Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

『古賀史健がまとめた糸井重里のこと。』

2023-11-29 19:49:38 | 読書。
読書。
『古賀史健がまとめた糸井重里のこと。』 糸井重里 古賀史健
を読んだ。

広告畑出身でいまやWeb Site「ほぼ日」を中心に活躍されている糸井重里さんを、ベストセラー『嫌われる勇気』の二人目の著者である古賀史健さんがインタビューしてまとめた本です。帯に<糸井重里が気持ちよく語り、古賀史健がわくわくしながらまとめました。>とあります。糸井さんの経歴をちょっと知っていて、ほぼ日を何千回と訪れてきた僕なんかには、読みながらずっと惹きつけられっぱなしの本でした。

まず引用から。
__________

もうひとつ、黒須田先生とはおかしな思い出があってね。講座を卒業してから何年か経ったあと、先生が持っていた授業の代役を頼まれたんです。「ぼくには教えることなんてできませんよ。話すことがなくなったら、どうすればいいんですか?」と訊いたら、黒須田先生は真顔で「しのげ」って言うんですよ。
「話すことがなくなったら、ずっと黙って立っていればいいんだよ。生徒との我慢くらべだ」
「ええっ!?」
「黙ってしのげば、そのうち時間がきて終わるから」
もうね、ひどいでしょ? でも、黒須田先生の「しのげ」は、その後の人生にものすごく役立ちましたね。たしかに、じたばたしてもしょうがない場面はいっぱいある。「しのげ」で乗り切るしかないことはたくさんある。だから、みなさんにもおすそ分けします。
しのげ。いいから、しのげ。とにかく、しのげ。……いいおまじないでしょ?(p54)
__________

これ、わかりますねえ、「しのげ」しかないぞってありますし。そんなときに「しのげ」という言葉を持ち合わせていなかったりすると、その大変さが何割か増している気がします。

次に、引用ふたつ目。
__________

コピーライターという肩書きから、ぼくはいまでも「なにかうまいことを言う人」のように見られることがあります。そして実際、世間で評価されるコピーライターのなかには「うまいこと」を言おうとしている人も多い。でもぼくは、ことばの技術におぼれることだけはしないでおこうと決めていました。
ぼくがコピーに求めていたのは「うまい」じゃなくって、「うれしい」なんです。
__________

前回読んだ『不連続殺人事件』の著者・坂口安吾が、美のために言葉をいろいろいじって文章を作ってもそれは美ではなくて、言葉で表現されるものが「必要」だったのならばそれで美がうまれる、みたいなことを言っていたそうなんです。そのことに近いことなのではないでしょうか。

さて。西武グループの堤清二さんと共有された時間についての糸井さんのお話は、本書に書いてあるものではない話を以前、たぶんほぼ日でちらっと読んだことがあります。ただ、なんていいますか、まるで「この人には頭が上がらない」みたいに見えるときの糸井さんは、個人的に、ほんの少しだけ好きじゃない。堤清二さんとの話になると、糸井さんが若干ちいさく感じられてしまう。僕が糸井さんに、奔放でいて欲しいし、そうあってしかるべきだ、というイメージを強く持ってしまっているからかもしれないです。でも、それもおそらく誤解をしているからなのでしょうねえ。そして本書を最後まで読むと、その答えがちらりと見えてきました。大人と、大人未満と、たぶんそういうところなんじゃないかな、と。

なにかを積み上げて一流になられただろうはずなのに、その部分にずっと目がいきません。クリエイティブの派手な部分、楽しい部分、自由な部分、そういった局在にしか僕の視線が向いていかない。それはもしかすると、見ようによっては糸井さんってマタドールで、僕は(あるいは僕らは)だらりと垂らされた赤い布に気を取られてばかりの牛みたいなものなのかもしれないです。でも、はた、とそこにそれがなにかはわからないのだけど、「?」が短い時間、文章を追っている頭によぎる。そんなとき、赤い布きれから目を離してマタドールを見るでもなく見ているだと思います。

ほぼ日黎明期のお話を読んでいると、僕はその頃からネットをやっていまして、たぶんオープン前のほぼ日を見つけてふらふら訪れていましたし、(いや、もしかするとネット友達に教えてもらったのかもしれないです。それとほぼ日は、正式オープン前から訪れることができた場だったのでした。とくに糸井さんについてくわしく知っているわけでもないのに、「必ずおもしろいことをネットでやりはじめてくれるに違いない人だ」と思い込んでいましたね。)当時の時代の空気みたいなものもそうですが、インターネット世界の空気感やまだ粗かったWEB SITEのUIなんかも思い出されてくるわけです。僕も98年ころには自分のホームページを構えていました(初代は『VITAMIN STREET』、リニューアルした二代目は『op.x』という名前でした)。

それで思うところは、最近のほぼ日はすごく洗練されて知的になった、ということです。それって、インターネット世界全体に言えることでもあるんですよね。その全体的な「複雑化・情報量の増大」の流れをほぼ日という船も川下りしてきたということなんでしょう。ネット黎明期は、それはそれで味わい深いものでした。「昔はよかった」なんて言わない僕でも、ことネット世界に関しては「今にはない、昔のよいところがあった」とはっきり言えてしまいます。ネット黎明期レトロを決め込んだサイトがあってもいいかもしれません。と思うくらいに、当時からネット世界に深入りしていたし、執着もあるからなのかもなあと思います。
いちばん気にかかるのは、知的な部分です。知的な中身が、知的なフォーマットで語られるコンテンツになっていますよね、しばらく前から。知的な中身自体は前から一緒なんですが、知的なフォーマット、つまりUIの部分はネット世界全体で強すぎもしているという印象がド素人の僕にはある。そんなにみんな、おしゃれで知的かな、と思ってしまいます。「ニマス戻る」感じで、戻ったそこから再びサイコロを振ってみるなんて試みは、どうなんでしょう、ナンセンスなのかなあ。なんていうか、「白い紙」がいちばんだったりしませんか(紙の本ばかり読んでいるからそう思うのかなあ)。

2011年の東日本大震災以来、ほぼ日は鍛えられたしつよくなった、とあります。傍から見ていても、いつしか「ほぼ日」ってとってもデキる人たちがやっている会社になったというふうに見えるようになっていました。自分とすごく差がついたように感じられた。それがなぜ、どのようにして、はわからなかったのですが、そうか東日本大震災がきっかけだったのか、と本書から知ったのでした。そして、そのほぼ日さんの変化は、ほんとうの意味で「おとなになっていった」ということなんだろうなあ、と後半部を読んで納得がいってくるのでした。

「ヒッピー」「ムーミン谷」じゃいられないじゃないか、って糸井さんはおっしゃっていたのですけれども、それまでって、ヒッピーなクリエイターで、社会的にはアウトサイダー的だったのだと思う。社会には片足しか入っていないよ、みたいに。それが今や、頭の先からつま先まで社会のなかに包まれているなかでクリエイティブをやられている感覚があります。「ほぼ日」のしゃんとして見えるところは、おとなになったことで「そうするんだ」と自分で決めたところなんだと思います。マタドールの赤い布きればかりに目が行っていたものだから、マタドール本人の変化にはなかなか気づけなかった、そういうふうに自分の洞察の不明さをまぎらす言い訳で、きょうはズルく締めちゃいます。ちきしょーい。


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『不連続殺人事件』

2023-11-27 23:12:40 | 読書。
読書。
『不連続殺人事件』 坂口安吾
を読んだ。

戦後まもない頃、山奥の豪邸に集まった作家や画家や女優などなど。そんな彼らの間で次々と殺人が起こります。いったい誰が、どんな動機で、どのようにして行ったのか。探偵小説愛好家だった純文学作家・坂口安吾による推理小説の名作。

多人数でてきますが、個性の強いキャラクターばかりでした。アクやクセが強く、変人とくくってしまえそうだったりする人たちしかいません。そして彼らの関係が痴話がらみでフクザツです。そんな異様な小世界を設定したからこそ、8人も殺されるこの「不連続殺人」の、大いなるトリックを物語の中に隠せたのだと思います(このあたりは、巻末のふたつの解説と本文の読後感とを照らし合わせたうえでの感想です)。

謎を解くキーワードは、「心理の足跡」。作者は、自ら紙の上に出現させたキャラクターの心理造形、そして動き出した彼らの心理追跡に余念のないなかでトリックをこしらえていて、ネタバレになってしまいますが、その心理操作の破れを、巧みに流れさせたストーリーに隠して、解決編でそこを持ち上げてみせるのでした。

推理小説って、読者にわからせないために、合理性だけでは明かせない作りになっている、と解説にあり、僕はほとんど推理小説を読まないけれども、それでも思い当たりはするのでした。そこに、作者のズルさがあるのです。それが性に合わない人が、推理小説を手に取ることをしないのかもしれない。

女性キャラクターは性的な魅力にあふれる人ばかりが出てきます。これは、女性礼讃的な作者の性格がでてるんじゃないのかな、と思ってしまいました。

というところですが、以下におもしろかったセリフを引用します。

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「然しなんだね。矢代さん。あなたは、どう思うね。人間はどういつもこいつも、人殺しくらいはできるのだ。どの人間も、あらゆる犯罪の可能性をもっている。どいつも、こいつも、やりかねない」(p94)
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→何人か集ってなんやかやすれば、各々の心理に他殺や自殺の動機が疑われないことってないんだと思います。これは以前、西加奈子さんの『窓の魚』を読んだときに感じたことでもありました。

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「ともかく、田舎のアンチャン、カアチャンの犯罪でも、伏線、偽証、却却<なかなか>額面通りに受け取れないもので、必死の知能、驚くべきものがあるものですよ」(p232)
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→これ、ほんとにそうです。こっちが侮っていたような相手が、裏で、真似できないくらい高等な細工を弄していたりする。それも、最初から言葉でぜんぶ論理を組み立てていくっていうのではなくて、あるときに閃くみたいにして感覚的に勘所がどこかをみとって、そこから柔らかく論理を編んでいっている感じだったりします。僕自身も、論理の組み立てはそういう田舎のアンチャン的要素ってけっこうあるような気がします(まあ、そもそも田舎人でもあるし)。バックグラウンドとしての知識はないのに、日常の知性だけでぽんと飛翔するみたいなのってあります。それはそれとして、人間の「必死の知能」って、こりゃかなわん、ってくらいすごいものが出てきてたりするものですよね。


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『アドラーをじっくり読む』

2023-11-25 22:19:39 | 読書。
読書。
『アドラーをじっくり読む』 岸見一郎
を読んだ。

フロイト、ユングと並ぶ心理学者・アドラー。近年、彼の心理学を世に知らしめたベストセラー『嫌われる勇気』の著者・岸見一郎さんによる、数々のアドラーの著作のポイントを解説する本です。

まず、「共同体感覚」というアドラーの重要ワードが出てきます。これ、誤解されやすいとのことで、本来どういった意味なのかの解説があります。家族、学校、職場、社会、国家、人類、過去・現在・未来すべての人類、さらには生物・非生物含めた宇宙全体を指し、自分は(そしてみんなは)それらに属しているという感覚らしいです。「共同体感覚」を持つことが、神経症から抜け出す重要なてがかりのひとつともなるのでした。

また、もうひとつ重要な考え方が出てきます。それは、「ライフスタイル」です。アドラーの使う「ライフスタイル」という言葉は、世界観や自他の人間観のことを言います。「他人は敵だ」という人間観、世界観ではいけないのです。「他人は仲間だ」と思えてこそ、神経症を克服していけます。神経症とは、自分の人生の課題に取り組まないでいる状態だとアドラーは考えていて、人生の課題には、人と関わり合うことがとても大切なのでした。ですから、「他人は敵だ」と捉えていては、神経症は治らないのです。

神経症者は、人を避け、人生の課題に取り組もうとしません。また、自分にだけ関心があり、他者が自分に何をしてくれるかのみに興味があって、ほんとうの意味で他者に何かをしてあげようという気持ちはありません。自分本位なのです。

さて、以下に引用です。
__________

虚栄心のある人は他者の価値と重要性を攻撃する。他者の価値を落とし、そのことによって相対的に優越感を得ようとするわけだが、アドラーがいうように、このような人には弱さの感情、あるいは劣等感が潜んでいるわけである。(p142)
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__________

人生の課題を前にして神経症者はまったく動かないが、神経質者は、時にためらいの態度を取って立ち止まることはあってもまったく止まってしまうということはない。(p143)
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アドラーは「神経症はすべて虚栄心だ」と言ったことがあるとのことです。引用した「虚栄心の強い人」の傾向、人の価値を落として相対的に上がった自分の価値で優越に浸り、自分の人生の課題については無視をするという、こういった人はいったいどう扱えばいいのかって思っちゃいます。まず、本人が自分を見つめて、これじゃいけない、と思わないと始まりません。あと、本書に書かれてもいるのですが、虚栄心のない人はいません。多かれ少なかれ虚栄心はみんなが持っているものです。すごく多い人は神経症になるし、そこそこにある人は神経質的なところを持つとのことでした。

また、これはその通りだ、膝を打った箇所もありました。
__________

社会制度が個人のためにあるのであって、個人が社会制度のためにあるのではない。個人の救済は、事実、共同体感覚を持つことにある。しかし、それは、プロクルステスがしたように、人をいわば社会というベッドに無理やり寝かせるということを意味していない。(p60)
__________

個人が社会制度のためにある、と考えてしまうと、能力主義になったり障がい者排除になったりするのだと思います。2016年の相模原障害者施設殺傷事件って、そういった倒錯した世界観が源にあったのではないかなあと僕は考えています。

ちょっと横に逸れますが、「事前論理」と「事後論理」という、論理を分類したその見方を、本書で教えられました。これは議論の場面に限らず、日常の場面でも、相手の言い分や自分の考えを整理するときにうまく役立てることができるでしょう。

何かがあったとき、「仕組みとしてこうだから、そうやったらこうなるものだ」と現在の状態を肯定して考える「事後論理」は、社会に対してなにひとつ波風を立てません。「仕組み以前に、こうやったらこうなるのだから、そうしたらいいんじゃない」と理想を組み立てる「事前論理」は社会に働きかけるものです。偏見なのかもしれませんけれど(というか経験してきたデータの個数が少ないですから信頼度が低いのですけれど)、事後論理ってとくに女性が言う理屈に多かったりしませんか。それをひとまず合っているものと肯定してなぜかと考えてみると、ジェンダー差別がそうですが、社会的・慣習的な抑圧とそれに対する諦念に傾きやすいからじゃないかと思います。

と、ここまでは、本書の肯定できる面について書いてきました。アドラー心理学は、あれこれ歯に衣着せずにお互いの長所短所を指摘し合える仲間のようなところがあると僕は感じていて、つまり、ここから先は、アドラー心理学あてに「これは違うんじゃないか」と端緒に思える部分を批判していくことになります。

まずは第3章「遺伝や環境のせいにするな」。いやいや、環境は大事ですって、と言いたくなりました。たとえば止まらない暴力の最中という環境で、その暴力と向き合い傷つき、体力や精神力を削られながら細々したマストな雑事をこなして、それから本分の仕事へ向かうのは大変です。それを、「環境のせいにするな」は「厳しい」を超えているのでは。これ、ケアラーにも言えます。仕事ができないのを在宅介護環境のせいにするな、なんて言われても……って思うでしょう? 想定している「環境」がステレオタイプなんじゃないかと思ってしまいます。個別性があるんですよ。

個別性を見ることをせずに思い込みで決めつける、というのはよくあります。「こういう人って多いからこの件も同じだろう」と決めつけてしまう。そして、その決めつけがあてずっぽうなのに多数派ゆえ大方当たってしまうものだから、それに当てはまらない少数の人たちが被害を受けるのです。そして確実にそういった少数派は存在しているのです。

また、そういったステレオタイプを自分の都合よく使う人もいるんですよ。自分が環境を乱したがために家族の生産性が落ちているのに、外部の目をわかりやく多数派の「のび太」型ステレオタイプに誘導して、自分の悪い行動を目くらまししてしまう、というように。で、そう示された外部の人間たちもころっと騙されるものなんです。それだけ、個別性って未知なところがあるし、類型から外れているケースにはまず思いが及んでいないという位置から人間の思考はスタートするわけで、ほんとうはひとつひとつそのままを拾っていかないといけない。頼りない道を歩いていると、誘導されやすいんです。

次にこういった箇所があります。
__________

それにもかかわらず、あれやこれやの理由を持ち出しては課題から逃れようとする。持ち出される理由はいずれも、そういうことならやむをえないと自分も他者をも欺く「人生の噓」である。(p221)
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ここまで言い切るのは問題ではないでしょうか。そりゃあ、怪我を抱えながらでも打席には立つことになります。調子がよくなくても、なんとかヒットを打ちに行く。でも、そんなレベル以上の理由だってあるわけですよ。酷い骨折で離脱するのは人生の嘘ではないし、同様なレベルの目には見えにくいトラブルだってあります。たとえば原稿をやってて、隣室で家族が我を忘れて暴れる音が聞こえてきたら原稿をやってられないものです。そっちに行ってコミットしなきゃいけなくなります。それが続くと、自分の時間もなくなるし落ち着かないわけですが、「やむをえない理由にはならない」と判断するのは違うでしょう。これも個別性を見ないで類型で判断してしまう人間の習性を疑わないことで起こることだろうと思います。

こういうトピックもありました。他者評価なんて気にするな、と説くところです。アドラー心理学の難しいところは、現実の職場の多くで他者評価や競争を強いてがんじがらめにしてくることへの対処が見当たらないところです。また他に、みんなを敵と思わない、なんて説かれていますけれど、問題があるのはその人ひとりではなくて、周囲のみんなもそうなのが現実です。それも、自分よりも混み入っているような人がすぐ隣にいたりします。だから、自分だけよくなろうとしたって、うまくいかないんですよね。相互に影響を与え合っているのが実際の生活の場です。

特殊相対性理論と一般相対性理論を例にとると、限定的な範囲で機能する「特殊」にあたるのが、たとえば座学で学ぶ心理学だったりするのではないでしょうか。「一般」の範囲では論理が破れがちだったりするように思います。


と批判部分はこれで終わりとして、結びにアドラー心理学とアイデアを共創してみます。

アドラーは教育が社会のためにもっとも有効だと考えていたようです。社会を変えるためには政治よりも教育のほうが大事、と僕も考えたことがありますが、しかし、子どもは大人社会をみて真似たりしながら育つものですし社会環境から多大に影響を受けて、いわば「教育」されてしまうものです。とすると、教育のためには大人社会がまず変わらなければならないのではないか、となってきますよね? 教育も、子どもの教育と並行して、成人教育をしないと、となります。成人教育だなんて、字面からしてほぼ悪夢じゃないでしょうか。悪夢にならないために、やわらかく自発的に、話し合いをする感覚で学んでいけたらいいのですけど、……でもなかなかきれいには。

学ぶだけで生活していける社会だったら、話し合いメインの大人社会生活は可能かもしれません。しかし実際には「労働」があります。ですから、多種多様な職種に就いて、多様な現実に生きる人々が、「よき社会」というコンセンサスを形成して、つねに留意するっていう余裕は果たしてあるのかい、となります。

学ぶだけで生活していける社会に近い社会を作れれば、大人社会から影響を受ける子どものための教育にもなる「よりベターな社会」が創れて、なおかつその先の何十年か後にはそうやって育った新世代が社会の中核を担っていて社会を動かしていきます。ぶん投げではあるのですが、AIの進化で「学ぶだけで生活していける社会」に近づいた社会にまずならないでしょうか。AIで労働時間をぐっと減らせられるのなら、そのぶんを学び時間にしませんか。労働の義務、学びの義務の両輪で。さっきも書いたように、悪夢の成人教育ではないような学びの義務で。ソフトにソフトに。でも、誠実に。


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『現象学という思考』

2023-11-22 12:55:48 | 読書。
読書。
『現象学という思考』 田口茂
を読んだ。

フッサールの『現象学』を基盤として、著者が一般的な言葉を用いて照らし出していく現象学の地平を解説します。そしてその地平の入り口まで道案内をしていただきながら、その地平を冒険していく準備をしたり、実際にちょっと思考の冒険を試みたりできる読書でした。とても良書です。

まず、「確かさ」についての論説から入っていきます。「確か」であることは、ことさら言及されません。いちいち意識せずにいても事足りていることが「確かさ」。つまり自明な物事なのです。自明ゆえに、意識の主題にはのぼってきません。「夕食は鮭を焼いて食べようかな」と考えるようなことは主題的な意識です。そう考えているときに、腕組みをしたり、頭を掻いたりしているといった行動は、「それはなにか」を問おうともされない自明な行動です。別の例をいえば、初めて行く札幌のどこどこまで運転していくとき、ナビをみたり頭の中で考えたりしながら、通る道を選択していきます。それは主題的な意識のほうの物事です。運転中に、信号を確認したり、カーブを曲がったり、といったことは、どちらかというともはや自明の行動で、いちいち強く意識せずにやっています。

大雑把にいうと、現象学はこの「自明なもの」を探求し、明らかにしていく学問です。そして、自明なものを探っていく方法としては、まずどうしたらいいのか、を考えていくと、「本質」「類型」「自我」「変様」「間主観性」といった概念を通っていかざるを得なくなるのです。本書は、そのあたりを扱っています。

読み終えてわかるのは、静止して見えたり、感じられたりする事物が、実はめまぐるしいくらいの動的な事象だった、ということです。というような視座を獲得できる読書でした。

感覚的なところを扱いもしますし、言葉を丁寧に尽くしてこそわかる分野でもありますので、短いレビューで概説するのはちょっと難しいです。興味を持たれた方はぜひ、本書をあたってください。では、以下で、気になったところ、思うところなどを書いていきます。


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つまりわれわれは、「絶対に確かだ」と信じているわけではないことを、とりあえず「確かだろう」と見なして、行為し、生活しているのである。絶対に確かではなくても、われわれは何かを信じることができる。そして、生活していく上では、絶対的な確かさを求めるよりも、ある程度の確かさを信じられることの方が、むしろ重要である。逆に、「絶対的な確かさ」をどこまでも追及していこうとすると、このような日常生活の確かさが崩壊の危機に瀕する。「この食品は絶対に安全なのだろうか。見えない雑菌や農薬で汚染されているのではないか。」このように疑い始めれば、何一つ安心して食べることもできなくなる。(p31)
__________

序章の部分からの引用でした。「生活していく上では、絶対的な確かさを求めるよりも、ある程度の確かさを信じられることの方が、むしろ重要である。」という部分は大切です。強迫症は、これができなくなります。でもって、家族にもそれを強いる。大変なのはそういうところです。強迫症は、子どもの時分からなる人も多い症候群だと言われているけれども、これ、仕事と生活とのON-OFFがつかなくなってきたみたいな人もなっていきそう。仕事は完璧にやらなきゃ、と頑張ってその論理が生活にも貼りついちゃいます。仕事で評価されたり有名になって崇められたりした人が、家庭ではずいぶん迷惑な人だった、みたいな例にはON-OFFができなくなったっていうものもありそうに思いました。


次に、p69あたりでしたが、サイコロの一の目が見えたとき、その側面の二の目や三の目は見えたりするけれど、六の目は見えなくて、でも「ある面が見えてくれば、別の面が隠れる」ことを自明のものとして僕らはわかっている、というところに肯きました。横に逸れてしまうけれども、これ、同様に、人間の好ましい面を見せることで好ましくない面を隠すことにも通じているように思えました。外面の部分です。また、「ある面が見えてくれば、別の面が隠れる」のだから、戦争国が国民に対してする公式発表や、海外向けの発表に「作為」が込められるだろうことがわかります。そして「政治」と呼ばれる行為ってこういう一面はどうしてもありますよね。


続いて「本質」についての部分を。「本質って何か」と問われたら、モノやコトの中身に実在するもののように考えがちかもしれません。でもたとえば、リンゴと薔薇の場合、両者をつなぐ「赤」という要素が「本質」というものなのです。共通する要素が両者の間の「本質」。現象学では、「本質」とは実在せず、あくまで媒介者だと考えるのでした。

リンゴ、薔薇、フェラーリ、朱肉など、それらは赤を「本質」として結びつく。形の違いなどはコントラストとなります。この結びつきを「連合」の現象と言います。「連合」は時空を飛び越え、現実と想像の垣根も超えて起こる現象です。こういった「本質」の「連合」って人間心理ではよく起こっていますよね。共通点、同一性といったものを、人間はつねに求めています(ファッションなんかでは、差異を求めていたりするけれども、それだってまず同一性を求める心理が前提としてあって、それに抗っているとも考えることができるのではないでしょうか)。そして、古典を読んで孤独が緩和される場合なんかは、時空を超えて著者と読者が、その本質に同一性を見出している。人間は、「同じもの(本質)」に惹きつけられ続けている。それはあまりに自明なもので、意識されていないくらいなのだけど、そういったことを意識化していくのが現象学なのでした。

現象学における「本質」の論考は、たしかプラトンだったけど、「イデア」という概念についてさらっと知識があるととっつきやすいと思います。



次に、「本質」とちょっと似て感じられるかもしれない「類型」について。
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「われわれは現れてきたものを、いつも何らかの類型のもとで見ているのであり、この類型的なものの見方を基本として、それがうまく機能しないときに、はじめて個体的なものの個性的なあり方に眼を向ける。」(p138)
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人間はいかに個別性を見られないのかがわかります。

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「ほとんどの場合、われわれは個体的で比類がないはずの対象を、類型の一事例としてしか見ていないのである。」(p138)
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たとえば医師だって診察するときに症状を類型的に判断します。でも介護の問題や家庭の問題、個人の問題など、類型的に見ることが誤解に繋がるケースもたくさんあるんです。「前提を疑うこと」っていうのは、類型的な視点をずらすことに繋がることでもあるなあと思いました。


最後に「間主観性」についてのところから。「間主観性」は、たとえば自己と他者の身体が同じ場にあるとき、身体同士は響き合う、というもの。誤解を恐れずに言うならば、これはプロトコルがお互いのあいだで成立している状態みたいな感じと表現できるんじゃないでしょうか。で、バックグラウンドで情報のよくわかんないやり取りがあり、それゆえに結びつくようなところもあります。響き合いは、贈与論で言われていることにも通じる概念・現象なんじゃないかとも思いました。贈られたモノって、送り主と受取り主のあいだで響き合っていませんか。また、顔の見える農家さんの作ったかぼちゃを頂くとき、そのかぼちゃって、農家さんとお客さんの間主観性的な象徴みたいな性質があると考えてみたり。


あと、おまけですが、「変様」のところで語られる現在性について。現在ってものは、「それ、今が現在だ!」と言ったとたんに過去に過ぎ去っているものです。今ってものを切り取ってみせることは、厳密にはできません。だけど、今を強烈に感じるときってあるなあと。打者が速球をバットにミートした瞬間なんて、今を瞬間的にとらえた感覚を持ってないでしょうかねえ。くわえて、現象学ではふだん隠れているものとされる自我までが、その瞬間に把持されるんじゃないかと思えるんです。自我は、やっていることが自明的で意識に上っていない時間を送っているときには意識されません。道に迷ったときなど、「え、ちょっとまって」となって自我の出番がやってくるとありました。


『現象学という思考』はかいつまんで説明するのが難しいので、以上のようなかたちで断片的に書いてしまったのだけど、それだと伝わらないんだろうなあという思いがあります。『現象学という思考』自体はとっても丁寧で慎重で親切な言葉の使い方で書かれていますから、そのまま読めばまず飲み込めます。ただ感覚的な話なので簡単に言えないのです。

現象学はいろいろと応用されるとエキサイティングだと思います。前に入門書を読んだ行動分析学も疫学も、現象学が応用された分野ではないかなあ。最近では、Amazonを眺めていると、ケアに関しても現象学が応用されているふうなタイトルの本を目にしたりします。また、間主観性という考え方は、ケアの現場についての本で言われているのを目にしたことがあるのですけれども、「関係性の主体性」という考え方とすごく近いと思います。そういったところをうまく理解する上でも、頭の体操をするみたいに、こういった現象学の本に親しんでおくのもよいのではないかなあと思います。


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『次、いつ会える?』

2023-11-17 20:46:10 | 読書。
読書。
『次、いつ会える?』 松村沙友里 撮影:三瓶康友
を読んだ。

2021年に乃木坂46を卒業された1期生・松村沙友里さんの卒業記念写真集です。愛らしい感じの美人・松村さんが、ページを繰るごとにさまざまな装いとポーズで魅せてくれます。巻末にはさゆりんご軍団、からあげ姉妹、そして先に卒業された白石麻衣さんが登場しています。ロングインタビューもあります。

感情豊かな方だとお見受けしているためか(そして僕の勝手な感情移入のせいか)、出だしからどこか寂しそうで切なそうな表情の松村さんに見えてしまいました。スタートから約10年間在籍した乃木坂を去るわけですから。

表紙と、表紙とおなじシーケンスのページ、そしてウェディングドレスの松村さんが今回の写真集ではいちばんお気に入りになりました。前者は普段着のかわいさにあふれているし、後者はほんとうに美しいです。

乃木坂時代は、辞めたいと思うことが多くて、その都度、ファンの方々とのふれあいに救われてきたそうです。卒業後も、ファンを大切にしたいと。松村さんは、もちろんメンバーたちに対してもそうでしょうけれども、他者の体温をちゃんと感じ取ることができる人なんだろうなあと思っています。前に『乃木坂と、まなぶ』を読んだとき、松村さんは遺伝子治療よりも社会のほうが変わって障がい者を受け入れていく方がよい、とする少数派の立場をとっていました。それも涙を浮かべながら。やっぱり情愛が深いというか、人を大切に想う人なんじゃないのかなあという印象を受けますよね。彼女が大好きな白石麻衣さんの卒業曲『しあわせの保護色』のMVでは、白石さんとのわずかな絡みのシーンで表情を曇らせていて、それに白石さんがつられてしまうという名シーンがあるくらいです。

そんな松村さんの個人的なエピソードでは、自分が納得できない話題になると、まったく相づちを打たなくなるみたいです(生田絵梨花さん談)。また、誰かがボケているときにおもしろいと思ったらすごく笑うけれども、そうじゃないときはわかりやすく黙るそう(齋藤飛鳥さん談)。そして、大阪出身の彼女は、テレビといえば吉本新喜劇で育ったということでした。自分の感性が確立していて、自信もあって、妥協をしないのでしょう。

最後に、本作の帯に寄せた秋元康さんの言葉を。
「松村沙友里の表情は、風に揺れる木漏れ日のようだ。楽しそうに見えても、どこかに影があるし、悲しそうに見えても、どこかに光が差す。『次、いつ会える?』と聞いたら、彼女はどんな表情をするのだろう?」
このようなコンテキストのなかで、松村さんと二人、公園のベンチにでも座っててみたいですねえ。

というわけで、夢想しながら終わりです。


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『大きな熊が来る前に、おやすみ。』

2023-11-09 23:19:15 | 読書。
読書。
『大きな熊が来る前に、おやすみ。』 島本理生
を読んだ。

2007年発表、2010年文庫化の、三編からなる作品集。

ネタバレありなので、ご注意ください。まずは、一遍目の表題作である「大きな熊が来る前に、おやすみ。」から。

子どもの頃、父からのDVを受けていた若い女性の主人公・珠実。できたばかりの彼氏・徹平にも、一度、暴力をふるわれてしまう。

__________

本当は、徹平に初めて会ったときから、父のことを思い出していた。
友達から紹介された後に何人かで飲みに行ったときも、そのことばかり考えていた。
口数が少なく、言いたいことを腹に押し込めたような顔をしている。飲み始めると次第に饒舌になり、表面的にはとても明るい人に見えるけど、目だけが冷めている。時折、わざと自分を落としてまわりを笑わせるわりに、他人からからかわれると上手く乗れない。
そういうプライドが低いふりをして本当は自我のかたまりみたいなところや、それを完ぺきに隠し切れないでついぼろっと出してしまう不器用さもよく似ていて、ひどく落ち着かない気分になったけれど、目が離せなかった。(p19-20)
__________

→あまり本筋とは関係がないですが、「そんなところまで見通されてしまっていたのか!」と「そんなことまでわかってくれたなんて!」は、表裏一体なんですよね。わかってくれる人って、わかられたくないところもちゃんと見てるものなのを、なんとなくこの箇所で思い出しました。

さて、この作品がもっとも動く後半部分なのですが、主人公の珠実に赤ちゃんが宿っていることがわかったのだけれど、彼氏の反応がネガティブなものだったので、彼女は電車に乗って知らない駅で降りて目に付いた美術館に入ったりなどしながら、暗闇に降る雪の中をあてどなく歩き回ります。黙って佇んでなどいられないのです。佇んでいては、頭の中が無軌道に回転してしまうことを察したからなのかもしれません。歩き回ることは、頭の中を動かす替わりに身体を動かす、代替行為なのではないのだろうか。あてどなく彷徨っているその行動が、本来ならば頭の中で行われていて、外側からは見えることのないめまぐるしい考えごとの表出のようでした。あるいは、落ち着くために身体を動かしている。積もったストレスを発散して、頭が回るように、気持ちが落ち着くように、と無意識でした行為なのかもしれない。

そういうふうに読めたのだけれど、そのあてどない彷徨いの場面がとても訴求力を持っていました。二段階くらいはそれまでより深く、すとんと引きこまれました。そしてラストに至っては、もうこれは「排除」や「拒絶」とは別のものが物語を覆っていました。暴力をふるうことははもうしないから、と謝る彼氏に珠実は寄りそおうという気持ちになり、一方では、許すなんて馬鹿な真似だ、間違いなくまた暴力は繰り返されるものだ、ともしも友人に話したならそう諭してくるようなケースだということもわかっている。

でも珠実は、受け入れました。賭けたのか、奇跡的なものを信じたのか、若さゆえのエネルギーに由来する楽観なのか、彼を変えられる自信なのかはわかりません。それは、愚かなほどの甘さなのだ、と簡単に言われてしまうようなことかもしれなくても、それでも「積み上げていく道」を選びました。クリエイティブなほうを、選んだ。



次に、「クロコダイルの午睡」。

理工系の女子大生である霧島さんは、育ちがよくてお金に困っていない男、都築が苦手。でもひょんなことから、自宅で都築に手料理をふるまい続ける日々を送ることになります。そんな都築には彼女がいる。その彼女と対面したときの霧島さんの思ったことが以下です。
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私は、昔から、こういう完璧に手入れされた爪が怖かった。あの爪では、お釜の中の米を研ぐことはできない。ハンバーグの挽き肉をこねることも、焦げた鍋の底を強く擦ることも。あらゆる点で長い爪は非実用的なのだ。そして実用性よりも鑑賞することを求められる種類の女性というのは確実に、いる。そして、私は違う。(p104-105)
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→女性が女性をこう見ている。タイプの違う者が、他方のタイプを静かにこう言語化していっている。怖くもありながら、でもそれは日常的に行われている心理上のありふれた活動のひとつでもある。といいつつ、この作品からも、著者が人間心理をよく踏まえていることがうかがい知れます。自然過ぎてわざわざ言葉にまでして意識に上らせないような自明の心理を、客観的にみつめる能力が優れていると思いました。

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ああ、と私は心の中で痛感した。私は、この子のことが嫌いだ。それも彼女だけが嫌いなんじゃなく、彼女に代表されるような、苦労もせずに与えられた平和の中で平気に文句を言える、そういう育ちの子たち、すべてが憎いのだ。(p106)
__________

→ここで述べられていることについて、僕は言われる側、憎まれる側としてわかります。金銭的な平和についてならば、僕が生まれたのは金持ちの家だったというわけではないけれど、そこそこにそれを味わって生きてきました(今は違いますけど)。だけど、憎む側にある主人公の霧島さんのように、家庭に問題があってつらい思いをして育ったことも僕にはあって、経験としてわかるんです。

周囲は初め、金銭的な平和の中にいる者へあまり余計な手を出したりせずにただ注意深く観察していたりします。そして、翳りの兆しを察すると、それまでの注意深さを脱ぎ捨てて、喜んではやし立てたり、もっと落ちればいいと本音を出しはじめたりする。僕自身はそういった周囲の気配を察しますが、彼らが見ているのは表面的な金銭面の部分だけなのがわかります。それだけ人間って、お金に関してやっかんだり妬んだりする感情がそうとう強い。というか、関心がそういった表面的な部分にとどまる人ばかり。一枚捲った内側に苦しみを宿していて、それをたまたま目にしたとしても、そこにはまるで無関心だしお金に対するような食いつきは見せません。金銭的な平和のなかにあった、という前提が、対象となる人物のコンテクストを瞬時に変えてしまっているんです。

僕の場合は、見た目としては憎まれるほうに分類される金銭的平和があり、反面、まったく他人には見せずに隠し通してきた家庭の大きな不安定さがあります。さらには、自分でも最近まで言葉にできていなかった、環境から受け続けたマイナス面もあります。でも、世間は金銭的な平和の部分しか見ないんですよ。それだけ、世の中って、お金による快適さや自由さが異っている世界だということでしょう。

__________

「俺、よく考えるんだ。生まれたときから自分は特に何も不自由がなくてさ、むしろ恵まれてて、だけどそれって俺が努力でどうにかしたものじゃないって。ほとんど理由もなく与えられたものを享受してるだけなんだ。だから、もしかしたら、いつかその逆が起こるかもしれないって、思ってた。なんの理由もなく、災害みたいな不幸が自分に降ってきても、それは仕方のないことなんだって。俺は与えられた幸せも不幸も、同じように口にしなきゃいけないんだって」
そう言い切った彼の表情は澄んでいた。
そんなことを、と私は心の中で呟いた。そんなことを覚悟してる人だということを、どうしてもっと早く教えてくれなかったのか。
(p130-131)
__________

→理由もなく与えられた恵みを享受していても、酒に飲まれるみたいにしてその運命に飲まれてしまって傲慢な特権階級意識を持ち始めたりするのではなく(まあ多少はその育ちの上でそういった性質は不可抗力的に身に付けてしまうものではありますが)、もしも正反対の運命に見舞われてもそれを受け止め、受け入れる、とこの相手役の彼は言っているのでした。ちょっと立ち止まって考えると、それすら育ちの良さゆえなのですが、それでも利己的に他者から搾取するようなずるいタイプではないことがわかります。他人の気持ちがわからなくて傷つけてしまうという大きな欠点のある性格のキャラクターではありましたが、他人を陥れる人間ではない。生まれの恵まれ方の違いによって、憎んだり憎まれたりが、本人のほんとうの気持ちとは関係なく生じるのが世の中だなあ、とこの作品からあらためて思い知らされたのでした。



最後に、「猫と君のとなり」。

この作品も、男側の暴力(元彼からの暴力の過去)が描かれていますし、他方、再会した年下の男と主人公の女子大生の仲が進展しながらも、その年下の男の無神経な発言に傷ついたりもしている。

あとがきに、
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『クロコダイルの午睡』『猫と君のとなり』も、他人はどうやっても他人だということが、良くも悪くも浮き彫りになっている短編ではないかと思います。
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とあります。お互いが惹きあっても、それは個と個の関係であることは変わらず、いっぽうを自分のものにしようという心理、支配欲求などは、不幸を招き寄せしかしない。フィクションを通じてそういった思考体験ができる作品でもあったのではないかな、と思いました。

読み終わってみるとまだまだ読み足りず、著者の他の作品を読みたくなりました。今回、けっこう真面目な感想になっていますが、本作はユーモアにもあふれています。とくに『クロコダイルの午睡』の前半部なんか、何度か吹き出しもしました。やっぱり心理のとらえ方や洞察なんだと思います。こういう部分って、簡単には見習えない能力ではないでしょうか。著者のストロングポイントの大きなひとつとして、僕には見えたのでした。


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『夢の中で会えるでしょう』

2023-11-06 19:43:09 | 読書。
読書。
『夢の中で会えるでしょう』 高野寛
を読んだ。

1995年の4月から一年間、NHK教育テレビで放送された『土曜ソリトンSIDE-B』。その20周年を記念したイベント(全6回)をテキスト化したものです。番組の司会を担当したミュージシャンの高野寛さんをホスト役に、最初のゲストはおなじく司会を担当されていた緒川たまきさん。ページを繰ると、毎週土曜日23時が楽しみだったあの頃が甦ってきます。

ゲストは、先ほど書いた緒川たまきさんを皮切りに、スチャダラパーのBoseさん、お菓子研究家のいがらしろみさん、ラーメンズの片桐仁さん、ミュージシャンの高橋幸宏さん、同じくミュージシャンのコトリンゴさん、そして巻末には特別対談として俳優ののんさんがお招きされていました。

ここからは個人的に面白かったところから数か所を抜き書きしていきます。

まずはスチャダラパーBoseさんとの対談部分。
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Bose:結局、生き方と音楽とアートは繋がっている。だから、音楽だけ、アートだけを勉強することは、全く意味がない。

高野:時代の空気を感じながらものを作らないと、薄っぺらいものしかできないから。(p51)
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(大きく括っての)クリエイターだってちゃんと毎日を生きていないと、というか、時代にコミットして生きていないと、おもしろいものは作れないんじゃないかな、ということですよねえ。こういうのって、没頭していると忘れがちになります。


次は、YMOやサディスティックミカバンドなどで活躍された、高野さんの師匠・高橋幸宏さんとの対談部分。
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高野:(高野さんがオーディション合格後すぐに参加した1987年の)あのツアーはいろんな瞬間を見ました。幸宏さん、大阪のライブの打ち上げ後に、川に飛び込もうとしていましたよね。

髙橋:打ち上げが終わった後に、なぜか僕がワインを持ったまま道頓堀に飛び込もうとしたみたい。ツアーエンジニアの飯尾芳史くんが「今ここで飛び込んだらタイガースファンだと思われますよ」と言って止めてくれたの。「あ、そうか。阪神ファンだと思われるのは嫌だなって」とやめたんだよ。僕、ジャイアンツファンなんでね。

高野:あれは見事な止め方でした(笑)。ミュージシャンってなんてロックなんだろうと思いました。幸宏さんの歴代のツアーの中でもかなり破天荒な旅だったんじゃないですか。 (p107)
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今年亡くなられた高橋幸宏さんとの対談箇所です。穏やかな紳士という印象の方でしたけど、こういうやんちゃな部分はあるだろうなあと僕はずっと思っていたので、なんだかすっきりしました。まあそれに、卓越した才能のあるミュージシャンがなさった若い時期の振る舞いですし、こういうのはふつうにあるでしょうね。


最後に紹介するのは、坂本龍一さんのラジオ番組にデモ曲を応募したことがきっかけでデビューされたコトリンゴさんとの対談部分。
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高野:元々、あまり怒らないというのはないですか。

コト:いや、割とせっかちです。

高野:話すスピードとは違うんだね。

コト:ライブの三十分前から「もう出ていいですか」と訊いたりします。自分の喉の準備ができていると、今すぐ出たくなってしまうんです。

高野:わからなくもないですが(笑)。 (p128-129)
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本人の喉の準備ができてしまったから予定の三十分前から始めるライブっていうのも、もしも実際にやってしまったらそれはそれでシュール。


というところです。本書が発行されたのが2018年ですが、著者の高野寛さんは来年還暦を迎えられることを知り、時の流れの速さにほんとうに驚いています。ここまで時間の流れの容赦ないスピードを感じたのは初めてなくらいです。ということは、僕もけっこう長く生きてきたということですね。体感としては、なんだか「一瞬」みたいなものなんですが。


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『本当の戦争の話をしよう 世界の「対立」を仕切る』

2023-11-05 00:42:25 | 読書。
読書。
『本当の戦争の話をしよう 世界の「対立」を仕切る』 伊勢崎賢治
を読んだ。

インド、東ティモール、シエラレオネ、アフガニスタンなどで起こった紛争や戦争による対立を仕切ってきた著者による、福島高校の高校生への講義と議論の記録。武装解除の話や子供兵の話はとくに、ごくっと唾を飲みこむ緊張感に包まれながら読むことになりました。

戦争がらみの国際問題の本で400ページを超えるボリュームです。手こずるかな、とちょっと気構えをして手に取りましたが、それでも話し言葉で進んでいくので、意外とわかりやすく読めました。それに、高校生にもわかる論理と言葉づかいですから、なおのことでした。

本書の性格がどういうものなのか、「講義の前に」と題された著者と高校生がはじめて対面する場面の様子の章にある文言を引用するとわかりやすいので、以下に記します。
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僕は、人をたくさん殺した人や、殺された側の人々の恨みが充満する現場に、まったく好き好んでじゃないけれど身を置き、人生の成り行きで仕事をしてきました。正直言って、楽しい思い出はありません。だって、今、目の前にいる人間が大量殺人の責任者で、自身も実際に手をかけているのがわかっているのに、笑顔で話し合わなければならないのですから。
こういう話は、日本の日常生活とかけ離れていて、別世界で起こっていることのように聞こえるかもしれない。でも、所詮、人間がすること。同じ人間がすることなのです。
なるべく、日本人が直面している問題、過去から現在に引きずっている構造的なものに関連させて、僕が現場で経験し、考えたことを君たちにぶつけてみたいと思います。(p47-48)
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第一章ではまず「構造的暴力」という言葉ががでてきます。わかりやすいところですと格差や貧困、差別、そういったものを「構造的暴力」と呼びます。そして、「主権意識」。米軍が駐留している日本に、たとえばテロリストが潜伏していて、それを米軍が日本政府に知らせずに捕獲作戦・殺害作戦をやったとします。そのときに、日本政府は強く抗議などできるのかどうか、そして日本人はその作戦にどれくらい嫌悪を持ったり批判したり抗議したりできるのか。そういったところに関わってくるのが「主権意識」です。後半部では、「原則主義」と「ご都合主義」のバランスの取り合いの話があります。たとえば「人権は守らねばならない」というのは原則ですが、現実としてどうしても守れない場合もあります。守れないことを容認するのが「ご都合主義」ですが、社会の風潮として、この「ご都合主義」が強すぎるように著者は考えている、ともありました。「原則主義」も大切だから、ほんとうならパワーバランスをとりたいわけです。

もはやこの第一章のみでもおなかいっぱいになってしまうくらい、現実的な生々しい問題がいくつも取り扱われています。正解のない、割り切れない問題なのですが、状況や内情を鑑みながら、最善手を見つけだして打っていかないといけない。それも、相手の細かい心理や信条、立場を想像し考慮して、ときに厳しくしたり、ときに相手に利したりしながら、交渉を遂行していく。でもって、めちゃくちゃ緊張感と重責があります。そういった現場を経験してこられた著者からの高校生への解説や問いかけを、読者も頭をひねりながら聞く(読む)ことになるのでした

第二章以降は、セキュリタイゼーション、脱セキュリタイゼーション、子供兵、憲法9条、核兵器、原発などにいたっていきます。そのなかであらためて感じたのですが、日本人は原爆を投下された恨みを、アメリカに対してではなく、概念としての戦争に向けました。これってほんとうにすごいことではないでしょうかねえ。僕には日本人の素晴らしいところに思えました。憎しみの連鎖を回避していますから(これはp291あたりの話でした)。

国際支援・援助のところも考えさせられました。他国への援助をする大国、アメリカにしろ中国にしろロシアにしろ、援助先の国からの利益を考えていて、「地政学的に重要だから密接になっておこう」「この国で採れる鉱物が重要だから親しくなっておこう」などの打算が強く働いているものだそうです。かたや日本のやる国際援助は、あまり国益を考えずその国の発展や平和のためを思ってやっている意味合いが強い正直な国際援助なのだとあります。これをおひとよしととうかどうかなんですが、著者も言っているのですが「だからこその強み」ってあるような気がします。日本の外交って、こういう正直さ、つまりあたりのやわらかさを基本として信頼を築いたり、向こうの警戒心を緩めたりできるかもしれなくないでしょうか。

また、援助先の国の治安が悪くならないようにとか、賄賂などの汚職がはびこらないようにとか、援助した金品が中抜きされないようにとかを考えに入れて援助するには、その国の内情をよく知らないといけません。内情を知らずに援助をしたがために、その国のバランスがもっと崩れて激しい内紛に繋がることもあるみたいです。そういうふうに考慮して援助・支援をすることを「予防開発」と呼ぶそうですが、著者の考えは、「予防開発」のための(もっと言うと戦争を回避するための)諜報活動って必要なんじゃないか、ということでした。諜報活動はいわゆるスパイを放って、他国の情勢を探り自国への脅威はないかを知り、相手国をくじく弱点をつかみ、といったように、自国が勝つためのものといった性質が強いのかもしれませんが、うまく戦争を回避するための外交交渉のエンパワメントのための諜報活動があってもいいんじゃないか、と。よく言われるように、「戦争」は「外交の失敗」にあるのならば、その外交能力がどれほどのものだったのかが知りたくなります。その外交能力を支える活動がどれだけなされていたのかが気になってくるものです。相手国をよく知れば、切れるカードは増えそうだし、効果的なカードが手に入ったりもしそう。そのための諜報活動は、現実的に考えて、あってもいいのかもしれないですね。

というところですが、恥ずかしながら、想定外の話がたくさんありました。国際問題や国際政治の裏側で、現実にその状況の都合にあわせて駆け引きや妥協をしながら、鎮静に向かわせたりしている。きれいごとだけじゃ無理というか、一枚めくると、きれいごとなんかはさっぱり通用しない状況だったりするみたいです。それは、それぞれがサバイブするために真剣だからそうなるのかもしれません。サバイブするためには、様式よりも実益なんです。そういう意味では、こういう本を読むことは、「人間を、よりもっとよく知る」ことにもなるんだと思います。僕の場合は、それゆえに自分の生ちょろさがわかるような読書体験でした。


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『クラウドガール』

2023-11-01 21:24:52 | 読書。
読書。
『クラウドガール』 金原ひとみ
を読んだ。

自分の感情の赴くまま、自己中心的に生きる高校生の杏と、自分の欠落した部分に気づき、理性的に内面の再構築を試みている大学生の理有。この二人の姉妹が、交互に各々の章にて一人称で語っていくかたちの小説です。

仲が良く、内面的な結びつきの強い姉妹です。両親は離婚しており、小説家の母親と暮らしていたのですが、その母親はある日亡くなってしまう。それから姉妹は短い間、祖父母に引き取られますが、ほどなくして、新たな場所で姉妹だけで暮らしていく。それらは小説内で次第にわかってくる事情で、物語自体は妹の杏が彼氏の晴臣をボコボコに殴り散らすシーンから始まります。

洗練された文章だと思いました。序盤1/3くらいまでの間、文章の緩急や構成など、書く人にとっては教科書になるような、パキッとできあがっている美術品のように感じられもしました。そして中盤から終盤へと、深い気づきを得られる箇所がいくつも出てきます。

強迫神経症で鬱でアル中の小説家である母といっしょにいると、「時空が歪む」という理有のセリフ。あれ、こうじゃなかったっけ、何でだっけ、とか思うことが多くて、と(p160あたり)。これよくわかるんですよ。そういうタイプの人っています。たとえばうちの父と暮らしているとそうなので。これってけっこう世の中では特殊な例だと思いますが、それを著者は知っていて、なおかつここまでうまく言い表すのですから、すごいぞ、と思いました。たとえば強迫神経症(強迫症)は、一昔前には、その患者の家族がQOLを著しく下げることになる五大疾病のひとつとして、WHOで数えられていたそうです。度合いにもよるでしょうけど、この病気に持たれているイメージよりも実際はずっと大変なんですよね。本作の主人公である姉妹は、こういった影響下で育ちました。二人の抱える内的な問題の源流にあるのはおそらくこのような過去の影響です。でもですね、まだ姉妹で良かったんですよ。子どもを二人つくっただけでも親としてはフェアなことをやったほうだと思う。これがひとりっ子だとフェアにはいきませんから。

そんな理有と杏、正反対の個性ともいえる二人であっても、共通している価値観があったりします。

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人の裏にあるものを覗き見ようとしない人、人の隠したいものを暴き立てようとしない人、そういう人なら、結婚していようが、歳の差があろうが、いいような気がした。(p121・杏視点の章)
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光也にはデリカシーがある。彼は人の踏み込まれたくないところには踏み込まない。人が常に逡巡や躊躇いの中で生きていることを、よく理解している。(p169・理有視点の章)
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ここで言われている性質って、僕自身も他者とコミュニケーションするときに見ておきたいところですし、自分も他者に向けてそういうことの無いように気を付けたいところでもあります。

本作が金原ひとみさんの作品に触れたはじめての機会でした。人を描くのはもちろん、関係性の描き方に作者のそうとうな力量を感じました。関係を通して関係性をよく見ていて、そこからクリアかつ慎重に分析出来ていて、その知見が創造に使えるくらい消化されて血肉になっているような気がします。

さて、金原さんは文學界新人賞の審査員をつとめていらっしゃいます。WEBでは応募を募るためのコメントが掲載されていますが、「何でもいいよ! 小説書けたら送ってみて!」と、とても気さくで軽いのです。新潮新人賞でも審査員をつとめていらっしゃいますが、同じように、「本当に何でもいいよ! 小説書けたら送ってみて!」とある。出合いがしらでは、「ネタなのかな」とちょっと笑っちゃいもしました。

ただこれは、「大丈夫。この世界はあなたに対して、ちゃんと開かれているからね」というメッセージを含んでいると思うのです。表面的には軽いノリのコメントなのだけれど、小説を応募するくらいの人たちならば、たぶんそのような意味をくみ取っているのではないでしょうか。小説を書く人には、言葉にしていかないとこの世界で溺れ死んでしまうタイプの人もたくさんいると思います。言葉にしていくことが、浮力なのです。言葉にしないと、社会の海に沈んでいって溺死してしまう。そういった人たちに向けて、「何でもいいよ! 小説書けたら送ってみて!」は、あなたが生きていくのに向いているのかもしれない世界への門戸は大きく開かれている、と伝えるメッセージ。そりゃ、腕っぷしで生きていく世界、人生丸ごとぶつけるような世界ですから、めちゃくちゃ厳しい世界ではあるけれども、<開かれている>。それはとても大切なことなんだと思います。


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