Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

『風の帰る場所 ナウシカから千尋までの軌跡』

2021-08-26 00:43:15 | 読書。
読書。
『風の帰る場所 ナウシカから千尋までの軌跡』 宮崎駿
を読んだ。

僕も大好きなジブリのアニメーション映画の数多くを手掛けている宮崎駿さんのインタビュー集。インタビュアーは音楽雑誌のほうで著名な渋谷陽一さん。1990年11月から2001年11月までのあいだの5度のインタビューを収録。

最初のインタビューこそ謙虚さが勝っていてまっすぐに応えようとしている姿勢が感じられるのです。しかし、だんだんと、インタビュアーに慣れてきたのでしょうか、あけっぴろげに感じられるところもあるし、歯に衣着せぬ発言も多数あるし、気難しげなところもあるしで、もともとけれんみの無いお人柄のようではあるのですがざっくばらんに話をしてくれている印象に変わっていきました。その結果、宮崎駿さんという、一人の人間であり、アニメーション映画監督であり、アニメーションの技術者であり、表現者であり、という丸ごとにすこしずつ触れられるような出来栄えの本になっていると思いました。そして、たびたび、「いやはや、面倒くさい人だな」と笑えてしまいました。

面倒くささでいえば、このなかで語られる手塚治虫さんについてもかなりです。漫画を描いているぶんには神様と言われるほどの天才的な技術と表現力を発揮する人でも、アニメーションの分野での仕事ややり口は、宮崎駿さんの言い分のよると「彼がアニメーションでやったことは僕は間違いだと思うんです」でした。製作を安く受け合ったり、イエスマンしか周りに置かなかったり、いろいろあったみたいです。

また、『エヴァンゲリオン』の庵野秀明さんと『攻殻機動隊』の押井守さんにたいする言及があるのですが、彼らへのすごいこきおろし方をしていてびっくり。読んでいくとわかりますけども、どうやら気心知れた仲みたいですね。アニメ世界の世間は狭いようで。

『風の谷のナウシカ』から『千と千尋の神隠し』まで、映画を作った動機やどういう流れの中での作品なのか、また背景にある宮崎監督の思想や知識(マルクスだとか照葉樹林文化だとか)を断片的に知ることができる内容でした。映画の一部分やキャラクターの解説になっているところもあります。

あと、コミック版『風の谷のナウシカ』に触れている箇所も多く、このコミック版にわくわくどきどきした者から言わせてもらうとぞくぞくしてくる話を聞けたような感じでした。名作だと思っているのですが、宮崎さんは苦役のようにこなしていたところがあるようで、スタジオで彼の半径何メートルかではコミック版ナウシカは無かったことになっている、と。もし誰かが触れたら怒鳴り散らされたり不機嫌になってどうしようもなくなったりしたそうです(やっぱり面倒くさいですね)。

なんていうか、クリエイター、表現者として、これだけいろいろ考えているし勉強されているし、っていうところが、一文一文にきらめいて見えるわけです。そのきらめきの光に力をもらうような読書でした。ほんとはこういう本をちまちま読みながら自分でも何か短篇小説をひとつ書いてみるだとかするとすごく楽しくなるんだと思うんですよ。なんか、よく分かっている人で、理解してくれるだろう人で、そしてライバルに設定できる人っていう感覚を持ちつつ書けるというような。読者想定がかなり具体的になるからかもしれないですね。宮崎駿さんを読者に想定して書きやすくなる、という。

それはそれとして、宮崎駿さんのバイオレンス性についてはあまり考えてこなかったですが、ふつうに自認しておられる様子。『ラピュタ』なんかでは「人が蟻のようだ」なんていって大勢死んでいったりしますし、『もののけ姫』でもばっさり刀で斬られるシーンがあったと思います。こういう暴力性の表現の意味っていうものについて、もっと話を読んでみたいです。同時に、僕も自分でもっと考えてみたいところでした。


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『星空の谷川俊太郎質問箱』

2021-08-21 23:18:33 | 読書。
読書。
『星空の谷川俊太郎質問箱』 谷川俊太郎
を読んだ。

いろいろな年代の人たちからWEBに寄せられた数々の質問に、詩人の谷川俊太郎さんが答える本。

谷川さんは詩人であって聖者ではないのですが、大詩人で人生の先輩でと考えると、まるで聖者のようなひとなのではないかという先入観で見てしまう。僕の詩人観がすこし歪んでいるからです。でも、注意深く、こういった本を読むと詩人が聖者じゃないことはなんとなくわかってきます。それは僕にとって、とてもよいことです。どの答えもおもしろい、しかし、僕の読みとは必ずずれている答えになっていました。僕が野球の打者で、谷川さんがキャッチャーとしてピッチャーの投球をコントロールしていたら、僕はまったく配球を読めていないで、空ぶったり見逃したりして三振しているでしょう。それは相性のせいかもしれないですし、僕のあたまが単純にすぎるからかもしれません。またこのこととはちょっと違いますが、とらえどころのなさのある方だとも感じました。

ただまあ、ひとつかふたつくらいは、僕が答えるだろうものに近い答えを発されているものもあります。それは「大切な人が亡くなったとき、どうやって乗り越えてきましたか?」への答えがまずひとつ。<泣きながらカーステレオの音楽を流し放しでどこへ行くあてもなくドライブしたり、飲めない酒を飲んで無理やり自分で自分を寝かしつけたりしました。>というのがそうです。これはガードを解いた時ときのひとりの人間のそのままっていう感じです。

もうひとつあげると、オリンピック選手に恋焦がれていてどうしようもないんだけど、どうしたらいいのかという質問に対する答えの一部分。<恋愛ってある面では反社会的なものなんだよ。>です。こんなにはっきりと僕の内では言語化されていませんでしたが、さっきの配球のたとえでいえば読みの範囲内といえるくらいのところです。

また、考えさせられるタネもいっぱいあるんです。偽善についてのページがあってそこでの谷川さんの答えを大きなヒントにして考えました。それは、偽善的なことって思い浮かぶものだけれど、そんなこと考えもしないと言ってしまえる人が偽善者だ、というようなものでした。例外はあるけれど、悪いことだとか下心だとか、誰もが考えることです。それを、「そんなこと考えてない」と言いはってしまうのが偽善で、それはほんとうにそうだと思いました。仮にほんとうに考えていなくても、指摘されたら戸惑ってしまうでしょうし、戸惑ったときに「やってしまうかもしれない」可能性を少しであっても感じるものだと思うのです。で、そういった下心などが頭に浮かんでいても、自分を律して自制心で行動するのが偽善への対処だと思うのです。それが自己完結の場合であっても。

下心を思い浮かべた時点で偽善になるということじゃないと僕は考えます。そんなのは誰にもあることで、当り前の領域なのではないか。下心の奴隷となりその欲求のとおりに行動したりすれば、それこそが偽善。自律的に自制心で下心をとどめて行動できたなら、下心を内に抱えていたとしても偽善ではないと思うのです。たいていの場合、こころに少しでも邪なものが浮かんでいたなら、それに反した行動をしても他者がそれを見て「偽善だ」と糾弾してくるものですよね。こころにやましい考えが浮かぶか浮かばないかで判断するのは、人間のこころを見透かす存在つまり神様を認めた世界観(宗教観)からきているのではないか。人間がピュアならやましいことは考えないはずだという、考え方によってはナイーブで厚かましい人間観がそこにあるのではないでしょうか。人間はそんな単純に割り切れるものじゃないです。ピュアという単純さをよしとするのは、扱いやすい人間をよしとすることです。つまり、子羊たる人間であれ、というように。だから、下心が思い浮かぶか浮かばないかで人を偽善かどうかを判断するのはくだらないことどころか、害悪でもあると思うんですよね。浅薄な人間観ですから。

ひとりの人が、どう世界と関わるかだとか人とコミュニケーションをとるか、距離をどうとるかっていうのは、その人の世界観や人間観から発生することです。ですから、浅薄な人間観が害悪になるだろうと考えられるのでした。

ちょっと個人的な脱線が著しかったですが、本書は考えるヒントをいただける本であり、谷川さんと張りあうかのようにさまざまな質問に対して自分なりの答えを考えて谷川さんの答えと比べて楽しむというのも悪くない本だと思います。

詩人の思考方法からなにかを得よう・学ぼう・盗もう、というよりも、構えずいっしょに楽しんじゃったほうがずっといい種類のものだと思いました。本質をつく質問にはハッとします。でも、うまく答えられなくてもその質問から逃げない姿勢でいたほうがどうやらいいみたいだ、という感想を最後に持つことができた本でした。


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『世界のすべての七月』

2021-08-20 23:02:50 | 読書。
読書。
『世界のすべての七月』 ティム・オブライエン 村上春樹 訳
を読んだ。

小説が上手かどうかにかかわらず、なんだかどうしても気になってしまう作家で、だからこそ翻訳したい作家なのだ、というようなことを翻訳者の村上春樹さんが書いています。彼がいうところでは、彼の小説には「下手っぴいさ」があるのだと。でも、翻訳されたあとの本書を読んでみるとそういうところはほとんど感じられませんでした。ストーリーの展開には人生を知っているもののそれがありますし、文章やその展開にだってまっとうな誠実さがあると感じました。反対に、翻訳がもともとの文章の素顔を、慣れた感じで化粧しているかのような感覚が僕にはありました。

1969年にダートン・ホール大学を卒業し、2000年に同大学で卒業31年目の同窓会が行われている模様を挟みながら、主要な11人の過去がひとつずつ語られていきます。甘さよりも苦さが際立つかれらのその、それぞれの人生の物語。生きることの苦しい部分を、こちらがするすると読めてしまうところは、エンターテイメントの性質を備えている作品だからだなあと思いました。そして、味わい深い。人生の真であるところにぺたっと貼りついているような距離感覚での文章表現が巧みです。そこまで言い得てしまうんだ、という表現、単純な表現で直截に射ぬくのではなくて、レトリックを用いてやんわりと、だけれどそこで作者が言っている中身を考えるとど真ん中のストライクなんです。素晴らしい球で抜いているんです。そういった見事な球がかなりあります。

作中のそれぞれの人生の話において、その重みや彼らがやらかしてしまったことのオリジナリティについていえば、それはもうどこかに綻びを探そうとするならばそれが愚かで恥ずかしいことであると顔が熱くなるだろうことをすぐに悟るくらい真に迫っていて、この世界のどこかで実際にあったことをエンタメ的な表現で小説にしたのではないか、と信じてしまいそうになるほどです。

作者はベトナム戦争に従軍したそうですが、ベトナムでの戦地の話があるし、若い女の子の危険なお金稼ぎの方法とそこに続く落とし穴の話、二人の夫を持つ女性の話、などなどもっとありますが、語られる話の幅が広くて、だからこそ様々な人生を経た人たちが会する同窓会をこういった形で立体的な群像劇に仕上げられたのでしょう。かなりの力量と熱意がなければ作り上げられない作品だと思います。

さまざまな人生。それらの人生の細かいところを知ると途端に親しみを覚えるものです。今の彼・彼女はそうやって出来たのだなぁとわかりますから。とくにその苦しんだ部分、そこは大きいですね。きっと苦しみのディテールにその人の人生の魅力があるんです。誰かにつよく愛おしさや慈しみを感じるのだとしたら、その誰かの苦しみのディテールを知ったからだったりしませんか? 若いうちは、苦しみの意味なんてよくわからなくて、逆に、苦しんだ過去などは弱点だとか汚点だとかと考える人は多いでしょう。けれども、そこを自分で受け入れて捨ておかないでいられるようになったら、そしてカウンターのような心理で自慢のために使ったりしないようになれたなら、この小説の登場人物たちのように、紙一重ででも善きほうへと小さく一歩をふみ出せるのだと思います。

といったところです。本書のタイトルはどういった意味だろう、と常に頭の片隅に疑問を置きながら読んでいました。ラストに、「あ。」と思う終わり方です。全ての人は、世界のすべての七月に生きている。永遠って実はあるのだ、ということだと読めました。儚いけれどパワーに満ちた永遠であり、信じる者だけの永遠なのかもしれません。


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健康保険の減免制度却下される

2021-08-17 17:07:21 | days
コロナ禍がはじまってすぐの段階で僕は職を失いました。正確には、その年、雇ってもらえなかった。4年間の雪のないシーズンだけ同じ観光施設で働いていて、その前年には会社の人から「来年もよろしくおねがいします」なんて言われていたのでした。言うまでもなくコロナ禍は今も継続していますし、僕の失業の状態も変わっていません。

母の介護をしているぶん、冬場の仕事はむずかしいのです。父か僕のどちらかが雪かきしていたら、必ずどちらかは母を見守っていなくてはいけない。夏場もそれは同じことではあるのですが、冬場はストーブを焚いているぶん危険なんですね。夢遊病者のように目をつむったまま思念かなにかにとりつかれてあちこち歩き回ることが多く、ストーブにぶつかることは珍しくなく、今年の初めには煙突に腕をくっつけて火傷しもしました。デイサービスは嫌がるし、認知症とはちがって飲ませる薬もいろいろあり、さらに薬を飲まないときの対処にも困りますし、父も不安症なので母がデイサービスに行っているあいだは気が気ではなくダメみたいです。

病院に入れるにしても、何度か母を入院させた経験からいえば待遇面がひどいのでちょっと難しいです。すぐに死んでしまいそう。短期間の入院で家族がリフレッシュする方法もあるのですが、その短期間でも歯を磨いてもらえなかったり下着をとりかえてもらえなかったり薬だって定時をすぎたら飲ませてもらえなかったりして、退院するころには入院前よりボロボロになっている。

だから、できるだけ母の面倒を見ながらという前提で仕事を探しても、夏場だけで週3日くらいで日中でとなるとまあありません。家庭環境は月日と共にきつくなるし、父は父でストレスが溜まると暴力もでてきてそれが僕への大きな負荷にもなるし(それに、暴力を制止したり暴力がでないように監視したりするのも僕の役目でもあります)、けっこうむずかしい状況にあるわけです。


前置きが長くなりました。で、やっと本題に入りますけれども、そんななか、新型コロナ禍のため、特別の「国民健康保険減免制度」というようなのを去年知って、申請したのです。担当者に忘れられていたようで払った金額を還付されるまで3カ月くらいかかりましたが、それでも申請が通って免除されたのです。失業などで昨年度とくらべて所得額が30%減以上になった、だとかが条件なんですが、僕の場合はもう100%減でした。

それで今年も状況は変わらず、おなじ減免制度に申請をしたところ、却下されたのです。電話で聞いてみると、あくまで昨年度から所得が30%減以上の場合なので適さないのだ、と。そりゃないぞ、と。それはだって、この制度の主旨はコロナ禍で収入が減って苦しい人のための支援ということでしょう、だったら去年から継続して状況が改善しない人がこの制度に適さないのはおかしいじゃないですか。役所の側は、僕の去年の収入がないから今年がゼロでも30%減にあたらない、という機械的な処理の仕方なんですよねえ。

コロナ禍は2020年初頭からずっと継続しています。緊急事態宣言、まん延防止などを経ても一度も収束していません。そうやってずっとコロナ禍は継続しているのに、日本の人間社会は年度で区切って考えるものなんです。これが、行政! 政治! なんですねえ。

世知辛いもんだ、というか、頭でっかちな感じの対応というか仕組みというか。

生活保護にまる投げする的なやり方ですが、これって、投げやりなのではないでしょうか。

「政治も行政も、なーんかけっこうズレてるよね」と大声で言ってしまってもしょうがないと思いませんか。

まったく……やれやれ。
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怒りと被害者意識。

2021-08-16 14:50:04 | 考えの切れ端
このあいだ読んだ『負けない技術』で気付かされたことですが、人が怒るとき、その大半には源に被害者意識があると思います。ほんとうに被害をうけて怒るときの被害者意識もあれば、これは自分への加害であると決めつけての被害者意識もあります。今回はこのことについて、すこし考えてみます。

生きているとどんどん被害者意識って育っていくものでしょう。毎日、いろいろと、他者から被害を受けて生きています。ただその被害の内容の内訳は、他者にとっては悪意のない加害がほとんどです。東京の山手線で朝の満員電車に乗ったときのことを思い出します。これは容易に足を踏まれかねないし、踏んでしまいかねない、と注意する気持ちになったと思います。たとえば横に立つサラリーマンに足を踏まれてしまう。意図的ではありません、事故です。それでも、踏まれた側はしばらく踏まれたことを覚えているでしょう。それは1日いっぱいかもしれないし、3日間かもしれない。痛かったなあという記憶と共に振り返るでしょう。でも、踏んだほうはどうでしょうか。電車を降りる頃にはたぶん他人の足を踏んだことなど忘れているのではないでしょうか?

このように、被害には肉体的だったり心理的だったりする痛みを伴うことが多いので、ずっと覚えていがちです。でも、加害のほうには自分に痛みがないぶん、すぐに忘れてしまいがち。また、加害したっていうことに対する心の痛みを感じる場合を考えてみると、自分が受けた被害の痛みを客観的にとらえられてこそ、自分が為したことへの心の痛みって少しずつ持てるものなのではないか。

これらのことから考えると、被害者意識ってどんどん溜まっていきやすいものなのに対して、加害者意識はあまり溜まっていかないものだということです。生きていれば、被害も加害も同じくらい高い頻度で経験するものだろうに、意識上には大きな差があるのではないでしょうか。

しかしながら、被害者意識が大きくなると心理的に均衡がとれないのでやり返して心理的負債を返し、フラットにしようとする。とうとう堪忍袋の緒が切れるという状態です。それに、もしも自らの被害者意識ばかりに気を取られるようになり被害者意識ばかりで生きていると、他者へ怒りをぶつけやすくなるだろうこともわかってきます。被害者意識ばかりに目がいくと、日常の些細なことでもなんでも被害を受けたと感じて怒りっぽくなる。なぜ私だけがこういう目に?? という意識がつよくなる。人は被害ばかり受けて生きているわけではないのだけど、自分に対する損なことなどネガティブな事柄ばかりが心に残りがちなものです。さきほどの、足を踏まれた時のように、被害に痛みが伴ってそれが印象的だからかもしれません。

また、私は正しい、私は悪くない、など頑なに自己正当化するのも、被害者意識が強すぎるためということは珍しくないです。「だって、わたしは被害者で、向こうは加害者なんだから私は正しいほうの人間だ!」という論理です。こうなると、被害者意識とほとんど一体化してしまった、と言えそうです。そして、小さくでも大きくでも、プリプリと怒りっぽくなるでしょう。

被害者意識を育てる行為のひとつには、おそらく「愚痴」があります。愚痴自体は、自分の内に溜まったうっぷんを吐きだして(そして他者に知ってもらって)すっきりする行為でもあるのですが、愚痴っている最中に自分の被害を再確認することになり、それに驚きや憤慨を持ちつつ心の中でその被害意識が肥大することもあると思います。愚痴ることで良からぬことになるケースは、それによって自分への被害ばかりに目がいくようになり、それに溺れることです。「自分はなんてかわいそうなんだ!」という気分に誘われて、気持ちのほうもそこから抜け出せなくなる。

こうなりやすい人は、生き方に軸のようなものが弱い場合や、思想や理念がない場合が多いでしょう。こういう泥沼におちいってさらにヒドくなったときには、サイコパス的な行為におよぶこともあると思います。たとえば、AとBの選択肢があって、誰かがAの選択をすると「Aじゃない、Bだ」と文句を言い、Bを選択すると「Bじゃない、Aだ」と怒るというように。もともとその人がAかBかをはっきり考えていたなら、そういうことも少ないでしょうけれども、突発的に選択肢がでてくると被害者思考なので、AでもBでもネガティブに考えてしまい、さらに被害者意識が強いので怒りに繋がる、といったわけです。

では、これらとどう付き合えばいいのか。そこが問題なのですが、こういった、被害者意識に偏るアンバランスさが怒りなどを呼んで心を乱すのですから、自らが加害者になっている事柄を無視せず加害者意識を忘れないことで、自分の怒りへの疑いや他者への許しの気持ちが生まれたりするだろうと考えられます。

仮に、一日生活すると被害者意識100に対して加害者意識を10持つようになるものだとします。人生を送っていくうちに被害も加害もどんどん増えていくのはおわかりだと思います。それで、たとえば加害者意識が50を超えたらすこし気を使うようになっていくものだとすれば、人生を送っていけばそのうち人は丸くなっていくのがわかります。偏りの少ない意識で生活していたらそうなるでしょう。でもそれを無理やりやるかのように、加害者意識を無視するような生き方をしていたら、いつまでたってもオトナになれない(丸くなれない)。そればかりか、どんどん積み重なっていく被害者意識に飲みこまれてその奴隷のようになってしまう。そうならないために、加害者意識は、被害者意識ばかりの自分への躊躇となります。

自分はどういうふうに生きていくかだとか、ある程度の覚悟をしておくこと。そして、加害者でもある自分という意識を持つこと。それらが、自分だけではなく周囲にとっても、怒りによるダメージから遠ざかることができることなのではないでしょうか。
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ワクチン摂取二回目

2021-08-13 10:56:48 | days
8月4日、新型コロナワクチンの二回目の摂取注射をしていただきました。ファイザー製です。

二回目は副反応が一回目よりも強くでやすいとテレビやネットで見聴きしていましたから気持ちを固めていたつもりでしたが、どこか真剣ではなかったみたいでした。だから、注射を打ってすぐに腕が痛くなってきたことから判断して、「たぶん、前回よりも腕の痛みが早く強く出るのが、僕の場合の二回目での強い副反応になるんだ」なんて勝手に考えはじめていて。

帰宅しても腕の痛み以外はなんでもなくて、元気にこのブログの更新までしたと思うんですが、翌朝になって頭の重みと頭痛、倦怠感がではじめました。それでも朝食を食べ、家事をし、スーパーに買い物にまでは行けたんです。それで食材を片付けてから「ちょっと休もう」と布団に横になった。暑い盛りで、室温は30度を超えている中でした(エアコンはありません)13時頃に悪寒がしたので熱を測ったら37.9度。「ああ、来たか、副反応」と、このときのために用意しておいたバファリン・プレミアムを服用! 厚労省の指示にある熱冷ましの成分のひとつにアセトアミノフェンがあって、このバファリン・プレミアムにはそれが入っていた。

驚いたのは、服用してものの3,4分で頭痛と頭の重みそして倦怠感が1/10くらいの軽さになったことです。「こんなに効くのか!」と、下がっていく不快感とは反対にテンションが上がっていきます。1時間ほどして熱は下がりました。咳も鼻水もなくて熱だけ上がるなんて不思議な体験でしたねえ。

これで副反応は終わったと思い、夜になってオリンピックの卓球女子団体をテレビでみながら応援していたら、熱が37.3度に。薬のすごさを味わいたくて微熱にも関わらずまた薬を服用。扇風機をかけながら就寝。翌朝、起きると熱は下がっていました。熱はこの日、つまりワクチンから3日目の夜にもまた37.0度まで上がりました。でも、猛暑のなか9時間や10時間、30度超えの室内に居続けていたので、熱中症的な熱なんじゃないかとも思ったりなどもしました。昼間には、火照った両足に冷たいシャワーを浴びせて「ひえ~」なんて、内心で嬌声をあげていたくらいで。

その後の経過でいえば、一回目のときに十日間ほど頭がざわざわする感じと同じように、二回目から十日間ほど経った今もざわざわが収まりません。ワクチンは筋肉注射ですし、打った三角筋(?)のあたりが痛むというのは、もしかすると筋緊張的なものも誘発していて、それで肩凝りや首の凝りのときのように頭痛が起こるのではないだろうかと自分で仮説をたて、ひどい肩凝りのときの処置のように湿布をはってみたりしました。がしかし、ざわざわする感じと、たまにある軽い頭痛はおさまらないです。まあ、時間が経てば治るでしょうから、気長に待ちます。

デルタ株が関東ではすごいことになっています。僕の住む北海道でも昨日の陽性者数が480人でした。もはやワクチンを含めた集団免疫待ちになっている状況ですけれども、ワクチン接種が行き届かないなかで医療崩壊が起こっているのはどうにかできたらいいのだけど、みんな働かなきゃならないし外を歩いちゃいますよね……。119番に電話しても救急搬送できなくなると、自然とコロナでの死亡率があがっていきます。これまでだったならなんとか助かる症状の人も助からなくなりますから。現在のコロナ死亡率や重症率を見てナメてかかっていると、たとえばひと月後の死亡率などはナメていられないくらいに上がる可能性が高い。今からでもしっかり気を引き締めて生活しないといけない時期ですね。最後の大きな勝負所かもしれません。
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『メールはなぜ届くのか』

2021-08-09 22:23:07 | 読書。
読書。
『メールはなぜ届くのか』 草野真一
を読んだ。

メールが届くまでの工程や仕組みをたどりながら、インターネットやコンピュータってどういうものなのかを学べる本。

地球の裏側からでも、瞬時にメールは届きます。物理的に途方もない距離をどうやってこちらまでやってくるのか。回線の性能面、つまりどのくらいのデータ量が1秒でどのくらい進むかというような記述はありませんでしたが、コンピュータ同士でどうリレーしていくかというようなネットワークの仕組みについて知ることができます。コンピュータ同士で繋がるために必要な取り決めを「プロトコル」といい、サイトのアドレスでおなじみの「HTTP」やサイトを作るときに必要なファイル転送で使う「FTP」などの「P」の文字がそのプロトコルのことなのでした。

ネットワークでは光ファイバーなどの物理的な面がまず基盤にありますが、その次の段階にあたる機器上で設定するもののいちばん基礎にあたるのがIPです。これもプロトコルです。「IPアドレス」のIPですね。つまり、ネットワークを理解するのはプロトコルがその要点なのです。

そういった「今さら聞けない」ような、基本でありながら「知る人ぞ知る」的なインターネットの知識を本書から得ることができます。それも平易な文章なのですらすら読めますし、トピックの噛み砕き方だってほどよく親切でしたから、小学生から大人まで楽しんで読める仕上がりになっているといっていいと思います。

また、パケットに分割してデータは送られ、そして受け取られる、という知識は、僕にはうろ覚えなくらいうっすらとしか覚えていない知識で、今回この本を読むことで記憶の底深くから甦ると同時にくっきり明確になったくらいでした。インターネット誕生の話についても巻末でざっくりと説明されているのですが、冷戦下で軍事目的に作られた、という部分はなにかで読んで覚えていても、それがどう今日のインターネットの「性格」として顕われているのかという視点がすぐれていて、本質的な理解がすすむのです。そのように理解していくことで、よりイメージは豊かになり直感的に把握することができるようになるでしょう。

著者も述べているのですが、今やメールは古い技術です。他にメッセンジャーやLINE、SNSなどが流行していますから、そちらを解説したほうが時代にあうのではないかと考えたそうです。でも、あえてメールの仕組みにしぼったことで、ネットワークやコンピュータそのものについて学べるものを書けた、と。現役の根本技術であり基本技術であるところを知ることができるのです。

本書を起点に、ネットワーク管理者の勉強に向かう人もでてきそうな内容でした。IT雑誌などをたびたび読んだりして独学でパソコンを深めている方などには、その隙間をしっかり埋めてくれるでしょうし、また、断片化している知識を繋ぎあわせて整理してくれる一冊にもなっていると思います。もっと様々な、それも時代の先端の技術を知るのもおもしろいですが、こういった初歩の知識を学んでおくのも悪くはありません。後を考えてみれば、急がば回れ的な一冊にあたるものかもしれないです。


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『負けない技術』

2021-08-04 20:29:41 | 読書。
読書。
『負けない技術』 桜井章一
を読んだ。

裏麻雀の世界で代打ちとして20年間無敗を誇った「伝説の雀鬼」である著者による、勝負事にかんする彼なりの人生訓・人生哲学といったエッセイです。裏麻雀って何なのかと検索してわかるところでいうと、企業やヤクザなどが賭博を行うためのものだったり、地域への進出や撤退を賭けたものとして行われていたりするものだということです。そういうことで回っている世界があり、そういった世界のあれこれが表の世界に潮の満ち引きのように影響を与えてもいるのでしょう。そういう世界の裏麻雀であまりに伝説的な活躍をしたがため、こうして表の世界で「世に出る」ことになったのかもしれませんし、それこそ名を知られたほうが安全だ、みたいな論理もあったのかもしれない。表の世界のわかりやすいところでこういった話を知ることができるのは、Eテレの「ねほりんぱほりん」がそうだったりしますよね。

巷で「常識的なこと」としてよく言われる事の真逆を往く考えが多く述べられていて、その理由が独特の論理だったり論理に読めそうだけれど単に論理風だったりもしながら考えを支えています。魅力的な思想に映るけれども、信者にはならないでいたいと思いながら読みました。あくまで「自身で考える種をいろいろと得た」くらいの気持ちで。なぜなら、内容が人生に肉薄するものばかりゆえに、だからこそ、自分から近寄っていって触れてとりこみたい誘惑からできるだけ無になって距離を取っていたい、いちばん大事なのは自分で考えて自律的に生きていたいということですから。本書の教える通りに信じて従ったとして、うまくいかないときに責任をとるのは自分の人生なんです。

でも、そういった距離感で読んでいても刺さってくる言葉は多いです。なかでも、怒りは被害者意識からくるもので、それを緩和させるには加害者意識を持つことだ、という見抜きには唸りました。被害者意識と怒りの結びつきについては僕もわかっている範囲のことでしたが、そこで加害者意識をしっかりもつことを説くのはさすがです。

人間、生きていれば、数多の被害を受けながら人生が進んでいくものですが、同時に、意図していてもしていなくても、かなりの加害を多くの他者に加えているものです。そこを、多くの人は意識していなかったりしませんか。被害にばかり意識がいって、加害については大目に見たりすぐ忘れたりしている。それだけ、被害者意識っていうのは、人間の心理の中で強いものなのだと思います。加害しているのだ、と意識すると、自分の被害つまり相手の加害について躊躇がうまれるでしょう。それが、自分だっていろいろやらかしていてお互いさまじゃないか、という意識に繋がっていくと思います。人間って相手に何かをやったりやられたりしているものなのに、いちいち自分の被害だけに感情的になっているのはおかしい、という気付きにもなりそうです。

そこで厳しく、「じゃあ、今日から自分は相手に加害をしないようにずっと意識していくし絶対にしない。だから、相手からの被害も許さない」という方向へ行くのか、それとも、「自分だって許されたいんだし、相手も許そう」という方向へ行くのか。行き詰らないのは後者だと思いますが、前者の道をいった人も、回りまわって最後には後者に行き着くような気がします。

人間、年齢を重ねて丸くなる、というのがありますが、丸くなる人はたぶん、自分の加害性に思いが及んでいる人です。いくつになっても丸くならない人は、いつまでたっても自分は被害者だと思いこんでいる人だと思います。

子どもは人生経験が少ない分、加害した経験が少なく、そして人間本来の性向といえると思いますが被害者意識が強い状態で生きています。だから、癇癪を起したり、小さいことで怒ってケンカをしたりなどするのかもしれない。こういった面では、「子どもの気持ちのままの大人」でいないほうがいいのかもしれません。そういうのはまた違った面の話です。

さきほど、信者にはならないように読んだ、と書きましたが、それは誰かと対面で話をきく場合もそうです。相手が魅力的な人物だとしても、姿勢は崩さないでいたい。本書は、忌憚のない彼一流の人生哲学です。強さがあり、魅力があります。ただ、そこへの触れかたなんです。あわてて丸のみはせず、ゆっくり落ちついて味わうといいでしょう。


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『JR上野駅公園口』

2021-08-01 04:01:37 | 読書。
読書。
『JR上野駅公園口』 柳美里
を読んだ。

2020年の全米図書賞翻訳部門に選ばれもした作品です。文庫本の裏表紙にある内容紹介の文章が、ほんとうに書き過ぎずちょうどよい濃度で伝えてくれているので、僕がここでわざわざ拙く紹介するのも野暮なのですが、とりあえずのところを知って頂くために簡単に書いていきます。多少のネタバレもあります。

福島県相馬郡で暮らしていた主人公が人生の最後に上野駅周辺でホームレスとなり、その生活の中で故郷や家族、そして自分の人生を振り返っていきます。平成の天皇と同じ年齢で、皇太子(今上天皇)と同じ日に生まれた息子がいて、昭和天皇の行幸の場に居合わせたことがあり、というふうに、日本という国に住む者のいっぽうの極ともういっぽうの極の対比で見せる構図でもあります。ここで気付くのは、どちらにしても人間的な油っこさが薄く感じられること。しかしながら、主人公のようなホームレスにはまったく力がなく、天皇などの皇族が上野周辺での行事に訪れるときには、一方的に「山狩り」とも呼ばれる特別清掃で一時的にダンボールやブルーシートの小屋を片付けさせられます。

まるでノンフィクションのように綴られていく小説世界でした。リアリティーの描き方が、語彙と勉強によって支えられているように読み受けました。僕だったら、たとえば札幌の街中を歩いて、そこかしこで目にする事実の由来や理由についてまったくわからないどころか気付きもせず歩き流していくところでしょうが、しかしこの小説では、その故郷の土地での仏教の宗派の歴史とそれによって出来あがった現実の空気や力関係などもそうですし、警察車両の種類やその目的など、そして上野駅周辺の映画館の種類など、生活周辺域への認識の踏み込みが言語化できるほど深いです。小説世界の組み立て、建物でいえば柱や梁などの構造部分にあたるようなところ、そこをしっかり克明に書いていくことで、現実との境界をきっちり区切ったものではなく、ある現実のひとつとして読めてしまうような作品になっているのではないでしょうか。

そうやって描き出されたものは、日本の社会全体で見ないふりをしてきたことや、無関心のなかに葬ってきたことだと思います。主人公は若い時分からよく働き長いあいだ出稼ぎにも出て仕送りをしてきました。それは家族のためでもあり、同時に高度経済成長期を支えてもいたのです。酒も飲まず遊びもしない主人公は、労働のきつさにも紙一重で負けず、真摯に生きてこの社会のインフラ面などの力になってきた。いわば数多くの功労者のひとりなのですが、老いてから、孫娘に面倒をかけるわけにはいかない、と再上京してホームレスになってしまう。

要領が悪かったとか不器用だったとか「個人のせい」で片付けられるものでもないと思うのです。社会の構造からして無数にエアーポケットがあるのだと感じました。人に頼らず自活し、他人に迷惑をかけないことを徳とする倫理観はこの国では強くて、小さなころから空気といっしょに吸い込みながら成長してしまいます。そうやって自然にこの倫理観と一体化してしまうがゆえ、ちょっとした不運や不幸で人生の大きな転換を、それもネガティブな転換を迫られてしまう。

社会へと「こういう疑問を気付いてみませんか? そして考えてみませんか」と投げかけられ問いかける作品でした。最後に、151pにある一文で締めたいと思います。

<自分は悪いことはしていない。ただの一度だって他人様に後ろ指を差されるようなことはしていない。ただ、慣れることができなかっただけだ。どんな仕事にだって慣れることはできたが、人生にだけは慣れることができなかった。>

強い風が吹いて飛ばされてしまったら、もうそのまま。そんなふうな社会環境ではよくないな、というのは、東日本大震災で甚大な被害があった人々を想ってもそうですし、今のコロナ禍でもその窮状に対して無関心にさらされる人々を想ってもそうです。

いまより一歩でも「よい」と思える社会を作っていくために必要な「問い」のある、力のこもった作品でした。


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