読書。
『送り火』 重松清
を読んだ。
泣かされる小説というものがあります。
このあいだ読んだ、伊坂幸太郎さんの
『アヒルと鴨のコインロッカー』もそうでしたが、
今回読んだ重松清さんの『送り火』という短編連作集の中にも、
2編ほどが、ほとんどいつも乾季である僕の心の大地に、
恵みの雨季を訪れさせました。
ドライばかりの心ではとらえられないものがあります。
ウェットな心の様であることで見えること、感じること、
想像できることがあるよなぁと、確認しました。
まず表題作の『送り火』がなんといっても文句なしに泣かされます。
家族の、ちょっとした軋轢や、空回りするコミュニケーションなど
描写や状況構築が上手で、また重松さんがよくテーマにするものが、
今作のすべてにおいて描かれていますけれど、そこに、超自然的なものが
付加されて、すなわち、超常現象とか心霊現象とかそういうものなのですが、
そういったものがとても効果的に、現実では埋まらない溝を埋めたり、
崖をわたる橋になっていたりする役目をしています。
きっと重松さんには、人がなかなか言葉にできない、
うっすらとした夢というか願望というか祈念というか、
現実の世界に長く忙しく暮らして、世知辛い目に合って捨てていった
「幸福な夢想」というものをしっかりとらえることができる人なんだと思います。
また、いろいろと自分の家族構成や状況などと鑑みて、
自分の個人的状況に落としこんで空想して泣けてしまったのが、
『もういくつ寝ると』でした。
やるよなぁ、重松。
…というか、勝手にやられてみたよなぁ、僕。
考えさせられるのは、『シド・ヴィシャスから遠く離れて』。
これはツイッターで書いたのだけれど、
たとえば、このようなのがあります。
___
他人や時代につっぱって生きていくことを、
若い時のようにかっこいいと感じなくなって、
えらくもなりたくないし権力もほしくないし、
それ以上にそうは絶対になれはしないわけで。
あれこれ命令をきいて働いたりしてそれでも
残るゴミみたいな小さいのが自分というものだとして、
それを保つ難しさ。
パンクロックとか尾崎とか、もっというと坂本龍一だとか、
音楽でいえばこういうようなところだけれど、
歌詞や発言をほんとに真に受けちゃロクなことはないんですよね。
不純なものを受け入れない人は、生きづらい生活を送ることになる。
不純なものを受け入れないように見せかけて本当は不純な人っていうのが山ほどいて、
さらに、そうしていることに自覚していない人ももっといて、
そういう人は比較的、楽。
問題はそれを真に受けて純粋が素晴らしいと感じてしまう若い人?
僕の言う「不純」というものは、
別に、犯罪や犯罪まがいだとか倫理を冒すとかそういう意味じゃなくて。
やりたくないものもやることだったり、
しょうもないと思いながらも人間関係の建前を繕うことだったり、そういうことです。
___
このように、僕はミュージシャンの発言を(それも特に若い人をですが)批判しています。
しかしながら僕はまたこのほど坂本龍一さんの対談本を購入しましたし、
呪縛だとはいいませんが、一生、ある程度の距離感をもってして、
付き合っていく人たちだなぁと感じています。
当たり前ですが、悪いところだけではないということですね。
重松さんの作品は、まだ数えるほどしか読んでいませんけれども、
さばさばした文体がたばになって涙を生むものを構築するようになっている感じがします。
「泣かせるよ?」っていう筆者の心意気みたいなものが、
文体からありありと、香のように立ち上っている小説も巷間にはありますけれど、
そうではない重松節には、ストレートなものを感じますし、
普段、直視してこなかったものを、ファンタジーを眺めることで何故かできてしまうという
逆説めいたものがあるようにも感じます。
『送り火』 重松清
を読んだ。
泣かされる小説というものがあります。
このあいだ読んだ、伊坂幸太郎さんの
『アヒルと鴨のコインロッカー』もそうでしたが、
今回読んだ重松清さんの『送り火』という短編連作集の中にも、
2編ほどが、ほとんどいつも乾季である僕の心の大地に、
恵みの雨季を訪れさせました。
ドライばかりの心ではとらえられないものがあります。
ウェットな心の様であることで見えること、感じること、
想像できることがあるよなぁと、確認しました。
まず表題作の『送り火』がなんといっても文句なしに泣かされます。
家族の、ちょっとした軋轢や、空回りするコミュニケーションなど
描写や状況構築が上手で、また重松さんがよくテーマにするものが、
今作のすべてにおいて描かれていますけれど、そこに、超自然的なものが
付加されて、すなわち、超常現象とか心霊現象とかそういうものなのですが、
そういったものがとても効果的に、現実では埋まらない溝を埋めたり、
崖をわたる橋になっていたりする役目をしています。
きっと重松さんには、人がなかなか言葉にできない、
うっすらとした夢というか願望というか祈念というか、
現実の世界に長く忙しく暮らして、世知辛い目に合って捨てていった
「幸福な夢想」というものをしっかりとらえることができる人なんだと思います。
また、いろいろと自分の家族構成や状況などと鑑みて、
自分の個人的状況に落としこんで空想して泣けてしまったのが、
『もういくつ寝ると』でした。
やるよなぁ、重松。
…というか、勝手にやられてみたよなぁ、僕。
考えさせられるのは、『シド・ヴィシャスから遠く離れて』。
これはツイッターで書いたのだけれど、
たとえば、このようなのがあります。
___
他人や時代につっぱって生きていくことを、
若い時のようにかっこいいと感じなくなって、
えらくもなりたくないし権力もほしくないし、
それ以上にそうは絶対になれはしないわけで。
あれこれ命令をきいて働いたりしてそれでも
残るゴミみたいな小さいのが自分というものだとして、
それを保つ難しさ。
パンクロックとか尾崎とか、もっというと坂本龍一だとか、
音楽でいえばこういうようなところだけれど、
歌詞や発言をほんとに真に受けちゃロクなことはないんですよね。
不純なものを受け入れない人は、生きづらい生活を送ることになる。
不純なものを受け入れないように見せかけて本当は不純な人っていうのが山ほどいて、
さらに、そうしていることに自覚していない人ももっといて、
そういう人は比較的、楽。
問題はそれを真に受けて純粋が素晴らしいと感じてしまう若い人?
僕の言う「不純」というものは、
別に、犯罪や犯罪まがいだとか倫理を冒すとかそういう意味じゃなくて。
やりたくないものもやることだったり、
しょうもないと思いながらも人間関係の建前を繕うことだったり、そういうことです。
___
このように、僕はミュージシャンの発言を(それも特に若い人をですが)批判しています。
しかしながら僕はまたこのほど坂本龍一さんの対談本を購入しましたし、
呪縛だとはいいませんが、一生、ある程度の距離感をもってして、
付き合っていく人たちだなぁと感じています。
当たり前ですが、悪いところだけではないということですね。
重松さんの作品は、まだ数えるほどしか読んでいませんけれども、
さばさばした文体がたばになって涙を生むものを構築するようになっている感じがします。
「泣かせるよ?」っていう筆者の心意気みたいなものが、
文体からありありと、香のように立ち上っている小説も巷間にはありますけれど、
そうではない重松節には、ストレートなものを感じますし、
普段、直視してこなかったものを、ファンタジーを眺めることで何故かできてしまうという
逆説めいたものがあるようにも感じます。