Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

『永い言い訳』

2021-05-29 23:37:02 | 読書。
読書。
『永い言い訳』 西川美和
を読んだ。

映画監督で作家の西川美和さんの長編です。著者自らの手によって映画にもなっていますが、本書はノベライズなのか、この作品を原作として映画化したのかはちょっとわかりません。いや、単行本ででているくらいだから、たぶん原作なのでしょう。

深夜バスの事故によって妻を失くした小説家と、その妻と共に亡くなった妻の友人の残された夫と二人の小さな子ども。ふとしたことから、小説家と彼の妻の友人の家族との交流が生まれます。

小説家の衣笠幸夫を主人公としながらも、章ごとに視点や人称が入れ替わる体裁で書かれているので、群像劇のような印象も受けます。また、一人称で語れる章は、ぐっと人物にズームアップするように感じられるので、そうじゃないところとの関係に緩急が生じていて、作品がより柔軟なつくりになっていました。くわえて、それぞれの人物の向いている方向が微妙にずれているし、角度も違いますし、同じ人物のなかでも気分によって素直だったり憎たらしくなったりして、デコボコがある感じがします。総合的なイメージでは、いろいろな柄の布(大柄の文様や細かい文様、キャラクターものや縞模様などさまざまな種類)で縫われたキルトが多角形の箱の表面に張られている、というような作品というように、僕には感じられました。

この小説の意識の底にあたるような部分に流れているのは、たぶん愛情に関するものでしょう。冷え切った関係になってしまった夫婦の、その残された夫のなかにはどんな愛情があるのか、というように。また、お互いが正面からつきあいあう家族、つまりぶつかり合いであってもそれぞれが甘んじて受けることを当たり前とする家族に相当する、小説家と交流するようになる家族のなかの愛情もそうです。

が、読んでいて引っかかってくるのは、いろいろな人物たちの本音ばかりではなく、その本音に結ばれた行為のひとつである「卑怯さ」なのでした。卑怯さを許さないだとか許すだとかの考え方もあると思うんです。前者は真摯さの大切を問うようなものでもあるし、後者は寛容さでおおきく包み込みつつ人間への諦念を持ちながらもその後の少しだけだとしたとしても「改善」を約束させるものだったりします。

卑怯さというのは不誠実さを土台としていたりします。そして本書のタイトル『永い言い訳』とは、そんな不誠実さへの永いながい言い訳、終わらないような言い訳なのではないかと僕は読みました。ここでは主人公の衣笠幸夫の言い訳が芯になっていますが、これについては、誠実であるほうが好いのだと考える人であればだれもが言い訳をするものだと思うのです。原罪のように、人はその土台に、本能的な利己ゆえの不誠実を備えているだろうからです。それを超えたいがために、言い訳をするのです。その言い訳は、ただ逃げるだけではなく、ただ逸らすだけでもなく、乗り越えるためのじたばたする態度なのです。

本書で著者はそういったところに挑戦しているし、結果、なかなかに真に迫ったのではないかと思いました。また、だからこそ、よく執筆関係の文章で「ちゃんと人間が書けているかどうかを小説で問われる」なんて見かけたりしますけれども、その点でいえば、むせかえるくらい多様な人間臭さが詰まっている作品として書けていると言えるでしょう。

作品自体、枠から暴れ出たそうにしているところを感じますし、著者は作品がそうしたいのならそうさせる、というように書いたのではないかなと想像するところです。そういう作品だけに、作品自体にまだ空想の余地もあり、「自分だったらどう編むか」みたいに考えたくなったりもします。刺激になりますね。

人をまるごとみようとするときに、そして、それを自分で表現したいときに、何を見ていて何を見ていないか、そして何を意識の外に無意識的にうっちゃってしまいがちか、というようなことに向かいあってみたい人にはつよくおすすめした小説作品でした。そうじゃなくても、ぞんぶんに楽しめると思います。読み手に敷居が高くない文体で、それでいてだらしない表現はなく、手に取ってみればよい読書になると思います。おもしろかった。


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『乃木撮 VOL.02』

2021-05-27 22:35:42 | 読書。
読書。
『乃木撮 VOL.02』 乃木坂46
を眺めた。

乃木坂46がメンバー同士でオフショットを撮り合った写真集の第二弾。『VOL.01』撮影後から4期生の後期組加入前までの期間が対象。

1期生から4期生まで、魅力的なメンバーしかいない乃木坂46。そのあかるい空気感、オフ時のメンバーの愛らしい表情と、ときに眺めていて吹きだしてしまう抜群のおもしろショットなどなど、629枚が撮影メンバーの短評付きで収録されています。

僕は生田絵梨花さんが大好きなのですが、メンバーみなさんがそれぞれとっても素敵な方々だと感じていますし、言うまでもないかもしれないですがすごくかわいいですし、この厚い一冊で至福をぞんぶんに得ることができました。また居眠りのショットだ! という与田ちゃん、放っておけなけない感じの美月ちゃん(#626にて動画を撮り始めていた吉田綾乃クリスティーちゃんのフレームにはいりライブ会場の説明をひとりはじめて、「これ何用?」の問いに「じぶんの思い出用」と応えるところ、青春そのもの! ですし、そんなふうな行動をとる人の味方でいたいですよね)、大人しさと控えめさのなかに光源を隠しもっていながらそれでも柔らかい光が漏れだしているようなさくらちゃん(今度の新譜ではセンター単独センターでしたね)。

こうやって好きな人たちの楽しそうなところをたくさん見られるっていいですねー。笑い声さえ聞こえてきそうなものの連続でした。

いちばん好きなショットはどれかひとつ挙げるとすると、僕的には#370の「飛鳥ちゃんにいくちゃんが二人羽織をする」ショットでした。

あなたたちが好きでよかった。ありがとう、だし、味方でいたい、なのでした。


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『馬はなぜ走るのか』

2021-05-23 21:50:45 | 読書。
読書。
『馬はなぜ走るのか』 辻谷秋人
を読んだ。

JRA(日本中央競馬会)で発行している月刊誌『優駿』の編集に携わっていた著者による「やさしいサラブレッド学」。

タイトルにあるように、馬はなぜ走るのか? という問いを持ったことのある方はけっこういらっしゃるのではないでしょうか。馬は古代より人を乗せるよう手なづけられ、すごいスピードで走ってくれます。戦に駆り出され、運搬や耕作の使役馬とされ、スポーツやレジャーとして乗馬の役割を与えられ、そしてサラブレッドというより速く強く走るための品種に改良され続けて競馬があります。性格面でも体質面でも人を乗せることに適い、まるでそうやって走ることに特化して誕生したような動物にさえ感じますが、著者の見解は、「馬は走ることが好きではない」なのでした。

野生状態を考えてみると、肉食動物に狙われる草食の被食動物としての存在が馬です。その馬の走る能力が高くなったのは、逃げるため。そして群れで生きる馬は、逃げるときも群れで逃げます。そんな群れの先頭や最後方にいる馬は、捕食されやすい位置にいると考えられます。群れの中央部にいたほうが、助かる可能性は増します。そこのところを考えると、競馬でよく言われる「勝負根性」についてハテナが浮かんできます。レース予想で「勝負根性の有無」が問われることがあります。あの馬はゴール前の競り合いで勝つことが多いから、勝負根性がある、といように。でもそれは人間が自らの住んでいる競争社会を馬というまったく別の生きものの中に投影してしまったゆえの間違った解釈で、馬は先頭にでたいとは思わないと本書は論じるのです。先頭に出るメリットを馬は感じません。ではなぜ、競り合いに強い馬がいるのかいうと、騎手の指示に従順、かつ「勝負根性」ではなくてつらくても指示に応え続ける単なる「根性」があり、他の馬を追いぬくスピードとスタミナ、そしてパワーがあるからなのでしょう。勝負根性は馬に対しての幻想なのです。

では、競馬を知っている人なら知っている人も多い、「噛みつこうとする馬」はどうなのか、という問いもあります。噛みついてまで他の馬を蹴落としてやろという勝負魂なんじゃないか、と考えやすいですが、あれはレースで勝とうという気持ちのあらわれではなく、また別の気持ちが働いているようなのでした。それは、群れで生きる馬なので、序列を決めるためのちょっとした競り合いなのです。レースとはまったく関係のないほうの勝負のようです。

というような、馬の能力や性質の理解をベースに、トレーニングの話、DNAや体躯、筋肉の質や有酸素運動と無酸素運動のバランスから考える距離適性の話、ダグやギャロップなどの走法の違いとそれらで変わる足の運びの話、日本の馬場、ひいてはアメリカやイギリスの馬場の特徴の話、などなどが続き、最後のあとがきでまた、「馬はなぜ走るのか」に戻っていきます。

サラブレッドは競争をさせられなければ生まれてくることが許されない動物。それは、厳しい運命というか、人間によってそう生み出されてしまったためなので、人間のほうに業があると考えやすかったりもします。

どうやら走るのは好きではないようだ、と人間側がわかったとしても、全力で走ることを求められ、彼らはヘトヘトになってレースを終える。ギャンブルの対象にされていることもありますが、僕なんかは彼らが懸命に走る姿になにか胸を打たれるものを感じもするタイプで、そういった面も強くあるからこそ競馬はずっとあるし、サラブレッドは走り続けるのではないのかなと、ごく個人的には思うところです。

そんなサラブレッドたちを、もうちょっと近くに感じるための本が本書です。割り切れない世界のなかの割り切れないブラッドスポーツの、そのなかの中心にいる割り切って考えることのできないサラブレッド。でも、思考停止で彼らを見ていたくないし、彼らへの好奇心だって持っていたいし、という方には一読をおすすめできる内容でした。月刊誌『優駿』が好きな方にはど真ん中のストライクにあたる本ではないでしょうか。


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『悩み・不安・怒りを小さくするレッスン』

2021-05-19 19:44:51 | 読書。
読書。
『悩み・不安・怒りを小さくするレッスン』 中島美鈴
を読んだ。

副題は「「認知行動療法」入門」です。セラピーに認知療法と行動療法という別々の療法があり、それらをケースバイケースで組み合わせたり使い分けたりするのが、認知行動療法だと言ってよいと思います。

数年前に職場で雑談の途中にふと気付いたことなのですが、「社会や世間、つまり自分が住んでいる世界をどう捉えているかと、そういった世界を構成している人間という存在をどのように理解しているか。それが、その人の態度や姿勢、コミュニケーションのとり方、ひいては生き方の根本になっている。要するに、各個人にはそれぞれの世界観や人間観があり、それがどのようなものであるかで、その人がどのような人かが決まっているのだ」というのがありました。本書のはじめで、このことが取り上げられていて、僕が自分の言葉での表現した「世界観や人間観」は認知行動療法の分野では「信念」だとか「スキーマ」と呼ばれるのだそうです。そして、「信念」や「スキーマ」によって、その人の認知の仕方が変わってきます。本書で使われてる「信念」の概念のほうが、僕の「世界観・人間観」概念よりも多少ごく個人的で、たとえば「自分は他人よりも劣っている」という信じ込みがそうだったりする。ただ、世界や人間がどう見えているか、その個人差を考える上ではほとんど一緒のことなんだと思います。

問題は、その信念から生まれる認知が、どのくらい歪んでいて、その歪みがどのくらい強固であるか、なのでした。おそらくこれは年を重ねていくにつれて離れがたくなるし疑いにくくなります。長年連れ添った認知の歪みとは仲が良くなりすぎていて、そこから離れにくいでしょうから。

いい歳になってから、というか、いい歳になったがゆえに、本来、世界観や人間観の歪みにすぎないものが若い時よりも強化されて「本当だ」と思えて口をついてでてもしまう。そういった歪みに起因する言葉が、他者の歪みと共鳴し増幅させてしまうから、いい歳同士の間でなおさら世界が歪んで見えてしまうことってありそうです。15歳だとかからみえるいい歳したおじさんおばさんは、その会話内容や彼らの諭すようなものの言い方から、15歳や20歳よりもずっと世界の真実がみえていると思われがちじゃないでしょうか(実際、世知辛い経験も若い人よりも多いのは確かで、それは長生きしているからしょうがない)。でも実は歪みが多いのではないか。

若い時から知ったような口をきく人はたくさんいるし、普段は違うけれども場合によってはそうなる人もいるでしょう。けれど、そうやって物事をひとつに決定して考えてしまうのは、いい歳した人たちの「世界観・人間観の歪みの定着した考え方」に近づいてしまうことになる。ひとつの物事にはたくさんの可能性があるんだってことを感じるほうが実は正しくて、かつ生きやすい。決定して進んでいくことができないのは、傍からみれば優柔不断のように見えます。だけど、そういう若い人に多いだろう優柔不断的傾向のほうが、ネガティブすぎたりポジティブすぎたりせずにいられるんです。たとえばつまりこういう効果が考えられます。ネガティブに思いこむことで心をすり減らさなくて済む、というように。

先述の、いい歳した人たちの世界観・人間観の歪みの定着と共鳴・増幅が、いい歳した世代だけで終わるならまだいいのだけど、若い人たちへとまるで価値観の押しつけのように彼らの世界観・人間観まで歪むほうへと働きかけてしまう。それは職場の年齢的・役職的・先輩後輩的な上下関係が加担するからです。そして、こういった再生産の流れはずっと続いてきたし、どこかで激しさをもって断たないとこの先もずっと続いていくでしょう。生きづらさを無くしていきたいと僕は思うほうですから、世界観・人間観の歪みの自覚と修正はしていきたくなりますし、勧めたくもなるんです。

再び、認知の歪みの増幅についてですが、増幅することによって、本来ただの歪みのものがほんとうのこととして実現してしまうってあると思うのです。これこそ本書でもとりあげられていますが、「予言の自己成就」的な現象としてです。そうやってまた個人の内にある歪みが強化されて、さらに新た歪みを生んでしまったりするでしょう。これの亜種として、ネット掲示板などをディープに読む人たちのキャラクターが造形されていく過程の説明にもちょっと応用が効くかもしれないです。ネトウヨだとか、オカルトだとか、排除主義だとか、優生思想だとか、いろいろな方面にです。すべて、認知の歪みからきていると思います。

と、出だしの部分から思索が瞬間的に大きく広がりを見せるくらい刺激的な内容なのです。平易で丁寧で読みやすい文章から、これだけ情報や考えるきっかけを得られますし、その内容が僕の興味の強い「人のこころ」のことなんですから、最良の本だ、と思って読み進んでいきました。

古典的条件付けとオペラント条件付けの章では、条件付けって相当に強いものだとあらためて知ることになりました。駄々をこねる子どもと、ゴネたり暴力をふるう大人。どちらも、その行為によって自分の欲求が通るようになったことで無意識のうちにそうするように学習してしまうんです。そういう好からぬ強化を自分に対しても他人に対しても回避できるようにしたいものではないでしょうか。また、それらが強化されてしまったあとでも、意識して行動を変えてみることで、脱することだってできるようです。

「パニック障害」「社会不安障害」に認知行動療法はもっとも効果が期待できるそうです。また、怒りに振り回されないようにする「アンガーマネジメント」も、この分野の範疇にはいる領域で2章にわたって解きほぐされていますし、アサーションがそのなかで解説されてもいます。グーグル社で採用されているという「マインドフルネス」もこの分野の範疇内にあり、言及もあります。

個人的には、近しい人に暴力的で支配的な人がいてその内面には大きな不安や寂しさがあるように見えているので、その勉強のために読んだところがありました。しかし、そういえば僕にも大きな苦手なことがあるなと思いだしたのです。人前でのスピーチや、人前で司会進行するときなどの即興での冗談だとかフォローだとかが得意ではない。これをどうしたらいいのだろう、と食い入るように読みました。そこに書いてあった大切なことは、回避しないこと。要するに、スピーチだったら、それを誰かに回したり断ったりしないこと。回避すると、逆にその不安や恐怖が強くなっていくのだそうです。荒療治に感じられますが、人前にどんとでてみるのが、改善のためには最善手だということでした。それと、なぜ人前でのスピーチができないのか、その原因や恐れていることを客観的に見つめて言葉にし、露わにしていくのも大切。ちなみに、人前でのスピーチが苦手な人に、どんどん人前でスピーチをさせていく荒療治の手法のことを、暴露法(エクスポージャー)といいます。それと、「不安や恐怖は感情ではない。身体の反応に過ぎない」という言葉が引用されていて、考えの及ばなかった視点なので、おおっと感嘆の息が漏れました。他にも、緊張しているときに浅くなった呼吸を深呼吸でリラックス状態に近づけることで心理状態もリラックス状態に近づけられる技法や、強張った筋肉をリラックスさせるために、五秒間腕や肩などに目いっぱい力を入れてそれから脱力する練習をしておくと、いざというときにそれをやれば、身体が力の抜き方がわかるようになる、という技法も紹介されていました。

自分も含めて、あの人、この人……と、認知行動療法をうけたら生きやすさの度合いがかわるだろうに、と思う人がいっぱい。いろいろな本が出版されているそうですけども、本書は入門書としてとっつきやすいですし、広範にこの分野を知ることができますので、おすすめできます。そしてやっぱり、自分ごととして読めるので、理解もしやすいと思いますし、なによりも夢中になって読書する体験も得られるのではないでしょうか。でもって、それこそがマインドフルネスの体験になるのでした。


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『無関係な死・時の崖』

2021-05-16 00:45:54 | 読書。
読書。
『無関係な死・時の崖』 安部公房
を読んだ。

代表作『砂の女』を書いていた時期に並行して書かれたいくつかの短篇作品を収録したものです。『砂の女』を思わせる、黴臭いくらいの和のテイストを感じる作品もありますし、初期の作品から続くテイストであろう想像力がぶっとんでいるおもしろい作品もあります。『なわ』なんていう残酷なものもあり、読み手をひとつところに停滞させず、そればかりか揺さぶってくる短篇集になっていると思いました。

とくに「人魚伝」という作品に夢中になれました。沈没船の探索中にであった緑色した人魚に恋する話ですが、一筋縄では終わらない。この作品もそうなのですけれども、既視感を覚えることなく、「いままさに知らない物語のなかにいる!」ということのわくわく感がとてもよいです。自分の知らないものや、自分にとって新しいものに触れている喜びがあります。そして、ぶっとんでいながらも、読むのに耐えうる弾性を備えている作品群でした。

どうやら安部公房の作品は、僕の性分にあうものが多そうです。じめじめしたような和のテイストの強いものはあまり好きではなく、できればドライなもののほうが楽しめるのほうなのですが、でも安部公房の作品に触れているうちに、苦手なぶぶんにも慣れてくるような感じがありました。もっと慣れてくると、たぶんなにか発見があるのではないだろうか。

まだまだ彼の作品を読みたくなりました。


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『天才たちの日課』

2021-05-05 21:49:10 | 読書。
読書。
『天才たちの日課』 メイソン・カリー 金原瑞人/石田文子 訳
を読んだ。

作家、音楽家、画家、学者、映画監督etc...161人の生活習慣を紹介するエッセイ集。各々1ページから4ページくらいの分量です。アジア人からは唯一、村上春樹さんが取り上げられていました。

そうそうたる天才たちのルーティンが明らかになっていくなか「おい! いったいなにをやってるんだよ!」と言いたくなる人だらけです。一人の空間や時間をもてないだとか大変な環境や境遇にいながら仕事をしている人は珍しくないし、自分の仕事をうまくやるために不器用な生活習慣を決めていたりする人がとても多い。

作家のケースならば、執筆を最優先事項として、その他の生活のあれこれは執筆に従属するものごととして処理している感じがつよい。執筆に支配された毎日です、それも自分のみならず家族も巻き込んでいたりする。生活を慈しみながら仕事もしている人もいるのですが、生活にも自由を許している人はまれでした。

息苦しい生活スタイルは、それこそそれ自体が「生みの苦しみ」のひとつであるでしょう。しかし、と同時に、「生みの苦しみ」をやわらげる工夫でもあると思うのです。

ですが、本書で描かれているのは、そういった息苦しくあるような生活習慣の記述だけではありません。<十二時ちょうどに、仕事を中断して昼食。チャイコフスキーはいつも昼食を楽しみにしていた。好き嫌いはなく、どんな料理でも、よくできているといって食べ、料理人をほめた>偉人たちのこういうほっこりエピソードがときどきでてきます。そしてどこか「かわいい」みたいに感じる部分だってあります。そして読んでいて、「あなた、苦労したね」「あなた、がんばって生きたものだね」なんてふうに共感に似た温かみすら感じもしました。

容赦なく自分を追いこんで生きた作家バルザック(そのひとつとして、一日に50杯のコーヒーを飲んだとも言われる)。彼はこう言ったそうです。「私は生きているのではない。自分自身を恐ろしいやり方で消耗させている――だが、どうせ死ぬなら、仕事で死のうとほかのことで死のうと同じだ」。<どうせ死ぬなら、仕事で死のうとほかのことで死のうと同じだ>というところ、最近、似たようなことを僕も考えるんですよ。大事に大事に、と思って怪我しないように生きても死にますから。たとえば、安定した人生で良かった、と死ぬときにほんとうに思えるのかな、と疑問に思えたりしちゃって。そこで行われている比較って間違ってないかなと。若くして死んでしまうのは悲しくて辛いけれど、待てよ、でも死んでしまえば一緒だし、死は平等ではないか、なんて考えています。

それはそれとして。
規律(自律性)をしっかり決めてやる人が多かったですが、コーヒー(カフェイン)やアルコール、薬物にまで力を借りた人たちも少なくなかった。取り上げられている人物たちが20世紀半ばに活躍した人が多かったせいか、アンフェタミンを摂取して夜通し執筆するという人が何人かいました。アンフェタミンは覚せい剤の親戚みたいな薬剤だったはず(覚せい剤そのものでしたっけ?)。人によっては、そういった薬物の助けを得て生まれた創造物は認めない、という人もいるでしょうが、僕個人はとくに気にならないタイプです。といっても、僕が原稿と向き合うときには、コーヒーやお茶、そして音楽以外は摂取しません。人それぞれのスタイルがありますよね。

そうなんです、人それぞれのスタイルがわかるんです。多くの天才が採用している傾向の強い習慣から、この人だけだなっていうものまで、それがすべて、モノをつくるためにそれぞれによって編み出された習慣なのでした。本書を読んでいると、すべての道はローマに通ず、なんだとわかることでしょう。たとえば日本の作家の生活習慣について、薄く知っているぶんだけでとらえてみると、それこそソール・ベローが評された「官僚作家」という言葉から喚起されるもののように、勤勉に毎日どれだけ書かなければ失格だ、というようなサラリーマン的なイメージが浮かんでくるんです。でも、それが、創造を仕事とするときにすべての人に適したスタイルではないことが、海外の人を扱った本書を読むとわかってきます。高い生産性を優先する習慣なのか、高い創造性を優先する習慣なのか、との違いもあると思います。そして、それらが人それぞれで異なることがわかります。

最後に。敬愛する作家であるトルーマン・カポーティと自分との共通点を見つけてしまって小躍りしました! カーナンバーなど数字の並びを見つけたら足し算してしまうことがそれです! くだらないでしょ!


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マウント考察→分解→破壊

2021-05-02 11:31:40 | 考えの切れ端
録画していたNHKの「マウンティング会話講座」がおもしろかった。「うわ!」とか「なにやってんの!」とか、見てるだけでも離脱したくなる、捨ておきたくなるドラマ仕立てのマウンティング例が秀逸といった感じでした。以下はそこから触発されてのマウンティング考察です。

僕の場合だったら、知り合った人が本を読む人か知りたくなって探りたくなるんだけど、そうやって、本好きなんだなって知った人に自分の小説の意見が欲しくて「読んでもらいたいんですけど」と原稿を渡せばマウントととられるんでしょうね。というかか、本が好きなんだなぁって知った相手に「実は僕、小説書いてます」と言っただけでもマウントだととられるんですよ(めんどくさ)。

マウンティングって、世の中が勝ちか負けかしかないとの前提からきますよね。これって強迫観念ぽいです。なんでもマウントと解釈するのはやめてくれーと思う。勝ち負けを競いたいならもっとでっかいことでやったらどうかと思ったりもします。それこそ、徒競走からはじまって、商品開発競争でもいいし、F1レースでもいいし。だから、小さなことからコツコツとマウンティングやらんでください、と苦笑いしちゃいます。

「うちの主人なんかね」「うちの子ときたら」の愚痴に忍ばせたマウントって、僕が子どもの頃だったらマンガやドラマでの滑稽なシーンの常套技術みたいな感じだったんですけど、似たようなのをみんなやるようになっちゃいました。そういう場面の後、主人公と仲間は「なにが言いたいんだろ、あのおばさん」とか「嫌味ったらしかったね」と初めはひそひそ、それからげらげらと笑いあうってなります。そういった主人公たちの見ていた世界観、住んでいた世界はどこにいったんだろうか。いや、彼らは「どんな世界に住んでいたか」ですよ。

「どんな世界に住んでいたか」。たいてい、この手のシーンが出てくる作品の主人公たちは、ちょっと貧しかったり、勉強が不得意だったり、親が一人だったりなんていうふうに世間一般からちょっとマイナスに見える要素を持っている人だったりもした。そういう人はマウントしなかったんです。物質的に恵まれて、学力も平均的にあがって、親が一人なのも珍しくなくなって(?)、マウントが一般化しちゃったのではないか。時代がすすむにつれて獲得したものとトレードオフで、「マウントしないこと」を失っちゃったのかもしれないですね。まあいまや、したくなくても巻き込まれますが。

あと、年収が多いとか海外へ留学したとか、高いブランドの紙袋もってきたとかありますが、頑張った分がストレートに結果となる世の中だったら、そんなのは今のようなマウントにはならないです。当り前でってことになりますから、プラスもマイナスもとても単純。でも、世の中は不透明で不公平だからマウントをしたりそう取られたりってなるところはあるんじゃないですか。これはマウントとしてやってる、と自覚してマウントばかりする人は、精神的にとてもマッチョな人かでかい穴をかかえている人か、そういう種類の人だと思う(思うだけだけど)。

自分の頑張りの結果やラッキーだったことをただ知って欲しくて発言してもそれは相手を組み伏せる「マウントの文脈」に回収されてしまいます。もともとこっそり忍ばせているという意味の「ステルスマウント」だって、それとなく自分のことを知って欲しい気持ちから生まれているのではないか。そういった自己開示的な言動や行為も、「マウントの文脈」に回収されがちです。

ご承知の上だと思いながら確認しますが、マウントを取られるということは相手にマウンティング、つまり組み伏せられたことを意味し、要するに負けたという意味になります。それが度重なると相手に優位性がでてくるので、相手の意向が通されやすくなる。だからマウントされることに神経質になる(そこには他律性を嫌う性分が顔を見せている)。

同調圧力はマウントを許さないんです。もっと細かく考えたら、同調圧力はマウントの文脈に回収できるものを許さない。出る杭は打ちましょう、という論理です。そして、マウントの現場にある同調圧力は、みんな公平で平準で、っていう価値観による同調圧力です。そんなのは実際無理であって、いわば理想と現実のあいだに真面目な面持ちで板ばさみになっているのが先述の「マウンティング講座」での再現ドラマに代表されるものなんです。

それとですね、今言ったことを別角度で見てみると次のような発見があるんです。同調圧力がさまざまな出る杭をマウントの文脈に回収しているのかもしれない、というのがそれです。コロナ下の「自粛警察」のように、同調圧力が浸透した価値観が、どんなものであってもマウントととれるんだったらとるというような「マウント警察」という働きがありそうです。

こういうのは、もう一歩、視界を俯瞰させることでその枠組みがみえてくると変わってくるんですが、マウントや同調圧力は、まるで空気のようにふつうに存在している大前提みたいにとらえられているきらいがあり、疑いが挟まることって少ないのでしょう。

自分の優位性を捨てられるならば、マウントのないコミュニケーションってできますよね。そういうのは楽しいです。素直に自己開示できて、素直に他人を認めることができて、他人を褒めることができて、自分が支配的にふるまわないし支配的にふるまわれるもしない。同調圧力などの前提が変わればできるんですけども。そういう僕は、支配的か被支配的かの心理テストで、どちらでもない傾向の高い一匹オオカミ型とでたことがあります。どちらかというとマウント人間ではない。だから、こう思うんですよ、支配や被支配にみんながウンザリしてくれたとしたら、僕は一匹オオカミじゃなくてよくなるな、と。なんていうか、……他力本願!! というところで、終わっときます。
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