Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

『フクシマの王子さま』

2015-07-31 00:00:20 | 読書。
読書。
『フクシマの王子さま』 椎根和 荒井良二:絵
を読んだ。

あの2011年の終わりころに出版された本。
赤ちゃんを産んだばかりのお母さんの語りという体裁の、
世間への訴え的な、ノンフィクション的フィクションでした。

東電への怒り恨みが根底にふつふつとあって、
ぬらぬらとした感情を感じさせつつ、原発に反対する論拠を
述べていきますが、ときに恣意的すぎるきらいがありました。
あまり科学的ではないというか、
記述に正確性を欠いていたり、
情報源がはっきりしなかったり、
デマを信じているように見受けられる記述があったりする。
その顕著なところは、原発の格納器から蒸気を放出するベントという作業についてです。
これは、原発が津波で大ダメージをうけてなかなか作業できなかったのが
本当のところだと、NHKの番組やほかのノンフィクションで知っていますが、
この本では簡単に、そんな単純な作業にすら長い時間をかけてしまったのは、
日ごろの保守点検作業に怠りがあったからだと、
あまりに考えがないまま結論づけられている。
さらに、そんなベントのバルブなどにはきっと公にできない秘密があるのだ、などと、
すこし妄想的な文章が続く。

たしかに、福島に住む人々の怒り、
もっといえば北海道に住む僕だってなんたることだって怒りを覚えたので、
この、まだ原発事故から1年もたっていない時期では、
こういう物言いにもなってしまうのかなぁという気持ちにもなります。
しかし、混沌の火に油を注ぐようなことはしないほうがいい。

2011年という年の混乱をそのまま宿しているという意味では価値はあるけれど、
2015年になってもはや放射性物質関連には素晴らしい本が出てきているし、
情勢も固まったところは固まってるし(原発事故は収束していないけどね)、
今読むと無用な混乱を再び招く恐れもあるように思いました。

すごく勉強されているので、惜しい。
(なんて、僕がいえたもんじゃないんですけども)


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『夏の闇』

2015-07-30 01:15:03 | 読書。
読書。
『夏の闇』 開高健
を読んだ。

純文学の王道を言っている作品のように感じましたが、
どうなのでしょうか、いわゆる純文学をよく読んでいない僕ですから、
きっぱり「これこそThat's純文学!」と言いきれない。

僕にとって純文学として学生時代なんかに読んできたのは、
村上龍さんなのです。
だから、ちょっと違う感覚があるかもしれない。
村上龍さんには特徴として過激さがある。
あと、純文学か大衆小説かで区切り線をいれるのが難しい
村上春樹さんにもかなり親しんでいます。
そういう読書家的バックグラウンドから言うと、
待望の、と言ってもいい、王道の純文学がこの
開高健さんの『夏の闇』だったといえるでしょう。

開高建さんの食に関するエッセイは読んだことがあったのですが小説は初めて。
それも、エッセイだってかなり前に読んだので、
文体のことなどは覚えておらず、
その濃密さとわかりやすさの共存するなかでの生鮮さっていうものが印象深かった。
そうなんですよねぇ、まるで今感じたこと、起こっていることをつぶさに言葉にして
実況しているかのように、新鮮な心的描写が続いていきます。
これはきっと、書きながら、書き手である開高さんが、
そのフィクションを「経験」している証拠なんじゃないだろうか。
思考実験じゃないですが、頭の中で繰り広げられる想像に対して、
リアルを生きている時と同じように、その感情や心理の起伏などを、
「経験」しながらそれを知覚して言葉にしているように感じる。
こういう面は僕も参考にして、その濃厚な生鮮さ加減を試してみたくなりました。
僕の小説ではそういうところが希薄なように思う、良かれ悪しかれ。

作品としては、出だしから官能シーンがメインを張っていて、
そのトーンは最後まで続きます。
そういうところを乗り越えると、面白みがわかってくるような感覚がある。
気恥ずかしいと飲み込めないものがそこにはあるということです。
ここはひとつ、オトナになって読んでみるのが手でしょう。

中盤から後半のパイク釣りあたりだとか、食べ物に関するところだとか、
著者の得意な分野が出てくるところにはあふれでる生命力を感じました。
それ以外のところは腐臭を放っているような、
快楽の奴隷になっているようなふうなので、
きっとああいうのばかりが続くと、なにも今日まで残る作品にはならなかったかもしれない。
そして、最後まできちんと書かないで結末を迎えたことを含めてこそ、
この小説の語る何かはあるんだという感想を持ちました。

男が、まるで愚図って生きるとはどのくらいのことなのか。
そして、男女の関係があり、その関係にどれだけの重さを感じているかの男女差があり、
捉え方の差もある。そんな中、男は何に、文字通りの活路を見出すものなのか。
それは男一般に言えることではないけれど、ある種の男には通じることなのだろう。
ぼくなんかでも、わからないこともなかったです。


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『東北を聴く』

2015-07-25 06:04:34 | 読書。
読書
『東北を聴く』 佐々木幹郎
を読んだ。

東日本大震災をうけて、2011年の9月から2012年の8月まで、
三味線奏者の二代目・高橋竹山と著者が、
初代・高橋竹山が門付き芸をして歩いた東北の地を訪ね、
被災地の仮設住宅の集会所でのライブ・コンサートから始めて、
被災者の体験談を聞き、そして数々の東北民謡の源流を探る旅をした、
その内容がこの本です。

「牛方節」や「斎太郎節」や「新相馬節」など、
東北には有名で、地域に根差した民謡があるということでした。
そういえば、民謡、という文字を見れば、
東北があたまに浮かびます。
東北人といえば、シャイだという印象がありますけれども、
そんな東北人が生みだし、愛してきた民謡というものは、
僕なんかが考えるに、シャイだからこそ、唄という形式でもって、
普段出さない大声を出してすっきりするためのものとしての一面も
あったのではないのでしょうか。
唄にすれば、これは唄なんだからというエクスキューズが働いて、
気兼ねなく声が出せるんだと思うんですよね。

要所要所で、東北が生んだ一大三味線奏者の初代・高橋竹山の逸話も語られています。
昭和8年(1933年)の三陸沖大地震による大津波から必死に逃れた話もあります。
本書では、三陸のリアス式海岸が、津波の侵入にたやすい地形であることに
触れていますが、それでもやはり、大きな地震と大きな津波にさらされてきた
土地なんだなという印象を持ちました。

執筆は2011年から2013年まで行われていたようですが
(加筆修正をいれるともっと長くだろうか)、
最初の2011年くらいなどは、当時の放射線物質による恐怖な不安などが
少し過度に書かれているような気がしましたが、
当時は多くの人が同じような気持ちいたんですよね。
その後の識者たちの努力で、
そういった風評被害的な部分は薄れてきたように感じるのですけれど、
この本を読んで、まだ恐怖や不安の気持ちしか浮かばないようでしたら、
たとえば早野龍五先生と糸井重里さんの『知ろうとすること。』だとか、
菊池誠先生と小峰公子さんの『いちから聞きたい放射線のほんとう』を
読んでみるとおおいに参考になるし、いらない不安を払拭できるでしょう。

話は戻りますが、民謡というのは変幻自在にその歌詞にしろ、唄い方にしろ、
メジャーかマイナーの調子かにしろ時代に沿って姿を変えてきたようです。
民謡同士でも親和性が高くて、違う民謡同士で混ざり合っていたりもするようです。
そういうところは、土着のものでありながらも、
人の行き来に乗って流布していく様が感じられて面白いです。

意外とささっと読めてしまって、僕なんかにはよく知らない分野の内容だったので、
そうかこういう世界の見え方もあるなぁと感じ入った本でした。


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『心に訊く音楽、心に効く音楽』

2015-07-22 00:39:38 | 読書。
読書。
『心に訊く音楽、心に効く音楽』 高橋幸宏
を読んだ。

YMOやサディスティック・ミカ・バンドのメンバーとして有名な、
もちろんソロ活動もバリバリやられています、
ドラマーで音楽家の高橋幸宏さんの著書です。

幸宏さんの音楽遍歴、それは好みの上でのものであったり、
自分が作ってきた音楽のものであったりするものを
時系列に集めて語られています。

ぼくはリアルタイムでは再生YMO(名前にバッテンがついてた93年のYMO)
を経験し、その数年前からYMOはもっとも好きだったバンドでした。
始めにベスト盤を買って、ライディーンだとか東風だとかおもしろい音楽だなって
聴いていて、中学生ながらCUEの空気感も好んでいて、友だちに聴かせて
いいよね、なんて言いあっていたりもしました。

その後、いまから10年くらい前に、恵比寿ガーデンホールで行われた
エレクトロニカ系のイベントでHASという形で出演したYMOの三人の音楽を
堪能することになるのですが、そこで幸宏さんを生で目撃しています。
ぼくはクラブだとか行ったことがないのでわからないですが、
重低音がすごくて、心臓がもういっこ体の中にできたかのように、
それも不整脈を起こしたように体の中で響くというのを体験しました。
あれは心臓の悪い人は無理だなと思ったり。

そんな幸宏さんは、昔っから、
洋服やポップ音楽のセンスはずば抜けて良い人だという認識がぼくにはあり、
ツイッターをはじめた2010年くらいからかっこよさがわかるようになったんです。
それで、そんな幸宏さんのお話を、まるで身近でお聞きするような本がこの本なんですよ。
バカラックの話、ビートルズの話、そして細野さんやユーミンたちと知り合った若いころの話。
音楽の傑物たちが同じ場所に集まっていたんだから、
そこに働いていた引力みたいな不思議な運命のようなものを感じるのですが、
すごい人はすごい人と巡り合うんですよね、なんだか。
交流、親交、そういったものを垣間見るような語りになっています。

文章も軽やかで、読みやすかった。
YMOだとかはっぴいえんど周辺、音楽史好きには目からうろこのエッセイだと思います。


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『黄昏』

2015-07-21 00:02:07 | 読書。
読書。
『黄昏』 糸井重里 南伸坊
を読んだ。

お二人の対談というか、雑談というか、無駄話が、
400ページにもわたって繰り広げられている本です。
これが読み進めていくと味わい深い可笑しさがあって、楽しい。

なんて肩の力の抜けたやり取りだろう。
読んでみてその内容から、
「黄昏」という表題の言葉になんだか俗世からの解脱っていうんでもないけど、
世界の好い所に溶け込んでさらっと希薄になった楽さを感じた。
「黄昏」っていうけど、元気じゃんっていう明るさもありますね。

糸井さんのおもしろ雑学、たとえば西遊記の沙悟浄は河童じゃなかった!
だとかからの話の展開には妙味がありますし、
伸坊さんはいろいろな人物その本人になってしまう芸風をお持ちなので、
天狗になったときの話だとか、いちいち笑えてしまうし、
楽しくてしょうがない400ページの読書体験になりました。

ぼくはいまでもしゃべりは得意ではないですが、
思春期からのしばらくなんて雑談すら苦手だったりもし、
なにかおもしろいネタだとかタメになる話しかしちゃいけなくて、
自慢にとられる危険性のある話やだじゃれは絶対に口にしちゃいけない、
なんて構えていたものですから、とくに女子と話をするときなんか、
どうやって口を開けばいいのかわからなかった。
そんな時分のぼくに、この本を読ませてあげたかったなぁと思いました。
無駄話のおもしろさですよね。
私語を慎みなさいなんて学校では言われますが、
その私語をしてしまうのはすごく楽しいからなんであって、
その楽しいんだという原点を、私語の禁止という抑圧から取り返すという効能を、
この本は持っています。

と、いろいろ言っていますが、四の五の言わずにおもしろいわけでして。
言葉のやり取りの楽しい感じですよね、この本に収められているのは。
名コンビの、落語のような無駄話に溢れていて、
おなかいっぱいになってもすぐにすーっと消化されて、
すぐにまたおかわりしたくなるような本でした。


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近況2015夏

2015-07-20 12:36:47 | days
北海道も暑くなってきました。
熱中症のニュースもありますし、
だからといって涼しいかっこうで寝れば寝冷えすることもあります。
みなさんも体調管理にはお気を付けくださいまし。

さてさて。
最近のぼくの様子ですが、
まず、6月の下旬にちゃんとしたボウリングの大会に初出場しました。
腰を痛めて8カ月休み、一時期は「引退」としていたのですが、
いとこに導かれるまま復帰したのが昨年の11月です。
6月はいつも通うボウリング場のレーンコンディションが自分に合っていて、
224点、234点と自己最高得点を更新していきながら満を持して大会に臨んだんですよ。
でも、当日のレーンはいつもと若干違う感覚で、
さらに、4人でアメリカン方式(2つのレーンを交互に投げる)でもってプレーするんですが、
レーンの変化も早く、まるで対応できませんでした。
なんと、3ゲームトータルのスコアは360点くらい。
ダントツのビリッケツだったんです。
来場した元女優プロボウラー・渡辺けあきさんにサインを頂いて、写真を取ってもらい、
2ゲーム目に同じレーンで投げてハイタッチを交わしたのは良い思い出になりましたが、
地球の重力を2倍くらい感じているような、
どろーんと体も心も重くなる結果になってしましました。
苦い経験です。
球につくオイルの後からプレイヤーのタイプを判断するサイトをいとこが知っていたのですが、
後日の練習のときに、ぼくの球をみてそのサイトに照らしてみると、
オイルが濃い場合には苦戦するタイプという診断結果が得られました。
そうなのかぁと、これまたどんよりとした気持ちになりました。
今後、投げ方も考えねばなるまいか、と。
それにしても、大会の結果は、緊張もあったんじゃないかと思っています。
変なところに力がはいり、はいるべき所に力が入らない、
そんな感触でした、振り返ってみれば。

ボウリングはさておき、
うちの様子はまだ、おふくろが入院していて、
6月いっぱいに退職した親父も近々入院するという状況です。
それで、1週間ちょっと、ひさしぶりに一人暮らしを味わうのです。
へんな話ですが、ちょっと楽しみだったりもして。

退職してから毎日家にいるようになった親父は、
働いている間は独り言やらなにやらずっとしゃべっていてうるさくて、
居間の隣の自室にいるぼくは本も読めないありさまだったのですが、
「退職してこれから家にずっといるんだから、静かにしてくれ」
と単刀直入に言ったら、2日くらい静かになり、
また元に戻ったところで「うるさい!」と強く言ったら
うるささが8割減くらいになりました。
これで昼間も読書したりできるというものです。
やっぱりね、距離ってものは大事なんですよ。
ベッタリなところがありますからね、親父の場合。

親父が退職の後、家でおふくろの面倒をみる役目から
今度は外で働く役目に移行する予定だったのですが、
さっきも書いたように、おふくろは入院中だったりもし、
それも難しい薬を使うようになっていて、
もしもうまくいって退院してとしても、
血液検査のために毎週札幌まで2時間かけて
病院に通わなければいけないことになってきています。
といっても、まだ安定しておらず、
この薬をどこまで使うかを、医者や看護師や相談員や薬剤師などと家族で
これまで2度ほど話し合いをもったくらいです。
日々うまく症状が改善されることを祈りつつ、なんですよ。

退職した親父が、失業保険をもらうためにハローワークに通い始め、
見てきた求人の話をきくと、前に働いていたパートの部門違いのところだとか、
精密工場の検査か何かのものだとかで、ぼくにはちょっと縁がなさそうでした。
精密の検査の求人のことで以前ハローワークの職員に話を伺いましたが、
ぼくのように目がかなり悪い人だと無理だねえと言われて、
そうだよなぁと思いましたね。
目を休める時間を日中でもほしい人ですから。
メガネ屋さんにも、このメガネはいつもつけるのではなく、
運転中だとかに使うようにした方がいい、度が強いから。
と言われましたが、まあ四六時中かけてます。

高齢化率も45%を超えていて、
どんどん人口が減少していく街ですし、
そうなると、どう働くかについても、いろいろ考えねばならない。
書きもので生計が立てられれば、いろいろと家庭状況を鑑みて、
いちばん良いなぁとは思います。
そこにもっと力を入れていって、
まずはぶつかっていくのがいいのかもしれない。
去年書いた小説『虹かける』は予選を通りませんでしたが、
あれとまた違ったものを作れるような気は、だんだんしてきています。
作家になりたければ、ひとつのジャンルにつき1000冊読め、という
言葉があるようですが、ぼくが続けている読書、
一冊一冊を読了するにつけて考え方や世界が広がっていくのを感じているので、
まだ成長の余地はあると思っています。
そして、今年は「年100冊の読書」も目標にしています。
去年が85,6冊だったので、見えた!と思ってこの目標にしました。
今のところ51冊なので、ちょっとペースを上げていかなければ、
目標を達成できませんが、読書しやすい状況にもなりましたので、
突破は可能だと、楽観的に構えています。

それと、ダイエットですねー。
前に、医者に、このままじゃ長くは生きられないよ、なんて、
ガーンとすることを言われたので、どうしても痩せたい。
今は80kgジャストです。
4年くらいかけてでも63kgまで減らしたいですねー。
肝臓の数値も、このままだと高いはずなんです。
だから、少しずつ食べものに気をつけたりウォーキングしたりです。

そういうわけで、ぼくの行く曲がりくねった道は続いていきます。
歩けよ歩け、歩きつづけよう。
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『物語論』

2015-07-19 05:25:31 | 読書。
読書。
『物語論』 木村俊介
を読んだ。

小説家や漫画家、音楽プロデューサーに演奏家などのクリエイター17人の
インタビューをまとめたもの。

最後の伊坂幸太郎さんのインタビューが、
長く紙幅を割いていることもあったし、
本当にこの『物語論』の王道を言っている内容だったので、
もっとも印象に残りました。
もちろん、伊坂さんの小説を何作品か読んでいて、
好きだということもあります。

その他のインタビューは、
『物語論』としては直球ではなかったりもします。
村上春樹さんなんかは、ほぼ翻訳の話でしたし。

ただ、それらの直球ではない話の中から、
なにか「物語」を作る上で勉強になる情報を
すくいとること、それは読者がきりりとした目で
文章を追いかけながらしなければいけない行為。

そういった意味で、
いたれりつくせりではないし、親切でもないですが、
「物語」を紡ごうとしている人には、
なにかしらのヒントを無数に宿している本だと言えます。

橋本治さんの洞察する力にうなり、
重松清さんの謙虚さには徳を感じる。

これはいろいろな人に共通する部分だな、だとか、
これはその人なりの考えだよな、とか、
もろもろが経験論なので、響いてくるものがあります。

余談ですが、著者の木村さんは以前、
『ほぼ日』のスタッフだった方ですね。
メルマガ版の担当をされていたのを覚えています。

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『ものだま探偵団2 駅のふしぎな伝言版』

2015-07-16 16:04:12 | 読書。
読書。
『ものだま探偵団2 駅のふしぎな伝言版』 ほしおさなえ くまおり純:絵
を読んだ。

「徳間書店の児童書 Book For Children」と帯に書かれていました。
「小学校中・高学年から」らしいですが、なめてはいけない。
おとなも十分楽しめるうえに、感動までしてしまった・・・。
まとまりもいいし、肝心のところの展開は読めないまま進んでいくし、
冗長なところはないし、完成度高いなぁと思って読んでいました。

ものだまというのは、ものに宿る魂のようなもので、
この本の舞台となっている坂木町にたくさんいるようなんです。
そして、そのものだまの声をきけるのは限られた人々ではありますが、
やはりこの坂木町という土地にいると聞こえるようになる人がいる。
主人公の七子も相棒の鳥羽も、このものだまと話ができるんです。

その坂木町の駅で待ち合わせをする人が、もの忘れ病にかかって、
いったいなんのために駅にいるのかわからなくなる事件が頻発するのが、
この物語の始まり。
七子と鳥羽がこのなぞについて調査していきます。

僕が子どものころに読んだ物語だと、『ズッコケ三人組』だとか、
子供向けの落語の本だとかでしたが、
そのころに夢中になった記憶が甦るような読書になりました。
児童書だから子どもだましと思ってはいけない。
稚拙なんじゃないかとか勘ぐってはいけない。
立派に構築されて、細かいところは勉強して記述されている、
ちゃんとした児童「小説」でしたよ。
良質な読書経験が得られる種類の本です。

今回、『2』を読みましたが、いまや『3』も出版されていて、
当たり前ですが『1』もあるわけです。
面白いし、ほかの登場人物との関係性との深まりも期待できるような状態が
キープされていながら(それは長い伏線となっている)『2』は終幕していもするので、
シリーズ化して、ながい読みものになるのかもしれないですね。

ものに魂があるっていう設定、考え方っていいなあと思うのです。
独自に魂が生まれるっていうのがこの本の考えですけれども、
もらったものに贈り主の魂ではなくても、気持ちやら精神性やらが
やどっているっていうマルセル・モースが『贈与論』などで語った考え方に、
僕はなにかしら現代社会の行き詰まりを打破するものがあるのではないかと
考えているので、そういったイメージを近いところで共有できるような
想像力がこの本を読むことでも養えるだろうなと思いました。

子どもたちの夏休みが近いです。
どうだい、きみ、『ものだま探偵団』を夏休みにどうだい?


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『犬の行動学』

2015-07-15 14:53:42 | 読書。
読書。
『犬の行動学』 エーベルハルト・トルムラー 渡辺格 訳
を読んだ。

日本では1996年に単行本が発行され、
この文庫版で出たのは2001年のことですが、
オリジナルのドイツ版は1974年に発行されている、
いわば犬学の古典ともいえる本です。

犬を人間の良きパートナーとしながらも、
擬人化するところなく、
生物学的に犬を捉えています。
犬の、生物学的なスケッチみたいな考察でした。

人間を中心として、そのなかに犬を取り入れるような見方ではなくて、
あくまで犬を中心にしてその周縁に人間がいてコミュニケーションを取っている
というような視座で客観的に犬という存在を語っています。
著者自身、犬舎に多数の犬を飼っていて、
その観察から得た知見が軸になっています。
また遺伝学から考えて、どう繁殖していくのがいいのか、
また、どう繁殖させずに淘汰させていくのがいいのかについても語られています。
ときには子犬の安楽死を行うことにも迷いを見せません。
このようなところから、命を重く考える多数の人びとにとっては、
犬を繁殖させて飼うという行為、そのシステムにたいして罪を感じるところかもしれない。

いわゆる血統書つきの犬などの家犬については純血犬として本書では扱われていて、
序盤から、野生の犬のディンゴやら狼やらの記述をもってして、犬を説明しています。
それには、犬本来の性質を見ることの大切さを著者が痛切に感じていることからくることであり、
人間の側に引き寄せて考える犬の一面を取り上げるより、
犬の側に寄り添って考えてやることの方が、犬を大切に考えていることだからなのでしょう。

185ページの文章を引用します。
_______

なぜならば、動物の真の友人とは、その動物の本性をよく理解し、
それに合致した取扱いをおこなうべきであると考えている人たちであり、
決して、「私は人間を愛するように動物を愛している」などという人々ではないのです。
「人間を愛するように・・・・・」などと語る、自称動物愛護家にとって、
動物の真の友人とは愉快な存在ではありません。
_______

なるほどな、と思いました。
どうしても、人間のエゴからというか、
人間中心のなかに犬などの動物を引きこんで考えがちな人って
僕もそのようなところもありますが、けっこういるような気がするんですが、
犬などの動物の幸せも考えてやると、
その動物の性質をしっかりと知る必要ってあるんだなあと気づかされたのでした。


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『21世紀の自由論』

2015-07-09 19:45:41 | 読書。
読書。
『21世紀の自由論』 佐々木俊尚
を読んだ。

佐々木さんの『当事者の時代』や『レイヤー化する世界』などなどの
ご著書の内容もとりいれて語られる集大成的なかたちにも読める、
世界の未来像とぼくらのあり方を問う本になっています。

今後、従来の国家ってものが解かれていく世界になって、
世界企業がもっと力を持ってパワーバランスが変わっていき、
それにともなって国家も形を変えざるを得ないっていう見通しがいまや主流のようです。
IT革命による境界のない世界が進んでいくとそうならざるを得ない、みたいな。

日本人としては、言語の境界が残ることを強く考えちゃうのですが、
そこもテクノロジーが超えてくれるのか、
はたまたやはりもっと英語学習を奨励していく方向に行くのか。
後者のような気がするなあ、ぼくは英会話できひん。

本書では、
卓越した現状把握から論理的に見通された未来像を提示し、
日本のリベラルや保守の患部を徹底的に浮き彫りにして、
凄腕整体師のようにパキパキボキボキと本の中でではありますが、治していく。
そして、歴史についての情報の量・質ともに濃く勉強しておられる。
だからこそ、軽い表層をなぞるだけのようだったり誤認識している発言があったりすると、
流されずにそれは間違いだと気づくこともできているんだと思う。
海外の古今についても明るいし情報・論理からの論説としてはやはり最高の部類。

ただ、それでも、事実は小説よりも奇なりじゃないけれど、
現実って予期せぬほうへ良くも悪くも展開していったりする。
『21世紀の自由論』では、ディストピア的なものを視点を変えて眺めれば
ディストピアじゃないんじゃないかというような言説もあった。
そういうところはきっとイノベーションでひっくり返るんだと思う。
なにか大きなイノベーションがあると、
昨今言われているプラットフォーム型の世界支配未来だとかというものは手ごわいとしたって、
なんらかの今の予想との方向の違いは出てきそうに感じるのだけど、
これは適当なイメージ論すぎるかな?

終盤の30ページでは、未来の世界の政治哲学、共同体について
ぐいと足を踏み込み、ちょっと抽象的な部分もありながら、
未踏の地に灯りをともすような仕事をされていました。

また、反体制の立位置だけでものを言っている文化人たちという批判も本書にあった。
これについては、そういう文化人たちの歴史認識の浅さから来ているように読み受けたんだけれど、
平和の護持という思想が硬直しちゃった(そこで思考停止した)からなんじゃないかと思った。
自分も含めて、そういうのってあるよなあ、と。

佐々木さんの以前の著作を読んでいない方にはちょっと難しかったり、
箇所によっては突拍子もない印象をうけるところもあるかもしれないですが、
いろいろと読んできた僕が保証するには、
そういった箇所も十分に練られた上での言い分だということです。
紙幅か時間の関係かで削られたような部分もあるんじゃないかと思いました。
それでも、じゅうぶんに読ませる本です。
はじめて佐々木さんの知見にふれる方は、びっくりすると思いますよ。


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