Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

『激走レンジ!京大式馬場読み馬券術の原点』

2015-02-28 21:08:39 | 読書。
読書。
『激走レンジ!京大式馬場読み馬券術の原点』 棟広良隆
を読んだ。

競馬でうまく馬券を当てようという種類の本で、
とくに馬場の軽い・重いを重点的に考えた予想法でした。

昨日、JRAの現役名ジョッキーの一人である
後藤浩輝騎手が亡くなりました(ご冥福をお祈りいたします)。
僕はたとえば去年、後藤騎手がらみでは6万円くらい儲けていて、
比較的相性のいい騎手でした。
というか、人気薄の馬ををよく2着以内に持ってくる騎手という印象で、
僕はたいてい馬番連勝という1着2着にはいる2頭を選ぶ馬券で買うので、
どんぴしゃで絡んでくれたりして、馬ともども感謝したものです。
それで、追悼の意として、えいやっ、と本日競馬をしました。
そのために、以前買っておいた本書をまず前半の基本的なところを読んで、
それを生かして馬券を買ってみたのです。

すると、全然あたりませんでした・・・。
だって、本書では馬場の重い・軽いを得意とする馬のキャラを
それまでの戦績から抽出していかすという話なのですが、
僕がやったのは、朝早くの未勝利戦だったので、
データが少なくて話になりませんでした。
おまけに、「小倉の1000m、1700mのダートはともに差し馬の台頭がある」
なんて書かれていて、実際はどっちも前残りでした。
あとがきにもちらりと書かれていましたが、
本書の次に出た『激走レンジ!2』のほうが今向きで、
本書はもう、ちょっと通用しない感じみたいですね。

加えて、
馬キャラをつかむ、として、その馬の得意な馬場を見極めるのですが、
馬の成長もあると書かれています。変化するんです。
そして、その変化した瞬間のレースの馬券はとれませんといいます。
どれだけの頻度で馬は成長したりするのかは書かれていません。
しょっちゅう、馬の性質が変化していたら、
馬券はいつもとれないではないですか。
まあ、ちょっと屁理屈っぽいですけども。

競馬っていうのは、本気でやり出すと論理的に考えなきゃいけないもので、
だからこそ、昨今のデータ重視、論理重視のパソコンアプリを使って年1億だとか
儲ける人もいるみたいなんですよね。
それでこのあいだ最高裁ではずれ馬券は経費だと認められたので、
必要以上の、破産必至の高い税金を払わなくて済むようになりました。
本書で書かれているような論理的な分析を、
もっと多角的に集めてアプリにしてしまって多くの人が使うようになったら、
きっと、的中率があがりオッズが的中馬券に集中して下がり、
配当の妙味は減るでしょう。
今でも、何年か前に比べて、3連単という1着から3着まで順番に当てる馬券の配当は
ずいぶんその難しさに比べて下がりました。
これは単にみんな馬券がうまくなっただけとは考えにくいのですが、どうでしょう。

本書に欠けていたのはまだあって、枠順の有利不利だとか、
距離とコースによる脚質(逃げとか追い込みとか)の有利不利だとかもですね。
きっとこのあたりは著者はわきまえているんだけども、
本書では言わなかったような感じがしています。

いろいろ考えて当たらなくて、もういいやってなって
独創的に買ったり、語呂で買ったりした馬券があたったりすることもあります。
なんなんでしょうね、やっぱり運なのかなあ。


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『海の底の考古学』

2015-02-26 22:08:24 | 読書。
読書。
『海の底の考古学』 井上たかひこ
を読んだ。

水中考古学という日本ではちょっと遅れているらしい分野で
活躍されている著者による、雑誌コラムをまとめた本。

難破船や地震などで海に沈んだ遺跡。
そういったものを発掘調査するのがこの水中考古学というものです。
それは、トレジャーハントとは一線を画すもので、
水中考古学のほうは、学術的に丁寧に扱うのに対して、
トレジャーハントは金もうけの財宝目当てです。
ですが、本書では、トレジャーハンターもとりあげて、
広義での水中の遺跡調査について語ってくれています。

タイタニック号のことについてや、
クレオパトラの神殿についてのことなど、
遺跡や難破船として有名なものも扱いますが、
よく知られていない、文献に登場すらしない
沈没船なんかにも言及していて、
しかし、驚いたことにそんな名も知れぬ船に積まれた
陶磁器や金の延べ棒や銀貨などの量の
けたたましさといったらありません。
かなりの財宝になります。
そんなにまでのお宝を海上で輸送していたんだなあと、
暗い歴史観に現実性の光がさしたくらいです。
だからこそ、中世には海賊稼業が跋扈したんでしょうね。
海賊で豪華な生活ができるくらい、
海上にはお宝がすーっと通りすぎていったんでしょう。
武装商船というものがあっても、きっと負けたんだろうな。

各章は4ページくらいで、
やっぱり雑誌のコラムだなという感じ。
しかし、好きでやっている人の旺盛な好奇心と知識欲と、
そして僕が知らない分野のトピックということもあって、
筆者による読みやすい文章から受けるそのワクワク感が、
読み下していくときの満足感を与えてくれるようで、
全体的に好ましく感じられました。

こういうところはちょっとわき道にそれるところではあるのだけれど、
麻酔の無かった時代、負傷者にヘルメットをかぶせて、
その上から棍棒で頭を殴りつけてショックで失神させ、
その間に手術をしていたっていうのはびっくりしました。
14世紀のイギリスの沈没船から出てきた棍棒の説明がそうだった。

また、20億円を借金してまでトレジャーハントに精を出してあきらめず、
探索中に長男や妻を溺死させてもなおあきらめず、
ついに400億円相当の財宝を発見したメル・フィッシャーという人が出てきた。
これは宝くじを買って夢を見るのとはわけが違うなと思いました。
でも、金を求めることが、本当にその人にとっての生きがいなのか、
考えてしまうところです。
アメリカじゃ、金持ちこそヒーローだっていう風潮があって、
日本のように富豪を嫉妬したり、悪玉に見立てたりはしないようですが、
それでも、なんのための金もうけなのかっていう問いを、
僕は持ってしまうタチで、
「生きがい」や「やりがい」とともに金を稼げたら最高だと思うんですね、理想は。
考えのヤヤコシイところではあるのですが。
動機は遊びめいたものだとしても、
やっていくうちに身につくスキルなり知識なりはあるはずで、
そういったものには苦労が伴いますから、享楽的な職業とは言い切れないです。
その反面、遺跡や沈没船を荒してしまう、不当にサルベージ(引き上げ)してしまって、
それらの価値を少なくしてしまうというのもあるようで、
どうなんだろうって思いますね。
ちょっと真面目すぎる考えを、今日は持ってしまっているかなとは思います。

閑話休題。
あとがきに書かれていましたが、
近年、日本でも東京海洋大学や東海大学などで
水中考古学の講座がスタートしているそうです。
著者は脱サラして、40歳前後にアメリカに渡って
勉強をされたそうです。
パイオニアとして伝えてくれる、面白い読み物でした。


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『ガラスの街』

2015-02-25 00:02:14 | 読書。
読書。
『ガラスの街』 ポール・オースター 柴田元幸 訳
を読んだ。

海外の現代作家の作品を読むことって、
あまりなかったりませんか?
何かと古典ばかり読むようにしていたりしがちなのは、
僕だけではないはず。
それで、じゃあ、現代の海外の作家にはどんな人がいるのかと調べてみると、
いろいろ出てくるのでした。
その中でも、新潮文庫のメールマガジンに載っていたのが本書です。
よさげだ、と、びびびっと来て購入しました。
思っていたように、やっぱり面白かったですね、現代作家の作品は。
村上春樹さんだとか、日本の現代作家の本が面白いんだもの、
外国人のが面白くないわけがない。
とはいえ、本作は30年くらい前の作品なんですけどもね。

探偵小説の皮をかぶってるオオカミみたいな作品かなあ。
オオカミまで行かなくても、我が強くて人なれしないネコが
正体として皮をかぶっているようなイメージでも持ってもらうといいのかな。
本性としては、探偵小説ではないです。
では、なにかと問われると、もう、ポール・オースターというジャンルだとしか、
僕のように現代小説を読んだ経験の浅い人には言えないですね。
アメリカ的な純文学とでも言えばいいのか。

時折出てくる内面描写が秀逸で、
「そういう気持ちわかるわー」と思う箇所がいくらかありました。
なかでも、とある作家の家族と主人公が逢う場面で、
家族という温かさに疎遠な主人公が、その作家の家族愛の幸福さを目にして、
「食中り」ならぬ、「幸せ中り」を起こすところが僕には共感できてしまった。
何気ない描写も、すんなり気持ちに入ってきて、
著者は詩人でもあるとのことなので、そのあたりのセンスなのかもしれないです。

本書の最初のほうに書いてあるセンテンスこそが、
この物語の読み方を表していると思うので、
それを抜き書きして終わりたいと思います。

___

問題は物語それ自体であり、
物語に何か意味があるかどうかは、
物語の語るべきところではない。
___

そんな小説でした。
面白かった。


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『暴露 スノーデンが私に託したファイル』

2015-02-21 20:21:26 | 読書。
読書。
『暴露 スノーデンが私に託したファイル』 グレン・グリーンウォルド 田口俊樹・濱野大道・武藤陽生 訳
を読んだ。

2013年6月、香港にて本書の著者やその他数人に対し、
アメリカ合衆国NSA元職員のスノーデンが自身の良心に従って、
行きすぎたアメリカの監視体制に関する機密文書数万点を暴露したことは、
日本でも大ニュースになり、みなさんもご存じだと思います。
その機密文書の内容は、アメリカやイギリスの新聞社から記事として発信され、
スノーデンはモスクワに移動して逮捕を逃れ、
本書の著者であるグリーンウォルドも共犯者とみられる向きもあり、
ブラジルのリオデジャネイロに住んでいながらも、
アメリカに帰国した際には連行される危険性も否定できないらしいです。

そんな危険を冒してまで、
政府に屈せずに報道をしていくのが、
真のジャーナリストである、と著者は述べていて、
昨今の、政府にお伺いを立ててから記事にするような、
たとえばニューヨーク・タイムズ紙の記者などを痛烈に批判しています。

そのようなスタンスで、
本書はスノーデンのリークした機密文書の紹介や、
香港で彼と著者たちが出会うまでについてや、
なぜNSAによるインターネット世界全監視システムであるプリズム計画などが
プライバシーを侵害することがよくないのかという、
どうしてプライバシーが必要なのかについての論考や、
そしてマスメディアの現在についての批判や記事発表後の
著者自身のあまりいいとはいえない状況などについて書かれています。

僕はこのNSAによる世界監視が暴露されたことは喜ぶべきだと思いました。
アメリカのオバマ政府は、
「国民の監視や盗聴や通信の傍受はしてないよ!外国人に対してだよ!」
というような苦肉の言い訳をしていて、
それに対して、マーク・ザッカーバーグ(FBの創始者)が、
「世界を相手にしているウチの商売に気を使えよ」的な愚痴を言ったとか。
そうなんです、世界監視には、フェイスブックもヤフーもグーグルも、
いろいろな企業が協力しているそうです。
そうやって、プライバシーを盗んでいるんですね。
そうしたことが秘密裏のままだと、
本当に闇の中でもっと権力を強めてしまいかねない。
日本もそうだけれど、政府っていうものは、国民やジャーナリストが厳しく見ていないと、
なにをしでかすかわかったものではないなと感じるところです。

また、著者の主張の優れているところの一つは、こういうところです。
肉体の安全を超一級の優先事項として、
精神的な価値すなわちプライバシーの安全などを明け渡すよう迫る
「監視国家是認」の言説は考えが浅いように思われるし、
詭弁として受け取れるというようなところ。
そうなんですよね、肉体の安全すなわちケガや死に対する不安を過剰に煽って、
それらを回避するためなのだから、精神的な価値つまりプライバシーを
さしだしなさいという、強引な論法なんです。

そして、読んでいて感じたのですが、
他人と違ったままでいたかったなら、知性を磨かなくちゃいけないと感じました。
労力がいるけれど、他人と違うという理由で自分に張られるレッテルを、
それはレッテルだとして説明したり論破したりしなければならないだろうからです。
へんなもので、人と違うことをすることには説明責任があるかのように扱われる。
アメリカじゃ、あいつは人格障害だとか社会不適合者だとか
レッテルを張られる場合があるらしい、問題が大きくなると。
こういうのは健全バカだと思う。
我田引水すぎるリテラシーのせいなのかな。
人権も侵害しているでしょう。

世の中の色合いってものは、
どうしても排他的な保守の色合いだったりする証拠なのかもしれない、
人と違うことをしたときに当たり前のように説明責任を持たされるのは。
説明できないと、病気だとか障害持ちだとか、
適当にレッテルを貼られてしまいます。

この件によって、ジャーナリズムの存在価値が見直されて、
国家に対する監視という立場を堅守するようになってほしいです。
そして、言論の自由ですよね。
驚いたことにイギリスでは報道の自由みたいなのって決められていないみたいです。
本書では、アメリカ、イギリス、カナダ、ニュージーランド、オーストラリアを
ファイブアイズという名前でもっとも親密な同盟として、
NSAの監視盗聴の恩恵を受ける国々としていたと書かれていました。

しっかし、世界をこういう感じで眺めてみると、
情報の暴露一つにしても、物騒だなと思いました。


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卑怯な性分と向かいあう。

2015-02-15 09:17:27 | 考えの切れ端
自分が他人を邪険にした思い出は、
通常、頭のはるか隅っこに追いやられていて、
まるで思い出せないかのようになっている。
こないだ何かのきっかけでそんな記憶をひとつ思い出して、
ひどいなと思ったんだけれど、
もう何だったのか思い出せない。

都合の悪いところは、なあなあだったりする。
それまで仲の良かった友だちと距離を取り始めたときなんか、
向こうの態度が煙たくなってきたと勝手に感じるようになって、
なんとなく意思の疎通をずらしだす。
それで離れていってその理由も手段もなあなあに曖昧に濁す。
自分にも少なからずそんなのがあった。

なあなあに曖昧にすることで、
自責の念に駆られないように、
そして自分が傷つかないようにしている。
相手を傷つけてこれだもの、この卑怯さ。
「あぁ、そんなこともあったね」
「その程度のことだったね」と処理して、
忘れてしまうこの心の機制。
恥じて反省して改めるべきなのか、それとも
人間ってそんなものなのかと諦めるのか。

そういうことをする人って多いと思うんだけれど、
それでも他方で善いことをしようとするから、
善を働いた時に、
無意識下に沈みこんだ卑怯な記憶が自分自身に対して
「はっきりとした理屈は浮かばないけど、自分は偽善者だ」
と思わせるのでは。

はたまた、他人が善いことをしても、
人ってだれしも卑怯な<曖昧にしてなかったことにする性質>を
持っていることを言外にわかっていたりするから、
「あいつ、いい顔しやがって」的な、
やっかんだり嘲笑したりする気持ちが湧いたりするのでは。

そういうのを超えていくのには、
偽善で何が悪いという開き直りとともに、
やっぱり恥じて内省することだよなあ。
「私はもう、こういう自分の汚さとか自認しているし、
行動を省みることもする。そのうえで善をおこないたい」
という意識が必要かもしれない。

それで、善を行う段になって、
それが本当に自分勝手な善じゃないかどうか、
善の押し売りじゃないかとか考えることになるんだけど、
そこが難しいよね。
大きなお世話にならない善、
その行為によって相手をスポイルさせない善、
だとか考えなきゃいけない…けれど、
多少は目をつむる要素ではあるかも。

突き詰めれば、<善とは見守ることである>くらい、
見方によっては消極的なところへ帰着するのかもしれない。

話が大きくなった。
人は無自覚に卑怯なことをしているものだから、
そこに自覚的になるだけでいろいろ変わるんだってことを言いたかった。
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『2045年問題』

2015-02-08 13:22:04 | 読書。
読書。
『2045年問題』 松田卓也
を読んだ。

このままの速度で上昇カーブを描きながらコンピュータが進化していくと、
人工知能は2045年に人類すべての知能を超えることになる、という、
レイ・カーツワイルというMIT卒業の発明家で企業家の人の未来予測を主軸として、
コンピュータと人類の関係の今後を考える本です。
著者はSFに詳しい宇宙物理学者で神戸大学名誉教授の方でした。

コンピュータの進歩はユートピアを招くかディストピアを招くか?
どうも、進化した人工知能は、人類に隷属することなく、
その優れた知性によって、人類を敵視しせん滅してしまう可能性があるとのこと。
このあたりは、ディストピアSF小説から多大な影響を受けているなあという
印象を受けましたが、だからといって、そんな可能性はさらさらないと
一方的に否定することは難しくもあります。
環境を破壊したり、戦争したり、人類が人類程度の知能でもって
やっていることは危なっかしくてしょうがない、と
人類以上の知能を持つ人工知能は考えるかもしれない。
そして、『ターミネーター』のスカイネットのように反乱を起こすことだって
考えられるというわけです。

また、進化した人工知能との共存の道はどうなるか、という可能性についても、
いくつかの方向が示されていました。
なかには『マトリックス』のように、意識をコンピュータ内に取り込んで、
仮想現実内で生きる存在になるという見通しも。
これは、「シミュレーション現実」というそうです。

ところで、本当に近い未来、それは5年後だとか10年後だとかで考えてみて、
コンピュータの進歩による人類への影響はあるのでしょうか。
それについては、大きくあるだろうということでした。
どんどん、人間の仕事をコンピュータが取って代わるようになる、と、
現在でも100万人規模のiPhoneなどの工場がロボットを採用して、
雇用人数を半減させるという話なども併せて載っていました。
中間的な職業の求人の無さはますます増えていくだろうとのことです。
社長やその取り巻きの高度な技術を必要とする職業や、
ロボットが得意ではない家事などの労働、介護などの「気持ち」を使う仕事は
生き残っていくとは言われていました。
工場勤務だとか、オフィスでの仕事だとか、そういうのはどんどん減っていくと
考えられるということでした。
どれだけの規模でそうなっていくかはわかりませんが、
傾向としては間違いないのではないかと、僕も考えたところです。

と、暗い話ばかりになりますが、本書のトーンとしては落ち着いていて、
危機をあおることもありません。
あとがきでは「明るい気持ちでいましょう」などと書かれているくらい。

現在、アメリカでは国防相が主導してシナプス計画を、
EUでは10年1000億円規模でヒューマン・ブレイン・プロジェクトを始めました。
脳を解明しコンピュータで再現するおおきな計画がすでに発動されているのです。
これらがもたらすものの行き着く先がどうなるのか、
本書で読んできたことなどを踏まえるとけっこう不安もあります。
しかし、きっと打開策や共存策はあるはず・・・。

そんなわけで、頭の隅っこででもいいからこういう案件を置いておいて、
それでいて各々みんなが自助努力と利他の精神で意識を変えていければ、
それが未来に繋がっていくのではないかと考えるところでした。
わかりにくいまとめですが、すべての道はローマに通ずということで。

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『グレイトフル・デッドにマーケティングを学ぶ』

2015-02-06 23:34:45 | 読書。
読書。
『グレイトフル・デッドにマーケティングを学ぶ』 デイヴィッド・ミーアマン・スコット+ブライアン・ハリガン 渡辺由佳里 訳 糸井重里 監修・解説
を読んだ。

あまりビジネス書は読まないのですが、それでも読んでみると、
本書は、非常にユニークなマーケティングの本だなあと思えました。
バンドのグレイトフル・デッドにマーケティングを学ぶんですよ?
ともすれば、ちゃらんぽらんにすら思えるちょっとサイケなバンドにです。
そんなバンドがビートルズやローリングストーンズよりも儲けてしまったんですって。
はじめは、たぶん結果からひも解いて論理づけるとこうなったっていう
成功例なのがこのグレイトフル・デッドのやり方なんじゃないのかなと、
たまたまうまくいったんじゃないのかなと邪推してしまいましたが、
そこのところっていうのは実にどうでもいい問題であって、
読み始めるとすぐに、「ああこれは本当のことだ」と気づくような、
ベールに隠されていない、露骨ですらある真実の、
「仕事の仕方(作法)」っていうものが示されていました。

初めの解説に書かれていますが、
マーケティングっていうと、小手先の大衆操作みたいな、
あまりよくないイメージのものを喚起させられると思うのですが、
そうじゃなくて、要するに、ビジネスをしているこちら側のスタンスを変えていこう、
こういうふうにしていこう、そうすれば周囲はこう動いてくれるものだ
っていうような、それも常識から離れていたり、
一見、自分たちの損になりそうだったりするのですが、
長期的に見てそのほうが自分たちの利益になったり、
そしてここが一番大事なように僕には感じられましたが、
自分たちの立ち居振る舞いが「自然」なスタンスなんです。
無理がないような、ビジネスの関係。
だからこそ、魅力と収益力にすぐれているのではないのかな。
素人ながらにそんな感想を持ちました。

なかでも、本書に出てくる「信頼は透明性から生まれる」っていう態度は、
僕は憧れるというか、好きだなあと思える考え方でした。
安心社会から信頼社会へを考えたときのヒントにもなりますよね。
そこにはやっぱり、透明になって見えてくる、いろいろな弱者的資質だとか、
タブー視されてきたような物事だとか、そういったものを直視して受けとめられる
度量と成熟加減が、みんなに求められるなあと思ったりもします。
なんだか、道徳教育が復活すると言われていますけれども、
道徳教育するならば、今言った部分のところが勘所なのではないでしょうか。


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『スローシティ』

2015-02-03 22:29:47 | 読書。
読書。
『スローシティ』 島村菜津
を読んだ。

スローフードという言葉が流行った時期がありましたが、
そのスローフードの考え方を基本とした街のあり方を考えていく、
そんな価値観で再構成されたり整備されたりした小さな街のことを
スローシティと呼んで、それぞれで連合を組んだりしているのが
イタリアの小さな街たちで、そんなスローシティーズを著者が取材して歩き、
内容をまとめてスローシティの紹介と提言をしているのが本書です。

イタリアの小さな町それぞれには人を惹きつける力があるようです。
自然、街並み、食べもの、住む人々。
また、そういった観光の要素だけではなく、
農家や職人や個人のお店などを大事にして、
住人にもそこに住むことで満足感や肯定感が得られるような仕組みになっている。

世界はどんどん、同じような街や都市ばかりになっていっている。
ベッドタウンもそうだし、個人商店を駆逐してしまい景観を壊す、
国道沿いなどに作られる巨大な店舗もそうです。
土地柄に関係なく、風景をどことも同じ、つまり均質化される
大量消費、大量販売の考えによって出来あがる、
アメリカ型の街の作られ方。

イタリア人は、「それは間違った考えではないか」とし、
その街にないものを探して嘆くのではなく、
あるものを再発見して、それを長所としてストロングポイントにしていきます。
それが、トスカーナのキアンティ地方であり、
小さな街でありながらパルマに次ぐ生ハムの名産地であるサン・ダニエーレであり、
その他にも魅力的な小さな町であるスローシティが存在する。

それは見事な、生き方の美学であるとい同時に、
理にかなった生き方でもあるように、
過疎の町に住む僕には思えたのですが、
本書を読む他の方はどう思うでしょうか。

ここからはごく個人的な雑感ですが、
日本の国づくり都市づくり街づくりっていうのは縦社会で進められた上に、
安全と効率を景観や美意識をないがしろにして
無粋なまでの作り方で作られたものだなあと
本書を読んでいて感じた。

日本では都市、街、村が一つの価値観で
縦社会的に価値づけられていやしないか。
都市が最上級で村が最低級で、そこから見上げたり見下したりがあるだろう。
イタリアでは都市も町もいっしょくたにコムーネと呼ばれる。
そういうところからして意識の違いがありそう。
横社会的な意識。

たとえば、山中、景色を望む場所での
白いガードレールなんかは景観を損ねると本書で言われるけれど、
ほんとにそこまではっきりさせたガードレールを作ってしまうところに、
日本人の「責任逃れの精神」と、
そこから逆算される「人を締め上げる精神」を感じずにはいられない。
締め上げられないために責任逃れできることをする。

日本の街の景観の悪さっていうのは、
そういう日本人の中にある対人面での粗雑な精神
(これは日本人の精神のある一面という意味)を反映したものかもしれない。
でも、電柱も土壌に埋め込むだとかできないのかなあと思ったけれど、
日本は地震が多いから無理なのかなとも思ったりもして。

また、街の価値観の縦社会的な捉え方っていうのも、
アドラー心理学的にはよくないってことになるよね。
幸せな対人関係には縦の関係は持ち込むべきではない、とのことだったと思う。
優越とかスノッブもそうだと思うけれど、
支配的な関係を作るものってよくないんだよ。

それにしても、日本人の締め上げの精神って、
ほんとうに真面目に容赦なく締め上げて、
死ぬまで呪うタイプのものだからタチが悪いと思ってる。
絶対に善人として全うしなきゃだめだとか、
善人の仮面を一生外してはならないものだ、とか、
そういう固定観念からきているんじゃないかな。
なにも善人が悪いというのではないし、
悪人が良いというのでもないのだけれど、
ここでいう締め上げっていうのは、
正しいことが悪に変わる一つの明快な例のように
感じられるのです。

イメージでだけれど、
日本人は狭い意味での安心がほしくてたまらなくて、
信頼っていうものにはぶるぶる手を震わせているような気さえする。
みんながみんなそうじゃないとは思ってるけど、
そういう人たちの声の大きさ(きっと不安や恐怖によってのもの)が
力を持ってしまったりするんだよね。

善人であるべき、善人の仮面は外してはならないという空気によって、
逆に露悪的になる人もたくさんいる。
すべては安心の空気、安心信仰から生まれているんじゃないか。

共同体感覚をもつこと、
そして地方がうまくやっていくためには安心信仰の変化が求められるし、
なにがしかの動きによってそこが変化すると成功だと思う。
都市を否定するわけじゃないけれど、
地方が輝かない盲目的都市信仰による一律な価値観の国って、いびつですよ。

意識の変化が求められるよなあ。


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