Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

人を型にはめ、指図する心理の三つのポイント。

2024-05-12 10:04:43 | 考えの切れ端
とくに私生活において迷惑に感じられる、他者からの「型にはめ、指図してくる」行為というものがあります。(くわしいところは、前回の記事で触れました。)今回は、そういった「型にはめる」心理を分析し、どう直してもらうかについての処方箋にまで触れる内容です。では、はじめます。

他人に対して「こうやれ!」と指図するタイプの人々の心理は、一般的に次の三つのポイントで説明できます。

楽をしたい欲求:
他人に教えることは手間がかかりますが、型にはめて指示すれば自分自身は楽になります。

他者をコントロールする欲求:
他人を支配することで幸福感を得る人々もいます。支配によって自己満足を感じることがあります。

理想主義(原理主義)による強制:
自分の理想が絶対であり、それを他人にも強制することで、自己満足を得る人々もいます。
しかし、このような指図をする人々は、実際には自分自身が完璧であるわけではありません。そのため、他人に対して厳しく指摘することで、自分自身の不安やストレスを感じることがあります。つまり、さらに疲労感が増すこともあります。

それでもって、「型にはめて指図」して完全にうまくいくわけはないのだから、他者をがみがみ怒るはめになります。すると、その人はいら立ち、ストレスを感じ、疲労する。疲労すると、もっと楽になろうとしてもっと型にはめだすという悪いサイクルに陥ります。そのサイクルを断ち切る心理を阻み、おそらく補助しさえするのが、絶対性をまとった理想主義(原理主義)です。

(※理想主義に関して、生成AI・Copilotによる注釈 → 理想主義は、自分の信念を絶対的なものとして捉え、それを他人にも押し付ける傾向があります。しかし、柔軟性を持ち、他人との協力や理解を大切にすることで、より健康的な人間関係を築ることができるでしょう。)



いかがでしょうか。では、どのように工夫して、このようながんじがらめになった心理をどう変えていけばいいのか。解決は難しい! と感じられるかもしれませんが、以下に、Copilotから得られたアドバイスを元に処方箋を書いていきます。

(1)「まっ、いいか」と言う:
完璧主義を治すために、「まっ、いいか」を口癖にしてみましょう。少しうまくいかないだけですから、怒るなどの投げやりな行為に走らないで諦めず、柔軟に考えることが大切です。

(2)結果を手放す:
努力した結果、物事がうまくいかなかったとしても「めげない」ようにしましょう。結果を手放すことで、幸福度が高まり、生産性も向上します。今回は今回の結果だけなんですし、次は次で頑張れでいいのです。

また、完璧主義には「適応的完璧主義」と「不適応的完璧主義」の2つの種類があります。適応的な考え方を身につけることで、ストレスを軽減し、柔軟性を持った人間関係を築ることができるとのことです。適応的完璧主義は現実的にできるもので、不適応的完璧主義は、現実にできっこない空想的な理想主義と言い換えることができるでしょうか。

というところです。ここまで読んでくださってありがとうございました。

前述の通り、今回の記事は、前回の記事「怒りたくなかったら人を型にはめない。」の続編となる内容です。興味を持たれた方はぜひ、遡って読んでみてください。
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怒りたくなかったら人を型にはめない。

2024-05-02 22:32:49 | 考えの切れ端
たとえば子どもに「こうしなさい!」と指図する親がいる。それは子どもに「教える」のではなく「型にはめている」。型にはめるのは、子どものためになることではなく、親自身のためになること。型にはめておくと、自分が楽だからだ。

これ、介護もそういうケースがある(うちの親父がそうだ)。薬の時間だからこっちへこい、早くしろ、何度言わせる、この薬から順に取れ、すぐに水を口に入れろ、早く飲み干せなどなど、一から十まで指図をして型にはめ通しにしたりする。それで少しでも滞ると激怒する。自分が楽にならないから。

日常に於いて、人を型にはめ通そうとするのはかなりの暴力だ。また、型にはまらなかったときに激怒し怒鳴り散らすそのエネルギーはまったくの無駄使いであるし、怒鳴り声を聞かされるほうには少なからずダメージがあって、Win-Winならぬ、Lose-Loseになっている。なのに、型にはめる行為を選択するのは、実に愚かしい。

「型にはめる」と、その対象者も行為者も人間性を失うことになる。軍隊、兵士を考えてみればわかる。型にはめて人間性を失くさせて(機械にしてしまう)、それで人殺しができるようにしている。

社会を考えてみても、「社会の歯車」という言葉があるように、人を型にはめることは、人を人間性から遠ざけて機械のようにすることにあたる。でもふつうは、社会(仕事)という場ではなんとか折り合いをつけてやっていくものだけど、家庭の場でも型にはめるという行為をし続けると、型にはめるほうもはめられるほうもおかしくなってしまうだろう。まっとうな人間性に反している行為なのだから(人を尊重する姿勢とは真逆なのだから)。

家庭という、型にはめられない場所で過ごせる時間があるから、社会に出ているときには型にはまっていられるとも言えそうだ。ならば、なおさら、家庭(仕事以外の時間)では型にはめない、はめさせないことが大切になるのではないのだろうか。

というわけで、家庭という場、仕事から離れている時間に、自分が楽をしたいからといって他者を型にはめるのはよしたほうがいいんじゃないだろうか、ということでした。疲れているのはわかるのだけれど。型にはめていると安心(つまり不安が源にある)なのもわかるけれど。

そして、その不安を生じさせるのが孤独感であることも知っているのだけれど。

型にはめなければ、それがうまくいかないときに怒るなんてことも生じないので、怒りたくなかったら人を型にはめないことだ。そういった「怒りのコントロール方法」もあると思う。
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恋愛合戦のA-SIDEとB-SIDE。

2024-04-02 11:09:30 | 考えの切れ端
「攻撃力」「防御力」「素早さ」みたいな項目を重視するようにして、駆け引きばかりの恋愛合戦から恋の領域に入っていくのって、やっぱりそこにゲーム感覚があるからなのだろうか。気持ちよりもすこし頭のほうが優勢だからかもしれない。これは恋愛模様のA-SIDE(これは便宜的に名付けています)という気がする。このように名付けるくらいだから、B-SIDEもある。

B-SIDEは頭よりも気持ちの部分が優勢で、恋愛戦略も気持ちが頭を引っ張って行われる感覚。だから、恋愛状況に対して頭がついていけない状態にもしばしば陥るので、冷静で客観視できている友達のアドバイスがとてもありがたくなる。B-SIDEがかわいいですな。

A-SIDEの恋愛って、ファッションとしてだったりステータスを得ることだったり、すべてがそうではないとしてもそういう目的が根本にあるだろうね。頭か気持ちか、優勢なのはどちらかといえばどっちだろうか。気持ちのほうがつよいほうは「説明がつかない」「なぜかわからない」という好意が主体で、人生経験としても、すごくでっかい気がする。

僕はどっちだろう。考えるまでもなく、気持ちでしか動きません。だから、誰かをすごく好きになると、ときどき、いやけっこう機能不全に陥りそうになります。まあ、そんなもんです。
Comments (2)
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自己犠牲試論。

2024-02-26 11:54:22 | 考えの切れ端
昨日とあるサイトで、齋藤飛鳥さんが自己犠牲について語っているインタビューを読んだことがきっかけで、それからずっと自己犠牲について考えていた。元乃木坂46の齋藤飛鳥さんは、大江健三郎や阿部公房などの骨太な純文学作品を読み倒すような方だ。もちろん、主なお仕事としての多忙なアイドルグループ活動の経験をお持ちだし、彼女だからこその色濃い精神活動をなされてきた方だろうなあ、という印象を僕は持っている。

自己犠牲。他者のために、自らの時間や命など、自分にとって大切なものを相手に捧げるように使うこと。僕自身、在宅介護に携わっていて、他人事ではない行為であり、重くるしく感じる言葉だ。

自己犠牲を考えていくと、「二種類あるな」とまず思いついた。ひとつは、会社や組織、グループ、社会などのための自己犠牲。もうひとつは、他者個人のための自己犠牲。

さらに進めていくと、組織や社会への自己犠牲も、つきつめれば他者たちのため、つまりは人のためになる目的なのがわかってくる。なぜならば、それが「組織の存続」や「秩序の保守」がまっさきに考えられている自己犠牲だったとしても、そういった保守行為により組織や社会が守られることで、結果的にはそこに属してその恩恵を受ける他者のためになるというところに辿り着くからだ。

だけれど、その組織も社会も、当たり前だが完璧にできあがっているわけではないし、完全に正義であるわけでもない。そのような組織や社会を最優先に考えて、そこに人をあてはめていくといった考え方、要するに枠組みに人を当てはめていくものだとする考え方でいると、そのために無理が祟って磨り減っていってしまう人は多くなるだろうし、息苦しさは募っていくだろうことが想像できる。だから、人のほうに組織や社会を合わせていくように設計していったほうがいいな、と僕ならば思う。

そう考えたあとに、ぐるりと「自己犠牲」に立ち帰ってみる。組織や社会がどんどん人間を磨り減らしていく種類のものだったときに、そんな組織や社会のためにさらに自己犠牲をするのはどうだろうか。その自己犠牲が最後には他者のためになるようでいて、でもよく考えると、得をするのは組織や社会という枠組みであって、そこに当てはめられている人間たちはほとんど救われなかったりするのではないだろうか。

組織や社会のための自己犠牲が他の人々に届くぶんは、残り香程度だったりするかもしれない。完全にも完璧にもなり得ない組織や社会が、自己犠牲を吸い取っていく。

かたや、他者個人のために行われる自己犠牲はどうだろう。人から人へ、ストレートにその自己犠牲による働きかけが伝わる。組織や社会は介在していないのだから、残り香だけ届く、ということにはならない。

あとは、自己犠牲がどれくらいなされるかについても書いていおきたい。命をすべて投げうってまでの自己犠牲もあれば、比較的わずかな時間をその人のために使うという自己犠牲もある。自己犠牲だ、自己犠牲だ、と主張しても、他の多くの物事と同じように、そこにはやっぱり多寡があるのだ。

人から人への自己犠牲の場合、そうするほかにやりようがない要因・事情があるわけだけれども、そういった場合にこそ、公助や共助が差し向けられるべきなのではないだろうか。自己犠牲はできるだけ、無いほうがよい、と僕は思うからだ。

最後に。自己犠牲を考えたことがないっていう人はいると思う。彼らは他者への想像力に欠けていたりする。どうしてかというと、そういった価値観を基盤とする人は、利己的に、他者の時間も労力も自由もなにもかもを自分のために奪い取ろうとしてしまう、と考えられるからだ。自分自身の範囲でしかものを考えられないのだ。自己の欲望や利益ばかりに囚われての行動は他者にとって害になる。それも、ときによって致命的なほどに。

自己の欲望や利益にとらわれる人生の罠(市場主義経済の罠でもある)。それらに嵌まりきってしまった段階から頭一つ抜け出してもっと心地よい空気を吸うためには、つまりよりよく生きていくためには、自己犠牲をするときの心持ちを持ってみること、そういった経験を持つことは有効なのかもしれない。ここまで考えてそう気づくことになった。自己犠牲はないほうがよくても、そういった意味合いで、否定はできないし、拒絶するものでもないし、僕自身も自己犠牲はしてしまうし、なのだった。
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答えを創ろう!

2024-02-05 11:08:04 | 考えの切れ端
身近な人に、これから述べるような感じの人がいるから考えた。

「物事には正解がある」という考え方でいると、答えが見つからないときに、「誰かが正解を知っていて、そういう人と出会えば正解を教えてもらえる」というような態度になりがちだ。たとえば「人生」なんていう難しい問題に対してもそうで、誰かに教えてもらえないと、「答えがないから考えても無駄なんだ」となるときだってある。

「誰も教えてくれないし、正解が存在しないようだから考えても無駄なんだ」なんて考えは、キツい言い方かもしれないけど、甘えであり子供じみてもいると思う。答えがわからない物事に対してだって、自分なりにいろいろ考えて、ほんの一歩であっても答えを創っていくものじゃないかなあ? クリエイティブがあるかないか、はこういうところにも関係する。学校では正解ばかり求められてきたけど、学校でも授業じゃなくて生活面ではそうじゃなかったでしょ?(そう考えると、学校で「優等生」とカテゴライズされる人は正解を求める態度が染みつきそうで、その後大変なのかも)

また、答えが出ないような問題の答えが誰にも教えてもらえないとなったときに、自分で考えるしかないのだけど自分で考えようとしない人は、誰かの言うことを信じたがっていたりする。もちろん、考えていくことのが難しいことだって多い。考える手がかりや足がかりすらわからない場合もかなりある。そういうときに、本を手にとる人も多いのではないか。ただ、本を対話相手として自分の思考を鍛えていく手段とするのか、本の中身を信じる対象とするのかは人それぞれだ。後者は信じることで安定しようとする(宗教の意味のひとつはそういったところにもありそう)。

「自律した自分」という状態は幸福感とも大きく関係しますが、そういった自分の生をキープしていくためのひとつには、答えが出ないことを放棄せず、そして答えを求めて誰かの言うことを妄信せずにいること、ではないか。そういった姿勢を取ることに耐えられない人は、不安の強い人だ(まあ、誰しもそういうところがあるとは思いますが)。わからないことを留保しておく。そうしておいても不安定になって乱れない。そんな「勇気」が大切なのかもしれません。
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いろいろと考えてしまう人には旅がいい。

2024-01-15 11:35:30 | 考えの切れ端
平均的な人よりも、いろいろと考えてしまう人。他の人は10個考えている程度なのに、自分は15個考えていて、他の人はそのうちの1個についてひとつかふたつかの可能性を考えているところ、自分はよっつもいつつも可能性が思いつき想像できている、そういう人は物事を決断するのにエネルギーがとても要る。

頭が良くて思慮深いところがあるってことなんだけど、そういう人って、状況の複雑さがほんとうにきちんと見えてしまっていて、だから、決断がしにくい。けっして決断力がないわけじゃない。そこを無理に決断しなくてはならなくなるから、エネルギーを大量に使う。

そういう人が「旅」をすると、それも「一人旅」をすると、選択や決断の経験を身近なところでいくつもすることになって、性格的だったり思考面だったり、まあ「これだ!」とは決めて言えないけど、なにかがこなれてくる。そうすると、個人的な生きやすさへ近づけるんだと思う。

否が応でも進まないといけなくなるのが「旅」ですもんね。選択と決断はしないといけないし、その選択への責任、決断への責任はついてまわる。旅する人が成長していって強くなっていくのって、そういう面が大きいのかもしれなくないですか。観光して見聞するのもとても好いのだけど、選択と決断の面に人生の栄養がある。

僕はとんと旅をしなくなりましたが(というか在宅介護でできなくなりました)、若い頃は一人旅をしたのを思い出します。でも、実に数少なかったのだけど。で、行先がせいぜい東京だったんだよなあ。
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手持ちの札でやっていきませんか。

2024-01-12 13:23:11 | 考えの切れ端
プラトンの『ゴルギアス』をこのあいだ読んでいてびっくりしたのですが、「手持ちの札でとにかくやるしかないんだから、それで精一杯やるんだ」っていう考え方が古代ギリシャの時代にはあったと、その時代に生きた主人公のソクラテスが話していました。

手持ちの札がしょうもなくても、それで頑張るしかないんだ、っていう人生訓について僕は、10年前後前になりますが、東野圭吾さんの小説で知ったのがたぶん初めてで、なるほどその通りだなあ、と膝を打ったのを覚えています。しかし、古代ギリシャの時代からあった考え方だったんですね。

ただそれ以前に、「こんなクソ手で勝てるわけがない! だから降りる!」という選択のありかたがあることを、かっこいい女性ロックミュージシャンが、ハスキーな歌声で歌っていたのを好んで聴いていたりもしました。現代ではこういう歌がヒットしたものですが、この、「だから降りる!」というのは、おそらく短い時間範囲での「気分」としてのものです。

歌は、シェリル・クロウの「Leaving Las Vegas」のことなのですが、あの歌詞は人生そのものでもあるよなあ、という読み方をしました。そういう寓意が感じられて、というわけですね。ちなみに、ほんとうに大好きな歌です。



さて。一般の人が、普段づかいの言葉や態度だったとしても、けっこうちゃんとした教育って子どもたちにできるはずなのですけども、それが難しくなるのは、公教育のシステムや社会環境を作っている社会システムの影響ではないのでしょうか。どうしてかというと、「ローコスト・ハイリターン」を求め過ぎて、一歩ずつの歩みが軽んじられるからです。

「親ガチャ」という言葉を用いて嘆息する人たちも、「手持ちの札がクソ手だ」と言っていることと同じで、大きなリターンが難しい、と嘆いている面はありますよね(どうしようもないくらいの苦難のなかにあったりする人もいらっしゃるので、すべてがそうだなんてまったく言えませんが)。

シェリル・クロウの歌のように、手持ちの札を見て降りたくなるのは、人生をこの手札でやっていくにはコストがかさむしリターンもハイにはならなそうだ、という見通しから来るのではないでしょうか。そういった「効率性重視」の価値観を土台として世の中を作っていくと、効率的にできない状況になったときやそういう状況だとわかったときに、「もうどうでもいいわ」という気分になりがちだと思うんですよ。人間ってそういうはっきりした弱さがしっかりあるでしょう?

ローコスト・ハイリターンを実際に為した人をみて、「自分はあいつのような良い目を見ることができない」と嘆いてすさんでいくのです。良い目を見ることが最上のものという価値基準を信じ切っているからそうなるのですけど、そんなの関係なく村上春樹的「小確幸」でもいいのですけど、日常のほんとうに些細な平穏だとか喜びだとかの重み・手触りをもっと信じていいのではないでしょうか。



国や会社も、この資本主義でグローバル競争でっていうシステムのなかで、個人を煽ります。もっと稼げ、効率的かつ合理的に仕事をしろ、そしてたくさん買え、と。欲望のままにふるまうのがいちばんだ、と経済学の偉い人が言ったのだから、その通りにせよ、と。でも、そういうのは人間として不自然なんです。それはひとつに、自制心を持つのも人間だからだというのもあります。

世の中、人間観・世界観についてあんまり考えないですし、議論の俎上にもほとんどのぼりませんけれども、そういった「人の原点」的なものを考えの的(まと)にするのは大切。だって、何事も人間観や世界観を起点に動くでしょう。個人的なふるまいにしたって、人付き合いの仕方、人との接し方も、人間観や世界観に規定されていますよね。

人間観や世界観を洗ったうえで、グローバル競争なり資本主義なりをやりなおせばいいのになあ。
そう、年の初めに思うのでした。
手持ちの札でやっていこうとできる人こそ、善く生きられそうではないですか。

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「善く生きる」とは、人生に意味を求めないこと。

2023-12-07 15:55:28 | 考えの切れ端
「人生には意味がある」と、いつしか考えている自分がいた。

私の場合、「好奇心を持って、いろいろな知識を得て、学び、考え、どんどん積み重ねていくこと」が人生の意味にあたる。それは人生の終わりまで続いていく、揺るぎない自明の種類のものだと考えていたので、ちょっと立ち止まって疑いを挟んでみるなんていうことは、試みようと思ったことすらなかった。だが、その「ちょっと立ち止まって疑いを挟んでみる」瞬間が昨夜、唐突に訪れたのだ。

「あれ? ちょっと待てよ、これってもしかすると」胸がざわめき、穏やかだった心の水面に薄い波紋が漂いだし、そのうち少し不穏に波立ってくる。「老境に達した作家が、自死してしまうことがある。これっていったい、どんな理由があったからなのだろう?」

脳裏に浮かんでいるのは、文豪・川端康成の自死について。

私は、川端康成先生の自死の理由を知らない。遺書が残されていたのか、近しい人に愚痴をこぼし始めていたのか、まったくなにも知らない状態で、「彼の自死」という事実のみと思いがけず向かい合ったのだ。

自分の人生に意味がなくなったから、死のうか、と決めてしまうことはあると思う。もしも死ぬ勇気が十分に湧いてこなくて死ねなかったとしても、人生の意味の無さに強烈にとらわれてしまったならば、自暴自棄になり堕落したふるまいを重ねていくかもしれない。川端康成は、前進・進歩という「人生の意味」を考えていたのではないのだろうか(世間体とかプライドとか、他にもあるでしょうが、そういった種類のものを省いた「ごく単純な想定」であることはわかっています)。

もしかすると、昨今の研究によって、彼の死にはいくつかの有力な仮説が立っているのかもしれない。でも、私は無知で、そして調べてみようとも思わない。だが、これは何かに繋がることだと予感し、自分で仮説を立ててみることにしたのだった。

* * *

老化が始まって、目や耳が弱くなったり、あらたに物事を切り拓いていけるような考えが進んでいかなくなったりしたとき、ちゃんとそういった自分のそれからの人生を肯定できるのか、と考えてみた。文筆業だったら、年齢的にピークを過ぎれば、書く文章の勢いがなくなり書くもののレベルが下がっていくことは考えられる。

人生を、「前進」「進歩」を柱として生きていたとしたら、その柱は必ず崩れ去る。だから、進歩すること、そして積み重ねていくことに「人生の意味」を持ってしまうと、危うい。

とくに子孫を残さなかった人は、自身が老いていって、それまでできていたことができなくなっていくときに、「人生の意味がなくなった」と感じてしまいやすいのではないか。そんな下り坂にさしかかったときに、息子、娘、はたまた孫がいたなら、彼らが進歩するさまを見守ることで、自分が次の世代を残したことに意味を感じて、精神が安定するのではないか。子孫の存在は、セーフティー・ネットたりうるように思う。

人生の意味、というものを設定しないほうがいい。そもそも、人生の意味、は幻想なのだ。人生は、「やれるうちはやったらいい」、というだけではないだろうか。命を懸けて仕事をする人、しなくちゃいけない人は、「人生は厳しいんだ」とはっきり言い切るけれど、成熟した社会においては基本的に、そんなに簡単に命なんか懸けるものじゃないんだと思う。人生において無理をする場合も、「やれるうちはやったっていい」、というだけだ。

人生の送り方に正解は存在しない。だから、ここまでいろいろと論じておきながら、これから述べる結論としての一言はとてもシンプルなところに行き着いてしまっており自分でも驚いてしまうのだけど、つまりは、ルールにのっとった上で(つまり、盗みや殺人などはしないという前提で)好きにするべきなのだ。「やれるうちは、やったらいい、というだけなのが人生」なのだし、そうであるのだったら、人生は好きにするべきなのだ。

ルール無用の行為だとかグレーゾーン内のズルい行為だとかで、他者を出し抜こう、自分だけ良い目を見よう、とはしない範囲で、人生って好きにするべきなんだ、それこそが善く生きることなんじゃないのだろうか、と今のところの結論がでた。

「人生には意味がある」と、いつしか考えていた自分は危うい。これはどういうことなのか、と考えられるうちに考えておかなければ、心の水面に生じる波の大きさは次第にもっと高く激しくなり、乱れる時間も長くなっていくのかもしれない。時としてそれは、死を望むようになるほどに。

* * *

ここからはおまけとして、わずかながら付記します。上記の結論で満足した方は、読み進まなくて問題ありません(ここまで読んでくださり、ありがとうございます!)。

* * *

では補足するように、ちょっとだけ続けます。

老人を見て、「存在しているというだけで、それだけでいいものなんだ」という洞察のある人ですら、自身に関しては厳しくて狭い価値観をあてていたりなどし、自分が老人になったときには、もはや生きている意味はない、と捉えてしまったりしないだろうか。価値を生み出せないことに罪悪感を感じるのだ。私なんかの場合だと、若い頃に達成したものや残した価値すらないのだから、なおさらだ。余生、という段になって、いままで頑張って価値を創出してきたのだから、休んでもいいのだろう、とはなりにくい。

人は、歳をとってから罪悪感をもってしまうことのないように、身体が動くころには仕事をする、という意味もあるのだろうか。でも、働けないくらいの障がい者の人たちはどうなるのだ。ベッドで寝たきりで仕事を持てない人も少なくないだろう。そういった人たちの人生に意味はないのだろうか。障がい者も、子孫を残さない人も、前進・進歩に傾いている人も、みんなすべての人が人生を精神的に貧しくしないで全うできる人生観があるといい。そしてそれが、「やれるうちは、やったらいい、というだけなのが人生」、「好きにするべき人生」とはならないだろうか。
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自己肯定感の裏側。

2023-07-19 22:19:38 | 考えの切れ端
僕らが暮らしている競争社会では、「言ったもの勝ち」みたいに、俺のほうが強いんだぜ、と胸を張ったもの勝ちのところがある。ハッタリという戦法があるのもそのためでしょう。そうやって言い張れる、胸を張れるのって、どきどきしながらやっているウブなタイプの人もいるけれど、それらを得意戦術にしている人にとっては自己肯定感がその精神性の源になっていると思います。

僕が学生の頃、周囲を見ていて顕著に目を引いたものに、自分よりランクの高い大学の人たちを「頭でっかちだから」みたいにけなして、自分たちこそがまともだとするスタンスがありました。そのような、自分の属するグループこそが世界の中心あるいは中心を担うべきまっとうな存在だとする自己肯定感ってあって、たとえば競争社会でいくつものトップが乱立するのはこのメンタリティによるのではないでしょうか。もちろん、違う価値観に基づいたそれぞれのトップが乱立するっていう健全なかたちも多く混じっていると思います。

ただ今回、僕が言いたいのは、「努力」や「自分と向かい合い考えること」をあまりせずに自信過剰となり、ただ権力を持ちたいがための自己肯定感についてです。つまり、「向上心」や「内省する心」などの薄い自己肯定感だと言えるでしょう。そういう自己肯定感が、「アイツ生意気だ」みたいな抑圧的な振る舞いにつながる。こういうタイプの自己肯定感は陰湿です。他人の足を引っ張ったりという行為もそうです。

だけどこの、面倒くさいタイプの自己肯定感所持者がなぜ生まれるかというと、やっぱり競争社会で生きていかなければいかないからなんだと思われます。こういう自己肯定感はある意味で「ずる」なんですが、そういったグレーの領域で「おらおら」とやっちゃうのは、白日の下での勝負ではまったく叶わないことが十分にわかっているからでもあります。

公式戦ではまったく勝負にならなくても、でもなんとか競争に勝って生きていかねばならない、それもすぐに勝たないとっていう強迫観念に追われる。さらに、そういった強迫観念をみんなが感じているために、いつしか共有されてしまった強迫観念が真実にしか思えなくなって強迫観念に支配されてしまいがち。その枷が外せないのは、前提を疑ったり、枠組みの外に思いを馳せたりできないからです。なぜなら、そうするためには内省や向上心が必要なので、なおさら気づけないのです。

ネットばかりみていると、そういった種類の自己肯定感ってマジョリティになりつつあるように見受けられる。でも、そういった発言をしている層よりもはるかに分厚いに違いないサイレントの層はおそらくそうではないのだろうと僕は考えます。でもって、社会をなんとか良心的に保っていくのは後者、つまりサイレトの層だし、未来への希望となるのもサイレントの層のほうです。

声を出さずにいると、声の大きな人たちの勢力に席巻されてしまいますが、それでもサイレントの層は、この社会の根っこなのかもしれない。地上の茎や葉がなぎたおされたとき、また芽を出すために頑張るのが根っこです。サイレントの層って、そういった社会のレジリエンスを担っているのではないかなあ、となんとなく考えたりなどするところでした。

これだ! と何かをやると決めたら、あるレベルまでの自己肯定感を持ったほうが馬力がでそうです。だけれど、内省と向上心を持ち合わさないでやたらに自己肯定感だけ強くしていくと、そういう人がいる場が乱れていく気がするのです。

きっと、どんな性質もそうなんですが、ひとつの性質に偏って、それだけ強くすればいいなんてことはないのでしょう。内省と向上心と自己肯定感、その配分のバランスが大切なのかもしれないです。ある種の、自己の揺らぎ、そういった揺らぎの中でこそやっと、「真っ当さ」というものが宿るのではないか、なんて考えるところでした。
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性格は直らない?

2023-05-25 12:56:03 | 考えの切れ端
「あいつ、性格悪いよね」なんて言い方で、とある友人・知人、果ては芸能人や著名人のことについて否定的に言うことがあると思います。でも、「性格が悪い」という見立てはあんまり正確ではないと思うのですが、どうお思いになりますか? 正確ではないとするならば、どう捉えるか。「あの人って、世界観や人間観がちょっとおかしく感じる」。こっちのほうがほんとうに近そうじゃないでしょうか?

自身にしても他者に対しても、多くの人は「悪い性格なんて直らないよ」って思っちゃうものでしょうし、実際、性格をターゲットに自分で頑張ってみたって、他人に指摘してもらったって直らないでしょうけれど、世界観や人間観を変えるほうだったら、性格を変えるよりまだ変わる可能性を感じるのは僕だけかしらん。

世界観や人間観がよりやさしいものへ、というか、建設的にとらえられるものなんだってわかって変われば、その影響で性格は変わりますよね。たとえば認知行動療法は、そういったふうな考え方の上でやることなんでしょう。というわけで、人の性格の基盤のおおきな部分には、世界観や人間観がありそうだ、ということでした。おそまつさまです。
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