Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

志村けんさん。

2020-03-30 18:50:51 | days
志村けんさんが逝去された。
新型コロナウィルスが、僕らから志村けんさんを奪ったのだ。

その訃報を知ってから、
新型コロナに対する憎さが僕のなかに生まれました。
お前らは敵だ。
それも、憎くてしょうがない敵だ。

正直、有名人が亡くなってこんなに悲しくなるなんて思いもよらなかった。
会ったこともない、テレビなどでしか目にしない人なのに。
夕飯を終えて自室に戻り、寝転んでいたら涙が止まらない。
もう30分以上も止まらない。
自分のじいさんやばあさんが亡くなったときより悲しいのだ。

小学生の頃、『8時だョ!全員集合』が一番好きな番組だった。
毎週、土曜8時が楽しみだった。
仮面ライダーよりも好きだった。
僕はあたまがとろかったところがあったのか、
そのころちゃんとわかってみていられるテレビ番組ってほとんどなかったのかもしれない。
そんななか、『8時だョ!全員集合』は爆笑して、のめりこんで観ていた。
なかでも志村けんさんが大好きで、出オチで笑ってたところもある。
あれだけ食い入るように、夢中になってみていたのだから、
『8時だョ!全員集合』を観ることは、僕にとって、
毎週一度だけ1時間、
志村さんに遊んでもらっていたのと同等の恩恵を得ていたと言えるかもしれない。
小学生の時分にして、もう一生分も笑わせてもらっていたような気がする。

あの笑いの内容が、小学生の情操に良いものだったか悪いものだったか、
考える人は考えるだろうし、
当時、PTAなんかからクレームがいったなんて話もあった。
でも、大人になった僕が志村けんさんの訃報にこれだけ涙するのは、
小学生の頃に享受した志村さんはじめドリフターズの笑いが、
自分を構成するその一部になっているからだと思う。
自分のどこの部分で一部になっているかはわからないけれど、たぶん、
もはやぐっと抽象化されてずっと深い部分を構成しているのだろう。
だから、こんなに涙が出る。自分の一部でもあるから、涙が止まらない。
そして、そんな自分を恥だとは思わない。
堂々と、志村けんさんの死に対して、止まらないほど涙したと言おう。

小学生以来、あまり志村さんの番組を観なくなったけれど、それでも涙が出る。
近年、NHKで放送された『となりのシムラ』もよかった。
けっこうな哀愁を帯びているキャラクターを演じる志村さんの笑いに、
こちらも笑うことで、その哀愁をふくめて共鳴した。

実像の志村けんさんを知らない。
僕が知っているのは虚像の志村けんさんだろう。
その虚像の志村けんさんの死に悼んでいたとしても、それで一向にかまわない。
実像だろうと虚像だろうと、
その人情を交えた仕事ぶりを受け取ることで、
僕は彼の存在を自分の一部としたのだから。

よく、亡くなった人の分まで生きていく、という言葉を表明する人がいる。
僕にもその意味がようやくわかったように思う。
自分の一部となっている彼の体温を、ずっと抱えたまま僕は生きていく。
僕の人生にも、彼の人生のベクトルが少しばかり宿っているのだ。
それを誇りに、生きていく。
憎き新型コロナを睨みつけながら。

志村けんさん、いままでありがとうございました。

天国ではいかりや長介さんが先に待っていて、
「お、志村、次にこっちに来たのはお前だったか」
なんて意外そうな顔をして言ってそうで、志村さんが苦笑いで応えていそう。
そういう想像をすると、涙のなかにもちょっと笑いが生まれてきます。

……ああ、やっぱり悲しいけれど、
お別れって、やってくるんだなあ。

さようなら、志村けんさん。

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『連帯の哲学Ⅰ フランス社会連帯主義』

2020-03-29 00:55:29 | 読書。
読書。
『連帯の哲学Ⅰ フランス社会連帯主義』 重田園江
を読んだ。

いっぽうに自由主義があり、他方に社会主義がある。
この構図はとてもわかりやすいですよね。
日本でいえば、自由民主党があって社会党があるという、
かつての55年体制の構図に重なります。

最近はもはや、社会主義や共産主義に夢を託すような勢いは、
日本人にはほとんどないように僕は見ているんですけれども、
かといって盤石な自由主義でもないことが、
格差社会の拡大や、
生きにくさを吐露する人たちがどうやら増えていること
(ネットで可視化されたがためにそう見えるようになったのかもしれませんが)
などによって明るみになってきているのではないでしょうか。
そういったところに、それらに替わるものとしての「連帯」する理由があるとも
考えることができます。

本書で考察される「連帯」。
その「連帯」を中心に据えた主義として、かつて連帯主義という思想がありました。
その連帯主義が主義思想というカテゴリーのなかでどこに位置づけられるのかとなると、
自由主義と社会主義のあいだになるのです。
中道左派なんて言われ方もする、
ちょっと地味に見られるポジンションに連帯主義はあります。

19世紀の終わりから20世紀の初頭にかけて、
自由主義や社会主義のように、フランスでは連帯主義も標榜されていた。
しかし、二度の世界大戦や時代の趨勢、時代からの要求に合わなかったために、
ほとんど消失してしまいました。早すぎたのかもしれません。

本書では、デュルケムら4人のフランス連帯主義者(連帯思想家)と
マルセル・モースの贈与論、
そしていくつかの補章でもって、連帯を多角的にとらえていきます。
読んでいると、まるで遺跡を発掘し考察する考古学的な慎重さでもって
当時の連帯主義の標本を現代に復活させるかのような、
著者の、その時代の空気へのフラットな視線と熱意を感じることになります。

さて、連帯主義は福祉国家へと続く道筋をつくった主義でもあるとのことです。
もともとフランスでは、持てる者から持たない者への「慈善」があり、
知り合い同士の絆でできあがっている「友愛」がでてきて、
それらが発展するように、
「慈善」を内包しながら、
かつ、知らない誰かまで含めたような「友愛」以上の絆として、
「連帯」の考え方ができてくるのです。
そういった性質のものですから、のちに福祉へと繋がっていくんです。

しかし、なんでもやるというような福祉国家となると、国家自体が大きくなる。
まかりまちがえば、権力が集中していき、官僚主義が強まり、
専制国家になってしまう可能性が高まります。

もともとの連帯主義は、自由主義と社会主義の中間なので、
たとえば社会保障についても、国でやろうというのではなくて、
そこは自由主義的に、国に頼らず組合的な組織でやろうとする。
つまりは、社会主義の福祉国家のように、国家自体を大きくしない方針をとる。

当時のフランスでは、社会保障を任意にしようか義務にしようか、
と議論していたようですが、
連帯主義の立場では、義務でやろうということになるのだそうです。
現代のような分業制度下で、
まるで違ったことをしている人たち、
つまり、なかなか結びつかないような人たちすら結びつける紐帯としての機能を、
社会保障の義務化でもってやろうとしたんです。
しかし、そううまく事は運ばなかったようですが。

分業の話で言えば、本書の最初の方にでてくるんですが、こういうのがあります。
産業革命後の世界では、ひとつの製品に対して、
いろいろな人が分業して関わっていくようになりました。
たとえばセーターひとつとってみても、
羊毛を生産する羊飼いのひとがいて、
セーターを編む人がいて、お店に運ぶ人がいて、
お店で売る人がいるといった具合に、
多数の分業する人たちを経て、製品が消費者に届いている。
世の中にはこれよりももっと複雑で多人数が関わっている過程の業種があるでしょうけども、
基本はこのような図式です。
これは、本書ではデュルケムの書いたこととして載っていますが、
同時にアダム・スミスも言っているといいますし、
数年前に流行った吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』でのテーマでもありました。
それでもって、こういった分業の過程を意識することで、
連帯のベースになるような気持ちが生まれるんですよね。
というか、社会は連帯でできあがっている、
という気付きが得られるといってもいいでしょう。

本書は、なかなか散見的な書かれ方をしています。
言いかたを変えれば、まとまりを欠いている。
いや、まとまらない種類のものごとにチャレンジしているがため、
といったほうがいいかもしれません。
協同組合、リスクを考えて成り立つ保険業、
そういったものも、連帯の思想の範囲として本書のなかで解説されています。

なんていいますか、
「ごつごつした路面を駆け足で走り抜けるような読書体験」になりました。
読みごたえはありますが、読み下すのに力が要りますね。
それでも、「連帯」について知見を深めることができましたから、
好い読書でした。
本書は「そのⅠ」で、続巻があると書かれていますがどうも発刊されていません。
立ち消えになったのかなあ、と残念に思いました。


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応募用短編、執筆作業終了。

2020-03-26 21:08:08 | days
一昨日、応募用短編小説の執筆を終了しました。
とはいえ、まだ「直し」や「推敲」がありますから完成ではありません。
今回の執筆では序盤と終盤で文体が違ってしまったので、
それに手を加えねばなりません。
必然、描写や比喩が増えて内容が膨らむ場合もありますし、
くどくなったからどう削ろうか、という場面もでてくるでしょう。
大きな峠を越したけれど、めざす所までまだ距離がある、といった感じですね。

作為的に書くぞ、と決めて取り組みました。
自然に物語のおもむくままに、といったやり方はあまりしませんでした。
その大きな理由は、エンタメ方向へもっと舵を切るためです。
純文学方面よりも、エンタメ方面で書いたほうが、
僕が想定する読者層に当てはまると考えているからです。
ちょっと込み入ったムズカシイことを書きもするけれど、
読もうと思えば読めて、純文学ほどわからなくはない、
そして、読んで得るものがある、というものを毎度書こうとしています。
今回も、その延長線上にあります。
ただ、論文ではなく小説なので、最終的な部分は読み手にまかせるようにしています。
僕なりの答えが出ることはあるのだけれど、
それをごり押ししない、正解にしない、というように考えています。

今のところ70枚ちょっとですが、
直し作業によってもういくらか増えそうです。

このあいだアップした1万字短編『ランベイビー、ラン』でも
作為的にエンタメ色をもたせることを念頭に置き、書きました。
その流れで今回も書いています。
こうして経験を積んでいって、
少しでもおもしろくて豊潤な物語を書けるようになるため、
技量と想像力を強くしていきたいです。

送付先は『オール讀物』新人賞にします。
6月20日締め切りなり。

近況、ご報告まで。
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『木材・石炭・シェールガス』

2020-03-20 22:00:16 | 読書。
読書。
『木材・石炭・シェールガス』 石井彰
を読んだ。

2014年刊行のエネルギー問題に関する本。
その頃の世の中といえば、脱原発が声高に叫ばれていたころでしたね。
著者は「自分は環境派である」とその立場を明示しながらも、
エネルギーについての膨大な知識があるがゆえに、
環境派的に安易な感じで「脱原発を!」ともいわないですし、
太陽光や風力などの「再生可能エネルギーにしていこう!」とも言いません。
かといって、それらを全否定することでもなく、
「こうこう、こういう理由があるから」と現実に着地した視点から
エネルギー事情を論述してくれます。

まず、産業革命前の段階ではどこの国でも薪炭をつかって、
製鉄したり、製塩したり、暖をとったりなどなどのエネルギー源にしていました。
そんな事情ですから、欧州にしても日本にしても、
木材の伐採が盛んで、どこもかしこもはげ山だらけだったそう。
そんな状態が産業革命と石炭によって助かっていく。
森林が戻ってきます。
薪炭は再生可能エネルギーですが、
再生エネルギー利用は自然をそこなう、ということの元祖なのでした。

そして、同じく再生エネルギーである太陽エネルギーも風力も、
その得られる電力はコストにくらべてわずかだったり、
平均的に得られなかったりするのですが、
再生可能エネルギー推進派は、
「CO2を抑えられるので地球にやさしい」と主張する。
しかしながら、太陽光パネルの設置ではそのパネル下の地面を荒れ地にしてしまうし、
そうすると緑地の持つ冷却作用を奪うので、
局地的にヒートアイランド現象を発生させるといいますし、
もっといえば、パネルにこもった熱が上昇気流を生み、
ゲリラ豪雨や竜巻をうみかねないそうなんです。
風力のほうは、低周波の騒音がありますし、
土地を奪いもするし、
だいたい、日本は急峻な土地の国なので平地のオランダなどとくらべ適さない。

じゃあ、石炭や石油、天然ガスなど
化石燃料の火力発電だったらといえば、ご存知のようにたくさんCO2が出ます。
でも、再生可能エネルギーのように、自然を破壊しない。

つまり、
再生可能エネルギーは、CO2を出さないが生態系を破壊し、
化石燃料エネルギーは、CO2をたくさん出すが生態系を直接的に破壊しない。

ここで、じゃあ原子力は、という問いと、
化石燃料は地球温暖化を進めるからそのほうが問題として大きいのではないか、
という問いがすぐに出てくるでしょう。

前者は、CO2を出さず生態系を破壊しませんが、
完璧な技術ではないので、3.11のようなことが起こる。
その際には、生態系は派手に破壊されるポテンシャルがあります。
また、核廃棄物の処理についてもみんなが納得できる策はないです。

後者については、
温暖化の原因が二酸化炭素かどうかという根本が揺らいでいると著者は言います。
2000年代に入ってから、本書が出る2014年までのあいだ、
気温は横ばいだそうで、でも二酸化炭素は増えているので相関しているかあやしい、と。
また、各地の気温の上昇は、その検温している場所がヒートアイランドで
年々気温が上昇しているに過ぎず、
全地球観測でみるとそれは違う、という話もありました。
そして、極めつけが、太陽の磁気活動が影響しているというもの。
「スベンスマルク効果」というその効果は、太陽の磁気の強弱の影響で、
地球に降り注ぐ宇宙線の量が変わり、その多寡で地球の雲量が変化して、
全地球的な温暖化や寒冷化になっている、というものです。
僕はこのあいだ『チェンジング・ブルー』という気候学者の方が著した
気候変動に関する本を読みましたが、
そこにはない、あらたな説であり、
これはこれである種の説得力を感じもしましたので、
またまた温暖化に対する考えが揺らいできました。
著者は、自分は気候学に関しては素人だからとエクスキューズをつけていますけれども、
なかなか興味深かったですね。
さらっと試し読みしたときには印象論的に読めたのですが、
じっくり読むと、信憑性がないとも言えませんでした。
しかし、二酸化炭素に温暖化効果があるという説はかなり信頼できるもので、
そこは著者もそう書いていますし、
温暖化に向かっていないのが真実だとしても、
人工的に二酸化炭素を増やすのはやめたほうがいい、と僕は考えますね、
著者もそういう結論を持っていますし、同意だな、と思いました。

とちょっと逸れたふうになりましたが、
エネルギーについて、ではどうすると良いのか。
たとえば、アメリカでは最近、シェールガスという天然ガスが発掘され、
新しいエネルギーになっている。
これは、昨今のコンピューターと情報技術を使ったハイテク技術によって
採掘可能となったガスです。
同様に、シェールオイルというものもあり、
どちらも地中の頁岩(シェール)に閉じ込められた化石燃料ですが、
世界的な埋蔵量はかなりのものだそうです。
250年以上持つ、と言われている。

著者は天然ガスの発電技術もあがっているし、
目下、いちばん有望なエネルギー源としています。
それに、石炭火力や水力をふくめた再生エネルギー、
できれば少しの原子力をまじえたバランスでやっていくことが、
日本では適しているのではないか、と
難しくてこんがらかったエネルギー世界での、
一つの優良な選択肢を提示します。

北欧を見習おう、だとか、原発の無いドイツを見習おうだとか、
いろいろ、僕も本書を読む前から知っている論調にたいしても、
本書では、人口規模や国土の地形の違いから否定したり、
逆に火力に頼ってしまってCO2を増やしていたり
近隣諸国のお世話になっていたりすることから、
ナンセンスさをわからせてくれています。
つまり、日本は日本で、かなり頭を使っているので、
どこかの国が日本より抜けていてうまいことをやっているってことはないんです。
日本は日本の状況で考えうる限りの最善策をやっているようです。

ただ、やっぱり料金は高くなっていく運命にあるようです。
そこらの解説は本書を読んでいただくことにします(疲れました)。

というわけで、
本書は新書なんですが、中身がなかなかに骨太でした。
僕はエネルギー業界にうとかったのですが、
それなりに基本的な知識を得られた気がします。
こうやって、読んでよかった!と思えるような読書はうれしいものです。


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自作小説『ランベイビー、ラン』

2020-03-19 14:32:18 | 自作小説10
 小刻みに激しくなったり、優しげにおとなしくなったりと、命の脈動を思わせる「動」と「静」を意図を持って体現しているかのように短い間隔で絶えず変化し続ける雨音。
 朝からそんな生々しく落ちつかない雨音を聴きながら、短髪の、若くて痩せた男がひとり、築三十年余りの木造アパートの二階、8畳の角部屋で面倒くさそうに洗濯物をたたんでいる。昼下がり。
 部屋干しにしたままなんとなく片付けるのを先送りしていたら、使い古した雑巾のような嫌な匂いが、外に着て歩くには無理でしょうというくらい強めについてしまったので、一昨日の晩再び、干していたものをすべて洗濯し直したのだった。

 大のお気に入りの青い生地のプリントTシャツを一番上に重ねて引き出しに収めようと男は箪笥のある窓際まできた。このTシャツもだいぶくたびれてきちゃったよなあ、と心の底から残念に思いながら。
 いたわるような柔らかい目つきを青いTシャツに投げやってひとつ長い息をつき、眉を寄せる。ほのかな力の入り加減で。
 それからふわりと力を解くと、おもむろに今着ているTシャツを脱ぎ捨て、するりと青いTシャツを纏った。

 よい想い出とともにある青いプリントT。裾の右端には、ついこの間まで暮らしていた実家で、母親がつくった好物のスープカレーをこぼしてしまい、できてしまった小さな薄黄色のシミがぼんやり残っていた。
 そのとき、小学校の卒業式を間近に控えた世話好きの妹が「お兄ちゃん、まかせて。シミ抜きしてあげるから」と、たぶんネットで覚えたのだろう、すぐさま大根を薄く切ったものを台所から持ってきて、カレーが沁み込んでいっているまさに今という生地を、たたたたたたたた、と細かく叩きだした。
 おかげでカレーがついた箇所は大根の水分を吸って青が濃くなっただけになり黄色いシミは取れたように見えた。妹は、芸事がいつも通り上首尾に終わった女手品師が顎を上に少し持ちあげ観客に讃えられるのを待っているかのような誇らしげな様子で微笑んだ。

 ひとしきり妹に礼を言い、「よかったねえ」と二人で言いあってTシャツをそのまま放っておいたら、乾いた裾のシミは、広がって滲んだ状態で浮かびあがって復活し、「あれまあ!」と勝手に虚を衝かれて慌てた二人は、ばたばた動いてまた大根の切れっぱしを準備し叩いてみたが効果は得られず、「それじゃあ」と急いで洗剤をつけて洗ってみてもシミはそこに張り付いたまま落ちなくなってしまった。
 妹は男の表情を窺いながらもじもじ身体をよじって申し訳なさげだし、男は男でずいぶん気落ちした。

 でも、普段着としてではあるが、男がまだ大切にそのプリントTを着ているのは、それが初めてできた彼女に告白するときに選んで着た勝負Tだから。ゲンがいい、というか、自分にとって良きものが宿っている、と男は信じている。
 ただ、彼女とは付きあい始めだけ盛り上がったがすぐにフェードアウトが始まり、いつしか関係は消滅してしまった。男は、その関係が消えてしまったのは『自然のなすがまま』のためだと思っている。どうやら、この世には個人の力ではどうしようもできない種類のしょうのないことがあって、自分の場合にあてはまったのがそういうものだったのだと思っている。

 つまり、相手にとって自分が退屈な存在ではなかったかどうかを省察してみるきっかけを男はまだ掴めていないのだ。
 
 短くも楽しかった記憶は甘くほろ苦い香りを漂わせながら胸をときおり疼かせ、胸の奥に巣食ったまま、そこから退こうとする気配は今のところまったく見せない。終わった恋愛のきちんとした省察がまだなのだから、記憶が不意に自分を生温かく浸してしまう瞬間があるのがどちらかといえば良いほうなのか悪いほうなのかにも、男は判断をつける段階にはない。だけれど、そうはいってもいずれ、自分自身と向き合うほうへと時間が男を促すだろう。そしてその時は、意外と近かったりするかもしれない。

 階下では、道路際の敷地内にたくさん咲いている青い紫陽花にはじける雨水がさわがしかった。
 道の左、なだらかな坂をさらにさわがしく駆け下りてくる若い女がいる。傘も差さず、駆け足よりも速く路面を蹴り続けている。セミロングの髪。細身。ネイビーのテーパードパンツ。白いTシャツ。肩から掛けた黒いサコッシュ。靴はグレーのローファー。歳は男と同じくらいだった。

 気付いた男は、誰にも分かるくらいに心を乱した。一瞬で吹きだす顔の汗と、記憶の闇への丸い入り口と化した口があんぐりと開いている。
 雨の中を走る女と、故郷でつきあったあの女との間に、その走る姿勢や容姿にとてもよく似て見える雰囲気があったからだった。
 窓ガラスに左手をつき、脂の浮いた鼻まで擦りつけるようにして、走る女を眺め下ろした。右手はなぜか、プリントTの薄黄色のシミの部分をむんずとつかんだまま力んでいる。
 やがて判る。眼下の女は、故郷で自分の彼女だった人ではないことを。拍子抜けしながら同時に覚える青い安堵。
 
 雨がさらに激しく打つようになり、聴こえる一切の雨音は世界を破壊する音を思わせた。だが、よく耳を澄ましてみると捉えられるのだった。灰色の轟音の支配を蹴破る、自律した女の走る足音が。破壊をまったくの別次元として躍動する新しい秩序の足音が。それは消えゆきそうでもある頼りなさだったが、でもしっかりと、地に足のついた確かな質感を宿してした。
 あっという間に、女は男の視界を駆け抜けていこうとしている。衝動的に男は部屋を出た。鈍くさいながらも、出来得る限りのスピードで階段を滑り降り、つっかけた靴を履き直し、通りへと躍り出る。そしてすぐさま、抜け目なく右手に持ったビニール傘を差す。男は右の方を向いて、走っていく女のまだそれほど遠くない後ろ姿を眺めた。アスファルトからけたたましく跳ね返り、きりなく空から落ちてくるそれら雨水が、女の姿を煙らす。
 気付けば、男はそろそろと女の後を追い、走りだしていた。
 


「なに、あれ。濡れそぼちながら走る女」
 学校を早引きしてきた自称文学好きの男子中学生が、振り向きざま右頬を引き攣らせ嘲るように小さく呟いた。二十歳前くらいだろうか、びしょ濡れの若い女がこちらに向かって走ってくる。白いTシャツの揺れる胸の下に、白いブラジャーの輪郭がうっすらと透けて見える。
「あれだ、女メロスだ」とまたもや馬鹿にするように笑った。暴君ディオニス王と約束をして親友を身代わりにし、その親友と約束を守るべく走り続けたメロス。この女も誰かを身代わりにしたのかな、早く目的の場所に着かないとえらいことになるから走っているんじゃないのか。借金の身代わりかな、あはは。完璧に差した黒い傘による完璧な平和の中、彼の度の強い眼鏡にはほんの一粒の水滴すらついていない。眼鏡の奥に佇む目はいくぶん冷たい。

「うわ、ヤバ」
 やがて、ペースを乱すことなく女が中学生の横を走りすぎていった。あれは、必死だった。できれば見たくない、様子であり場面だった。

 雨粒を身体ではじきながら必死に疾走する女が独特な存在感をまとって、不覚にも美しく見えてしまったのは否定できない。そんなのはダサいはずなのに、なぜ美しく見えたのだろうか、と中学生は考えようとしたが、考え始める前にきっと本能的になのだろう、咄嗟に考えを止めた。もしもそこのところをしっかりと考えてしまったら、今よりもずっと生きにくくなるような気がしたからだ。
 
 でも、もしや、とちょっとだけ思う。
 もしも考えた末、生きにくさにべったりと憑りつかれてしまったとしても、あべこべに、ずっと魅力的な別の生きやすさを見つけるのではないだろうか、と。
 
 はっと我に返って、走る女を目で見送る中学生は、この女には雨が似合うと思った。
 メロスは暑さに苦しんだ。お姉さんは雨の冷たさに苦しんで走るといい。それがお姉さんのオリジナリティで、だから似合うんだ、と。
 
 遅れて、ひょろりと痩せた男がビニール傘を差しながら女を追いかけるように走り抜けていった。女にくらべて、脚の上がり方がだいぶ低い。中学生は、男がどことなく不憫にみえて、見て見ぬふりをしてやり過ごした。雨は、まだ止まない。
 
 
 
 四十歳を過ぎ、前厄に足を踏み入れたばかりの営業職の男が、風に吹かれたなら枯れ葉のように弧を描きながらどこかへ吹き飛んでしまいかねないくらいの生気の無さを隠そうともせずに歩いている。申し訳なさそうに濃灰色の傘を開き、背を丸め、足元にばかり視線を漂わせている様子は、長い時間迷子になり寄る辺を失くした子どもめいていた。そんな営業職の男が、前方から誰かがが駆けてくる音を聴いた。どことなく気に障ったので、迷惑そうに視線を上げた。
「なんだ、傘も差さずに。びしょ濡れで何を急いでいる?もしかして、気がおかしいんじゃないのか?」
 しかしその瞬間、視界に捉えた女の真剣で力強い眼差しが、営業職の男の胸を一瞬で焦がしつける。そのくらい眩しくて、気持ちがひりひりと痛んだ。
 
 女の体型はすらりと整っている。営業職の男は毎日、酒を飲む。最近、たるんだ下っ腹がせり出るようになってきた。独りで酒を飲みながら、昔を懐かしみ、今を嘆き、未来に震える。その繰り返しの日々になって久しい。いや、甘く優しいはずの昔の記憶にすら、針先でつつくように責め立てられることも少なくなくなってきた。
 
「危ないな」
 ペースを落とすことなく、営業職の男の横を女が通り過ぎた。
 営業職の男には、すれ違いざま、女がすこし目を伏せたように感じられた。こんな自分が、ああいう女に意識されたのか、とその意外さに驚く。若い女からゴミを見るような目つきで見られたことは何度もある。それ以上に、道端に落ちている石ころと同じ扱いで、無関心さにさらされることのほうが多い。あるいは背後でこっそり笑われているのかもしれなかった。
 
 営業職の男は、ああ、そうだったか、と胸の裡で呟いた。自分の苦しみのほとんどは、孤独、いや、孤立にあるのだ、と続けた。
 たぶん、自分は他人に関心を持ったっていいのだし、他人から関心を持ってもらいたいと望んだっていいのだ。そこで想念が結晶化したかのように頭に浮かんだ『絆』なんていう言葉が小恥ずかしくて、湯気立つのではと思うくらい体温が急上昇した。恥ずかしさに身をよじるくらいなら、それよりもいつものように目をそむけていたい。でも、小恥ずかしさから目をそむけるほうを選んで生きてきたから、今、自分は孤立してしまい苦しいのではないのか。ならばいったいどうして、なんのために、俺は苦しみがこんこんと湧きでる“孤立する泉”を糧として選んだのだろう、と深く考えてみようとしたが、いきなり答えの尻尾が見つけられるとは思えず、とりあえず忘れないよう付箋を貼りでもするかのような感覚で注意をし、保留として、現実に戻った。
 
 女の姿は小さくなっていった。小気味よく、乱れぬリズムで女の脚は回転し続けていた。

 営業職の男は、この女には雨が似合うと思った。
 もっとびしょ濡れになれ、人生とはそういうものだし、今日、お前はほんとうの人生を知るよい機会のなかにいるのだ、と。それは、営業職の男なりの精一杯のエールだった。近頃なかった肯定的な気分がゆっくり胸に満ちていくのを感じていた。

 そこに、びちゃりと大きな水たまりに片足をつっこみ、ひるんだところを立て直してこちらへ走ってくる痩せた若い男が見えた。走り方のバランスも悪くて、ちょっと滑稽だった。すれ違ったあと、営業職の男は、ふっ、と吐息だけで笑ってしまった。そして、小さくではあっても、笑ったのはいつぶりだろう、と珍しがるのと同時に、痩せた若い男に気兼ねしつつ少し喜びもした。俺も、たぶんお前も、今日は人生を知るときなんだろうな。軽く微笑んだ表情の営業職の男は、まるで雨雲の隙間から射す一筋の光線を見たような気持ちになっていた。
 
 
 
 夕飯の買い物を終えた三十歳過ぎの女が、駅前のスーパーの入り口でタータンチェック柄の傘を差そうとしている。水色のワンピースにジージャンを纏い、口紅の赤が強い。今日は仕事が休みだった。
 女は高校を卒業してからずっと水商売の仕事をしている。生来、お酒には強かったし、それなりに身体への配慮もしてきたので、今まで身体を壊すこともなく続けてこられた。そして、自然と幾多の様々な恋愛を経てきた。不倫も二度した。二度とも、修羅場を迎える前に相手から別れを告げられた。思い返せば、悔しい恋ばかりだった。
 店に来るには風貌も物腰も清廉な七十歳くらいの年齢の客と、女はプラトニックな関係でずいぶん仲良くしていた短い期間があったが、実はそれがもっとも幸せな時期だったのではないかと、遍歴を吟味するといつも思うのだった。
 
 水商売の女が傘を差し、スーパーの入り口から一歩外へ歩み出したところで、ふと異常な気配を感じ取り、左の方向へ目をやった。若い女が傘も差さず濡れねずみの態でこちらへ走ってくる。なかなかの速度でこちらへ向かってくるので、水商売の女は余計に面食らった。しかし、呼吸はけっこうはずんでいて、はっ、はっ、という息を吐く音が耳に届いてきた。
 
「さては、男ね」
 水商売の女はそう胸の裡で閃かせながら、両眼を鋭く細めて走る女を睨んだ。恋敵か、浮気された相手か、もしくは浮気した彼氏本人に復讐しにいくために走っているのではないかしら。水商売の女は、これはおもしろい場面に遭遇したものだ、と弾むような楽しい気分になったが、太陽に雨雲がかかるかのようにそれはすぐに翳り始める。
 この女は恋に真っすぐだから、こうして雨の中を走っているのだろう。そう考えてみたら、そこに若い頃の自分が思い起こされて、重なってしまったのだ。自分にも、そういう激しい情熱に突き動かされた、報われない恋があった。そして情熱というものは、ふつふつと漲っていくもののない今となっては、どうやら私には失われた性質のようだ、と小さく嘆息した。
「歳は取りたくないものだけれど、仕方ないわね」
 水商売の女は目の前を駆け抜けた若い女を羨ましげな目つきで見送ると、小さな石ころを蹴る。
 
 なぜ、情熱は失われたのだろう。自分に問いかけてみる。案外すぐに答えは見つかった。生きていくことに疲れてしまったのもある。でも、本当のところは違う、こっちのほうだ。それは、もう若くない、と自分で決めつけたからだ。その歳じゃもうカッコ悪い、と他人の目を気にしたから。
 水商売の女は、自分はこれまで強くたくましく生きてきたと思っていたが、こんなに怖がりな面もあったのだなあ、と人知れず日陰でしおれた花を見つけたみたいに慈しんであげたい気持ちになった。
 さほど迷惑じゃなければ、自主規制なんてすることはない。他人様のルールに従って生きていくなんてつまらないじゃないか。たまにそんな、地に足をつけて前向きに攻めて考えるのが、水商売の女のその美貌を抜かした内でもっとも魅力的な美点として、これまで多くの男たちを惹きつけてきたのだった。

 走り続け濡れ続ける女の後ろ姿を再びじいっと見つめながら、水商売の女は、彼女には雨が似合うと思った。
雨に濡れるのにも構わず走る執念、その情熱は、怨霊のようにもみえる。それでこそ、女よ。女の怖さを思い知らせてやりなさい。

 水商売の女は真っ赤な唇を閉じたまま口角を上げて微笑むと、走る女とは逆方向へ歩き出す。雨もたまには悪くないものね、と青く濡れた街並みに気分をよくしたところで、ぎょっと目を瞠る。若く痩せた男が大きく口を開き、苦しげにぜえぜえと息をしながらビニール傘をあみだに差して迫ってくる。傘を差しているわりに、かなり雨に濡れていた。また、脚の上がりが悪くて、たまに靴の底を路面に引き摺っているのだった。
「この男のほうは理解不能ね」と無表情になった水商売の女はすぐさまそこを立ち去るため、足を速めたのだった。
 

 
 雨は勢いを弱め、細くなった。
 道行く人々の手の、様々な柄の傘へかかる重苦しさが緩くなる。まるで奇襲攻撃から街を防衛する、その成功が近づいてきたフランス国民軍のように、それぞれが誇り高さを取り戻し、活気づき、にぎやかさを取り戻しつつあるのだった。
 
 アパートを出てからずっと走り続けてきた若く痩せた男は、自分以上に長く走り続けた女に今、追いつこうとしている。喋れないくらい、息が上がっていた。パンパンに張った太ももとふくらはぎの泣き言と文句が激しい。それでも一歩一歩確かに、足を運んで男は女に近づいた。女は前方で立ち止まっている。
 
 女の行く先を塞ぐ黄色と黒に塗られたバリケード。その前に白い看板が立ち、赤い文字で『工事中につき通行止』と書いてある。女は作業員の男に何か話しかけている。だが、作業員の男は、女を追い払うような手の振り方で応え、相手にせず身体を翻そうとしている。
 若く痩せた男は思う、万事休す、と。と同時に、やっと立ち止まって休める安堵、女を気の毒に思う気持ち、そしてきちんとした正当な終わりにたどり着けなかった不満足なもどかしさなどを感じた。
 
 女は両膝に両手を置き、身体をくの字に曲げたまま次の行動を起こさない。眉をハの字に落としたびしょ濡れの顔が、近づく若く痩せた男にもだんだんとはっきり見えてくる。
 工事現場に目を移すと、迂回路を示す看板があった。女は前方へ曲げていた背を起こし、工事現場の先にある建物をうらめしそうに眺めた。建物は『聖ジャンヌ病院産婦人科』。
 男は、女がこれだけ走り抜いてきたのだから、彼女自身が妊娠しているわけではないだろうことはわかった。女のそばまで歩み寄るかたちで、男も立ち止まる。迂回路はいま走ってきた道を引き返しもするし、かなり遠回りになるようだ。

「……姉が、あぶないんです」
 さめざめと降る、ほとんど音もなくなった雨を背に、二人の間でその言葉はしばらく漂い続けた。
 
 荒い息を飲みこむようにしながら、男は作業員に声をかける。この方、あそこの病院に、用が、あるんですよ、お姉さんが危ないんだ、そうです、これって、重大な理由、でしょ、どうしても特別に、通してあげて、ほしいんですよ。
「だめだめ。そんなことしたら、規律違反になる」と作業員には取りつく島もない。男は作業員につかみかった。

 なにをする、と作業員は一瞬狼狽したが、冷静に考えてみるとこの男はひ弱そうだと判断できたので、作業員のほうからも男につかみかかり、道路上に男を組み伏せようと力をいれた。男はへなへなと屈しそうになりながら、女に、さあはやく、今のうちに、と通行止めの道を突っ切るよう促した。女は躊躇している。なんだなんだ、と別の作業員が二人、こちらへ歩いてくる。若く痩せた男は金切声をあげて、再度女を促した。
 
 女はひとつ、しっかりと頷くと、冷えきった身体を奮い立たせ、震える脚をたたいてからバリケードを越えた。焦り出す二人の作業員たち。彼らは「おい、入るな!」とドスの効いた声色で警告を発すると、女を捕まえるために小走りになった。
 若く痩せた男は、だめか、これは、と呟く。自分も、女も、取り押さえられてしまう。天を仰ぎ、わあ、と叫んだ。

 三つの人影がバリケードを越えたのはその時だった。道端には、開いたままの三つの傘が、持ち手を上空に向けた格好で投げ捨ててある。
 
 三つの人影が女のそばまで走っていった。三人は女を一瞥すると、女の横をすり抜けて二人の作業員に通せんぼした。三人は学生服を着ている。彼らはたまたま居合わせた男子高校生たちだった。高校生のひとりは女に向かって、
「なんかさ、俺たち、味方になりたいと思って」と爽やかに微笑んだ。
 
 それを見た、若く痩せた男にしがみつかれている作業員が、男を振りきって女のいる方へ向かおうとする。そこへ今度は、ひとつの人影が通せんぼする。ショートカットの髪の女子高校生だった。
「お姉さんって、何故か助けたくなった。そういう雰囲気出してるんだもの」
 いつのまにか、歩道の上には、開いたまま捨てられた傘が四つになっていた。
 
 作業員が「邪魔するな!」と威嚇したので、女子高校生は気圧され、たじろいでしまったが、瞬時に気持ちを立て直すと強気に出て「私をはねのけていける?」と構えた。
 そこで、一度は振り切られた若く痩せた男が、作業員の足にしがみつき動けなくした。離せ、お前、なんなんだと作業員は歯がみする。若く痩せた男は、それから言葉になっていない言葉を大声で発したのだが、女子高校生にはその意図が伝わり、わかったよ、といって、女のもとへ駆けていった。

 女は足を引きずるように、工事現場を縦断しようとしている。駆けつけた女子高校生が女に笑顔を投げかけて肩を貸す。男子高校生たちはうまく周りをとり囲んで、作業員の足止めをしていた。女は力を出し尽くせるまで振り絞り、肩を借りながらくしゃくしゃな表情で歩いていく。それは泣いているのかもしれなかった。しかし、雨が化粧を全て洗い流し、顔をびしょびしょに濡らしているのだから判別がつかない。
 
 若く痩せた男に足を抱きつかれたままの作業員は、この状況にたまらなくなって「お前たち、警察を呼ぶぞ!警察だ!」と叫び声をあげた。
 すると、作業員たちにとっては好都合なことに、背後から偶然通りかかったミニパトカーがそこに停車した。中から警察官が落ちついた態度で降車し、こちらへと歩いてくる。

 しかし、女と女子高校生は、通行止めの区間を渡りきるところだった。二人は最後のバリケードをまたぐ。女は若く痩せた男のほうを振り向いた。ありがとう、と小さく言うのを、女子高校生は確かに聞いた。
 
 若く痩せた男は地べたにどたりとくずおれながら作業員にまだしがみついている。顔は泥だらけだ。近づいてきた警察官に何か言われると、作業員をつかんだ手を離した。また何か言われて、脚をわななかせながら立ちあがる。このまま、警察署へ連行されるのだろう、という小さな諦め。取り返しのつかないバカなことをしてしまったのかもしれない、という小さな悔い。
 それでも男は「よかったんだ」と心から大きく肯くことができたし、それとは別に、青いTシャツのゲンの良さだなとも喜び、満ち足りた気分にもなった。
 
 女子高校生に肩を借りたまま、女は産婦人科病院の敷地へと入っていく。男子高校生の三人も、男のそばに来て、素直に警察官に従った。その後、病院から女子高校生も出てきて、男と男子高校生の中に加わった。
 

 
 当たり前だが、こっぴどく叱られた。でも、警察署を出てくる彼らの表情は、ようやく止んだ長く激しい雨の後の空のように、澄んで明るかった。立派な虹のかかる空だった。
 
 お姉さんと赤ちゃんは無事だったろうか。若く痩せた男は、拭えない不安を持ち続けていた。
「虹はこの世とあの世をつなぐ橋とも言われてなかったかな」
 男は虹の美しさをよそに、隣に並んだ女子高校生にそう話しかけていた。死者が虹を伝ってあの世へ行くというどこかの地域の伝承を誰かから聞いたことがあったのだ。
「じゃ、赤ちゃんに魂が宿るための虹じゃない?」
 女子高校生は屈託なく微笑む。楽観的な未来を信じ切っている。でも男もそのとき、そうかと納得した。たぶんそうなんだ、いや、きっとそうなんだ。
 

 
 男は走る女に自分では思いもつかないような種類の希望を期待していたのかもしれなかった。どこに辿り着くのか、何が待っているのか、何を全うするのか、何をエネルギーとしているのか。それらを知ることを希望として、期待を抱いたのかもしれない。
 でも、最後まで見届けてみれば、走る女はごく個人的な理由で走っていたに過ぎなかった。その感情の強さには凄みがあったけれど、そこにあった原動力は自らの希望に沿う種類のものではなく、ある種の祈りや願いだったのだ。とはいえ、祈りや願いにそれほどの力があるなんて、初めて知ったことだったし、そこに真摯さの素晴らしさをも知った。
 そしてその真摯さを知った場所から見える景色は、これまでとはちょっと異なるものだった。今まで見てきたものを思い返すと、それらは色褪せて見えて、とてもつまらなかった。そんなつまらないものしか知らなかった自分は、きっと他人からもつまらなかっただろう。ああ、付きあっていたあの彼女は……。唇を固く結び直した表情でそう思う。
 
 女には雨が似合っていたと男は思った。本当によく似合っていたと。その走る背中を回想しながら、男はまた大きな虹を見上げた。
 
【了】
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『文鳥・夢十夜』

2020-03-15 22:54:39 | 読書。

読書。
『文鳥・夢十夜』 夏目漱石
を読んだ。

短編小説と随想のあいだくらいのものだったり、
日記調のものだったりする小さな作品を小品というそうですが、
夏目漱石のそんな小品を集めた本です。

もともと、昨年の三月に観たのですが、
Eテレ『100分de名著 夏目漱石スペシャル』にて扱われた『夢十夜』に、
理屈を超えたところで、なにか強く惹かれるものがあり、
これを目当てで本書を手に入れて、今回やっと、読んだのでした。
309ページの分量のなか『夢十夜』はたかだか30ページそこそこ。
読み終えてしまうと、
そのあとの200ページ超にまったく期待をしていなかったため、
すこし放っておいたくらいなのですが、
続きを読みだすとすごくおもしろい。
どんな小さな作品でも、夏目漱石をみくびるものではないな、と
恐れ入った次第です。

なんていうか、夏目漱石って人はエリートで文豪というイメージですから、
強い意志で文学をやり抜いた人で、明治ならではの頑固者でもあったのではないか、
なんて勝手に思ってしまうのですが、そうじゃないんですよね。
文学をやり抜いたことはすごいことですけども、
漱石自身もそうであるとしながら、
人間一般っていうものの柔弱な部分を見つめ、
愚かな部分を秘密にせず、露わにすることをよしとしている。
明治時代ならではだなあ、と現代人には受けとめられるような、
男尊女卑の浸透した生活の描写であっても、
出来うる限りのフラットさで女性を描いているふうであるので、
描かれている人間の差別意識だとか階級意識が透けて見えてくる。
「素直に、ストレートに」というような姿勢が
漱石のベースにはあるなあと読み受けました。

イギリス留学時のいっときについての小品もありますし、
猫(吾輩は猫であるのモデルですね)が死んだときの小品もあります。
その他、明治の頃の情緒、生活感などを感じることができます。

そんなところで驚くのが、
当時の思想や哲学に、現代に十分使えそうなものがあることでした。
漱石くらいのエリートですから、
洋書をたくさん読んでいます。
舶来品として、西洋で出版されてからそれほど長いタイムラグもなく
漱石たち文化人や学生たちは吸収していたのかもしれない。
……まあ、わかりませんが。

たとえば、こんなのがあります。
血を吐いて長く静養した43歳前後のころに書きとめた
『思い出す事など』という小品集での23章目にあたるところなんですが、
____

余は好意の干からびた社会に存在する自分を甚だぎこちなく感じた。
____

から始まっていく洞察であり思想であるところが、
僕にとっては非常に共感するものだったのです。
「義務」と「好意」についての話なんです。
____

人が自分に対して相応の義務を尽くしてくれるのは無論有難い。
けれども義務とは仕事に忠実なる意味で、
人間を相手に取った言葉でも何でもない。
従って義務の結果に浴する自分は、
有難いと思いながらも、
義務を果たした先方に向って、感謝の念を起し悪(にく)い
それが好意となると、
相手の所作が一挙一動悉く自分を目的にして働いてくるので、
活物(いきもの)の自分にその一挙一動が悉く応える。
其処に互を繋ぐ暖かい糸があって、
器械的な世を頼もしく思わせる。
電車に乗って一区を瞬く間に走るよりも、
人の脊に負われて浅瀬を越した方が情けが深い。

____

このあとにも続いていくのですが、
仕事でもなんでも義務でやっていたら干からびてくる、
半分でも好意が混じっていたらあたたかい、と漱石は言うんです。
僕もこの事について同じように考えていたことがあって、
それはモース『贈与論』を解説する本に触発されたものでした。
そのあたりは、本ブログの記事としてもいくつか残っています。

『贈与論』は漱石の死後8,9年後の出版ですし、
その後いつ邦訳されたかはわからないですが、
「干からびた社会」という気付きに繋がる時代の空気みたいなものが、
たぶん1900年前後の何十年間かに世界的にあったのかもしれない。
日本では平成の終わり頃から、
同時多発的にこれが再発生してきているように、僕には見受けられる。

僕はたとえばトレーサビリティにも人の温かみ、
つまりその人の体温や影を受け手が感じるようになればいいのに、
と考えていたのだけれど、
実はそれって比較的近い年代である近代からの温故知新的なのですね。
この、「人を想う」的生活って、
コモディティ化(一般化)したらいいのにと思っています。

なんでそんな「人を想う」ようなライフスタイルがいいの? と問われれば、
そのほうがみんな生きやすくなるから、と答えます。
「一般」だとか、「ふつう」だとか、そういった人たちの生きやすさ。
なので基本的に、
抜き身の刀を手に世界に出て「えいやぁ!」と戦うような人のための思想ではありません。

また、27章目でも、おもしろい思想が出てきます。
オイッケンという学者の説を紹介しながら、漱石なりの解説をするところです。
そこで扱われるのが、精神生活という言葉であり概念です。

_____

(略)オイッケンの所謂自由な精神生活とは、こんなものではなかろうか。
―――我々は普通衣食の為に働いている。衣食のための仕事は消極的である。
換言すると、自分の好悪選択を許さない強制的の苦しみを含んでいる。
そういう風に外から圧し付けられた仕事では精神生活とは名付けられない。
苟しくも精神的に生活しようと思うなら、
義務なき所に向かって自ら進む積極のものでなければならない。
束縛によらずして、己れ一個の意志で自由に営む生活でなければならない。


_____

これを漱石はこのあと、実際は、精神生活の割合は、6:4だとか7:3だとか、
そうやってみんな折り合いをつけているんじゃないのか、
と現実の所に着地させています。
先ほどと同じように、この思想に関しても、
僕は他律性、自律性という言葉から連想していろいろ思索し、
本ブログにもその形跡が多数、記事として残っていますし、
6:4だとか7:3のところは、
2000年くらいから流行った「自分探し」というものの
ひとつの形があるのではと考えていました。
つまり、自分探しとは、自分と社会の綱引きをやって、
「どうやら6:4のポジションが自分には一番ストレスがない」
と見つけることでもあったんじゃないか、というものです。
(そういう種類の自分探しもあったのでは、という話です。)

ともあれ、「いや~、漱石と同じことを考えていた」と驚くのですが、
僕の頭が明治のころの時代の思想にしっくりきているあたりがちょっと可笑しい……。
それも、僕の何年もかけた思索が、
この小品集『思い出す事など』のなかにすっぽりはいる程度だというのには
泣き笑いしてしまうなあという感じですね。
漱石はいろいろと作品を残したので、それらに点在しているならまだ好いですが、
ひとつところに収まっているのが、まあ、偶然の重なりみたいでもあって、
不思議な感じもします。

というように、
いつも通りですけども、
僕自身に寄せて読んで考えて、読後のその感想を書いてみました。
まだいろいろ感じる部分、考える部分はありましたが、
ちょっと絞って書いていくと、そこに頭が集中してしまって、
書かなかったことが雲のように散ってしまい残らないものです。

世間的にこの作品がどれくらいの評価なのかはわかりませんが、
僕にはとてもおもしろく、好きな作品でした。

 

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『乃木撮 VOL.01』

2020-03-11 20:45:48 | 読書。
読書。
『乃木撮 VOL.01』 乃木坂46
を眺めた。

人気アイドルグループ・乃木坂46のメンバーそれぞれがカメラを持ち、
楽屋や旅先などで撮影しあった写真から610枚を選抜して
一冊になった写真集です。そのVol.1(Vol.2も発売中で、実はもう持ってます)。
一冊まるごと乃木坂全メンバー。
2016年12月から2018年4月までの一年半の記録。
プラス、
なぜかその時期のヤギのゴンゾウ(与田祐希さんの実家のヤギの子)のショットも。

乃木坂46が大好きな僕ですから、
当然、全メンバーのお顔とお名前は一致して知っているばかりか、
それなりにテレビで見る分で把握した彼女たちそれぞれのキャラクターも
しっかり知っていまして、
そういう目線で本写真集の一枚一枚を眺めてみると楽しくて仕方がない。
楽しい写真、面白い写真があり、
かわいい写真、美しくて惚れ惚れする写真があります。
ホント好いなあ、って幸せな気持ちになってしまう。
そして、元気をもらえてしまう。
全メンバー、ほんとうに魅力的でしてね。

彼女たちにとって、
今送っている(卒業メンバーも多数いますが)アイドルとしての日常は、
きらきらしているだけじゃない部分も含めて「青春時代」なんだろうなあ、
って僕は見ているところがあります。

仲間と一緒にわちゃわちゃしながら、
彼女らを好きな人たちをはじめ、
彼女らをテレビなどでみかける人たちみんなを励ましてくれているような気がします。
つらいなあ、と思っている人が彼女たちの姿から頑張ろうとする意欲の種をもらう。
彼女たちの美しさやかわいさに惚れた人がその気持ちを活力に日々生きていく。
そして、彼女たちと同性の人たちが、
自分たちも彼女たちに負けないくらいに生きよう、と思いもするかもしれない。
あたたかな読後感と共に、そんな空想を浮かべてしまいました。

まあ、そんな堅苦しい感じのことは考えずに、
本写真集を見て、笑顔になったり、うっとりしたりするだけで、
ひとときの良い時間を過ごせます。

こういう写真の一枚一枚から、
たとえば、小説を書く人なら、
いつか書くであろう小説の、その欠片を手に入れられたりするでしょう。

小説といえば、齋藤飛鳥さんが読書中の写真が何枚かあるんですが、
すべてカバーがかかっていて、どんな作品を手に取っているのかわかりません。
そこがすごく気になりました。
そして、わが心の生田絵梨花さんの、
この写真集ならでは表情に、
知らなかった生田さんの違う面をちょっと知ることができたような気がして、
とても嬉しい、という。
でも、生田さんや飛鳥さんばかりじゃなくて、
メンバーみんな素敵ですもんね。
だから好きさ、乃木坂46。
本写真集はすばらしい企画でしたね。


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『カレーライスと日本人』

2020-03-03 12:56:15 | 読書。
読書。
『カレーライスと日本人』 森枝卓士
を読んだ。

「もはや日本食」といって誰もが納得するであろう、
インド発祥、イギリス経由で入ってきて、
それから日本化したカレーライスについての、
インドでのその様を探っていく段階から、
歴史や変遷をたどっていく、
非常に面白い本。
食いしん坊でカレー好き、さらに読書も好きな人ならば、
小躍りしてしまうこと請け合いの良書でした。
もともとは1989年に講談社現代新書から出た本で、
数年前に講談社学術文庫としてリイシューされました。

さまざまな興味深いトピックに溢れてます。
たとえば、明治五年のことですが、
天皇が肉を食べた、と宮内省(当時)が発表したそうなんですが、
それまでは日本人って、肉食が禁忌だったとのこと。
それでも山村部などでは今でいうジビエ肉が食べられていただろうと思われ、
さらにいえば、表ざたになってないまでも、
庶民の間でたまに食べられていたりもしただろうし、
どこかの藩で将軍に献上している記録もあるようでした。
タブーであって、全面禁止ではなかった。
また、鳥肉は食べていたようです。
さらに、ウサギを一羽二羽…と数えるのは、
獣としてカウントするとタブーにひかっかるからだそう。
そうやって心理面で操作して食べていたんですね。

で、明治の文明開化による洋食誕生、
つまり、西洋の調理法が日本に入ってきて、
日本化されていく過程で同時に日本の食文化も変わってくるんですけども、
肉食の解禁によって牛鍋が流行った。
ステーキくらいの牛肉を味噌だとか醤油だとか砂糖だとかと鍋で煮たみたいです。
夏目漱石の小説を読んでいても「牛鍋」なんてものが出てきますから、
牛丼の具のようなものかなあと想像していたのですがちょっと違っていますね。
で、それが文明開化の象徴だったのかもしれない。

そんななか、カレーがイギリス経由で伝来する。
イギリスでカレー粉が発明されていたので輸入して、
手軽に作れたんでしょう。
現存している最初の頃のレシピでは、カエルカレーがあります。
ほか、玉子カレーだの牡蠣カレーだの、
さまざまな食材でチャレンジしているところに、
明治の人たちの楽しんでいるさまが感じられる。
明治の後期になると、もうその段階で、
乾燥カレーなるものも商品化されている。
お湯を注いで混ぜればカレーになったそうで、
今でいうフリーズドライ製品的なものだったのかもしれませんね。

とまあ、そんな感じで、著者の視野は広く、
昭和にいたって、いわゆる原風景としての
じゃがいもと人参と玉ねぎと豚肉のカレー、
それも、肉はちょっぴりだけど…というものに辿り着いていく。

軍隊や寮の影響が大きかっただとか、
いわゆるルーカレー、つまりシチューカレーになる前の、
伝来初期の頃のソースカレー、つまり肉がメインでそのソースとしてのカレーも、
家庭的なカレーとは別の道を行き、
高級カレーとして生き残りましたし、
中村屋で生まれたインドカレーも、
現在まで広がりを見せて、さまざまな店が繁盛している。

最近では、札幌でスープカレーが定着しましたし、
大阪ではスパイスカレーが生まれて東京にも進出しているというし、
そういった種類のカレーだって受け入れられていることも、
日本人のカレー好きを再確認する事象だといえそうですよね。

本書ではカレーだけを扱っていても、実に奥深い。
思っていた以上に「食」という分野は相当の深さです。
本書は、エンタテイメントでもありながら、
歴史とそれぞれの時代の空気まで学べまでしておもしろいです。

小学生のころ『美味しんぼ』を読んでいて、
「食」の世界の広さと深さは感じていたんですが、
今回、それを再確認しました。

カレーライスは好物です。
ただ、僕は北海道在住ですからスープーカレーも比較的早い段階で食べてはいるんですが、
どうも合わなかった。
レトルトのマジックスパイスのスープカレーは、
人に教えてもらって食べて、これは美味しいと感じはしたんですが、
どちらかといえば、ルーカレーのほうが好き。
また、ほぼ日刊イトイ新聞で販売しているスパイス・『カレーの恩返し』という発明品は、
家のカレーが本格インドカレー化するのが楽しいし香りが良いしで
何度かまとめて注文したことがあります。
職場で数人に配ったこともあります。

そんな僕の住む街の名物がカレー蕎麦なのでした。
もともと炭鉱町で、
大量に汗をかいて坑内から出てきた炭鉱夫たちが、
おいしくて味が濃いものを食べたい、と
カレー蕎麦をよく食べていたみたい。
名店もありましたしね。
今ではもっと町に広まり、
内外にアピールして観光に一役かっていたりもします。
豚バラと玉ねぎのカレーがたっぷり蕎麦にかかっていますが、
美味しいんですよね。

というように、食欲のほうもそそられてしまい、
ダイエット期にはちょっぴり辛い読書でしたが、
脳内は満足の満腹状態。
おいしゅうございました。
本書のようなよい仕事を読書というかたちで享受できてうれしいです。


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『チェンジング・ブルー 気候変動の謎に迫る』

2020-03-01 15:13:46 | 読書。
読書。
『チェンジング・ブルー 気候変動の謎に迫る』 大河内直彦
を読んだ。

観測が出来得るまでの範囲で古気候の変遷を解き明かしていくことで、
地球の気候システムのメカニズムに迫ることができる。

ここ100年くらいの間で、
気候の科学分野で業績を積んできた数々の科学者たちのストーリーを辿りながら、
この本が書かれた2007年までで最先端の、
気候についての知見を知っていく内容になっています。
とてもおもしろく、かつ、学べます。
ここ一年くらいでもっともお薦めしたい本でした。

現在は完新世と呼ばれる、氷河期を抜けた温暖な間氷期です。
10万年周期で移り変わるという説があり、
ミランコビッチ・フォーシングという理論がもとになっている。
この理論は、地球の公転するわずかな歪み(離心率)、
自転が一定ではなく、首振りの軌道の元で動いていること(歳差運動)、
自転軸の傾きの変化、の三つを合わせて考えたことで導き出されたもので、
このミランコビッチ・フォーシングによって地球の気候は変化する、と唱えられました。

これはこれで気候変動の一部を解き明かしていますが、
さらに海洋深層流が気候をつくる大きなカギになっていると、
気候変動分野の科学者である著者は解説していきます。
北大西洋のあたりから始まる海洋深層流がなければ、
たとえばロンドンなどは年平均気温は10℃以上も下がっているはずだそう。
この海洋深層流は北大西洋で、
氷結などの理由で塩分濃度が濃くなった海水が深層に沈み込んで起こるのが
主な理由だそうです。
深層流によって表層の海流も変わり、
理論上はもっと寒冷なはずの地球環境を温暖にしている。

本書では、その他に二酸化炭素の濃度についても触れていますし、
最後の部分で短くではありますが、
昨今の地球温暖化について、気候学者が何を恐れているか
についても端的に述べていて、
本書をそこまで読んできた者であれば、
非常に腑に落ちます。

また、本書の大部分にあたりますが、
多くページを割かれているのは、
科学者たちの技術を革新したさまや、
調査がどのようなものかといったところです。
海底堆積物や、氷の掘削(アイスコアの発掘)で古気候を分析しているのですが、
その詳しいやり方やそれで解析できる論理を丁寧に、
そして読者を飽きさせないおもしろさで説明してくれています。

まるごと読んでみて、
もともと地球温暖化に興味があった僕ですから、
では今後、気候はどうなるのだ!? と結論を持ちたくなってくる。
僕がどのくらい昔から環境問題に興味を持ったかというと、
緑色のドラえもん(グリーン・ドラえもん)のカード型バッチを胸につけて、
地球を大切にしなきゃ! と同級生に地球の危機を説いていた
小学4年生頃に遡ることになるくらいです。
たしか、先生から、今度、温暖化に関する世界的機関ができるから、
となだめられたのですが、それがたぶんIPCCなんです。

それで、今回この本を読んでみて、
このまま温暖化していって、気象予報番組がだす100年後の予想気温が現実になるのか、
それとも、一部でささやかれている寒冷化が実現するのか、
もしくは、今までの気候の常識に当てはまらない未知の気候に移るのか、
いろいろ考えてみました。
一番シンプルというか、安易な推測は、
南極やグリーンランドの氷床が融解するまで温暖化して、
その後、融解水を取りこんだ北大西洋の深層流に変化が生じて、
寒冷化がはじまる、といったものです。
この場合、寒冷化するまでに海面上昇が避けられないので、
危惧されているように、沿岸の大都市や海抜の低い国では大きな被害がでそうです。
ただやっぱり気候は複雑なものですし、
大体、ここまで人間活動という
非自然的な作用で二酸化炭素濃度があがってしまっていますから、
これまでの気候サイクルのルールにそった変化ってするのかなあと疑問符が浮かびます。
それに、北大西洋に融水が流入していって
海洋深層水が変化する都合で寒冷化するはずのところで
温暖化した時代が実際にあったそうで、
それは理由がわかっていない。

こういうことからして、
気候が暴走してしまう段階に到達するのを助長するような真似を
人類はしないほうが賢明なのは明らかなんですよねえ。
気候がおかしくなるかな? ならないかな? 
とロシアン・ルーレットで遊んでいると喩えている科学者がいるんですが、
まったく、遊んでどうする、と思います。
これも経済活動、という名の、
人間の欲望に突き動かされているところが大きいのでしょう。

もう、高校の教科書にしてほしいくらい良書。
みんな読んでみて! っていいたいです。
★評価は満点です。


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