Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

『Twenteen』

2018-12-31 19:55:43 | 読書。
読書。
『Twenteen』 早見あかり 撮影:木寺紀雄
を眺めた。

先ごろ結婚された女優早見あかりさんの写真集。
もう四年近く前に出たものですが、
このたびぱらりとめくってみました。
元ももいろクローバーのサブリーダーで、
その当時から彼女を好きな人もたくさんいらっしゃるでしょうね。

どこか特別な娘のように僕には見えていました。
それでいて、親戚の子のような親近感を持ってしまうし、
同年代に自分が戻るような感覚で彼女を見つめてしまう。
そういう、時空を超えてくるような存在感を彼女から受けるのですが、
どうでしょう?

本写真集に書いてありますが、
子どものころから目立ちたがり屋で、
学級委員などを進んで引き受けてきたくせに、
競争は大嫌いなので、
高校進学の折には、
芸能コースではなく普通科に進んだそうです。
また、「頑固なくせに、意外にガラスのハート」だそうです。

印象としては、ももクロ出身らしく、
面白いところがあって、
笑いをとれる人で、
あっけらかんとしてそう。

でも、これまでの経歴からしても、
自分で自分の人生を生きていこうという気持ちの強さがありますよね。
それゆえに、自分でした決断に、
自分で苦悩してしまう繊細さも持ち合わせているかもしれない。
けしてバランスはよくないかもしれないけれど、
そうだとすると、まっすぐさゆえにそうなってしまうのだろうと、
ページを繰りながら考えました。

ここからは妄想世界にはいりますが、
たとえば知り合いに早見あかりさんがいたとしたら、
お互いがお互いの味方になれるような信頼関係を築ければ、
無二の親友か恋人か伴侶になれそうなタイプ。
でも、そうなった場合、つまり、
一人で生きてきた中で、
今後相手のことも考えながら人生を歩んでいくことになったら
(実際、彼女はご結婚されて夫になる人ができたわけです)、
これまでのような人生の決断がもっと重い扉として
目の前に立ちはだかると思うのです。
でも、彼女のことだから、
時間をかけてでもその扉を押しあけ、
そうすることで、人間的な深みを強めていき、
歳を重ねるごとにどんどん魅力的な人物・女性になっていくのでは、
と願望も含めて思いました。


Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『憤死』

2018-12-29 22:05:01 | 読書。
読書。
『憤死』 綿矢りさ
を読んだ。

掌編「おとな」からはじまる、
こども時代を取り扱う全4編の短篇集。
三つ目の表題作「憤死」は喜劇だし、
最後の「人生ゲーム」もじんわりくるものがありますが、
二作目の「トイレの懺悔室」が、純文学調の文体で進行しながら、
内容がこれまたなかなかエグくて、
年末に読むには失敗したかな、と思ってしまったくらいでしたが、
全体を通してだと、おもしろい読書になったなあという気持ちです。

本書を読んでいると、
自分の子ども時代の悪いところや友人たちの悪いところ、
それもあまり意識していなかったり、
もうほとんど忘れてしまい相当薄らいでいる気持ちだったりが
薄いベールのように音もなくこころに降りかかってきて、
でも直視しようとするとふっと消えてしまうみたいな感覚になる。

綿矢さんは、用いるのはやんわりした感じの文章だけれど、
気骨というか敵を作る覚悟があるというか、
そういった気構えで格闘している感はありますね。
本書の表題作なんかは、
さっきも書いたように喜劇ですが、
作者の綿矢さんに対して、
こいつ悪いな、
と思いながら苦笑いしてしまうくらい踏みこんでいる。
その前の「トイレの懺悔室」も意地悪だった。

最後の「人生ゲーム」、これはよかったです。
これを書いた時の年齢で、
これだけのことがわかっていたか、と思うと、
すごいなあと吐息がもれる。
ある意味で、諦めがいい人なのかもしれない。
でも、執念深さはある人だ。

『憤死』は、
人間関係のなかで自然となあなあになっていく
人間のしょうもなく悪いところ、
それも無邪気に悪いところを、
書くことであぶり出すというのも近いのだけれど、
見逃さず忘れさせず野暮といわれようがしっかと捕まえる感じで書きあらわす
といった姿勢のほうに真実味を感じる作風に思えました。
解説で森見登美彦氏が書いているように、
綿矢さんに本書の人物をあらわすような感じで自分を意地悪く描写されたら、
その華麗で上手な表現のために、
一年くらい立ち直れなくなりそうです。

著者 : 綿矢りさ
河出書房新社
発売日 : 2015-03-06

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『喜劇の手法 笑いのしくみを探る』

2018-12-28 00:05:24 | 読書。
読書。
『喜劇の手法 笑いのしくみを探る』 喜志哲雄
を読んだ。

どういう技術でもって笑いが起こるのか、
おかしみが生まれるのか、を分析して述べているのですけど、
面白いです。
こういう講義を受けたかったよね、
もしも若い頃から文学に興味があったならですが。

大きく、戯曲を悲劇と喜劇にわけてみる。
そのうち結婚で終わるような比較的幸せな終わり方をする方が喜劇であって、
一般的なイメージとしてあるように、
笑劇がすなわち喜劇、ではないんですよね。
人が死んで終わるような、
わかりやすい悲しみの戯曲でなければ、
ちょっと切ない喜劇もあるんじゃないかなと、
本書を読んでいると、
そう分類については考えたりしました。

でもって、
いろいろあるなかで23の項目に分けて取り上げ、
それら喜劇の技巧について具体例から端的に述べてくれています。
なので、とてもわかりやすいですし、
おもしろいし楽しみながら、その技術を知ることができる。
これは小説を書く場合にも大いに参考になります。
構想の段階で参考にするならば、
格段にイメージが広がるくらいのバラエティに富んだ技巧を収めている。

また、終章へ向かうにつれて、
演劇というものの深みについて、
どんどん誘ってくれるような作りになっていました。
新書という形式で、
紙数もそれほどの量ではない中で、
要点をついた文章で
読者は最短ルートをたどって、
演劇表現の最前線の苦闘領域まで行けてしまいます。

苦闘領域とはなにか、といえば、
たとえば劇中劇を用いることで、
劇そのものを茶化しながら、
観客の劇に対する認識を、揺さぶることについてなどですね。
劇中劇について演者が論じることは、
その本当の劇そのものをも論じることであり、
劇を壊しかねないわけですね、興ざめを引き起こすかもしれない。
でも、その技巧をあえて、
そして上手に用いることで、
認識論や記号論の深みと演劇自体が繋がるところまで、
観客を連れていくことがある。

そういう位相に頭がもっていかれれれば、
いつもならば疑問に思わなかったものが疑問として立ちあがってきます。
いったい演劇ってなんなんだろう?
演者は観客に話しかけることがあるし、
その話しかけは周囲の演者には聴こえない設定になっているしです。
たとえば現代的なリアリティを重視するドラマや映画と比べて
どう解釈し、そういった話しかけはどう受け止めるべきなんだろう?
哲学して体系立てたくなるのですが、
なかなかそう、すとん、とは治まるものではない。

というように、
最初は技術や手法、方法論の形式を一つずつ知る、
みたいな読書になるのですが、
最終的には演劇論の領域までちょっと足をつっこむくらいの内容になります。
だから余計に面白かったですね。

ひとつの戯曲の性格を決めるのも一つの手法で足りたりしますが、
戯曲の筋とは関係なしに、
観客の認識を揺さぶったりするのも一つの手法としてある。
本書収録の手法は幅が広く、
もっと言えば、次元が異なるものが並列に収められていて、
それが「手法や技巧は360度に放たれるものだ」とでもいうみたいに、
それこそ自由を感じさせられます。

僕はこれまで演劇はあまり観ていないし、
戯曲を読んだのもシェイクスピアとチェーホフをあわせて3つほどです。
でも、これからまだ読む予定のものがもうすでに積読になっているし、
それらに触れるときに多少、分析的な目で楽しめるものさしになったかもしれない。
また、なにより小説を書くのに役立つタイプの本でした。

実用できる本として、
本棚の、目についてすぐに抜きやすいところに入れておこうと思います。
良い出合いでした。


Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『走ることについて語るときに僕の語ること』

2018-12-21 01:35:39 | 読書。
読書。
『走ることについて語るときに僕の語ること』 村上春樹
を読んだ。

長年マラソンやトライアスロンをやられている
作家・村上春樹さんによるメモワール(回想録、あるいは個人史)。

僕は走ることにまったく興味がないし、
瞬発力もなければ肺活量もないタイプで、
つまりどっちかといえば運動系の人間ではないので
本書のタイトルを見ても長く食指が動かなかったのですが、
いろいろな種類の本を読んでいるうちに、
本書のようなタイプもいいかなと思い、今回手にとってみました。

村上春樹さんは長距離走に向いた人であると自ら言っていて、
長距離走は小説家として長編を書くことによく似ている、と述べている。
仮にその類似性が正しいとしても、
長距離走と長編執筆の両方をよくできるのに相関があるかといえば、
謎だとは思うんですよね。

たとえば、僕なんかは、
子どものころから肉体は比較的まずまずでも
肺活量が学年一容量が小さくて長距離はほんとうに苦手だったし今でもそうだけれど、
「子ども時代に長距離走のできないあなたは、
長編小説なんて書けないし向いてないからやる必要はない」
と決めつけることはできないと思う。

人生の欠損部分は空白地帯であって、
空白地帯はプラスとしてもマイナスとしても決めつけられないものではないだろうか。
つまりは考慮外。
長距離走はわかりやすい例なのかもしれないけれど、
それに代わるなにかに従事するものがあって、
それが小説を書くことに良い相関のあるものだってこともあるだろうし、
「ローマに続く道はこれ一本!」的には考えたくない。

と本書の中ほどまで読んで考えていたら、
次の章で著者は「あくまでこれは個人的な意見で」的なエクスキューズを、
まあまあな量の紙幅を割いてつけていました。

最近思うのだけれど、
村上春樹さんの言葉は、
とても巧みであるがゆえに弱点や脆い点をうまくカモフラージュしたり
斟酌をうながしたり
エクスキューズ付きだったりしながら
ひとつの丸みある結論(あるいは結論ではなくとりあえずの終着点だったりもする)に
繋がっていくタイプ。

それが、
僕みたいな軟弱者(類する人はたくさんいるでしょうけれども)が読んでみれば、
けっして歯切れの良くない部分でさえ、
彼のその言葉の明快さによって鋭く、
そして言葉丸ごとが正鵠を得ているように感じられるものなんですよね。
でも、前述にあるような弱点や脆い点はけっこう怪しいんですよ。

そりゃ、村上春樹さんといえど、
何もかもを見通す大哲学者・大文化人ではないですからね。
大文学者がすべて正しい知を備えた者という、
持ちやすいだろうけれど間違ったイメージが、
ごくふつうの人々のごく一般的である頼りない思考力を軽くいなしてしまって、
彼の言葉はすべて正しいってなっちゃう。
こういうアラではないけれども、
そういった部分が見える人には見えるし、
日ごろそういうのが見えない人にも見える一瞬が訪れたりするものです。
まだほころんでみえる時があるぶん、
不誠実ではないのかなあと思いもして。
そりゃあ、社会におおっぴらにする言葉なんだから、
しゃんとして示さないとという本気の気持ちで書いている。
それはそれで、ゲームの「上手なプレイヤー然」とした構えかなぁ。

ただ、村上春樹さんに限らず、
好きな作家さんや文化人の方たちを妄信してしまう人ってたくさんいると思いますし、
いちいちそこを考えて受け手への誠意を持ちすぎる対処では、
人はついてこないんじゃないかと思いもするわけなんですよね。
スケール感が小さくなるし、
支持とか信奉とかって、過大評価や誤解がつきものなんじゃないかと、
仮定してではありますが僕はそう考えるところってあるんです。
そういうわけで、村上春樹さんのような有名な文学者はどうふるまうか。

だから、この世を社会ゲームというゲームとしてとらえ、
自分たちはプレイヤーだとしてふるまうみたいなポジションでいるとして
村上春樹さんと彼の言葉を考えると、
かっちりは収まらないけど、
ほぼといった態で収まるように見えてくる。

そんな感じなのだから、
受け手の側は、
話半分で聴く姿勢を常に意識の片隅にちょっとでいいから持ったら良いのでは、
と思いもします。
妄信はよくないし、
何かのはずみで妄信に亀裂が生じたときに深刻な恨みが生まれないためにも、
そういう姿勢は少なくとも僕はできるだけ持っていたいと思うのです。

……と、まるで本書の内容に具体的に触れていませんが、
ランナーとしての生活のひとつのケースとして本書は読め、
さらに小説家としての生の部分が垣間見える、
小説を書くことへの忌憚のない語りもあります。

走ることについて興味が無くても、
読書好きの方なら面白く読めてしまうでしょう。
やっぱり文章がうまいから、
どんどん、というようにページを繰る手が止まらなくなります。
散文の書き方の模範にもなるような本でした。


Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『思い出のマーニー』

2018-12-12 23:17:37 | 読書。
読書。
『思い出のマーニー』 ジョーン・G・ロビンソン 高見浩 訳
を読んだ。

児童文学のくくりに収まりきらない、
深みのあるイギリスのファンタジー小説です。
数年前にスタジオジブリが、
物語の舞台を日本に移してアニメ映画化したのをご存じだと思います。
僕はそれを映画館で観て、
とても感動しまして、原作である本書を購入し、
今回やっと読んだのでした。

子ども時代の孤独、
親や大人のいいなりになることを望まれる環境、
影で行われる大人たちからの隠蔽されたいじめ。
そういった事柄が、
主人公のアンナと不思議な少女マーニーがともに笑いあい、
幸せな時を過ごす背景にあります。

運命は気まぐれに、そして容赦なく振る舞うものです。
でも、アンナとマーニーは非常に不思議なかたちで、
そんな暴君のような運命の外側で幸せな時間を創りだす。
もうそこが、ファンタジーの真骨頂だと思いました。
現実的なお堅い時間感覚や常識とは違うところのものを用いることで、
そういった現実世界で窮屈な思いをする読者たちを癒し、
励ますことができたりする。

アンナは、内側の人間ではなく、外側の人間だ、として、
疎外感を感じている。
他人の輪の中に入ることができないし、
もともとから、そっち側の人間ではないと重く感じている。
そういったマイノリティの味方にもなる本でした。

最後に、本書のこの一句を。
<プレストン夫人と同じく、ペグおばさんもまた、
美味しい、しっかりとした食事の力で治せない心の傷など存在しないと信じていた。>
この文章にはとても共感しました。
僕の場合は主に夕食がそうなのだけれど、
おざなりにしないようにしているのは、
同じように信じているところがあるからです。

というわけですが、
この作品は僕にとって百冊に一冊の僥倖といっていいくらい、
たいへん好きで大切なものなのでした。
映画版で滝涙でしたが、
だいぶ落ち着いて読んだ今回の読書でもうるうるきてしまいました。


Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

考えの切れ端としての、「憎しみ」との付き合い。

2018-12-08 20:53:42 | 考えの切れ端
利他行動を推奨する言説の帰結が
「そのほうが回りまわって自分の『得』になるのです」という、
やっぱり損得に基づいた考え方だったりするのだけれど、
損得についてはもうしょうがないと思うんですよ。
近視眼的な利己行動は周囲の環境を歪ませるからやめたほうがいいですが、
常に平等・公平として行動するのは無理です。

競争があるかぎり、
損得が行動原理のひとつとして働くことから外れることはないのではないだろうか。
だからといって、損得にがんじがらめになることはないですけどね。

ゆえに、
損得によって憎しみが生まれることがあるとしても、
この社会一般で生きていこうと思っているのならば
(世捨て人にでもなるつもりがないのならば)、
憎しみは捨て去りきれないものだと思う。
でも、付き合い方ではないかな、と。
似た感情に「妬み」がありますが、
ネットの辞書によれば、
<他人を羨ましく思い、その分だけ憎らしいと思う感情>だそう。

僕も憎しみを抱えて生きています。
それも、他人との比較によるものなのかもしれないけれど、
自分をよりつよく見つめてみると、
それよりも理想に向かって進んでいきたいのに
その障壁になっているものやことに対しての原因への憎しみとしての性格が強い。

諦めや我慢が憎しみの感情への緩衝材になりもしますが、
しかし、そこからの変化のためには我慢しないことが必要だったりする。
自分の内に溜めこんでいては何も変わらない。
だからといって憎しみにつき動かされる態で他者へ働きかけることは愚かです。
ある程度憎しみを馴らしつけて働きかけることが大切だと思っています。
馴らしつけることで生まれる、理性的な判断や考えってあるでしょう。

合理化、効率化で、
時間をかけないようにすることが標準的で当り前で美徳だ、
みたいなところって世間にありますが、
憎しみを馴らしつけるにはまとまった時間が必要。
人間って時間的なコストをきちんとかけてこそ、
比較的うまく生きていけるようになるんじゃないかなぁ?

憎しみは猛獣なので、
馴らしつけると言ったって、
完璧に飼い馴らすことはできないでしょう。
だましだまし、なんとか付き合って馴らしつける。
それは、自分も憎しみに慣れていく行為でもあります。
これはあくまで慣れることであり、憎しみに丸めこまれることではないとして。

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『杏のふむふむ』

2018-12-06 00:46:46 | 読書。
読書。
『杏のふむふむ』 杏
を読んだ。

元祖・歴女でもいらっしゃる
モデル・女優の杏さんによる初エッセイ集の文庫版。
現在は第二弾のエッセイ集も発売されているようです。

出会いをテーマにして書かれた、
10ページ前後のエッセイがたくさん収録されています。

しっかりとした言葉遣いでいて、穏やかで柔らか。
さらには、笑えたり微笑ましかったりするし、
語りすぎないところや言葉のチョイスなどによって文章に緩急がある。
もっとも、その内容が魅力的で、夢中になって読んでしまいます。
たのしい読書になりました。

杏さんは僕よりも9歳年下のようですが、
とても内容濃く生きてこられたような印象の方で、
前にEテレの対談番組「SWITCHインタビュー」に彼女が出演されたときには
その聡明な言葉のセンスや知識の深さに驚いたものでした。
9歳年下でも、僕以上にあたまがしっかりとしています。
人生は一度きりだけれど、その人生の瞬間瞬間を無駄にしてしまうことって
けっこうあると思うのです、それも本当に無駄だなという使い方って。
たとえば、僕の人生にはそんな要素がたっぷりとある。
でも、杏さんって、そういうところが、
前を向いて一歩一歩確実に進んでいく方のように見受けられます。
その積み重ねがきちんとあるタイプなのでしょうね。

ここはネタバレになりますが、
小学生に「これで良い」と「これが良い」の違いを教えて、
「これが良い」と自分の意志による選択で日々を送っていくのっていいんだよ、
と説明しているところがあります(それも、妖怪人間ベラの恰好でなんですが)。
そういう姿勢こそが、
杏さんが人生を濃く生きてきた秘訣の大きな一つなんでしょう。

自分よりも若い人に真正面からうんうんと学べるような年齢に
僕もなったなあと感慨もありつつ、
このエッセイ集は楽しいし、刺激にもなるし、
身近に杏さんを感じてなごみもするので、オススメです。
巻末の村上春樹さんの解説で、
杏さんは「普通の女の子」と評されていますが、
そうか、それならそれで、
普通の女の子のなんと素晴らしいことよ!!と思いましたよ。


Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『ALLIANCE 人と企業が信頼で結ばれる新しい雇用』

2018-12-02 00:16:09 | 読書。
読書。
『ALLIANCE 人と企業が信頼で結ばれる新しい雇用』 リード・ホフマン ベン・カスノーカ&クリス・イェ 篠田真貴子 監訳 倉田幸信 訳
を読んだ。

終身雇用の時代が終わった現代の、
企業と労働者の関係のあり方を提案する本です。
シリコンバレーを例にとり、
アライアンス(直訳で「提携」の意)という関係を提唱しています。
著者は、イーロン・マスクやピーター・ティールなど
ペイパル・マフィアと呼ばれる一人のリード・ホフマン。

終身雇用が終わった現代、
人はキャリアアップを目指し、
ひとつの企業にとどまらず、
転職を繰り返し向上していく働き方が
主流(もしくは今後の主流)となっていっている。
少なくとも、アメリカのシリコンバレーではそう。

そこでは、会社と労働者がウィンウィン、
つまり互恵的な関係を持つようになっている。
会社は労働者に変革(小さなものも含めて)を起こしてくれることを期待し、
労働者は自らの成長のために会社が手助けをしてくれることを望んでいて、
両者の話し合いによって各々が実現される。

働き方としては、
コミットメント期間という呼び名で紹介されていますが、
短い期間のミッションを担当することになったり、
複数の部署をローテーションで担当して経験を積まさせられたり、
その両者を経て、基盤型の終身雇用的なコミットメントに
ポジションするようになったりという
三つのあり方が述べられていました。
それも、終身雇用が廃れた現代においての、
著者が考えるもっともよいやり方としてですし、
実際にシリコンバレーで行われているものとしてでした。

まず、ここまでをかいつまむと、
つまりは、会社をうまくいかせるためには、
会社も労働者もともに高めあっていく姿勢でいることが大事で、
会社も労働者もお互いにきちんと両者のことを考えあってやっていこうというんです。
よくあるように、会社が労働者へ一方的に「会社に対して尽くせ」というのではなくて、
会社の方も、会社に力を使ってくれるぶん、
あなた個人のキャリアアップのために力を使いましょうということ。
それが、職場をいろいろ変えていきながら生活するスタイルの現代に
もっともふさわしいとの結論なんですね。

さてさて、
中盤からは、「人脈はとても大事」という論説になっていきます。
人脈を開拓せよ、そのための経費は会社が持つようにしていこう、というように。
ただそこで、「人脈」を拡大するとして、
知り合った他人を道具のように思っちゃいけないでしょうね。
本書では、どういう人を知っているかは、
どういうことを知っているかに匹敵するくらい重要だと述べています。
だから、人的ネットワークを構築せよといい、
会社のOBたちとも繋がりを切るなという。

読んでいると、会社第一というか、
会社の役にすごく立つのだから、
そのために人的ネットワークを活かしていこうと読めもするのだけれど、
本当にそのネットワークを維持し良好な関係を結んでいくならば、
人は他人に敬意をもち、かつ大事にしなきゃいけない。
つまり、本書の内容を下で支えているのは、
人を大切にという考えに行き着くと思った。
本書のサブタイトルに、「人と企業が信頼で結ばれる」とあるように、
他人を自分の利益としてとらえるのではなく、
そこも、「信頼で結ばれる」なんだろうということですね。

そうでも考えないとちょっと浅薄です。
広い人脈を持っていると言われれば、
すべてドライな関係なのかなあと想像してしまう。
なかなか他人を思いやりながら多くの人々と繋がるのは難しいですから。
もしくは、調子のいいタイプなのだろうと想像してしまう。
いい顔はするが、自分の身を切らないかなと。

僕みたいな、ビジネスマンじゃない、
比較的内向的で運命的なものの影響も大きかったため
人脈の広くない人に言わせれば
「人脈」という言葉のイメージってそうなります。
「人脈、人脈」と言っている人を見ればそういうタイプばかりだったとも言える。
自分の利益になるかばかりで人を見るのはどうかなと。

だから、本書の内容にそういった補足は必要だったかなと思います。
人脈を拡げ、維持することに大切なのは、
他人への敬意を関係の底に持ち、
あたたかみを失わないことなんじゃないか、ということですね。
ま、でも、親友だとかではなくあくまで「知り合い」という人脈でしょうから、
そこまで力を入れなくてもいいかもしれない。
他人を道具と思わないこと、くらいで。

後半から終わりにかけては、
卒業生ネットワークの構築の仕方など、実践の仕方について書かれています。
そこはやはり「卒業生」なのであって、
トラブって失職しただとか退職しただとかではないわけです。
期間満了、円満退職などの
「卒業生」という前提で述べられている論だと改めてわかります。

どうなんでしょうね、日本に置き換えてみるならば。
人材不足にもなってきていますし、
会社の方でも、労働者に対して以前よりも
いろいろ譲歩するような機運をすこし感じはします。
ただ、こういうキャリアアップしていく労働者人生は、
いわゆるジョブ型の欧米人の王道の労働観だと思います。
日本もそうしていこうという論説モノを読んだこともありますし、
ツイッターを眺めていても、そういう言論を目にしたりもします。
こういった状況で大事なのは、
前向きに仕事経験を重ねたり、
勉強をしたりという自助努力と、
そしてやっぱり人脈拡大なのかなあと思いました。

世知辛さと息苦しさや生きにくさ、
そういったものを生まないように適応していくためには、
本書で示された、こういったちょっと前のめりに進んでいこうとする生き方が
キーポイントになるのかもしれないですね。
万人がそうできるわけではないでしょうから、
もっといろいろな道筋や辿り着ける場所を考えるべきだとは思いました。

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする