Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

『ロング・ロング・アゴー』

2014-07-31 23:18:11 | 読書。
読書。
『ロング・ロング・アゴー』 重松清
を読んだ。

再会をテーマにした、6篇収録の短編集です。
重松さんらしく、子どもや子ども時代のことを深く見つめたその成果で
作られた物語という感じがします。

子どもの頃にわかっていたことが、大人になってわからないから、
子どもの力になってあげられないことがしばしばだったりするし、
その顕著な例は子どものいじめがなくならないということにもあるのかもしれない。
いや、集団ができた時点でいじめというものを発生させてしまうのが、
人類の習性でもあるようだというニュース記事を読んだこともあるので、
一概にはそう言い切れない。
だけれど、子どもの気持ちを、自分が子どもだった時くらいの確かさでわかってあげられたら、
きっと、子どものなかの余計な孤独感は減じるのだとは思う。

逆に、子どものころにはよくわからなかったことが、
大人になってわかるようになったりもする。
大人の論理で考えてみれば、無駄ないじめはなくなったかもしれない、
というケースだってありそう。

だから、「大は小を兼ねる」というけれども、
子どもの部分を、大人は兼ねることはできないことがあるので、
子どもを甘く見たり、大人の論理でいいくるめたりはしないほうがいいし、
そうかといって、すべてを子どもにゆだねてしまってアドバイスもできないようでは、
子どもの苦しみを減らしてあげることはできない。
大人、親、教師は、みんなそういうところで苦労するんだと思う。
年の近い兄弟がいれば、年長のほうでも年下のほうでも、
わかってあげられるような、二人三脚ではないけれど、
お互いがお互いの力になってあげることや、
本当に近くで寄り添ってあげることってできるでしょう。
一人っ子の僕には、そういうところがうらやましく感じられる部分です。

割り算の余りがどんどんたまっていくのが人生だ、
というような言葉が本書の中にありました。
わりきれないことが、大人になって増えていく。
それをどんどん抱えていくものだ、ということ。
別の短編では、心の大きさのことが挙げられていた。
子どものころの小さな心では抱えきれなかったことが、
大人の大きくなった心では抱えられるし、
それについて考えることもできるようになった、と。

子どもが成長するのは、自分の世界に順位をつけるようになること。
たとえば、あの子は僕よりも下だとか、公立より私立だとか。
そう重松さんは書いている。
順位をつけていく人生が、都会的というか真っ当なものだとされて、
そこからこぼれおちる人々は残念な人々とされてしまう。
そういう価値基準がこの国を覆っていて、それは強固だったりする。
だから子どもはまず、そういう価値観の中で育てられるのがスタンダードなんだと思う。
十把一絡げに、「教育」だとしてそういう価値観に、
「個別に個性を考えて」などはなしに投げ込まれるわけだから、
子どもって大変な子にしてみればすごく大変で。
その大変さが一生続いたりもするし、顔色の悪い大人とか暗い顔の大人とかは、
そういう大変さのなかから抜け出せないで成長した人々なのかもしれない。

つまり、社会的排除ってものは、そういう最初期からありますっていうことになる。
順位や比較がもっと希薄になって、人と人が認めあうような、
それでいて強すぎない連帯感がある社会がもしもできたら、
そこは社会的に人々を包摂する世の中だと思うんですが。
子どもが成長していくことなかでの順位や比較がそもそもの社会的排除のはじまりなんですよね。
そういうのって、生物学的な、人間というものが社会的動物だということに原因のある
事象なんだろうかって、考えましたが、なかなか答えは出ませんね。

重松さんは、そういう社会的排除すら包みこんでいるような深い心持ちで、
でも精一杯生きていこうとするべきなんだと言っているかのよう。
だから、ほろ苦いんだよねえ。

あぁ、ほろ苦ぇ、ほろ苦ぇ。
人が生きていくうえで味わうほろ苦さって、
でも、それがないと生きている気がしないものでもある。

本書を「妹」だとして、「兄」にあたる短編集が『せんせい。』という作品だそうです。
こちらも気になりますね。

面白かったです。



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『弱者の居場所がない社会』

2014-07-27 00:08:05 | 読書。
読書。
『弱者の居場所がない社会』 阿部彩
を読んだ。

貧困や社会的排除・社会的包摂について、
くわしくわかりやすく説明する本です。

貧困については、自己責任論というのが、
現在主流になっているように感じられますが、
本書でも自己責任で話を終える人は多いとしている。
「日本人は冷たいのか?」の項で、

__________

すべての結果はその人の努力や能力の違いの当然の結果なので、
ある人が何かをもつことができなくても、
それはそれの人自身の責任なのでしかたがない、という考え方である。
__________

と、その自己責任論とはどういうものかについて説明していますが、
僕も実はそう考えてきているフシっていうのはあるなぁと思い到るところもありました。
僕の、「自助」というものをピックアップして考えるさまには、
自己責任なんだから、という背景が見え隠れしますが、
それは、(言い訳みたいになりますが)「社会が自己責任を主とするシステムだからしょうがなく」
そのなかで、より生きやすい選択肢としての「自助」を推奨しているんです。

それはそれとして、著者は続けてこうも言っています。

__________

しかし、いくら自己責任論を主張する人でも、
子どもにまでその論理を当てはめようという人は少ないであろう。
自己責任論には、公平なスタートラインと競争が存在するという前提があるからである。
競争が公平でなければ、結果としての不平等を肯定することは難しい。
「結果の平等」は支持しなくても、「機会の平等」はあるべきだと多くは考えるであろう。
__________


どうでしょう、この世の中、実際は平等な競争ってないですよね。
極端なことをいえば、金持ちの家に生まれて何もかも与えられた人と、
貧しくて、あまり与えられずにきた人とでは、この競争社会において平等な競争ではない。
機会の頻度さえ違うでしょう。
つまり、この世はアンフェアな競争社会なんですよね。
そんな中で自己責任だ、とする主張は実際的でも現実的でもありません。
なのにそれがまかり通るのは、格差社会の上層や中流層にいる人たちの、
ある意味保身なんだと思います。
それは、経済的な保身であるかもしれないですが、多くは心理面の保身です。
格差社会では、上のものが下のものを攻撃するチンパンジー社会のような力関係が
生じるようですが、こういったアンフェアな競争を肯定する「自己責任論」も
そのひとつなのではないか、と読みながら思いました。

また、話は変わりますが、げんなりしたのは、
「頼れる人の有無」アンケートがあって、その結果、
僕も自分で考えて答えを出してみたら、
全体の下位3%くらいの位置に自分がいたことです。
孤独なもんだなって思いましたね。
いざとなったら頼るかもしれないですが、
そうなったときに、友人や知人は頼られてくれるのかがわからないです。

こういうことも紹介されています。
「人々は攻撃的になり、信頼感が損なわれ、差別が助長され、コミュニティや社会の繋がりは弱くなる。」
これは「格差」によってもたらされるとする、
ノッティンガム大学名誉教授リチャード・ウィルキンソン氏の主張の要約だそうで、
10年近く前に英国で大反響をおこした考えだそうです。
そして、「貧困」があるから、すなわち排除される人々がいるから、
社会の上層部にいる人間まで被害をこうむるといっているわけじゃなく、
要は「格差」が問題であって、人を「上」だの「下」だの段階を
ランク付けするシステムが問題だといっている。

そういう考察もしながら、最後のほうには、
社会的包摂についての提言もなされている。
社会的包摂っていうのは、社会的排除の反対の言葉で、
居場所、役割、つながり、というのが三要素のようです。
要するにたとえば、

失業した→
親戚や友人に会うのが恥ずかしくなり一人でいることが多くなる→
頼れる人がいなくなる。

という流れが挙げられますが、それが排除されたとする考えです。
非正規雇用などにおいやられていくのも社会的排除です。
人間関係が希薄になり、社会の一員としての存在価値を奪われていくことを問題視して、
そういう人を社会から切り離さずにつなぎ止めていこうというのが、
社会的包摂であると言えるでしょう。

僕個人の意見としては、モースの『贈与論』からくる連帯の考え方が、
社会的包摂の考え方と結びつくことで、強靭な社会的包摂になるんじゃないか、
というのがあります。このあたりは、そのうち、贈与論やそれを論じた本を読んで、
もうすこし考える必要がありそうなんですけどね。

社会的包摂はほんとうに大事だと思うんですよ。
格差と生きにくさを見直してよりよくしていくにはこれだと思えますもの。

本書は200pくらいの薄めの新書です。
丁寧で読みやすく知識も頭にはいってきやすいので、
貧困や社会的排除に興味のある人、
いきやすさを求めてちょっと考えたい人にはおすすめです。



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モエレ沼公園(札幌国際芸術祭2014)

2014-07-25 23:01:25 | days
札幌は東区にあるモエレ沼公園に行ってきました。
彫刻家のイサム・ノグチがこの公園の造営に関わったことでも有名だそうで。

まず見えるのは、ガラスのピラミッド。




こういうちょっとした「山」もあるんですよね。




園内は広いので、自転車を借りて移動しました。
きこきこ漕ぐのが楽しくて、一緒に行った従兄は、
チリンチリンと何度もベルを鳴らすなどごきげん。
そうやって園内を1/3くらい周回して(ほんとうに広い)
噴水の時間になったので、その場所に集合。




ほどなくして始まりました。
まず霧状の噴水。




そして、吹きあがりが25mもの高さを誇る噴水。




動画も撮りつつ噴水鑑賞を満喫しました。
その後、ガラスのピラミッド内にて、坂本龍一さんらによる
札幌国際芸術祭のインスタレーションを拝見。
チカホと連動しているものや、
森林の生命活動を音に変換し表現したものがありました。




説明書き。




帰りには「モエレ珠」という名物お菓子を買って食べました。
5つで350円。揚げいもの中身がサツマイモをマッシュしたもので、
さらに中心にクリームチーズが入っている揚げお菓子です。
おいしゅうございました。

空が曇っているのは、どうやらこの日の午後から急上昇したPM2.5の影響のようです。
僕がモエレ沼にいたのは午前中でしたが、この後はもっと酷くなったんでしょうね。
帰宅してからも、僕の住む街にだってPM2.5が浮遊し、煙っていました。

そうだったにしても、モエレ沼公園はなかなかいいところでした。
モエレビーチには、平日にもかかわらず、子どもを中心に大賑わいでしたよ。
きっと、札幌市内の人が来ることが多いんだと思います。
自転車は2時間で200円のレンタル。
園内は携帯灰皿を持っていれば喫煙できます(従兄は携帯灰皿をそこで買った)。
入園料は無料でした。
ちょっと忙しめの滞在で、さらにけっこう疲れたので、山には登れず、
触れる地球というのも見てくるのを忘れました。
ちょっと中途半端なレポートですが、
それでも、楽しめたことは伝えておきたいです。

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『ともだちがやって来た。』

2014-07-22 23:13:23 | 読書。
読書。
『ともだちがやって来た。』 糸井重里
を読んだ。

2008年に『ほぼ日刊イトイ新聞』に掲載された糸井重里さんの書いた文章の中から
選ばれた言葉たちが収録された、小さなことばシリーズの第三冊目です。

笑っちゃうし、唸らされるし、頷いちゃうし、
びっくりもするような、いろいろなタイプの言葉がおさめられていますが、
そのどれにも、糸井さんという個性が貫かれている、当たり前ですが。
言葉、なんだけれども、糸井さんの総合力がやんわりと込められているような
そんな感じがしました。

_________

食わず嫌いをしなければ、好奇心のはばたきは、
どこまでもあなたを連れていってくれます。
_________

たとえば、上のような言葉が1ページの真ん中に座していたりします。
これは、この本の中でもマジメなほうの言葉ですが、
笑っちゃうのも結構収められているんですよ。
小さい言葉シリーズの前二作に比べると、
笑っちゃうのがちょい増しだったかもしれない。

このシリーズ、僕は大好きなのでして、
本を抱きしめるかの勢いで読んでしまいました。
気持ち悪いとか思わないでください。

前二作同様、装丁、紙質がすてきですよ。
大事にしながらも傍らにいてほしいような本です。



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『点滴ポール 生き抜くという旗印』

2014-07-20 00:39:42 | 読書。
読書。
『点滴ポール 生き抜くという旗印』 岩崎航 写真:斎藤陽道
を読んだ。

詩集です。
著者の岩崎航さんは1976年生まれで、3歳の時に筋ジストロフィーを発症し、
今は人工呼吸器をつけ胃瘻(いろう)で食事をとるという生活をされているそうです。
胃瘻とは、本書の注釈によると、「口から食事がとれない人、または充分にとれない人の
栄養確保のために、腹壁を切開して胃内に管を通して作られた、
お腹の小さな穴のこと。またそれに取り付けた器具」です。

そんな岩崎さんの闘病の記録でもある5行詩集なのですが、
そこから読み取れる気構えというか、姿勢ですね、それが素晴らしい。
繊細ななかに強さもあり、静かな言葉を落ち着いたトーンで使って、
短い5行詩でもって表現する。
そしてその訴えかけてくる力、というか、
彼の詩に触れることで、読み手である自分のこころが震えてくるような、
温かくなるような感じがしてくる。まるで共振を起こすかのように。
といいつつ、うまく紹介できていないなぁと苦笑してる僕です。

3つほど、引用紹介させてください。

_______

誰もがある

いのちの奥底の

燠火(おきび)は吹き消せない

消えたと思うのは

こころの 錯覚

_______

ほっとくと

どんどん冷える

世の中だから

それぞれが灯り

点して生きる

_______

暮らしを楽しむ

楽しもうとする

そのこころが

とても大事だということを

知った

_______


もっともっと読んでほしいのですが、
そこは本書を手にとって、ゆっくりとしっかりと彼のメッセージを
受け取ってほしいです。

僕とはほぼ同世代の岩崎さん。
生に対するベクトルがはっきりしていて、
見習わなきゃと思いました。
いっとき、自殺すら考えたことがあるといいます。
そして、20代のうちの4年間には吐き気に苦しんだ時期もあったそうです。
そうやって地獄を見てきたからこそ、
生の輝きを痛いほどわかっている方なのかもしれない。
なにかきっと、根源的な人間の生の力ってものがあって、
それを意識の上で掴んでいるのが岩崎さんだという気がする。

この本に出会えたのはよかったなぁと思いました。
病身の人の詩だからなんていうのに代表される偏見は
吹き飛んでしまえばいいです。
こういう輝きはもっと多くの人に知ってほしいです。
目の曇っていない人はこういう人なんだって、読むとわかります。



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『人を助けるすんごい仕組み』

2014-07-19 17:48:52 | 読書。
読書。
『人を助けるすんごい仕組み』 西條剛央
を読んだ。

サブタイトルは
「ボランティア経験のない僕が、日本最大級の支援組織をどうつくったのか」で、
まさにその通りの本でした。
著者の西條さんは「ふんばろう東日本支援プロジェクト」代表で、
早稲田大学大学院(MBA)専任講師です。

帯の糸井重里さんの推薦文がわかりやすいので、
全文引用します。

『岩をも動かす理屈はある。
「そこに方法がないなら、つくればいい」
西條さんの学問は、実戦的で痛快だ。
震災の状況だけでなく、あらゆる仕事の場で
役に立ってしまう本になったと思う』

最初は、地震の発生、そこからの著者の思いや行動などが綴られて進行していきます。
あっという間に組織の原型が出来あがりますが、
そのスピード感はほんとうに現実に即しており、
ただ、紙幅の都合上早まっているわけではないのです、当たり前だけど。

どういうプロセスを経て、このような大きくて機能的な支援組織が編まれたか。
それがこの本を読むとよくわかります。
細部の折衝なんかまではわからないところはありますが、
著者自身、組織や枠組みを作ったらそこにいる人たちに放り投げてまかせられる人です。
仕組みさえきちんとしていれば、ちゃんと動くのだ、
という信念とご自身のされている学問への自信がそこにはあるようですし、
実際、そうやってうまくいったボランティアモデルなんですよね。

要所要所で、著者の専門である「構造構成主義」に照らして行った行為だとして、
そのやり方が紹介されます。そのうちの「方法の原理」というのが、
今回とても有益に使われていて、それはこういうことで、
(1)状況と(2)目的によって規定される
ということでした。
_______

状況を踏まえて、目的を見定めつつ、その時点、その場で
有効な方法を考案すればいいという考え方である。
_______

と、引用すると上のような説明があげられます。
これはね、けっこう使える考え方なんじゃないかなと思いました。
知らず知らずそうやって「方法」を考えている人も多いでしょう。

それにしても、最初の段階で著者が被災地に足を踏みいれて、
その状況や被災者の話が載っている部分があるんですが、
今読んでみると、当時の、北海道に居ても感じた、
打ちのめされるような気持ちがよみがえり、
さらに、こんなにもひどかったのかという新たな生々しい情報を知ることにもなって、
この震災を忘れ去るべきではないなと思い返したくらいです。
遺体の損傷もひどかったみたいですね、言うのがはばかられるくらいに。

また、ちょっと考えたところは、P・F・ドラッカーの引用のところです。
これは、価値についての考察のところであり、僕が気になった文章は
まったく本書とは関係のないところなんですが、それはこういうところでした。

_______

「われわれは何を売りたいか」ではなく、「顧客は何を買いたいか」を問う。
_______

小売店で働いていた時に、お客さんが何を買いたいかだなと考えていた僕は、
上司に「何を売りたいか考えて、どうやって売れるかを考えて売るんだ」と言われた。

本部から、週末のセールはこれこれでチラシに載るから発注忘れるな、
みたいな感じで毎週やってたわけで、
本部としては顧客が買いたいものだとか旬のものだとかの合わせ技で出してきたと思うんだけど、
その数量とかを決めるのは末端の僕みたいな人でした。
そうなると、どれだけ売れるかを想像したり、過去のデータとか、
昔からいる人にアドバイスしてもらって発注することになる。
お客さんは買いたいかなと、そこで考えるわけです。
でも、「何を売りたいか」ありきだったんですよね、どっちが先かって言うと。
末端にいると、そこらへんひっくり返ります。
だから、「何を売りたいか」でポップを作ったり、置き場所を考えたりして商売してた。
店員は、もう、「どう売るか」なんですよねぇ。
何をどうやってさばくか、でやらされる。
ドラッカーを読んでると実はこういうところで末端の人はわからなくなります。

と脱線したところで話を本書の内容にもどして。

冒頭、糸井さんの名前が出たところで気がついた方もいらっしゃると思いますが、
本書の第5章になっている部分は、『ほぼ日』で行われた糸井さんと著者の西條さんの
まさしくこの「ふんばろう東日本支援組織」についての対談から
再構成されたものだったりしますので、その対談で西條さんを知っていたりもするでしょう。
また、ツイッターをよく使われていたようなので、地震発生まもない時点から
西條さんを知っている人もいるかもしれない。
そういう人に至っては、本書は僕よりももっと身近に感じて読めたりもするでしょう。

最後に、本書の印税全てと出版社にはいる収入の一部が、
このボランティア組織「ふんばろう東日本支援」におくられるとのことです。
いまもまだ、仮設住宅にはいられている被災者のひとたちって多いでしょうし、
この本で触れられているような、被災しながらも満足に支援をうけていない
人たちもいらっしゃるみたいです。
それを知ると、何もできない自分にはため息がでますが、
本書を買ったことでちょっぴり寄付ができて、さらに読んで状況などを知れたこと、
そして、明日へ繋がるような方法論に触れられたことは良かったなぁと思っています。



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『好きっていいなよ。』

2014-07-17 22:18:30 | 映画
川口春奈ちゃんと福士蒼汰くんの映画
『好きっていいなよ。』を観てきました。

女子の世界に足を踏み入れてしまった感じ。
女子視点の世界を見てしまった感じ。

いい歳をした男がいるには場違い感があって、
映画が始まるまではちょっと恥ずかしかった。
男はカップルでいた10代の男の子が一人だけで、
あとは若い女子、それも高校生とかでしたよ、観客。
きゃー!

でも、はじまってしまえば(つまり、館内が暗くなって僕の姿が消えてしまえば)、
こっちのものですからね、十二分に楽しんできました。
川口春奈ちゃんめんこかったですし、面白かったです。
あまちゃんの種市先輩こと福士蒼汰くんも、
少女マンガにでてくる感じの男を演じ切っていました。
といっても、少女マンガってほとんど読んだことないので、イメージで言っています。

ネタバレになりますけども、
最後のほうで、川口春奈ちゃん演じるメイちゃんが、
一人でいた時は強かったのに、好きな人ができて友だちができていくうちに
逆に弱くなっていってしまった感じがする、みたいなことを言っていて、
こりゃ深いわ!と大きく息をついて感じ入ってしまいました。
そういうのってあるよなぁ。
そして、それがなぜかを考えるのはおもしろそうですよね。

じゃあさ、映画にちなんで最後に僕に好きっていいなよ?ね?
この際さ、小声でもいいからさ、ねぇ?

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『クォンタム・ファミリーズ』

2014-07-14 22:06:50 | 読書。
読書。
『クォンタム・ファミリーズ』 東浩紀
を読んだ。

思想家である東浩紀さんの初めての単独長編小説であるのが今作です。
『クォンタム・ファミリーズ』を日本語にすると『量子家族』となり、
そこから「SFものだな」という予感がします。
そして読んでみると、実に面白くひきこまれて読んでしまう良作でした。

ちょっと書いただけでもネタばれしてしまうので、
なかなか感想を書けませんが、
まず、読むにあたっての助言みたいなものを書いておきます。
『クォンタム・ファミリーズ』を読むには、
量子論のちょっとした知識と、
ドストエフスキーの著書(五大長編以外も)を読んだことがあることと、
村上春樹もけっこう読んでることが助けになるかなぁと思います。
さらにはフィリップ・K・ディックについても言及があるので、
彼の作品も知っているといいのかもしれない。
それと、僕なんかは鈴木光司さんの「リング」「らせん」「ループ」のうち、
「ループ」を読んだことがあったので、
そのせいで物語が掴みやすかったというのがあります。

最初の「物語外」とされるところを読んだ時には、
なんだか生焼けの肉を食べるようなことになるのかな、と
うっすらと危惧を感じたものですが、
物語にはいると、その文章力の水準の高さによって
信頼して(そして勉強にもなって)読み進めることになりました。
とはいえ、量子論からくる未来の科学云々の記述は難しく、
その専門性と虚構とでの構築ぶりには拍手を贈る気分になりながらも、
「わかりにくい」「わからない」という部分を含めて、
やっと話についていけました。

また、暴力の思想の展開に関しては、
虚構だからこそ楽しめるのは当たり前なんだけれども、
作者は思想家でもあるので、暴力関係の正当性を謳うところに
思想が真面目に込められていたらちょっと引くなぁと思いつつ、
だけど、そこに作者の主体はなく(腰を据えているわけではないという意味)
論理だけなんだろうなぁとも思うわけです。

ところどころで村上春樹さんを意識した個所が見られますが、
部分によっては村上龍さんを思い起こさせるような迫力あるシーンがあり、
ドストエフスキーを彷彿とさせるような思想の告白があり、
純文学的な性に関する問題の部分があり、
大衆文学のようなエンタテイメント性もあり、
そしてSF小説で、
これは良くいうわけでも悪くいうわけでもないのですが、
「小説全般が生んだ、出来のいい子ども」
のような印象を持ちました。
それだけ、いろいろな過去作品なんかへのオマージュ的でもあり、
その優れた頭脳を十分に機能させたことを感じさせる、作者の傑物感もあります。
といっても、誤解のないように言いますが、オリジナル性は高いでしょう。

暴力ってけっこう書くのに心理的コストが高いような気がするんですが、
東さんって、ジャーナリストの津田大介さんにツイッターで、
「三国志の人物にたとえると呂布」と言われただけあって、
あらぶるものを内に抱えていてなおかつ無双の才能を持っているのかなぁと思わせられ、
本物の呂布のように裏切りを繰り返すのならいやだけれど、
この前のSTAP細胞問題でも、ツイッターで早い段階から懐疑の目を向け、
舌鋒鋭く批判されていたので、
そのあたりが呂布なのかもしれないなぁと思ったりもしました。

また、ニヒリズムのように思える個所もあるんですが、
そのあたり、作者の東さんってどうなんでしょう。

そんなわけで、スター・トレックは好きですが、
SF小説ってあんまり読んだことがなかったので、
そういうのもあるかもしれないですが、すごいもんだなって感銘を受けました。
解説書いておられる筒井康隆さんの『時をかける少女』が僕は好きでした。
それと同じくらい、心に残り、頭を刺激されるような作品でした。



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『全ての装備を知恵に置き換えること』

2014-07-08 01:28:55 | 読書。
読書。
『全ての装備を知恵に置き換えること』 石川直樹
を読んだ。

ときにチョモランマに登り、
ときに北極から南極までを踏破するプロジェクトに参加し、
ときにミクロネシアで方位磁石などの文明の利器を使わない航海術を学び、
世界中を旅する人。そして写真家。エッセイスト。
そんなふうに自分の生を躍動させ、つねにフレッシュな感性や感覚でいる人なのが、
著者の石川直樹さん、そう僕は感じました。

前を向いて直進的で、素直な感性で正直に、
慎重にだけれども臆することなく言葉をみつけて綴っているようなエッセイです。
気持ちのいい、瑞々し感性で書かれているなぁとわかるでしょう。
語彙も豊かで、言葉の当てはめ方が、僕なんかはすごく好きでしたね。

僕と同い年ということで、時代の流れからくる、
目に入ってきたもの、耳に入ってきたものが同じなので、
近しい気分とライバル心をもって読んでしまいましたが、
大した人だなと思いました。

彼は普通の都市を旅することも多いようなのですが、
自然を相手にして、生きるか死ぬかを背後に感じながらの旅もよくされている。
ここでカヌーが沈没したら終わりだなというのを、
1週間も人に会わずに自然の中だけの川下りの最中に考えたりする。
それがゾっとする感じがありながらも、
なんともいえないわくわく感のようなもののほうこそを強く感じるそうです。
それを想像してみると、新たな感覚として思い起こされるかのように、
それら石川さんの経験のほんの切れっぱしであるだろうものが僕の中にも移ってきます。
僕は仕事で川を滑走したモーターボートに乗ったことがありますし、
そうしながら川の上で作業をしたこともあります。
また、夢の中で、ボートに乗っていて、それが川の真ん中にいてぞっとした、
ということもあります。
そういうのが、石川さんの本に綴られて込められた「経験」の伝搬の助けを
しているんだと思います。

本書では、石川さんにしか語れないことが語られていて、
それを読者は興味をそそられながら読むことになります。
疑似体験とまでは言えないけれども、その経験のほんの小さなかけらの部分くらいを
授かることができるんだと思います。
「こういう世界もあるんだな」じゃないですが、こういうふうに生きていて、
こういうものを見ているんだなっていうのが、日々いそいそと日常を送る、
定住者の僕らにはないことなので、
いうなればカルチャーショックに似た、今までと違うヴィジョンのようなものが得られます。

彼にしか書けないことを、優れた言語感覚で持ってそれを過信せずに、
うそんこの言葉ではなくそこは素直に真面目に書いた、
そんなエッセイだと思いました。
読んだ後には、実感のように、この空はずっといろいろなところと繋がっているんだな、
といろいろな土地に想いを馳せてしまいました。



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本性は利己、でいいの?

2014-07-06 00:24:30 | 考えの切れ端
フェアな態度、他人をリスペクトする態度は表面的な「建前」にすぎないものだとして、
本性は利己的でいいのだとゆるぎない自信を持って、
でもその本性はなるべく隠して生きている人たちっているんです。
あるいは、みんなそうだろうと勘違いして、
自分も同調するよという具合に利己者を装う。
あの人がそうだ、だとか、自分がそうかも、
なんて思い当たるふしってあるでしょう?

でも、利己的がいいのか悪いのかを突き詰めて考えると難しくもあるのです。
たとえば、経済学の論理では、みんなが利己的にモノを買ったり売ったりすること、
つまり自己利益の追求という利己的な行動によって、健全な社会経済が保たれるとされる。
僕はそういう経済学の考え方が、現代の人間性をゆがませている部分ってあると思っています。

何を隠そう、僕は大学で経済学を専攻。
そのくせ、まるで勉強せずに(音楽作りとチャットとバイトが生活の中心でした)、
2回生のころには、「経済学って自分に合わねぇわ」とこぼしていたくらいです。
そんな僕ですから、「そんな人のいうことはあてには…」と思う方もいらっしゃるでしょうし、
「それはいい感覚を持っているね、その直感は正しい」と逆に評価してくれる人もいるでしょう。

話を戻しますが、
経済学の論理に従って、じゃあ利己的に生きよう、
と利己に比重をどかっとかけて生きている人がいるとします。
そういうのがトレンドだったかしらないですが、
僕が学生だった頃の同世代にはそういう感じの、
自分の利益が一番という感覚を利己的なスタイルで表現・実践している感じの人って
けっこういたように思います。
そういう人たち同士のつながりってどうでしょうか。
お互いの利益になることにかけては結びつくでしょう。
しかし、利益にならないことに関しては、まったく見向きもしないのではないか。

これは交渉術においてもそうでしょう。
相手の利益になることと引き換えに、こちらの利益となることを飲ませる。
そういった、他人の人格までを考えて強く結びつこうとすることをしない「繋がり」
が主流なんですよね。

なのに、どうして、人は(というか日本人しかわかりませんが)、
建前では利他的な人間であるかのように演じがちなのでしょう、というか、
そういう人がいるのでしょう。
「わたしは、他人のことを思いやれる利他的な行動ができます」
そして、利他、利己とはちょっと違うけれども、自分勝手ではないという意味で、
「わたしは、他人を公平な目で見て、接することができます」
ということを表面的には体現したりします。
それはそれが美徳であるという感覚があるから、
建前でそう形作り演じるということになったりします。
要は、そういう建前を作った方が、受けがいいし、
日本古来からのムラ社会的性質が残るなかで村八分になりにくい。

東日本大震災の後、「絆」というキーワードがホットになりました。
ここでいう「絆」とは、利己的な「繋がり」のことをいうのではなかったと思います。
前述の、他人の人格までを考えて強く結びつこうとしない「繋がり」とは、
向いている方向を異にしていて、「絆」とは、
他人のことをちゃんと考えての強い「繋がり」のことを言うでしょう。
そういう意味からして、震災前までの、利己的な本性で生きるというスタンスと
相反するものだった、「絆」は。
だからこそ、「絆」と聞いて、
利己的なスタンスにあまり疑いを持たずに生きてきた多くの利己的な人にとってみれば、
薄ら寒いような言葉、綺麗ごとの言葉に聴こえた。
そういう人は多かったと思いますし、たしかに押しつけがましくもあった。

だからといって、じゃあ利己的な生き方を堂々と送るべきなのか、といえば、
僕は、違う、といいたい。

そういうのって、やっぱり未成熟に思えるのです。
さらに、そんな未成熟の青いまま成熟してしまうっていう、
甘味のないまま出荷時期を迎えた桃みたいな人って、いるでしょう。
食えない人だね、っていう。やっぱりちゃんと太陽に当たらないとそうなるんです。

と、比喩をはさみながらですが、
つまるところ、利他の精神を大いに持てというのでもなくて。
この間読んだマルセル・モースの解説本によると、モースの主張として、
利他の過剰さはいけない、とあります。
それは施す者にとっても施される者にとっても、きっとあまりよくない影響をもたらすから。
僕は一つの答えとして、自助を基本としての利他ってものを考えています。

自助と、自助を他者が見守る気持ちと、ウルトラマンゾフィーのように、
ウルトラマンに対してゼットンが出てきたときのようなどうしようもないときには
手を貸す気持ちが大事なのではないかと。基本は自助です。

前にも書いたことがあるのですが、
「個人主義の誤訳が利己主義で、意訳は自助だ」と僕は考えているところがあります。
自助って、自分が生きていくために自らが努力したりして
自分自身を助けていこうとする態度。
自助には、利己も利他もないようですが、そこに少しの利他を付与してみると、
世の中ってずいぶん生きやすくなるのではないかなぁと思えてきます。
そんな社会では、「絆」という言葉に対しても、狂信的な感覚は感じないはずだし、
もちろん、忌み嫌う気ような気持ちも減じるのではないか。

心のどこかで、「利他って良いことだ」とする気持ちってありそうに思います。
しかし、良いだの悪いだので判断するがゆえにあまり好ましくない行動をしてしまう
というのがあるのではないか。
以前読んだ本に書いてあった、モラル・ライセンシング効果がそうです。
これは、良いことをした後に、良いことをしたからちょっとくらい悪いことをしてもいいだろう、
となってしまう心理作用だそうです。
お金を拾って交番に届けたという良いことをしたから、
ダイエット中なんだけれど、ご褒美に夜食をもりもり食べてしまう、
みたいな例があげられるでしょうか。
そういう心理効果って、言葉になる以前の感覚的な部分で、みんなわかっていたりもする。
だからこそ、良いことと考えがちな利他ってものがなかなか行動されないんじゃないでしょうか。

繰り返しますが、僕は、自助と利他を推奨します。
これからの社会、つまり、高齢化率が高くなって、経済成長も頭打ちになるであろう社会では、
今以上に連帯感が求められると考えているんです。
連帯感って、利己では作られません。
そうはいいいながら、連帯感による今以上のしがらみがあればそれは厄介なので、
そうはならないような連帯感を考えなければいけない。
これについては、まだ考えがまとまっていない部分もありますし、書いても長くなるので、
そのうちにまた書くかもしれないです。

以上ですが、この感覚は気持ちの持ちようの問題。
マインドをシフトすることができるかにかかっていますが、
急にそうなれってわけじゃなくて、だんだんそうなっていこうとすることは
できるんじゃないかなぁ。
もっとみんなが、いそいそ、じゃなしに、いきいきと、
そして生きやすくできたら、という意識から生まれた考えです。

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