緒にいよう。顔を上げたミチルの頬を一筋の涙が転がり落ちていった。少し痩せたミチルだった。そして、その胸にはあのペンダントが光っていた。帰ってきたミチルは、どうして自分がそこまで思いつめてここを出ていってしまったのか、その時の気持ちはまるで説明がつかないくらい異常だったと告白した。

「よくわからないけれど、これまで歩んできた人生に押しだされるようにしてここを出てしまったみたいなの。シュウとだって別れたくなかったけれど、別れなければ何か恐ろしく自分がダメになってしまうように感じたの。シュウ、本当に、ごめんなさい、許してほしい」

もちろん、許すよ。君にはわからないかもしれないけれど、君のわからないような理由があったようなんだ。その夜、シュウはミチルに、北の森であったこと、ミオのこと、ペンダントのことを、ゆっくりと話して聞かせた。ミチルは最初の方こそ、ウソでしょう、といって半信半疑で聞いていたが、ミオの話をしたあたりから、のめりこむように話を聞くようになっていた。ミチルは出ていった先の街であった恐ろしかったことや寂しかったことを話した。シュウはミチルの経験を聞くにつれて辛くなり、話の最後には彼女を固く抱きしめたのだった。もう、そんな思いはしなくていいんだよ、と言いながら。

ミチルのペンダントは以前と同じように、凛として輝いていて、今や、ミチルを守り抜いたことを誇るかのようでもある。ミオの捧げた祈りは、しっかりと、届いた。きっと、ペンダントを通して、ミオからミチルへと届いたのだ。過去から現代へ、ペンダントは忘れられた祈りを思い出させた。それはどんな因果であったかは、誰にもわからないところだが、煙たちが言った“この世の善しとするもの”に関係があったものなのだろう。この先、シュウとミチル、そしてミオはどのように生きていくのだろうか。人の社会のルールにだけいそしむことはきっとしない。そして、北の森はそんな彼らをずっと見つめ続ける。

【終】
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『忘れられた祈り』 第二話

2013-10-08 06:00:00 | 自作小説2
シュウの身体は後ずさった姿勢のまま動けなくなった。突然に彼らが現れた恐怖と、それらが言葉を発したという驚愕が彼の脳内いっぱいを支配し、身体を統御する余裕がなくなったからだ。混乱する頭には何もアイデアは浮かばない。ただの肉塊として、彼はそこに立ちつくした。

「怖がるな」
「人が来るのは久しぶり」
「君は来ることになっていたよ」

とまた続けざまに声がした。

シュウは囁くくらいの声量で、あ、あ、としか言えない。洞穴内に充満する冷やかな湿気が濃くなったように感じられた。

「危害を加えるつもりはない」
「男はもっと久しぶり」
「シュウ、だね」

と煙たちは言った。

え、とシュウは思った。彼らは自分を知っていて、そしてここに来ることを前もってわかっていた。あなたたちは守護者ですか、それとも霊魂なのですか、どうして僕のことを知っているのですか、気がつくと、シュウは煙のような存在たちにそう問いかけていた。

「守護者だろうが、霊魂だろうが、そう思いたいように思えばいい」
「私たちは、あなたがたが思うような幽霊や神さまではありません」
「君の意志がこちらへ向けられた時、君の意志はここへ届いていたんだよ、だから知っているんだよ」

シュウにはまだ今起こっている事態が信じられなかったが、煙たちの声には乾いた響きがあり、厳とした現実感があった。そして、その声を聴いているうちに、少しずつ気持ちが落ち着いてきて、強張った全身の筋肉から余計な力が抜けていくのが感じられた。よくわからないけど…、じゃあミチルのこともご存知なんですか、そう彼は煙たちに尋ねた。

「知っている」
「素直な娘だということを知っています」
「いなくなった理由と行き先を知りたいんだね」

よく見てみると、煙たちは、ふわふわと宙に浮かんでいるのではなく、まるで空間に刻み込まれたかのようにそこに存在していた。どんな理由なんです、とシュウは訊いた。

「それには、三番目の声が答えるだろう。」
「あのペンダントにも原因があるのです。」
「彼女は素晴らしい人間の一人だよ。怯まず、真っすぐで、思慮深く、思いやりがあるね。運命が運命ならば、もっとそのまま成長できたろうに。世が世ならば、皆が目指す種類の人間であったろうに。そしてそういう人間は、非常に残念だけど、今の時流では弾かれてしまうよ。それは人間たちがいろいろなことを忘れてしまったことが大きいよ。古来の人間たちがわかっていたことを忘れずに文明を発展させていくことはできなかったんだね。ひとつのところへ偏ってしまった。人間は振り子のようにたえず揺らめくべきだよ。揺らめいていなければ滞ってしまって腐るよ。彼女は気付くことができなかったよ、まだ若いこともあるんだろうね。時間を流れさせる役割を持つものを味方につけることができなかった。だからいなくなってしまったんだよ。」

時間を流れさせる役割を持つものってなんですか。

「今の時代の科学の話でも哲学の話でもない。それは本来、生きるものに寄り添っているものだ。この森に住むリスにもいるし、川に生きる魚にもいるし、宙を舞う蝶にもいるのだ。逆にいえば、時間を流れさせるものに寄り添うように、生物は存在する。それをよくわかっているのは、100年以上生きているような大樹だがね。」
「この地域の人間は、今の時代までの間、どんどん時間を流れさせる役割をもつものを遠ざけるようになってしまいました。そして、少しづつ代を重ねるごとに、心を荒廃させていってしまっています。だけれど、時代とともにみんなが荒れていくので、誰も自分が荒れてしまってる、何かを失ってきているということに気付きにくくなっているのです。」
「皮肉なものだね。時代は流れるが、実は時間は流れていっていないんだよ。流れていない時間の中で、人は死んだり生きたりしているよ。」

シュウには抽象的すぎて、よく話が飲み込めなかった。最初の驚きに牽制されて混乱していた頭は、だいぶ秩序を取り戻しはしたが、煙たちの話の中身は複雑で深すぎるように感じた。具体的に教えてください、その時間を流れさせる役割を持つものを彼女が味方につければ、彼女は戻ってくるのですか。

「彼女には、特に必要だった、時間を流れさせるものは。」
「もう遅すぎるかもしれない。」
「今の世のルールを疑うことだよ。今の人間の世界のルールと、世界そのものの善しとするものは違うということだよ。そして、人間は世界そのものに属するものだということを忘れないことだよ。死を悼み、痛みを癒し、悲しみは悲しみとして涙を流す。そういう時間を無駄だと思わないこと。省略するべきではない時間というものを考えてみるんだよ。彼女は戻ってこれない。でもペンダントが守っている。彼女は、ひとつかふたつ、わからないけれど、もう次元を飛び越えてしまっているよ。」

彼女は戻ってこれない、その言葉にシュウの胸は刺激され、しくしくと痛んだ。同時に、次元を飛び越えているという言葉は、いったいどういう意味なのだろうと、考えてみた。この世は縦・横・奥行き・時間の四次元だとすると、時間を飛び越えてどこかへ行ってしまったという意味なのだろうか。そして、そんなことが可能なのだろうか。そのことについて、詳しく教えてほしいと、彼は煙たちに訊ねた。ほどなくして応えが返ってくる。

「我々の言う“次元”という言葉は四次元目の“時間”を意味していない。四次元に隣接した五次元目、六次元目に関係した話になる。そこは君ら人間には認識できない領域になるが。」
「こう言えばわかりやすいのかもしれません。人の縁というものの存在をあなたも感じることがあるでしょうけれど、縁のような、運命の環のことについての次元を、我々は飛び越えたと言っているのです。」
「人に限らず、いろいろな存在は、運命とか縁とかいうものの影響の下にあるよ。一生のうちに、お互い係りあう者は同じ運命の中にある。同じ次元の範疇にあるともいえる。そしてその次元を最大限に活用する人は、多くの人に影響を与えるんだよ。また、次元を飛び越えるというのは、運命の環を飛び越えてしまうことを言う。係り合う人の種類がまったく変わるんだよ。そしてそれはとても危うくて、もともと持っている運命に適応するように人は生まれてくるのだけど、その本来持っている適応する力の及ばないところへ行っちゃうってことなんだ。これはただ、人が変化して成長して、そのために環境が変わるというのとは違うことだよ。それはまだ運命の環の中から外れてはいないんだ。次元を飛び越えるというのは、もっと乱暴に、なんの加護もない世界に放り込まれることだよ。ただ、さっきも言ったように、彼女はペンダントに守られてはいるんだけどね。」

煙たちからそう聴いて、シュウにもミチルが今どういう状況にあるかがうっすらとわかってきた。どこへいったかはわからないが、このままでは見つけることが不可能だということもわかった。いや、たとえ近くにいても出合えないだろうし、彼女自身はそれを望んでいない世界に存在していることになる。しばらく考えていると、彼の頭は鈍い痛みと幾分の重みを感じるようになった。それを察するように、彼らは言った。

「我々とコンタクトを取るというのは、君にとって大きな負担になることだから、そろそろ終わりにしよう。」
「あなたは、今は感じていないかもしれないけれど、相当な無理をしています。」
「君も君で、その内面には純朴なところがあるね。それがこの、今の時流の中では生きていくうえで、ささくれのように痛みをおこさせる場合があるよ。それでも、君もわかっただろうけれど、そういうときは時間を流れさせる役割をもつものを思い出すことだよ。多数の現代を生きる人の価値観、つまり数の論理で押し通されている価値観が善いものだとは限らないからね。」

シュウは、最後にペンダントのことを訊いた。あのペンダントがミチルを守る力を持っているとはどういうことなのか。

「本当にこれが最後だ。あのペンダント自体の本来の力は弱いものだが、彼女のペンダントに対する愛着が力を大きくさせた」
「慈しみというのも、人が忘れそうになっている行為の一つです。彼女はペンダントを長く慈しんでいました。」
「そういうことだよ。それでは、ゆめゆめ疑うことなかれ。」

そう煙たちは言葉をぽつぽつ降らせると、静かに明滅を始めた。シュウの頭はかなりの疲労感に襲われていて、鉛のように重かった。そこへ、煙たちは自らの身体から閃光を浴びせたのだった。シュウは瞬間的に閉じた瞼の上からもかなりの光を眼に受け、まるで脳髄まで光で浸らされた気がした。そして、そのまま急激にしぼむ風船のように、意識を失ったのだった。

しばらくして目を覚ました時、蝋燭は燃え尽きていて、あたりは遠近感をまったくつかめないくらいの真っ暗闇で、ぴとっ、ぴとっ、という水の滴る小さい音だけが聴こえていた。シュウの頭から鈍い痛みはもう消えていて、だけれど、煙たちとの会話は、忘れるとか忘れないとかという以前に、間違いのないくらい明瞭に覚えていた。彼は手元をまさぐって懐中電灯を見つけると、ゆっくりと起き上がり、四方を照らして位置を確認し、神棚を照らしてみたのだが煙たちの姿はなく、茶けて黒っぽくなった木のお札しかなかった。彼らに念を送るように頭の中で呼びかけを行えば、もう一度人型の煙たちが現れるのではないかという期待があって、彼はそうしようかどうかと暫し躊躇したのだが、思いあまり、硬くて確固としてそれでいて丸くて小さな硬貨のような感謝の念だけを差し出すことにした。神社で投げる賽銭の硬貨というものは、それを投げる者の想いの確かさを象徴するようなものかもしれないとその時ふと思った。

ミチルには本当にもう会えないのだろうか。なにか手掛かりや手段はないだろうか。煙たちという、自然を超越した存在を直に目にし、さらに会話して得た彼らからの情報というものの前では、会えないことは疑いをはさむ余地のないゆるぎない真実だと思えたし、その特別な体験と彼らの存在によって、信じる以外無い心境にもなっていた。でも、少なくとも、彼女はペンダントに守られている、という。一人で新しい世界に飛び込むことになって、最初のうちはいろいろ不便や不都合や孤独に時間やエネルギーを取られてしまうだろうけれど、少なくとも不運の連鎖のようなものからは、きっとペンダントが守るのだろう。

とりあえず、シュウはこの洞穴と北の森から出ることにした。洞穴を出ると、森の中の空気が瑞々しくて、肺の細胞の一つ一つまでが感激するかのように呼吸が速く深く何回か続いた。砂利道をざりざり鳴らしながら森の出口を目指す。時折大きめの石が柔らかい靴底を刺激して足裏がぎゅうと痛くなる。空は満天のくもり空だった。これではせっかく星が流れても見ることはできないだろう。出口に到達するまでの間、そして森を出てからも、シュウは考え続けていた。自分はこのままミチルを忘れ去ってしまったほうがいいのだろうか。無力だ、という気持ちがシュウの頭の先からつま先までを覆っていった。社会に一人で立ち向かうことすら無力で無駄なことはないのに、それより大きな“この世のあり方”に挑まなければいけないようなミチルの件からは、途方もない無力感しか生まれなかった。べたべたと、足取り鈍く、シュウは会社兼自宅へと帰路を進めた。ただ、一縷の望みにかけているとはいえないが、運命という強大な敵にあがくような獣的な諦めない気持ちをほんの少しだけそのこころに宿していた。
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『忘れられた祈り』 第一話

2013-10-07 06:00:00 | 自作小説2
星はなかった。
それでも、北の森の中にいるよりはまだ明度の高い夜だった。

シュウのこころは、空っぽのワインの瓶のようだ。その色味と重みと冷たさの感じ。シュウのこころの在り様はまさにそうだった。道路はようやくアスファルト舗装になり足取りが軽くなる。それまで歩いてきたゴツゴツとした砂利道のでこぼこがコンバースのスニーカーのやわらかな底を通して与える足裏の痛みも消失していった。足を運ぶたびに生じた痛みは、ワインの瓶を爪で叩いて音を鳴らす行為に似て、シュウにとっては、自分の存在感をやっと確かめるための、自らの生と意識を結びつける最後の接点だった。火照った足裏は、その帯びた熱のエネルギーにより、生きた存在であることを叫んでいるかのようだ。

彼はミチルのことを想う。今朝を境に、いなくなってしまった彼女のことを、寂しく、恋しく想う。はにかみがちな性格で、人前で甘えてみせることなどしなかった彼女。ほんのり波がかった長い黒髪と、上を向いて弧を描く長い睫毛を従えた大きな黒い瞳。黒色の持つ落ち着きと安らぎと慰めの力を、彼女は生まれついて祖先から引き継いでいた。そしてその力は外見だけではなく、内面にまでも及んでいた。ミチルは言った。

「その年に初めてカッコウが啼いた朝に産まれた子どもは、親との縁が薄いんだよ」

ミチルは生後間もなく、養女に出された。彼女の養育権を得た人たちは、ミチルの親になるにしてはやや高齢で、外面は穏やかな夫婦ではあったのだが、実は教育熱心すぎる性質の人たちだった。学校の定期試験で、決められた順位以内に入れる点数をミチルが取れなかった場合には、テレビやラジオを視聴する時間を取り上げ、より勉強へ打ち込むような体制へと、彼女を強行した。夫婦なりの厳正な管理だった。ミチルは物覚えが良く、応用も利く。しかし、厳しい条件を最初のうちこそクリアしてきたのだが、難題がエスカレートして非常な高みになり、それをクリアするのに失敗したたった一度のその時から、ずるずると罰則の日々へと転落していった。高校を卒業するころには、夫婦はミチルに諦めと怒りの念を持って接するようになってしまった。そして、ついには「おまえは本当はうちの子ではない」とその出生の秘密を告げて、追い出されるように、彼女は家を出た。彼女はカッコウが大嫌いだった。啼き声を聞くたびに、自分への呪いを感じた。そして、自分が生まれた朝はその年はじめてカッコウが啼いていたのだと信じるようになった。

そんなミチルが持ち前の前向きさを評価されて面接で採用され懸命に働いている建築事務所の社長の息子がシュウだった。ミチルはそれでも彼女を育てた老夫婦に感謝していた。

「赤の他人から始まったのに、ここまで育ててくれたもの。期待が大きくて沿えなかったけれど。」

そう言うミチルの言葉に偽りがないことを、シュウは彼女の表情から読み取れたのだが、愛情の形なのか、自分たちのエゴの形なのか、老夫婦の方針に対しては、シュウには判断できなかった。

闇が吐き出す吐息のような生ぬるい夜風を浴びながら、シュウは歩き続けていた。不意に腕時計へ目をやると、午前1時を回っているのがわかる。一人、街のはずれを歩く気味の悪さをシュウは感じていない。そんな彼を突き動かすひとつの閃き。それは論理的な根拠があるのではなく、ただ運命的だと彼が勝手に感じた、とある示唆が元になっていた。北の森の中で彼が見たもの、それ以前に、彼が北の森へ向かったその理由、そして今こうして歩いていることに繋がる一本の線が彼の中にはあったのだ。汗ばんだ額や首筋、背中の冷たさと足裏の火照りとが、アンバランスなまま一緒くたに知覚される。

ミチルにはいつも、はっきりそれが何であるかとは断定できないのだが、脆さのようなものをシュウは感じていた。ミチルはこう言っていたことがある。

「物心がついた時から、わたしはなんだかあくせくと勉強ばかりしてきたし、そう追い立てられもしたから、振り返る時間っていうのかな、落ち着く時間、もっと言えば、ひとりで落ち込む時間だってなかったんだ。それでね、学生の時から少しずつ大きくなっていったんだけれど、自分の中に穴があいているような気がしてたんだ。どこにどういう穴があいているのかはわからない。だけれど、確実に私のどこか…それは大事な部分だと思えるところに、穴があいているの。底なしの穴だよ。その穴があるうちはたぶんわたしは偽りの日々しか送れないんだと思う。適応しているようで、適応できていない、そんな毎日を過ごし続けるんだと思う。」

どうしていいかわからない、そんな顔をしながら、救いを求めるでも祈るでもなく、淡々と自分のいびつさを語る彼女をシュウは見つめ、やさしく肩を抱いた。思ったよりも華奢で、強く扱うと壊れてしまいそうな肩だった。そのとき、シュウはミチルの首にかかっているペンダントを見たのだった。樹の葉の形をした金色のペンダントだった。それは派手な衣服や装飾品をあまり好まないミチルには不釣り合いに見えもする品物だったし、まるでゲームか物語から飛び出してきたアイテムのように彼の眼には映った。なにか、異質な力を持った物体のように、シュウには思えた。

ミチルの「今までありがとうございました。探さないでください。」という短い書置きを今朝、手にとって読んだ時、シュウは、頭の引出しにしまっていた、よもやの場合を慮っていた一つの危惧を取りだすことになった。それは、真正面から考えてしまうと、現実になってしまうんじゃないかと直視できなかった不吉なイメージで、だからこそ仕舞いこんでいたものだった。それがとうとう本当になってしまった。彼は眉根を寄せ、歯噛みした。ミチルから感じられる危うさをどう排除し、癒してあげるべきなのか、彼は長く考えながら、彼女に共感を示したりやわらかい言葉をかけたりときには抱きしめたりした。それでも、風をつかむように手ごたえが無かった。彼女のこころの穴を埋めようといくら土を流しこんでも決して積もることなく、本当に底なしの底へと消えていった。僕は無力だ、という灰色の気持ちが折に触れて強くなっていった。そしてその下降線のピークが今朝だった。ミチルがどこへ消えたのか、まったくその行き先がわからない。彼女と近しく付き合っていながら、彼女の友人を知らない。親戚などは彼女の生い立ちからいって訪ねることは考えられない。たぶん、どこかに身を寄せたわけではない、彼女の性格上からもそうなる。そうなると、もうお手上げなのだ。南下していくのか、北上していくのか、遠くの見知らぬ土地へ出立してしまった可能性が高いし、そこまで考えた時には、彼女にとってこの土地から離れること、すべてをリセットして人生をやり直すことのほうが彼女のためなのかもしれないとシュウには思えてきた。ミチルを好きだというシュウの想いは、彼女を好きであればこそ、その想いを捨て去ってしまって、書置きのとおり、彼女を探さずにそっと気持ちだけで見送る方が良いのではないかという方へ傾いた。そして、それしかないと決断しかけた時に、ふとミチルのペンダントのことが頭をよぎった。あの金色の樹の葉の形をした不思議な雰囲気のあるペンダント。それがどうも気にかかるのだ。この街の北には広い森があるのだが、その森について伝わる謂われがあった。「北の森の守護者は、木の葉を持ち出した者を神隠しにあわせる」というものだ。この街の子どもたちは、親や街の老人たちから「だから、森から何も持ってきてはならないのだよ」と注意をされ、それを信じて大人になり、大人になったら森には入らなくなっていく。ミチルのあのペンダントが北の森の物だとは思えないが、あの樹の葉の形が印象的なうえに、この言い伝えと照らすと、だんだんと気になってきたのだった。北の森の中には古い祠がある。その祠こそ、きっと謂われにある、森の守護者にあたる存在なのだと思った。行ってみようか。この件でできることはそれだけのようにシュウには思えたし、実際、バカバカしくもありながら、確かめてみることで、もしかすると森の謂われを葬り去れるような気もしていた。妙な迷信は、無ければ無いほうが現代的ですっきりするだろう。

シュウの建築事務所から北の森へは徒歩10分ほどの距離だったので、彼は歩いて、それも定時に終業して普段着に着替えてから行った。まだまだ陽が長い季節ではあるけれども、森の中は高い木によって光は遮られがちだし、クマやシカなどの危険な野生動物が住まっていたりもするし、大体、人間を拒絶するような空気を張り巡らせている。シュウは必要最小限のものをカバンにつめて、虫除けのスプレーを腕などに施し、クマ避けの鈴を腰につけて鬱蒼とした森の中へと入って行った。入るなり、神聖な感じのする空気がひんやりと肌を撫で、うっすらと鳥肌が立った。目指す祠は、戦時中に防空壕として使われた天然の洞穴の中にあることになっている。「熊出没注意」の看板に身震いし、遠くからのシカの「ピーッ」という鳴き声を耳で拾いながら、少しづつ、砂利の撒かれた細い道をたどっていく。しばらく歩くと、シュウの足裏は痛んだが、やるべきこと、解き明かすべきことの使命感がまさり、停滞することなく、先への道を進むことができた。7,8分くらい歩くと、目指す洞穴の前にたどり着いた。入口は、すのこのような板が塞いでいる。その周囲にはロープが張られ「立ち入り禁止」の古い看板も立っていた。さわさわと葉擦れの音がずっとしている。シュウはその音を聴きながら、誰かに見られているような視線を感じて、後ろや上や、いろいろな方向を振り向いてみたが、やっぱり誰もいなかった。彼は、手を合わせて合掌のポーズを短く取り、そして、ロープを越えて入口のすのこを取り外した。覗きこんだ洞穴の中は真の闇で、カビ臭さが鼻をついた。普段なら絶対に入ることができないくらいの気味悪さだった。入った途端になぜか入口が閉ざされて二度と出てこれないのではないか、という根拠のない不安が心を覆った。その恐怖に打ち勝つため、その場で5分ほど休憩を取り、意を決して懐中電灯を照らしながら内部へと侵入を開始した。森の守護者にしてみれば、彼は静寂と平静をぶち壊す侵入者に他ならないだろう。

中は案外広かった。天井も思っていたよりも高く、入口から数メートル分こそ膝を幾分曲げなければならなかったが、中に入っていくにつれてそうしなくてもよくなった。防空壕として使われていただけのことはあるとシュウは思った。懐中電灯で一部を照らしているとはいえ、暗闇の中を歩くので、歩幅は狭くなるし、どれだけ歩いたかの感覚が曖昧だった。気がつくと、行き止まりの壁に祠らしき設備が照らし出された。想像の通りに燭台があるので、ろうそくを片方づつ二本立てて火をつけてみた。周囲の明るさがケタ違いに増した。眺めてみると、奥に設えられた神棚のようなところに、木製のお札が貼られているのが見えた。もう随分古いものらしく、書かれている文字が読めないくらいに木の色と溶け合ってしまっている。シュウは、入口でしたのと同じように、目を閉じ手を合わせた。何をしにこんなところまで来たのだろう、やっぱり何もないし、ミチルとの何を期待していたというんだ、醒めた言葉がこころの中に生じ、こころの温度を平熱に戻していく。ため息とともに目を開けた。刹那、祠の前に、ゆらりともせずわらわらと漂う十数体の小さな青白い人型の煙状の存在を見た。ひっ、と小さく声が出て後ずさりすると、

「待て」
「待ちなさい」
「話があるよ」

という声が次々と聞こえた。
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