Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

『アメリカインディアン 聖なる言葉』

2019-09-30 21:49:10 | 読書。
読書。
『アメリカインディアン 聖なる言葉』 ロバート・ブラックウルフ・ジョーンズ+ジーナ・ジョーンズ 加藤諦三 訳
を読んだ。

アメリカインディアンの血を引くサイコセラピストによる、
人生を導く詩です。
ときおり、ラジオ人生相談で有名な心理学者・加藤諦三さんの解説もまじります。

木や石や風や火や水……etc、
自然のあらゆるものに感謝をし、受容する、というような思想が根幹にあります。
アニミズム的なアメリカインディアンの宗教的哲学から生まれでた、
ヒーリングや励ましになるもの、のみならず、
思索のきっかけになるようなことも多く出てくるアフォリズムが
詩の形式で綴られています。

また、自然を受け入れる思想がつきつめられたためなのでしょう、
自分自身を受け入れよう、自分自身と親友になろう、肉体に感謝をしよう、
というような考え方にも繋がっていくのです。
そのどれもが、スピリチュアル的な響きを持つものの、
僕にはどっちかといえば心理学的な裏付けのある考え方にとれました。

この世界のことを精霊世界と呼び、
人は(魂は)そこへ帰っていくものだとする考え方は、
ともすると、量子脳理論で考えられている意識についての捉え方と
結びつくのではないか、
などとひらめくところがありました。
量子脳理論では、意識は宇宙とつながっている、みたいな考えになっていたはず。
精霊世界とここで呼ばれるものが宇宙世界と換言すると、
おさまりがいいように感じられる。

巻末の加藤諦三さんの解説で、
「人と親しくなることではなく、
人に優越する喜びを求め出す。
それがストレスの源泉である。」
とあったのですが、これがそうだよなあと首肯するところでした。

優越のための「マウンティング」っていうのがまずありますけれど、
マウンティングしたその次にくるのは、
マウンティングした相手への支配力や権力の行使です。
そういう構造になっているのだから、
たとえばマウンティングを野放しにして、
増していくにまかせる社会というのは生きづらいし、豊かとは言い難い。
プライベート面だったなら、なおさらではないでしょうか。

まあ、そんな調子でしたが、
少しずつ読み進めていくのがいい、みたいな本です。
ちょっと読んで、頭の中で咀嚼して転がして熟成させて、
という読書をすると沁みてくるものがあると思います。

本書にもちょっと似たようなことが書いてありましたが、
急がば回れ、なんですね。
急げば急ぐほど、こころは空っぽになる、と。
何度も経験があっても、ついつい忘れがちなことだったりしないでしょうか。


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『地下室の手記』

2019-09-27 23:20:17 | 読書。
読書。
『地下室の手記』 ドストエフスキー 江川卓 訳
を読んだ。

ロシアの文豪・ドストエフスキーの、
五大長編へ続くターニングポイントと位置付けられるような作品。
人間は不合理な本性を持つものであることを暴くように描いています。
著者は、ゆえに、理性できれいに作られる世界なんて絵空事である、
というようなことを第一部では主人公に語らせている。

人の不合理性と世の中が合理性へと進んでいく、
その齟齬を見つめているところは、
現代の僕らがあらためてなぞっておいたらいい。

また、私欲とか理性のくだり、
人間の行動原理についてのところですが、
著者と議論したかったなあと。
<人間は自分にとっての善しか行わない(それは周囲からしたら悪だとしても)>、
<悪だとわかるには無知を克服していくことが必要>、
<人は他律性を嫌う>、
それら三つをドストエフスキーにぶつけてみたいと思いました。
きっとスパークするものがあったはず。
というか、僕のこういった思考の源泉、基盤となっているものの多くには、
たぶん以前読んだドストエフスキーの五大長編があるのでしょう。
だから、彼に育てられて、後を引き継いだところはあるのだと思います。

この『地下室の手記』を書いたドストエフスキーの年齢と、
それを読む今の僕の年齢がいっしょ。
だからこそ、わかる部分や響く部分ってあるかもしれない。
でも、僕も著者くらいわかっていることはあれど、
彼ほどうまくプレゼン(独白調文体でのだけれど)はできないかな。
すごく饒舌なんですよね。
私語を慎みなさい、と口を酸っぱくして言われ、
それに従わなきゃと、自分を抑えて大人になったぶん、
そういった「饒舌の能力」は育ちがよくなかったです。

言葉の巧みさと、
パソコンでたとえるならメモリの容量の大きさ、
そこが強いと思いました。
また、「地下室」のたとえも、
「こういうことなのか」と読んでわかると、
村上春樹氏が地下室のさらに地下みたいなことを言ったその意味が、
より確かにわかってくる。

それにしても、主人公の自意識がすごいのです。
自意識のすごい描写や独白部分を読むと、
自分の自意識の強い部分が刺激され、
いくらか客観的といった体で知覚されて、
恥ずかしくなります。
小さくなりたい、自分もバカだ、と思い知るような読書になりました。

第二部では、主人公の青年時代の回想になります。
バランスを崩しながら、
そのバランスをうまく平衡状態にもどすことができずに(いや、しようともせず)、
そのまま生きていくことで、
雪だるま式に不幸と恥を塗り重ねていくさまを読み、たどっていきます。
著者は「跛行状態」と書いていますが、
跛行ってたとえば馬の歩様がおかしいときにそう表現します。
なんらかの肉体的なトラブルを抱えてしまった時なんです。
それを、人生が跛行している、というように形容するのは、
バランスを崩している、というよりも上手な表現だなあと思いました。
もう、醜悪で、みっともなくて、性悪で、露悪的で、
どうしようもないアンチヒーローな主人公なんですけども、
それこそが人間だろう、とドストエフスキーは言っているんじゃないかな。

利己的だったり支配的だったりするし、
また、他律性を嫌っているのだけれど、
かといってそれを自覚できていないから、
心に引っかかるものがある状態でうらぶれる。
そして、うらぶれていると癪に障ってくるので他人を攻撃しだす。
そうすることでしか、自分を確かめられなくなっている。
つまり、それが、さっきも書いた「跛行状態」なのでした。
自律に失敗している。
自制がきかない。
そこまでバランスを失ってしまった人間が、
たどり着いてようやくなんらかの安定を得たのが、
「地下室」でもあったでしょう。
それは醜悪な自分を許容することで
入室することができた地下室だったのではないかと思います。

第一部は思想をぶちまけていて、それはそれで面白いのですが、
第二部の後半への、一気に膨らんで破裂するような、
物語がほとばしる感覚、そこはすごいなあと感嘆しましたし、
エキサイティングでした。


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利害関係ゲームはほどほどに。

2019-09-24 21:37:48 | 考えの切れ端
仕事で、
「この人は対外的にも対内的にも利害関係だけでコミュニケーションする」
と見える人がいるけれど、
そういう割り切りの方がビジネスのある方面ではうまくいくのだろう。
だけれど、すごくひっかかるし、
残念ながら僕にはとてもなじみにくいスタンスだ。

だって、その利害関係だけの愛想のよさや気配りなんかって、
利害関係じゃない場合の、
人間的なやり取りの文脈をダシにして使っているでしょう。
詐欺ですもんね。

たとえば
「いやいや、利害を考えての行動以外していません。こう宣言すると詐欺にはなりません」
なんて言われても、
そのドライさだって、
やっぱり人間的なやり取りの仕方の上に立脚していませんかねえ。

また、こういう、利害を第一に考えることをよしとする場合、
それを野生動物たちの「食うか食われるか」「弱肉強食」
みたいなことをラベリングして肯定する行為は、
社会を形成してやっていく社会的動物かつ知的動物である人間には
当てはまらないんじゃないかと思うわけです。

欲望のなすがままにならないようにルールを決め、
そしてルールに縛られ過ぎて窮屈になりすぎないように制度や権利を作ってきたこの人間世界で、
一日の大半を過ごす仕事時間をすべて、
利害関係の考え方で通すことの是非ってどうだろうと思ったんだけれど、
そこがこの世界のゲーム性なのかもしれない。

ただ、そのゲームに、
好きか嫌いかに関わらず全員強制参加っていう性格の強さ、
そういう今のあり方、はどうかと思うし、
それが人間世界の完成型ではないでしょう。
これだけ知能が発達しても、
競争社会一辺倒でそういった色合いの濃い世界なのは、
僕が思うに、知性の発達がまだ足りないからだ、ということになる。

僕が若い頃からあるけれど、
特に、異なる世代間での利害関係のみのコミュニケーションというか、
利得になるかどうかを考えただけで、
感情面を押し殺してコミュニケーションし選択し行動するというのは、
けっこう表面に出てきたりしてわかるときがある。

そんな、「ゲームである(と言えもする)人間社会」が殺伐とするのは、
利害関係での付き合い方の純度をあげたほうがプレイヤーとして有利だから、
という構造になっているからかもしれない。

ただ、利他行動が有利か利己行動が有利かは、
その時々によっての移ろいとしてあるらしい。
コンピューターを使ったプログラミングでの実験でそうでる、
と共進化の本で読んだことがあります。
そこも、どれだけ欲望が強く、どれだけ知性が強いかで変わってくるのでは
と思えるのだけれど。

また一日の大部分を、
そんな「ゲームである世界」で利害優先として生きて、
なおかつプライベートでもやっちゃうっていう良くなさはあります。
切り替えがきかない、
「仕事時間というものは利害を考えなきゃいけないゲームである」的な発想がまったくない、
だとかで私的時間すら利害の考え方に浸食されてしまう。

……と、こういうことを考えるのも、
世の中には、過ごしてきた学生時代、
少々問題はあったけれど周囲とも仲良くやれていたし楽しい時間を過ごせた、
というような人が、
仕事についてみれば周囲に食い物にされて疲弊してしまい、
脱出口がみつからないというように見えるケースが目につくからです。

職場で周囲に、
がみがみと注意されたり、あれこれ指図されたり、求めてもいないアドバイスを怖い顔でされたり、
というところまで追い込まれる人がいる。
これはきっと利害関係のゲームになじめないだとか
利害関係だとわからないだとか
対応できないだとかがその人の元にあるからだと思う。

そのくせ周囲も、
仕事時間は利害で動いている性質が強いことに気付いていないため、
そういう人を仕事時間外でも利害関係で縛ってしまう。
それはもう泥沼になっていくよなあと。
自明じゃないでしょうか。

そしてもう一つの視点から言うなら、
利害関係で動くというのは合理性が大きく前面に出てくる局面であり、
対して人間というものは本来不合理なものなので、
特に合理的な自分になりきるのがうまくない人は、
幸福感を得ずらいんじゃないかと思えるのです。

「利害で動く時間」=「合理性時間」から不合理時間に戻りたいのに、
そんな「不合理時間」=「プライベート」でも離してもらえないんですよ?
だんだんもっと合理性に対応できなくなっていくような気がしてきます。
なかにはそういうのがスパルタ式に効いて、
対応できる人もいるかもですが、それはわかりません。

僕はどうかというと、
仕事時間であっても利害関係100%でやっていくのは心苦しいので
(不合理時間の文脈をダシにして自分の利益を得る場面が特にいやなので)、
同僚とコミュニケーションをとりながら、
雑談もして、
雰囲気が窮屈ではない中で仕事をしたいほうですし、
できるだけそうしています。

ちなみに、雑談を奨励したほうが、仕事の成果があがる、
というのがANAが出した本に書いてありました。
どこだかのアメリカの大学の研究結果からもそういうエビデンスが得られる、
みたいな話だったと思います。

と、思うままに綴った「考えの切れ端」ではありましたが、
今回は、要は、それは利害行動なのかどうかを
各々が認識することが大切なのではないか、ということに収まると思います。
そして、人間は本来不合理だということをちゃんと覚えておくこと。
そういうことで変わっていくものはあるのではないでしょうか。
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『つながる脳』

2019-09-18 11:07:37 | 読書。
読書。
『つながる脳』 藤井直敬
を読んだ。

帯に、「池谷裕二氏、茂木健一郎氏絶賛」とあります。
著者は脳科学者。
第63回毎日出版文化賞受賞作。

2000年代に入りブームとなった脳科学ですが、
昨今は行き詰まり感が濃い分野になっているそう。
それはなぜなのか、脳科学研究者たちがぶちあたったいくつかの壁をまず明らかにし、
その壁を乗り越える端緒となるかもしれない研究や考えと、
それらを足がかりとして見えてくる
これからへの期待についての叙述というのが本書の主旨であり、
その基盤となっている、著者のかかげている研究目的が、
「社会的脳機能の解明」だったので、
タイトルは『つながる脳』となっています。
またそれだけではなく、
期待される侵襲型の脳研究方法であるBMI(ブレイン・マシン・インターフェイス)が
脳とコンピュータつなげるものであるので、
『つながる脳』はダブルミーニングでもあります。

これといった、決定打みたいな結論的箇所はあまりないのです。
途上のなかでこう考えている、という
著者の思考の流れを追体験するというか、共有するというか、
そういう読書体験をしながら脳科学に触れる感じです。

それでも、おもしろいトピックは多々出てきます。
たとえば、
<社会性とは「抑制」である>と著者が突き詰めて考えて得られた知見がありました。
また、サルを使った実験での上下関係の発生状況を見ると、
下位のサルほど頭を使うとも。
つまり、賢いのは上に立った者よりも抑制して下位にいる者だと。
社会性においての賢さですが。

上位にいると頭を使わなくなる。
下位の者を意識しなくなる。
ということは傍若無人的姿勢になってしまうようなのです。
人がいてもいないのと変わらないような脳の活動になるんだとか。
一方、下位の者は上位の者を意識する。
脳は抑制され、いろいろ考えだす。
これは人間でも同様ではないかと思いました。

以前目にしたツイートがソースではあるけれど、
社長くらいになると洞察力や共感力が落ちるとあった。
脳が下位の者を意識しなくなるから、頭も働かなくなる。
これはサルの実験で見られたことと一緒ですよね。
賢くありたいなら、できるだけ偉くならないほうがいいんでしょうね。
重ねがさね書きますが、社会性においての賢さという意味で、です。

初めは賢くて、
そのうちいつか権力を手中にし、
世の中をよくするために行使しようと考え、
そうなっていく政治家がいるとして。
いざ権力を手にした地位にあるときには、
その権力と引き換えに初心に備わっていた賢さは消え去っているのかもしれない。
……初心忘るべからず。

聖書の
「あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。」という文言も、
こうやって見ていくと、
実は脳科学的に適合するような考え方じゃないかと思えてくる。
「偉い者」が賢いから偉いとするならば、
小さい者こそ社会的下位で、
抑制された脳の状態で生きているのだから賢く、ゆえに偉い。

社会性は抑制だ、
というテーゼを受容して世の中をみてみると、
どういう行動が反社会的なのかがいつもと違うわかりかたで見えてきます。
すぐ偉く振る舞う人、
マウンティングしてくる人なんかは、
実は社会性がとぼしい脳の状態を欲しているのかなあ。
社会性の賢さよりも、個人の利益を重視した賢さを選んでいるのかなと思う。

最後の章では、
脳科学の実験分野の話を離れて、社会性についての著者の論述が書かれています。
幸せとはなにか、それはカネなのか、といったテーマに、
明快かつうなずける論考がなされていました。

人間とは不合理なものであることはわかりきっているのに、
経済の世界では、合理的に判断していくのが人間(経済人)として規定され、
それを元に社会が作られてきたと著者は説明します。
金融工学が生まれたことは、それらを如実に物語っているのではないか。
たとえばアメリカは、そういった合理性を重視する経済的(ビジネス重視)な国だけれども、
そうやって人間個人の不合理に目をつむり社会の合理性を最優先した結果、
不合理な人間同士で営む結婚生活などは、離婚率が50%ほどにまでなっている。

他にもこの部分を読んでいて僕が気になったのは、
アメリカの犯罪率の高さと薬物依存などが、
こういった人間の不合理性を大事にしない代償なのではないかということでした。

生きづらくない社会を構築するには、
今後、不合理性の扱いをどうするかが大きなポイントなのかもしれません。
著者は、そこのところは、トップダウンではなく、
ボトムアップで探っていく方が向いているのではないかとの意見を述べていました。
僕も賛同するところです。


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『価格と儲けのカラクリ』

2019-09-11 21:17:17 | 読書。
読書。
『価格と儲けのカラクリ』 神樹兵輔・21世紀ビジョンの会
を読んだ。

世の中に様々な商売があり、様々な商品がありますが、
それらの価格(原価や儲けなどがどのような構成比になっているか)
などを解説した本。

たとえば、ガソリンの価格では、
リッター160円のガソリンを給油したとすると、
リッター当たりのガソリンスタンドの儲けは5円程度だそう。
また、一皿108円(税込)の回転寿司の、その一皿の儲けも大体5円くらいだと。
薄利多売でやっていけるかどうか、みたいな商品だなあと思いました。

一方で、原価率が低く粗利率の高い商品も存在します。
化粧品やホテルの宿泊代、などがそう。

また、アウトレットモールでの買い物は消費者にとっても得だし、
販売者にとっても都合がいいだとか、
100円ショップでは、同じ100円の商品でも、原価が5円程度のものもあれば、
100円を超えているものもあり、それらを合わせた平均値で、
原価率がそれ相応に保たれていたりするようです。

65のトピックそれぞれに、なかなか考えさせられる「内情」が書かれています。
単なる惹句だと思えた書名にある「カラクリ」という言葉に対して、
どんどん読み進めるうちに、
「このカラクリという言葉は言い得ている」と、その印象を改めたくらいです。
それだけ、商売の世界って不要領に出来ていて、
なかなか統一だとか公平だとかにできないフィールドなんだなあと思いました。
そこが面白みでもあるし、得をする人は得をし、カモにされる人はカモにされるという、
世知辛さを生んでもいるでしょう。

日本は特にそうなのかもしれないけれど、
まず、商売の網の目をちゃんと視覚で捉える事ができ、
なおかつカラクリを知覚して適応するような人が成功しやすそう。
そこを最優先にしたほうが得をするという構造上の欠陥があるがゆえに、
社会に役立つだとか、人を幸せにするだとかが本当に実現するケースが
見当たりにくいのかもしれないですね。

計算ができたり、よく気がついたり、
そういった能力が他の人より自分は秀でていることに気付いたとき、
「しめしめ……」と、自分の得のためにこっそり使うのか、
はたまた、「じゃ、まかせてくれ」と、みんなの利益のために役立てようとするのか、
そこがその人の人生の分岐点だったりします。
この「カラクリ」を活かすのもそう。
人間性がそういうところに出る、なんて月並みな言いかたではそうなりますが、
たぶん、そういうときには、それまで自分が家庭環境や世の中で経験して培われた
人間観だとか世界観だとかが材料になるんですよね。

これはいろいろな場面でそうで、
たとえば接客業でも同僚たちとの間でもそうですが、
仕事の上でのコミュニケーションで、
どれだけ積極的にコミュニケーションを取りに行くか、
その頻度や深度、
つまり、どこまで他者を信頼したり信用したりするか、
そして、どこまで他者を許せるか受け入れられるか、
また、どこまでいったところで他者を諌められるか、逆に謝ることができるか、
そういったところに、その人の人間観や世界観が出ます。
もちろん、もともとの内向性や外向性も加味されて、
行動というアウトプットにでるんですけども。

閑話休題。
話がそれましたが、
本書は、とにかく、世の中の商売にはいろいろカラクリがあるよ、
ということを、スポンサーフリー的立場から教えてくれる本です。
大手出版社からの発刊じゃないからこそ、書けた本なのかもしれない。
どこそこの業界には恩があるから、これは書かないでおこう、濁しておこう、
などとはなっていないと思います。
読み手の僕自身が詳しくないところでは、「ほんとうにそうなのだろうか?」
と訝るような内容もあったのですが、
そこは正確な解説文だったのかどうかは判断できませんが、
自分がなんとなく知っている分野では詳しくちゃんと書かれていましたから、
適当ではないのだろうとは思います。


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『ナイフ投げ師』

2019-09-10 20:54:41 | 読書。
読書。
『ナイフ投げ師』 スティーブン・ミルハウザー 柴田元幸 訳
を読んだ。

ミルハウザーとしては第三作目の短編集ということです。

想像力で生まれたものを、哲学してふくらませているように見えてきます。
そういう作風だな、と僕は感じました。
さらに、描写が緻密だし、
「そこまで奥深く見ていて、かつ、それを言葉にしたか!」と
ちょっと舌を巻いてしまうくらい(というか、呆れるにも近いのだけれど)、
作家は静かに見通したり感じたりしている。
つまりは、たぶんかなり多くの時間をかけて、
自らの言語能力と言語未満での感性を磨き、育んできたのだと思う。
その結果、生まれ出たのがこの短篇集の作品たちだ。

でも、
いや、まてよ、と思う。
文章を読んだ感覚では、想像してから哲学してインフレーションを生じさせて
豊かな物語世界を作り上げたように思えたものが、
もしかすると、
哲学してから想像力で膨らませたのかもしれない、とも思えてくる。
執筆を「物語を設計する」としたときには、
この後者の順序の方がしっくりくるような気がします。
でも、本当のところはわからない。

作品によっては、自身の執筆についてだとか、
小説家としての自分自身について、
物語の形を借りて自己言及しているのが、
彼のそれらの作品の核心部分なのではないかと思えるところもあります。
今作品に登場する、自動人形作家しかり、遊園地の支配人しかりです。
そうであれば、登場人物たちのような、ある意味での袋小路に彼もはまりかねないし、
自らの物語で語ったことが今後の彼の作風まで照らしてしまい、
さらに目新しさや驚愕をもはぎとってしまい、
新たな作品を書いたとしても、それまで彼を追ってきた読者は、
残念ながら再読するような気持ちで初見の作品を読む、
みたいな気分にさせられるかもしれない。

しかし、どうなのだろう、彼ら登場人物たちの「果てまで追求したワザと思考」には、
究極とともに、奥深い闇をたたえた陥穽が横たわっていることを、
ミルハウザーは物語を作るために深く考えたことで心得ているから、
その究極の淵の部分を慎重に歩くように執筆しているのではないだろうか、とも思えてくる。
だから、物語の登場人物のように、究極に飛び込むことはしていないし、
これからもしないのではないか。
まあ、わからないですが。

というところですが、
なかなか興味深く、
その、現実味をもたせながら想像世界へ飛翔する技法をもう少し見てみたいので、
またいつか、ミルハウザーの作品に触れることになりそうです。
しっかり読んだなあ、という重みというか質感を感じた読書でした。


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8月期無更新を経て。

2019-09-05 13:48:30 | days
こんにちは。

久しぶりの更新になりますが、
それでも今回の更新は挨拶程度ですので、
お楽しみになっていただくのはまた次回ということで。

読書。
8月は一冊も読了できませんでした。
仕事は繁忙期で、
家庭ではおふくろの介護の手伝いをちょっとだけしていましたが、
その介護をもてあます親父の暴力的言動や行動に、
こっちの心身が耐えきれないため、毎日どこかへ外出。
心身を消耗させないことを優先するという選択をして、
金銭と時間をその代償としました。
そのため、読書もなかなかできないし、
思索も深くは進んでいかないわけでして。

ただ、今回自覚しましたが、
どうやら運転時間中に内省しているんですよねえ。
一人きりになれる時間と空間はそういうときしかなくて、
そういう時間にこそ、内省ってやっとできるのかもしれません。

短編小説のほうは、例年とは違うところに応募しました。
まだ結果は出ていません。

おふくろはたぶんまた入院の運びになります。
来週中かな、という感じ。

おふくろを在宅で看る、おふくろの健康を優先する、
という行為をずっと選んできて、
僕の、自分の人生の多くが犠牲になっていったと思う。
時間や金銭はもちろんそうなのだけれど、
損なわれてしまった人的資産(昔からみての、未来のものも含めて)、
そして、自分の心身の健康。

自分のこころについては、
おふくろがこういう病気だということを秘めることで負った深い傷があり、
それを癒して再構築するために、
実に多くの時間を費やしたと思います。
ただ、その途上で(今も途上ではありますが)、
得たものはとても大きかったし、
合い間をみて読んだ読書や、小説を書く過程での思索によって
自分の中に生まれた知見や感情や、人間らしさというか生物らしさというか、
まあ、うまくはいえませんが、人生修養がいくぶん深くできたのは確かです。
苦しみは、人生へのよく効くスパイスだなあと、
身をもってわかるような感慨があります。

また、8月は転職活動もしていたんですよ。
8月のあたまから丸々一カ月かかりました。
45歳以下の事務職の募集があり、
面接試験と作文試験(原稿用紙2枚まで)を受けました。
しかし、たぶん経験不足と椎間板ヘルニア持ちなのが引っかかって、不合格でした。
作文は、①まちづくりについて期待すること、②仕事に対する姿勢について、
という二つのテーマから選べというもので、僕は①を選び書きましたが、
性格的なものがあるんでしょうけれども、
2枚の原稿用紙を、攻めた内容で埋めてきました。
もしも作文で落ちているならば、
あの内容を受けとめきれない組織だということなので、
それなら入社しても窮屈だろうし、不合格でよかった、ということになります。

そんなこんなで、
9月に入ってしまいました。
近々読了できそうな小説と解説文ものが一冊ずつあります。
また、更新していきますので、今後ともよろしくお願いいたします。
待っていてくださった方々、ほんとうにありがとうございます。
またいろいろな本や考えを紹介していきますから、
読んでやってくださいまし。

それでは、今日はこのへんで。
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