Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

『たゆたう』

2023-10-23 11:38:40 | 読書。
読書。
『たゆたう』 長濱ねる
を読んだ。

元欅坂46&けやき坂46メンバーの長濱ねるさんが3年前、21歳で始めた『ダ・ヴィンチ』での連載エッセイのなかから著者自らセレクトし、加筆修正したエッセイ集。ここ何年か『ダ・ヴィンチ』を読んでいなくて、さらに長濱ねるさんが連載を持っていることも知りませんでしたから、本書によって、やっと、あなたのお話が聞ける、という気持ちからの読みはじめになりました。

元坂道のねるさんには無条件に惹きつけられる魅力を感じていたのですが、同時になにかよくわからないんですね。つかめないんです。「わかんない」に満ち満ちた存在ゆえにたぶん惹かれている、そういったイメージを持ちながら、本書を手に取りました。いや、かわいらしいからまず顔や名前を覚えるわけですけど、どういう方なのかっていうのはよくわからなかった。レギュラー出演されていた『セブンルール』を見ていたときには、こういうことで笑ったり、こういうことで泣いたり、こういうことを考えていたりするんだな、と知るのは新鮮でした。でも、やっぱり、つかめなかった。

しかし、本書の「はじめに」の数ページで、もう驚きました。そこに彼女の輪郭がうっすらと、でも確かに刻まれていたからです。彼女を彼女と成している論理や感情があった。続けて、最初のエッセイを読みました。すると、彼女から吐き出された、彼女自身の色のついた質感ある言葉がそこにあるのでした。言葉にちゃんと自分自身が乗っているためだからなのだと思いますが、エッセイは彼女がご自分で吐露されているような未完成感や途上感に満ちていて、ということは、不安定だといえます。それなのに、僕はほっとしました。自分のそのほっとした気持ちを見つめてみて、ああそうかちょっと心配していたのか、と知ることにもなりました。なぜか。

僕の第一印象として、このエッセイのなにが良かったかって、彼女の言葉が生きているのが良かった。生きてきたんだね、とわかる種類の言葉たちなのが良かった。つらくてぎりぎりでも、きっと彼女はなんとか大丈夫そう。どういう道であったとしても、自分の道を行ける方ではないだろうかと思いました。

僕は今夏、朝方に原稿書きをやっていて、ひと段落がついたところで気まぐれにテレビをつけたらNHKかEテレかにチャンネルが合っていたのだけれど長濱ねるさんが手話をやってる番組で。かわいいのもさることながら、仕事ぶりに元気を頂きました(ありがとう、でした)。

著者は「思い立ったが吉日」「機を見て敏なり」みたいに、ぱっと動く人ですね。そこにギャップを感じてしまいました。熟考して決めるタイプなのかとなんとなく思っていた。

終わっちゃうのが惜しい、おもしろいエッセイでした。おかしみ、サービス精神、迷い、悩みなどなどぎゅっと詰まっていて著者が人生を行く道のりのポートレートみたいでもあったかもしれません。そして、文章力、表現力も、あなどれませんでした。著者はいろいろと考えて、自分自身を辛辣な目で見つめられてもいましたが、思ってるより悪くないですよ、といいたいし、5年10年経ってから読み直してみたら、書いてよかった、と当時がんばった自分の肩を叩いてあげたくなるようなエッセイ集になっているのではないでしょうか。

<またどこかで、出会えますように。>の一文でピリオドが打たれます。はあ、終わってしまった、ととても寂しい気持ちになるのは、そうか、このエッセイを読んでいる最中は、ねるさんと触れ合えていたのだな、という気持ちになりました。空間、時間、お互いを認識することを超えたところで、確かに触れ合えていた。「あくまでそれは想像力の範囲でのものだ」と脳のドライな領域がすぐに意見を述べてくるのですけれども、でも読書っていうのは、そういう体験ができるものです。それに、触れ合えた、といってみても、著者側からすればなにもレスポンスは感じられていないのだから、一方的に触れていると表現したほうが正しいのです。だったら、書いてWEBに載せるという行動で報いたくなる。

書評や感想文は自分のためのものという性格が強いのです、僕の場合は。WEBでそれをシェアするのは、本に興味を持ってもらいたい、「読んでみたいな」という気持ちになってもらいたい、それもふだんあまり読書をしない人たちに、という希望がまずありますし、単純に、内容をコンパクトにしたり抜き出した箇所だったりしたものが、誰かの役に立つことを期待してもいます。

まあ、それはそれとして、<またどこかで、出会えますように。>の一文です。読み終えて、ここがいちばん、長濱ねるさんと距離が近まった部分かもしれません。別れの言葉なのに。

僕も、著者が志向する「世界平和」というベクトルには共感がありますし、たぶん、小さく遅い歩みながらも、同じ目的に向かった道にいると思っています。すべての道はローマに通ず。同じ「ローマ」を目指している気がします。仲間がいるとうれしいですね。


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『ことばの力学』

2023-10-15 23:56:56 | 読書。
読書。
『ことばの力学』 白井恭弘
を読んだ。

サブタイトルは「応用言語学への招待」です。応用言語学とはどういう分野か。プロローグによると、「現実社会の問題解決に直接貢献するような言語学のこと」とありました。差別などにつながる言葉はまずそうですが、言葉自体が社会問題になることがあります。また、言葉が、人間の無意識に働きかけていたり、その逆に、無意識が作用して表出されている言葉があったりします。そういった、現実との摩擦を起こしているような部分を扱う言語学といっていいのかもしれません。

十章にわかれていて、そのなかでも比較的短い分量の項で小さく分けながら、それぞれのトピックが論じられていきます。文章自体のわかりやすさはなかなかのもので、読解しやすい体裁になってて読み心地もよかったです。

それでは、いくつかのトピックを紹介しながら感想を書いていきます。

まず、方言やなまりが、自分のそれと同じか近いか遠いかで、その相手との距離感は異なってくるし、帰属意識の働き方も違うというのはそうだなあと思いました。このことの難しいところは、無意識的かつ自動的に、たとえば自分とは違ったなまりの人を気付かないうちに差別するところです。言語感覚によって、そうとう僕たちの意識は規定されているようです。ちょっと怖いところですよね。

次に、言語と認知機能について。バイリンガルのほうがモノリンガルよりも認知症になりにくく、なったとしても進行は早くなりにくいのだとあります。理由は単純に、日常的に頭をよく使うことになるからだとされています。また、二か国語を使用するにしても、その共通となる言語領域があるのだと解説されていました。人間は、まるきり別ものの二つの言語を頭に詰めるというよりも、そういった共通項を共有して母語と第二言語を発達させていくようです。名詞とか主語とか、そういう分類は共通です。うまく整理して覚えていくものだとあります。

僕が義務教育で英語を学んだときは、無味乾燥な学び方をしたものでした。本書にも例がありますが、「I am a student.」という文章を否定形にしなさい、など。「I am not a student.」とやって正解と言われますが、自分は生徒なのに生徒じゃないと言わないといけない。技術・文法面しか見ない教育方法でした。意味を汲んで理解してっていう学習じゃないと身につかないことが教育の分野でやっとわかって、今日では僕の時代のような学習・教育の仕方はされていないそうですね。後の世代の人たち、ひとまずよかったですよね(とはいえ、勉強そのものは大変でしょうけれども)。

規範主義、という主義思想についても扱っていて、著者はこれを批判してもいます。たとえば標準語を正しいとし、その正しさというものが価値を持ち、その正しさから外れるものを蔑み、差別するという帰結になる。これが規範主義です。規範、お手本、そういったものに沿って社会を秩序立てていく方法はメジャーですし大切ですが、その副作用として好からぬ効果がはっきりとあることも意識しておかないといけない。そういったことを、本書ではこの規範主義という言葉とその意味から学び取ることができるのでした。

プライミング効果、という「なるほど!」な知見についても解説がありました。これは、無意識的に抱いている私たちの先入観が、微妙にその行動に影響を与えることを示唆します。たとえば、一流学術雑誌にすでに掲載された論文を、一流大学所属の著者というもとの肩書を外し、無名大学の肩書に書き換えて再度投稿してみた実験があります。12本送ってみて、そのうち3本は再投稿されたものだと発覚してしまい弾かれるのですが、残りの9本のうち8本が不採択になったのです。つまり、無名大学だと採択率が低くなるというものでした。

まあ、プライミング効果なんていう言葉を知らなくても、僕たちはそういった心理バイアスがあることを経験的にわかっていますよね。僕は小説を投稿するときにいつも考えてしまうのですが、応募原稿の1ページ目に学歴や職歴を記載しないといけいなくて、その欄があることで僕の小説の価値が低く見られるだろうな、というのがあります。なにせ、学歴も職歴もたいしたことがないわけで。そのバイアスを突破するにはもう、ベラボーに力強い作品を作り上げるしかないわけです。

……と、それはそれとして、本の中身に戻ります。

認知機能が落ちていると診断された人が、それでも昔と変わらずきちんとしゃべることが出来ていたりする。本書の例では、要支援2の人です。周囲からは、その人の言葉がしっかりしているから、医師に認知機能が落ちていると言われていてもたいしたことはないんじゃないか、なんて判断されたりなどするのです。これ、人間の「知識の二重構造」に理由があるようです。

大雑把に言えば、認知機能に関係する知識の部分と、言語の能力に関する知識の部分は別ものだということです。このことについてちらっと、「宣言的知識」と「手続き的知識」が解説されています。この分野、かなり重要だし奥が深そうに感じました。

たとえば鬱状態でも執筆仕事はできました、といった例を僕はSNS上で読んだことがあります。「そんなの鬱じゃない」とか「執筆って楽ちんなんだ」とか、他者からそういった解釈をされてしまいがちだろうと思いますが、知能が一枚岩で機能しているわけではないとわかれば、鬱状態での執筆は「あること」になります。そして、だからといって「楽ちんということでもない」ことにもなります。

僕個人の例で言うと、過労状態(鍵をかけるときに毎度鍵を落っことす、会計の時に財布を落っことす、仕事が覚えにくいあるいは覚えられない、買ってあるものを別の日にまた買ってしまうなど)にあっても、本の簡単なレビューくらいならまず書けるし(掘り下げようとするとなかなかきつくはあります)なんとか創作もいける。でも傍からは、疲れてなんていないだろう、と見られる。

そういう齟齬を埋める知見だと思うんですよ、「知識の二重構造」って。厳密に言うと、二重どころかもっと分割して捉えているものらしいです。こういうのって、「好きなことだけはやるわけだ」とか「遊べるくらい元気なのに」と人の心を問題視して個人攻撃することを、それは間違いだと正せるきっかけになる知見なのではないでしょうか。無知や無理解が、個人を攻撃したり心のせいにしたりする原因になっていることって、けっこうありがちではないかなあ、と思います。

というところです。200ページ弱の新書ではありますがしっかりした中身で、ページを繰るたびに知る喜びを得ながらの読書でした。テンポよく知見や知識を知ることができたのです。応用言語学という分野自体もおもしろそうですが、英語圏にくらべて日本では関連書はほとんどないそうです。残念に思いました。


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『鍵のない夢を見る』

2023-10-12 23:04:31 | 読書。
読書。
『鍵のない夢を見る』 辻村深月
を読んだ。

人気作家・辻村深月さんの直木賞受賞作品。5つの短編からなる作品です。

まず、初めの「仁志野町の泥棒」。子どもの目線から見える、田舎町での白黒つけない世間が上手に描かれています。本短編において、白黒つけないでいたことが良かったのか悪かったのかは、本当にわからないんです。盗癖の罪を責め、罪を起こさせないための田舎町の人々の行いすら、それがいいのかどうかわからなくなりました。どうにもならない何かがあって、一面的な薄っぺらい正義感でそれに意味づけをしていいのかどうか、疑問が湧いてくるのです。
でも、少なくとも、律子とその家族はその地区で三年間暮らし、引っ越さなかった。他の地区では一年ごとに引っ越していたのに。つまり、包摂されていたのです。排除ではなく。包摂とは、こういった割り切れなさを内包するものなのだな、と本短編から知ることになりました。包摂は、優しさだとか甘い感じだとか親愛の情だとか、そういったものだけでできているわけではなくて、苦味や自制や受容や心の痛みや吐き気や嫌悪感や、ともすればそういったもののほうが多いものなのかもしれない。この作品って、「包摂する」ということがどういうことだと思うか、という問いかけをしているともとれる作品なのではないでしょうか(そしてそのデリケートな面も描かれています)。「包摂とはこういうものだけれども、それでも包摂するだけの度量や力量があなたたちにはあるだろうか?」という問いかけでありながら、包摂していくための想像力のタネでもあると思いました。包摂をする側、される側の両面の立ち位置に、読み手が立てるつくりになっていたのではないでしょうか。

二編目、「石蕗南地区の放火」。文体のトーンは落ち着いているんです。物語を語る主人公の女性の堅い性質がよく出ている。だから本来は笑えないはずなのに、彼女に気を持っている大林という男の描き方のそのブラックユーモアの度合いがえぐすぎてもう、読んでいて可笑しくてお手上げでした。最後のあたりまでくると、そこでなんとなしに明かされる大林の下の名前にすら爆笑です。こんな作品書いちゃうのやばいよなあ。八百屋お七の名前が出てくるあたり、本作品のモチーフにもなっているのだろうけれど、作者のトータルでの技量がすごいんだと思う。とにかく僕は、この短編では、主人公の女性目線を超えて、相手役の男性に注意を持っていかれました。

三編目、「美弥谷団地の逃亡者」。地方の若者の話を見事に書いているなあ、とため息交じりに思いました。人生は上手くいかないし、教養もないしという層です。とくに男、へんに礼儀にうるさかったり出会い系を使っていたり芸能界に上から目線で一家言あったり、なんかよくわかるのです。そしてそこにDV(暴力)の逃れようのない事実があったように、粗暴な傾向がありながら、相田みつを愛好していて、彼女の方もそれを「詩人だ、すごいものだ」と思いもしている。相田みつをが悪いのではないし、愛好するのはいいことだと思うのだけれど、そのポジションはわかっていない、という感じがあります。
これはフィクションなのだけれども、彼らは現実に厳然と存在しているそういう層であって、現実を言語化したもののようにヒリヒリと感じられる。こういう話を読むと、もっとモノを知ろうとしようよ、と思うのだけど、実際に地方のこういった人たちにそう言ってみてもまず届かない。そういう難しさがあることを痛感させられる。自己肯定感が、無いようであるし、あるようで無い、というか。いや、あってほしい部分には無いし、無くていい部分にある、というか。著者はよくぞこういった層の話を言葉にして物語にして提示してれた、と思います。こういったレイヤーにある人ではない著者が、このレイヤー層の目線を得て、書いている。すごいことです。


「芹葉大学の夢と殺人」。主人公は夢を持っているし、彼氏も夢を持っている。その彼氏なんかは甘やかされたような世界から夢を見ているところがあります。これが、小説でなんとかなりたいと考えているような僕には痛い。僕と重なる部分がある。僕にも甘いところがある。でも、この小説で描かれているものに僕は自動的に引き寄せられて、無理に当てはめられて糾弾されているような気がしてくるのでした。それは、思い込みと決めつけであり、無理やり判断され批評や批判をされることと似ていると思います。この小説の彼氏とは違うのに、重なっている部分から独自にわかりやすく類推されたものへと決めつけられ、確定されて、その確定されてできあがった枠組みに当てはめられてしまうみたいなものです。わかりやすく感じられる物語に無理やり収斂させられてしまう。それは僕ではないのだけど、わかりやすく言語化され、イメージ化されてしまっているので、そこに引き寄せられてしまうのです。そういう意味で、創作物にはそういった種類の罪もあるのだな、と知ることになりました。別に、著者や作品が悪いというわけではまったくないです。これはしょうがない範囲の、フィクションのメカニズム。

「君本家の誘拐」。読んでいくと、主人公である母親の神経質さと視野の狭さがよくわかってくる。また、夫の無神経さがその対比になって感じられる。妊娠から出産、赤ん坊の子育てまで、細かい描写が僕には新世界でした。

読んでいると、著者はおそらく、小さいころから世の中にしっかりコミットする、あるいはしっかりコミットする気持ちを忘れることはなく生きてきたんじゃないか、と思えてきました。そして、そうであるがゆえの彼女の観察や洞察からは、誰も逃れられないのだ、と。そう考えるに至った僕も、辻村さんの本作に宿った卓越した才能に、観念しました。

ほんと、藤子不二雄A先生による『笑ゥせぇるすまん』の主人公・喪黒福造の決めアクション「ドーン!」みたいなのを実際にやれちゃうくらい、人の内面の深くを見通すことができそうな感じがあります。レアスキルですよね。

主人公の女性たち、彼女たちの思考や言動はいちいちもっともなのだけど、実は相手役の男たちのようにズレた部分が、わかりにくいのだけど、ある。巻末の林真理子さんとの対談でもそこに林さんは触れられていて、「すごくテニクニックがいること」と、辻村さんの力を評価されていました。また林さんは、言葉の優れた的確性についても触れられていて、僕も本書を読んでいて辻村さんの言葉の旨さに舌を巻きましたが、的確性という言葉はまさにぴったりなのでした。

辻村さんの作品は、『サクラ咲く』『朝が来た』に続いて三つ目です。今作によって、作家の幅の広さを痛感しました。そう、幅の広さについては、一人の人としても、かくありたいものですね。


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『人工知能解体新書』

2023-10-10 00:48:46 | 読書。
読書。
『人工知能解体新書』 神崎洋治
を読んだ。

2017年刊の新書です。昨年、インパクト十分に登場した人口知能チャットボット・ChatGPT。本書はこのChatGPT前夜の人口知能事情についての内容になっています。たとえば、何もないところから急にChatGPTが登場したようでいて、先達のようにしてIBMのWATSONというAIシステムが稼働しているのですが、そのあたりの事情について知っていくことも、本書の大きな柱の一つとなっているのでした。

ディープラーニングやニューラルネットワーク、これらの根本的な仕組みを理解している技術者は、世界でも数百人しかいないと言われている(本書刊行当時)とあります。そんな技術無しに、今日のAIは生まれませんでした。インターネット世界のオープンソースであるビッグデータを読み込むことで、AIは学習していきます。その仕組みとして、ニューラルネットワークという人間の脳をモチーフに設計された仕組みでAIの中身は構成されている。ビッグデータからの情報の入力と、その出力の間の中間層を何枚も増やしていくことで、AIによる分析・解析の精度やバリエーションが増えていくのですが、これが簡単に解説したニューラルネットワークというものです。ディープラーニングも、何十枚もの中間層を通っていくことで、AI内部に細かく分類しつつ学習していくことのようです(ただ、WEBの記事か他の本かで読んだのだと思うのですが、ディープラーニングをどうしてこういう優れた結果を出すのか、についてはきちんと解明されていないのだそうです)。

前述のWATSONはみずほ銀行で稼働していて、将来的に(月日が経っているのでもう実現しているのかもしれませんが)、ロボット・PEPPERと連携して、顧客に金融商品を提示したり投資の提案をしたりできるようになる、とありました。表だってAIとは呼ばれず、コグニティブシステムと呼ばれるWATSONの機能は多岐に応用可能で、たとえば音声認識と解析機能、データベースを利用して、コールセンターでの電話担当者の補佐をしたり、ビジネスメールの文面を考えてくれたり、ツイートやメールなどの文章情報からその個人の性格などを分析したりできます。WATSONは王道を行くAI世界のトップランナーだったわけです。

また、WATSON以外のAI技術では、バイクや車に感情を持たせたり会話をできるようにしたりする研究開発をホンダやカワサキがやっていると紹介されていました(僕の世代としてまっさきにナイトライダーが思い浮かびます)。他には、ビートルズの楽曲を学習させたAIがビートルズ風の曲を作曲できてしまうことや、就職や転職の求職者と会社のマッチングアプリについてや、セキュリティAIや、ファッションやお酒などを個人の好みを学習しつつ提案してくれるSENSYというアプリなどが解説されていました。

AIの知能レベルが人間を超える日は近いなどとも言われます。人間を超えるその分岐点をシンギュラリティと呼び、それ以降のAIの思考や動向は予測不可能とされていたりもします。おっかなびっくりに感じる話が急速に現実化してきているわけですけれども、それでも「覆水盆に返らず」的に、もう開け放ってしまった技術ですから、あとはどうやってコントロールするか、あるいは付き合っていくかです。

本書は、刊行当時としては最先端のAI本だったのでしょうが、今となってはAI発達の基点を学ぶようなかたちとして存在していると言っていいでしょう。AIの基本について知りたい、生成AIのその歴史の初めのほうを知りたい、そういった方向けです。ただひとつモノ申したいところがあります。誤字・タイポなどがやけに多かったのです。10か所前後は見つけました。こういうところこそ、AIを使うべきなのではないでしょうかねえ。


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『結婚への道』

2023-10-04 23:48:09 | 読書。
読書。
『結婚への道』 岡村靖幸
を読んだ。

独身のミュージシャン・岡村靖幸さんが雑誌の企画で。自らが結婚するための情報集めのようなものとして、結婚をテーマとした対談を繰り広げた、その集積となる本です。

対談相手はミュージシャン、小説家、漫画家、文化人、女優などさまざま。個人名を出すと、坂本龍一さん、糸井重里さん、吉本ばななさん、内田春菊さん、松田美由紀さん、YOUさん、ミッツ・マングローブさん他で、合計32名にもなります。坂本龍一さんのページですと、彼が30代末くらいまでのやんちゃ話も聴けます(読めます)。

岡村靖幸さんは、ジョン・レノン&オノ・ヨーコ夫妻のような結婚に憧れているといいます。強い愛があって、クリエイティブのためのインスピレーションが得られて、とにかく最高の夫婦だということでした。ただ岡村さんは、そういいつつも、結婚相手に望むものは「やさしさ」しか挙げません。「やさしさ」さえある人ならば、結婚を前提に付き合える、と。付き合ってみて、結婚に至るかどうかはまた難しいのでしょうけれども、そうやって入口を広くとってあるところには現実性があります。

さて、本書を読んでいていろいろな人が言っているのは、フランスに多い事実婚についてのこと。PACS婚という言葉もでてきます。僕はこの方面にうといので、よく知りませんでしたが、事実婚は別に役所に届け出を出さなくていいじゃないか、というものですし、そもそも戸籍なんていらないという考えもあるんです。戸籍についていえば、戸籍というシステムはおかしい、と本書の中で何人もの人が別々に言っていたりもしました。ちょっと、別の機会に戸籍についても調べてみたいなあと興味が湧きました。

ここからは、おもしろかったところを抜粋。最初はYOUさんとの対談での岡村さん。
__________

YOU:あれは? ”負”の部分は必要? たとえば私が詞を書いていた頃は、”負”の部分がおいしいっていうか、それをネタにするっていうか。いまの私は、自分で制作とかクリエイティブなことをしていないので、それはもうないんだけど、そういう部分ってやっぱりあります?

岡村:年齢的なことが大きいんですけど、最近はもうやさしい気持ちになりたいです。

YOU:あはははは(笑)

岡村:昔はこう、「勝ち負け」みたいな部分があって。「負けてたまるか!」みたいな。いまはもうやさしくなりたいです。(p76)
__________

岡村さんは当時40代後半ですが、見た目はまだまだ若々しいです。なのに、こんな枯れたような言葉がするっと出てくるのでおもしろかった。


次はケラリーノ・サンドロビッチさん。ここは文筆でクリエイティブをやる人にとって、深く肯く内容です。
__________

KERA:一方、いわゆる「ドラマ」をやるときは、彼女(奥様である緒川たまきさん)の意見がとても参考になる。小説家もそうだと思うんだけど、ドラマって観客の意表をつくような、一見すると矛盾しているような、当たり前ではない、意外な展開をしつつも、「でも、そうかもしれないな」と思わせるテクニックが必要なんです。そういうとき、緒川さんは、ふっと提示してくれるんですよ。

岡村:なるほど。いいヒントを与えてくれるんですね。「その視点があったのか」とあらためて気づかせてくれる。(p135)
__________

緒川たまきさんはまるでミューズですよねえ。

クリエイティブについて、岡村さんは、
「孤独であること、報われないこと、そういった不敵なパワーがクリエイティビティにつながることが。僕は、どっちかというとそういった部分が強いんです。」(p128)とはっきり何度もおっしゃっています。だから、恋愛にしても結婚にしても、幸せや安定感を得ることに迷いが出る、とある。葛藤があるのです。僕みたいなのでもこういうのってわかるんですよねー。僕はクリエイティブのために結婚を考えなかったのではないのですけど、たしかにこういう側面ははっきりわかります。結婚するならば、それまでの創作姿勢の方向性を変える必要は出てくるんだと思えます。それも苦労したりしながら。でも新たな道が見つかるとおもしろいのでしょうけど。


最後に、堀江貴文さんの、彼のイメージからはちょっとギャップを感じた発言を。
__________

堀江:たとえば、20代の女性編集者に「老後に年金をもらえるかどうか不安です」って相談をされたんですが、僕はそれを聞いてあきれたんです。あなたが年金をもらえるとしてもあと40年も先のこと。なぜそんな先のことを心配するんだと。そんなことより、いまはまだ20代で若いんだから、まずは一生懸命働くことが重要で、働くなかで自分に自信をつけ、人との関係をどんどん築き、信用を高めていくべきじゃないのと。要は、年金の心配をするというのは、お金の心配をしているということなんですよ。「老後誰にも助けてもらえないだろうからお金だけを頼りに生きていくのよ」と思ってるってことなんです。あなたは金しか信用しないの? と僕は思う。だから結局、結婚もお金なんです。一人で強く生きられない、不安だ、だから結婚したい。それは人を信用しているのではなく、金を信用しているからなんです。金こそが自分を助けてくれると思ってる人が多すぎます。それってどうなの? って僕は思うんです。

岡村:なるほど。

堀江:第一、お金ってそんなに信用できるものではないですよ。お金の信用の源泉って人と人との信用から成り立っているわけで、先にありきは、人と人との信頼関係。お互いが信頼し合い、初めてお金が成立する。米ドル紙幣に書いてあるじゃないですか In God We Trust って。だから、「自分が弱ったときは、絶対に誰かが助けてくれる」という自信をもって生きなくちゃいけないと思うんです。

岡村:もちろんそうなんです。そうなんですけど、みんな不安なんです。確実な何かがほしいんだと思うんです。それは人によってはお金かもしれない。精神的な安定かもしれない。(p230-231)

__________

人を信用することが大事で、お金は信用に値しないなんていう見方って、この言葉を正面から受け止めると、「よく言ってくれた!」と拍手したくなります。でも、ちょっとそこからずれた角度で見直してみると、強烈な理想論のように読めてしまいます。本質をついているのだけど、現実の行動に反映させるとなると、難しいなあと思っちゃいます。

というところですが、岡村さんの切実な結婚願望が根本にはあるのですけれども、和気あいあいとした楽しい対話としていろいろな形にその都度昇華されているというか、エンターテイメントとして成り立っていたり、ときに知的興奮を得られる読み物になっていたり、人と人との反応のおもしろさが感じられました。対談集のおもしろさの要素として、その大きなひとつってそういうところですよね。結婚話というものを日常で僕はあんまりしたことがないので、なんだかとっても刺激的でおもしろかったです。

著者 : 岡村靖幸
マガジンハウス
発売日 : 2015-10-20

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『いなくなった私へ』

2023-10-02 13:59:01 | 読書。
読書。
『いなくなった私へ』 辻堂ゆめ
を読んだ。

2014年に『このミステリーがすごい!』大賞優秀賞を受賞した、著者のデビュー作。当時、東大在学中の学生だったそうです。

ぼんやりとした意識と記憶のなかゴミ捨て場で目覚めた主人公・梨乃は、それまで国民的シンガーソングライターとして忙しい日々を送っていた。梨乃は目覚めてまもなく、自分の自殺による死亡報道を目にします。不思議なことに、彼女を見る誰ひとり梨乃だと気づくことはなく、自分はいったいどうしてしまったのかまったくわからなくなります。自分はどうして死んでしまったのか。少しずつ明らかになっていくその謎が大きな見どころでした。そして、死亡報道以後の、梨乃のあらたな生活の情景の温度感も、この小説を読ませる力として大きかったのではないかな、と思いました。

独特の「輪廻」の仕方のアイデアが優れていて、この物語を大回転させたなあ、という印象です。芸能界が大きな舞台としてあり、そういった煌びやかな世界の裏側という引きつけも、本作品を読ませる力として働いているでしょう。また、ライブや練習風景の場面描写もしっかりしていました。著者にはバンド経験があるそうです。

文体の第一印象は、きっと推敲や直しに励んで、この読みやすくて整理された端正な文章に変えていったのではないかなあ、というもの。それでいて、光る表現もちゃんとあるエンタメ作品。アマチュアとしての賞への応募作品ですが、隅々まで力を使い切って完成させた、立派な「プロの仕事」という感があります。

それぞれのシーケンスをきっちり書かれていますし、構築している世界は狭くないですし、こういった「構成」と「構築」のどちらからも力を感じられるのが、やっぱり賞の関門を突破する人ゆえだなあと感じ入ったのでした。ストーリーテリングとは <「構成」と「構築」> とも言えるのかもしれない。まあ、斬新なアイデアを忘れてはいけないですが。読み進めていくごとに奥行きが深まっていきます。それはたとえば、新しい友人ができて、時間とともにその人をより詳しく知っていく過程と似ているのかもしれない、なんて気がする自然な深まり方です。

分析めいたことをこうやって書いてますけど、物語のほうにだって没入して楽しんでいます。書くようになってからは読み手視点と書き手視点の「二重読み」の度合いが強くなりました。ただ、物語の魅力に負けがちになります。佳境を迎えると、書き手視点がどっかいってしまう。今回も終盤は楽しむのみ、みたいなふうに。

その終盤、悪党が正体を表し、悪を為す場面があります。がらっとそれまでのトーンが変わる、読ませどころなのですが、そんな「悪」を扱う場面であっても身じろぎしていない書きっぷり。肝が据わっています。自分の書くものから目を逸らしていない。そういう根性というか精神力というか度胸というか、、そういったものがあると思いました。これは、宇佐見りんさんの『推し、燃ゆ』を読んだときに著者に感じたものと似ていました。才能を下支えする度胸みたいなものがあるなあ、と。

さて、序盤にもしかすると瑕疵がありました。主人公は北海道出身で親は札幌にいるのに、居候をする理由が、他の大学でのサークル活動について親とうまくいかなくなって家に帰れないから、というところです(もしかすると、僕の読み違い・読み足りなさかもしれない)。読み違いならほんとうに申し訳ないのですが、僕はここもなんらかの伏線なのかな、と頭にひっかかっていたのでした。どうなんでしょう、また読み直すと僕の勘違いだとわかるような部類のものかもしれないですが、そうでもないような気もして。

文章は読みやすいですし、しっかり内容は考えられていますし、おもしろかったです。今後はもっと難しいものを扱ってみよう、みたいな感じで創作活動を促されるような作品でもあったかもしれませんが、500ページ弱の分量をきっちり書き尽くすあたり、力を持ってらっしゃいますね。最後までゆるめず、やりきるといった姿勢はほんと、その通りなんだよなあ、とリスペクトでした。


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