読書。
『メモリー・ウォール』 アンソニー・ドーア 岩本正恵 訳
を読んだ。
6つの短篇を収録した作品。それぞれの話は独立していますが、「記憶」という糸で繋がっていたりします。アメリカでは数々の賞を得た作品であり、日本でも本屋大賞翻訳小説部門第3位にランク付けされたそうです。
どの短篇も夢中に読ませられる佳作でした。なかでも、ふたつの長めの短篇がとくにおもしろかった。表題作でありトップバッターの『メモリー・ウォール』がまずひとつ。近未来の南アフリカの都市が舞台で、その世界では人間の記憶を外部にとりだしてメディアに収め、VRでビデオを見るように体験することができる。三人称多視点、つまり群像物なのですが、アルマという認知症を患う上流層の老女が中心に位置して、彼女の記憶をめぐる話からはじまって、物語は拡大し深まっていきます。文学性かエンタメ性かといえば、本短篇集は文学性のほうに寄っています。しかしながら、『メモリー・ウォール』にしても伏線が張ってあり、作品が進んでいく原動力になっている「謎」の扉に差しこまれる鍵となっていて、読者を夢中にさせてくれる仕掛けになっています。物語そのものも、はじめて触れるアンソニー・ドーアの世界なので読者としても慎重になりますしラジオのチューニングを合わせるようにダイヤルを探っていくかのような読みだしになりましたが、最後まで読み終えてみると、入門編としても最適でしたし、物語そのものだってずいぶん楽しめました。本書の6つの物語の並び方もよいのです。
続いてふたつめは最後の短篇『来世』。ナチスドイツのハンブルクのユダヤ人孤児院が舞台です。そこで生活する少女エスターと親友ミリアムを中心とした12人の少女。その時代と、エスターが長い人生を終えようとする現代を往き来しながら進んでいく。この構造自体も面白いですが、物語自体に独特の推進力とさみしさや悲しみがあって、ぐっと物語のなかに入りこむ読書になりました。僕はこの作品が本書ではもっとも気に入りました。
これらの短篇に限らず、どんな年代の老若男女も作者はみごとに描きます。小説の土台となる「世界」だって頑健なつくりをしている。
本書は作者が30代半ばの時期の作品です。読んでいるとそこには圧倒的な知識量がすぐにうかがえるのでした。ブルドーザーのように書物をあさり、現実世界においても「これは○○というもの、あれは△△といって□□の役割をするもの」と普通はそこまで知らなくても困らないそれ以上までしつこく言葉で世界を分節して記憶してきたのだと思います。かといって知識量をひけらかすことはしていない。必要に応じて、知識の入った引き出しをあけ、ぴったりのものを取りだしている。(しかし、あるいはそれほど膨大な知識量ではないのかもしれない。限られた知識を無理なく自然な形で、その大切なひとつをひとつのかけらとして小説のなかにあてはめているだけなのかもしれない。そしてそうとは思わせない。ひねくれた見方になるけれども、つまりは自分の底を見せないためのワザなのかもしれない。)
だけれど、つよく自制する力があるのでしょう、バランスをとるためまたはくどくならないために、表現しているその解像度は高くとも余白が多いし、客体への距離感はどちらかといえば遠い。要するに、文章そのもので解像度をあげているというよりも、固有名詞など具体的な単語の結びつきで解像度をあげている感じがするんです。その結果、構築された物語の世界は、まるでほんとうにどこかで実在しているのかのような現実感をたずさえた強度を保っている。それがこの作者ならではの表現作法であり個性とも言えます。
簡単にいえば、抑制が効いているということですね。無駄話はしないのだけど、話はおもしろいタイプと表現するといいでしょうか。圧倒的な知識量が背後にあるからなせる解像度で小説世界が構築されているとしても、しっかり生命が住まう川は流れている感じ。それがないと無機質なものに沈んだ創作になっておもしろくなくなります。
ただ、硬質な小説作法の印象ですから、作者がこのあとどう自分のやり方に対して舵を切っていくのかには興味がわく(これは2010年の作品ですから、その後「どう舵を切ったのか」が現在の作風からわかることですね)。同じ象限に居続けて完成度を高めていくのか、解像度を維持したまま、より柔らかな表現の象限へ移動するのか。あるいは、もっと違った形へなのか。
ここまで全力で「小説家として小説を書くこと」にエネルギーを注いでやりとげるのはすごいことです。それ相応の犠牲だってなければできないと思います。後年、そこに失意を感じることだってあるだろうし、それが致命的になるものである可能性だってあるのですし。全力と覚悟の賜物なのでした。読んでよかった。
『メモリー・ウォール』 アンソニー・ドーア 岩本正恵 訳
を読んだ。
6つの短篇を収録した作品。それぞれの話は独立していますが、「記憶」という糸で繋がっていたりします。アメリカでは数々の賞を得た作品であり、日本でも本屋大賞翻訳小説部門第3位にランク付けされたそうです。
どの短篇も夢中に読ませられる佳作でした。なかでも、ふたつの長めの短篇がとくにおもしろかった。表題作でありトップバッターの『メモリー・ウォール』がまずひとつ。近未来の南アフリカの都市が舞台で、その世界では人間の記憶を外部にとりだしてメディアに収め、VRでビデオを見るように体験することができる。三人称多視点、つまり群像物なのですが、アルマという認知症を患う上流層の老女が中心に位置して、彼女の記憶をめぐる話からはじまって、物語は拡大し深まっていきます。文学性かエンタメ性かといえば、本短篇集は文学性のほうに寄っています。しかしながら、『メモリー・ウォール』にしても伏線が張ってあり、作品が進んでいく原動力になっている「謎」の扉に差しこまれる鍵となっていて、読者を夢中にさせてくれる仕掛けになっています。物語そのものも、はじめて触れるアンソニー・ドーアの世界なので読者としても慎重になりますしラジオのチューニングを合わせるようにダイヤルを探っていくかのような読みだしになりましたが、最後まで読み終えてみると、入門編としても最適でしたし、物語そのものだってずいぶん楽しめました。本書の6つの物語の並び方もよいのです。
続いてふたつめは最後の短篇『来世』。ナチスドイツのハンブルクのユダヤ人孤児院が舞台です。そこで生活する少女エスターと親友ミリアムを中心とした12人の少女。その時代と、エスターが長い人生を終えようとする現代を往き来しながら進んでいく。この構造自体も面白いですが、物語自体に独特の推進力とさみしさや悲しみがあって、ぐっと物語のなかに入りこむ読書になりました。僕はこの作品が本書ではもっとも気に入りました。
これらの短篇に限らず、どんな年代の老若男女も作者はみごとに描きます。小説の土台となる「世界」だって頑健なつくりをしている。
本書は作者が30代半ばの時期の作品です。読んでいるとそこには圧倒的な知識量がすぐにうかがえるのでした。ブルドーザーのように書物をあさり、現実世界においても「これは○○というもの、あれは△△といって□□の役割をするもの」と普通はそこまで知らなくても困らないそれ以上までしつこく言葉で世界を分節して記憶してきたのだと思います。かといって知識量をひけらかすことはしていない。必要に応じて、知識の入った引き出しをあけ、ぴったりのものを取りだしている。(しかし、あるいはそれほど膨大な知識量ではないのかもしれない。限られた知識を無理なく自然な形で、その大切なひとつをひとつのかけらとして小説のなかにあてはめているだけなのかもしれない。そしてそうとは思わせない。ひねくれた見方になるけれども、つまりは自分の底を見せないためのワザなのかもしれない。)
だけれど、つよく自制する力があるのでしょう、バランスをとるためまたはくどくならないために、表現しているその解像度は高くとも余白が多いし、客体への距離感はどちらかといえば遠い。要するに、文章そのもので解像度をあげているというよりも、固有名詞など具体的な単語の結びつきで解像度をあげている感じがするんです。その結果、構築された物語の世界は、まるでほんとうにどこかで実在しているのかのような現実感をたずさえた強度を保っている。それがこの作者ならではの表現作法であり個性とも言えます。
簡単にいえば、抑制が効いているということですね。無駄話はしないのだけど、話はおもしろいタイプと表現するといいでしょうか。圧倒的な知識量が背後にあるからなせる解像度で小説世界が構築されているとしても、しっかり生命が住まう川は流れている感じ。それがないと無機質なものに沈んだ創作になっておもしろくなくなります。
ただ、硬質な小説作法の印象ですから、作者がこのあとどう自分のやり方に対して舵を切っていくのかには興味がわく(これは2010年の作品ですから、その後「どう舵を切ったのか」が現在の作風からわかることですね)。同じ象限に居続けて完成度を高めていくのか、解像度を維持したまま、より柔らかな表現の象限へ移動するのか。あるいは、もっと違った形へなのか。
ここまで全力で「小説家として小説を書くこと」にエネルギーを注いでやりとげるのはすごいことです。それ相応の犠牲だってなければできないと思います。後年、そこに失意を感じることだってあるだろうし、それが致命的になるものである可能性だってあるのですし。全力と覚悟の賜物なのでした。読んでよかった。