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Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

『チョンキンマンションのボスは知っている アングラ経済の人類学』

2025-01-31 01:16:05 | 読書。
読書。
『チョンキンマンションのボスは知っている アングラ経済の人類学』 小川さやか
を読んだ。

香港にある安宿、チョンキンマンション。そこには貧困国タンザニアからやってきた多くの人たちなど、多国籍の人びとが住まっている。それぞれが、さまざまに、インフォーマルな仕事をしながら。ブローカー業、衣料や雑貨や家具そして家電製品などを仕入れて母国で売る商人、セックスワーカー、地下銀行業者など。そして明記はされていないけれども、麻薬の販売や窃盗、詐欺などをしている者も少なくはないはず。

そんなチョンキンマンションの「ボス」を自称するタンザニア人のアラフィフ男性・カラマが、論考的エッセイである本書の最重要人物として登場します。著者は偶然にも彼と出会い、それから友好関係ができあがっていき、そのうち彼の連れのようになり、ともに日常を送っていくことで見えてくるものがあったようです(著者は経済人類学者なので、「見えてくる」ことを最初から企図して彼に帯同しているのでしょうが)。見えてくるものとは、商売目的で香港に(長期にしても短期にしても)滞在しているタンザニア人たちの商売の成り立ち方、そしてコミュニティのメカニズムなのでした。そこには、西洋化した資本主義社会から見れば独特の仕組みが息づいており、彼らは香港の商業文化や制度、法律などを受けるかたちで衝突や摘発から逃れるために知恵を使い自らの態度を変化させ、うまく適応したかたちで自然と独自の仕組みが発現してきた、と言えるところがあります。

また、香港で商売をするタンザニア人たちのやり方は、昨今の、Airbnbやサブスクなどのシェアリング経済と仲間内での「分配」という意味合いでの類似性も見出されていましたが、タンザニア人たちの「分配」には分配する者とされる者の間に生じる権威や負い目を回避しながらも「お互いがともにある」と思い合えるマインドがありました。言ってしまうと興ざめですが、約束をいちいち守らなかったり、いい加減さが緩衝材の役目をしたり距離を保ったりしています。

他に、Amazonや食べログなどがイメージしやすいと思いますが、利用者が出品者や飲食店に星をつけて、かれら事業主の信用度を評価するという評価経済型システムが有する「排除の問題」を回避する仕組みがあることも指摘されていました。星が低いと信用度が低いので淘汰されていく、というのが排除の仕組みで、評価経済は行き過ぎるくらいに責任感や気遣いを強いる傾向があります。これは、評価経済に参加している社会全体でおしなべて強迫観念が強化されることを意味するでしょう。タンザニア人たちは、仲間への親切や喜びや遊びを仕事にするというマインドがまずありまず。それでいて「誰も信頼できないし、状況によっては誰でも信頼できる」という集まりなので、一度裏切りがあったとしても、状況が変わればその人の立ち位置は変わりもするので、信じてみることを選択するほうが得策ということにもなり得るのです。これは、強迫観念的な「是か非か」「0か1か」「白か黒か」といった二分思考の枠外にある思考法ではないでしょうか。二分思考は強迫観念をあおるので、やっぱり生きやすさを考えれば、二分思考ではないほうがよいのでした。

読み進めていけば、これは本書の背骨に当たる箇所だなと思える部分はなんとか判別がつき、その尻尾はつかめるのですが、タンザニア人たちの生き方が、あまりに日本人に内面化しているあれこれを刺激したり、俎上にあげたりするものですから、頭も気持ちもぐらぐらぐにゃぐにゃしながらになりました。それでも、海外に滞在してみないと、そういったギャップやショックを受けることはまずないですから、家にいながらそういった経験が少しでもできるのはよい経験です。

また、香港でセックスワーカーとして稼いだタンザニア人女性が帰国して、そのお金を元手に化粧品会社を立ち上げ、母国では誰でも知っている大成功者になっているそうです。もちろん、セックスワーカーの過去は封じ込められている。時代や国を問わず、こういう成功譚ってたぶん珍しくないのではないかな、と思います。秘められているだけで、社会に出たときにはロクなことをしてなかったけどその後大成功して地位を手に入れた、というような。

というところです。読んでみて、「サバイブ」の片鱗でもいいから自分のものとできたら素晴らしいと思います。本書からなにをフィードバックするか、そして実際的に遂行できるかが肝ですが、おそらく、こういったオルタナティブな方法論があるんだよ、といったことが多くの人たちの間に広まることが、いちばんインパクトが生じるムーブメントではないでしょうか。勇気ある誰かが率先して実践してみた、という現実が最初の一押しになったりもするでしょう。小さな一部分であっても、仕事へのアイデアで、組織のありかたででもいいですが、なにか応用が効いたものが採用されるなんてことがあったらすごいですよね。そういった、小さな一歩と全体の空気感の変容と。同時に進むと世の中にはなにか変化が生じるのかもしれないですね。



では、引用をいくつか。

_________

「(略)サヤカ、香港のタンザニア人が病気になる一番の原因は何だと思う? 多くの人は、最初に物事の調整ができなくなるという病にかかる。その後に(アルコール依存症の)本当の病気になるんだ。(香港と母国とは物価が違うので)俺たちは母国ではありえない額のお金を稼ぐ。誰でも考えるさ。香港で一皿を買うお金でタンザニアでは何人が食べられるのかとか。それでもっと稼ぐために何にしたらいいか、どんな商売に投資しようなどと仕事のために頭を働かせる。けれども思いがけずボロ儲けする日が続くと、これからもどうとでもなる気がしてくる。逆にぜんぜん稼げない日が続いたら、突然すべてのことがむなしくなる。こんな遠いところまで来て俺は何をしているんだと。きっかけは人それぞれだろうけど、もうどうでもいいやって気分に陥ることは誰にでもある。そうして仕事をやめて暇になると、稼ぐことに頭を使っているうちには考えなかったことに悩まされ始める。母国と香港の生活のギャップとか残してきた家族とか、せっかく香港にいるのだから自分の人生を楽しもうとか犯罪行為をして楽に稼ぐ仲間がうらやましいとか、あいつが稼げて俺が稼げないのはなんでなんだとかさ。この時点では大した病じゃない。大部分の人は悩むことに飽きて、しばらくして普通の日々に戻る。だけど商売は大事なんだよ。頭を働かせるのをやめたら、そこから先の転落はあっという間だ」。そしてこうつけ加えた。「こじらせて犯罪者になったり不治の病になったりした仲間がいたとして、そんなやつはどうでもいいとはならないよ」(p81-82)
_________

→カラマの言葉です。商売に明け暮れていれば(でもタンザニア人は1時間くらいしか働かない人もいて、遊んだりネットで動画をみたりして過ごすのは珍しくないのだけど)、悩む心配はいらない。悩むとロクなことにならないから、香港へ来て「悩む」という洗礼を浴びても、また商売へ復帰するのがいいのだ、と説いているような箇所です。また、「そこから先の転落はあっという間だ」というところ、泳ぎ続けないと死んでしまう、みたいだしとてもシビアな現実が反映されているのですが、最後につけ加えた「そんなやつはどうでもいいとはならないよ」が、競争社会で資本主義社会の日本や西洋化した社会には無い、包摂や連帯の意識だなあと思いました。こういうところを日本にも導入できればいいのにって思っちゃいます。


_________

「毎日(パキスタン人の中古車ディーラー)イスマエルに会いに行けば、彼は俺を自分の子分のように思い始めるだろう。イスマエルが怒るから彼の言うとおりにするなんて態度をとっていたら、彼は俺を自分の従業員のように扱うようになるよ。俺は、パキスタン人と何年も仕事をしているから、これは予想ではなく事実だ。もしイスマエルに雇われたら、彼だけが儲けて、俺は彼の稼ぎのために働くことになる。俺たちアフリカ人が、香港の業者と対等にビジネスをするためには、彼らが俺に会いたいと恋しがる頃に会いに行くのがちょうどいいのさ」
 カラマは、本気で彼らを怒らせないように時々なだめる必要があると言いながらも、そもそも自分たちを対等であるとみなしていない人々に対しては、「扱いやすい人間」にならないことが肝要であると説明した。(p98)
_________

→カラマは商談さえ遅刻したりすっぽかしたりするのですが、それには上記のような考えが存在しているのでした。これ、パキスタン人とタンザニア人の間に限らず、僕らの社会にも使えそうじゃないですか。たとえばマウントを取られ続けて、相手が自分を下と見なすようになると、相手は自身が得するために自分を使うようになります。そういう相手には、遅刻やすっぽかしで勝負したいですが、なかなかそうはいかないでしょうから、「怒るから言うとおりにする」というのは避けるなどが有効かもしれませんね。対等って大事ですよねえ。



引用はここまで。香港のタンザニア人は「商売」がまっさきに頭にあるひとたちで、だからこそ、実にうまいぐあいに人間関係が成り立っています。たぶん「商売」というものを、場合によっては巧みに名目的にも利用できるからなのではないか。「商売」という看板に、面倒くさいものを背負ってもらって、その場をしのぐみたいなシーンはありそうです。

重ねて言うことになりますが、カルチャーショック的な、いい意味での「ぐらぐらする感覚」を覚えた読書でした。こうして書いてみても、書評としてはかなり不完全ですけれども、自分にとってのここぞの部分は書き残しておいたつもりです。





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『故郷/阿Q正伝』

2025-01-24 23:25:04 | 読書。
読書。
『故郷/阿Q正伝』 魯迅 藤井省三 訳
を読んだ。

20世紀初頭、清王朝から中華民国、中華人民共和国へと激しく移り変わっていく時代に、文芸による革命を信条に創作をつづけた魯迅の新訳作品集。魯迅は若い頃、日本へ留学して東京や仙台で7年余り暮らし、漱石や芥川の影響を受けた人です。

最初の短編「孔乙己(コンイーツー)」から心をぎゅっとつかまれました。「孔乙己」は馬鹿にされ舐められきってしまった、貧しい男です。科挙に受かるほどではないのだけど学はあるほう。彼に焦点を当てる意味とはいったい、と考えながら読んでいました。彼がひとときの楽しみのために通う酒屋、そして日々の暮らしのなかで、彼の周囲にいるあまり学のない庶民との対比、そして苦しい境遇に食い殺されて盗みを働きそれをあかるみにだされ、揶揄われ蔑まれる「孔乙己」。

読者は何を問いかけられているのか。こういった暮らしの苦しさや悲劇、愚かさを文学にすることで、この表現が、孔乙己と彼的な人物を馬鹿にしてしまうに違いないおのれの気持ちを、見直せるチャンスとして機能するのだろうと思えました。社会の倫理的欠陥をあぶりだして問いかけている、と。ですが、それだけを考えていくと、文学的目論見として少々あざとい感じがしてしまうのです。もっとこの短編の細部に注目して、とくにその愚かさの心理のメカニズムを読み手自身の内部からえぐりだすようにして考えてみたり、どうして孔乙己という男が社会的弱者にならねばならなかったのか、と社会学的に社会構造や世間の空気などを考えてみたりと、そういった読みを試みることにまた違った意義がありそうに思えるのです。つまり、短い小説ながら、引き出せる知見に満ちているに違いない匂いがするのでした。

次に、短編「故郷」。これは、故郷の実家を引き払うために帰郷する主人公の話です。その最後に書かれている彼の希望の感覚を知ると、希望を持つことに対しても油断をしていないし、希望と夢といったものとは違う捉え方をしているし、そこが中国人なのかもしれないという気づきがありました。去年、華僑の本を読んでうっすら残る現実主義のイメージとも重なるのです。生き延びるため、サバイブのための、長い歴史に磨かれた本性、あるいは民族性を見た気がします。



「故郷」も「孔乙己」や「阿Q正伝」のように、底辺で生活する社会的弱者が描かれています。引用をします。
__________

「とてもやっていけません。六男も畑仕事が手伝えるようになりましたが、それでも食うに事欠くありさまで……物騒な世の中で……どこへ行っても金を出せというし、決まりっていうものがなくなりました……それに不作で。育てた作物を、担いで売りに行けば何度も税金を取られるんで、赤字だし、売りに行かなきゃ、腐るだけだし……」
(中略)
閏土(ルントウ)が出て行くと、母と僕とは彼の暮らしぶりに溜息をついた――子だくさん、飢饉、重税、兵隊、盗賊、役人、地主、そのすべてが彼を苦しめ木偶人(でくのぼう)にしてしまったのだ。母が僕に言った――不要品はなるべく閏土にあげよう、彼自身に好きなように運ばせたらいい。(p64-65)
__________

→主人公は幼い頃にいっしょに遊びながら憧れた、同世代の子どもだった閏土。彼は使用人の子どもだったのですが、帰郷した主人公が彼との再会で、子どもの時分にはまぶしく輝いていたまるで英雄のような男の子が、そのまま英雄として大人になっておらず、煤けて輝きが失せたような人物になったことに、哀しみをや寂しいものを感じました。そののち、上記の引用のような気持ちになるのです。

この「故郷」を締めくくる最後の一文が名文です。引用します。
__________

僕は考えた――希望とは本来あるとも言えないし、ないとも言えない。これはちょうど地上の道のようなもの、実は地上に本来道はないが、歩く人が多くなると、道ができるのだ。
__________

→魯迅は文芸で世の中を変えようと考えた人です。言葉を学び文学を味わうことによって大衆の知的レベルを上げ、その結果、世の中の悪しき倫理的欠陥が解消されていくと考えている。一人だけが勉強をするなど、ばらばらに、単発で行っていては道ができない、とこの引用から読み取ることはできると思います。多くの人が同じベクトルで(それは文学を読み、言葉を学ぶこと)進んでいけば、道すなわち希望が現れる、と魯迅は言っているように読めました。



代表作として挙げられる「阿Q正伝」の主人公・阿Qは憎めない悪漢で、やはり底辺でなんとか生きていて、学はなく、なんとか悪知恵のたぐいをしぼって生き延びている。この小説にはもうエンタメ要素があって、可笑しさを感じながら悲しみや憤りを感じられるような、読み手の感情の振幅に大きく影響する小説だと思いました。

また、魯迅のエッセイが『朝花夕拾』という作品集から多数選ばれているのですが、これがいいんです。「お長と『山海経』」がとくに。ユーモアが利いていて、そして微笑ましく、結びもぐっときました。村上春樹さんが好きな人に合いそうな感覚でした。カポーティの『クリスマスの思い出』が好きな人にもおすすめできます。



といったところです。解説によると、大江健三郎さんや村上春樹さんも魯迅を読みこんでいるそうです。この光文社の新訳は読みやすくて、近代小説が書かれた時代と現代との隔たりからイメージされるような堅苦しさはほぼないです。たとえばさきほども触れたエッセイに関していえば、魯迅の血の通った感情が文章に封じ込められていて、みずみずしさすら感じながら読めてしまいました。近頃思うのですが、時代の古い作品だからって、敬遠することはないですね。同じ人間が書いたものとしてそこに共感は必ずでてきますし。清少納言だって、ドストエフスキーだって、やっぱり同じ人間なので「姉さん!」「兄さん!」と思って読めちゃうものです。そして魯迅も、「兄さん!」感覚で読めること請け合いなのでした。






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『非線形科学 同期する世界』

2025-01-17 23:53:10 | 読書。
読書。
『非線形科学 同期する世界』 蔵本由紀
を読んだ。

「同期(シンクロ)」をキーコンセプトとして、さまざまな興味深い現象を見ていき、そして、その都度、その現象を起こしている「同期」について解説しながら、「同期」そのもののイメージを深めていくような本でした。

17世紀、オランダで活躍した科学者ホイヘンスのよって、並べたふたつの時計の振り子が同期する現象が報告されたのが、この分野の起源とされているそうです。ここからこの分野の話が開始されます。この時点で、「同相同期」と「逆相同期」が解説されているのですが、ならべた時計の振り子が同期して、同じように左右に振れているのが同相同期で、片一方が右に振れたときに他方が左に振れるのだけれどもリズムはいっしょというのが逆相同期です。

同期はさまざまな現象の仕組みに備わっていることが本書ではさまざまに紹介されていて、なるほどなあ、と膝を打つことばかりだったのですけれども、僕もひとつ思いついたのが、DVのある家庭環境で育った子どもが暴力に訴えるようになったり、自分の子どもができたときにDVをはたらいたりする世代間連鎖が同相同期なのではないか、ということでした。さらに気づいたのが、DV家庭で育った子どもが大人になって非暴力の人となっていた場合、それは非同期の可能性がありながら、逆相同期の可能性も捨てられない、ということでした。逆相同期だった場合、それは親を反面教師とした場合ですが、逆相での世代間連鎖だと言えるでしょう。

といったことを考えるとさらに気づくことがあります。世の暴力は、個人がその先代の暴力、そのまた先代の暴力、といったふうに、どんどん先祖にさかのぼって受け継いできたと考えることができて、つまりは、ずうっと昔の先祖から世代間連鎖として受け継いできてしまった負の要素だと考えられるのですが(こういったことの解説をする本『恐怖と不安の心理学』もあります)、同期を破綻させることができれば、悪しき連鎖から逃れられるのではないか、というのがその気づきです。

p37-38に同期の破綻について書かれています。それによると、同期状態にある一方が、同期が成り立たないような速いペースで動くと同期は破綻する、とあるんです。

ちょっとややこしくなるかもしれませんが、ここでひとつ例を書いていきます。とある田舎の話です。田舎ですと、もっと都市部の高校に進学したほうがこの子のためになるから、なんて言い方がされるものです。カリキュラムや授業の質の違いが大きいというのはあるでしょう。できない子に合わせないといけないとかで、できる子にとっては学校で教えられるものが物足りなくなります。

同時に、知らずに周りに合わせる心理が、学力の伸びに関係がありそうでもあります。これは同期現象としてです。田舎の高校にいたままで伸びるには、同期を破綻させないとならない。さっきも書きましたが、同期が成り立たないような速いペースで動くと同期は破綻するのでした。同期していた集団からは、「裏切り者」「見捨てるのか」「あいつは俺らとは違うつもりなんだ」などやっかまれたりすることがあります。それをも振り捨てて、速いペースで生きる。それができる人は非同期でいられる。能力ありきということになるのでしょうか。場によっては、孤高になりますね。

僕みたいに在宅介護をしていると、介護面では人と同期するのがほんとうだし(他者への尊厳をもって接するからです)、でも、介護をやりながら自分のしたい仕事なり勉強なりをするときには非同期でいたい、となります。その境界を作ろうにも、境界線ははっきりひけるものじゃありません。そこのつらさがあるんです。頻繁に非同期への侵犯がある。

同期には同期を保つ引力があり、それを破綻させるには速いペースで振り切らないといけません。同相同期からも逆相同期からも逃れる非同期とは速く走ること。なかなか大変だと思います。

ここにはおそらく、自律性が関連してくるでしょう。また、他律性を嫌うこととは幸せや生きやすさへの条件の一つと僕は考えているのですけれども、他律性を多方面から受け続けるということは、同期ということになるでしょう。

話を戻します。世代間連鎖を破るための非同期を達成するには、自分が親よりも速いスピードで動くとよい、という抽象的な答えが出ました。具体的に考えると、親を超えろ、ということでしょうか。同じジャンルではなく、自分が好きな、進みたいジャンルで、速いスピードで生きていく。コミュニケーション面では寂しくて悲しいことではありますが、同期を破綻させるためには、親に話を合わせず、自分の世代だけでの言葉や考え方を貫く、というのもありそうです。親世代に暴力の匂いを嗅いだら、という前提ではありますし、ここに挙げたいずれもが、僕の仮説であることは断っておきます。

それを踏まえた上で、音楽デュオ・YOASOBIさんによる『祝福』というガンダム作品のオープニング曲の歌詞を引用します。

* * * * * *

誰にも追いつけないスピードで地面蹴り上げ空を舞う
呪い呪われた未来は君がその手で変えていくんだ

* * * * * *

ここ、好きな部分なのですけど、同期し続けてると避けられないようなかりきった暗い未来は、非同期で変えられる、と解釈できるでしょう。

速いペースで生きることは、自分にとっての許容ペース内でないならば、生き急ぐと言われるようなことになりそうです。でも、一度同期を破綻させてしまえば、ずっと速いペースを維持しなくても良いのかもしれないです。


ここからは引用をふたつほど。
__________

いずれの例においても、平均場は個々の成員の動きを支配すると同時に、逆に成員の動きの全体が平均場を作り出しています。それがここで言う個と場の相互フィードバックです。人間社会でも、これに似た状況はいろいろ考えられます。たとえば、個人の考えに影響を及ぼす世論が個人の考えの総和で形成されるのは、その一例と言えるでしょう。個と場の相互フィードバックが強く働くシステムでは、集団全体を巻き込む突然の秩序形成や秩序崩壊がしばしば起こります。(p96-97)
__________

→場というのが個の総体としての影響からできてきますが、その場が次には個に影響を与える。そして場から影響を受けた個がさらに場を作る、という繰り返しでたとえば共同体はできている、ということですね。


続いて、
__________

(略)「個と場の相互フィードバック」という考えかたにあります。実はそこでの「フィードバック」の内容をもう少し丹念に調べますと、それはプラスのフィードバックとマイナスのフィードバックの両方を含んでいることがわかります。再びミレニアムブリッジの揺れに即して述べますと、プラスのフィードバックとは、場が揺れ始めると、そのこと自体がますます揺れを強めるように働く性質のことです。じっさい、場の揺れは個々のメンバーに共通して作用しますから、場が揺れれば、個々人の歩行はもはやばらばらではなく強調したものになるでしょう。ところが、場の運動はこの運動の総体が生み出すものでしたから、この協調運動は場の揺れをますます強めます。これがさらに個と個の協調運動を強める、というように、加速度的に揺れを強めようとする傾向をこのシステムはもっています。これがプラスのフィードバックです。(p99)
__________

→プラスのフィードバックとは、雪だるま式に物事が大きくなっていってついにはどうにもできなくなることもこれにあたります。「悪循環」という言われ方もされるときがあります。この反対に、マイナスのフィードバックがありますが、それを人工的にプラスのフィードバックを打ち消す形で起こせるのかどうかは、よくわかりません。ここまでわかれば、具体的にどうすればよいかの方策まで、あと一歩という気がします。


最後に。情報化社会となり、多様性が進み、変化のスピードはが加速している現代なのですから、中央集権でやっていくにはもう追いつけない時代なのではという気がしてきました。それは本書の最後で解説された「自律分散型」の地方分権のほうが少なくとも処理能力の点では上じゃないのかな、とわかったからです(それとも、行政の体質が今のままでは変わらないでしょうか。どうして行政って、やらないための理由探しにばかり頑張るのだろう。そこだけがやけにクリエイティブですし……)。自律分散型の詳しいところは本書や他の解説書に譲りますが、たとえば電気送電網でスマートグリッドと呼ばれる新しい仕組みはこの自律分散型です。個々がそれぞれを慮るような仕組みで、やっぱり同期を関係しているのでした。

仕事上で自律分散型を考えると次のような事が思い浮かびます。たとえば多人数いる職場で、まだまだ仕事はあるからできうるだけの速さでやれ、と際限なくスピードを要求するようなのってありますよね。彼女はもう7つこなしたのに君はまだ2つ目か、と叱責されて、早くやれとせっつかれる。人数をそれぞれ個の量としてばらばらに考えているケースです。これを多人数をひとつのシンクロした塊として扱うと、速い人は遅い人に合わせてゆるめ、遅い人は速い人に近づくように少し急ぐという同期のスタイルになります。速い人が遅い人を手伝うというのもこれにあたるでしょう。平均したスピードで、平均的仕事量をこなしていける。自律分散型ってこれですね。



というところです。和を以て貴しと為す、の和は同期現象のことかもしれないですね。とすれば、和をもって同ぜず、の和もそうです。この場合は、「しがらむことなく、でも仲良くやる」、ってことでしょうか。個人の好みや趣向では同調しないけれど、ひとつのコンセプトや目的に向かっては協力するという意味ですかねえ。そういえば、坂本龍一さんは2010年代にasync(非同期)をコンセプトに曲を作っていました。そしてその発想源は非同期を提唱した哲学者ジャック・デリダからでした。僕もいずれ、難しそうなデリダを読むときがくるのだろうか。跳ね返される覚悟で、そのときは挑みたいですね。






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ちょい出し「僕の人物像」

2025-01-15 14:44:02 | days
「僕」という人について、たまにここで語ったりしますが、人物像についてあまり情報を公開していないかもしれません。今回は人物像情報の「かけら」とでもいうべき、些末なことがらをすこし書いていこうと思います。

まず、「ハゲ」から。

僕の親父も祖父もつるつるにハゲた人で、親父なんかは僕が物心ついたときにはもうハゲていました。僕が子どもの時分、親戚にも友達にも「将来はもう決まったな」みたいに言葉でも言われたし、言外の表現でも感じてきたものです。それは「諦めるほかない」「しょうがないことなんだ」というなぐさめの裏におかしみを隠した体でした。

そういう周囲の環境で育つと、「ハゲ」はよくないこと、格好悪いことという意識が刷り込まれていきます。時代的にもハゲは大笑いされるものでしたし、負い目を負わすものとしてそれはあったような気がします。こういうのは女性からの視線や判断が大きくモノを言う気がするのですが、昨今の女性の多くの意見として、毛が薄い、ハゲというのはどうなっているのか、というのは気になります。

で、僕は人生半ばを過ぎましたけれども、ハゲていません。「絶対にハゲるもんか!」「意地でもハゲてやるもんかい!」という強い気持ち、そして、「神様、どうかハゲるのだけは勘弁してください、ハゲるのでなければどんな苦しみも受け入れます……」という心からの願い、それらが功を結んだのです、今のところ。(しかし、家庭環境的に大きな苦しみがあるのは、まさかその願いが叶う代償なのか、と今「ハッ!?」としましたが)

次に体重。ここでダイエット報告連載をしたこともありますが、もう80kg台を切ったのはかなり昔の話になります。最近は74kg台です。今年はほんとうに、運動不足とカロリーコントロールに気をつけたくなっています。年末までに70kg切れないかなあ、なんて。体重を落としていって、目標に近いところまで行くとリバウンドするので、そこ考えないと、なのでした。落とすよりもずっとキープが難しいタイプなんです。20歳の頃は66~68kgくらいだったはずで、すごくうまく行くようならば、その範囲に入りたい。

あと、ずっしり沈んだメンタル面は回復を待つほかないです。今までのように「しょうがなく休む」ではなく、「休んでおこう」と自分から休んだほうがどうやらいい。親父からの精神的暴力などによるパニック症状は頓服薬をもらっているのでそれ頼み。すごく効くときもあれば、あまり効いた気がしないときもありますね。ただ、「回復してきたら筋トレを開始しよう」と目論んでいましたが、それが二、三日前からできるようになりました。もっと暖かくなればウォーキングも再開したい。体力を回復すれば、長期の執筆期間に耐えうるんじゃないか、と。今度は200枚以上のものを書きたいですから。

あと自己分析を、本を読みながら気がついた面などをきっかけに進めるときがあります。タイプとしては、会社や組織に所属して働くとまいってしまいやすいようです。人格形成期の影響など、しょうがないことがありますからねえ。この分野はまだ活路を探りつつになります。いちばんいいのは、フリーランスでお金を得られることです。

といったところです。悲観的にならず、かといって無根拠な楽観性に溺れず、地に足がついた状態で前を向いていたい一年にしたいですね。正月のあいさつと重なりますが、みなさまもよい一年を。


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『第5コーナー 競馬トリビア集』

2025-01-10 20:40:51 | 読書。
読書。
『第5コーナー 競馬トリビア集』 有吉正徳
を読んだ。

競馬読み物です。記録、データ、ジンクス、血統ドラマ、人間ドラマ、競馬にまつわるおもしろい偶然。そういったもののトリビア集。

書名の『第5コーナー』とは。競馬場は第4コーナーまでしかないコース形態をしています。そんな、存在しない「第5コーナー」という架空の名称を戴いたのは、まだ誰も触れたことの無い記録やエピソードを残すことに挑戦しようと決めたからだとありました。架空ではありますが、誰も走ったことの無いコーナーに読者を誘う意味合いにも取れ、ユーモアが感じられます。

日本軽種馬協会発行の『JBBAニュース』という月刊誌に著者が2008年から書いているコラムがこの『第5コーナー』で、本書が書かれた2020年5月時点までのデータが元になっているそうです。

繁殖の観点から、やっぱりサンデーサイレンスとディープインパクトはすごいなあ、とずば抜けた実績に今でも唸ってしまいます。競走馬として日本競馬の最高傑作と名高いディープインパクトの父がサンデーサイレンスですから、この馬が輸入されたことが日本競馬会の大転換点となったことは、素人目にもよくわかるくらいです。初年度産駒が走り始めたころから、「そのうち、歴史的大種牡馬たちと同じように、サンデーサイレンス系と呼ばれる血統の系列ができる」とこれまた素人のあいだでも囁かれていたくらいです。僕も当時、囁きました。

さまざまなトリビアエピソードが競馬好きにしてみるとどれも興味深いです。「あらま、そうだったのか」と著者に取り上げられたある出来事のちょっとした裏側を今になって知ってみたりと、おもしろいです。

そのなかで、ぼんやりと知っていた話ではありましたが、しっかりここで書き記されているものをひとつ引用します。屈腱炎という競走馬にとって致命的で「不治の病」である難しいケガの話です。一般的な骨折よりも屈腱炎のほうが競争能力への打撃が大きいのですが、近年のそのあたりの話でした。
__________

屈腱炎の治療としては日本で初めて行う「再生医療」だった。フラムドパシオン(馬名)の胸骨から「幹細胞」を摘出する。それを培養で増殖させた後に幹部へ注入する。そうすると、幹細胞は腱細胞に変化し、炎症で失われた部分が再生される。もともと自らの体内から採取した細胞なので、拒絶反応などの副作用も抑えられる。(p81)
__________

→フラムドパシオン号は屈腱炎の治療後、別のアクシデントで復帰が遅れますが、約二年間のブランクを置いての復帰戦を圧勝で飾るのでした。
近年の科学の進歩が、医療のあたらしい治療として結実し、こうして、競馬を好きな人からすると身近であるところで活用されているんですね。サラブレッドにはこうやって再生医療が施されていることがはっきりわかりましたけれども、人間への再生医療って、現時点でどのようなものがどのくらいの種類あるのかも気になってくるのでした。そもそも人間にたいしての再生医療って、認可されているんでしょうか。そして、医療保険適用内なのでしょうか。

というところですが、最後に、本書に書かれている「ヘビ年のジンクス」をご紹介。ヘビ年は、三冠レースの勝ち馬がすべてばらばらになるジンクスがあるそうです。二冠馬や三冠馬はでないジンクスです。さあ2025年(ヘビ年)、このジンクスは当たりますか、どうか?




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『残された者たち』

2025-01-05 23:21:34 | 読書。
読書。
『残された者たち』 小野正嗣
を読んだ。

五人しか住んでいない海岸沿いの集落、尻野浦。校長先生と若い女性教師、そして父、息子、娘、の一家がその居住者のすべてです。また、近くには干猿というガイコツジン(外国人)が住む集落があります。尻野浦と干猿ともども、限界集落以上に限界状態なので、もはや地図上からは消えてしまった土地だったりします。そんな土地での日常から生まれた物語でした。

まず。純文学の語り方って、過去と今の間の垣根が低かったりします。混同まではしていないけれど、峻別とはほど遠い。時間認識が、人の意識の自然な再現に近いのかもしれません。人はいろいろ考えながら頭の中で自在かつ自由に時を超えながら1日を過ごしているものですから。そういった感覚かと思います。エンタメだったら、過去と今の垣根が低くなって、読者にも気づかれず行き来するときはトリックとしてのときです。そのトリックを際立たせるためだったり、もしくは読みやすさのためだったりのために、過去と今の間の垣根は平常時には高くして峻別的な語り方をしがちでしょう。

ということに半分ほどまで読み進めたときに気づかされて、最後まで読み終えてみると、これはもっと雄大な小説的思想に基づいた作品だったのではないだろうか、となにかの尻尾がみえはじめ、頭をひねりはじめることになりました。

巻末で西加奈子さんが解説していて「そうか、そうか」とはっきり気づかされたのですけれども、三人称の語りである本作のその視点は、読んでいるうちに、主眼となっている誰かがいつの間にか切り換わっています。また、過去と現実のあいだの時間移動、リアル世界とリアルではないような世界との空間移動(世界移動)もその境界がはっきりしません。型取りをして、あるいは型を仮定して、それから世界を示す、といった方法ではなく、ただ中身を書いていくというような書き方というといいでしょうか。

どうしてそのような方法で小説を書いたのか?

僕が考えてみた答えはこうです。紙にペンで線を引っ張るようにして書いていくと、輪郭のある物語になります。それは多くの小説がそうであるようにです。現実のシーンがあり、回想のシーンがあり、夢のシーンがありというようにはっきりそれらがわかる書き方がされ、主人公を見守る視点は固定されて変わることはなくといった書き方がされるのが、輪郭のある物語だとしましょう。一方、『残された者たち』で用いられているのは、時間や空間そして視点の切り換わりのタイミングが秘密裏に行われていて、読者に明示されない書き方であり、うまくいけば輪郭を書かなくてすむ物語ができあがっていきます。そこを狙った方法だったのではないか。

輪郭を決めてしまわないことで、まるごとをその世界の中に入れることができる、とも考えられるのです。なぜならば、輪郭で区切って排除する部分がないからです。だから輪郭を書かないこの技法は、書かれていないことまでをも、「可能性」として折りたたんで存在させることができる方法でもあるといえばいいのでしょうか。そういった技法だと思いました。

ちょっと、ひとり、興に乗ってきたので、もう少し深掘りしていきます。

大げさに言うと、この小説の構造は宇宙においての星の分布に似ていると言えるかもしれません。星は密集して銀河を作っているし、その銀河も他の銀河たちと近い場所に群をなすように偏って位置しているものです。ということはそれとは逆に、星がほとんど存在していないエリアもあるわけで、宇宙とは平均的に星が位置しているものではありません。つまり、宇宙には、星が密集している宙域と、星がほとんどない宙域が存在していて、宇宙はそのような、密集と過疎でできたアンバランスな有り様をしている。

密集と過疎は、この小説の文章の配置、濃淡にも言えるのです。はじまりから40数ページくらいまでは過疎といっていいような、まあアマチュアリズムのような楽し気なところはいいとして、でも軽薄な中身でした。僕は最後まで読んでみようという気でいましたけれど、世の数多の読者はこの小説世界に引き込まれないうちに序盤でページを閉じてしまう可能性がけっこうある気がして、ちょっと作りとしてはまずいのではないか、なんて老婆心が起こったくらいでした。それが、40数ページ目以降、読ませる文章と内容、そして考えさせる深淵と謎、パズルのようなものが出てきます。ここは密集にあたるのではないか、と。エンディングから20ページほど遡った箇所も、過疎のようなところがありまして、登場人物のひとりである「校長先生」というキャラクターが、相変わらずのどうにも軽薄な英語ジョークを使い、それが中身のないものが多く感じられるのです。再び過疎がやってきた箇所です。

また、銀河にもさまざまな性質の銀河がありそれらが隣り合っているように、本作の各シーケンスの色合いにも性質がさまざまです。それは前述のように視点が変わることもそうですし、過去と現在が並列に語られることでもそうで、とある過去という銀河、とある現在という銀河、というかたちで本作の中に存在していると見ることができるのではないかと思いました。

そして、宇宙人モノ映画『E.T.』の話が本作の中に深く糸を通すように使われてもいて、そこでも宇宙と本作の構造との連関の示唆が感じられもしたのでした。でもまあ作者にそんな意図はなく、僕の気のせいレベルかもしれないですが、上記のような力技な考察も可能だったということはこうして書き残しておきます。

再度書きますが、輪郭を決めてしまわないことでまるごとをその世界の中に入れることができる書き方は、果てのない宇宙の構造を模倣したとも言えるでしょう。果てがないということは、輪郭がないということですから。

そうすると、本作のタイトル『残された者たち』という言葉から解釈されるのは、かなり強引になるのですけれども、形ある者、輪郭のある者というのは、宇宙の成り立ち上、どこか、辺境に残された存在であり、つまり「生きている」ということは、宇宙的な意味では「残されている」に解釈されるのではないのか、と思えてくるのです。ここまでくると、もう僕のアタマ自体がユニバースです。それでもまあ、純文学ですから、そういった試みがなされていてもおかしくはない。芸術の領域の仕事としてはやりかねないことです。

というところで、最後に引用を。
__________

だから人は笑うのだ。だから人は泣くのだ。笑うことと泣くことは安全弁なのだ。自分を開くことだ。そうやって穴を開けて、世界と心のあいだに空気を行き来させ、笑いと涙によって穴を広げ、もっと広げ、いつの間にかできていた仕切りを取り壊し、世界に心を、心に世界をしみ入らせ、心にその広がりを回復させるのだ。(p93)
__________

→人が人としていることの基本ですね。基本なんだけれど、なかなかこういったことを言葉にはしてこなくて、言われてみてはっとするというような文章ではないでしょうか。泣くときに泣ける人に育てるのが大切だ、ともいわれますし、あんまり笑わなくなった友人をみて「大丈夫かい」と声を掛けたりするのは笑いの意味を意識せずにでもみんなわかっているからですよね。この引用箇所は、実に力のある、そして力をもたらす部分ではないでしょうか。

また、孤児がその自分の存在の原初的な意味でのつらい部分をしっかり書いている部分(p68)もあって、存在否定っていうものが子どもには強烈なつらさをもたらしますから、そういった痛みがあることを忘れないでいたいですし、ほんとうに多くの人にもわかってほしいことだなあと、思いました。




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愛すべき、アイドル卒業後の彼女たち。

2025-01-04 17:36:24 | 考えの切れ端
卒業したアイドルさんが彼女たちのイメージに無いような卒業後の行動をふつうにとっているとき、それはたとえば、居酒屋とかスナックでおしゃべりしながら楽しく飲んでいたり、町中華の小上がりであぐらをかきながら瓶ビールをぐひぐびやっていたり。これらの、なんてことはないのだけど、ちょっと「どうしてだろう?」とファン側からは思えてしまう振る舞い。そんな彼女たちにたいして、僕には「現役アイドル時代、いろんなファンと向き合ってきたから仮説」がある。あくまででっかい仮説です。勝手な想像の産物に近いですが。

仮説とはこういうもの。お金のないファン、人生負けっぱなしのファン、嫌われ者のファン、悲しみや苦しみを背負ってるふうなファン、身なりが汚いファン、言葉遣いが荒いファン、表情も口数も少ないファンその他などなど、いわゆる「少数派に割り振られる人」だったり「社会の周縁がやっと自分の居場所」だったりした人たちもいたと思うのですよ。そういった、通常とか一般とかの文脈ではとらえきれないような、その個人個人ならではの情報量を多く抱えた人たち、といったらいいのでしょうか。そういう人たちもアイドルを応援しているわけです。

アイドルを卒業すれば、一般ファンたちもそうかもしれないけれど、そういう人たちともちょっと距離ができるような気がする。でも、現役の頃にそういった、一般の枠からはみ出ているようなファンの人たちを受け止めたのはウソではなく、さらに、卒業したから断ち切ろうとすることは現役の頃の自分をも断ち切ることにつながりもするし、前述の「瓶ビールをぐひぐび」やったようなアイドルさんは受容し包摂したように感じられた。

いろんな人生の人と正面から「ありがとう」のやりとりをしたし、その自覚があるから、自分が成功者になっても、彼らとまったく違う地面に立つことは自分の在り方ではないと感じるゆえなのかもしれない。まあ、一般の枠からはみ出ているようなファンの人たちを例にするのはちょっと突飛だったかもしれませんし、一般的な枠内にはまっている「庶民的なファン」を例にするだけでもよかったかもしれません。

あくまで仮説、勝手な想像なのですけど……、僕は大好きだ。

アイドルとファンの関係性を「ケア」から見ることは可能なんですよねえ。でも、これこそ「秘すれば花なり」であって、論じることではないのかもしれない。ただ、自分がいったい何者なのかわからなくなったアイドルやファンの人はちょっとこのあたりを考えてみて自分を取り戻したりできそう。
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謹賀新年 2025

2025-01-02 18:18:29 | days
あけましておめでとうございます。

僕は、体調とくにメンタルが落ち込んでいて休みを積極的にとりにいっている最中です。このぶんだと、長編執筆にとりかかるのはもう少し先になりそうです。書き始めても、途中でダウンするのが目に見えているので。

ということで、今年は、心身の健康に気遣うことをいちばんに考えようと決めました。ネガティブにもポジティブにも休息する、身体をあたためる、無茶しない。あと、気に掛けるのは金銭面。noteで有料記事を書こうか、と考え中ですが、それじゃなくてもアクセス数が少ないのに、購読してもらえるものだろうか、とあんまり乗り気じゃなかったりはするのですが。

昨年見たドラマやアニメでは、『君が心をくれたから』『アンメット』『推しの子(二期)』がよかったです。まだ、10月期に録画したものには手を付けていないので、3/4年での感想です。音楽では、ビル・エバンスと坂道さんをよく聴いた気がします。乃木坂46『歩道橋』はパフォーマンスや衣装含めたトータルですばらしいですね。読書以外で創作の刺激や勉強になるものは大切だと言われますが、やっぱりそう感じます。本だけだと視野が狭くなってしまうんじゃないかなあ。

そんなところでしょうか。家庭はまだまだまったくのアウェイ状態です。内戦状態みたいな感じで。役所の地域包括支援係からも見放されてもうノータッチです。そんななかでも、支援団体が役所へ抗議の電話を入れるという話が聴こえてきて。なかなか落ち着かないですが、まあ一歩一歩、踏みはずさず歩いていきたいです。

また、こういった日記調の記事を今年も何度かアップすると思いますが、よろしくお願いします。
それでは。

読みに来ていただいて、いつもありがとうございます。
今年もよろしくお願いいたします。
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