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Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

『黄金の壺』

2025-04-09 00:43:53 | 読書。
読書。
『黄金の壺』 ホフマン 神品芳夫 訳
を読んだ。

ドイツ・ロマン派の異才と呼ばれるホフマンによる初期の傑作。1814年の作品です。ホフマンの作品には怪奇幻想小説の要素があり、超現実的小説の要素もあって、後年前者はポーへ、後者はカフカへと連なっていく。そういった系譜にある作家だと解説にありました。

1974年の翻訳です。文字の小ささはしょうがないとしても、訳自体はとても読みやすかった。簡便で端的な言葉づかいによって小説世界がわかりやすく展開していきます。

怪奇幻想・超現実のシーンが、クライマックスのみならず序盤から繰り広げられます。なんといっても、主人公の大学生・アンゼルムスがはなから外を歩いているだけなのに、老婆がリンゴを路上販売しているお店につっこんでいきます。その弁償として財布ごと有り金すべて失うんですが、そういったポンコツなスタート切るところが作者の度胸と発想とユーモアだなあと思いました。

そんなアンゼルムスはその日、昇天祭だったので美しい女の子たちとわきあいあいの時間を夢想していました。なのに、財布ごとお金を失ったがため皆が集まる温泉地には行けなくなり、果たせなくなってしまいます。彼は、自分はいつもこうなんだ、と嘆きます。そしてこれまでの自分のポンコツぶりを振り返るんですが、これがなかなか可笑しい。こんなふうに、運が悪いキャラクターとして物語の出だしから読者に印象付けているのは、そういうキャラクターだからこそたどり着ける境地と理想郷がある、と最後には物語をもっていく狙いがあったみたいです。解説によると、速筆であるホフマンにしては珍しくこの中編に半年もかけた、とあります。初稿から第二稿へ、第三稿へ・・・と練っていったんでしょう。寓意を込め、多層的にテーマを織り込み、推敲を重ねていったのではないか、と推察します。

そして、嘆くアンゼルムにはすぐさま発狂の様相が見られてきます。川べりに立つにわとこの木に絡みついて上り下りしたりそのあたりを動き回ったりしていた三匹の金緑色の蛇たちの一匹に彼は魅入ってしまうのです。なんと瞬間的に、そのなかの青い目をした蛇・ゼルペンティーナに恋をしてしまいます。それから、わーわー騒ぐんですが、周囲を歩く一般人には指をさされ、気がおかしくなった、とささやかれる。このアンゼルムスのふるまいや混乱ぶりは、まったく精神病のスケッチさながらだと思いました。アンゼルムスはこのシーンの後のいくつものシーンでも、同じように妄想にとりつかれたような奇妙な行動をとるのですが、それを「はみ出し者」「排除すべき者」というような一般的な反応を超えて、詩的な世界に足を踏み入れた男、というように物語は彼をやさしく温かく抱きくるむように展開していきます。妄想をファンタジーへと昇華させているんですね。

その後、火の精霊と魔女との対決にアンゼルムスや彼に恋するヴェロニカ嬢たちが巻き込まれていきますが、エンタメ的要素にもなっていておもしろい。また、物語のテーマとしては愛が中心に据えられています。

本作品で設定されている対立軸というのは、おそらく次のようなものです。「人間性」というスタート地点から誰しもが出発して、多くの人は出世や金銭を求めて躍起になる「社会性」のステージに入っていきます。それが通常の道であり一般的な道であるのは、この物語の当時の世界とて現代世界とて同じでしょう。作者は、人は「社会性」への道のほかに、「詩性」とでも呼ぶべき道も歩めるのだ、とこの物語で示していて、それがアンゼルムスや、彼を取り巻くファンタジーの住人が歩んでいる道なのだと考えることができます。つまり、「人間性」から出発した道は分岐していき、ひとつは「社会性」へ、もうひとつは「詩性」へと繋がっていく。そしてそれらが相容れず対立している。「社会性」の住人は「詩性」の住人を変人とするし、「詩性」の住人は「社会性」の世界では生きていけない。そういった対立軸があると読み受けました。

また、こういった古典を読むと、それもファンタジー要素のある話なのでなおさらなのですが、現代とはまったく違った異世界の物語のようにも感じられがちではないかと思われるのです。でも、立ち止まって考えてみると、この作品が発表された当時としてはこの物語は当時の現代物語であり、そんな当時の現代がファンタジックな異世界と繋がるあたりなんて、当時の読者にとってはかなりスリリングだったのではないか。翻訳を通してではあっても文体も登場人物も生きいきとしていますし、そういった意味では没入感の得られるつくりをした話です。読んでいてなんだか似ている感覚がなぜかしたのですが、僕としては、おそらく当時の人がホフマンを読んで得ていた感慨と、現代人が村上春樹さんを読んで得ている感慨が、同種にあるんじゃないかと思えてきたんです。村上春樹←カフカ←ホフマン、というように彼らの作風の一要素を系譜として遡っていくこともできますし。

まあ、古典として現代に残っているということはとても優れている作品であるというわけですから、そこにさっきも言ったような当時の現代性を加味した上で刊行された当時をイメージすると、読者たちが得た興奮は相当すごかったんじゃないか、と僕なんかはまるで関係ないのになぜかニマニマしてしまうのでした。






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『対話のことば オープンダイアローグに学ぶ問題解消のための対話の心得』

2025-04-02 23:38:16 | 読書。
読書。
『対話のことば オープンダイアローグに学ぶ問題解消のための対話の心得』 井庭崇 長井雅史
を読んだ。

オープンダイアローグという対話技法はフィンランドで生まれ、かの国ではまず統合失調症、うつ病、PTSD、家庭内暴力など精神疾患の治療で用いられ成果を上げてきました。日本には2010年代に紹介され、精神科医である斎藤環さんが書かれた書籍もあります。

本書はそんなオープンダイアローグを他の問題への応用が効く技術として広くとらえます。つまり、心理療法のみならず、家族、職場、友人などの人間関係のこじれすべてに適用可能なものとしているのでした。そういった前提の上、パターンランゲージという技法で分節された抽象性の高い30個のパーツをひとつずつ学んでいくかたちをとっています。また、30個のパーツは3つのグループごと10の集まりを作っていますし、さらにもうひとつ上のカテゴリが形成されもしていて、一つひとつの技法の方向性がわかりやすくなっています。文章自体も簡潔ですし、分量も少なくわかりやすかったです。

この対話のやり方としては、オープンダイアローグを行わなければならない問題を抱えた人がいるわけですから、もちろんその当人と家族の参加が必要になります。そして外部からは、親密な友人や親せきが参加してもよいでしょうし、ソーシャルワーカーや支援団体の職員、看護師や保健師などが入ってもよいと思います。肝心なのは、何度も行われる対話につねに参加できることと、途中でメンバーが入れ替わらないようにすることです。場所は当人の家など、リラックスできる部屋を選び、参加者はぐるりと車座になって(中心をつくらず、みなが公平なポジションをとるためです)、始められる。

問題を抱えた当人が話をすることがなければ問題がなにかすらわかりませんが、話をしにくいかもしれない当人が話しやすい場をつくり、耳を傾ける姿勢を正しくとります。そして、ひとりだけが話すのではなく参加した者たちすべてが話す機会を持つことになります。本書にある30個のパーツのなかには、そういった過程をこまかく区切っている部分もあります。対話の最後のほうでは混沌が訪れることにもなりますが、それを恐れず、さらには混沌を乗り越えるためそこからヒントを得るなどしながら、問題を包み込む大きな物語へ到達することが求められます。


それでは、引用をしながら。

__________

今後の方針や治療計画なども、専門家のみで決めることはせず、本人たちとともにミーティングの場で決めていきます。これは一見すると、よくあることのように思われるかもしれませんが、ミーティングの外では一切、治療スタッフだけの話し合いの場をもたないというのは、きわめてユニークな考え方だといえるでしょう。(p-xv)

全員での対話の外で、今後の方針などについて話したり決めたりすると、みんなで語り合った内容から飛躍が生じ、対話の流れや関係性が崩れてしまいます。(中略)しかし、対話の場以外で何かを話したり決定したりすると、それを受け入れられない人が出たり、距離が生じてしまいます。(p69)
__________

→これは対話の透明性のことだと、このあとに書いてあります。透明性のある対話がつづくことで、誰もが自分事としてとらえる気持ちが強くなります。そして自分もそこに参加して話をしているわけですから、主体性を持てるようになっていきます。さらに、この場にのみ大切なことがすべてある、という思いが生じて、信頼感も強まると解説されていました。まったくそうだと思います。僕個人の経験でも、いろいろな人をまじえて問題解決に向けた話し合い、それはオープンダイアローグに近いものでしたが、外部で決められてしまい面食らうという事態に見舞われたことがあります。話は飛躍していたり歪曲化されていたりで、当然受け入れられるものじゃない、というものでした。まあ、難しいものだし繊細なものですし、これをやったらどうなるか、というところまで完全にイメージしてやれるものでもないところがありますから、そういったみんなの未熟さを補う意味でも、このオープンダイアローグの手法は一度踏まえておくと(そして、オープンダイアローグという言葉だけでも覚えておいていつでも振り返れるようにしておくと)、話し合いつまり対話がうまくいきやすいのではないでしょうか。


__________

ひとりの人から話を聴いているだけだと、その人の視点からしか「問題」について捉えることができません。そもそも人間は物事を、本当の意味で「客観的に」見ることはできないものです。問題に直面している人はその問題に意識が惹きつけられているため、なおさら状況や経緯についての盲点が生じやすくなります。(p35)

「ポリフォニー的現実においては、誰の声が正しく誰の声が間違っているかを決めることはできない。<全ての声>が重要であり、新たな意味を生み出すことにかかわっているのだ。それらは等しく価値がある。」 ーーー セイックラ&アーンキル(p40)
__________

→なので、関係者それぞれの話を聴くことが大切になるんですね。そして、その視点をみなが共有する。多様な声を聴き共有することは、問題が解消したあともともに生きていける「未来への仲間」になるきっかけになる、というようなことも著者は述べています。


__________

落ち着いたあとに、そのときの体験や感覚について対話しようとしても、掘り下げて話すことが難しくなってしまいます。問題が生じているとき、とくに感情が不安定なときには、対話どころではないと考え、落ち着いてからにしようと思いがちです。しかし、一度落ち着いたあとに振り返って話すとなると、「せっかく落ち着いたので、思いだしたくない」と感じるかもしれません。また、そうやって先送りしていると、生々しい感情を思い起こすのが難しくなり、問題の解消ができなくなることがあります。(p57)
__________

→大変な心理状態な人に、「あなたはいま大変だと思う。でも、ほんとうに気の毒だしこんなことをさせるのは悪いとも思うのだけれど、それでもここで頑張らないといけないから、無理を言うようだけど言葉にして欲しい」と言わなければいけないし、大変な人はそこでぐっと歯をくいしばって言葉を紡いでいかないといけない。エネルギーを大量に使うことです。こういうところって一言でいうと、不条理ですよ。だけど、しょうがないんですよね。大変な状態の人ががんばることで、社会が新たな知見が得られるということも多いでしょう。話を聴く側の人は、話をしてくれる「大変な状態」の人の、恐怖や不安や怒りなどの感情の生々しさをもふくめて、受け止める努力をすることが大切になります。さらにはそれを否定せず、増幅させるようなことを言わず、しっかりそのままを受け止める。そのことで自分にかかってくる心理的な重い負担を甘んじる。



__________

「言葉には始めも未来もないし、対話のコンテキストは果てしがない(それは無限の過去と無限の未来へ入っていく)。過ぎ去った、つまり過去の時代の対話から生まれた意味というものも、決して固定した(最終的に完結し、終わってしまった)ものではない。それらはつねに来るべき未来の対話の展開のなかで変わっていく(更新する)。対話の展開のある時点では忘れ去られた意味たちの厖大な量があり、それが次の展開のある時点では、その進行の具合によって改めて思いだされ、(新しいコンテキストのなかで)更新された形で息を吹きかえす。絶対的な死というものはない。意味というものにはそれぞれ、その誕生の祝祭がある。大きな時間の問題。」 ーーーバフチン(p74)
__________

→言葉というのは、同じ言葉でも対話の中で変容してくものだし、ぱっとひとつの言葉を聞いても、人それぞれのなかで意味やニュアンスが異なっているため、想起されるものが違ったりします。過去に発された言葉は、過去に刻まれてしまってもうどうにも変わることの無いものではない、とバフチンはここで言っています。更新されていく、そしてそれは毎度、誕生であってその誕生には祝祭がくっついている。世の中はマインドゲームだっていう視点がありますが、気分の持ちようや考え方の変化で世の中ってまったく違うように見えてきます。悲しい世界に見えていたのに幸せな世界にがらっと変わって感じられるようになっただとか。たまに「遊園地って悲しい」という人がいますが、これも物事には感じ方の違いがあり、それを支える多義性があるということ。言葉もそういったことに、似たようなものなんじゃないか、とこの引用文を読んで気づかされました。



僕は、オープンダイアローグを技法としてとても優れているし自分も取り入れたいという気持ちでいます。さらにいうと、じっくり考えてやれば、けっこうできちゃうものだと思っています。僕が前に書いた会話劇の短編小説があるんですが、その会話の流れがこのオープンダイアローグの在り方とかなり近かった。日常からかけ離れていない技法なんですよね。尊厳を持つとか、誠実さとか、そういった姿勢で生きている瞬間は多くの人にあると思いますけれども、たぶん、そういった瞬間の人間の有りようから抽出した技法が、オープンダイアローグです。人を大切にする考え方や価値観を大事にしたい人にはうってつけの技法ではないでしょうか。ただ、人的なコストがかかりますし、効率、タイパ、コスパ、そういったものばかりを優先しているとこの技法は成り立たないものなのかもしれないです。なんとか、そういった効率社会のありようとオープンダイアローグの思想の共存が効く世の中のデザインがないものでしょうか。






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『陰影礼讃・文章読本』

2025-03-31 00:16:31 | 読書。
読書。
『陰影礼讃・文章読本』 谷崎潤一郎
を読んだ。

昭和8年に書かれた名エッセイ『陰影礼讃』と、翌年に書かれた文章道を説く『文章読本』の二作品を合わせたもの。他に、『厠のいろいろ』他二篇を収録。

『陰影礼讃』は、当時の西洋化していく居住環境への違和感からはじまって、自然すたれていく和の美的感覚「陰影」をその手の中に取り戻すように言語化し認知し直すエッセイでした。

電灯の明かりでぱあっと隅々まであたりを照らし出すのではなくて、燭台の灯などがぼうっと明かりを作り、部屋の中に闇のグラデーションのあるのが日本家屋の有りようです。僕にも相当うっすらと、そういった昔の暗い家の記憶があります。50年近く前に住まわれていた田舎の家というものにはそういった陰影は当然のものではなかったでしょうか。

現代でも、「陰影」の美が好きな人は、部屋の中で間接照明を使います。カフェなど飲食店でもそういうところは多いですよね。「陰影」がいいんだ、とは言いません、「ムードがあっていい」なんて言い方をされるのが一般的かもしれない。

今回、このエッセイからもっとも学びがあったのは金についてのところでした。和の工芸品、漆器などに金を使ったのは、それが闇に浮かび上がる工合や、暗闇の中で燈火を反射する加減を考慮したものだと思われる、と書いてある。金を使うなんて昔の人は趣味が悪いと思うことがあったのだけど、それは木を見て森を見ないことだったようです。また、漆器自体の黒さも谷崎は褒めていますし、陶器のようにカチカチ音が鳴らないところもよいのだ、としている。

闇の支配の強い空間で、光を集めながら反射する金細工をあしらった屏風などがあるさまを想像すると、そこには金による反射がかえって闇を濃厚にしている絵が頭の中に浮かびます。その空気中の酸素を追いやってしまうような濃厚な闇と金の息苦しさをともなう印象は、ともすれば狂気を呼び覚ます危険な情調をつくり出すものがあるように感じられます。そこから考えると、陰影の美というものは、闇に隠されることの静寂や落ち着き、瞑想に誘い込む効果があるいっぽうで、精神を異界に誘う資質も感じられて、すなわち陰影は狂気と繋がっていると言えるところもあるのかもしれないです。

では引用をしていきます。

__________

が、美と云うものは常に生活の実際から発達するもので、暗い部屋に住むことを余儀なくされたわれわれの先祖は、いつしか陰影のうちに美を発見し、やがては美の目的に添うように陰影を利用するに至った。事実、日本座敷の美は全く陰影の濃淡に依って生まれているので、それ以外に何もない。西洋人が日本座敷を見てその簡素なのに驚き、ただ灰色の壁があるばかりで何の装飾もないと云う風に感じるのは、彼等としてはいかさま尤もであるけれども、それは陰影の謎を解しないからである。(p32)
__________

→陰影は、日本の自然環境に合わせて作られた日本家屋のなかに意図せず見いだされた美だということですね。ピンチをチャンスにするみたいなものに近い逆転の発想がそこにあったわけです。ただ、暗いのがいいのだ、といっても、暗がりに居続けると現実には緑内障になりやすい。年をとればとったなりに、そんな「美に殉ずる」ようにはあらず、割り切って生活するのがいいのではないか、と僕は思うほうです。「陰影」は楽しめるうちだけ楽しめばいいのではないですか。


__________

われわれ東洋人は何でもないところに陰影を生ぜしめて、美を想像するのである。(p47)
__________

→こういった東洋人ならではの感覚は、西洋人の間ではない感覚のものだから取るに足らないものだ、とするのではなく、彼等にはわからないものだけれど美としての価値がしっかりとあるもので、それは揺るぎない、とする姿勢が感じられます。世界の主人公は科学的な西洋人だとする傾向が、当時の西洋化していく時代のなかで、そしてそれまで西洋以外を植民地化していく強い力を持った西洋人への劣等感や憧れによって、もたらされていったような気がするのですが(それは現代にも少なからずそういう向きはあるでしょうが)、東洋人だってこういう豊かな感性があって、決して劣等な存在ではないのだ、とある意味西洋世界に踏みにじられた東洋人としての自尊心を再び立ち上がらせる意志のつまった言葉でもあるかなあと思いました。

__________

その他日用のあらゆる工芸品において、われわれの好む色が闇の堆積したものなら、彼等の好むのは太陽光線の重なり合った色である。銀器や陶器でも、われらは錆の生ずるのを愛するが、彼等はそう云うものを不潔であり、不衛生的であるとして、ピカピカに研き立てる。(p49)
__________

→西洋人は光を好み、闇を悪しきものとする。こういった感覚は現代の僕らでも、西洋の神話をモチーフとしたRPGなどのゲームでも感じられてきたことです。また、それによって、光を貴び闇を嫌うという心理が作られてきたかもしれない。これがそれ以前の日本ではどうだったか。たとえば仏教では、人間はどうしたって影をひきつれている存在だ、と説いていたりします。光が濃くなれば、影も濃くなりますし、光か影かの一方だけの存在ではないのが生きものだとしている。そういった感性、人間観と、この引用部分はつながるところがあるような気がしました。



次に『文章読本』。

これが目からウロコの連続でした。「なんだか、いちいちわかるよ、谷崎パイセン! 谷崎ニキ!」と言いたくなるほどです。

東洋的な寡言と簡潔による名文が志賀直哉の「城崎にて」を例に谷崎潤一郎が論じている箇所があります。対比されるのは、西洋的なおしゃべりの文章。とにかく克明に言い尽くさないと気がすまないのが西洋的な文章なんです。谷崎潤一郎が言うのは、言葉で言い尽くそうとして言い尽くせるものではないし、言葉という型にあてはめてしまうことには害悪があるということ。これを基本として踏まえたうえで、『文章読本』は書かれている(p243あたりがこの部分です)。そして、芸術的な文章と実用的な文章との区別はない、という態度でいます。

__________

文章の要は何かと云えば、自分の心の中にあること、自分の云いたいと思うことを、出来るだけその通りに、かつ明瞭に伝えることにあるのでありまして、手紙を書くにも小説を書くにも、別段、それ以外の書きようはありません。(中略)そうしてみれば、最も実用的なものが、最もすぐれた文章であります。(p129)
__________

→文章術の基本中の基本を、ベタなんだけどでもベタではないように認識させてくれるところでした。迷いが起きたときにここに立ち帰ることができるのだと思うと安心感があります。


他に「そうそう!」と思ったのが、文章の音楽的な要素、視覚的な要素。前者は、読んでみてリズムがあるかどうかで、これは天性の感覚で書かれるものだと谷崎は論じていました。後者は、漢字で書くかかなで開くか、送り仮名やルビはどうするか、など、文章をぱっと目で見た時の印象、心理を考えようということでした。そういったところは、まとまった文章を書くようになると気にするようになりますけれども、谷崎はしっかり書いてくれているなあとこれまた目からウロコです。

そして、テニヲハを略してしまうのは田舎者らしいというところには、はっとしました。東京人は下町言葉を使っていても略してはいないと谷崎は言っている。真にたしなみがある者ならば、テニヲハをちゃんと入れるのだとあります。なるほど、思い当たります。田舎者としての自分がずばり思い当たるのでした!

さまざまな大切なトピックがまだまだありましたけれども最後にこれを。文章術のひとつなのですが、文章に間隙を入れるというのがあります。隙間を埋めずに読み手に任せたほうがいい、と。これ、とっても大事だと僕も最近考えるようになりましたからここにシェアします。






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『ユリイカ 総特集*奈良美智の世界 2017 VOL.49-13』

2025-03-23 20:11:31 | 読書。
読書。
『ユリイカ 総特集*奈良美智の世界 2017 VOL.49-13』 青土社
を読んだ。

2017年刊行。ずっと本棚で寝ていました。

アーティスト・奈良美智さんの特集。作品のカラー写真はいわずもがな、奈良さんとの対談やインタビュー、寄稿、論評、そして奈良さん本人による紀行文や半生記まであります。全255ページたっぷり楽しめます。

奈良さんの絵の有名な特徴といえば、前髪が短くぱっつんで目つきのきつい小さな女の子がちょっと小生意気なポーズをとっているものがまず浮かびます。それでもってロックな感じがする。

美術畑の話を僕はまったく触れてきていないから面白さ満点でした。たとえばこういう話なんかもあります。古代ローマの博物学者・大プリニウスによると、絵画の起源とは恋人との別れを惜しんだ少女が壁に映った恋人の影をなぞった行為に始まるとされている。その歴史的信憑性より、肖像というものに愛する者の不在を嘆き、その代わりを求めて影をなぞる精神性が始点となっているのが興味深いところなのだと。採録された加藤磨珠枝さんの奈良美智展覧会での講演より。


では、引用をしていきます。


__________

古川日出男:でも、そういう危険がないと、物って作れないですよね。やっぱり僕も自分でM的な環境にいたいのは、やれないことをやろうとか、もう潰れるところに行こうとか、そうしないと何かが終わっちゃうような設定にしないと。

奈良美智:そうなんですよね。倒れるから立ち上がる。うまく言えないけど、立ち上がるということが自分の中ですごい大切で。

古川:立ってると倒れない、立ち上がれないってことですよね。

奈良:立ち上がるとき使う筋肉というのが、自分が一番好きな筋肉なんです。歩く筋肉よりより、立ち上がるときの筋肉。歩いているときもいろんなことを考えられるんだけど、それよりも立ち上がるときの一瞬の、頭の中では何も考えない状態。その何も考えない状態に入ってくるひらめきが自分が求めていることに近くて、考え続けて答えを出すよりも、本当の自分の考えというのは何もないとき、寝てるときの夢の中とか、ふとしたときにやってくるんじゃんないかな。年をとったから確実にそう思えるようになってきた。若いときは単なるひらめきでしかなくて、よく考えると、いや、これは俺の考えじゃないわ、とか。
でも、今ひらめくことは割と全部つながることなので、それが立ちあがるときに来ると「しめたな」と思うし、立ちあがるときにそれが落ちてこなかったら、もう一回転ぶ。転んだら来るかなとかさ。

古川:でも、その転ぼうという選択肢を持つのは、普通はなかなかできないですよね。自分が仕事してても、やっぱり転ばなくていい、寝てなくていいところに行きたいから、立ったら絶対もう二度と転びたくないとみんな思ってる。転ばされたら、もうやめようみたいな。(p61)
__________

→小説家である古川日出男さんとの対談部分より。転んで立ち上がるとき、落ちて這い上がるとき、そういったときの人間の、わーっと自身を奮い立たせる力であるとか、自分の全能力を立ちあがるために四苦八苦して使うことであるとか、そういったところにあるものが、創作するものに命を宿すようなところがあるんだと思うんですよ、僕も。転んで、立たなかったら終わりですから、もう尻に火がついているようなときもある。そういったときに「まだまだ!」と立ち上がろうとするときのエネルギーや頭をしっかりつかった工夫ってものが、やっぱり、人間がやるすごい仕事として出てくる感じはします。僕の場合だと、ギャンブルに負けたときにぐっと腹が据わりますね……。



__________

古川:これはやっぱり小説の書き方だと思います。俺がこの世界をつくってるんだと思って書いてる間はまだまだなんです。そのうち、本当にこの原稿の中に世界があって、俺がちゃんと書けてるかどうか、中の人たちに問いかけられてると思ったときに変わってきて、ばあっと書けるんです。その過程と全く同じです。

奈良:うん。だからね、トイレに行くときも「ごめん、ちょっとだけ留守にするね」になっちゃう、ほんとに。(p63)
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→小説世界自体から動き出すだとか、小説世界のほうから、ちゃんとやれよと作者に問いかけてくる段階。登場人物が勝手に動きだすのを書きとめるんだ、というのは小川洋子さんがおっしゃっていましたし、村田紗耶香さんも登場人物たちの世界は水槽の世界で、その水槽をじっと静かに眺めてそこで起こることを原稿に書きとめるというようなことをおっしゃっています。それはなんと、絵画の世界でもそうだった、という話の部分でした。



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作品集『深い深い水たまり』に収録された自作の詩「嵐の夜に」では、「あの懐かしいおもちゃの兵隊やぬいぐるみ達も、もはや彼らの夢を盗めないだろうか。」と語り、幼少の頃の夢を取り戻す縁となることを、「おもちゃの兵隊やぬいぐるみ」に期待している。(中略)「壁に貼られたポスターの中にいるヒーローたちや、棚に並んでいる時代遅れの人形たちだけが、僕と彼らの密接なやりとりを知っている」。「彼ら」とは即ち作品に描かれる者らのことであるが、その者らと作者である自分との「密接なやりとり」を唯一目撃し、理解する者として「壁に貼られたポスターの中にいるヒーローや、棚に並んでいる時代遅れの人形たち」が挙げられる。(p164)
__________

→学芸員の高橋しげみさんに論考からの引用です。子ども時代に、人形やぬいぐるみと、実際に言葉を発して会話したり、こころのなかだけでやりとりしたりするのは、それほど珍しいケースではないと思います。そこに他者を仮定してやりとりしたり、自分の一部分を投影したりすると思うのですが、そういった経験が自分の想像力ひいてはこころを豊かに耕すのかもしれません。奈良さんの作品がどうやってできあがったのかは、そういった幼少時のおもちゃとのこころの通い合いが関係していることのヒントの箇所だと思います。遠い過去、同じ世界を共有した同志だけが、奈良さんの創作の秘密を知っている。これ、実は音楽家の坂本龍一さんにも僕は感じるところがあります。初期の作品、「Self Portrait」「Parolibre」「マ・メール・ロワ」などの感傷的で美しい情感に満ちた楽曲群がそうです。坂本さんはひとりっ子。奈良さんは年の離れたお兄さんがいますが、ひとり遊びをする子だったそう。



__________

蔵屋美香:例えば、物語性とかエモーショナルなものに訴えるとかというタイプの作品は、美術の持つそうした側面を強く否定した六〇年代から七〇年代のコンセプチュアルな傾向のあと、反動のようにして八〇年代に世界的に出てきたものでした。その流れの中にデビュー当時の奈良さんもいたと思います。(中略)しかし一方で、やっぱり物語があまりに直接的に読者に作用し、下手をすると強烈に感情を操作するかも知れないという警戒感が、八〇年代の知識人にはあった気がします。(p179)
__________

→学芸員4名による座談会のなかでの発言からです。絵画にどこまで力があるか、やれるところまでやってみよう、というのはまずあると思うんです。それが、やれるところまでやってしまうと、「これはちょっと危ないぞ」というところに到達し始めたのかもしれない。「下手をすると強烈に感情を操作するかも知れないという警戒感」というのは、作品が鑑賞者を支配するということでしょう。または、世の中の空気や流行も支配してしまう力はありそうです。これって、小説の世界でも言われているのを読んだことがあります。強烈に感情を操作してしまうことは、受け手に危害を加えることに近いことなのかもしれない。そこまでのものを作れるかどうかというのはありますが、もしも作れてしまったらどうなる? 感受性の強い受け手がそんな作品に触れてしまったらどうなる? そこに悲劇が生まれないとも限らないですし、そうなれば作り手は罪を負うことになるのかもしれない。なんだか、難しいですね。 



__________

 思うに自分は、情操教育なんてお坊ちゃま世界からは遠くある。忘れがたい素晴らしい絵に出会ったとか、ある芸術家の話に心打たれたとかも、遠い世界だ。そして、作ることが楽しくてしかたなかったとか、誰かが上手くておったまげたとか、そのようなきっかけがあって今ここにいるわけでは断じてない。けれども、気がつけばずっと制作して生きているのだ。(中略)自分がこの道に進むきっかけが何かあったわけではなく、いろいろな事象が時代の中でフクザツに重なり絡まり合って自分を歩かせてきたのだ。自分にとって制作することは発表するためではない。結果としてそのような形になっているのは事実だけれども、自分が絵を描き続けるということは自分としてそこに在ることを照らしてくれる灯なのだ。そこに照らし出されている自分とは、決して絵を描くだけの自分ではない。(p254-255)
__________

→奈良さん自らのよる半生記より。流されていない人の書く中身だなと思いました。周囲の人たちや世間の空気に自分を捨てて合わせたり、「この場ではこの人たちにあわせてこう言ったほうがいいだろう」というような迎合を拒否している人の言葉ではないでしょうか。それは本音の部分であって、それが強くて芯があるということなんでしょう。ふつうの人たちにとっては、利己的なものや自己欺瞞とはまた違うのだけれど、ウソというものが人間関係の潤滑油になりもします。あまり尖った角を立てず、人を傷つけず、平穏のため、なごやかな雰囲気のため、ウソは活躍します。本音が正義とくっつくととても厄介で、排除や争いなどを生み出してしまいますが、アーティストが語る言葉が本音ばかりであることを考えると(本書座談会にある学芸員の話によると、アーティストは作品や作風についてあえて嘘もつくこともあるそうではあるんですけど)、そこに権力や支配力が生じたりしない場であれば、つまり、一個人として言っているだけなのであれば、本音に気兼ねしずぎることもないのだろうなあ、と思ったりもしました。まあ、本音によってケンカが起きることはかんたんに想像できますけれども、そのくらいのトラブルを避けていてはアーティストではいられないんでしょう。視点を変えて考えてみれば、作品を作るからこそ本音を言うようになるということも思い浮かびます。本音を言うということは、地に足をつけていることであって、そうでなければ流されてしまうからです。作品を作らなければ、あまり本音を語る必要はないかもしれません。と考えていってみても、それとて、本音が先か、作品が先かはわからないところです。もう少し考えてみないといけない。



さて、最後に、はじめにも触れましたが、代表的で独特の作風の女の子の作品群について思ったことを。バージョンAとバージョンBのふたつ考えました。少しだけ角度を変えて考えたものです。言い当てることは無理ですが、すこし近づきたいなという思いで考えています。

バージョンA:
奈良美智さんの絵って、本来は弱っているものというか、おとなになっていくにつれてほんとに弱っちくなっていくものを、さあさあという感じでバンドのボーカルに迎えてバックアップして、歌ってご覧っていってその子の自尊心とかアイデンティティとかを認めてあげることで素晴らしい歌声が響いた感じ。

バージョンB:
多くの人がオトナになっていく過程で、知らずに失っていくもの。弱らせてしまったうえにどこかの奥まった部屋へ流れのままに閉じ込めることになってしまい更にその部屋への道筋がわからなくなってしまったもの。死なせてしまったもの。死なせてしまったことそれ自体を思い出すことができるかもしれなかったそのよすがすらもはや無くしてしまったもの。そういったものたちを何故かコレクションできてしまったみたいな作品たちだとも、ちょっと変わった角度から言わせてもらえばそう言えるんじゃないかと思ったのでした(まあ、わざととってみた角からの見立てですけども)。そしてそれらは、生きている。影をなくしたみたいに、なにか根本的な欠落の気配を薄く秘めているふうでありながら。そのなにがしかの謎が、引きつけてくるものがある。もともと備わった、形状としてのというか、先天的な鋭さを持っているのだけれど、その暴力性の切っ先はたぶん暴力性を発揮するようになる事態に起因する日常の在りようなんかへカウンターとして目に見えるようになって発現したものでしょう。隠そうとすれば隠せるものだけれど、どうしてなのか、彼女たちは小さな鋭さを隠さない選択をした女の子たちなのではないだろうか。彼女たちにしてみればきっと紙一重だったに違いない、隠さないというひとつの選択が、その後のずうっとまでを決定したんだと、僕は思いました。まるで、花が、咲くのを自分で決めたみたいにして。花の開花は、自然にそうなるもののようでいて、実は花もひとつひとつが自らの意志で真剣に勝負したのちなんとか勝つことができて、えいやっ、と咲いているものなのかもしれないのだから。作品からの印象にフォーカスすればこのとおりなんだけれど、これらを作り上げた作家の内的機構を思うと、とても広大なものというか、濃いまま保つことを墨守してきたようななにかがあるような気がしてくるのでした。






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『教育格差』

2025-03-13 23:22:09 | 読書。
読書。
『教育格差』 松岡亮二
を読んだ。

裏の帯にこうあります----<「緩やかな身分社会」この国の実態。>

教育格差についてざっくり言うと以下のようになります。父が大卒の子は大学進学率が高い。そして大学進学率には地域格差・学校格差もしっかりある。父大卒と関係ある条件だけれども、経済的に恵まれて幼少時から習い事をしていると大学進学率が高い。親の、教育に対する肯定的意識の多寡も子の進学に影響するのでした。

個人的には、これらはでも、未就学時点ですでに薄く感じていましたよ。習い事したいなあって思う動機のなかにはこういうことを察している部分がありました、振り返ると。


教育システムは選別機能を持っている。社会自体もそれを望んでいる。たとえば商品に、信用に基づいた値札がついていなくて自分で価値判断しないといけなければ大半の人は困る。だから値札を付ける。同様に、人間にも学歴が値札の代わりとなり、社会が回りやすくなる。

これはわかるのだけど、それ以上に、そんな選抜機能で人間の何がわかるのだ、と僕は憤りを覚えてしまうんですよね。彼、彼女の何をわかるっていうんだ、僕のなにを知っているっていんだ、というようにです。学歴などは便宜的なものだということをもっと意識したほうがよくないですか。

人を、つかえる、だの、つかえない、だのと都合に合わせて選別するのも嫌なものだと感じるほうです。不景気が長く継続している点で、大半の日本人は使えない、と選別されておかしくないようなもんですよ。それなのに得手か不得手か、優秀か並か、速いか遅いかだとかで劣ってる方にやけに不寛容ですからねえ。

学歴獲得競争としてしか、基本的には小学校・中学校・高校の期間に意味はないというのが教育を本質的に見る態度だとしても、それを要求するのは社会や国家です。競争結果からの格差が次世代の「生まれの格差」となり定着していく。しかも格差は拡大しやすい。格差があれば差別も生まれる。……自由経済のシステムや価値観の産物の負の側面にこういうところがあります。

では、引用していきます。



__________

制度上、誰に対しても機会が開かれているということは、全員に同じ機会が現実的に付与されていることを意味しない。(中略)「制度上は可能」であるとか「誰にでも機会は開かれている」という言葉は「(可能なのだから後は)本人(の能力と努力)次第」というメッセージを含意するが、実際に「上昇」した個人の出身家庭は恵まれた階層に大きく偏っているのが現実である。(p70)
__________

→父が大卒かどうかなどの「生まれ」によって、個人の進学率が異なる傾向が顕著にでているのが日本の社会の現実なのでした(とはいえ、格差は他国と比べても同じようなものです)。父が大卒あるいは両親ともに大卒であるような高SES層(SES=社会経済的地位)の家庭で育つと、家庭単位での教育熱が低SES層とは違い、教育に対する信用は厚いし、大学進学への希望の度合いも違っています。これは子どもが未就学の時点でもうその差として現れてくる。幼稚園、習い事、そして家庭での親からの教育(高SES層は意図的教育、低SES層は放任的教育といった違いの傾向もある)によって、もうすでに学習能力に差がつきはじめる。
上記の引用部分は、義務教育の教科書検定や学習指導要領などが全国で統一されていること、受験資格に生まれや男女の差別はないことなどから、誰でも這い上がっていけるための教育、ひいては開かれた社会であるのだとしてしまうとそれは間違いだ、と述べているのでした。このほかに、地域格差があり、男女の格差があります。高校までくるとランクがあるので、そこでも格差が拡大していきます。



__________

ここでいう「質」とは人間としての価値ではない。あくまでも現行の学歴獲得競争と親和性があるかどうかだ。小学生であっても同級生の大半が「大学は(いつか)いくもの」と考えていれば、個人(親の)SESがどんなものでも、大学進学が集合的「規範」となり得る。これは「隠れた(潜在的)カリキュラム」(hidden curriculum)と解釈できる(p135)
__________

→非認知的ともいえる、学校からの子どもへの影響について述べている箇所ですね。子ども同士が影響し合うので、友達がどういった意識を持っているかがポイントになってきます。そしてそれは学校の校風などから影響を受けているものです。大学は行くものだ、と進学意欲をはっきりもっている子どものほうが、進学率は高いというデータが出ていて、であるならば、上記引用のような影響はポジティブに作用します。



__________

目に見える範囲の平均(「みんなと同じくらい」)で走っていても、その集団そのものが全体の中でトップ集団であったり、すでに平均からも引き離された集団であったりと大きく違うのだ。学力偏差値の意味合いもよくわかっていない中学生にとっては、学習行動や大学進学のような「規範」についても自治体や全国の中でどのような位置にいるかは考えたこともないだろう。中学生の目線で「世界」の大半を占める「みんな」に合わせているうちに進学校にたどり着く生徒もいれば、大学進学する生徒が珍しい高校に入学することになる生徒もいることになるのである(p191-192)
__________

→学校によって、地域によって全然違うんだっていうことですよね。「どのような位置にいるかは考えたこともないだろう」なんて書かれていますけれども、僕の育った田舎では、学校のレベルが大したものではないので、もう少し大きな都市の学校へ転校したり、高校進学のときに地元を離れたりするべきだ、という考え方が一般的でした。僕も中1の家庭訪問のときから高校は地元を離れてはどうか、と勧められました(ただ僕の場合はそれが、そのころ暗雲の立ち込めてきた家庭環境にさらに風を吹かせることになったんですよねえ、まあ、それはいいとして)。



__________

日本では、SES下位16%で学力上位16%(偏差値60以上)となる割合は6%と低いが、学年人口が約120万人なので、実数としては1.2万人前後いることになる。「誰にでも機会は開かれている」という主張を裏付けようと、意図的に多くの「低SESで高学歴の生徒」を実例として集めることは難しくない。無論、数多くの珍しい実例をかき集めたところで、代表性のあるデータが示す傾向の反証にはならない。(p250)
__________

→低SESの学生は不利なのに、まるで機会は平等であるかのように見せることは簡単にできるということですね。情報操作できてしまうし、みんなも信じてしまいがちかもしれません。



__________

「みんな」が学習指導要領準拠の教科書で学び、似たような桜並木と入学式、同じような種目の運動会、合唱や証書の授与を含む卒業式という演出があれば、機会が「等しく」与えられたという幻想を事実として認識する人が増えても不思議ではない。「平等な機会」が付与されているのであれば、最終学歴・職業・収入・健康などあらゆる社会的に構成される「結果」は個人の責任となり、社会福祉政策は「能力」の低い「弱者」に対する「お情け」となる。(p267)
__________

→「生まれ」による格差は、小学校でも縮まることなく、それどころか拡大していく傾向があります。また、地域格差、学校格差もあるなかで、しかしながら表面上はいっしょであるために不平等が見えてきません。だから、「自己責任」なんて言われてしまいやすいのですけれども、その「平等な機会」はまやかしであることをはっきりと言ってくれた箇所でした。



とというところですが、最後に。

ミクロにマクロに教育格差のメカニズムが解説されている。でも、どんなに教育格差を教育の分野で是正しようとがんばっても、社会から競争がなくなるわけじゃないし、であるならば「生まれ」の格差がなくなることもない。教育システムの枠内にさまざまな問題があり、いくつかの問題と紐づいていたりしているケースでも、すべてをしらみつぶしに解決したつもりでも、社会システムという外からの力でほぼそれらはうまくいかないと僕は思うのです。世界は自由競争経済(マネーゲーム)というメカニズムの上に乗っかっており、商売は競争に勝ってこそ大きな利益があがるので、その競争性は必然的に苛烈なものとなる。いちおう労働のルールは設けても、労働時間を長くして競争に勝とうとしたり、効率化を進めて競争に勝とうとしたり、ルールのぎりぎりのところやグレーのところで無理や無茶を課しながらよそよりもなんとか一歩、いや半歩でも出し抜こうとして目を血走らせていたりする。そういった競争社会が要求する教育のあり方なのだし、競争社会で生きる親たちが子どもたちをしつけ、環境をコントロールし、教育方針を作って歩ませることになっている。競争社会であることを肌にびしびし感じながら働いている高SES層の親ならば、子どもにそういった世界に出るための用意や教育をさせるだろうし、比較的末端の仕事についていることが多そうな低SES層の親ならば、世の中は世知辛いものだと思いはしているだろうけれども、比較的あまり競争社会の芯の部分を知らずに働いているので子どもの将来や育ちかたへのヴィジョンもゆるくなりがちかもしれない。そこにはまた、地域格差というものもあるのだけれど。

だから、教育を変えるには社会に大きな変化が起こることが条件なのだと思う。そうではない教育改革は、教育を根本から変えることはできない。つまり、格差は無くならないのではないか。悲観的な見方だけれど、僕にはそう思えました。

本書の主張では、子どもたちが「生まれ」に関係なくもっているのびしろを存分に伸ばせる教育が望まれ、その結果、進学率が伸びて社会にも「民度の向上」のようなかたちでポジティブな影響がでる、また、個人としても高学歴の方が収入が多いこともあり幸福感が高まる、というようなものだと読み受けました。しかし、やっぱり世界は自由競争の社会ですから、高学歴の者たちの間で格差が生じるだろうと思える。また、幸福感についても、学歴が高いほうがいい、という価値観が絶対的に正しいとする見方が本書では暗に貫かれているような気がしましたが、そうではない生き方でも生きていける社会のほうが豊かだとも考えられます。

本書には、以前行われたゆとり教育の失敗した部分ばかりを述べて、これは失策だったとするところがあります。高SES層の子どもたちが私立に流れて「生まれ」の教育格差が広がった、だとか、低SES層の子どものなかには、学歴競争から自ら降りた者がでてきた、などがそれです。でも、新たな発想や価値観を持つ世代が生まれる土壌として機能する可能性のある教育方法だったのではないかと思えるし、おおらかに自分のやりたいことをみつけて邁進するにもいい教育方法だったのではないか、とも思えるところがあるのです。

たとえば、ゆとり教育をやるならばその前提として、まず自律を促すことは徹底してやって、その上でゆとりをする、など、改善策は考えられると思います。私立に流れて教育格差が広がる、などを調整しようとしても、格差は無くならない。ならばいっそ、自分のやりたいことを見つけてその分野で一流になることで学歴一本軸の社会の価値観に大きな波紋を起こす、波紋どころか大波を呼ぶ、みたいな方向で考えたほうが格差ってなくなるのではないか。価値基準が一本軸だからよくないんですよ。勉強が出来た出来ないだけで考える人っていうのは、そういう世界しか知らないからです。そんな硬直した世界を攪拌するには、やっぱり、バージョンアップしたゆとり教育的なものって効果があるような気が僕にはしますね。ゆとりといいつつ、自分の目指す方向が定まれば、一心不乱にとりくめる体制が構えてあるといい。そういうのが理想です。つまり、三段構えで。「自律心を身につける→ゆとり→興味を持った方向に寝食を忘れるくらい取り組んでよいとする」はどうなんだろう。パッと出たようなアイデアですが。

教育だけをいじくるなんて、そこはもう袋小路でしょう。もっとダイナミックで、あえての密度の低さを活かす方策のほうがたぶんいいです。偶有性のある社会、つまりカオスを含んでいるからこそ、どのポジションにいたとしても、それぞれにそれぞれの希望の方向が見えるというのが望ましいです。






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『Quick Japan vol.175 齋藤飛鳥 詩を紡ぐ身体』

2025-03-11 23:10:16 | 読書。
雑誌を読書。
『Quick Japan vol.175 齋藤飛鳥 詩を紡ぐ身体』
を読んだ。

齋藤飛鳥さんの特集。ご自身へのインタビュー二本と、関係者10人へのインタビュー、そしてアート性のあるフォト、トータル90ページといった構成だった。

乃木坂46卒業公演から約1年半が経つころの企画。齋藤飛鳥さんは、今、何を考えているのか。使い古された言葉だけれど、彼女の「現在地」をフレームに収めようという努力の企画である。もちろん、フレームに収まりきるはずがないし、フレームに向けてさらけだすタイプでもない。

共感を抱くような考え方がしばしばでてくる。これはちょっとうれしい。でもそれは、僕が大好きな乃木坂46、そして気になり続けた齋藤飛鳥さんから、意識的にも無意識的にもさまざまな影響をたくさん受けた結果、僕のほうが似たということなのかもしれない。別々の者たちが、ふたを開けたらいろいろと偶然に似ていたというよりも、知らずに彼女たち乃木坂46の、そして齋藤飛鳥さんの考え方や感じ方へと僕のそれらが寄っていったのだろう。

齋藤飛鳥さんは、「乃木坂46の齋藤飛鳥」にしても、乃木坂46卒業後の「芸能人、齋藤飛鳥」にしても、それらを小説のように書き続けているのかもしれない。秘密に手に入れた魔法のペンで書いているので、書いたことが実現する。そういうペンで書かれた小説なのかもしれない。いったいいつから、そういう形の「作家」になっていたのだろう。そのきっかけも知りたいし、どうやって書く才能を養っていたのかにも、渇いた興味が前のめりになる。誰にも気づかれないように、トライ&エラーを重ねて独自の作家性を構築していったのかもしれない。それもまた、彼女の謎の部分だ。さまざまな謎は、謎であると同時に僕らをとらえて引き寄せる。深い魅力は引力としての働きを持っていることを知ることになる。

齋藤飛鳥さんを好きならば、彼女に執着してはいけない。彼女との距離をまず探り、許される距離感を勘をふり絞って働かせて把握するのが彼女へのマナーであるような気がした。

__________

自分でもきれい事って思うようなことも、ここ数年でまっすぐ受け取れるようになったというか。「きれい事でもいいじゃん」と思えるようになりました。丸くなったと言われれば、それまでなんですけど。(中略)でも卒業した今は、生き方や仕事のひとつ取っても自分で選択するしかない。自分がどうなりたいかを考えないと生きていけない。だから今までよりも幸せについて考えるようになって、自分だけの豊かさを追求することが幸せな人生っていうわけじゃないよな、というところにたどり着いたのかもしれないです。(p32)
__________

→こういう地点に今はいるんですね。それは未来から振り返れば「通過点だった」と懐かしむようになることなのかもしれないし、あるいは「芽が出たばかりの頃」であってのちに葉を広く伸ばし鮮やかに花が開くことになるのかもしれないそのはじめの記録である可能性もあります。まあでも、とくにこういった記録に縛られることもないでしょうけれども、なんとなく、これは乃木坂でいたことが彼女の背中をつよくひと押ししたんじゃないだろうか、っていう想像もできてしまいました。「きれい事でもいいじゃん」がロックな時代ですよ、現代は。僕からいえば、こんな方を好きでいられるのはうれしいというか、誇らしさまで感じちゃったりで。最初の一歩、乃木坂のオーディションを受けてくれてそこからはじまったわけでして、もうね、ありがとう、ですよ。






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『こぼれ落ちて季節は』

2025-03-05 23:45:44 | 読書。
読書。
『こぼれ落ちて季節は』 加藤千恵
を読んだ。

いろいろな人たち、とくに学生など若い人たちが多くでてきます。本作は恋愛を扱う連作短編なのですが、そのなかで主人公を担っているひとたち、相手役の人たち、脇役の人たち、それぞれが、外向的だったり内向的だったり、興味の方向も恋愛観も、積極性の強い弱いも違うことがしっかり書き分けられている。ほんとうにいろいろな人が描けているので、小説世界が閉じていないです。だから、フィクションではあっても、誰かの(つまり著者の)独り舞台のような空想劇という感じは僕にはほとんど感じられなくて、好ましく、そして心地よく思えた作品でした、ときに屈折した心理を見せる人物がでてきてもです。読み心地の重さ、軽さといった重量感にしてみても、読み手として負担の少ないちょうどよい好感触でした。

最初の短編から、男女の関係のとき、女性側が「触れられてさまざまな境目がわからなくなっていく自分と、」(「友だちのふり」p16)と体感している最中の言語化と感性がいいなと思いました。普段は他人との間にしっかりした境界があるものですからねえ。そういったところに注目し意識するのか、と。

主人公がそれぞれの話にそれぞれの人たちがでてくる中で、脇役として別の話にまたがってでてくる者もいました。その脇役の男がある話の中で浮気をしていて、別の話で浮気がバレて修羅場を迎えているのですけど、おっかしくて仕方なかったです。だけど、ちょっと読み進めるとわかるのだけど、出合い頭でおっかしさを感じたりしたけれども、笑い話というわけではないんだよな、とすぐに身を正すことになりました。脇役の彼の人生もまた連作短編の物語のカギになっているんです。というか、身を正すなんて言い方をするとかしこまっているようでまたそれはそれで違って、個人的な笑いという逸脱から物語という本筋の道に戻って踏みしめて歩くように、つまりそのとおりを味わうように正対する感覚なのでした。まあ、それはそれとして。


では、引用をしながらになります。



__________

(略)ゆきは中学時代、イジメに遭っていたらしい。友だちとケンカしたのがきっかけらしい。きっと友だちが力のある子だったのだろう。
 腕力ということじゃなくて、力の差は絶対にある。わたしは幼いころからそれを意識していた。クラスの中で、誰が強く、誰が弱いのか。もしもトラブルが起きそうになったら、どう立ち回り、誰を味方につけるのが得なのか。
 わたしだって、いつもうまくやってきたわけじゃないけど、それほど大きな問題は起こしてこなかった。多分、ゆきはわからないのだろう。笑いたくなくても笑ったり、楽しそうに振る舞ったりしてみせることの重要さについて。(「逆さのハーミット」p87-88)
__________

→この短編の主人公である姉のあさひが、不登校になった妹のゆきについて述べている箇所です。ここを読んでみても、あさひが、うまく友人関係を乗り切る能力に優れているタイプなのがわかります。とくに大きな傷を負うことはなく、紙一重のケースはあったかもしれなくても危険をうまく回避して、学生時代を終えていくような人ではないか、と感じられました。
で、この引用部分ですが、僕には二重に身に染みてわかるんです。小学生から中学生の終わりくらいまでは、僕は「笑いたくなくても笑ったり、楽しそうに振る舞ったりしてみせ」られるほうでした、周囲に。かなりふざけたことやバカみたいなことを言ったりやったりして、友だちたちを笑わせることが好きだったのだけど、それは相手側からすると、気を遣って「いい反応」を見せてくれていたところはけっこうあったんだろうなあ、と今になるとわかってきます。で、中学の終わりころから、スクールカーストみたいなものが嫌になり、逸脱あるいは転落をするのですが、そうすると、それまでそんなに気を遣わなくてもよかった同学年たちの力関係が見えてくる。また、同学年のそれぞれが、力の強弱において僕をどう評価しているのかもわかってくる。
学生時代って、勉強に励む人には友人関係が二の次だったりする人もいますが、反対に、勉強が二の次で友人関係を楽しむことが第一の人も、たとえば僕の通ったような田舎の高校にはわんさかいるものです。勉強がよくわからなくても、後者のような子たちはすごく複雑なことをやっているんですよね。政治力とか、駆け引きとか、そういった試験とは関係のない能力が、日ごろから大なり小なり交差したりぶつかったりっしていて、勉強よりもそういったところが鍛えられていく人たちがいる。それは、社会に出てから、世渡りすること、先輩たちとのうまい付き合い方なんかに発揮されていくのでしょう。サバイバル能力につながるスキルとも言えますよね。
このあとの「向こう側で彼女は笑う」という短編の主人公である、別の高校生の女子もまた、この引用にあるように、笑いたくなくても笑ったり、ということで平静に過ごすことをよしとし、そこからはみださないか怯えてもいました。作家は学生たちの間に(実は、学生を卒業しても変わらなくて、あとのほうの社会人の短編でも似たようなことがでてくるのですが)厳然としてあるこういったひとつの有りようをぐうっと掴んでいて、巧みに言語化し、物語のなかで表現しているわけです。それは、暗黙の了解のような、良いか悪いかは別としても、この社会一般に根差す不文律であって、これを表現して突き付けたことは本連作短編でのストロングポイントにもなっていますし、作家の腕を見せたところだったとも言えるでしょう。



__________

(略)こんなにかっこよくて素敵な人に、彼女がいないはずはなかった。第一、彼女がいたとして、どれくらい問題だっていうんだろう? 多分昨日までのわたしだったら、そんなのはありえないって思っただろう。でも目の前、触れられる距離に彼がいて、温度や手触りを知ってしまっては、この状況こそが、それだけが、信じるべきものに感じられた。(「逆さのハーミット」p101)
__________

→音楽フェスのバイトスタッフとして働いたとき、現場で知り合った男の虜となり、彼の部屋で彼と寝た主人公。そのあと、男に付き合っている彼女がいることがわかるシーンです。彼と肉体関係を持ったことで、もう赤の他人ではなくなり、心理的な距離が特別なものへと変わったことがうまく描かれているなあと思いました。「この状況こそが」が、お見事なほどの鋭い感性ではないですか。ふつうでは踏み入れない状況。ふつうではそうはならない特別な状況。そういった二人だけの状況にいる自分と彼は、だからこそ、特別な深みにいるわけです。そして、その深みに至るまでに経た過程が証明する二人だけの実感があったからこそ、主人公のあさひは「信じるべきものに感じられた」んだろうなあと思えた次第でした。



__________

 大学生活を通して、わたしが身につけてきたように思っているものなんて、ちっとも価値のないものなのかもしれない。
(中略)
 東京を特別な場所だと思ううちに、自分までもが特別になっていくように錯覚していた。でも、地元にいたときと、今とで、わたしのどこが変ったっていうんだろう?(「波の中で」p223-224)
__________

→就活を振り返った主人公が、当時がくぜんとした思いを述べているところです。大学生なんて、「浮かれた存在」にどうしてもなってしまいますよね。いろいろやったようでいて、井の中の蛙だったのを思い知るというのは、ほとんどの人が社会に出て、あるいは社会に出る前の就活で感じることなのかもしれません。ただ、個人的なことを言うと、それを先に社会に出て会社や組織で十年選手とか二十年選手とかやってる人が、新人のそういった未熟さを知っていて、マウントをとるわけでじゃないですけど、なめて接してくることって多いと思うんです。そういうのが、僕が主人公たち大学生に感情移入してみると、とっても嫌ですね 笑 まあ、そこまで本作には書いていないですが。


というところです。

元も子もないことを言うのですが、一人称の小説って、自己言及が多いっていうの、あるあるじゃないですか。自己客観性も強い。外向的な性質の部分あるいは自己を保守する部分が、他者との境界をしっかり築かせるのでしょうか。自身の輪郭をきっちり定めるというようなのは、自分を言葉で定義づけする度合いの強さの結果かもしれません。もっとぼんやりしてたり、もっとよくわからない欲求や衝動に任せたりして生きている場面が多くてもいいんじゃないかな、と小説でも現実でもそうあればいいのにと、僕なんかは思ったりしました。人それぞれだから好きにすりゃいいことなのですけどね。まあ、割合の話です。






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『蛇の神 蛇信仰とその源泉』

2025-02-25 14:40:09 | 読書。
読書。
『蛇の神 蛇信仰とその源泉』 小島瓔禮 編著
を読んだ。

古より蛇は、「正・邪」「善・悪」「敵・味方」など、相反する性質をもたされた揺らぎのある存在とみなされてきたそうです。矛盾が同居させられていて、同じ神話や言い伝えのなかでもケースバイケースでどちらかに転んだ行動を取らされていたり、物語の性質によってどちらかの側に立たされていたりする生きものでした。また、インドの神話では、蛇は宇宙蛇としてこの世界を根本から支える存在とされていますし、北欧神話でもミズガルズ蛇が大地の中心を担い、世界の軸としての役目を持つような神様だったりします。本書は、そんな「蛇」への人類の精神史といいますか、人間は蛇になにを感じ、またなにを見てきたかを、古文書や伝承などから読み取り考察したものを教えてくれます。

蛇の神って伝統的にけっこうポピュラーな存在だったようです。あの金毘羅神も蛇の神だったと本書で知りました。女の神が蛇の神とまぐわい子をもうけたりする神話が珍しくないみたいにいくつか類例が記されているのですが、これ、言ったら、男根の形状が蛇っぽいから連想してそうなったのではないのか……。

おもしろかったトピックをひとつ。神無月という呼び名のある10月は日本全国の神様が出雲に集まるためそう呼ばれます。だけれど、東京都府中市周辺の地域に君臨する神様である大國魂神社の神様は蛇体なので神無月に出雲へ行きません。かつて、のろのろ這っていったため遅れてしまい、もう来なくてよい、といわれたと伝わるそう。好いゆるさのある神様界隈ではないですか。ちなみに、ここで例に出した神様以外でも全国各地に蛇体の神様がいて、みな神無月になっても自分の土地を離れないそうです。

あとは、虹は大きな蛇だとみなす伝統が世界中にあること(日本では蛇の吹く霊気だとするものもある)や、土地の神様とはおそらく別の「蛇神」の話、蛇を呼んだり追い払ったりする法術の話(追い払う呪文には「山立姫」という言葉が見られ、これはイノシシの意味だそう。イノシシはマムシを食べるとされるため呪文に使われる)、中国の白蛇伝説などさまざまな伝承をみていくようなところの多い内容でした。

小説家・安部公房は、蛇は非日常の存在だと捉えていたそう(p31)。それは手足がない胴体だけの生きものという、当然あるべきものの欠如からくる嫌悪感がベースになっているのですが、あるべきもののない者の日常を想像することはむずかしい、すなわち日常性の欠如、言い換えれば非日常の存在という図式になるのだとありました。本書では、蛇は人間にとって混沌、カオスを意味するとしています。



では、ふたつほど引用を。

__________

虹を指さしてはいけないという伝えが、日本の各地にある。長野県埴科郡でも、虹を指さすと指がくさるという。鹿児島県でも、虹を人さし指でさすと手がくさるという。琉球諸島では、沖縄群島の久高島で、虹をシー・キラー、ティー・キラーという。「手を切るもの」という意味である。虹は神であるから、これを指させば失礼に当たり、指さした指の先から、だんだんにくさってきて、手が切れてしまうという。(p84)
__________

→虹の話でしたが、虹と同一視される場合の多い蛇にも、同じことが当てはまるとあります。東京あたりでも、蛇を指さすと指がくさるといい、両手で蛇の長さを示したときには、ほかの人に、そのあいだを切ってもらう、というのがあったそう。指さしは禁忌とする宗教的な要因がなにか存在しているのだろう、と著者は見ています。



__________

蛇の腹をつつくと雨が降るという伝えのある土地もある。(p97)
__________

→蛇はしばしば水の神とされるのだそう。稲田が気がかりな農民にとっては、田畑にでてくる蛇の挙動に関心があったのだろう、ともあります。また、ヘビは雷の象徴で、水を支配する力を持っていることを解説するところもありました(p112)。雷はイナズマとも呼ばれますが、イナ=稲であるように、稲の妻=イナヅマとして、雷は稲の配偶者として稲をはらませると見ていたところがあるようです。雷が鳴れば恵みの雨が降りますからね。そして、その雷の化身として蛇を見ていたそうなのでした。



といったところでした。本書中盤では、世界に伝わる蛇の寓話や童話などを紹介してくれるのですが、物語前半では助けてくれる存在だった蛇が後半では裏切ってくるなど、このレビューのはじめに書いたように、蛇は「敵・味方」などの相反する性質をになうトリックスター的な生き物として位置付けられている印象を強く持ちました。古来より、にょろにょろと独特なやり方で歩いていく蛇の生態は、人間にとっては不思議な在り方だし畏れを抱かせる存在だったのかもしれません。ただ、おもしろいのは、欧州では蛇を飼ったりなど慣れ親しむ習俗があったようで、伝承でも、「蛇にミルクを飲ませて家に住まわせると家が繫栄した」などがあります。日本でも、家に蛇が入ると家が栄える、と言われる地方があり、そういわれる一因として、どうやら作物を食い荒らすネズミなどを蛇が食べてくれるからという害獣駆除の面が重宝されたところがあるみたいです。ネズミ捕りとして有能な猫がまだペットとしてみなされていない頃からの習俗なのでしょうね。

蛇をどう見てきたのか。現代では、気持ち悪さや毒のために忌避する傾向が強いと思いますが、そこにもっと昔の人はさまざまで豊かなイメージを持たせたのだなあと知ることができてよかったです。






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『TRIANGLE MAGAZINE 03 乃木坂46 遠藤さくらcover』

2025-02-19 22:30:11 | 読書。
読書。
『TRIANGLE MAGAZINE 03 乃木坂46 遠藤さくらcover』 与田祐希 遠藤さくら 小川彩
を読んだ。

先陣を切るのは、3期生・与田祐希さん。
沖縄での撮影でした。乃木坂に入ったときからのかわいさは色褪せないまま、瞳の輝きや表情に、大人になったこと、精神年齢をきちんと重ねてきたことがうかがえます。ずっとそういう香りがしていた「野生児感」というか「奔放な感じ」というか、そういったものも大人になっていくなかでどうやら昇華され、彼女の中で女の子感とともに統一されたような印象があります。彼女自身の中で収まりがついたような感じといったらいいでしょうか。先輩に可愛がられ、自分が先輩になると「先輩にしてもらったように」優しく後輩の悩みを聴いてあげたりするようで、面倒見の良さのある人でもあるようです。中学生の頃にはちょっとした嫌がらせを受けたりもしてた時期があるらしく、そういう経験も今の彼女と地続きだからこその振る舞いや考え方なのかもしれないです。

続いて、4期生・遠藤さくらさん。
すらりとスタイルが良い人。優し気な笑顔が、優しさのその一方で、鋭くこちらのハートをつついてくるような美しさも兼ね備えています。乃木坂加入時からしばらく、弱々しくて自己主張しないような印象がありましたし、けっこう彼女は泣いてしまいがちだと諸先輩方が折にふれて発現していたりしました。でも、いまの遠藤さくらさんは当時よりも自分をしっかりお持ちだし、自分の頭でしっかり物事を考えているんだなあ、と様々な発言から感じられるような人になっています。本書のインタビューで、何年か前の自分には自信がなかった、とありますし、今もそういうところはお持ちなのでしょうけれども、自分の弱い所からなにから丸ごと、「自分はそういう存在なんだから」と肯定できるようになったんじゃないかな、という推測をしています。遠藤さくらさんは、彼女ならではのやわらかくて心地よい空気感を、写真越しにもこちらへもたらしてくれる稀有な方ですけれども、なんだかそういうやわらかな表情が、きっと自分自身を受け止めて受け入れたんだろうな、というふうな思いをこちらに抱かせるのでした。シンプルに言っちゃいますが、とっても魅力的な方です。それでもって、自身のプライベートな領域は、他者から不可侵なまま保つタイプ。そこには入り込ませないし、明かさない。こっちからすると「謎」なのですが、そういうところがまたいいじゃないですか、距離感的にも。

本写真集を締めるのは、5期生・小川彩さん。
制服姿など、ハイティーンの健康的な日常といった写真たち。17歳の小川彩さんは、まだあどけない女の子感があります。「理想の娘」みたいな、健全な家庭の娘役としてうってつけみたいな印象があります。でも、きゃぴきゃぴしていたり、ぶっとんでいたりというよりは、現実に足がついているタイプだと思います。乃木坂のテレビ番組を見ていても、物事を自分なりの角度で落ち着いてしっかり眺めていて、きちんと咀嚼した上で感じたことや考えたことを自分の言葉と方法で構築して伝えてくれます。かわいくてダンスが得意でドラムを叩けてさらに、考え方や論理や感性がかなりしっかりした17歳だとお見受けしています。だからこそ、ひとりの女の子として、というか、ひとりの人としての魅力が強いのでしょう。

乃木坂の魅力のひとつの側面として、彼女たちが自分の足でしっかり歩いているところがあります。大勢の前で自分の言葉を用いて考えを述べるみたいなこともきちんと出来て、僕なんかは「ほんとにすごいなあ」と驚きます。トレーニングをしっかり積んだ歌やダンスのパフォーマンスは見事だし、バラエティ番組でちょっととぼけたことを言ったりやったりして笑いを取っていても、実際おもしろいんだけど、それはまたほんの一面だもんね、っていう認識で彼女たちを見ていたりします。まあ、バラエティ番組自体、イリュージョンみたいなものだと思うのだけれど、それを、多面的な彼女たちの一面なんだし、というように情報処理して彼女たちを見ていられるのはなんだか人としても好ましいというか、虚構性に毒気が薄くて良いというか、そういう感じがするんです。

本作品のトップバッターを飾った与田さんはまもなく卒業されてしまいます。彼女には、人として生きていくための栄養をたくさんいただきました、ほんとうにありがとうでした。





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『13歳からの法学部入門』

2025-02-14 14:05:38 | 読書。
読書。
『13歳からの法学部入門』 荘司雅彦
を読んだ。

著者は弁護士。

法律はなぜあるのだろう、なぜ必要なのだろう、という初歩的で根源的な疑問から考えていく本です。前半では、正義、国家、自由、権利などを考えていくことで、法律の概念がくっきりとしてくるつくりです。後半では、法律の文章の読み方など、具体的な面を教えてくれます。「13歳から」とタイトルにありますが、初学者、あるいは、ちょっと興味を持った人に対しての間口が広いという意味で、万人におすすめできます。それでいて、法律周辺の深みに触れることができるでしょう。。

中世ヨーロッパの思想家であるホッブス、ロック、ルソーがそろって国家は必要と説いたこと、そして産業革命以降の市場と資本主義の経済、法律が自己増殖するさまなどがまず第一章で語られていました。授業で13歳に語り掛けるように、わかりやすく、深いりはせず、浅く広く。こういった専門的な知識が、触れやすい形で言葉になっているのは、ちょっと面食らうところはあるかもしれませんが、慣れればありがたみすら感じるかもしれません。

その法律を知らなくても、違反したら罰せられるのが法律ってものですからね。それは常識、当たり前の事なのだけれど、実際、知らない法律だらけだったりしますよねえ。


では、いくつか引用をしていきます。



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「基本的人権」とは個人の生命・身体・財産が国家によって侵害されないという自由権、国政に参加する参政権、最低限度の生活を営めるよう国家に請求できる生存権が中心となっている。そして基本的人権の中心になるのが「自由権」なんだ。(p116)
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→義務教育で教えてもらうことの確認のようなところです。実社会ではけっこうないがしろにされている権利だと思うので、こうして確認してみると基本に立ち帰るような気持ちになりました。



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この基本的人権というのが、決して「棚ぼた的」に与えられたものじゃない。
君だけじゃなくぼくも、生まれたときから日本国憲法によって基本的人権が認められていたからピンとこないかもしれないけど、先に書いたように基本的人権は「人類の多年にわたる努力によって勝ち得たもの」であって、ぼくたちにはそれを「保持するだけでなく将来的に発展させていかなければならない」という責務がある。(p117)
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→人権が、ある程度担保された世の中に生まれ育ったことで、人権という権利を守らないといけないこと、発展させていかなければいけないこと、そして、それを先人たちが勝ち得てきたことが頭に浮かびにくいということはあるでしょう(僕自身、20代の終わりくらいまでほとんど考えてこなかったと思います)。平和ボケという言葉がありますが、それに近い状態になってしまう。満ち足りた環境に甘やかされてダメになってしまう、というわけで。これはよく陥いりがちな落とし穴です。人権が大切だと気がついていても、その言葉の表層しかわかっていない状態を含めば、ほんとうに多くの人がハマッてしまっているのではないか。もちろん、僕もそうなのですが。



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何かを選ぶとき、全部を自分で決めなければならないという状況は、人間にとって実はかなりのストレスになることなんだ。
だって、選んだ後、「自分の選択はこれで正しかったんだろうか?」「別のものを選んだ方がよかったんじゃないかな?」という気持ちは、だれにでも必ず湧いてくるからね。
何か選ぶということは、そういう気持ちを断ち切って、自分の選択に責任を持つということだ。(p123)

自由の重みと孤独に耐えられなくなったとき、人間はどんな行動をとるのか。それを研究したのが二〇世紀の精神分析学者、エーリッヒ・フロムだ。彼は有名な『自由からの逃走』という本の中で、「近代社会は人間に自由をもたらしたが、人間はまだそれに適応できず、かえって不安が高まった」と書いている。
(中略)
自由が辛くなると、人間は、ルールを決めてくれる人を求めるようになる。それで、ドイツの多くの若者が独裁者ヒトラーに狂信してしまった。フロムはそれを「自由からの逃走」と読んだんだ。(p124)
__________

→現代日本は、なんでも個人が自分で決めていいとされる自由主義の社会です。その自由が辛くて、誰かに決めてもらえたら楽なのにと思い、つまり自由によって不安になってしまったりしている人も少なくないのではないか。自由に慣れていないと、ルールを決めてほしいと思い、そのルール通りに生きたくなると。個人的な話ですが、たとえば不安症なうちの父には、自分のことを誰かに決めてほしいという性質がよく見られる。自由さからの影響があるのでしょう。



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「権利と義務」というと、権利を持っている人の方が立場が上、権利を持っている人の方が得、そういうイメージを抱くだろう。
抽象的な言葉の上での権利や義務については、確かにそういう面がある。でも現実の世界ではそれとは逆で、権利を持っている者が、実現のために多くの努力をしなければならない。そのことを忘れないで欲しい。(p153)
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→人権を守るにしてもそうだけれど、権利を有する者が権利を主張して実現させるためには自分から動かなくてはいけない。社会はそういうメカニズムです。大変な目に遭っていて、いっぱいいっぱいな状態にあるとわかってやっと、権利を主張しなければならないぞ、となったりするケースって多いと思います。で、そこからが大変で、いろいろ勉強したり労力を払ったりしないとならなくなる。
「権利の上に眠るものは保護せず」という言葉があるのだ、と書いてありました。行政でこんな制度がありますだとかも知らないことが多くないですか。学び続けること、自分から動いて制度を教えてもらうことなどは大切ですよね。つまりは、やっぱり人生において「自助」がダントツで大事だということになります。「共助」や「公助」にも大きな力がありますが、なかなか得られにくいものなのですから。



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たとえば、さっきもでてきた、日本の民法の七〇九条は「故意または過失によって他人の権利又は法律上保護される利益を侵害した者は、これによって生じた損害を賠償する責任を負う」と書かれているよね。(p197-198)
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→この民法七〇九条は覚えておきたいです。人権侵害がひそかに行われている「家庭」という社会ではこれに該当するような大きな損害って被っていたりする人はいますよ。支配を含む虐待案件なんかはもうそうです。



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というのは、アメリカ社会では「個人と神様の約束」という宗教観が根づいている。たとえばボランティア活動をするのは神様との約束を果たすことであり、そのために仕事を休んでも同僚の理解が得られる。陪審員を務めることも同様だ。(p205)
__________

→アメリカ人って、市民一人ひとりが自分たちで街を作っていこうだとか、社会を作っていこうだとかという気概が強くあるような印象を、僕は持っていました。ちょっとうらやましくもあるし、窮屈ではないのかな、と斜めに見たりもしながら。で、そういった、自分から主体的に社会をよくしていこうという気概のその理由がこの引用で言われている宗教観によるものなのだな、とこの箇所で知ることになりました。日本人が社会に対して自分から活動していこうと決心するためには、同調の空気だとか、自らに内面化している卑屈さだとか、個人には力がないという思い込みだとかを打破しないとできないと思うんですね。それを宗教観が、ある程度やすやすと、そのハードルを越えてくるのはすごいです。



といったところです。200ページそこらで、なおかつ2010年の本ですが、いまもなお色褪せない、読み応えのある良書でした。






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