特にこのブログではそうですが、
ぼくはよく、生きづらさをテーマにして考えます。
それはなによりも、ぼく自身が若い頃に、
「世の中って思ってたよりも生きづいらいなぁ」
と感じたことに端を発したからです。
そして、世の中の方を変えればいいやというような、
西欧的な思考(なのかな?)でもって
考えを進めてきましたが、
生きやすくするためには、
自分を変えなければいけないという部分も
けっこうあるわけです。
自分から変わっていこうとするのは東洋的な思考とされますね。
それで、今日はそのひとつである、
「言葉によるがんじがらめ」のための生きづらさについて、
ちょっぴり書いていきます。
言葉にがんじがらめになると生きていて苦しくなるものだ。
言葉にがんじがらめにならない生き方ってなんだろうか?
それは、わからないことはわからないと言い、
言葉で飾り立て過ぎず、ウソをつかないことです。
言葉っていうものは、口にすれば音とともに
空中に消えていくもののように思うかもしれない。
でも、言葉って実はけっこう強いもので、
書き物をして意識から言葉を外に出せば、
意識上から言葉が霧のように消えていくわけじゃないように
(まあ、忘れることはありますけど)、
頭にはその痕跡って残ると思うんです。
それで、わからないことをわかるというとどうでしょう?
ウソをつくとどうでしょう?
そういう言葉が意識を占有するパーセンテージがあがります。
そういう言葉に意識がとらわれて、がんじがらめになるんですね。
それも、実体験や経験に即していない言葉で、でっちあげなので、
普通の言葉よりも意識を占有すると思います。
知ったかぶりも、ウソをつくことも、
すなわち虚飾ってやつをふりかざすことは超言葉中心主義なんですよね。
超がつくくらいの言葉中心主義は人生を苦しくするでしょう。
虚飾を振りかざすと言ったけれど、フィクションはまた別ですね。
フィクションは楽しむがよろし。
また、かといって、普通の言葉の中に矛盾がないわけじゃない。
人間っていうものは矛盾をはらんでいる生きものです。
それに、建前と本音の区別を、当の本人がつかなくなるケースだってある。
それなのに、超言葉中心主義は、自分が吐いた言葉の整合性や完璧さを求めてしまう。
そんなんじゃ、言葉にがんじがらめになってしまいますね。
ではどうすればよいのか。
ある程度、ゆるく、言葉に対しての距離をとること。
そして、自他に対して、寛容さをもつことだと思うのです。
そりゃあ、言葉に対する厳しさだって大事でしょう。
でも、厳しくも、慎ましやかでありたいです。
声高な言葉、その言葉以上の範囲まで適応させてしまう言葉、
そういったものが、人をがんじがらめにします。
そういうわけでして。
できれば、生きやすく過ごしたいですよね。
そのためにはそういうことから一歩ずつ、と思うのです。
ぼくはよく、生きづらさをテーマにして考えます。
それはなによりも、ぼく自身が若い頃に、
「世の中って思ってたよりも生きづいらいなぁ」
と感じたことに端を発したからです。
そして、世の中の方を変えればいいやというような、
西欧的な思考(なのかな?)でもって
考えを進めてきましたが、
生きやすくするためには、
自分を変えなければいけないという部分も
けっこうあるわけです。
自分から変わっていこうとするのは東洋的な思考とされますね。
それで、今日はそのひとつである、
「言葉によるがんじがらめ」のための生きづらさについて、
ちょっぴり書いていきます。
言葉にがんじがらめになると生きていて苦しくなるものだ。
言葉にがんじがらめにならない生き方ってなんだろうか?
それは、わからないことはわからないと言い、
言葉で飾り立て過ぎず、ウソをつかないことです。
言葉っていうものは、口にすれば音とともに
空中に消えていくもののように思うかもしれない。
でも、言葉って実はけっこう強いもので、
書き物をして意識から言葉を外に出せば、
意識上から言葉が霧のように消えていくわけじゃないように
(まあ、忘れることはありますけど)、
頭にはその痕跡って残ると思うんです。
それで、わからないことをわかるというとどうでしょう?
ウソをつくとどうでしょう?
そういう言葉が意識を占有するパーセンテージがあがります。
そういう言葉に意識がとらわれて、がんじがらめになるんですね。
それも、実体験や経験に即していない言葉で、でっちあげなので、
普通の言葉よりも意識を占有すると思います。
知ったかぶりも、ウソをつくことも、
すなわち虚飾ってやつをふりかざすことは超言葉中心主義なんですよね。
超がつくくらいの言葉中心主義は人生を苦しくするでしょう。
虚飾を振りかざすと言ったけれど、フィクションはまた別ですね。
フィクションは楽しむがよろし。
また、かといって、普通の言葉の中に矛盾がないわけじゃない。
人間っていうものは矛盾をはらんでいる生きものです。
それに、建前と本音の区別を、当の本人がつかなくなるケースだってある。
それなのに、超言葉中心主義は、自分が吐いた言葉の整合性や完璧さを求めてしまう。
そんなんじゃ、言葉にがんじがらめになってしまいますね。
ではどうすればよいのか。
ある程度、ゆるく、言葉に対しての距離をとること。
そして、自他に対して、寛容さをもつことだと思うのです。
そりゃあ、言葉に対する厳しさだって大事でしょう。
でも、厳しくも、慎ましやかでありたいです。
声高な言葉、その言葉以上の範囲まで適応させてしまう言葉、
そういったものが、人をがんじがらめにします。
そういうわけでして。
できれば、生きやすく過ごしたいですよね。
そのためにはそういうことから一歩ずつ、と思うのです。