Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

『ヒドゥン一九九四』 最終話

2017-10-02 18:00:01 | 自作小説5
 明けたその日の午後、一通の手紙が届いた。差出人は折田みさおとあったが、きっと大道みさおのことだと直観した。住所は夕張市ではなく札幌市だった。林が僕の電話番号を入手したのに続いて、今度は大道が僕の住所を知ったのか。実家に問いあわせた以外に考えられないから、今になって父の対応が軟化し始めて漏れ出ているのだろう。本来なら、そんな最近の父の対応に苛立って文句を言いに電話をかけるのだが、ただ今回に関してだけは自分勝手にありがたく思った。なぜなら、大道と連絡を取りあうのも悪くない気がしたからだ。なにせ、近頃見る夢によく出てくるのだから。大道への親近感を思い出し、懐かしくも温かな気持ちで手紙を読み始めた。


 お元気ですか?
 結婚して「折田」に名字が変わった、大道みさおです。わたしのこと、覚えていてくれてるといいけれど。
 だって君は、高校卒業以来の約二十年間、同窓会に顔を出したこともないじゃない?林君には、君は年賀状のやりとりさえ誰ともしなくなったって聞いています。林君は覚えてる?念のために書くと、生徒会長をやった林君だよ?

 わたしは君と小学生から高校生までいっしょでした。
 小学生のころは、実はけっこう君と話したことがありましたが、覚えていないかな。
 でも、中学に入った頃になると、男子と話をするのが恥ずかしくなってできなくなったんです。純情少女ですね。そんな昔の純情な自分を、今のわたしは抱きしめてあげたくなります。
 わたしの見ていた限り、君も純情少年でした。わたしはずっと君のことを見ていました。君が富川悠香を見ていたのと同じように。
 ……どきっとしたかな?

 わたしは、二十歳の同窓会のとき、思いきって、それまであまり話したことのなかった悠香に話しかけてみました。君がずっと見つめていた富川悠香はどんな女の子なんだろうと興味があったからです。
 もちろん、彼女への嫉妬心もありました。でも、高校を卒業して、君に会えなくなって、嫉妬していてもしょうがなかったのです。それよりも、君の視線を独り占めしていた富川悠香がどんなひとかを知りたかった。

 悠香は、大人しそうな見た目そのままに人見知りで、でも、他人に圧力を感じさせないやわらかい雰囲気をもつ女の子でしたよね。ちょっと話をしただけで、わたしは悠香を好きになったし、彼女もわたしを気に入ってくれて、それからというもの、電話やメールをするようになり、二人で映画を見にいったり、温泉宿へいったりしました。意気投合しちゃったんですね。
 あの頃は、二人とも札幌に住んでいました。悠香は大学の看護科に通っていました。わたしは事務の仕事をしながら、社会保険労務士の勉強をしたり行政書士の勉強をしたり、とにかくなにか資格を取ろうと躍起になっていました。

 大学を卒業した悠香は、札幌市内の病院で看護師になりました。はたから見ていても、真面目に仕事に取り組んでいるように見えました。でも、四年くらいで、夜勤などの勤務体系や人間関係に疲れてしまったようでした。
 彼女の身体は、強いと言えるほどではなかった。むしろ、やっと普通と言えるくらいだった。
 ある日、久しぶりに悠香とお茶していると、「夕張に帰ろうと思ってるの」と打ち明けられました。実家の病院の手伝いをすると言うのです。もうその頃には、悠香と私はともに仕事が忙しく、なかなか遊んだりできなかった。だから、札幌と夕張に離れても、それほど変わらないのではないか。というより、もしかすると、悠香の仕事が楽になる分、週末には時間の都合がよくなって、これまでよりも会うことができやすくなるのではないか。札幌と夕張は車で一時間半ちょっとくらいの距離だし。楽観的なそんな考えを悠香に言えば、悠香も「そうだよね」と微笑んでくれました。

 その後、実家で働く悠香はみるみる元気を取り戻していきました。血色もよくなったし、頬もふっくらとしました。まるで、高校生の富川悠香に戻ったみたいでした。
 夕張に戻った悠香と、君の話をしたことがあります。いったい悠香は、ひっそりと自分を見つめ続けていた君のことをどう思っていたのだろうと知りたかったから、わたしから話題をふりました。わたしはずるく立ちまわって、わたしが君を見つめ続けていたことは伏せておきました。そうじゃないと、過敏な悠香のことだから、なにか言葉を濁し始めるかもしれなかったから。
 悠香は、君をはっきりと覚えていました。なんと、君のことが好きだった、とまで照れながら告白しました。
 わたしはびっくりして、
「悠香はいつも一緒に駅まで歩いて帰っていた佐藤君とつきあっていたんじゃなかった?」と訊きました。
 悠香が言うには、佐藤君には告白されたことがあったけれどそれは断って、あくまで友だち付きあいでいてください、と強くお願いして、佐藤君もそうしたのだそうです。お互いの家に行ったり来たりしたこともなかったそうです。

 驚いたでしょう?

 君はわかったかな?言い寄られても撥ねのけた悠香のこころに誰がいたのかを。

 今回、手紙を書いたのは、このことが言いたかったからではありません。これらのことは、いわば、前談なんです。でも、この長い前談までを含めて伝えないといけない。それが悠香のためなんだ、とわたしは考えたから。

 悠香は一年ちょっと前くらいから身体を壊しました。さきほど書いたとおり、彼女の身体は強くないのです。とくに寒さは堪えるみたいでした。
 そして、今月にはいって、急激に加減が悪くなっていきました。それは、あっけにとられるくらいすぐにでした。悠香の意識がなくなったと悠香のお母さんから電話をもらい、入院していた札幌の病院に駆け付けたときには、もう逝ってしまったあとだった。
 亡くなる直前にはうっすらと意識が戻って、見守る両親を眺めてわずかに微笑んで安らかに逝ったそうです。わたしが見た悠香の顔も、やせ細ってはいたけれど、とても穏やかでした。

 これが、君に伝えたかった話です。
 君には受けとめてほしい。
 できれば、悠香の実家に行って悠香のために線香をあげてほしいくらいです。ひとりで行きにくければ、わたしが付き添います。私の番号は090-xxxx-xxxxです。

 もしも、今の君に、昔の君の名残があるなら。

 それじゃ、考えてみてください。

 折田みさお(大道みさお)


 僕は嗚咽していた。
 わななく手で握りしめた手紙。高校生の頃の僕は、情けなくて、間が悪くて、見るべきものが何もかも見えていない最低の人間だった。それどころか、二十年経った今の僕も、ほとんど最低な人間のままだった。
 とどまることなく涙が溢れ、洟やよだれまでたらし、膝から床に崩れ落ちて泣きつづけた。

 気分が優れなかった。夜半過ぎても寝つけず、ベッドにうずくまっていた。後悔の念が、つよく、つよく僕を責め立てた。
 もしも、富川と僕がうまくいっていたとしたら、今の現実とは違う現実の中にいたはずだ。可能性としてあった別次元の現実も、大道の手紙を読んだあとならば、たんなる夢想以上の、選び損なった、手の届くところにあった現実のように思えてくる。
 そのパラレルワールドでは、僕が今歩く世界とはなんらかの運命の変化による大きな違いだってあっただろう。僕と富川が触れあう時間を持つことで、富川が若くして病に倒れる運命だって変わったかもしれない。
 僕が選びとったのは、外れくじのほうの世界。結果として、誰も幸せにしない、愛がひからびていく生活を送るほうの未来を選択した。
 気がつけば、虚無感が僕を取り囲んでいた。濃い霧のように遠回しな毒。そもそもの始まりも、虚無感からだった。虚無感に対して、ほとんど抵抗もせず、打破する方法を考えもせず、それにどろりと浸かってきた。僕は自分の生活を、虚無感に蝕まれるままにぼんやりと遂行していく技術だけを覚えていった。虚無感と妥協してだした答えしかなかった。
 こうして虚無感の霧の奥まで見通していくと、突然、言いきれないほどの腹立たしさが湧き起こってきた。感情にかられるまま勢いよく身体を起こしてテーブルを脚でひっくり返す。湯呑茶碗や急須が割れ、破片が台所まで飛び散っていった。CDラックを床に倒して、何枚ものCDがケースから飛び出して床に転がった。なかには砕けたものもあった。虚無感の膜を突き破ってまでとめどなくこころに噴きだす怒りを抑え、身体を震えさせながら、僕はその場に立ちつくした。
 こんなことをしたってなにも始まらないし、なにも変わりもしない。だからといって、諦めたくない。諦めることは、虚無感に屈することだ。ベッドに戻り、ゆっくりと、これまでみてきた一九九四年の夢を振り返る。夢の中身の半分くらいは忘れかけているけれど、地下繁華街のことや、空中遊泳のことははっきり覚えている。そして、駅へと歩く富川のことも。彼女の隣は佐藤ではなく、僕であるべきだったのだ。
 目を閉じて、また夢の中身を反芻する。何度も何度も富川を想いうかべるが、その顔だけがよく見えない。
「今回が最後だからな」鍋島先輩がやさしく僕の肩を叩いた。地下繁華街の中央通路にいる。大道みさおもいた。
「あの、大道……」声が小さくなってしまった。大道は無言でこちらを振り向く。
「ありがとうな。ほんとうにありがとう」頭を下げ、気持ちを込めてそう言った。
「なあによっ!」と大道は手で僕を叩く仕草をし、はじめ驚くように笑っていたが、そのうち顔を手で覆い洟をすすり始め、ついにはしゃくりあげるのだった。
 鍋島先輩がそんな大道へと歩み寄っていって、何か小声でささやく。大道はうんうんと頷いていたかと思うと顔を覆う手を離し、その表情は八の字に眉を下げながらも笑顔だった。
 鍋島先輩が「ちょっと落ち着こう。またそこの食堂に入ろう」と誘うので、三人でのれんをくぐった。テーブル席に着き、なにか飲み物でもと考えていると、店員の女が手に水を持ってやってくる。
「いらっしゃい」明るい声だった。それも、聞き覚えのある声だ。おもむろに店員の女の顔を見れば、やはり知っているという覚えがある。歳は四十くらいで、髪を頭の上に結い、花柄のワンピースにエプロン姿だった。その恰好にすら、強い既視感があって、あっ、とこころの中で小さく叫んだ。母だった。若くて、まだ健康な頃の。
「ここ、よく見つけたね」と母が言うので、この店のことか、地下繁華街のことか、とわからずにいると
「そうじゃないの、ここのこと。ここまるごとのことよ」と教えてくれた。
「母さん。母さんがこんなところで働いていたなんて、全然知らなかった」
「まあね。ベテランってほどじゃないけど、まあまあ長いのよ」
「そうなんだ。元気そう……」そこまで言うと、鼻の奥がきゅうと痛んで声が出なくなった。目にはいつもより多くの水分が潤ってきている。
「あんたも元気にやってるね。そうだ、今日はね、メロンがあるから食べていきなさい」
 てきぱきと家事をこなしていた昔の母そのままだった。話し方だって、ちょっと早口だった昔のままだった。
 鍋島先輩と大道は、メロンが食べられると聞いて、やったー!とばんざいしている。
 すぐに、四分の一サイズにカットされたメロンを大きなお盆に三皿のせた母が戻ってきた。
「どう?いいメロンでしょう?〝秀〟だよ、〝秀〟」〝秀〟に格付けされた極上の夕張メロンのオレンジ色の果肉が輝いて見えた。
「わあ、おいしそうだね」向かいの大道がスプーンを手に、早く食べたそうにもじもじしている。
「さあみんな、食べなさい」母がそう言うと、僕ら三人はいただきます、と挨拶をして食べ始めた。柔らかくてとても甘い。おいしい。
「母さんね、あんたが自分の進みたい道を、しっかり歩く姿をずっと見ていたかったの。いろいろとね、思うようにならないときって人生にはあるものなんだけど、そういうときにもめげないで、また立ちあがって前をむいてくれるひとになってくれたらなあ、ってあんたを育ててきたんだよ。もしもね、母さんがあんたの足手まといになって、母さんに関わると前を向けないようなことになったら、迷わずあんたは自分の道を行きなさい。母さんはあんたの世話になるためにあんたを産んだんじゃないんだからね。それでも、母さんは幸せなんだから」
「ありがとう、母さん。感謝してるよ」それだけ応えるのがやっとだった。
 母さんに会えて嬉しかったよ、これだけはどうしても恥ずかしくて言えなくて、涙をこらえつつ味わうメロンの味が、よくわからなくなった。

 母さんにさよならを言い、母さんからは「しっかりね」と背中を押され、地下繁華街から地上に出た。
「ここからはもう付いていってやれないんだよ。しっかりな!」鍋島先輩が喝を入れてくる。
「がんばって」大道も、弾ける笑顔で手を振ってくれた。
 これから僕が成すべきことはもうひとつしかない。ひたすらに信じて高校へと歩いた。
 校門に人影があり、近づくと富川がひとりきりで立っているのがわかった。僕は声をかける。勇気など要らなかった。
 富川は幾分上目遣いに、警戒したような視線を僕に向けた。
「きみと話がしたいんだ。駅までいっしょに歩かないかな。というか、いっしょに歩いてほしい。お願い」
 彼女は意外そうな表情を浮かべて、でも、「うん、いいよ。ちょうど帰るところだったから」と頷いた。
 僕は富川悠香と並んで学校の敷地を出た。どこから話そう、どこまで話せばいいのだろう、やっと二人きりになっても、なめらかにはいかない。
「一年生のときに、同じクラスだったよね?覚えてる?君に数学の問題の解き方を訊かれたことがあったんだ。二次関数のグラフの書き方だった。その問題が片付いてから、君とちょっと話をした。他愛のない雑談だったんだけど、僕は嬉しかったんだよ」
「わたしも覚えてる。あなた、須藤先生のちょっとした悪口を言ったでしょ、もう」
 富川にあのときのおどけた僕の印象は良くなかったのかなあと不安になって彼女の顔をのぞきこむと、可笑しそうに頬を緩めていた。その微笑みが愛くるしかった。
 そのときの僕は、これが夢であることを承知していた。だけれど同時に、一連の一九九四年の夢はふつうの夢ではないことも理解していた。これらの夢のなかには、一九九四年に隠してきたもの、隠されてきた多くのものが、その長い隠ぺい期間から解き放たれて表に出てきたように僕には思えた。さらに不思議ではあるけれど、三十九歳の僕が生きる現実と密接にリンクしていると感じていた。こうして夢を生きるうちに、現実の僕のなかでなにかが秘密裏に進行していく。僕のなかに知らないなにかが築き上げられていく。それは予感に似ていたけれど、確信だった。
 富川とこうやって肩を並べて歩いていると、隣で彼女のたおやかさをひしひしと感じた。彼女はしっとりとしてほんのり甘い空気をまとっている。その瞳は幽かな憂いを帯びていてきれいだった。肩までの黒い髪を素直に褒めると、彼女は何も言わずうつむいて頬を赤らめた。
 今しかなかった。この夢しかなかった。富川に正直な気持ちを打ち明けるのは、この機会しかなかった。
「あのさ、急に変なことを言うけどさ、僕ってね、ずるい人間なんだよ。思いあがって言うわけじゃないんだけど、僕はそんな僕のずるさで君を翻弄してきたと思うんだ。すごく迷惑だったと思う。今、謝っても、謝りきれなくて」
 彼女は僕を振り向き、「そんなことない」とすべてをわかっていたと思わせる口調で言った。
「わたしこそ、あなたを苦しめたりしていないか、心配していたよ。一歩踏み込めばいいんだと思っても、そうできなくて。ごめんなさい。あなたの人生を狂わせてしまったかもしれない」彼女はそこまで言うと涙を零した。
「僕に必要だったのは、虚ろさに打ち勝つことだったんだよ。そうしないで、情けなくて弱っちい自分であり続けたことが、さらに虚ろさを呼んでしまったんだ。君のせいなんかじゃない」
「ううん、たとえそうだとしても、わたしならあなたを助けられたかもしれないのに……」彼女は左手のひとさし指で涙をぬぐった。
「僕こそ、君を救えたかもしれなかった……」夕焼けの陽射しが僕ら二人を焦がす。僕の頬は熱く、きっと彼女の頬も熱かったはずだ。
 僕は弁明や謝罪だけをしたかったわけじゃない。でも彼女も、僕の言葉が引き金となって胸の裡にあった悔いる気持ちを吐露してしまい、結果、状況は硬直してそこから進まない。この状況下でいやというほどわかったのは、僕と彼女は、ほとんど同じことで苦しんできたのかということ。僕は僕で、彼女は彼女で、振り切ったようでいて、こころを一九九四年に隠したまま、取り忘れてきたのだ。
 僕らはもう駅舎の近くに到着してその入り口が見える交差点の歩道に立ち止まったままどうすることもできないでいた。
「あのさ」やっとのことで声をかける。彼女は潤んだままの瞳をこちらへ向ける。
「いろいろ言ったあとでこんなことを言っても、しらけるだけかもしれないけど」
 覚悟を決める。大道からの手紙で、彼女と僕とは両想いであった事実を知ったのだから、まるで後出しじゃんけんのようで情けなかったのだけれど、それでもこれを言わなきゃ、後悔する。いや、後悔だなんて、それだって軽すぎる。逃げる気持ちなんか微塵もなかった。絶対に全うしなければならない筋書きがあって、いまそれを遂げる。迷うことのない100%の確かさで、僕は言った。
「二年になってクラスが変わって、それで気づいたんだ。過去形じゃなく、今現在そして、これからもずっと、君が好きです。富川悠香、君を愛してる」
 僕は嘘いつわりのない気持ちそのものだった。
 濡れた瞳を、一瞬大きく見開いた彼女は
「わたしも、あなたが好きです。ありがとう」と左目から再び涙を一筋流して応えた。
 やっと、果たせた。胸がいっぱいだった。僕は両手でやさしく彼女を抱きしめた。包み込むように、そしてこのまま彼女が消えてしまうことのないように抱きとめていた。……まだ、消え去らないでほしい。
「わたし、すごく幸せよ……」僕の胸に顔を埋める彼女がつぶやいた。
「……富川」名前を呼ばれて富川悠香は顔をあげてこちらを見る。その唇に、僕はキスした。
 柔らかな唇は、拒む素振りをすこしもうかがわせることなく、それどころか僕を求めていた。僕らはずっと唇を重ねあった。とても幸福で、時が溶けていく気分だった。永遠に、今が続いてほしかった。
 それから長い時間が経ち、僕らは唇をほどいた。
 理不尽にもいつしかあたりには夕闇が落ちてしまい彼女の顔がはっきりとは見えなくなっていた。ようやくこの瞬間、僕と富川につながりが生まれたっていうのに。それも夢や現実をも超えたつながりだっていうのに。彼女は微笑んでいるのか、泣いているのか、まるでわからない。僕から離れた彼女は、「帰らなきゃ。汽車が来ちゃう」と明るく言ったが、寂しげでもあった。
 彼女は横断歩道を渡って、駅舎の入り口で立ち止まり僕を見た。
「さよなら」手を振った。
「さよなら」僕も大きく手を振った。
 さよなら、富川悠香。

 目覚めると涙に濡れていた。胸が苦しかったけれど、それでもどこか清浄な気分だった。覚悟は決まっていた。僕は地元に帰る決意をしていた。

 家族三人が久しぶりに実家にそろって、紅白歌合戦を見ていた。昨日、横浜から帰ってきて、今日は午後から買いだしに行ったり大掃除を手伝ったりした。
「それでさ、メロンなんか出してくれたんだよ。〝秀〟だよ!って母さん言ってさあ。旨かったなあ」茶の間に笑いの温かな波紋が広がる。
 僕は何度も続けてみていた夢の話の一部を、母にしていた。
「メロン食べたいねえ。ねえ、買っておいでよぉ」母の言うことは冗談なのか本気なのかよくわからない。
「来年の夏になったらな。みんなで食べよう。しかし〝秀〟はちょっと高いかな。ははは」上機嫌の父が口をはさんだ。
 富川悠香の実家には、年が明けてから行こうと思っている。大道みさおと一緒に行く約束をした。仏前で富川になにを言おう。できればすべてを語りたいくらいだった。いや、でも、天国へ旅立っていった富川はもうすべてをわかっているのではないだろうか。あの夢の感触から、そんな気持ちになっていた。
 僕はこうして夕張に戻った。その判断が良いほうに出るか悪いほうに出るかは、今後の僕次第だ。母の介護の助けをしながらだと時間の都合のいい求人はかなり少ない。でも、最初は苦労するだろうけれど、そのうちうまくいくだろう。楽観的すぎるかもしれなくても、大丈夫、僕はだいぶ強くなったから。
 テレビでは紅白初出場を決めたリバルブ・ラブがステージに立っているところだった。
「この間、彼女たちの記事を書いたんだよ。ライブを見てさ。僕の最後の仕事で、最高の仕事になったんだよ」
 ほう、ほう、どれどれ、と父も母も感心して画面に集中しだした。ちょうどグループ最大のヒット曲『ヒドゥンプレイス』のサビが始まった。


 Ah かけがえのない 君の名を呼ぶ
 僕を待つ場所 hidden place
 I love you も I need you も言えなかった
 いまはずっと I miss you

 Ah 夢の果てに 僕の名を呼ぶ
 君が待つ場所 hidden place
 さよなら 虹色の世界には
 帰れないの? I don't wanna go

 僕ら お互いに あの隠れ処で わかりあった
 あの気持ちを 決して忘れない


 その夜は遅くまで僕たち家族は語らいあった。
 あくる日の元日、まだ解いていないダンボールを片付け始める。本ばかりだった。そういえば、あの時計がまだでてこない。ひと月ほど前にリサイクルショップで買ったばかりの、人型蛙人形が片手をあげて時報代わりをするあの置時計だ。それは、何箱目かのダンボールの中身の一番上に乗っかっていた。ガムテープをびりびりとはがして浮き上がったふたのなかにその影が見えたのだ。あの人型蛙、夢の中にまで出てきたなあ、存在感のあるヤツだからな、とちょっと愉快な気分になって、ふたを全開にする。すると人型蛙人形の姿はなく、ただの置時計だけがあった。取れちゃったか、とそれからダンボールの中を隅から隅までひっかきまわしても、見つからなかった。
 あの人型蛙人形は忽然と消えていなくなってしまっていた。他の箱も含め、夕方まで何度も探しまわったけれど、結局、ヤツは出てこなかった。


【終】
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『ヒドゥン一九九四』 第二話

2017-10-01 18:00:01 | 自作小説5
 帰宅してすぐさまなんとなしにテレビをつけ、予約炊飯で炊きたてのごはんを軽く食べてから、床にごろりと寝そべる。朝のワイドショーに、特に興味を惹かれるトピックはなかった。とあるトピックを解説する出演者の得意げな早口に気だるさを感じる。テレビを消して、カーテンをしっかりと引き眠る準備をする。
 編集部からはまだ何の連絡もなかった。ここをちょっと直そうというメールもない。そのままでオーケーが出てすでに掲載されている可能性もあったが、わざわざ確認する気は起きなかった。
 今回の記事にはいつもより手ごたえを感じていた。記事を書く前段階、リバルブ・ラブのあのライブの要所々々を的確に把握した後、まるごと身体全体で飲みこんで自分のものにした。そのうえで書いた、わかりやすくて会場の熱狂を封じ込めたような内容になっていると自負していた。なにより、不思議とこの記事を書いた昨日は虚無感の襲来がなかったのだ。大きな負の要素がない状態で書けた記事だ、能力を十分に発揮できた満足感があった。
 立ち止まって考えてみれば、これまで、ここまでやりつくした満足感を味わった仕事をした覚えはほとんどない。
 さらに驚いたことに、今もあの執拗な虚無感には悩まされていなかった。いつぶりだろう、というくらい久しくこのような晴々しく温かいこころ持ちで過ごせた一日はない。そう気づいてみると、これから眠るのがもったいない気がしたのだが、しっかり疲労は感じていたから、気持ちよく眠れることを信じてベッドに横になる。
 目を閉じてすぐに、僕は高校のグラウンドフェンスの前の道に立っていた。僕の制服のズボンをつかんで左右に振る林がいる。20センチくらいのネズミだ。蝶ネクタイが自慢の林ネズミが胸を張ってこちらを見つめ、なにか言いたげだ。
「……なんだ?」僕のほうが口火を切った。
「なあ、用意はできてるのかよ。そのために来たんだろうが」
 何を言っているのかまったくわからない。林の、そのネズミのひげがひくひくと動く。
「何の用意だよ」
「はあ?せっかく待っててやったんだぞ、なんて言い草なんだよ。ほら、こっちこいよ」
 林ネズミはいつのまにか十歩ほど前にいて小さく手招きしている。
「じゃあ、行こうか」という声が背後から聞こえてきた。笑顔の鍋島先輩だった。
「え、なんか、これ、行かなきゃなんないんだ……?」とわけもわからない。
 僕は鍋島先輩に腕をひっぱられて、林の後を追うことになった。
 見なれた一本道の左のわき道から、林は住宅地に入る。高校時代には歩いたことのない区域だ。この住宅地に住む友達はいなかったし、僕は徘徊も散歩もしない性質だから、この区域に興味もなかった。先を行く林のしっぽの動きをみていると、彼はたぶんご機嫌なんだろう。気持ちよさげに空中へしなやかに波打つしっぽだった。鍋島先輩から腕をふりほどいて、並んで歩きながら、僕らも住宅地のほうへと道をとった。
「待ってよ!」と女生徒が駆け足でやってきた。あっ、と思う。このあいだ名前のわからなかった、僕のあごくらいまでの背丈の女生徒だ。
 鍋島先輩が、「来たか、みさおちゃん」と手を振っている。みさお、みさお、……覚えがあるぞ、と胸中で針にかかった彼女のフルネームを再生するレコードに耳を澄まそうとすると、
 先輩は「大道みさおだろ?」と僕の表情からこころを見透かしたかのように、あっさり女生徒の名前を教えてくれるのだった。
「あ、大道っ。久しぶり」僕がほっとして言えば、
「このあいだ会ったじゃないの」と大道みさおは軽く頬をふくらますのだった。
 ごめん、ごめん、と謝る。
「謝らなくたっていいけど」眉を下げた大道は、しょうがないなあといった風だが目もとは柔らかい。
「よしよし、みんな揃ったね。ほら、ちゃんとついてくるんだぞ。ひっひっひっひっ……」林は口元を両手でおさえてとても可笑しそうに頭を小刻みに揺らしていた。
 林との距離をずっと十歩ほどの間隔で保ちながら、僕と鍋島先輩と大道みさおの三人は住宅地の奥へとどんどん進んでいく。
「いったいさあ、どこへ行くっていうんだろ。まだなのかな?」二人にそう問いかけると、二人は目をあわせて、くすくすと笑いだす。
「大丈夫。もう少しでちゃんと着くから」大道が諭すように、明るい声で言った。
 僕の頭の中にはちょっとした妄想が生じてきた。林、鍋島先輩、大道がグルになって僕をはめているのではないか。サプライズパーティまがいのなにかでも開こうとしているのかもしれない。不信感や猜疑心、とまで大げさではないのだけれど似た気持ちが抑えられず、
「……なに、企んでる?」とぼそっと訊いてみた。
「なにも企んじゃいないよ」鍋島先輩が真顔で答える。
「冒険、冒険」大道もさきほどよりもいくらかおちついた笑みをうかべ、ルーズソックスの脚でスキップする。
「おうい!」先を行く林が声をあげた。家が少なくなり、寂しくなってきた区画のひとつのガレージの前に彼は立っていた。
「着いたな」鍋島先輩が唇をなめた。いったい、このガレージの中に何があるっていうのだろう。重要なアイテムが眠っているのだろうか。それははたして僕にどんな関係があるのだろう。そもそも僕に関係はあるのだろうか。
 林が鍋島先輩に、シャッターを上げてほしいとお願いしている。体格のいい鍋島先輩が、一気にシャッターを持ちあげる。すぐさま僕は中を覗き込んだ。前、右、左。暗がりには壁しかない。そのかわり、不相応なくらい立派な階段が地下へと伸びていた。
「……行くの?」あまり乗り気ではなかったからそう訊くと、
「もちろん!」と林が弾んだ声をあげ、あとの二人もこちらをみておおきく何度も頷いていた。
 リノリウム張りの冷たい階段を一歩一歩たしかめながら降りていく。すると、意外に広くて天井の高い地下空間にでた。
 黄色い照明が点いていて、全体としては茶色を基調としたその濃淡で壁や床が仕切られているような空間だ。階段を降りたところから少し下りの勾配になっていた。空間の中心に大人十人が手をつないでも囲いきれないくらい太くて丸みを帯びた柱がある。天井と床それぞれに向かって、より太くなる形状をしたいびつな柱だ。その右側を僕と大道が、左側を林と鍋島先輩が降りていく。
 地下空間の薄茶色の壁には蔦がからまったかのような細かい模様が一面に刻まれていた。整然としないゆるやかな曲線で壁と床、壁と天井がつながっていて、壁自体も若干たわんだような形状だった。それは、もしも建築家ガウディが地下空間をデザインしたならこれに近い洞窟的なイメージを作りあげるのではないかと思わせるものだった。
 僕らはやがてそれぞれに柱越しのゆるやかなカーブを抜けた。その先で二組が合流して見たもの。それは、地下繁華街だった。
 とはいっても、ぱっと見渡して確認した五店舗は、喫茶店、居酒屋、食堂、ラーメン屋、床屋だったが、どれも無人で、客もいなければ店主らしき人物や店員もいない。まったくのもぬけの殻だった。林たちはこんな場所を知っていたのだろうかと気になって三人を見まわすと、林を抜かした二人は初めてこの光景を目にしたような、この光景にぼうっとしてこころを抜き取られたような顔つきをしていた。林がこの場所を知っていたのかどうかは、ネズミの表情なのでよくわからない。きょろきょろともしていないし、呆然ともせず、ただ胸を張って鼻をひくひくさせていた。
「なんだ、ここ。……廃墟?昔、炭鉱業が最盛期の頃に賑わっていたのかな」この非現実感の手を取ってなんとか現実感と握手させる理由を見つけたい気持ちで言った。
「いや、よく見てみろよ。えっと、みさおちゃん、ここ廃墟ではないよな?」鍋島先輩が、わかるよな、というように僕をひとり飛ばして大道に顔を向ける。僕も大道がどう観察して判断したのか、その答えを知りたくて隣の大道の顔を覗きこむ。
「そうだね。ここってちゃんと掃除されてる感じがしない?生活感があるような感じがするんだけど。営業時間じゃないとか、定休日とか、そんな理由じゃない?」
 なるほど、そうかもしれない、と大道の言葉をふたたび頭でなぞった。
 林が「ちょっと、いろいろ見てみようぜ」と小走りで駆けだした。鍋島先輩も、大道も、あっという間に林に続いていって、僕は取り残されていた。
 いったい何が起こっていて、ここはどこなのだ。ひとりになると、やっぱりあらためて考えてしまうし、答えはわからなかった。こんな場所があるなら、昼休みや放課後に何か食べたり飲んだりしに寄ることができたのに、知らなくて損した気分にもなった。僕は地下空間の真ん中の路地へと歩く。林も鍋島先輩も大道の姿も見えない。彼らは、どこを見にいっているんだろう。何の気なしに、床屋の前に置いてある、今は止まったままの赤と青と白のサインポールをしばらく眺めていた。そこへ、おうい、と鍋島先輩の声が響く。なに、と応えると、先輩が駆け足でこちらへ戻ってきて、
「注文受けるってさ!」と笑顔を見せた。
 え、誰かいたのか、と不信に思うと、そんな僕のこころを察したかのように先輩が食堂のほうにあごをしゃくる。食堂の座席には、知らないうちに何組かのお客が座っていた。驚いて、ラーメン屋のほうを向くと、こちらにもカウンターにやはり数人のお客が座っていた。
 だけれど、そのお客たちはみんなマネキンのように身動き一つしない。僕ら以外動かない世界にいた。
「なんか、シルエットだけは見えるけど。あのさあ、時間止まっちゃってない?」
 そう言うが早いか、僕の見ていたものは錯覚だと言わんばかりに世界は動き出していた。床屋のサインポールもくるくる回っている。今動き出したんだという素振りすら見せず、過去から連綿と続いてきた流れのままであるといった体で、そこに疑いの余地すら微塵も感じさせないくらいだった。そんな自然な時の流れ始め方に面食らった。そして見えた光景は、まるで昔見た有名なアニメ映画のようだった。そのアニメ映画では、繁華街でものを食べると後戻りできなくなる魔法にかかるのだった。とはいえ、そのアニメ映画は、一九九四年の段階では制作されていないのだが。
 再びいろいろな店の店内を眺めてみる。老夫婦が多かった。でも、おじさんの一人客もいるし、テーブルでトランプゲームのぶたのしっぽをやっている家族連れまでいた。
 そんな僕に鍋島先輩が、「なあ、注文何にする?」とせっついてくる。いや、これは食べてはいけないパターンなのではないのだろうか。
「なあ、なあ」鍋島先輩は早く返事しろと表情で訴えている。
「なあ!なあ!おい!なあ!」としつこいったらない。
 いい加減にしろ、と思ったところで目が覚めた。また、あの頃の夢の続きを見たのか。
 目だけを開けて目覚めた僕はあお向けの姿勢でマットレスにずっしりと沈み込むように寝ていた。記事の執筆や夜警の疲れは、沈み込んだ身体の底からさらにしたたり落ちて、重力に吸い取られ四次元の果てに消え去っていったかのようで、僕はすっきりしていた。いつもの虚ろな気分もない。蛙人形の時計の針は午後五時すこし前をさしていた。

 シャワーを浴びながら、夢に出てきた大道みさおの記憶をたどる。たしか小学三年生のときに、神奈川から僕のクラスに転校してきた子だ。その頃の同級生の女子たちと比べると格段に運動ができ、ドッジボールでは球技の得意な男子並みに速いボールを放っていたし、相手から投げられたボールにもひるむことなくキャッチを試み、そのほとんどを成功させた唯一の女の子だった。かわいい子ぶることもないが、花が咲いたような笑顔になったり、この世がおしまいになったかのようながっかりした表情をしたり、感情表現に乏しいこともなく、ちょっとおてんばだったけれど、それゆえに輝いてみえる女の子だった。それが、中学生になると、一気に大人しくなって目立たない子になった。控えめで、小粒な存在感になった。
 僕にしても中学生当時からの大道の印象は薄くぼやっとして、こんなことがあったっけなあというエピソードすらひとつも思い浮かばなかった。高校が同じだったことも忘れていたくらいだ。夢の中では、鍋島先輩とくだけたやりとりをしていたけれど、現実はどうだっただろうか。思い出せなかった。小さな町の小さな小学校のことだ。鍋島先輩も小学生当時から大道と一緒だから、学年は違っても顔は見知っていただろう。
 そんな大道みさおがなぜ僕の夢に出てくるのだ。夢には、人の深層意識に閉じ込められているものが出てくると読んだことがあった。また、記憶の整理として夢が使われているとも別の本か雑誌で読んだことがあった。
 深層意識が記憶の整理と相まって、たとえば今回、大道みさおが意識に上り、深層意識の小さなひとつのパーツとして、記憶と深層意識のやりとりのなかで、深層意識を撹拌して活性化させているのかもしれない。それは必然なのか偶然なのかはわからない。僕の深層意識の都合上、大道みさおが選ばれたのかもしれないし、深層意識内でランダムに抽出されたにすぎないのかもしれない。
 ただ、どちらにせよ、僕のこころの裡に隠されていた大道みさおがはっきりと意識上の存在となり、しっかりとこころの目で捉えられるようになった。そうした目で、夢で見た彼女の容姿や話し方を思い直せば、けっこうかわいらしい子だったんだなと、認識を新たにした。
 あまりに考え事に夢中になったせいで、髪を二度洗ってしまった。二度目の良すぎる泡立ちではっとし、現実に帰ったのだった。

 僕は両親以外に愛されたことがない。高校を卒業してからだって、恋人ができたことがなかった。大学時代から付きあいのある仲の好い女友だちはいたけれど、恋愛にまでは発展しなかった。相手も僕も、それぞれの個人領域を区切るボーダーを飛び越えようとはまったくしなかったのだ。それはなぜだったのだろう。とくに深く考えたことはなかった。
 胸が張り裂けそうなくらい淋しいときや、どうしても女の肉体を欲した時にはとても苦労したが、世の男にはそんなときに都合をつけられる逃げ道があったりする。慰めに、そういう逃げ道を何度か走り抜けた。
 富川への想いが強すぎたからそうならざるを得なかったのだ、といえばウソになる。高校卒業とともに富川への想いとはさよならしていた。でも、意識下に隠されたその想いがそこでウイルスへと変容し、恋愛を行うこころの箇所に侵入して感染し悪さを働いている想像をしてみると、その想像は案外でたらめではないかなと思えたのだった。でたらめではないとは、恋愛を行えない性質になったということだ。もしも、想像通りほんとうに富川への想いがウイルスに変わっていたのなら、その変化を仕向け助けたのは僕の情けなさや愚かさや狡猾さたちだった。
 自分から愛したくせに、向こうから愛されたのだという事実にしたがった。愛した時点で負けて試合は終わっているのに、その事実に気づこうとしない。再試合をでっちあげていた。僕は弱く、そして今もなお弱いままだった。そんな態度が想いをウイルスにし、恋愛不全にさせる。
 濡れ髪のまま、そんな思念に浸って現実世界に不在だった僕の耳を、鳴り響く電話の着信音が鋭く刺激する。実家からの電話だ。珍しく、電話口には母がいた。
「正月は、帰って、こないのかぁい」息切れでもするように、途切れ途切れだった。
「うん、帰れないよ。ごめん」
「……帰って、こないのかぁい」聞きとれなかったのか、母はまた同じことを口にしていた。
「う、うん。ごめん、機会があったら帰るから」口先だけで言った。
「お父さんが怒ってねぇ、こわいんだよぉ」父には、癇癪をおこして怒鳴り散らす癖がある。思うままにならない母の世話に嫌気がさして怒鳴ったのだろうか。
「母さん、父さんの言うことを聞いて素直にしないといけないよ」
「母さんはぁ、ちゃんとしてるよぉ」訴えるような、絞りだす声になった。
「そうだね、母さんはちゃんとしてるね。父さんにはね、あんまり怒ったらだめだよって僕が言ってたって言っておいて」
「わかったよぉ」
 それから数秒の沈黙の末、電話は切れた。
 在宅介護は大変だと聞いてはいたけれど、そうか、父さんは母さんにあたっているのだな。酒量も増えているのかもしれない。
 でも、それ以上考えたくなかった。僕にどうしろと言うのだ。僕には僕の人生があり、親を世話するために生まれてきた人生ではないのだ。
 力を込めて考えをそう振り切り、アタマは一瞬でこの件からそっぽを向いたはずなのに、呼吸のたびにしくしくと重く胸はきしんだ。

 スウェットにコートを羽織った恰好で、なんとなくレンタル店へDVDを借りに行った。帰り際コンビニで発泡酒を買い、部屋で映画を観た。モノクロの、昔の時代劇だ。しかし、どうしてもストーリーも会話も頭にはいってこなかった。夢の中でまた富川に会えるだろうかだとか、実家は限界に近付いているのだろうかだとか、次に夜警の仕事で田中さんに会うときには事の顛末を言おうか言うまいかだとか考えだしているからで、さらにはうとうとしだした。今日はよく眠っているはずなのだが、長い睡眠時間の割に浅い眠りなのかもしれない。ここ何回か見た夢がはっきりしすぎているのは眠りが浅い証拠なのではないか。
 映画を見続けるのを諦めてリモコンを操作し、そのままひとまず短い休息のつもりでカーペットの上に横を向いて寝そべった。目を閉じ、なにも考えない。じんわりとした感触が目の疲れを知らせた。隣室からは洗濯機を回している音がする。ぼんやりとしながら、力は抜けていく。
 閉じた目の裏には、黒の素地に赤や緑や青や白の光が万華鏡のように千変万化しながら動いていて、それらは解読不可能ななにかを物語っているかのようだった。そのうち、様々な色模様は勢いを無くし薄くなって消え、暗闇だけが残った。暗闇を注視していると、突然暗黒がうねりだし目の中をわさわさと繁茂し始めて視界を飲み込んだ。もともとの真っ暗闇な視界が、さらに暗い漆黒に飲み込まれるのを見たのだった。
 気がつけば、住宅地にあった地下空間の食堂の一席に腰かけていた。四人用のテーブル席に僕がひとり座っている。
「いらっしゃい」女の声がして顔をあげた。知っている女だった。未香だ。大学時代からしばらく友だち付きあいが続いた女だった。未香の、小さなほくろの多い顔がほころんでいる。
「いらっしゃい。何にするの?」
「未香だろ?」
「未香さんっていいなよ。あなた高校生でしょ」
 そうだった。未香とは現実では同い年でも、この場では僕より年上になっている。
「未香さん、ここで働いているの?」〝さん〟づけで呼ぶと、なんだかふざけた芝居をしている気分になる。
 未香はそれには答えず、「いいお友達がいたのね、あなたって」と僕の背後に視線を移した。つられて振り向くと、後ろのテーブル席に鍋島先輩と大道みさおが並んで座っていて、僕にピースサインをしてみせている。
「あなたって、孤独な色合いが強いひとだなあって思ってた。独りよがりだな、ともね。なかなかどうして高校生のあなたはそうでもなさそう」澄んだまなざしで後ろの二人をみつめながら、未香が言った。
 それを聞いて、これは夢なんだ、と気づいた。「いや、これは……」と言いかけたところで未香が僕を手で制す。
「ゆっくりしていって」厨房へと戻っていった。もっと彼女と話していたい気持ちが後ろ髪を引いた。
 僕は夢の世界にいる。夢なら、僕の思う通りの状況を作り出せるはずだ。この夢に無理やり富川を登場させて、僕の思うように喋らせて、安っぽくたって、ハッピーエンドで癒される展開にしてしまえばいいんだ。まずは、この二人にはどこかへ消えてもらおう。僕は富川と二人きりになりたいのだから。
 はっきりした方法はわからなかったが、夢と気づいた以上、念じれば念じた通りになるのだと信じて、鍋島先輩と大道にこの世界からの退場を願った。
 二人を睨んで、消えろ、消えろ、と念じる。鍋島先輩が「なんだよ?」と口をとがらせ、そして大笑いする。大道も笑い始めた。
 鍋島先輩が「ばかだな!」と言い放ち立ちあがって僕の所までやってきた。制服の首の後ろの襟をつかまれて立たされる。
「無駄なんだよ」鍋島先輩は憐れむような目つきになった。
「もう!行こう!」両肘をつき両手にあごをのせていた大道も立ちあがって呆れ顔だ。
 僕の夢なのにコントロールできないのか。それより、消えろと念じてしまった消えない二人に言い訳をしないといけない。あれこれ言葉を探そうとしていたが、僕は鍋島先輩に羽交い絞めにされ、地下繁華街から退場させられるところだった。軽く暴れようともしたし、もうわかったからさぁ、お願いだからやめてよ、と懇願もしたのだが、鍋島先輩の力は緩まなかったし、解放してくれそうな雰囲気をちらりとも感じさせてくれなかった。
 じたばたしながら後ろ向きに引きずられていくなかで、アジサイを花瓶に生けた床屋や、入り口から薄く引き延ばされた紫煙が漏れ出ている喫茶店のそれらの店内が目に入った。何人かの客が、含み笑いをしている。
 最後にラーメン屋の店内に目をやれば、同じようにこちらに気を使いながら笑っているような客が何人かいる。その中に、ひとりだけ真正面からこちらを見るカウンター席の端に座る客がいた。細く長い手足とぽっこりでた白い腹が目につく。そして全体が緑色なのだった。
 あ、と声が出た。先輩、ちょっと止めてくれないか。しかし、先輩は容赦なく僕を引きずっていく。だめだめ、と後ろから声がして頭蓋骨に響いた。そのとき、ラーメン屋のその客がこちらに向かっておもむろに右手を振り上げたのだった。よぉ、と親しげな挨拶でもするように。そうなのだ。あの客は、目ざまし時計に付属している人型蛙人形のあいつなのだった。
 あいつから目が離せないまま引きずられて、ついに地下繁華街が見えなくなる大きな柱を迂回する道にはいった。もうずっと観念しているよ、と降参の意志を明確にすると、先輩はやっと僕から腕をほどいてくれた。
 上がり勾配の道を歩いてまもなく階段に着き、三人でのぼった。地上に出る。眼前に広がる、晴れ渡った一九九四年のいつかの日。懐かしくも新しい、それはいつかの日だった。
 階段のあったガレージを出るなり、僕の脚は宙をこぎはじめる。ふわふわと30センチくらい身体は浮き上がり、脚は自転車をこぐように宙を回転し始める。僕は思いきって力を抜いて、地面に倒れかかるようにした。ぐん、と体が持ちあがるように浮いた。いまや、地面と平行に、一メートルくらいの高さで僕は宙に浮いていて、水の中にいるときのように、泳いでいた。平泳ぎのように手で空気を掻き分け、バタ足のように足をゆっくり交互に上下させて推進力を得る。鍋島先輩が部活のコーチみたいに腕を組みながら、「焦るな、バランスだからな」とアドバイスを飛ばしてくる。背筋に力を込めると、低空で路面すれすれをいき、あわててまた力を抜くと立っている時の目の高さまで横になった姿勢で上昇した。大道が駆け寄ってくる。僕はこの自由が嬉しくて、近づいてきた大道にもこの自由を分けてあげたくなった。伸ばした手を、大道が握る。すると、彼女の身体も僕と並行して宙に浮いた。
「わあ!やったあ!」と大道は声をあげた。僕は彼女の手を引いて、二人で空へと上がっていく。
「大事な話があったんだけど」打ち明けるように大道は言う。「でも、今度でいいかな」と笑って、僕との空中遊泳を楽しんでいる。
 急降下し、急上昇する。
「ジェットコースターよりずっと楽しいね!」内面でどくどく波打っているだろう彼女の強い脈動を感じさせる、興奮した言い方だった。
 僕だってすごく楽しかった。空から俯瞰する、高校周辺の風景。上昇して全体を眺め、少し降下して、細部を確かめる。駅前のスーパーの店舗の裏側を初めて見た。あんなに雑然としているものだなんて知らなかった。そして向こうからやってくる汽車が見えた。自然、視線が駅舎をなぞり、さして遠くない場所に富川悠香の姿が見えた。あの同級生の男と談笑しながら駅へ向かっている。
 いつもそうだった、と僕は思い出す。つきあっているわけではないらしいのだけれど、いつもいっしょにいる男がいた。
「大道、ちょっとごめん」僕は大道から手を離し、決意して富川に会いに行こうとした。
 大道は何も言わなかったが、宙に浮いたまま哀しげに微笑んでいた。僕は富川を呼び止めるための気持ちを整え、身体に若干力を込めて降下していくのを待った。しかし、意に反して少しずつ上昇していく。どういうことだ、とわけがわからなくなる。では、と逆に力を抜いてみた。それでも、上昇は止まらない。完全にコントロールを失った状態だ。あっという間に、飴玉くらいの大きさだった富川の姿がただの点になり、大道の行方も見失ってしまった。
 上昇は止まらず、このままじゃ宇宙に突き抜けていくのかなと変に冷静な予測もしている。この分だと酸素が減っていくぞ。そう思った途端、実際に空気が薄くなったのに気がついた。なにげに呼吸が苦しいのだ。何か良い対処法はないのかと考えても、考える分だけ身体は上昇していきながらくるくる回るばかりだ。
そのうち息がかなり苦しくなってきた。それも急激に尋常じゃない息苦しさに変わっていった。これはまずい、と必死になってもがいた。うわあ!とこころは叫び、手も足もばたつかせて状況にたてついた。そんなところで目が覚める。
 現実でも、カーペットの上にうつぶせになった僕の鼻と口が腕に埋まって息が止まっていたらしかった。夢の中でもがいた拍子に顔が横へずれてなんとか手遅れにならずに空気を確保できたのだった。大量の空気を吸い込みすぐさま吐く、何度もそんな速く深い呼吸を繰り返した。心臓がバクバクしていた。
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『ヒドゥン一九九四』 第一話

2017-09-30 18:00:01 | 自作小説5

 僕は、足取り軽やかな人混みの流れの中にいる。九段下駅へと歩いていた。もう二、三分すると二番出口に着くところだ。
 今夜の暗闇には不思議と親密さを感じる。いつもなら嘘寒さを感じさせるくせに。きっと彼女たちのライブがよかったからなのだろう。暗闇の表情にもいろいろあるものだな、コートのポケットに両手をつっこみながら歩いていると、その暗闇が吐きだしている冴えた空気が、紅潮した頬にぴりりと吸いついてくるのにやっと気づいた。心地よさのなか、気分も平静へと近づいていく。
 今夜のライブのおかげで、いつもつきまとわれている晴れない虚ろな気分がどこかへいってしまった。でもたぶん、今だけなのだろうけれど。せめてあと三時間はこの満ち足りた気分のままでいさせてくれはしないだろうか。自宅に戻り、ベッドにもぐりこんで自失となるまで、あの虚ろさとはさよならしていたかった。
 人混みのなかには、うわずった声で早口に語りあうダウン姿の二人の若い男たちもいた。僕の前方をうねうねとあみだに歩き、身振りも大きく、たまに何かのステップを踏むように身をひるがえしたりしている。ぽっ、ぽっ、と湯気が出そうなくらいアツイ興奮を胸に抱えているためだろう。わかるよ、おまえら。
 今夜の彼女たち、つまりアイドルグループ、リバルブ・ラブの公演には、今までで一番の大きな声援が湧き起こっていたように思う。アイドルにしては高い歌唱力と、さながらイリュージョンをやっているかのように、なにげなく遂行されながらも、緻密でとらえどころのないフォーメーション変化中心の魅惑的なダンス。申し分ないパフォーマンスを発揮し、会場を魅了していた。五人のメンバーははつらつとした笑顔をたやさず、会場につめ寄せた満員のファンたちと、ここまでがんばってきた努力と幸運の集大成を祝うような一体感を作りあげていた。言うまでもなく、このとき、彼女たちは、たぶんどこのなによりも幸福な時間を作りあげていた。リバルブ・ラブはついに今宵、日本武道館に昇り詰めたのだ。
 取材ではあったが、僕もささやかな〈おめでとう〉の気持ちを彼女たちにささげるようにこのライブを味わった。
 アンコールでは、ヒット曲『ヒドゥンプレイス』が今宵二度目の披露となり、このときは会場の声援と熱狂で屋根が吹っ飛ぶのではないか、と心配してしまったほどだった。こうして駅を目指して歩くなかいくらか冷静になってから思い起こせば、そんな馬鹿なことが起こるか、と一笑に付してしまえるような想察なのだけれど、リアルタイムで会場にいると、ほんとうに屋根が飛んでもおかしくないと思えるほどだったのだ。
 そのとき前列では、自律神経がおかしくなったのだろうか、失神とまではいかなかったが、座席にうずくまる女性客がいたのが見えた。会場に渦巻く、一体となった熱情の嵐にあたったのだろう。それも、よくわかる。

 敷地内を抜けると、一台のハーレーダビッドソンが右から左へ走り抜けていった。武道館から流れてきた興奮覚めやらぬ人々のなかに、彼に注意をはらったものはいない。この寒い十二月の夜にせめて皮ジャンくらい着ろよ、と思う。ライダーは半袖Tシャツ姿だったのだ。冬用の上着を持っていないなんてことはないだろう、ガマンしなくたっていいのに。単なる面倒くさがりだったのだろうか、移動距離が短いから寒さにタカをくくったのか。いやいや、やっぱりガマンしたのだろう。面倒くさがりの痩せガマンだ。人生、痩せガマン、か。
 取材という名目ゆえのライブ観賞だったから、アタマのどこかほんの一部は醒めていた。だから僕の目だけにはそんな痩せガマンのライダーの姿がとらえられたのだろうか。
 僕の人生も痩せガマンだ。ガマンして、ガマンして、それでいてガマンしているようには見せない。何のためか。つい最近、それをはっきり客観視できるようになった。ガマンせずに相手によりかかったりしない、投げ出したりしない、弱音を吐いたりしない、怒鳴ったりしないのは、そうしないとただただ恰好悪く見られるからなのだ。恰好悪く見られることは、僕の人生に大きな不利益を生む、そう考えている。恰好の悪さによって、誰かにその誰か自身よりも下の人間だととらえられるとロクなことがない。第一、こちらの言うことをまともに取り扱ってもらえなくなるからコミュニケーションがつまらなくなるし、たいがい不快な思いをさせられる。それになんといっても、ガマンしないことによる自制心を感じさせない恰好悪さは、相手に不快な思いをさせてしまいもする。
 彼女がいない。痩せガマンだ。収入が低くて不安定。痩せガマンだ。隣の部屋の夫婦げんかがひどくてうるさい。痩せガマンだ。このダッフルコートはもう十三シーズンも使っている。痩せガマンだ。田舎の母が認知症を患っていることは誰にも言っていない。痩せガマンだ。僕の人生のかなりの部分は痩せガマンでできている。この取材文を明日の夕方までに書きあげて、それから夜警のバイトに出ないといけない。ガマン、耐えること。
 それくらいのガマンなんて、日常茶飯事だし取るに足りないとみんなは怒るかもしれない。毎晩のように三時間の残業がある。通勤に二時間かかる。昼食代は五百円まで。みんな、ガマンとは言わないしもはや意識すらしていないが、それは痩せガマンなのだ。きっと、相当多くの人生が痩せガマンでできているに違いなかった。
 だが、僕の、人生との相性が抜群に良いはずの痩せガマンには、もはやその効用がなくなり始めていた。虚ろな気分が、頭に、手足に、腰に、背中に、目に、耳に、心にのしかかってくる。もう、ガマンなんてやめよう、ガマンなんてしている場合じゃない。虚ろさのその作用を翻訳すると、そう語っているようにすら思えた。
 虚ろさとの付きあいは長い。はっきり覚えているわけではないのだが、思い当たる時期はおおむね中学二年生の頃からだ。なんだかわからないけれど、虚無感と呼ぶとしっくりくる、そんなぼんやりとした虚ろさが、たぶんその頃から僕に取り憑き始めたのだ。時代はバブルが弾けて間もない九十年代のはじめだった。若者に非正規社員が増え始めた時期でもある。僕個人の精神面のあり方に原因があるのか、日本中に蔓延していた虚ろな時代の空気を吸ってそうなったのかはわからない。
 その当時の、感受性の強かったひとの多くは、虚ろでまひしたようなこころに現実感を求めて刺激を無意識に求めていたのではないだろうか、と今になって思う。もっと刺激が欲しい、などとバイオレンス映画やホラー映画、ノイズ音楽や爆音を味わう風潮が今よりもちょっと強めで、考えようによっては自傷行為的なエンタメを求めていたのではないか……、と統計を取って分析したわけではないのだが、個人的な見解としてそういうイメージを持っている。
 でも、僕は、どちらかといえば感受性の強いほうではあったけれど、虚ろな気分に浸っていながら、過剰な刺激にこころを浸し直してリアルを感じようとはしなかった。過剰な刺激を求めるのは、もしかすると時代のビョーキに対する荒療治だったのかもしれない。僕がいまだに、虚ろな気分を背負っているのは、荒療治もせず、かといってそれに代わる方法で虚ろさを払拭しなかったからだとも考えられるし、元々の十代からの虚ろさは、現在の虚ろさの種にすぎず、ここまで苦しいのには他の理由があるからなのかもしれなかった。

 半蔵門線のホームでケータイの電源をいれ、いじりはじめる。見たことのない電話番号からのショートメールが来ていた。
 〈お久しぶり、林です。お元気ですか?突然で驚いたかな?年末に同窓会を企画しています。出欠を教えてください。〉
 林、林、と数秒間、思いを巡らしやがて思い当たった。高校時代に生徒会長をしていた男だった。のっぺりした顔で、身長が低く、腰の低いところもあったが、でもたいてい堂々としていた。機敏なところもあり、それがどこか小動物を思わせた。燕尾服を着て蝶ネクタイを締め、アゴを上げ胸を張ったネズミ、そうイメージすると、林のイメージはほぼ完成していると言えるだろう。
 僕は大学進学からずっと横浜に住んでいる。大学を卒業してからは、北海道の実家に帰ったこともなかった。もしも同窓会の話などがあった場合には、僕の連絡先は先方に教えないでほしい、と父には言っておいたから、それまで同窓会の誘いを受けたことがなかったのだけれど、今回はどうしたのだろう、連絡が来てしまった。林の押しの強さに負けたのだろうか。
 同窓会もそうだが、実家にも帰りたくなかった。地元に戻ると、昔の情けない自分、逃げだした自分の幻影に出会うかもしれない。そんな自分になんて会いたくないのに、無理に会いに行くかのようで気が滅入る。決別したはずの自分を取り戻してしまいそうで怖かった。今の自分はあの頃の自分を変えられたか、超えられたか。変化したのが当然に思えても、ほんとうのところはわからなかったからだ。変わったようで誤魔化しているだけなのを知らずに生活していることもあり得た。はっきりしているのは、現在抱えている虚ろな気分には、きっと高校時代の過ごし方にも原因があったこと。過去に縛られる生き方はしていないはずでも、無意識に近いところで過去を気に病んでいる。
 地下鉄がきた。ひとまず同窓会のことは忘れよう。ライブの印象をアタマでまとめておいて、部屋に帰ってから文章にしやすくしておこう。まだ、アタマはクリアなほうだった。虚ろさの影から逃れたままだ。
 大手町で降りて東京駅ホームへと歩く。そこからアパートのある保土ヶ谷へJRに乗った。

 保土ヶ谷駅前のコンビニで発泡酒とおにぎりとさきいかを買い、部屋に戻った。主催者からもらったライブのセットリストを眺めながら、個別の曲の印象を言葉にしていく。古いノートパソコンを立ち上げ、キーボードの上に十本の指を踊り始めさせた。技術はどうあれ、文章を書くのは楽しい。
 一時間半ほどで、各曲の短評ができあがった。発泡酒のタブを引いてごくごく喉を鳴らす。今日の仕事はここまでだ。形ばかりにもならない食事を終えて、ベッドの上にごろんと横たわる。目覚まし時計についている一時間ごとに手をあげる手足の長い人型蛙人形が手をあげた。時刻は午前一時。
 台所で水滴が落ちる音がした。静かな夜だった。耳の奥には、まだライブの残響が小さくこだましている。天井を眺めるのにも疲れて、目を閉じた。遠くからサイレンの音が届き始めたが、すぐに聞こえなくなった。
 無為な時間に、不意に過去がものすごいスピードで追いかけてきて、僕に追いついてきた。生徒会長の林。いや、富川悠香。そうだ、富川悠香だ。町医者の娘、富川。そして、胸が疼きだす。その当時、自分の気持ちの裏を自らかくようにしていた。裏の裏の裏の裏の……自分でもわからなくなるくらいにほんとうの気持ちを隠した片想いだった。
 でも、僕の態度や視線からはきっといやらしい光が漏れ出ていたと思う。ものほしそうであり、腐臭を放つようであり、呪うようであるいやらしい光。
 この苦しみは、思い出から切り離されてついには純粋な苦しみとなり、そこからずっと解放されない。反省できるくらい割り切れていたなら、ずいぶん楽だったに違いない。嬉しさ、恥ずかしさ、怒り、恋しさ、憎しみやもろもろの感情が絡みあって、まるで噴火せずに火山灰だけが噴出されたかのように、そんなものがこころの底に降り積もっていた。一面、割り切れないグレーだった。
 富川悠香の視線が何度と僕を貫いたことだろう。それは僕の煩悶を見すかすような視線だったのだ。ときに、どうして?と問いかけてくる視線だった。でも、そんなものは、僕の勝手な解釈にすぎず、彼女を無意識に、自分の気持ちの鏡にしていただけかもしれない。
 富川には二年のときに同じクラスの仲の好い男友達がいた。付きあっているわけではないと当時なんとなく人づてに聞いて知っていたのだが、よく駅まで二人で歩いているのを見た。たいてい、富川が左側を歩く。今もそんな二人の姿が校門から五十メートルくらい先に見える。脳裡に浮かんだそんなイメージを、ぼうっとして眺めていると、家が近所で子どものころから親しい鍋島先輩から声をかけられた。鍋島先輩に悟られてはいけない。なんとなしにグラウンドのほうへ目を泳がせた。
「あれ?今日は部活休み?グラウンド空いてるけど」幼なじみゆえのタメ口で先手を打つ。
「俺は三年だぞ。部活はもう引退したんだっての。それよりあいつ、なんて名前だったっけ」さきほどの僕の目線はしっかり先輩に捕縛されていた。良い手を打ったつもりが、なんの効果も生んでいない。
「うん?ああ、佐藤と富川」
「女のほうが?」
「富川」
「ふうん」にまにまと面白がるような顔で僕を上から覗きこんでくる。鍋島先輩は180センチを超えるサッカー部のゴールキーパーだ。
「おまえさあ、俺には正直になれって」僕の左肩に腕を回された。
 基本的には鈍感で察しが悪い先輩なのだが、なにかこううまい具合に物事を見つけたときにはまず逃れられない。そういうときの瞬間的な把握力にかなう人を僕は知らない。どんなにフェイントをかけてもまったくひっかからないし、フェイントをかけられたことで逆に確信を深めていく。そういうタイプだ。
 この状況では、もうまいったと白旗を上げるしかないと諦めた。僕は先輩の背中をぽんぽんと手のひらで叩いた。降伏のタップの合図だ。先輩は口を大きな長方形にしてがははははと笑う。あるいは、それは勝利のおたけびだった。
 直線道路の遠方を歩く富川と佐藤が、小さな駅舎に入っていくのが見える。
「あいつら、デキてるのか?」こともなげに、鍋島先輩が言う。
「つきあってるわけではないみたい。仲が好い二人ってこと」
「それは、負け惜しみじゃないよな?」
 憎たらしいことを言うので、蹴り飛ばしてやりたくなった。
 道端に伸びる影が長い。いつのまにかうっすらと夕闇が落ちてきていた。僕は駅に向かわなくて良かったのだろうか。このままでは列車に乗り遅れてしまう、いや、もう列車は出てしまった。次の下り列車がくる時刻は、たしか一時間半もあとじゃないか。これじゃ、歩いて帰った方が早いかもしれない。なんて道草の食い方だ。三、四分先輩と喋っていたら夕方になるのだから、富川どころじゃない。
「先輩さあ……」と横を向いたが先輩はいない。あれ、どこだと後ろや反対側を振り向くが、姿がない。
 ひとりぼっちになっていた。こころなしか、涼しさを通り越した寒さを感じた。グラウンドのフェンスには「夕張中央高祭 七月九・十日開催!」とある。まだ学校祭前の時期なのだろう。それにしては、準備をしている気配はないのだが。
「まだいたの?」女の子の声がした。
 気がつけば、たぶん同じクラスだったような覚えのある女の子が隣に立っていた。僕のあごくらいまでの身長の女の子だ。彼女のぴかぴかの笑顔に懐かしさを感じても、名前までは思い出せなかった。アタマのどこかにつっかえているのだ。爪先立つのを繰り返してじれったそうにした彼女が最後に言う。
「私のことわからない?」
 はっとした。表情を読まれたにしては的確だ。
 あってはならない展開に進んだような気がして、もしくはあらかじめ決められたセリフから外れた鋭いアドリブのように聴こえて僕は狼狽した。いても立ってもいられない気持ちになった。しかし、かといって彼女の前から走って一目散に逃げ去るのも許されない行為のように思えた。
 そんなパニックのなか力を振り絞って、なんとか顔を背ける。気持ちもいっしょに背けた。
 目を開けると白い壁があった。部屋の壁だ。いつのまにやら夢を見ていた。とても身体が冷えていて、僕はぶるっとひと震えした。

 いそいそと掛け布団の中にもぐりこみ再び眠ろうとしたが、なかなか寝付けない。さっきまでいた夢の世界を思い起こして、考えてみる。あれは一九九四年の夢だ。富川への想いが生まれた夏。高校二年生の十七歳。帰宅部で、目立つ個性もなくまるっきりモテない僕だった。
 モテなくて冴えないのは今でも変わらないとしても、まだ文章を書くことが好きで、それを、いささか頼りないにしたって仕事としてお金をもらえているだけ、今のほうがましかもしれなかった。
 あの当時は生きがいとするものをなにも持っていなかった。なんとなく生きていて、ただ時の流れに背中を押されてなんとか歩いていた。朝七時二十分に家を出て、夏は自転車に乗りわずか五分ほどで駅に到着。ほどなくやってくる列車に乗車し一駅で降車する。どうしてなのか自転車通学が許されず、こうした過程で高校に通った。クラスの座席は学期ごとにくじ引きで決めたのだが、すべて一番前の席を引いた。二度目のくじ引き以降、担任には満面の笑みで「またよろしくな」と言われたっけ。はにかんで下を向きながら「はい」と答えたものだ。僕は人見知りで、声が小さく、なよなよとした生徒だった。
内面にある曖昧模糊としながらもはっきりと存在する胸につかえた空気のかたまりのようなものを、まだきちんと言葉にする技術を育みきれていなかった。語彙はすくなく、言葉へと昇華する術も未熟だった。
 だから、わけもわからず苛立ったり、厚いカーテンがこころを包んだかのように鬱々とした気分になることもあった。どちらかといえば情緒は不安定な時期だったが、ひとりっ子気質だからなのか、誰にも気づかれないようにと、自分の不安定な状態を隠そうと苦心していた。自分の不安定な状態や富川への片想いとその苦しみなどいろいろなものを一九九四年の中に隠して、今がある。
 その夜、虚無感はやってこなかった。夢の世界の十七歳の僕は、当時のなよなよとした僕ではなく、十七歳でありながら中身は三十九歳の現在の僕だった。
 夜が明けるまで、ひと眠りできた。その眠りは深く、夢さえ寄せ付けなかった。

 夕方までにリバルブ・ラブの武道館初ライブの取材文を仕上げなければいけない。ニュースサイト用の一万字の記事だ。
 ガス台で湯気を放ちぴゅうぴゅうとしきりに音を鳴らすやかんを持ちあげ、厚手の大きなマグカップにお湯を注ぎクリープを入れインスタントの粉末とかき混ぜて、たっぷりの熱いコーヒーをつくった。香りが広がる。よし、戦闘開始。寝覚めは重い虚無感で気分がよくないのが昔からの常だが、このコーヒーはわりとその症状に効くのだった。
 きのうの夜保存しておいた曲ごとの短評を本文の中盤に使う段取りで、イントロダクションを書いていく。リバルブ・ラブがここまで上り詰めるまでの汗と涙の三年間の熱意をできるだけ伝わるように気をつけて言葉をつなげていくことにした。結成初期のころ、路上でティッシュ配りをしてプロモーションをしたグループがわずか三年で武道館を満杯にしたその事実を、誇張することなく書いていく。誇張せずとも、淡々と書くだけでその努力と幸運が際立ってわかるくらい、リバルブ・ラブは彼女たちのはっきりとした物語を持っているグループだった。だからうまく書くことができた。
 そういえば、一番右の立位置の娘が少しだけ富川悠香に似た雰囲気を持っていた。ぱっと見てポップな印象だし快活にダンスをするのだけれど、歌うときじゃなければ、おとなしい。上目遣いはしおらしく、真っすぐな視線と対照的に女の子らしい弱さが瞳に滲む。がんばってアイドルをしている分、素の自分とのギャップがありそうでそこに苦しみを持っていそうではあったが、仕事と割り切って臨んでいるふうでもあるので、比較的気持ちの整理のついたプロフェッショナルなアイドルとしても見えたのだが、本当のところはわからない。彼女は二十歳だった。
 僕は二十歳の富川を知らない。高校を卒業してから、彼女に会ったことがなかったからだ。肩までだった黒い髪はその後、長さや色を変えたのだろうか。ほとんど制服姿しか知らない彼女の服装の好みはどのようなものでどう変化していったのか。ピアスは開けたのだろうか。いつ左手の薬指に指輪をはめただろうか。僕はまったく彼女についての情報をつかんでいなかった。高校卒業とともに、知りたいという気持ちの裏返しに、彼女に背を向けて反対の方向へと走って逃げだしていたのだ。
午後三時までに一万字書きあげることができた。今日はすこしペースが早くて、予定外の余暇ができたことが嬉しかった。
 午後八時からは商社ビルで夜警のアルバイトをすることになっている。ライターの仕事だけでは食べていけないがためのアルバイトだった。売れっ子ライター、中堅ライターなら書くことを生業とできるが、僕のような、ライターとしてやってきた期間だけを見ればベテランでも、売れない、そしてあまり使えないライターでは無理な話だった。なんとか仕事はちらちらともらえたが、四十歳を前にして、ライターとしての岐路に立っていることは間違いのない状況だった。
 午後四時すぎに田舎からの宅配便が届いた。中身は特産の長いもで、5kgもの量が入っていた。おいしいうえに食費が浮くのがありがたい。今年もまた助けてもらえた。長いもは下し金で擦ってとろろいもにするか、短冊切りにして酢醤油をかけちぎった焼のりをちらして食べるかの二通りの食べ方しか知らなかったが、毎食交互にその食べ方で食べても飽きがこなくておいしかった。地元・夕張の長いもは味が濃く水っぽさが少なくてほんとうにおいしいのだ。茹でて餡をかけてもいいし、煮てもいいとは聞くのだが、生で食べるこの二通りの食べ方は調理しやすかったし、労力とのコストパフォーマンスがよかった、つまり楽だったので、他の調理法に挑戦したことはなかったのだ。今夜の夕食のおかずに、とろろいもをつけると決めた。シャワーを浴びてからがっつりと食べて、夜警に行こう。
 実家にお礼の電話をした。父が出る。
「もしもし。長いも、届いた」
「元気か?風邪ひいてないか?仕事のほうはどうなんだ?」
「まあまあ元気かな。仕事のほうはさっきまで記事を一本書いてたんだ。なかなかの出来だと思う」嘘ではないが、なぜかハラハラして脈が速くなる。
「そうか。正月は帰ってこないのか?」
「今年も無理かな……」ためらいを含ませて言ったが、実家に帰るかどうか迷ってもいなかった。帰る気など毛頭ないのだ。申し訳ないけれど。
「母さん、会いたがってるんだけどなあ。あ、母さん、電話代わりたいとさ」母が今どのくらいの調子なのか想像して頭がぐるぐるしてくる。   まもなく
「長いも食べたかぁい」という母の声。母の話し声が、またいくらか幼くなった。
「まだだよ、これから晩御飯に食べようと思ってるよ」
「おいしいからね、食べるんだよぉ」
「うん、いただくよ」母の声を聴いていると、呼吸が浅くなって長くしゃべれない。じんわりと目も熱くなってくる。はやく電話を切りたい。
「富川先生んとこの娘さんねえ、こないだ見かけたよう。きれいになったよう」一瞬、たじろいだ。このタイミングで富川が話題に出るなんて。
 それに、富川は夕張にいるのか。実家の病院を手伝っているのかもしれない。いや、でも、母の言うことだから、記憶が時空を飛び越えていたり、見間違えていたりする場合があり得る。
「……そうか、懐かしいね」平静を装って返した。
 しばしの沈黙の後に父が代わり「じゃ、またな。何かあったら連絡するんだぞ」といつもの締めの文句を吐いたので、ほっとする。
「わかった。それじゃ」電話を切った。
 母の認知症は極端には悪くなってはいないようだった。ヘルパーさんに助けてもらいながら、父がひとりで在宅介護をやっている。実家の将来にも不安があった。それも、ごく近い未来への不安だった。もしも父が病気に倒れたりしたら、母はどうなるのだろう。そもそも、今だって父は満足に母の世話をできているのだろうか。母の症状がもっと進んだとしたら……。悪く、否定的に考えているつもりはない。現実的に考えて、こういう疑問が湧いてくる。
 僕の人生に背後から仄暗い影が忍び寄ってきたように感じてしまう。振り払いたい。逃げ通したい。向きあう気になどなれなかった。悪いけれど、そっちはそっちでなんとかうまくやって欲しい。これは両親の問題であって、僕は関わらなくていいことなんだから。本気でそう思ったのだが、しっかり本気なんだとは言い切れない気持ち悪さがあった。僕には関係がないという観念だけが一人歩きして、僕自身のほんとうのところとそれはシンクロしていないずれた気持ちだ。後ろに重心を残したまま、片足だけ半歩前に動かしただけのような、および腰の気持ちだった。握りしめたままのケータイを一人用の小さなテーブルの上に置いて、ベッドに腰をかけ直す。置き時計に目をやると、人型蛙人形が時報代わりにまた長い手をあげた。

 午後八時。横浜周縁の商社ビル。昼間の警備をしている田中さんは六十歳手前で柔道二段。彼と交代して夜警の仕事にはいる。
「さっきな、二階の給湯室のあたりでかさかさ走りまわる音が聴こえたんだよ。ゴキブリがいるんだなと思ってたんだけど、やっぱりネズミかな。気をつけなよ?だってものすごいスピードでこっちに飛びかかってくるもんだから」
 前歯が一本欠けた田中さんが、その抜けた歯の間から空気を漏らす音でひゅひゅひゅと笑う。息を吐いているんだか、吸っているんだかわからない音だ。
 田中さんは度々、僕をちょっと怖がらせようとこんなふうなことを言う。その表情には、小意地の悪い気持ちがありありと浮かぶのだ。
「脅かさないでくださいよ。ネズミになんか出くわしたくないですよ。もう、じゃあ、ほうきでも持って歩くかな」
「迎撃用だな。そうしたほうがいいだろう。じゃ後は頼んだよ。これは差し入れだ」
「ああ、すいません、いつもありがとうございます。お疲れさまでした」
 田中さんはいたずら好きなきらきらした目をこちらへ向けて嬉しそうに帰っていった。差し入れは、缶コーヒーと一切れ分がパックされた羊羹だった。
 これが羊羹ではなくて、一切れ分のチーズだとしたらネズミネタのオチとしては最高なのに、でも田中さんは、ねずみだからチーズにしよう、などとネタを詰めていくタイプではなく、肝心なところでは心配りを優先させるタイプなのだろう。というよりも、単純にネズミの話は今思いついた程度のネタだったのかもしれない。どちらにせよ、田中さんはまずそこまで性根の腐った人というわけではないのである。ちょっといたずら好きの、年を重ねても子どもの心を残している人なのだ。
 そうネズミネタにはタカをくくっていたのだが、勤務時間にはいり懐中電灯を照らしながら二階を歩いていると、ほんとうにかさかさと何かが走る音が聞こえてきた。給湯室に近づくにつれ、音がよりはっきりと存在感を増す。
 マジだったのかよ、と様々な部位の筋肉が自然、ちょっと硬くなってくる。警備という仕事は侵入してきた人間に対して行うもので、ネズミなんか相手にしなくても職務怠慢にはあたらないのではないだろうか。臆病風に吹かれた気持ちで自身にそう問うのだが、それとは別に身体は給湯室に入ろうとしていた。暗闇の中、懐中電灯が照らす明りを手掛かりに、好奇心ではなくなかば責任感のようなもので勝手に背中を押されているかのように給湯室のドアを開け、自動装置のように動いて、中に入った。
 床を照らす。何もいないが、ときおり何かがこすれたような大きな音がする。部屋の角を照らしたり、小さな食器台のうしろを照らしたりしてみるが、なにも見えなかった。
 では、いったいどこのどいつのなんの音なのだろう。せわしなくかさかさという音が鳴ったり止んだりが聞こえる。なにか実体がいるのは確かそうだったから、気味悪さよりまずそいつを確認したい気持ちが勝っていた。田中さんの言った通り、たぶんネズミがいる。額から汗が一筋落ちてくる。
 幾度と懐中電灯を往復して動かし、備え付けの鏡の上を何度目かの光が横切ったときに、鏡の中に何かが見えた。はっとして、なめるように鏡を照らしそれを探す。反射するまぶしい光を浴びながら、鏡越しの後ろ、開放されたままの入り口のドアの影に、そいつがいるのが見えた。
 そいつは、思った通りのネズミには間違いなかったのだが、あろうことか燕尾服を着て二本足で突っ立っていた。目を疑い、鏡で見るのではなくじかに確認しようと振り向けば、見間違ってなどなくちゃんとそいつはドアの影からこちらをうかがっている。蝶ネクタイまでしたそいつは、ネズミにしては大きい。20センチはあるように見える。なんだおまえは、と言いたかったが声に出ない。こんな展開になるなら、田中さんに言った通りほうきを持ってくるべきだった。
 ほうきが無いからヤツを振り払えなかった。代わりにしっしっしっと何度か足で空中を蹴って威嚇すると、やめろよ、とヤツはしゃべった。仲間じゃないか、とヤツは続ける。何を言う、お前のような仲間などいたためしなどない。こころなしか、ひげをひくひくさせているようにも見える。余裕があるようなにやけた顔だ。富川とちゃんと会えよ、とヤツがまたしゃべって僕はどきりとする。こいつはもしかして高校時代の生徒会長・林の化身なのではないか?林は生きた人間だが、何かの拍子に僕のもつイメージ通りの姿で化けて出たのだ。もう、そうだと決めつけていた。
 それからやや間があいた。お互い、無言になり微動だにしなかった。緊張しつつ、にらみあう……いや、緊張しているのはどうやら僕だけのようではあった。ヤツの出方を待つ。林だと思われるネズミにしてみても、何か意図があってここに登場したのだろうから、さらに何か動きを見せる可能性が濃厚にあったからだ。富川と会えとはどういうことなのだ。富川とまた夢で会って今度は話をしろと言うのか。それとも、現実の富川に会えというのか。
 富川に対して、僕には捨てきれない未練があることを自覚した。くすぶり続ける後悔を、こころの中の気づけないところに宿していた。
 林の目に僕の心理がすべて見すかされているような気がした。くわえて、普段オカルト的な思考とは距離を置いている僕でさえも、このような場面に出くわすと、林にはなんらかの霊的な力が備わっているように思えた。言いようのない力で、僕はロックオンされ、指示されるがままに動かなくてはならなくなる予感がしていた。それは異形の林に畏怖しての直観だった。
 いや、でもそれは気のせい、愚かしいくらいの気の迷いだったことがすぐにわかる。なぜなら、その燕尾服のネズミの正体とは、壁からはがれ落ちた紙に書かれたイラストだったからだ。〈電気はこまめに消しましょう〉と丸文字の太いフォントで書かれた注意書きの大きなイラストのネズミを見たにすぎなかったのだ。仰天してしまったせいで、妙なセリフまで妄想した上、気づくのに遅れたのだ。まさに、幽霊の正体見たり枯れ尾花だった。
 しかし、いまだかさかさという音は続いていた。その音の本物の主は、洗面所の下にいたらしく、正気づいた僕はやっとその姿を簡単に見出した。そいつはちょこまか走る小ネズミだ。燕尾服などきていない正真正銘の小ネズミだった。うっ、とわずかな声を漏らした僕は、一歩たじろいだが、すぐさままた我を取り戻し、つまみあげて放り投げようと考えた。さっきまでの情けなさが底を打ってはね返り、ようやく勢いが出たようだ。だが、まあいいか、とそのまま給湯室にはなにもいなかったことを装うことにした。小ネズミよ、ここのドアを開けっぱなしにしておくから、そのうちに出ていってくれ。
 その夜はそれ以外に変わったこともなく、僕は宿直室でエアコンの温風にあたりながら羊羹をかじりこの時期の遅い夜明けを迎えた。やれやれだった。
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