Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

『学びのエクササイズ 文学理論』

2024-10-20 23:25:04 | 読書。
読書。
『学びのエクササイズ 文学理論』 西田谷洋
を読んだ。

文学理論の概説書であり、おそらく教科書でした。

記号論にメタファーなど文学をミクロな視点でとらえるところからはじまり、文法論、物語論などを経て、現代思想や哲学の領域といった文学へ影響を与えるマクロな地平に出て行くかたちで終わっていきます。

ではまず、フォルマリズムから。

__________

フォルマリズムは、社会・政治・思想に関する側面を排除し、もっぱら形式・文体・技法を考察の対象とすることで、文学言語と日常言語とを区別し、言語が自らの特性を前景化することに文学性の根拠を求めたのである。(p10)
__________

→つまりは作家の技術的な面・力量ばかりを問うのがフォルマリズム、といえそうです。これは文学作品を審査するのには大きく関与する考え方ではないでしょうか。フォルマリズムだけでは作品の持つ力の半分しか評価できないでしょうけれども、作家の職人性に点数をつけなければならない審査というフィールドだったら社会性や思想の表現よりも重視されそうで、反対に文学を楽しむ一般的な読者からすれば、フォルマリズムよりも、作品の魅力の残り半分を形づくっている思想や、表現している内容の面白さを問うほうが強いのではないでしょうか。

それでもって、フォルマリズムが文学作品から読み取れる一方の価値だとすると、他方の価値である思想や社会性についても考えないといけません。

いろんな思想や哲学を知らないといけないのは、文学が社会から乖離しないことが大切だからでしょう、例外はあれども。いろんな思想体系を知っていたり、社会の現在を知っていたりするからこそ、それらから生まれてきている問題をすくい取り、可視化・言語化して提示できます。そういったものは内容だけで言えば価値が高くて、そこにフォルマリズム的な領域、つまり技巧を用いて質の高い作品に作り上げていくことになりそうです。なんていいますか、現実の苦しみや生きにくさを拾い、つきつけるのが文学のひとつの大きな役割でもあります。(ちなみに、声なき声、と言い表すといいような事柄や想いが世の中にはたくさんありますけれども、そういったものを表現する「サバルタン(=沈黙を強いられる存在)」という用語があると、本書に載っていました)

__________

文学はそれ自体では意味を持たず、それを成り立たせているものとの関係で意味を持つとすれば、文化・社会を捉えていくアプローチが必要だろう。(p109)
__________

とも後半部に書いてあるくらいでした。

あと、こんなふうにはっきり言ってくれて良かったなあ、と思ったのが以下の文章です。

__________

むろん、文化研究のそうした折衷主義的な性格は悪くない。世界は一つの理論だけで裁断できるほど単純ではなく、教条的に自分の立場に固執するのは辞めて、自分を疑い柔軟に変えていけばいいことを意味しているからである。(p115-116)
__________



最後に、ジェンダーやクィア批評、フェミニズムを扱った章で出合った「ポスト・フェミニズム」という言葉を。
__________

男女の平等は既に達成されたとして、生と消費における自由な選択を賞賛するかたちで個人主義的に女性の自己の規定・達成を語るポスト・フェミニズムは、抑圧は社会制度の問題で性差別ではないとして、男女には自然な差があり、自ら弱さや可愛さをアピールし、恋愛の諸局面を男を喜ばせるためではなく自己の欲望の選択の結果とする。(p98)
__________

→男女には自然な差があるじゃないか、としたうえでの、ポスト・フェミニズムという考えかたがちゃんとあるんですね。フェミニズムには、急進的で強硬なイメージを持ってしまっていたところがありました。性差別には反対だし、男らしさや女らしさが社会に規定されたものというのも、そういうところが色濃く有るのはわかるのだけれど、でもちょっと針が振れ過ぎなんじゃないか、と感じていたので、ポスト・フェミニズムの考え方はまだ自然だと思えます。

中身については以上です。

限られた分量で語らなければいけなかったからだと思いますが、どちらかというと悪文で書かれているなあという感じがしました。

あと、思いだしたのが学生時代のこと。大学生の講義に使う教科書が教授の著作なのはよくあることですが、ある講義に使う教科書に誤植が多く、あげく、「○○となるのである」が「○○となるのではない」レベルの間違いがあったのを教授が口頭で訂正してくるなど、この本を講義以外の目的で買った人たちはかなり読解に苦しむな、と当時あきれたのを思いだしたのでした。

本書にもそういったところがちょっとあります。目くじらを立てるほどではないし、珍しくもないのだけど、「個人的幸福・最大化を目指する。(p118)」なんかははっきりと誤字としてありました。あと論理的に難しくて矛盾に感じるところがあって、それが悪文的な文章だからなのか、それとも僕が若い頃に経験したような、ただの教授のミスなのかがわからなかったです。途中からは、こだわらずにすらっと流すように読みました。




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『さがしもの』

2024-10-15 22:34:28 | 読書。
読書。
『さがしもの』 角田光代
を読んだ。

「本」がテーマの短編集。世界を旅する本の話や、都市伝説となっているとある本を探すのがストーリーの支流みたいになっている話、もしかすると呪いがこもっているかもしれない本の話などなど、9編+エッセイそして解説というつくりでした。

どの作品に対しても、なんだか安心感を持って読めました。読み始めてぴんとくるわけです、これはほぼ間違いなく、おもしろいかどうかの境界線をしっかり飛び越えてくる作家だぞ、と。

軽めのテイストでわかりやすく、読者への負荷は少ない。でも、言いたいことはきちんと書いているし、表現だって上手です。短編作品だということがあるでしょうけれども、冗長さとは対極にある作品集です。丸くて軽くて柔らかい言葉でできているのに、無駄がない感じ。とってもおいしい水ベースのカルピスみたいです、いや、呑む人向けにいえばウイスキーの水割りでもいいのですけど。

そんな、気楽においしい本書から、いくつか引用を。

__________

「私、子どものころおばあちゃんに訊いたことがあるの。本のどこがそんなにおもしろいの、って。おばあちゃん、何を訊いてるんだって顔で私を見て、『だってあんた、開くだけでどこへでも連れてってくれるものなんか、本しかないだろう』って言うんです。この町で生まれて、東京へも外国へもいったことがない、そんな祖母にとって、本っていうのは、世界への扉だったのかもしれないですよね」(「ミツザワ書店」p164)
__________

→開くだけで別世界に連れて行ってくれる。これは、現実のつらさから逃れてそれを忘れていられるひとときを与えてくれる、っていう言い方もできると思うんです。本を読むことって、ほかにもいろいろな思いもかけない効能がある、そんな気がするときのことを思いだせてくれます。



__________

「あたし、もうそろそろいくんだよ。それはそれでいいんだ。これだけ生きられればもう充分。けど気にくわないのは、みんな、美穂子も菜穂子も沙知穂も、人がかわったようにあたしにやさしくするってこと。ねえ、いがみあってたら最後の日まで人はいがみあってたほうがいいんだ、許せないところがあったら最後まで許すべきじゃないんだ、だってそれがその人とその人の関係だろう。相手が死のうが何しようが、むかつくことはむかつくって言ったほうがいいんだ」(「さがしもの」p179-180)
__________

→たぶん、これを言ったおばあちゃんは、ウソや偽りが嫌いなんでしょう。ひねくれた人が放つ、ひとつの哲学的知見でしょうか。現実世界で接すると骨が折れそうですけれども、こうやって物語世界に登場すると、物語に生気が濃く宿る感じがします。



__________

「死ぬのなんかこわくない。死ぬことを想像するのがこわいんだ。いつだってそうさ、できごとより、考えのほうが何倍もこわいんだ」(「さがしもの」p183))
__________

→これもひとつまえのおばあちゃんとおなじおばあちゃんの哲学です。想像するから動けなくなるんだっていうのはよく言われます。つまり、「案ずるより産むが易し」の「案ずる」が想像ですから。でも、だからこそジョン・レノンは「イマジン」を歌ったのかもしれません。想像してごらんよ、と。そうすれば戦争なんかできなくなるから、と。


というところですが、やっぱり売り物としての文章であり作品だなあと思いました。プロフェッショナルです。読んでよかったので、角田さんの別作品も近いうちに仕入れようと思いました。




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『馬が見たくて』(自作小説・29枚)

2024-10-09 11:57:21 | 自作小説21
   
 指で撫でたらつるつる滑りそうな布地の薄紫色をしたワンピースを着て、彼女は草原をふんわりと過ぎていく蒼いそよ風に吹かれていた。夕焼けにはまだすこし早い頃、薄く引いたような雲が青い空に浮かぶ、初秋だった。
 その人の名前は、こなつ、といった。宮城県から来たそうだ。
 遠くで作業している何人かの牧場スタッフたちの他には私たちしかいない。そのせいもあって、牧草地の敷地に「特別ですよ」と入れていただいている。
 私は、戸田と申します、来年五十歳になる歳です、と自己紹介をしたのだった。



「馬が見たくて」と、こなつさんは私のかけた言葉にそう応えてくれたが、こちらを振り向き浮かべた口元の明るさとは反対に、切れ長な両方の瞳からはまるで温かみが感じられなかった。
 放牧時間は終わっていて、馬たちはすでに厩舎へ戻っていた。だから、スタッフの方が気の毒に思ってくれて、こんなサービスをしてくれたのだろう。
 さっきまであたりを駆け回り、びりっ、びりっ、と音を立てて草を食んでいた様子が想像できる馬たち。彼らの生きた匂いは風に押し流され切らずに、まだはっきりとこのあたりに立ち込めている。草の匂いの混ざった彼らの匂いには、馬糞のそれが濃厚に漂い、成分割合としてはおそらく七割を超えているに違いない。気をつけないと、何かの拍子に草の影になったそのものを踏んでしまうかもしれなくて危ない。
「馬を近くでは見れませんでしたね」
 私は丸めるようにめくっていた薄手のデニム製シャツの袖を元に戻そうと、くしゃっと固まった右肘の辺りを見ながらまさぐる。なかなかほどけないな、なんだ、おかしくなってるぞ。そうこうしているうちに、彼女がどうやら歩きだしたらしく、その気配を感じて注意を向けた。
「かわいらしい仔馬がいました。実は午前中にも来ていたんです」
 右袖が肘のところで固く丸まったまま、全く元に戻らないのでひとまず諦めて、左袖に取りかかった。こちらはすぐにほどけてするっと伸びた。
「触れましたか」
「いいえ、柵の外から見学してましたから。それに、近寄ってきたとしても触るのは禁止ですから」
「私は久しぶりでしたから、この時間でも見学できると思ってやって来たんです。きちんと調べたり問い合わせたりしてからじゃないとだめですねえ」
 私は軽い調子で声を立てて笑った。こなつさんも高い声とゆるめた口元で、ふふふ、と笑ったが、やはり瞳はなんら輝きを放たなかった。
 最初は、何者かへの怒りによるものなのかといった感じがした。だがそれよりも、もしかすると癒えぬ悲しみを心に抱えているからなのかもしれない、と立ち姿を見ていると思うようになった。あるいは身を切るような寂しさもまた。
 こなつさんの容姿を見たところでは、おそらく三十歳手前だろう、でもちょうど三十歳になったばかりだと言われても納得がいく。または若く見えていても実際は三十歳を少し超えたかしている可能性は無理なく考えられる。
 しかし、待てよ、と思う。こなつさんは、具体的にどこがどうとはつかめないのだが、全体的にどこか疲れているようにも見えてしまう。彼女の、目には捉えられない内面の領域から醸し出されたなにかが、可憐な印象の彩度をずっと低くしているのではないかと感じられるのだ。だったら、第一印象よりももう少し若い場合もあるかもしれない。疲労は、若さではつらつとした佇まいが保持するのに正当な時間の針をまやかしに進めて見せる芸当が得意なのだから。
「つかぬことを御聞きしますが、一人旅だとおっしゃっていましたよね。あのう、どうか、どうか怒らないで聞いて欲しいのですが、それは、身内に不幸があったからとかですか? いや、ほんとうのところで気になっているのは別のことなんですが、正直に言ってしまうと、その、もしや大失恋されたとか、そういった理由があってでしょうか」
 新品なのかもしれない薄紫色を纏うこなつさんは柵に両腕を載せ、牧草地の外側を眺めている。少し遠くの、雑木林があって、その境界に沿った砂利道が線として引かれているあたり。
「風が気持ちいい」
 ちょうど、今までよりも強くて息の長い風が私たちのいる草の上を吹き抜けていった。
「ええ、気持ちいいですね」
 こなつさんに向けている大部分の意識。そこに含まれなかったわずかな残りかすであるものが自動的に働いて、私はまだ右肘のシャツの固まりと戦い続けてもいた。
 それから私とこなつさんの間で会話が途切れたので、鳥のさえずりや虫の鳴く声に、この時を埋める演奏をまかせた。しおからとんぼが気まぐれに柵へ止まり、また旅立つというのを何匹か見た。
 しばらくして柔らかな草の感触を靴裏で感じながら私も柵へと歩いた。こなつさんのように、柵に腕を載せ、雑木林と砂利敷きの小道とを眺める。こなつさんは、こちらから手を伸ばしたとしても届かないが、だからといって公園によくあるシーソーの長さほどは離れていないところにいる。
 しばらくそのまま、陽を浴び続けた。頬骨の辺りがとくに、夏がかすかに残る陽射しにちりちりと焼けていく感じがした。
 自然に溶け込んだようなひとときはまだもう少し続くのだろうと信じ切っていると、いくらか事務的な口調にも思えるこなつさんの声が聞こえてきた。
「ケアラーなんです。ええと、介護者ですね。母の。父はいません。兄弟姉妹もいません」
 こなつさんはこちらを見ることをしない。しかし、横顔を見れば、遠くに視点があっている彼女の瞳の暗闇から初めて、か細くて弱々しい光ではあるのだが、それがすうっと真っすぐ放たれていったのがわかった。
 あっ、と思いはしたが、声には出さなかった。柵にもたれた体を後ろへ起こし、載せていた腕を自然と柵の上から外して直立すれば、私の両腕はだらりと垂れる。デニムシャツの右肘、固まりつっかえていた袖がその拍子に手首までするんと簡単に元へ戻った。



 だが、直後から私の心は揺れはじめ、続いて隠れていた差別意識が不意打ちというやり方で襲来したために、気持ちがゆらゆらと沈んだ。
「えらいですね。親御さんをひとりで看ていらっしゃるなんてすごいですよ、人として私はかなわないですよ」
 そうぺらぺらと喋った。つまりは瞬時に言葉を盾にして距離を取ったのだ。私は平等に公平に他人のことを考え、接することができる人間だと当たり前のように思いこんで生きてきた。でも、それが間違いであることを心の動揺が証明している。自らへの信頼という主柱に小さな亀裂が確かに走っていた。ため息を飲み込み、気づく、自分を買い被っていたことに。
「三年前までは父と二人で、介護や世話、家事なんかを分担していたんです。短時間のパート勤務もやっていたんですけど、父が亡くなってからは、なかなか難しくて。母が施設に入所したのがついこの間のことでした」
 私は雑木林前方の道ばたにずらりと咲き並んでいる野生の花々へ殊更に意識を注ぐようにした。一つひとつの花弁は秋桜よりもおそらく小さめだ。花は、穏やかで冷静な印象を与える紫色を、背後に沈黙を添えるようにして見せつけてくる。停止したまま動くことのないような沈黙だ。そんな花々を、一株ずつが目いっぱいつけていて、あたりに二十株以上自生している。花は紫苑だろう。
 自分の瑕疵が、おもむろに正面から行く手を立ち塞いだことで乱れた気持ちの、その不測の挙動を整える時間稼ぎがしたい。そのため私はあえて紫苑をがっちりと捕らえて離さない見つめ方をした。
 紫苑はあらゆる音を吸い込むような紫色をしている。見つめ続けていると、やがて心はどんどん沈黙に吸い付けられる。無音に近づいていく。その無音の静寂に鋭く切れ込んでくるのが、こなつさんのゆっくりと発せられる丁寧に自分を語る言葉たちだった。
 今はそれらをきちんと受け止めることはできない。もしもばらばらに散った自意識と、ダウンした思考システムがうまく整い終わったあとだとしたって、彼女の話をまともに受け止めきれず、落下させてしまうような予感がした。自信なんて持てはしなかった。
 眺める私を沈黙へと吸い寄せる紫苑がもたらす無音の効能に賭ける他ないのか。無音の癒しに見込めそうな、安定を欠いた心への修復効果と、修復が成ったときの自分自身のポテンシャルとへ、その他にはなすすべがないのだから賭けるしかない。
「母が病気になる前、わたしが九歳のときに家族三人で競馬場へ行ったことがありました。福島の競馬場です」
 依然、棒のように立ち尽くしていた私の鼻の下にうっすらと汗が滲んでいるのを感じた。指で拭おうと腕を動かすのが不自然かつ滑稽な動きとなったが、こなつさんはといえばまったくこちらを見ていない。私は腕を前で組む。
 この時間の大きな流れに抵抗できるはずもなかった。私はそのとき、従順でいたというよりも、反発するという選択肢を地面に投げ捨てさせられていたのだ。手遅れだったのだ。二重にも三重にも包囲され、どうやったって私が無力であることを眼前につきつけられ、逃れられないと悟るしかない進路を選ばざるを得なかったのだから。
「レースで、走る馬を見たんですね」
 厩舎の切妻屋根のてっぺんに止まっていた一羽のカラスが、自らの離陸を宣言するように幾度か鋭く啼いた。私の意識と視線はもぎとられる。カラスは東のほうへ旋回すると、だんだん小さな粒へと縮んでいき、空に飲み込まれるようにしてそのうちその姿は消滅した。
「四レースか、五レースか、見たと思います。周回所にも行って、そこで歩いてる馬たちも見ました。父が肩車してくれたので、遠くからでもはっきり見えたんです」
 また少しつよい風が通り過ぎ、薄紫色のワンピースの裾がはためいるなかでこなつさんはそう言いながら、肩のあたりよりいくらか長い黒髪の乱れを直していた。
 こなつさんが着ているワンピースの薄紫も、紫苑と同じように音を吸収する種類のものだと思った。物理的な音、というよりも、意識の中に生じたノイズを吸い込むと言ったほうがいいかもしれない。
「周回所を歩いている馬って、興奮しているのもいるし、手綱を引いてもらってる厩務員さんに甘えてるのもいるし、さまざまで面白かったでしょう」
 ぱくぱく、と動く口から飛び出すのは薄っぺらい言葉だ。反射的に返しているだけで、会話を味わいながら考えたりはできていない。
「それが、細かいところはあまり覚えていなくて」こなつさんは変わらず、か細い光しか放っていない黒色の濃い瞳はそのままに、目じりに薄い皺を寄せて、「何を思いだすかって、将棋の話なんですよ」と雑木林の上へ、広がる青空へと顔を上げた。
「どうしてまた将棋の話を?」
 わたしはこなつさんの、時が止まったような薄紫色のワンピースを眺めていた。その色味に、さきほどから乱れっぱなしになった気持ちのノイズが吸収されていく心地がする。ということはつまり、心の落ち着きを取り戻すための効能がやはり宿っているらしいと言うことができた。まるで扉が開いた先には無限に広がる沈黙の別世界があって、扉の限定された枠組み越しに、その奥にある別世界へと自分は目を凝らしている気がしてくるのだった。
 そうして場面は急展開し、内面へと向かう。内面の底への視界が開かれたのだ。ノイズという濁りのほとんど失せた、それはコップの底だ。自分の内なるコップなのに、その底になにが残っているのかは確かめないとわからない。汚泥のカスなのか、砂金の一粒なのか、はたまた空っぽなのか。
 気がつくと、自身の内側を見つめすぎていて、こなつさんに目の焦点が合っていなかった。はっ、として外界にピントが合うと、こなつさんの姿がくっきりとしたものへと変わった。
「黒かったり、灰色だったり、栗色でたてがみが金髪だったり、いろいろな毛色をしていて大きさもそれぞれちょっと違う馬たちを眺めていたとき、後ろ脚で立ち上った赤茶の馬がいたんです。ちょっと気持ちが荒ぶっていたんでしょうね。前脚で空中を掻くようにしながらそのまま二、三歩横に斜めに歩いて」
 私の周りにモンシロチョウがやってきて、ひらひらと飛び回っている。チョウは、こちらの虚を突くような進路の取り方で、決して飛行パターンを簡単には読み取らせない。そんな常套手段を用いるチョウは私にはすぐ飽きて、柵の外へと飛び去っていった。
「あれだけの巨体だから、脚への負担はかなりでしょうね」
 二本の脚で立ち上った赤銅色をした馬のシルエットが思い浮かんだ。
「それをわたしたちは、おおーって声を上げて見ていて。桂馬飛びしたねって、父が言ったんです。そこから、父と母で将棋の話が始まったんですよ。あのとき飛車で王手せずに銀を上げたのは悪手だったね、何言ってるの、飛車落ちで打ってあげてたんじゃない、じゃあ俺の飛車をとられてたのかな、とってなかったわよ、とか始まって。なんでそんないきなり将棋の話なんかを本気でするんだろうって不思議に思えたし、すごくその場に合わない気がして最初は怒ったんです、わたし。いま、馬見てるんだよー、とか文句を言いましたよ。でもそのうち可笑しくなってきちゃって。母なんて、炊飯の予約を忘れてきた気がする、って真面目な顔になって言いだしたり、もう馬は眼中になくなってて。それ、馬を見ながらする話? って」
 やっとこなつさんの話に注意が向くようになってきたし、内容から気持ちを感じ取ったりイメージを思い浮かべたりもできるようになってきた。こなつさんは続けた。
「馬を見たのはそれっきり。その日以来、テレビやネットなんかの映像や写真以外では馬を見たことがなかったです。今日までは」
 わたしはこなつさんの表情を読みながら、沈黙を用いて彼女の話を促し、それを聞いた。
「母はそれから行動や言動が急におかしくなってしまって、ずっと世話や介護が必要になったんです。人にこんなことを言っちゃうのはどうかとは思うんですけど、もっと違う十代、二十代の過ごし方だってあったよなあ、ってため息がふうっと大きく出ることもあるんですよ。ケアラーじゃなかった人生かあって」
 やっぱりこういった話を聞くのって、自分は苦手なんだ、とあらためて感じた。ただ、さっきと違ったのは、そこにうしろめたさのせいで所在を失うような心持とは別のものがベースにあったことだった。人として、自分の力が足りないことを認めたことが土台となり、その上に苦手意識は肩を落としながら乗っかっていた。
 私の表情には微妙に、そんな苦い気持ちが表れていたことだろうし、相づちの声音にも抑えきれず宿っていたと思う。でも、こなつさんは相変わらずこちらを見ないし、私の声の表情にも無頓着だった。
「ご自分の人生を、介護のほうへともろ手で注ぐ感じでしょうから、真似できることじゃないです」
 そう言ったときのはじめの声がちょっとしわがれてしまった。
「ときに、怒ってしまうんです。自分のことなのにうまくできなかったりする母に、聞き分けのない母に対して。怒っちゃダメだと思いながらも、反応でふるまってしまうんです。意思が負けてしまうんですね。そういうのは理性的ではなくて動物的なんだ、人間的なふるまいじゃないんだ、と自分を責めてしまうことがときどきあります」
 思い詰めているようだしよくないと思い、私は間髪入れず、こなつさんをフォローする。
「ちゃんと気がついて自身を責めるのは理性的で人間的なふるまいですよ。そういった動揺というのは自分に違和感を感じたから生じるもので、違和感を持てたということは、自分がこうあるべきだっていう姿についてもちゃんと知っているっていうことでもあるんじゃないでしょうか」
 さっき、自分の気持ちが揺れたときのことを重ねているのを隠して、そう言った。
 苦手とすることへ立ち向かっているスタイルが、ノーガードからはじまり、いまや格闘向きのファイティングスタイル。腹を割って向かい合おうという気持ちへと吹っ切れていた。
 こなつさんの境遇へ向かい合うことが、おそらく自分の弱点と向かい合うことにもなるという気がしていた。
「そうかもしれません。もしかすると、そういったところもあるでしょうね。でも渦中にいるとき、理性はすぐもたなくなる。あとでひとりの時間がもてたときに理性はなんとか戻ってきますけど、介護の最中には失いがちなほうでした」
 私は、こなつさんに圧倒されないよう、受け止め損ねることで言葉を失ってしまわないよう気力をできるだけ漲らせながら応じる。自分に負けるな、というように。
「きっと、だからこそ学べた大事なこともたくさんあるでしょう。たとえば私なんかにはこんな歳になってもまったく学べていないことを、あなたは身を削りながら学んできているに違いない。理性についての動揺や葛藤もそうです。時間がもっと経って整理がつきはじめてから、こういった体験は学びとして身につくといったものなのではないですか、おそらくは」
 こんな調子ではだめだ、と思った。ぐっと背筋を伸ばしてみれば不意に、ひとりでに思いだされてくるものがあった。
 私はそのときモードが変わったというかスイッチが切り替わったというか、多面的な自分のまた別の面が表面になったのだと思う。
 なんてね、と舌をぺろりと出し誤魔化すようにわざとおどけた身振りをしながら、若い頃の私はピエロでしてね、と甦ってきた当時を思い出しつつこなつさんのほうへ身体全体の向きを変えた。あっけにとられて不思議そうに口をまんまるに開いて、こなつさんは久しぶりに私のほうに顔を向けたばかりか、まじまじと私の顔を確かめるように眺めてくるのだった。気にせず、私は続けた。
「大事そうなことを喋っているようで、実はいつも空っぽなんですよ、私は昔から。狂言回しでね。だから、私の言うことをあまり重く受け止めないでください。あなたのことをわかりたくても、ちゃんとわかることができないんです、ほんとうに情けないんですが。だから、なんとなく空気や雰囲気を読んで、そこにフィットするような言葉で無難に埋めていくのがこの私なんです。意味があるようで、あるんだかないんだか、というのが、私の本性」
 こなつさんが光の乏しい目を見開いている。モードの変わった私のなかで何かが破れ、ちょっといたずらっ気な気分が漏れ出てきてもいるようだ。
「ピエロをやったのは、たしか三回でした。友達が大道芸人を目指していて路上でパフォーマンスをやるからお願いだから手伝って欲しい、と頭を下げられましてね。彼、とても努力家でいいやつだったし、本気の顔だったから引き受けたんですよ。見よう見まねでドーランを塗りたくって、目を三角にメイクして、左右の頬には赤丸、口紅は輪郭をはみだしてでっかく。友達が用意した宴会用みたいなぺらぺらのピエロの衣装を着てやれるだけの滑稽な動きをして、友達が主役としてパフォーマンスするその進行をしたんです。喋らずに、身振りと文字を書いた画用紙でね。私は思いました。道化をやるのって、けっこう気持ちいいぞって。いい加減な動きをして、お調子者をやってると、自分らしいなって気になってきたんです。変なところで自分探しが成功したみたいな感じでした。だから、私の本性はピエロなんです。とてもしっくりくる」
 こなつさんは右手でこめかみのあたりに手をやっている。少し混乱を呼んでしまったようだ。話が急に脱線しすぎたようだ。無理もない。でも、必要な逸脱だったのだ。話を続けることで、わかってほしかった。頭の中のぼんやりとしていた真意の像がどうにかはっきりとした形になりだしている。
「ああ、ごめんなさい。話がうまく飲み込めないでしょう。なんでこんな話になったのかもきっとよくわからないでしょうし。ただ、すみませんが、もうちょっとだけ聞いてくださいませんか。最後までこの話に付き合って欲しいんです。わかることがありますから」
 こなつさんは言葉を発さなかったが、首を縦にこくっと動かしてくれた。
「ピエロをやってると、集まった人たちを自然と観察してしまうものなんです。みんな、ピエロには気が緩むものなんでしょうかねえ、それとも友達の大道芸が上手だったから見とれていたからでしょうか。まあ両方のためだったとして。観客たちが大道芸を見物しているとき、それと知らずに私たちに向かって無防備な表情を見せてるんですよ。子どもたちはもちろん、大人たちもね、ほんとうに無防備な笑顔をぱあっと咲かせるんです。ふだんから表情の乏しそうな人も、いま顔の力がゆるんだなっていうのがピエロの私にははっきりわかったりもする。そうしたときに、私の見ているものが、非日常のもののように思えてくるんです。まあそりゃあ、大道芸人とピエロが路上でなにかおもしろいことをやって非日常を作り出しているんですから、見物人たちの非日常をも作ってしまうんでしょうけれども。それでですね、日常っていうのは、社会生活です。非日常っていうのは、非社会生活。そういった非社会生活で見える人間の表情ってなんだと思いますか?」
 思案気なこなつさんは何か言いたそうだったが、素朴な迷い顔をしている。また少し強い風が蒼く吹き抜けたとき、髪をおさえたこなつさんは、わかりません、と小さな声で答えた。
 私は次に形にする言葉のため、大きく息を吸い込んで、力強く吐き出すといった気持ちの準備をし、そして一言ずつを、落ち着かせた調子でこう言った。
「そういったときに見えるのが、人の魂なんです」
 腹を割っている私は、まるで神がかった聖職者がやる自動書記のように、こんこんと湧き出てくるものが勢いよく流れゆくままの様子でこれまで話してきたが、どうやらそれはこの一言のためだったのだ。最初から目標となるものが見えていたわけではなく、予感に導かれて到達した一言だったのだから、私にも多少の驚きが生じていたことは察して欲しい。
「魂、ですか」
 こなつさんはその言葉との安全な距離を取るような言い方をした。私は魂について、もう少し付け加えたくなる。
「私は無宗教ですし、ほんとうの気持ちを言えば魂なんてものは信じてないんですよ。だいたい生物の身体には魂なんて器官、当たり前ですがありませんしね。ですけど、もしも生き物には魂があるものと仮定してみると腑に落ちるんだよなってこと、あると思うんです。そのあたり、お母様についてはどう思いますか」
 一呼吸を飲み込むようにしてから、こなつさんは言った。
「魂があるとするなら、母の魂はまったくまともなんですよね。よくわからない行動は頭の病気の問題であって、魂がおかしくなったからではないでしょうね。それどころか、よくわからない行動の理由を母に訊ねたら、『こうすると病気が治るみたいなんだ』ってよく言ってて。わたしは、そんなことしてもよくならないよ、って心の中で呟いてたんですが、魂を考えてみたら、今よりよくなろう、健康に戻ろうっていう方向への母の魂の健全さが感じられるというんでしょうか。そんな感じがいましてるところです」
 慎重に考えてくれていたようで、私はとても好感を持った。
「健常者とくくられる多くの人たち、ふつうに生きている人たちでも、魂がきれいだなって見える人と、そう見えない人がいますよね。それもまあ、その瞬間や場面による魂の見え方、つまり一面だけが見えたのであって、どんな魂にだってまともな性質はあるんだと思います。それこそ、魂がくすんでいるんじゃないだろうかって他者から勘繰られる人がいたとして、その人がたとえ健常者のカテゴリに入っていたとしても、頭の調子がよくない時期にいるせいでそう見られるだけなのかもしれないですから。人を疑い過ぎる時期だったり、自暴自棄になっている時期だったり、強迫観念に追い込まれている時期だったり、いろいろとありますよね。それとね、ケアラーの生活は、すごく辛いものだったとしても無為に過ごしたのとは全然違うと思うんです。やりたいと思う仕事を見つけて取り組んだり、友達を作って遊んだり、好きな人と出会って恋愛をしたりなんかは出来なかったとしてもです。お母様を介護してきたこと、それって、まっとうな道を歩んでいると言えるでしょう。だって、魂と相対して濃密に接する生活なのですから。……とか、なんだかんだ、えらそうなおしゃべりに聞こえてるかもしれないですね。事実、私もちょっと偉そうな気分になって酔うように喋っていたような気がします。すみません、お気を悪くされませんでしたか。立ち入った話をしてしまいましたし」
 ごめんなさい、と私は深々と頭を下げた。ずいぶん喋りすぎてしまった自覚からだ。
 気になっていた自分の内なるコップの底にはどうやら何も存在せず、今や澄んだ水をたたえたコップがひとつあるだけだ。ポテンシャルへの賭けは運次第だろうと構えていた。結局、ポテンシャルっていうのは、魂のことだったということになる。澄んだ水をたたえたコップという姿の魂。こなつさんのおかげで、思いがけず知ることになった。
 こなつさんは、いいえいいえ、と微笑んでくれる。だが私はどうしても、言いそびれたもう一言をいいたくて、抑えきれずつい言ってしまう。
「馬が見たかったのって、彼らの魂をみたかったからじゃないんですか?」
 走っている馬っていうのはとくに、その身体から魂が透き通って見えている生きもののような気がしたから。
 えっ、と驚いたこなつさんは、宙に視線をさまよわせた。そして、すぐさま体の向きを雑木林の方向へと変えてしまったので、私からはまた横顔しか見えなくなる。外世界の何かを眺めているふうではなく、自身の内面の泉をじっと見つめて、その奥底にあるものを見極めようとしているような、焦点の合っていない瞳をしていた。



 それからどれだけの時間が経っただろうか。とても長かったようでもあるし、それほどでもなかったような気もする。何度も強めの風が通り抜けていったし、虫たちはずっとほとんど同じペースで、声を増幅させるのと減衰させるのをただただ繰り返していた。時間の感覚はよくわからない。はじめ、私はこなつさんとのやりとりを思い返してみたが、やがて、そういった思念を虚空に投げ捨ててしまい、まったくのまっさらな気持ちになって、肌を撫でる風のかたまりを感じ、まだ馬たちのものが残っているこのあたりの匂いを吸い込み、西日に近づいた陽射しを浴びるだけになった。何もせず、その場に溶け込んでいった。そうやって、透明になって消えていったのだから、時間が流れていく感覚はなかったのだった。
 こなつさんに声をかけられて、私は自らの身体をこの世界に取り戻す。なんでしょう、と返した声の現実感がやや乏しい。
「はっきり言えることではないんですけど。母の魂についてだけじゃなくて、もしかすると自分の魂についてのほうこそを確かめたかったのかもしれません。自分の原点であるものを、です。リセットするというよりも、取り戻すこと、そして乗り越えることのための確認。自分をどうにかして信じたかった、信じ直したかったんじゃないかと。馬が見たかったのって、そういった想いや欲求が無意識にあってのことだったのかなあっていうような気がしはじめています。馬を見ることで、確認したかったのだと。あの福島にある競馬場で過ごした一日の記憶が、そういうふうに私を動かしたのかも。もちろん、あたたかい家族だったことを思いだすための、とても大切な記憶でもありますし」
 私は、何度も何度も肯いた。おそらく、こなつさんの言う通りなのだ。しっかり自分と見つめあった彼女の言う通りなのだ。私へ歩み寄ったこなつさんが、ありがとうございます、と小さくお辞儀をした。
「私はね、ただの出しゃばりでした。お礼を言われても、どうも悪いような気がしています。ただ、あなたのそのワンピースの素敵な色味を眺めていて、なぜかとても気持ちが落ち着いたからですよ、お役に立てたのだとしたら。お手柄なのはあなたのワンピース。それに私もだいぶ勉強になりました」
 そのとき、離れた厩舎から遠い馬のいななきが聞こえてきた。遠くても、聞く者の気持ちを鼓舞してくれるような、力強くて堂々としたいななきで、それがほっとするような明かりを胸に灯してくれるかのようだった。私とこなつさんは、その瞬間に目を合わせ、ゆっくりと厩舎の方へと振り返った。



 こうして、私たちは牧場をあとにした。こなつさんはこの町のホテルに一泊するという。バスと徒歩で牧場までやって来た彼女を助手席に乗せて町中まで送る。どうです、このあたりをちょっとドライブして、それからいっしょに夕食でも? こなつさんは迷っているふうだったが、その瞳には暗闇を打ち払った光が眩しいほど輝いていた。


〈了〉
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短編新作をアップします。

2024-10-08 19:43:56 | days
来年締め切りの応募用小説の設定を考えていましたが、しばらく振りの執筆をいきなりやるよりも、なにかひとつ短いものを身体ほぐしみたいにやっておいたほうがよいような気がしてきまして、10000字を目安にした短編を書いていました。

一筆書き的な執筆で、設定すら考えず、いきなり本文を書いていくというスタイルでした。書いているうちに、今取りかかっている箇所ではないところで必要になる考えやアイデアがいきなり浮かんでくることが多々でてきて、それらを律儀にパソコンやスマホにメモしながらすすめていきました。なかでも、眠るときに横になったばかりのころにひらめきがやってきたり、目覚めてすぐのころに眠る前まではまとまっていなかった考えが短い言葉でまとまって浮かんできたりすることが僕にはありがちなんですが、そういったときってスマホのメモが使えるわー、と暗闇の中でポチポチと記録したのがとても役立ちました。万歳。

で、2週間ほどのあいだ取り組み、執筆はそのなかでも5日間くらいだと思います。考えている時間の方が長かったようです。いまは直しや推敲の最終段階で、明日、印刷をかけてチェックしてみて、またすこし直すと思うんですけれども、まもなく完成となります。

できあがった短編は、いつものように当ブログとnoteにアップロードしますので、よろしければ読んでいただきたいです。

創作ものを楽しみにしてくださる方には、ほんとうにありがとうございます、と言いたいです。近いうちに更新となりますので、待っていてください。

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『5時に帰るドイツ人、5時から頑張る日本人』

2024-10-01 12:09:38 | 読書。
読書。
『5時に帰るドイツ人、5時から頑張る日本人』 熊谷徹
を読んだ。

タイトルのとおりのことを書いてある、労働改革を考えるための内容です。「◯◯では、」が多く、「出羽守」と揶揄されるタイプなのは否めませんが、なんだこりゃっていう本ではないですし、そればかりかタメになりました。

日本人の労働時間が多いといっても、本書掲載のグラフを眺めるとアメリカや韓国に比べるとまだまだ少ない。ドイツと比べて1人あたりの労働生産性がだいぶ低いと言ってもアジア圏では最上位レベル。でも、もっとうまく労働しようという本は、本書以外にもちらほら本屋で見受けます。

少子化と高齢化がますます進んでいく今後、国力や生活レベルががたんと落ちて落ちぶれないためには、ドイツなどを見習うのはリスクヘッジなのではないか。労働時間を減らそうというのは、もっと怠けようというよりも、もっと労働を洗練させようという腹積もりのほうを強く意識して考えたらいいのでしょう。もちろん、人生そのもの、人間性そのものを考えるというような、ワークライフバランスを大切にする価値観を尊重する意味でも。

会社側、法人側の業績拡大だとかの論理を取る形で日本の政府や社会は動いているけれども、人間側の人間性を大切にする論理をないがしろにしてちゃ、疲弊してしまい、消費者としての面の機能が落ちるでしょうし、豊かな文化だとか人とのつながりだとかも育ちにくいかもしれない、と本書を読みながらいろいろと思い浮かべるように考えていました。

人間性をもっと大事にして、現状の、労働で拘束されながら時間の浪費を強いられる状況をよくできたら、人間の消費者としての面がもっと豊かに育つのではないでしょうか。すると、経済も回る。たとえそうやってみて同じ生産性で経済面は変わらなかったとしても、ウェルビーイングやQOLが高いほうがポテンシャルがありますよね。

また、けっこう深く感じたのですけれども、ドイツ人って、平均するともしかしてかなり孤独なひとたちだったりするのではないか。それは、すごく合理的だっていうからです。孤独についての本を読むと、合理的な考え方が進んだら、たとえば希望なんていう不合理なものをあまり持たないようになっていくっていうんですけ、実際のところはどうなんだろう。あと付け加えるのは、ドイツ人は、義理を欠くのがふつうですし、日本のようなおもてなしやサービスとは真逆のポジションにあることです。なんでもかんでもドイツ人が優れているわけでもないのです。


さて、ここからは引用とそれに対するコメントを。

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日本はドイツと違って、労働時間に関する法律の強制力が弱い。そのため、多くの企業で長時間労働が横行しており、有給休暇の消化率も低い。
端的に言うと、日本の法律は労働者の保護(健康や自由)より、企業側の論理(業績拡大)を優先させている(p15)
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→本書は2017年発行なので、前提としている日本の残業時間は月100時間未満です。現在は月45時間・年360時間まで引き下げられています。ドイツでは、一日の労働時間は多くても10時間までで、6カ月間の平均労働時間は1日8時間以下にしなければいけないそうです。つまり、8時間を超えて働いた日があったら、どこかで6時間にしたりして、トータルでは超過勤務は無しということにしないと法律を侵してしまうのでした。それでも、労働者一人当たりが1時間ごとに生み出すGDPは、ドイツ人が日本人よりも46%多いのです。とても効率的です。



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ドイツから見ると、日本の労働組合は「おとなしい」という印象を受けてしまう。
ドイツの法律で1日10時間を超える労働が禁止されているといっても、当局の監視が弱ければ形骸化してしまう。
その点、ドイツでは「事業所監督局」(Gewerbeaufsicht)という役所が労働時間や労働環境を厳しく監視しており、抜き打ち検査も行われている。(p50)
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→一日10時間以下の労働時間をきちんと守らせるために、こういった国家による強い監視がドイツにはあるのでした。これがないから、日本では労働で健康を害してしまう人が多いのではないかという話に繋がっていました。また、過労死や自殺者が多いことも、こういった点からの改善を望むのはまっとうではないかと思えます。



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なお、アメリカでは法律で最低有給休暇日数が定められていない。ドイツに比べると労働者の権利が制限された、経営者に都合のよ"休暇小国"である。
アメリカのサラリーマンは、休暇中に自分の仕事を同僚に奪われることを恐れる傾向があり、まとまった日数の休暇を取らないことでよく知られる。その背景には、法律で労働者の休む権利が保障されていないという実態がある。(p74)
__________

→このくだりを読むと、日本はもともとアメリカ型の労働タイプなんだろうな、という気がしてきます。「ビジネス!」「経済!」と仕事を優先してやっていくことにすると、自然とこうなるものなのかもしれません。また、アメリカ人が自分の仕事を奪われる懸念を持っていることについては、恐怖と不安で市民をコントロールする性格のあるアメリカ国家の性格とも一致しますし、経済が最優先という志向には必ずつきまとう強迫観念もはっきり見えていて、大きく言えば「お国柄」なんですが、刷り込まれて染み込んでいるような傾向なんだろうなと思いました。



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また、ある日本人の知り合いは、「日本は健常者でなくてはならない社会だ。身体を壊すと冷たい国だから」と言っていた。日本で有給休暇の消化率を100%に近づけるためにも、有給の病欠を認めるべきだ。(p87)
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→日本人は保っている「秩序」の性質ってこれだと思います。ヘンだと思うもの、まともじゃないとするものは排除する気質がある。ここはなんとか、みんなで克服していけたらいい部分ではないでしょうか。あまりに不当にいきづらい人たちが生まれさせられてしまいますので。


といったところでした。本書が書かれた頃よりも、労働環境は改善への道に乗っているような気がします。それがまだまだだとしても、もっと生きやすく、働きやすく、という方向を向いているのはちょっと喜べます。訴えかけた人や、その声を受けてプランを考えた人、関わった政治家の人たちなどなどの尽力ですね(まだまだ労働改革は終わっていないですが)。



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