昨年10月期のドラマ『ライオンの隠れ家』の主人公には発達障害の弟がいた。弟は、時間に正確を期し、やることの順番も毎日おなじ。つまり自分を型にはめることで自身の状態を保っていた。これは、社会に自分をあてはめるやり方で、そうしないと不安になってパニックを起こすから。不安にならないため、秩序を求める。
いっぽうで、メンタルを病んだり調子を崩したりする人のなかには、社会性に耐えられなくなったのではないか、と考えられるところがあったりする。現代の社会性による厳しい締め付け、型にはめすぎなところが、本来の人間性を発揮する時間やその実感を押しのけてしまう。
人間ひとりの中でも、人間性と社会性の配分はあるし、社会自体も極端なありかただといけないんじゃないかと思う。社会的な事象については、モノのように見て扱えばいい、とデュルケームは考えたと、録画を見始めた100分de名著でやっていた。社会への飛び込み方も、そういうモードであるべきだろうか。
社会参加に対しては割り切った態度でいられると楽だと思う。でも、人間性を求められる局面は、社会にいる場面で必然的にもそうじゃない場合にもでてくるものだ。柔軟に、臨機応変でやるとすれば、周囲からの寛容さが不可欠だと思う。割り切るというのは不寛容さだから、反対のものが要るようになる。
発達障害の傾向の人にも、メンタルが傷ついてる人にも、周囲からの、つまり社会からの寛容さが、彼らをケアしたり心理的にフォローしたりするのではないか。社会は極端であるべきじゃない、とこういうところでも考えられる。競争とか規律とか常識とか、どれも極端になるといけないじゃない?
要らない真面目さってあると思うのだ。四角四面、杓子定規みたいにある種の融通の利かなさがそれ。決められたこと、ルールは一枚岩であらねばいけない、とそう遵守しないと世の中が乱れるという言い分はわかるけれども、そうじゃなくて、「良い二枚舌」「良いダブスタ」ってのもある。
それは不安定なことだけれども、それをときに「やれやれ」と言いながらでも、受け止めて生きていく姿勢がベターなような気がする。不安定な生き方でも人々を不安症にさせない仕組みってないかなあ!
いっぽうで、メンタルを病んだり調子を崩したりする人のなかには、社会性に耐えられなくなったのではないか、と考えられるところがあったりする。現代の社会性による厳しい締め付け、型にはめすぎなところが、本来の人間性を発揮する時間やその実感を押しのけてしまう。
人間ひとりの中でも、人間性と社会性の配分はあるし、社会自体も極端なありかただといけないんじゃないかと思う。社会的な事象については、モノのように見て扱えばいい、とデュルケームは考えたと、録画を見始めた100分de名著でやっていた。社会への飛び込み方も、そういうモードであるべきだろうか。
社会参加に対しては割り切った態度でいられると楽だと思う。でも、人間性を求められる局面は、社会にいる場面で必然的にもそうじゃない場合にもでてくるものだ。柔軟に、臨機応変でやるとすれば、周囲からの寛容さが不可欠だと思う。割り切るというのは不寛容さだから、反対のものが要るようになる。
発達障害の傾向の人にも、メンタルが傷ついてる人にも、周囲からの、つまり社会からの寛容さが、彼らをケアしたり心理的にフォローしたりするのではないか。社会は極端であるべきじゃない、とこういうところでも考えられる。競争とか規律とか常識とか、どれも極端になるといけないじゃない?
要らない真面目さってあると思うのだ。四角四面、杓子定規みたいにある種の融通の利かなさがそれ。決められたこと、ルールは一枚岩であらねばいけない、とそう遵守しないと世の中が乱れるという言い分はわかるけれども、そうじゃなくて、「良い二枚舌」「良いダブスタ」ってのもある。
それは不安定なことだけれども、それをときに「やれやれ」と言いながらでも、受け止めて生きていく姿勢がベターなような気がする。不安定な生き方でも人々を不安症にさせない仕組みってないかなあ!