Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

"Bye" and "See You!"

2014-01-29 12:21:27 | days
ネットのコミュニティというかグループというか、
そういうものから弾かれてしまいました。

それでいて、Twitterでは何事もなかったかのように、
外されたことを告げられることなく、知らされることなく、話もなく、
雑談が続いていました。今思えば、ほのめかすようなことが
あったかなぁと思いもします。

気がついた時には、
凍えるような冷気が心中に入り込んできたようで、ハッとしました。
無条件に、自分を責めてみる気持ちが生じてきて、悲しくなりました。
そして、しばらくの間、いつもの6割くらいしか身体に力が入らなくなりました。

これまでにもあの場所から弾かれた人がいることは知っていました。
なんの予告もなしに弾かれてアクセスができなくなるので、
問い合わせのメールが僕に来たくらいです。
僕は、「交渉してください」と、管理人のメールアドを教えたのですが、
管理する側からすれば、「ルールとしていた」の一言で片づけてしまう、
瑣末な件だったのでしょう。
弾かれた人たちは、大なり小なり、心を踏みにじられたんだと思います。
僕は今回、あぁそうか、と身を引きました。関係するSNSはすべて引き払いました。

人の心を傷つけ、踏みにじっても、
「そんなふうに相手が感じているとは思わなかった」
「気付かなかった」「ルールとしていたし」と
片づけるかもしれません。
自分や自分たちのしたいこと、
ひいてはエゴを優先することで切り捨てていくものには
なんの情けも要らないものでしょうか。
人の心を容赦なく踏みつけてでも、自分のエゴを押し通していく、ということでしょうか。
気付くと面倒くさいことになるから、あえて気付かないようにしているのでしょうか。

陽気にワイワイやっていれば、自分たちのすることはすべて
陰湿なんかじゃないって思ってしまうのだろうか。
いや、「陽気にワイワイ」を隠れ蓑に陰湿なことをしてしまうのだろう。
陽気でいることは、陰湿さからもっとも遠いことだって
勘ちがいしがちなんです。イジメなんかはそうですよね、イジメる側は陽気です。
そんな酷いことを陽気にやってやがるのか、って、神経を疑ってしまいます。
あえて陽気にすることでカモフラージュしようとする心理があるのでしょうか?
それイヤですね。

「あの特別な場所は、こういうルールとしていた」だとかと言い訳しようものならば、
陰湿さと怜悧さをルール化して正当化するなと言いたくなる。
ルールという合理性があったとして、合理性ってのはそもそもえらくなんてなくて、
心を蹂躙するものなんです。
合理性を押し進めれば進めるほど、人の心理面に圧迫や無理を与える頻度や大きさは大きくなる。
高名な心理学者である河合隼雄さんは「合理性は心に悪い」って言っていました。
そんな合理性の持つ、心を傷つける性質に加えて、陰湿で怜悧だという性質が
僕を弾いたルールにはあるのです。
「ルールだ」と言われても、「悪いルール、悪法」でしょう。
その「特別な場所」が発足した時に、その悪法に気付かなかったことで、
それに加担してしまったことを僕は大いに反省します。

また、著名人のファンをやるということには、罠が満ちていることが今回わかりました。
鼻高々な気分を望んでいたり、功名心みたいなものがあったり、認知されるというステイタスを
求める気持ちがあったりしがちなのでは、と考え到りました。
また、自分を売り込もう、仲良くなりたい、距離を縮めたい、などもあるのではないか。
それは、最初の心理からはないかもしれないですが、何かがきっかけでエスカレートすると、
そういった徴候が芽生えると思います。
つまり、極めてどろどろした感情があるんです。
それを、綺麗ごとでもって、同じファンを集めて集団を作ろうとして出来があがってみるとどうなのか。
綺麗ごとのオブラートに包まれたどろどろした感情でもって動く集団になるのではないのか。
そして、反対意見を言う人などを、巧妙に遠ざけていくような性格を持ちだすと、もういけない。
裸の王様しかいない集団の出上がりです。

というところで、もういいです。
悲しみの後には、切なさが押し寄せてきます。
人の気持ちを大事にしない集まりは、僕には向いていないようです。

そんなわけで、このブログですが、
少しになるかしばらくになるか、まだわからないのですがお休みします。
読んでくれていた方々、ありがとうございました。
それでは、またの機会に。
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『思い出したら、思い出になった』

2014-01-23 22:44:51 | 読書。
読書。
『思い出したら、思い出になった』 糸井重里
を読んだ。

糸井さんの「小さいことばシリーズ」第二冊目が本書です。
このシリーズは装丁に特徴があって、
その質感がオンリーワン的でやっぱり好いんですよ。
その手に持った感じだけでも、「あぁ、良い本を買った!」
と思えるくらいです。

そして、開いて読み始めると、短いセンテンスが広々とした
一ページに贅沢に印刷してあって、その空白部分ともども
楽しめちゃうんです。
空白部分が大きいからこそ、響いてくるものって
あるんだなぁというのをこの本から教えてもらいました。

糸井さんの小さな哲学や気がついたことや、独特の感性の言葉や冗談が
ちりばめられています。
詩のほうの分野にも足がかかっている性格の本だともいえます。

温泉のように、ぽかぽかとしてくる読みものです。
これを読むことで、心が解きほぐれる人もいるでしょう。
でも、そういう好い面だけではなしに、
読むことで、泥のような眠りに近いような、
心の柔らかいところが静かに波立つような感覚ももしかすると、
人によっては経験できるのではないかと思いました。

また、平易な態度で書きつづっている文章ですが、
僕が同じようなことをしても出来ないぞ、というような高みを感じるんですよね。
そこは、ちょっと悔しいというよりも、それに先立つ部分の「自分、負けてる感」が
際立って感じられます。

「ほぼ日刊イトイ新聞」で使われた文章ばかりを集めています。
ほぼ日って、十年ちょっと前くらいまでの印象だと、僕でも仕事できそうな
けっこう素人っぽいスタッフがいる組織でやっている印象を持っていましたが、
今なんて、僕なんか足元にも及ばないプロ組織に成長されてますよね。
僕がウサギで、寝ているうちに亀のほぼ日スタッフに追い抜かれたような、
失礼で不遜な態度のたとえながらも、そんな感慨を覚えます。
まあ、俺も頑張れよということで。

糸井さんの小さな哲学や気がついたことや、独特の感性の言葉や冗談がちりばめられています。詩のほうの分野にも足がかかっている性格の本だともいえます。温泉のように、ぽかぽかとしてくる読みものです。これを読むことで、心が解きほぐれる人もいるでしょう。でも、そういう好い面だけではなしに、読むことで、泥のような眠りに近いような、心の柔らかいところが静かに波立つような感覚ももしかすると、人によっては経験できるのではないかと思いました。
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『これからの防災・減災がわかる本』

2014-01-22 00:14:42 | 読書。
読書。
『これからの防災・減災がわかる本』 河田惠昭
を読んだ。

東日本大震災の記憶。
被災したわけではないので次のような言い方が誤解を生みそうなことも
考えられるのですが、…3年近経ってその「リアルさ」というものが薄れてきています。
とはいえ、まだまだ復興について忘れたわけではないですし、
福島第一原発事故が収束したとは考えていません。
そんななか、手に取ったのが2008年出版のこの『これからの防災・減災がわかる本』でした。

本書で、これから備えておかなければいけない災害として述べられているのは、
首都直下型地震や東海・東南海・南海地震で、2008年当時にもまったく
(少なくとも公には)東日本大震災は想定されていなかったことがわかります。
だからといって、本書の価値が無いわけではまったくないのです。

これまでの日本の大きな災害や世界の大きな災害を紹介あるところからはじまり、
地震などのメカニズムを簡単に教えてくれて、危機管理や事前・事後対応のありかたなどを
わかりやすく箇条書きのように可視化した形で紹介してくれます。

地震のメカニズムでは、共振という、地震の揺れの波長が建物などの構造物とあってしまうことで、
崩壊する現象が書かれていて、むかしテレビで観たことがあるなぁと改めて学びました。

新しい知識として目立って読めたものには、
専門用語である「正常化の偏見(正常化バイアス)」がありました。
これは、津波警報が出ても、「なあに、二階に避難すれば大丈夫」だとか、
「いつも低い津波だからきっと今度もそうだ」とタカをくくってしまう心理のことを言うそうです。
災害による死亡者の割合では65歳以上の高齢者が多いそうですが、
それは、高齢のために身体の自由がきかないということよりも、
こういった高齢者自身が自身の勘や経験をあてにしてしまうがゆえの判断力の衰えである、
「正常化の偏見」によるものだ、と本書にはありました。

そして、ここが大発見でした。
「自助・共助・公助の意識」というものです。
災害が起こる前は、自分で自分をを助けるべきだという自助の意識、
周囲の人とともに助け合おうとする共助という意識、
自治体や国といった公的機関の助けをあてにする公助という意識は、
1:2:7の割合だそうで、
これが災害後になると、7:2:1に逆転するそうです。
つまり、災害を経験すると、「自分のことは自分で守らねばならない」という意識が大きく育ち、
「国や自治体はあてにならない」という幻滅が生じるということです。
これは真理であると思いました。
自分は自分で助けてやらねばならないという「自助」というもの。
そして、これは災害時に限らず、各人が生きていくうえで一番大切なことなんじゃないでしょうか。
自助は危機管理の上で大事だ、と本書の最後のほうでも再度書かれていましたが、
要するに、スポーツ選手なんかが一時期よくインタビューで答えていたことが多かった、
「危機感を持つ」という意識に直結するのです。
危機感を持つことで、自助の意識が高まるということは、
他人をあてにせずに自分でよく考えるということです。
そうやって、スポーツ選手は成長してきたのかなと思えやしませんか。
「満足しない」という言葉もスポーツ選手からよく聴かれますが、
それも、この「自助」に繋がることがわかりますよね。
そうやって、自助への意識を「危機感を持つ」のと「満足しない」ことで
作っているということになります。
これが、イチロー選手くらいになると、一本一本のヒットに満足する。
満足しないなんてありえないということになりますが、
そうやって超一流の野球選手で有り続けられるのは、
イチローさんはイチローさんなりの、「満足しない」というスイッチ以外の
スイッチでもって、自助の精神をオンにしているからなんじゃないかなと思うわけです。

まぁ、それほどまでに、「自助」は大事でしょうということで、
僕もこの意識は少しづつ高めていくべきで、今は足りていないと思っています。

ということで、そういうところにまで思索が飛んでいきもするんですが、
本書はしっかりした防災や減災の意識付けをする本です。
この方面の基礎中の基礎の知識を教えてくれているので、
自然災害、特に地震の多い日本に住んでいるみなさんは、
読んでおいたほうがいいだろうなぁと思いました。

ここが大発見でした。「自助・共助・公助の意識」というものです。災害が起こる前は、自分で自分をを助けるべきだという自助の意識、周囲の人とともに助け合おうとする共助という意識、自治体や国といった公的機関の助けをあてにする公助という意識は、1:2:7の割合だそうで、これが災害後になると、7:2:1に逆転するそうです。つまり、災害を経験すると、「自分のことは自分で守らねばならない」という意識が大きく育ち、「国や自治体はあてにならない」という幻滅が生じるということです。これは真理であると思いました。自分は自分で助けてやらねばならないという「自助」というもの。そして、これは災害時に限らず、各人が生きていくうえで一番大切なことなんじゃないでしょうか。自助は危機管理の上で大事だ、と本書の最後のほうでも再度書かれていましたが、要するに、スポーツ選手なんかが一時期よくインタビューで答えていたことが多かった、「危機感を持つ」という意識に直結するのです。危機感を持つことで、自助の意識が高まるということは、他人をあてにせずに自分でよく考えるということです。そうやって、スポーツ選手は成長してきたのかなと思えやしませんか。「満足しない」という言葉もスポーツ選手からよく聴かれますが、それも、この「自助」に繋がることがわかりますよね。そうやって、自助への意識を「危機感を持つ」のと「満足しない」ことで作っているということになります。これが、イチロー選手くらいになると、一本一本のヒットに満足する。満足しないなんてありえないということになりますが、そうやって超一流の野球選手で有り続けられるのは、イチローさんはイチローさんなりの、「満足しない」というスイッチ以外のスイッチでもって、自助の精神をオンにしているからなんじゃないかなと思うわけです。
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『聞き上手 話し上手』

2014-01-17 20:44:48 | 読書。
読書。
『聞き上手 話し上手』 佐藤可士和
を読んだ。

博報堂出身で、
広告中心でも単なる広告にとどまらないようなクリエイティブな
お仕事をされている佐藤可士和さんの対談集です。

佐藤可士和さんという名前は、幾度と聞いていても、
どんな仕事をしている人なのかは全く知りませんでした。
僕の中では、知る人ぞ知る才人といった感じ。
知ろうとしなければ知ることができないところにいる才人。
ユニクロのお仕事をしたり、楽天のお仕事をされている人だと、
今回初めてわかりました。

そんな佐藤可士和さんの本をどうして読もう思ったかは、
その対談の相手に、坂本龍一さんや秋元康さんがいたというのがあります。

この本では38人のトップランナーがゲストとして登場します。
僕の知らない人、名前だけ知っている人、好きな人、嫌いなイメージの人、
それぞれがいて、この本を読むことでちょっと彼らの呼吸の仕方を見てとることができ、
著名人ではありながら、生身の人間としての息遣いが感じられるような、
そういう近づき方がほんのりと出来たような読書体験だったでしょうか。

華道という世界の池坊美佳さん。
茶道という世界の千宗屋さん。
そういう和の深みのような世界の中心にいらっしゃる方々との対談は
とても新鮮に読むことになりました。
ふだん、生活していてなかなか触れることが出来ない世界ですし、
敬遠してしまう世界です。
でも、彼らを知って、WEB検索してもう少し調べてみると、
すごいぞ、と思えたりして面白かったですね。

38人で261ページくらいですから、
一人ひとりのお話の長さは短いですが、
そこはそこ、入門編でもありますし、
ほんのひとくちあるかどうかの量のお酒を口に含んだようなものだったりして、
そんなひとくち分の香りや味わいや余韻を楽しむ様な作りに
なっているんじゃないかなと思いました。
まぁ、雑誌連載の対談を集めたものですが、そういう趣を感じながら読めもします。

さっぱりしていながらもしっかり骨はあるという本です。

この本では坂本龍一さんや秋元康さんら38人のトップランナーがゲストとして登場します。僕の知らない人、名前だけ知っている人、好きな人、嫌いなイメージの人、それぞれがいて、この本を読むことでちょっと彼らの呼吸の仕方を見てとることができ、著名人ではありながら、生身の人間としての息遣いが感じられるような、そういう近づき方がほんのりと出来たような読書体験だったでしょうか。
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『ジャッジ!』

2014-01-15 22:54:01 | 映画
妻夫木聡さん主演の映画、『ジャッジ!』を観てきました。
広告業界が舞台という映画です。

漫画が原作なのかな、って思えるほど、キャッチーで面白い映画でした。
広告業界という、中身についてのなじみは薄いながらも、
早晩目に触れるCMというものが彼ら広告人と一般人の接点であったりして、
そういう意味では、メジャーなところが舞台ではあります。

電通ならぬ、げんつう。
博報堂ならぬ、はくふうどう。
そんな広告の大会社二社が出てきます。

それと、劇中に流れる数々の審査対象のCMは本物のCMなのだろうなぁと
思いました、主人公のオオタキイチロウの関係する2本はともかくですが。

これがフィクションのいいところだと思ったのが、
バカ正直で計略や駆け引きを使わない主人公が活躍してしまうところです。
実際はリリー・フランキーさん演じる人のほうが本当なんだろうなぁ、
なんて寂しく思ったりもして。

難しく考えることなしに、肩の力を抜いて楽しめる作品でした。

途中の、北川景子さん演ずるヒカリが放ったセリフが、
この作品の中心なんだろうなぁと思いました。
嘘も本当もうんぬんというところ。
でも重みはそんなになくて、さらりと過ぎてしまうシーンです。
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『「当事者」の時代』

2014-01-13 22:24:26 | 読書。
読書。
『「当事者」の時代』 佐々木俊尚
を読んだ。

その有り方が両極端からの投射になってしまっている、
今の日本のマスメディア、ひいてはすべての言論に対して、
その構造を、一方は暴露的に、もう一方は歴史を分析することで
論理的に解析し、わかりやすい文章でつづった、465ページにもわたる著者の力作です。
こういう、深い問題意識を持って、未踏の大地に挑むように踏み行って、
成果を持ち帰るような感じの仕事は、男気がなければできない仕事だよなぁと
思いましたね。

冒頭でてくる、警察と記者たちの関係については、
この本を読むまでどういうものなのか知らなかったです。
「夜回り共同体」と本書では言われる、独特な慣習がそこにはあり、
しち面倒くさいやりとりを記者と警察はしているようです。
この章で出てきた、ハイコンテキストとローコンテキストの
コミュニケーションという区別仕方には、
なるほどなぁと、盲を開かされたような気がしました。
というか、本書全体を読んで、もっと大きく、盲を開いたような気がしました。
コンテキストというのは、「文脈」や「背景」といえばわかりやすいですね。
夫婦の会話で、「あれ取って」「はい、これね」などとやりとりをするのは、
文脈や背景を濃密に共有しているからこそのもので、
そういうのをハイコンテキストといい、日本では優勢なありかたであったりします。
一方、ローコンテキストというのは、主語、述語、目的語、補語などいちいちちゃんと
表現して、文脈や背景に依存しなくても、コミュニケーションできるような
表現のあり方を言い、これは欧米的だと言われていました。
それで、「夜回り共同体」というのはハイコンテキストだということです。

もうひとつ、本書の重要な概念に、「マイノリティ憑依」というのがあります。
当事者でもないのに、当事者のように不平や不満、要望などを代弁するようなこと、
そういうのを、「マイノリティ憑依」による言論と、
僕なりの簡単なまとめ方ですが、そういいます。
これは、これで、架空のマイノリティを作り出してしまい、さらに、
その架空のマイノリティをエンターテインメントにしてしまうという、
報道の本質のようなものからずれた言論を形成してしまうという問題があるようです。

それら、「夜回り共同体」というインサイドと、
「マイノリティ憑依」というアウトサイドからしか照射しなくて、中身が空っぽなのが、
70年代以降の日本の言論だと著者は看破するのです。

そこらへんの説明は、本書では十分に紙幅を使って説明してくれているので、
是非読んでみたら面白いと思います。
読み物としても、平易な文章で書かれている上に、論旨も明快ですし、
カギとなる様々なトピックも興味深いものばかりで、夢中になって読めます。

本書を最後まで読み進めているうちに思い出したことがありました。
お互いに長澤まさみちゃんが好きということで知り合えた福島の方がいるのですが、
その方が電車だったか新幹線だったかでご一緒した人に震災体験を語った時に、
自分の当事者としての話がうまくできずに、一般的な、
他人の体験を話すような感じになってしまって、それを悔いてらっしゃったんですよね。
これは、本書で批判されている「マイノリティ憑依」について、
福島のその方も嫌悪して感じていたということになります。
言論について鋭く、さらに自分や他人の誠意をわかる人なんだろうなぁと思いました。

「夜回り共同体」というインサイドと、「マイノリティ憑依」というアウトサイドからしか照射しなくて、中身が空っぽなのが、70年代以降の日本の言論だと著者は看破しています。力作。男気。

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謹賀新年2014

2014-01-01 15:36:11 | days
あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願い致します。

今年の目標は全然定まっていない僕です。
とにかく1年半くらいは今の感じが続くので、
その中でなんとかやっていきます。

まぁ、一番、こうなりたいっていうのは、
「痩せたい」ですね。

とりあえず特茶の伊右衛門を飲みつづける所存。
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