Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

『フラニーとズーイ』

2015-11-30 22:55:31 | 読書。
読書。
『フラニーとズーイ』 J.D.サリンジャー 村上春樹 訳
を読んだ。

妹・フラニーの章と兄・ズーイの章からなる、
訳者・村上春樹さんいわく「議論小説」でしたが、たいへん揺さぶられて面白かったです。
最初、フラニーの章を54ページまで読んだときには、
彼女の精神危機ぶりが読み手にまで伝染する力を持っているくらい、
巧みな心理を突いていて、
こういった純粋さのようなものを求めるタイプの人に肉薄しているというか、
フィクションだとわかっていても、
まるでそのもののような真実を描き出しているように読み受けられた。
したがって、強い嫌悪感すら感じたのです。
若い時の傷口を開かされたみたいな感覚ですよ。
フラニーの心理を読むにつけ、あかんあかん、
そっちサイドに引っ張られるもんじゃないんだよ・・・って思いました。
言うなれば、フラニーのような精神状態は、
社会生活を送れなくなる精神状態です。
よくもまあ、サリンジャーはそれを描き出したものです。

ぼくはそこで邪推した。
これはサリンジャー自身の精神の危機を写実的に書いただけの、
著者の呪いだ、堕落だ、というように。
むかし、『ライ麦畑でつかまえて』を読んだこともあって、
あの危なさを思い出し、サリンジャーを心底から共感してしまう人は、
社会的生活は送れないとまで言いきる気持ちになりました。
ジョニー・デップなんか『ライ麦畑』が大好きだけど、
あれを大好きだということで自分のポジショニングをしているような感じがしてしまう。
エゴ的っていうか、そういう意味合いに、それこそフラニーの章をよむとなお一層。

しかしですね、
サリンジャーはちゃんとわかっていて書いていた。
そんなフラニー的精神状態などはそれをほんの一部のものだとして内に宿している、
大きな大きな包容力を持った人だったのでした!
最後まで読むとしっかりわかる。すごい。

ここからはネタバレ的になります。

フラニーの章では、人間はこうあるべき的な理想像が純粋すぎて、
愚かさだとか汚さだとかは「ありえない!」レベルに考えて
(というか、生理的に受け付けないものとして)描写しています。
さらに、主人公のフラニーは純粋で弱い立場にいてそこから考えて発言し、
マッチョさとは正反対の立場にいます。
そういう純粋さっていうのはきっと一度は強くあこがれる人っていると思うのですが、
そういうタイプの人がサリンジャーのこの毒にやられるような。
フラニーを批判すると、純粋さなんてものは絵空事のなかのものだということです。
自分の内部を純粋にしていこうとすると現実と齟齬をおこしますし、
綺麗ごと過ぎると思う。
そして、ズーイの章では、ぼくが考えたこれらのことと遠からじな議論が、
濃い宗教色の光を放ちながら展開されるのでした。

これはほんとうに最後のネタバレにつながるところなんですが、
「太ったおばさん」という言い方、なんて気のきいた言い方だろうと思いました。
イエスもそこらのみんなもみな、「太ったおばさん」なんです。
癌を抱えている、ね。
ぼくなんか、そういうことをシンプルにストレートに言っちゃうのが
考えの浅いバカみたいに思えちゃいますよ。
ひねりというか、それこそ表現力です。

サリンジャー、内容も文章の巧みさもすごかった。


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『調理場という戦場 「コート・ドール」斉須政雄の仕事論』

2015-11-28 22:43:43 | 読書。
読書。
『調理場という戦場 「コート・ドール」斉須政雄の仕事論』 斉須政雄
を読んだ。

10年以上前に『ほぼ日』でその一部が連載されていた、
オーナーシェフである斉須政雄さんの仕事論の本です。

職人さんのイメージによくあるような、
「不器用さ」というものも、斉須さんには感じました。
しかし、そういった不器用な生来の性分の範囲内にとどまり続ける人ではなくて、
消費者の身になって考える「商人」と、
生産者の側になって考える「職人」とのふたつの違う立場を
往復しながら仕事をされているという器用さも身につけられている。

そして、そこに至った経緯というか、そうなった経験というかが、
フランスに修行に出た時代を中心とした回想録によって明らかになる。
激しやすいところのある著者がなんとか適応しようとしているさまや、
うまくいかなかった中で学んだこと、見本となる人ならない人から学んだこと。
そうして培われた、机上の論理ではない肌感覚での知恵や知識を
ぞんぶんに本書では語ってくれている。
人によってはそこに共感を感じたり、
なんとなしに意識していたことが言葉になっているのを見つけたりすることでしょう。
ぼくにとっては、批判や叱咤と感じる言葉がけっこうありましたし、
著者の考え方のなかには、たとえばぼくの親父の持つ、
ぼくとは合わない考えと似たようなものもあり、
始終気持ちよく読める種類の本ではなかったです。

それでも、ぼくのいいところは、反対意見や対立意見も、
一応、身体の中にいれてみて、それからなじむかどうか見たり、
折衷案も作りだしたり、自分を変化させたり、
それらが無理ならはきだしはするけれど留保意見として、
あたまの片隅に取っておいたりするところなんです。

「ただただ仲良くしたいなんて思ってるヤツは、
みんなに体よく利用されて終わってしまいます」

「相手に不快感を与えることを怖がったり、
職場での付き合いがうまくいくことだけを願って
人との友好関係を壊せないような人は、結局何にも踏み込めない無能な人です」

こういった言葉がぼくにとっては突き刺さる言葉で、
「あいたたたた・・・」と呻いてしまいます。

こういう言葉・考えを知ると、
ぼくのあまちゃんな部分がほんとうにどっしりとわかるのです。
ぼくはよく言えば利他的ですが、シビアにみると、
無能でみなに利用されるタイプなんだろう。
ちゃんと自分の利益についても考えようと、
『GIVE&TAKE』という本を読んだ時にも思ったなあ。

利他的なところはちょっと直らないし、
それはほんとうに悪いというものじゃないと思うので、
そこにどう自分を大事にする行動や自助の行動を付与して、
利他でありながら自分もハッピーなWIN&WINにするかです。

仕事などで仲良くするのも大事だけれど、
第一義にしないことなのかもしれない・・・。

そういった本書の考えを知ったことで、
これからの生き方、それも働く姿勢に関して、
いろいろと試したり考えたりする足がかりができたような気がする。

奮起、反省など、よりよくなろうとする人にはうってつけの仕事論の本です。
語りを文章起こしにした本ですし、著者の語彙もなかなかのものなので、
おもしろく読めました。


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『犬が教えてくれたほんとうに大切なこと。』

2015-11-23 07:37:20 | 読書。
読書。
『犬が教えてくれたほんとうに大切なこと。』 シンシア・L・コープランド
を読んだ。

犬たちのほほえましかったり構図がしゃれていたりする写真と、
古今東西の名言や著者のエッセイや文句を組み合わせた本でした。

犬って、惜しみなく愛を注ぐ生きもので、
今この瞬間のことだけを考えて生きているような、
実に潔く、気持ちのいい動物ですよね。

うちは父親が動物を嫌うので、
クワガタとか金魚とかしか飼ったことがないです。
ちゃんとうんちやおしっこのしつけができるならば、
一度わんちゃんを飼ってみたいなあとたまに夢想したりもします。

断片的ですが、個人的な「ぼくと犬の思い出」というものもあります。
友だちの飼っていた犬、知らない家のよくほえる犬、
働いていたお店の入り口に顔をのぞかせた犬、
上司の知り合いの家でごはんをごちそうになったときに寄り添ってくれた犬、
などなどです。
思い出になるくらいなので、それぞれにちょっとしたエピソードがあるのですが、
まあ、他愛のない話なので、ここでは披露しません。

そんな犬との思い出って、
たぶん、みなさんにもそれぞれ独特のものがあると思います。
そんな思い出に華を添えてくれるような本書かもしれないですね。

えーと、最後に。
ぼくがよく一緒にあそぶいとこは、
何度か犬に噛まれているのですが、
そういう体質というか、
犬の警戒心にひっかかるタイプの人っているんですよねえ。
犬に対して心の底ではおどおどしちゃうのかな、
ぼくも犬にはいろいろあるなと思うのですが、
たいてい、ムツゴロウさん方式で、
「よーしよしよし!」とフレンドリーに構えて
ぐしゃぐしゃに撫でてやります。
だいたいうまくいきますよ。


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『魔女狩り』

2015-11-22 22:09:28 | 読書。
読書。
『魔女狩り』 森島恒雄
を読んだ。

中世の、それもルネサンス期のヨーロッパを中心にして起こった
「魔女狩り」について、その内容や背景について書いた本です。

まず、魔女狩りの前段階として、
キリスト教異端者の撲滅のための審問というのがあったそうだけれど、
それが1人の異端者を滅ぼすためならば、
1000人の無実を犠牲にすることをいとわない、という姿勢だったんだそうです。

当時の異端っていったって、
邪悪な感じの悪魔崇拝とかではなくて(もちろん、そういうのもあったかもしれないが)、
カトリックの堕落を嘆いて聖書原理主義になっていった人たちだったりする。
原理主義といえばテロを思い浮かべる人もいるけれど、
もともと原理主義といっても暴力的だと決定しているものではないですよね。

当時のカトリックは免罪符など、お金の力で清浄が買えるとし、
聖職の地位までお金次第というような体たらくなくせにプライドはやたら高くて、
聖職者の下位のものですら一国の王よりも地位は上だなんてやっていたようです。

そういう腐敗した土壌から魔女狩りが生まれていく。
王も聖職者も文化人も科学者も、
社会的に発言力のある人々のみんなといっていいほどの多くが魔女狩りに賛同して、
たくさんの残酷な火刑などによる死をもたらしたわけで。

魔女狩りの前段階に異端審問の制度がととのい、
さらにその前段階にはカトリックの異端を根絶やしにするためのアルビ十字軍が殺戮を行った。
ヨーロッパのこういった血なまぐさい歴史が
現代のヨーロッパ人の奥深さに繋がっているのかもしれない。

また、なにか、この魔女狩りへの過程から社会学的に教訓としうるものって多くあると思う。
権威ある教会や貴族たちがみな魔女狩りに同意するということ、
負の側にオーソリティがついて、それが正しいとされてしまうこと、
これは怖いことだ。

民主主義じゃなかったから魔女狩りだとか異端審問はおこったのだ、
という考えもありそう。
民主的な自由な気風の南フランスから、
自由な思想としてのアルビ派などの異端が出てきたように、
民主的な雰囲気自体がマイノリティだったから、
力で弾圧されたとも見れるかも。

しかし、そうやって民主主義がマジョリティになると、
魔女狩りなどは起こりにくくなるかというと、
アメリカではセイラムで大きな魔女狩りがあったりして。
じゃ、IT革命後の現代ではどうかというと、
炎上だの誰誰叩きだのがあって、
これは一種の軽い魔女狩りの様相を持っているように見える。

カトリック協会は、自分自身が腐っていってだめになっていったせいで、
異端を生んだりなどし、立場が危うくなったのに、
自分のせいには決してしないから、魔女狩りという悲劇を生んだと考えられもする。
自分は絶対に悪くないという立場。
魔女狩りの時代はそういう種類の輩がのさばるんだから、
社会の不公平っていうのは原理的にそういうものなのかな、なんて悲しく思えたりもする。

当時のカトリックをひとつの人格ととらえてると、
自省せよ、内省せよと言いたくなる。
自分の言動や行いを省みることのない人は、
かなり迷惑な人になると日ごろから考えています。
魔女狩りを例にとっても、それは言える。
けして自らの過失や間違いを認めない者は迷惑な者である。

以上から、きっと、ネットの炎上も誰誰叩きも、
それをやる人の多くは、なにか間違いやいたらない点があっても、
自分のせいにしないタイプの人なんじゃないかなあなんて考えたりもしました。

博識で良心的で慈悲深い人という評価をされた人が、
異端審問で1000人だとか焼き殺しているという、
この根本からねじくれてる感じ。
前提がおかしいからこうなるんじゃないのかな。

本書に二度も引用されている言葉ですが、
「人は宗教的信念によって行うときほど喜び勇んで、徹底的に悪を行うことはない」
(パスカル『パンセ』)
というのがありました。

中世ヨーロッパでの魔女狩りでなされる、
拷問の内容の残酷無比さやでっちあげられた罪状の内容の低度の低い汚さを、
本書で知るにつけ、怒りと怖さを同時に感じた。
この一時だけだろうけど、欧米人が嫌いになりましたよ。
まあ残酷だったり汚かったりっていうのは、中世の欧米人に限りはしないだろうけど。

著者ですら、こんなひどい拷問が本当にあったかどうか疑うといっているほどの、
苛烈な内容なんですよね。
よく言われるけれど、よくもまあ人を苦しめる想像力だけは人間って長け過ぎている。

魔女狩りが行われた約300年間で、
その犠牲者は30万人とも900万人とも言われているそうです。
すべて、でっちあげの罪状を自白として言わせられた無実の人たちです。
もう、この時代のキリスト教は、もっとも強い権力を握ってしまった、
カルト団体だとも言えるんじゃないか。

それにしても、拷問の内容の残虐さの説明は苛烈で、
そういうものがすごく苦手な人だと読み進めることができないでしょう。
また、どうして魔女裁判が終わったかについては、
自然消滅とあるだけで、まあ実際に教会の力が落ちて無くなったようなので、
人々が「これは間違っているからなんとかしよう!」と決意して
勝ちとったものではないようです。
そのあたりにもやもやは残ります。
なにせ、さきほども書きましたが、
軽めの魔女狩りみたいなことって今でもありますからね。
原発事故後の放射能にたいする反応のいろいろについてもそうです。

ぼくら人類は、こういう歴史の上に今あって、
立っているものなんだということを知ると、
きっと、自分や他人に対する捉え方、価値観って、
ちょっと変わってくると思います。

今回の読書は、人類の黒歴史をみてしまったな、という感覚でした。


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『見るまで死ねない! 世界の夜景夕景100』

2015-11-19 00:01:04 | 読書。
読書。
『見るまで死ねない! 世界の夜景夕景100』 小林克己
を読んだ。

短い説明文のついた、文庫サイズの夜景・夕景写真集。
世界三大夜景の函館、香港、ナポリも収録。
そればかりか、最近では新世界三大夜景なるものも選定されているとかで、
それもちゃんと収録しています。
しかし、世界三大夜景に日本の景色がおさめられているところ、
きっと日本人が決めたんだろうなあと思わせられたり。
たしかに、函館の夜景は素晴らしいし、
新世界三大夜景のひとつ、長崎も写真で見たらきれいでしたが、
やはり自画自賛感はぬぐえない。

本書で初めて知ったのが、小笠原諸島などでみられるという、
グリーンフラッシュという現象です。
AKB48の歌の題名にありましたが、
ぼくは今日までなんのことかわかりませんでした。
それが、日没時に一瞬だけみられるグリーンの太陽のことだった。
WEB検索してみると、これを見ると幸せになれるという、
噂なのか伝説なのかもあるようなのがわかりました。
YouTubeにグリーンフラッシュの一瞬をおさめた動画があるので、
興味がある方は調べてみてください。

それにしたって、
こういう世界中の景色をおさめたものを一挙に眺めてみると、
世界って広いなーって、自分が井の中の蛙であることが
ひしひしと身に沁みます。
中国の山水画的や風景だとか、神仙な地形を見ると、
中国人の奥深さはこの風土や景観によって
その精神が形成されたのではないかと考えてしまう。
いやいや、そのくらい、風土・環境というものは、
そこに住まう人々に大きな影響を与えているものだと思うのですよ。

できることならば、もっと大きな版の写真集で、
それも、ブルーレイディスクなみのきめ細かさで撮られた映像を
見ることにつきるのでしょう。
もっといえば、現地に行けばいいんですが、
なかなかそこまでは…っていう人は多いでしょう。
でも、この文庫サイズでも、満足感は得られました。
きっと、風景の持つ力が、サイズという枠をはみ出して、
読み手に伝わるのかもしれないです。


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『ろまん燈籠』

2015-11-18 02:50:13 | 読書。
読書。
『ろまん燈籠』 太宰治
を読んだ。

頑強なのかひ弱なのか、
出鱈目なのか几帳面なのか、
チャラいんだか地に足が付いているんだか、
同時代に生きていないせいもあって、
そこのところはよくわからない作家・太宰治の短編集。

太宰の熱烈なファンがいたり、毛嫌いする人もいたり。
いまでいえば、タイプは違うけれども、
村上春樹さんの立場(それも流行作家としての)なのかな?

本書はやはり太宰らしくよみやすく、
そしてうまい文章ながらもどこか甘ったるさがあって、
そこらへんに好き嫌いがわかれるのだろうなあと思いました。

表題作の「ろまん燈籠」はなんと、あのラプンツェルの話。
どこまで太宰の創作で、どこまでが原作のままなのかはわかりません、
なにしろ、ラプンツェルの話はディズニーのアニメでしか知らないからです。
でも、太宰バージョンの、それも登場人物たちが物語を紡いでいくという
方式でのラプンツェルはなかなか面白かったです。
そのなかで、「どうも長兄は、真面目すぎて、
それゆえ空想力も甚だ貧弱のようである。物語の才能というものは、
出鱈目の狡猾な人間ほど豊富にもっているようだ。」
という文句がありました。
ぼくももうすこし、出鱈目になろうかなと思いもしました。

太宰治は出鱈目でありながらも、
要所要所でものごとの本質をあぶりだしてくるのがすごいところかもしれない。
出鱈目で狡猾な人間を自認していて、
良心というか本質を見る厳しい目ももっていたから、自死してしまったのかなあ。
そう分析してみましたが、岩井俊二さんの解説によると、
死ぬことに対するミーハー的な気質だったんじゃないかということで、
そういうやっぱり軽い面のある作家だったのかなあという印象を持ちました。
まあ、作家っていうのは誰しもがそうい軽さってあるとぼくは思っていますが。

もしも太宰ばかり連続して読んでみたら、
彼なりの文章の美しさや語彙が読み手にもある程度は身に付きそうですけれども、
やっぱりその甘ったるさみたいなのに辟易としてしまう可能性が高い。
ぼくにとっては、たまに楽しみで読むのがいいように思いました。
間隔を開けずに二度読みなんかすると、興ざめな文章のときもあるよね。
と、そんなことを言いつつも、おもしろく読みました。


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『起終点駅 ターミナル』(映画)

2015-11-16 14:09:33 | 映画
北海道は釧路が舞台の映画、
『起終点駅 ターミナル』を観てきました。

監督は篠原哲雄さん、主演は佐藤浩市さん、
ヒロインは本田翼さん。

北海道の地方の暮らしぶりに、
ウソっぽさや過剰な地方っぽさがないのがとくに良かった、
本田翼ちゃんや佐藤浩市さんみたいな
かわいかったりかっこよかったりする人なんかいるはずがないのを抜きにすれば。
とはいえ、あの俳優陣だからこそ美しい映画になってるわけです。

派手さとか奇抜な仕掛けだとかはなくて、あえていえば地味でも、
しっかり見ればしっかりお返しがあるような映画。
映画の内容がたいそうなことを言ってるわけじゃないけれど、
大事なことは語っている。

原作がそうなんだろうけど、
現実を大事にしている感覚でそして控えめのトーンでの物語になっていた。
伏線もすべて収束させていたし、それぞれの絡みもあって、
そういうところがプロの仕事だなあなんて思った次第です。

グッズ販売コーナーでは、もうスターウォーズ最新作のものが
たくさん売られていました。
久しぶりに映画館で映画を観たけれど、面白かった。

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『せいめいのはなし』

2015-11-12 02:52:19 | 読書。
読書。
『せいめいのはなし』 福岡伸一
を読んだ。

生物学者である福岡伸一さんによる対談集。
内田樹さん、川上弘美さん、朝吹真理子さん、養老孟司さんら、
4氏がそのお相手で、そのゲストたちの著作を
ぼくはどの方のも読んだことがありました。
なので、とっつきやすさみたいなのはったかもしれない。
それでも、第一章の内田樹さんとの対談では、
なかなか専門的で、知識がないとういていけないような
言葉が多々でてきていました。
でも、不思議なことに、そんな水面際のあっぷあっぷ状態な読書こそが、
刺激的だったりもするのです。
まあ、ものによっては水面にすら顔を出せない読書もあるんですけどね、
難しすぎて・・・。

福岡さんの唱える生物学の考え方の中心に、
「動的平衡」というのがあって、
それは、一言で言うのはむずかしいのですが、
本書の裏表紙の文言を拝借すると、
「絶え間なく入れ替わりながら、常にバランスがとれているという生物のダイナミズム」
ということになります。
たとえば、生物の細胞は、食べたものの原子が、
あるものは脳に入り、胃の細胞になり、肝臓の細胞になり・・・、
というようにまばらに入れ替わり、それが半年もするとすべての細胞が入れ替わっていたりする。
なのに、ぼくらは別人にはならないし、
記憶がすべてなくなったりも顔がまるで違うようになったりもしない。
それは、前後左右上下の細胞が、あたらしく入れ替わってきた新入りの細胞に対して、
「きみが入ってきたところはこうこうこういう役割でね」という情報をやりとりし、
それにともなって、新入りの細胞がまるで空気を読むかのように、
元にいた細胞と同じ役割をするものになるからだそうです。
それで、そういうのを「動的平衡」と言っていました。

その「動的平衡」を拡張して経済や社会に合わせて考えてみたりもしていますが、
そのへんは著者自身も言っている通り、
簡単にあてはめていいものか、との批判もあることでしょう。

小説家である川上さんや朝吹さんとは、
小説や言葉についての話がありましたし、
養老さんとは一層深い、意識や言葉についての話がありました。
そのなかでも、タモリさんを考察した養老さんの話はおもしろかったです。

最後の5章目は著者によるあとがきに似た「まとめ」的な文章でした。

気をつけたいことがひとつあって、
それは時間に関する考え方で、
生物学者である著者の福岡さんは、時間なんていうものは実存しないもので、
たとえば便宜的な尺度のようにとらえているふしがあります。
でも、科学雑誌の『ニュートン』などを読んでいると、
時間というものは実際に存在していて、それは空間と関係があったりするんですよね、
「時空」といっしょくたにして言われる通りに。
ぼくも勉強が足りていないので、詳しくここでは説明できませんが、
たぶん、宇宙論だとか最新の物理学だとかでは、
時間というものは実存するものだとされていると思います。
このあたりこそ、WEB検索で調べてみるのも手ですね。

つまりは、すごくおもしろい発想と生物学的に裏打ちされた考え方で
意見を述べられている著者なのですが、
その範囲として「生物学的見地」というエクスキューズを、
はんなりとでも考えておきながら読むといいかもしれないです。
否定するわけじゃなく、全肯定するわけでもなく、
そういう留保をたまに持ちながら、
著者の言葉に耳を傾ける(実際は文字を目で受け止める)のがよいのでは、
と今回、感じました。

そうはいいつつ、対談はエキサイティングだし、ウイットに富んでいます。
ネット文化や情報社会についての考えには、
拍手を送りたい気持ちで「そのとおり!」と頷きながら読みました。
おもしろかったですね。


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『平和って何だろう 「軍隊を捨てた国」コスタリカから考える』

2015-11-08 23:42:11 | 読書。
読書。
『平和って何だろう 「軍隊を捨てた国」コスタリカから考える』 足立力也
を読んだ。

1948年だったかな?それくらいから軍隊がないという、
中米のコスタリカという国を考察しながら、
その彼らの思想をくみ出して、
最後には平和とはなんだろうかという問いに答える本。

中米で軍隊なしでやっていくのには、
どうやらパクス・アメリカーナに刃向かわず、それを受け入れた上で、
かつ、それをうまく使ってやるという老獪さと外交のうまさがあったみたいです。
そして、コスタリカは民主主義や人権に重きを置く国民性を持っていることも、
対アメリカ外交での強いポイントになったようです。
1980年代に永世中立国になる宣言をしたコスタリカをアメリカは無視したが、
ときのコスタリカ大統領は欧州を説き伏せて支持を集めて、
アメリカに再度迫り認めさせたとのこと。
パワーを持つ国をいかに使ってやるか、という感じ。
アメリカはなにせ、民主主義や人権などをかかげて、
それを強要していくような戦略で世界を制覇しようするので、
コスタリカが欧州からの支持を受けた上でアメリカに対して逆に、
「民主主義と人権のためだ」と迫ったのはけっこうなものだったのではないか。

日本もコスタリカの猿真似をしよう!というのではないし、
こういう形の平和の築き方っていうのも、
広いこの地球上にはあるのだ、というように読むといいのではないかと思いました。

また、あらゆる立場の人が、
圧力を感じずに思ったことが言えることが民主主義の前提だと、
本書に出てくるコスタリカの少女が言っている。
それでこそ、同じ目線での話し合いである「対話」ができる。
つまり、自由・公正・公平が保証されてできるのが「対話」というわけで。
これって日本じゃ希薄な価値観ではないでしょうか?
大切なことなんですけどね。

「民主主義」「人権」「環境」「自由」などを、
コスタリカの多くの人は、大事に思っているそうです。
たとえ、貧しくても。
そして、「そこそこがいいのだ」という価値観をもっていたりするようです。
そういう国民性の国って、なんだか未来は明るいような気がするのですが、
それはぼくだけの偏った想像ではないはずだと思うのですが、いかがでしょうか。


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『清純な大人』

2015-11-02 13:47:51 | 読書。
読書。
『清純な大人』 白石麻衣 篠山紀信
を読んだ。

乃木坂46のメンバー、白石麻衣ちゃんの写真集。

前にちらっと「乃木坂は水着にならない」という噂を
聴いたことがあるように思いましたが、
「まいやん」こと白石麻衣ちゃんの水着満載の写真集でした。

きれいでかわいいよねえ。
土曜深夜の競馬番組にも出ていて、
自身が名付け親になったキミノナハセンターという馬が勝利したときには、
涙を流していたのを見た。
そういうところ、清純さを失わないながらも、
アダルトな雰囲気をもっているから今作は『清純な大人』という
タイトルになったのかもしれない。

去年くらいのときに、
ぼくが乃木坂46で唯一顔と名前を知っていたのはこの白石さん。
目立つきれいさだし、たぶん乃木坂でも1,2の知名度なんじゃないのかな。
それでこの写真集が発売されてすぐにアマゾンで買ったのですが、
ずっと積読になっていたのは、送られてきたダンボールすら
開けていなかったからです。そういうダンボールは多いです。

まいやんと言えば、両手で胸からおなかのあたりを何度もさするしぐさですね。
YouTubeでみたけれど、なんであんなかわいい子があんな妙なしぐさを
するんだろうと不思議に面白かった。

DVD『推しどこ?』を見てたら、
19歳の時点でちゃんとかきあげを作れる料理の腕を持っていて、
こりゃちゃんとした娘かもと思った。
あのころのまいやんは、声やしゃべり方なんかそうだけれど、
今よりももっと清純な感じがします。
猫かぶってたのかもしれないけども。
まあ、テレビに出る年頃の女の子だから、緊張もしながら、
粗相をしないように自分を作るっていうのはあるだろう。

それはさておき、
本写真集は、まいやんのセクシーさも感じられる仕上がりでした。
もうね、なんども胸に目がいってしまいました・・・。


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